Dragon Eye

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第一篇 - 六章 『世界に刻む』

-7- 最果て、その結末

「……消えた」
 ぼんやりと光に包まれた地平線を見つめ、エルニスは愕然と呟いた。


 意識を失って、次に気付いた時には既にこの場所に到着していた。
 傷の血が止まっている事を確かめつつ、周りを見回すと、誰もが思い思いの場所で俯いて、目を伏せていた。
 ――一心不乱に、何かを信じようとして、祈っているように見えた。
 短くはない間気絶していたエルニスもまた、誰に言われるでもなく、胸中の中の何とも言えない、形にする事のできない想いを全身に広げて祈り出した。
 長い時間、それが続いた。永遠にこのままなのではないかとさえ思えた。
 そして、夜が明けようとする時――明らかに何か異変を感じて、エルニスは思わず立ち上がっていた。立ち上がらずとも、目に見えて分かるほど身を震わせた者もいた。

 ――何か、欠けた。

 なぜかはっきりと、その瞬間が訪れた事をエルニスは知った。

「居なく、なった?」

 いや、まだ――微かに。だが、それももう直に消える。

 嫌な違和感だった。
 どうしようもなく、訳もなく不安にさせる何かがあった。今までずっと信じてきたものに、いつしか、あるいは初めから致命的なひびが入っていたのだと気付いたような。
 急に、足元が心許なくなるような気がした。
 これがそうか、とエルニスは思った。

 世界が、欠けていく。
 一瞬だったが、悲鳴を聞いた。
 喪失に呻く音を感じ、ひどく孤独な誰かの切なる想いが、胸に流れ込む。

「――まだ、だ」

 低い唸りのような声が背後から聞こえた。振り向くと、ラヴファロウが顔を歪めていた。
「まだ、終わってねぇ」
「…………」
 何も言い返す事もなく、唇を噛んだ。頷き返して、空を仰ぐ。

 祈りを、願いを。

 想いを刻む。
 どうか、と。
 誰もが微笑む事ができる、少しだけの奇跡を望んだ。

 有り得ないかもしれない二度目を願った。

 エレッシアとエリュッセル。

 遥か昔に分かれた山の、セイラックへ至る峡谷の狭間で。


□■□■□


 ――淡い色の空が見えた。
 晴れていれば良いものを、雲が覆って邪魔をしている。
 身体は、ひどく寒かった。

 寒くて、寒くて。
(――そういえば)
 凍えそうな空の下で。
(いつかも、“そう”だったんじゃなかったか?)
 うんざりするほど厚い雲から、
(あの日、あの子が『 』を見つけたのも)
 重たく雪が降ってくる。
(こんな、嫌な空の日だった)
 まとまらない思考をどうにか動かし、
(『 』は、なぜ)
 『 』は、震えながら考えた。

(なぜ、あの子に縋ったのだろうか)

 僅かに雲の合間から見えた、薄く蒼を流したそこが――とても空虚に感じられて。

 雪に埋もれ、『 』は。

(ああ、そうだ――『 』、は)

 例え、本意ではなかったとしても。

 心の奥底では、どうしようもなく――独りである事を恨めしく思っていた気がする。

 投げ出された手足に、力は既に残っていない。血もほとんど吐いたか出尽くしたかのどちらかで、『 』はあの日、確かに死を覚悟した。

(『……誰?』)

 幼い声を聞く、その時まで。

 薄らと、もう開かないだろうと思っていた瞼を開く。
 雪の中から身体を起こして、果たして死ぬ間際の幻だろうかと首を傾げたのだ。
 初め、眩さに目はろくに開かなかった。彼か彼女か、何者かがかざす灯りのために、顔がしばらく見えない状態が続いた。

 それでも誰なのかを、なぜか知りたがる『 』がいた。

 もっと、光が逸れていれば――。

 『 』の想いを、果たして誰が聞き届けたのかは分からない。だが、何者かが灯りを逸らして、その顔を見る事ができるようになった。
 ああ、何だ。――ただの子供か。
 『 』は、思う。ぼんやりと考えた、それよりも更に深い意識の奥底で。

 最期が独りでなくて、少しだけほっとした、と。


 生かしてくれたからではない。支えてくれたからでもない。笑顔を、怒りを、哀しみを、楽しみを、思い出させてくれたからでもなかった。


 思い出せ。


 あの子の何を、眩く思った。何によって、『 』はあの子に心を開いた?
 ここに何を求めて辿り着いた。
 捜していたのは、何だ?


 ――。


 ――、を。


 遠い場所で、他人事のようにぽつりと、それは心に漏れた。


 ――捜したのは、強さだ。


 どれほど儚い姿であろうとも、命を生き抜いて、貫こうと歩く。


 あの子の、静かで、しかし激しく、迷いなく生きていた――刹那のような美しい強さを。
 ずっと、求めて、探して、そして見つけた。
 それが美しいと知った時から、守ろうと思ったのだ。


 見つけた。
 同時に、愕然とした。
 これが、答え。
 生きる事も望めない今になって、ようやく、辿り着いた答えが、これ。

 ――認められない。

 『 』は、足掻いた。

 止まっている事にも気づかなかった肺が、動く。

 見上げるだけだった瞳が、光を求める。

 喘いだ。

 死ねない。
 死にたく、ない。

 なのに、死が迫る。

 どうして受け入れない?
 最期に迷いなく選んだ、これは『 』の決めた事だろう。
 冷静な部分が、衝動を押し留める。

 だが。

 知った事か、と心が叫ぶ。
 誰にも止めさせない、止めやしない、と魂が絶叫した。

(―― い)

 全身に力を込めた。
 どれほど頼りなくとも、それが『 』の意志である限り、身体は動く。
 こめかみを、熱いものが掠めた。

(――たい)

 腕を上げる。
 目の前に屹立していた影に手を伸ばす。
 抜けばただではすまない。
 知りながら、ゆっくりと、引き抜いた。

 息を吐いた。熱い。

 生きている。まだ、生きられる。生きられないかもしれない。

 だがまだ、それでも生きている。この世界に、自分はいる。


( い、たい)

 もがいて、少しずつ、少しずつ、倒れていた身体を起こす。
 身が、瞬く間に朱に染まっていく。擦れた吐息が白く凍る。
 凍てついた世界が、『 』から何もかもを奪っていく。

 ――構うものか。

(ティア――)

 おまえに、会いたい。

 世界が美しいと教えてくれた、おまえに。

(おまえだったから、望んだんだ!)

 滴が落ちて、冷たい石の上に落ちて湯気を立てた。
 白く霞んだ(もや)の中で。

 ――  カーレン!  ――

 何よりも聞きたいと思った者の声を、『カーレン』は聞き。

「                            ――   !」

 声なき声で、『在り方』を世界に刻む。

 そこにいるのか。
 まだ、そこにいるのだろうか?

 ここにいる。
 自分はもう、逃げはしない。
 死が迫っていようと、もう、望んだものから目を背けはしない。

 立てるはずがなかった。
 だが、最早抑えきれない切望が、足を動かした。

 立って、目をしかと開いて――倒れていた場所がどこであったかに気付いて、カーレンは皮肉を感じ、唇を曲げる。

 ――教会だ。

 全く、なんて運がないのか。
 よほど自分は奴に憎まれているらしい。

 視界は霞んでいる。聴覚は逆に妙に鋭敏だった。
 息遣い、だろうか。耳障りに、がらがらと喉が鳴る。血のせいだ。吐き出して、溢れて、まだ止まらない血流のせいだ。

 ――構わない。どれほど流れようが、あの子のもとに行けるなら、それで良い。
 例え遅い歩みであろうとも、きっと辿り着けるだろうから。

 出口までの距離が、気の遠くなるほど長く感じられた。

 外に出た時、雲を割り、金色の光が差しこんできた。

 廃墟の通りにカーレンは立ち尽くしていた。夜明けが訪れたのかと、そんな当たり前の事を感じるより先に、身を切る寒さと、鮮やかな夜明けの色を、素直に綺麗だと心で感じた。

 ――そうして、気付く。

 通りの、石の階段を下って、更に向こう――そこを必死に走ってきた少女の存在に。



 一瞬消えた意識を取り戻すと、石段の一番下にいた。



 どうやって降りたのか、そもそもどれだけ早かったのか、まるで何もかも抜け落ちていた。
 一拍置いてから、そうだ、駆け降りたのだったと、遅ればせながら気付いた。

「カーレン!」

 泣きそうな顔だったティアを見て、カーレンは微笑んだ。

 そして、

 悲愴な顔で縋りついてくる少女の前で、

 声もなくその場に崩れ落ちた。


□■□■□


 喉が裂けそうなほどに息を切らし、ティアは走っていた。

 声がした。
 想いを感じた。

 理屈も感覚も超えて、そうであるのだと確信する。

 会いたい、と。
 来てくれ、と。
 ここに、会いに来てくれ、と。

 彼の生き死になど関係なしに、どうしても行かなければと思った。

 悲痛なほどに鋭い想いが胸を突く。
 どこをどう走ればいいのか……導こうとするように、ふわりと、覚えのある香りがティアを誘っていた。


 やがて辿り着いたのは、聖堂の前だった。
 そこへ至るまでに、通りの横から突き抜けるように建物が倒壊し、聖堂の入り口が本来よりも幾分か広くなっている。きっと吹き飛ばされてここまで来たのだと容易に知れた。
 その、正面に。

 カーレンが、居た。
 彼は、こちらに気付いていた。ろくに焦点も合っていない目で、ティアを見つけて、彼は息を呑んだ。

 胸の周りが大きく肌蹴て血に染まっている。下に着ていた白いシャツを余す事なく染め上げるだけでは飽き足らず、握り拳ほどの血だまりを転々と、歩いた後にいくつも作っていた。

 なのに、まだ、動いた。目にも留まらない速さで、泣き笑いのような表情で。身体と同じく血塗れの顔をくしゃくしゃに歪めて、階段を駆け下りてきた。

「ああ、」

 思わず呻いた。
 何て、無茶を。

 あんなに血塗れで、動ける訳がない。
 一段目の下まで辿り着いて、一瞬、きょとんとした色がその目に浮かぶ。
 嬉しそうに駆け降りた自覚すら、もう彼にはないのだ。

「カーレン!」

 目の前にまで来ていたティアは、カーレンの名を呼んだ。

 もう、動かないで。
 無茶をしないで。
 限界なんてとうに超えてる。それ以上、自分を壊さないで。

 お願いだから。

 様々な懇願が一度に心を占め、

 無我夢中で手を伸ばして、

 言葉を口にする前に、

 カーレンはティアに向かって、目を細めて微笑んだ。
 会えた事、それこそが至上の幸福だとでも言いたげに。

 そうして、そのまま、彼の身体は前へと傾ぐ。
 ぞっとした。
 手を伸ばして抱えようとすると、泣きたくなるほど、彼の身体が小さくなっている気がした。

 カーレンの体重をティアに支え切れる訳がなかった。
 半ば押し潰される格好で崩れ落ち、膝を打った。

「っ、カーレン……!」

 うつ伏せになった彼の肩を掴み、全身の力で身体を引き起こした。先ほどと比べ物にならないほどの重さに、嫌な予感がした。

 仰向いた彼の顔を見て、ティアは息を止めた。
 ――震える手を這わせる。

 反った彼の喉を辿り、顎を通って、血を流す口に行き着いた。


 そして、知る。


 厳然たる現実を。

「…………ぃき、してない」

 ――彼の、死を、前にする。


 嘘、と呟いた。


「嫌だぁあ……!」
 もともと霞んで明瞭でなかった視界が、滲んで混沌と化した。

「かーれ、ん……やだ、嫌ぁ! やだ、覚まして、目、覚ましてよ」

 いや、だ。
 二度と、会えない?
 もう、二度と――彼が目を覚まさない?

「嘘だ! こんなの、嘘、こんな、こんなぁ……っ! 嫌ぁああ!」

 彼の頭を掻き抱いて、嗚咽すら呑みこんで、ティアは硬く目を閉じた。


 彼の何がいけなかった。
 死ななければならない理由なんてどこにも、誰にもないはずなのに。
 唯一得たはずのものすら掴み損ねて、冷たい死の中に彼は堕ちていく。


 彼の血は、まだ、こんなに温かいのに。

 今も抱えるティアの手を伝って、滔々(とうとう)と流れているのに。

「何でぇ……?」

 冷たい。頬が。死人のそれが、青白く凍りついて、ただ悲しい。

 こんな事が許されるはずがない。
 こんな事は許されない。
 こんな事――許さない。
 

 息は、ない。
 けど。

「信じない……死んだなんて、嘘」

 自然と、手が血まみれの胸元へと潜った。
 寒さにかじかんだティアの手には、小さな動きなど分からない。

 けれど、その存在を信じた。

 彼の胸がまだ微かに、弱く動いているはずだと、ティアは“願って”、“信じた”。
 ゆっくり目を瞬いて、溜まった涙を落とす。

「大丈夫……“まだ、あなたは世界に必要とされている”」

 彼を連れ戻す事を、世界はまだ許してくれる。

 だから、笑おう。
 笑って、迎えに行こう。
 ティアは、ぐしゃぐしゃに顔を顰めた。

 ゆっくりと、カーレンの身体を改めて地に横たえた。

 そうして、覆いかぶさるようにして、こつり、と、額を合わせる。
 互いの吐息が触れ合うほど近くに唇がある。
 息がかかるのはカーレンにだけ。それでも――一瞬でも、混じり合う事を、泣きながらティアは夢想する。

 手を、握る。
 指のひとつひとつが絡み合うほどしっかりと。

『 導け 』

 そして、己に、命じた。


 これより先は――誰も予想しない、誰も辿り着かない、誰も知らない、最果ての地だ。



□■□■□



『 示された其は 暗き道 』

 湿っていたのが嘘のように、朗々と、声は詩を紡ぐ。
 理を曲げ、誰も知らぬ道を作るために、涼やかな響きが世界を揺らす。

『 ――道は語る、信ずるなかれと 』

 想いを込める。
 その道は、間違っているのだと、告げる。

『 闇は語る――希望はないと 』

 想いを注ぐ。
 その言葉は、虚言で塗り固められているのだと、諭す。

 次に紡ぐ言葉を、ティアは、少しだけ変えた。
 ロヴェがポウノクロスで紡いだ、知られざる、彼の人の残した聖句を。

『 旅人よたどれ、示されざる道 』

 カーレン。あなたが行くべき道は、そっちじゃない。

『 その手に握る、たったひとつの導きの元に 』

 私が、導く。私が、あなたの灯になる。
 だから。

『 想いを縒り、時を超え、遥かに空を繋ぎ、至り、その先へ行こう 』

 空いている片手を、胸の前に差し出した。

『 続く先の名を告げよう―― 』

 差し出した手の上に、光がひとひら、舞い降りた。
 二つ、三つと増えていく光は、そのまま、一つにまとまって形を成す。

 額を離して、繋いだ手をそっと抜いて、ティアはそれを、両手で捧げ持った。

 ――この夜をずっと支えてくれた、純白の色。

 季節外れの、聖魔(パフィア)の花。

 ティアは、詠う。
 救えと唆した、今となっては彼が望まぬと分かっている、詠い手の詩を。

『 ――最果ての、始まり。次なる旅路へ 』



 彼の頬についた、血の混ざった泥を、そっと指先で払いのけた。


 カーレンは、こんな下らない終わりのために戦ったのではない。
 逃げない事を、彼はディレイアで選んだ。同じように道を探し、苦悩した者を送るためにそうした。
 彼が、彼である事を捨てて――また、彼として在るために、カーレン・クェンシードは戦う事を、あの時確かに決めていた。



 ――生きて。
 カーレン。

 強さなんて要らない。
 呼んだらここまで来てくれた、その事だけが嬉しかった。

 彼がティアを呼んだ事が、ティアに応えてくれた事が、最後の覚悟をもたらしてくれた。

 カーレンの胸の上に、儚い光の花を置く。美しく咲き誇っていた花から、花弁が散って落ち、彼に溶けていった。
「怒る……? でも、これが、私が出した答え」
 もともと命があってないような自分を、九年も、ここまで生かしてくれたのだ。

 もし戻って来れなくても、十分だと思った。
 けれど、願わくば――

 先を見たいと、望まずにはいられない。
 だから。

「カーレン……目を覚ましたら、一緒に世界を見ましょう。きっとあなたが目にしたものよりも、もっとここは綺麗なはずだから」

 花弁はもう、いくらも残っていない。
 ティアは、息をそっと唇の外へ押し出した。
 カーレンの隣に寄り添うように、折り重なるように、土の上へと身体が傾ぐ。
 軽い音を立てて、身体と共に、意識が沈んだ。


 巻き上げた僅かな雪の中で、二枚となった花弁から、また、一枚が零れ落ちる。

 そして――

 一は無へと戻り、少女は道を辿った。



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