Dragon Eye

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第一篇 - 六章 『世界に刻む』

-8- 帰還

 見えているのは、白だろうか、黒だろうか。

 立っているのか、横たわっているのか。  上も、下も、右も、左も、何も分からない。感じる全てが曖昧だった。

 ぼやけて滲んだ景色。何もない場所を、どこまでも漂っていた。

 だが、何となしにティアは知る。
 ここはそういう所――来るべくして人が訪れて、何も思わず、あるいは何かを思い、過ぎ去っていく場所なのだと。

 茫漠、というにはあまりにも過ぎた広がりに、逆に圧迫感すら感じて、目を伏せようとする。
 その瞬間、世界がぐるりと回った、ような気がした。

 地面に足がついた。

 投げ出していた手を、誰かが掴んだ。
 風を感じ、身体の芯を溶かして貫くような清々しさが、足元から駆け上る。遊ぶ髪が頬に当たり、芳しい香りが弾けた。
 清涼な、甘い香り。
 ゆっくりと覚醒していく中で、ティアはふと、
(ついさっきも……この香りを嗅いでいた気がする)
 そう思った。
 いつだろうか、と目を伏せたまま首を傾げて――思い出した。
 カーレンを探していた時……この香りに、導かれたのだ。
 あの時から既に、次なる旅路(アンノーンロード)は始まっていたのかもしれない。
「――パフィア?」
「そう」
 もっとも強く香る花の名を口にすると、答えが返ってきた。
「おまえは、初めて出会った時も死を求めて、聖魔の花を探していた。……だから、この花が私とおまえを繋ぐ(しるべ)になったんだろうな」  目を開くと、掴まれた自分の手が見えた。掴んでいる手の持ち主は、声で知れた。

 足元は、無数のパフィアの花の群生。頭上には、透き通るような蒼穹が広がる。

「……ここ、」
「知っているだろう。……いつかも、ここにおまえと私は居た」
 問いかけに、ティアは頷いた。

 自分の根幹――魂からの震えが感じられる。異常なほどに世界と自分が近い。それが、ここはある意味での現実ではあるが、同時に自分がいるはずのない場所である、という事を証明しているようなものだった。


「良かった。ちゃんと、会えて」
「……無茶をする」
「分かってる」
「本当にか?」
 カーレンが眉を潜めて、こちらを見た。
「こんな事をして欲しくて、おまえを生かした訳じゃない。――なのに、ああ、全く」
 盛大な溜息が聞こえた。
 彼の嘆息の余韻をしばらく残してから、ティアは口を開いた。
「嬉しくてたまらない?」
 聞き返すと、いかにも苦虫を噛み潰したという顔が見られた。
「――最悪だな、寵姫とドラゴンというのは」
 返って来たその一言が、下手に口にするよりもよっぽど雄弁に全てを語っている。
「ええ」
 ティアは微笑みながら肯定した。
「でも、私だってこんな事頼んだ覚えはないわ」
 カーレンは肩を竦めると、それから何かを思い出したらしく、首を横に振った。
「それでもここまで似た者同士ではなかったはずなんだが」
「今だってそのつもりよ? 人の言葉をちゃんと聞きもしないで、勝手に自分だけで終わらせて行ってしまおう、なんて考えるから……。私が無茶して、ここにいるのよ」
 カーレンは顔を歪めた。
「だが、おまえは自分を犠牲にした。出会った時もそうだった――生き延びた私に死ぬなと言いながら、おまえ一人が死にそうな顔で笑っていたんだ」
 そこだけが、おまえへの最大の不満だ。
 責めるように、嘆くように、彼はティアの額に自分の額を合わせて、想いを吐露した。
「目が覚めて最初に見るのがおまえの死に顔などとは、考えたくもない」
「……私だって、あなたの死ぬ姿は見たくなかったわ」
 瞼を一瞬硬く閉ざし、それから開いて、相手の紅い瞳を見た。

 見つめ合いがいくらか続いて、カーレンの方から気まずそうに目を逸らした。

「……やめよう」
 不毛だ。
 ぽつりと相手から出た敗北宣言に、ティアの頬が緩む。

 答えなど、初めからここに来て出会った時点で、既に決まっていた。

「――一緒に帰りましょう、カーレン」
 最初から握られていた手とは違う、もう片方を差し出した。
 カーレンはそれを見下ろして、眉を潜めた。
「……ロヴェのように行くとは限らないぞ?」
 下から覗き込んで、ティアは口の角を上げた。言いつつも、どこか確信しているような色を彼の目に見つけたからだ。
「それでも、二度がないとは思わないわ。そうでしょ?」
 だから、ティアは彼に託した。
 未来を選び、貫くための法を。

「……幼い時から、変わらないな。おまえの命の強さが、ここまで私を助けてくれた」
「自分から死のうとする事が、ただ虚しいだけだって気付かせてくれたのはあなただった。だから、これはほんの恩返し」

 くすり、と笑った。
「ね、カーレン。行きましょう?」
「……ティア」
「何?」

 目線を上げて、カーレンは唇で弧を描いた。

「ありがとう」
「はい、どういたしまして」

 どこか滑稽で、かけがえのないやりとりを交わして。
 ティアの手を、カーレンがそっと握り返した。

 その、瞬間。

 しゅるりと、どこからともなく現れた光の金糸が、二人の手首に絡みついた。

「……え?」
 揃って瞠目していると、更なる異変に気が付いて、カーレンが辺りを見回す。
 ティアもつられて目を向けたその時、強い風が吹いて、白い花弁が一斉に空に散った。
 花弁の嵐の中で、金の光が一際強く燃え上がり、全ての輪郭が滲む。

『ティア。カーレン』

 ここで聞く事は有り得ないはずの声を耳にして、ティアは目を見開いた。

「――ロヴェ?」

 聞き返した時、見覚えのある場所の映像がティアの中に流れこんだ。
 カーレンと、セルと、レダンと、ルティスと。
 ――四人と一匹で、セイラックを眺めた、双子の山の狭間で。

『やっと捕まえたぞ、馬鹿息子』

 ロヴェが、天に高く片手を差し伸べて、二人を呼ぶ。

『さぁおまえら。全部の勝負に勝って満足しただろう。いい加減に戻ってこい。待っててやるから』
 ふっと、隣で微笑む気配がする。
「……ああ。今、行く」

 再び世界が混沌へと戻る。

 そうして、ティアが来た道と違う方へと、見えざる手が糸を手繰るようにして二人を引き寄せた。


□■□■□


 セイラック。

 かつてそう呼ばれ、雪の中で、儚くも確かに人が息づき栄えた王国があった。
 今は全て廃墟となり、生きる者も居ない。死毒に侵され、未だに黒く残る焦土となった地だ。

 そんな国の街だった場所の一角に、倒れ伏す二人の人影があった。
   一人は、血に塗れた黒服の男。彼の傍には、また同じように黒く長い髪を、男の身体に絡めるようにして眠る少女の姿があった。

 しかし、どちらも生気を失くして動く様子がない。

 しばらくして、男の方が、身体の半分ほどを黒い鱗に覆われていく。元は人でないのだと、その光景を見ればすぐに知れた。
 だんだんと真の漆黒に浸食されていく彼の胸の上に――花弁のない花を見つける。

 散らすものの無くなった花の芯は、風に吹かれて、雪の中でふらふらと揺れる。

 やがて、在るべき場所から転げ落ちそうになったそれを、そっと、白い手で拾い上げた。
 まだ瑞々(みずみず)しいがくに縁どられた黄色い芯は、拾われた手の中で、花弁を失くしてもなお、冬の寒空へ甘い香りを上らせる。

「……季節外れの変わり者。聖魔のパフィア、か。次なる旅路へ手向けるとしては、なるほど、確かに彼女の魂は最高の花を咲かせたようだ」

 感慨深く呟く声は、どこか可笑しげな響きも含んでいた。
 そのまま芯を空へとかざし、朝日に透かすようにして目を細める。

「――来たね」

 仰いだ花の芯の向こう、降りしきる雪の中に、彼は、一つの光の欠片を見つけ、手を伸ばした。
 手に取ると、ほんのりと温かい。弱弱しく、けれど莫大な可能性を秘めた力が、彼の手の中にふわりと収まり、解けて、どこからか繋がる糸になる。
 それを見て、欠片が何のためにここに落ちてきたのかを彼は悟った。

「知っていたのかい、ロヴェ?」

 自分の中が一挙に力に満たされたのを感じて、渋い顔をする。これは恐らく、優しい親友が紡いだ最後の賭けだろう。
 無駄に自分を知り尽くされている気がして、逆に気味が悪いのは確かだが。
 それでも、二人を振り返って、仕方がないかと肩をすくめた。

「貸しは高くつくよ?」

 落ちて来るまでに緩んだのだろう。やや収まりが弱い力の糸を、手をかざして即座により合わせる。ついでに、少し力をもらった。できればこれで帳消しにしてもらいたいものだ、とここには居ない相手に思う。
 花の芯に糸の先を結んでから、溜息をついた。

 再び視線は、二人に戻って。

「けどまさか、本当に彼女が君の生殺与奪を握っていたとはね。殺して救って生かす花――最高じゃないか」

 一時の“永久の眠り”に落ちている男に、そう笑い混じりに告げ、花の芯を軽く握りこんだ。

「答えは、見せてもらった」
 そうして再び手を開くと、芯は呆気なく砕け散る。

「おやすみ。ティア。カーレン。そして――」

 告げかけたもう一人の名を呼ぶのを、少し躊躇い。

「――まぁ、ひとまずはさようなら、かな?」

 結局、やめた。
 綺麗に全て、何も残さず終わらせるのはつまらない。

 死者には死者の、生者には生者の行くべき場所がある。
 ならば、彼らは進むだけ。自分たちにしか見えない道を歩くだけだ。

 自分も見つけたもののために、行くべき場所に行こう。
 それがどこかは知らないが、進んでいればいつかは辿り着くだろう。

 白い手の輪郭が、すっと一瞬透き通るような光を放ち、そうして彼は光を散らして消えた。

 その場に保つものがなくなり、砕けた花の欠片は、朝日に照らされ、金に輝きながら――僅かな間、雪と共に眠り続ける二人の上に降り注いだ。

 そうして。

 ――とくん、と。

 静かな世界に、消えたはずの鼓動が、二つ、生まれた。


□■□■□


 雪に埋もれる亡国の空を、風と共にドラゴンが往く。
 雲はほとんどなくなって、朝靄も黄金色(こがねいろ)の朝日にかき消されていた。これならきっと、戻って来た自分たちの姿はすぐにロヴェたちも分かるだろう。

「……どうしよう」

 ドラゴンの背に跨りながら、ティアは呟いた。
『気になる事があるのか?』
 漆黒の首を僅かに反らして、カーレンが尋ねる。
 これに対し、そうじゃない、とティアは首を振った。
「いろいろありすぎて、どうすればいいか分からないの。……きっとみんな怒ってる」
『仕方がないだろうな。命を拾えた事を思えば、それでも安いぐらいだ』
「うん……、…………うん?」
 きら、と何かが光を反射しているのが目の端に入って、ティアはそちらに顔を向けた。
 雪や川の照り返しにしては、やけに激しい。
 目を眇めて見定める事しばらく――光る何かの正体に気付いて、ティアは大きく息を呑んだ。
『どうした?』
「……あれ!」
 ティアの声に首を傾げたカーレンは、同じように一瞬訝しんだ様子を見せたかと思うと、唖然として呟いた。

『……レダン?』

 眼下を流れるローラ川の川縁(かわべり)に立ち、こちらを見上げているのは、どう見ても白銀のドラゴンだった。
 何かを訴えるように見つめてきていた彼は、しかし、ティアたちが気付いた事を確認すると、突然顔をふいと背けてしまう。

「『あ』」

 断崖から滑るように飛び出した彼は、しばらく川の水面を渡ったかと思うと一気に高度を上げる。そのまま、朝日を左手に遥か彼方へと飛び去って行ってしまった。

 見送る事しかできずに呆然としていると、カーレンがおもむろに頭を前へと戻した。
『……恨まれただろうな』
 自嘲する気配に、ティアは彼の金の(たてがみ)を見つめた。
「カーレン、」
『いい。……それと、おまえの兄だが。決しておまえ自身を疎んだ訳ではなかったらしい』
「――え……?」
 思いがけずカーレンの口から出た言葉に、胸の奥が嫌な疼き方をした。
 あの後、二人で目覚めてからカーレンの話に従ってセルを探したが、彼が飛ばされたと思わしき場所には遺体はなく、少なくない量の血痕しか残されてはいなかった。
 生きていて逃げたのか。それとも、カーレンがそうしたように、離れた所まで行ってどこかで力尽きたのか。
 生死すら分からない上に、蘇生したとはいえ、カーレンも不調を抱えている身だ。それ以上探すのは諦めざるを得なかった。町の外で引き離してしまったルティスとシリエルに激怒されながらも、後ろ髪を引かれる思いで、ティアは故郷を後にした。
『真意も、理由も、全てが分かる訳ではないが。彼も、彼なりに選んだという事だ。……おそらく、父親の最期を看取る事を決めていたのだろう』
「……看取る、って」
 壊れたように言葉を繰り返して、ティアは俯いた。
 教会で対峙したあの時、兄はそんな素振りなど欠片も見せなかったというのに。
 彼は……妹に、見せたくなかったのだろうか。
『ままならないな。伝え合う事もないままに、二度と会えなくなるというのは、誰も望まないと分かるというのに』
 苦い色の滲む声に、ティアは唇を噛む。
 ぼろり、と、零れたと思った時には、涙が既に止まらなくなっていた。
 息を詰めている少女に気付かないはずがなかったが、カーレンは前を向いたまま、静かに語る。
『……すまなかった。同じ事を、おまえにも強いていたと、ようやく、気付けた』
 遅すぎる、と文句を言いたかった。
 それを、(せき)を切った感情が怒涛の勢いで押し流して、


「 ――ティアぁああああああああっ 」


 がばっ、と。

 天上から絶叫と共に降ってきた誰かが、 ティアの身体をカーレンの背中からかっ攫った。

「きゃあああああ!?」
『――おい』

 ぼそっと毒づくカーレンの声が聞こえた瞬間、視界が目まぐるしく横転する。

「 この大馬鹿ぁああああああああああっ! 」
「ベ、っ痛!」
 前触れなしの空中落下に、危うく舌を噛み千切りそうになる。
 混乱の極致の中、何とかティアは飛びついてきた相手の名前を呼んだ。
「――っ、ベルーーー!?」
『……、』
 カーレンの大きな溜息が聞こえた。


 いや、それより死ぬかもしれない。


 遠い目になりかけたティアを再び現実に引き戻したのは、新たな衝撃だった。
 がくんと視界が急に揺れてひどい気分を味わったが、どうやら二人揃って掬い上げられたようだと感覚で察する。
『いい加減にしろ。ティアを驚きで殺す気か、ベリブンハント』
「……ぁ、りがと、カーレン……助かったわ」
 半分以上本気で気絶したかったのだが、どうもそういう訳にも行かなかったらしい。
 仰向けになった視界には、カーレンだけでなく、エルニスやアラフル、ロヴェと彼の背に跨るラヴファロウの姿もあった。

『手間かけさせてくれやがって、馬鹿娘……後で説教だからな』

 細められたロヴェの紅い瞳に微笑み返すと、呆れ半分、心配して寄ってきたエルニスに大丈夫だと手を振る。先ほどまで流れていた涙は止まっていた。
「……ぁ」
 居ても立ってもいられないベルを筆頭にやってきたらしい全員を見つめていると、ふと、天啓のようにティアは勘付いた。
「アンノーンロード……みんなが、私たちが戻るのを手伝ってくれたの?」
 馬鹿馬鹿馬鹿と罵り続けるベルも、エルニスも、ロヴェもアラフルもラヴファロウも、全員がティアを見ていた。
「おう。ま、届いたのかどうかなんて全部ロヴェ・ラリアン任せだったがな」
『そりゃ、俺の不手際だからな。術を教えたのはこっちだ。勝手に死なれちゃ堪らんよ』
 目を逸らしながら溜息たっぷりにロヴェが言った。
『……生きてて良かった』
 無事でとは言わない辺りが、彼の優しさなのかもしれない。本を正せば、今までの一連の出来事には多かれ少なかれ、彼とその寵姫が関わっていたのだから。
 だが、今はその言葉が身に染みて感じられた。
「うん……生きてる」
 わんわんと子供のように涙を流して、ベルがティアを更に抱きしめた。
 今度はしっかりと抱きとめて、ティアはそっと空を仰ぐ。
 視線に気付いたカーレンが振り返る。
 目を合わせて、ひとつ、小さく頷いた。
「あのね、みんな」
 声を上げたティアに全員が注目する。
「というよりも、特にロヴェと、みんなになんだけれどね?」
『俺か?』
 前置きをした後を、喉を鳴らせてカーレンが引き継いだ。
『こう言うのも何なんだが……一つ、提案がある』

 全員が目を瞬いて、ティアとカーレンの次の言葉を待った。


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