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第一篇目次 > 本編
初めて会った時、その人は、自分の母だと名乗った。
父親に抱かれて見上げたその人は、今にも消えそうで儚い美しさを持っていた。
「アリアナ、と申します。恐れながら、貴方様の母としてお世話をさせていただきますわ。どうぞ宜しなに――ジャスティ様」
だが今からして思えば、母なんて真っ赤な嘘だった。
自分には母親なんて存在しなかったのだ。
父親からそっくり同じ容姿だけ受け継いで、母親の存在なんか自分の姿のどこにも、欠片すら見当たらない。
それにもし彼女が母だと言うならば、どうして彼女は、“シウォン”と、親しい名を呼んでくれなかったのだろう。
「ごめんなさいね。ちゃんとした母親になれなくて。やはり子供を持たないまま貴方を育てるのは、私にとっては少し荷が重かったのかもしれません」
ベッドの中で、今際の際に彼女が残したその言葉が、どうしても耳に残っている。
彼女が母だと言うならば、どうして、彼女は“ちゃんとした母親”なんて言葉を使ったのだろう。どうして彼女は謝ったのだろう。
そう。
もし、彼女が母だと言うならば――彼女は母である事に臆さないで、堂々としているべきだった。
一線を引いては、いけなかった。
「――悲しいかい、シウォン」
土の中に消えていく棺を見つめ、父が言った。
「母さんが死んで、寂しいかい」
「……寂しく、ないよ。悲しくなんか、ないよ」
子供心に強がってみせた。
嘘だ、と誰もが声を聞いただけで分かっただろう。けれど心の奥底では少しだけ本当の事だった。
まだ父がいる。たったそれだけの理由だった。
「父さんは? 悲しくない?」
見上げると、彼は曖昧に、困ったように笑う。
「じゃあ、寂しくない?」
「……そうだね」
答えを探すように、父親は、母の眠る場所に墓碑が建てられていくのを見ていた。
「――ずっと」
『アリアナ・フィル・ヒュールス』。
母の名が刻まれた真新しい墓碑を見ていると、ようやく父が言葉を発した。
見上げた横顔は、自分の知らない父のもので。
「ずっと前から。アリアナが家に来る前から」
見た事がないはずの顔だった。
だが、知っている、と思った。
「――ずっと、ずっと、寂しかったよ」
父は。
アリアナの墓を通して、一体誰を見ていたのだろう。
アリアナは、自分に欠けていた母という存在を補いはした。
けれど、父に欠けていたものを埋める事はできなかったらしいのだ、と過去を振り返る。
それを証明するように、彼女は生家の墓地に葬られ、ラーニシェスの家名を与えられることはなかった。
父は初めから全て分かっていて、アリアナも全て承知していて、互いが互いを受け入れた。
寂しさはずっと続いてきた。
それが何年前からかなど、自分には想像もつかない。
しかし、それから幾年も月日は流れて、自分は全てを知ってしまった。
父が必要としたのは、息子の出自を証明する為の“母”となり、自身の害に成り得ない存在。
母が必要としたのは、家名を気にする家族ではなく、自分を受け入れてくれる家庭だった。
母が去り、ほんのひと時の、作られた、それでいて確かであった家族の時間が去ってから、父のどこかがおかしくなった。
「寂しかった」と口に出した時から、父は狂った。
いや。――一時の間収まっていた彼の狂気が、また心の隙間から顔を覗かせたのだ。
その時点で彼と交わした約束を思い出すべきだった。
約束がまだ有効であるならば、彼が自分を裏切るはずがなかった。
そして自分は、父との約束を果たすはずだった。
思えば九年前の出来事は、父の不器用な優しさだったのかもしれない。
憎しみで満たされていた自分には、そんな事に気付く余裕はなかった。きっと父はその事も計算ずくだったはずだ。
だが、その事に気付いて愕然とした時、父の存在を感じた時、彼と約束した事、自分の由縁、何もかもを思い出して知った時――覚悟を決めなければならない、とぼんやりと思った。
だから、かつて、自ら投げ捨てた名前を、もう一度拾い直す事に決めた。
最も、数人からはいまだに古い名で呼ばれていたので、結局捨て切れてはいなかったのだろう。
だが背負い直したその名前は、既にかつての重さなど比ではなくなっていた。捨てて傷ついたはずの名が、それ以上のものをくっつけて戻ってきたからだ。
(……ラーニシェス。全て知ってしまった僕には、もうそれしかない)
セル・ティメルクの名を捨てるつもりはない。あの子の兄で在る事を恥じた事など一度もない。
(だけどこの一度だけは、ティア、僕はセル・ティメルクではなくて、ルヴァンザムの息子のジャスティ・シウォン・ラーニシェスとして在らせてほしい)
ごめん、ティア。
最初から最後まで身勝手だったとは思っている。
(――セルとティア。兄妹は僕が“殺した”んだ)
痛みを伴う事だった。
だがこのまま妹を裏切るぐらいなら、建前でも兄としての自分を死なせた方がましだった。
思いながら、シウォンはカーレンの前に姿を現す。
いくつかの言葉を交わす間も、どこかできりきりと、締め付けられるように心が痛む。
しかし痛みを無視して、父の中の感覚に従い、剣先を突き出した。
□■□■□
知らず、溜息を吐いていた事に気付いたカーレンは、身体中が痛むのも忘れて頭上を見上げた。
先ほどまで一通り繰り広げた戦闘のおかげで、廃墟の外観はがらりと変わってしまった事だろう。
要塞規模のディレイアやシリエル・ファオライの森はともかく、セイラック以外では都一つ巻き込んでの戦いの経験はなかった。
だが相手は聖戦時代を潜り抜けてきた、いわば歴戦の猛者と言ってもいい。
そうそう勝てる相手でもないと思っていたが、それでも差を縮め、追いつき、更に追い詰めて行こうとするための力はいくらでも湧いてくる。
身体が疲労を感じている、いない、そんな問題では済まされない。気力、少し違う。
言ってみれば、魂の問題なのかもしれなかった。
鋭く戦況の把握をする思考の片隅でそんな事を考えながら、瓦礫に埋もれていた身体を起こす。
軽く吹き飛ばされたにしてはずいぶん遠くへ来てしまった。
だが、
「――来た」
呟いたカーレンの視界は、既に相手を捉えていた。
宙を滑るように突進してきたエルを、瓦礫の中から中空に離脱する事で回避する。
青年は足を瓦礫に突き刺した。
急停止という荒業の代償に、彼の足元が砕ける。
飛び散る破片を叩き落とし。
エルが地を蹴って。
返す手で彼の一撃を受け止め。
勢いで下がり、
追いつかれ、
首に白刃――
思う間もなく仰け反って交わす。
次いで振り下ろされた一撃は剣を打ちつけ、身体ごとひねり、横へ。
互いにすれ違うひどく緩慢な一瞬。
ひらりと攻防が転じた。
流線を描いてエルの刃が振るわれ、
カーレンの剣が防がれる。
記憶の中の男と瓜二つの青年は、気だるげに異色の双眸を閉じた。
「させない」
カーレンが呟き、行使した力によって、それの発現は阻まれる。
「お、っと」
二つの力が衝突して、僅かに勝ったカーレンによってエルは後方へと弾かれ。
「また吹き飛ばせるかと思ったけど、学習が早いね、君――っ!」
「無駄口を」
評した彼の懐へ、既にカーレンは迫っていた。
届いたとしても僅かだったカーレンの剣は、肩口を掠め、肉をいくらか抉るに留まった。
ひゅ、と呼吸に混ぜて魔力がエルの口から噴き出、真紅の閃光が一瞬でカーレンを包む。
焼かれる、と直感する。
突きを叩きこもうと狙うと、瞬時に光の縄はカーレンを解放して防御に努めた。
僅かに間に合わず、血の筋が肩口から飛ぶ。
「――危ない、危ない」
はらりと裂けた衣服の端が揺れる。
血の滲む傷口を上から抑え、エルはごく薄く笑った。
「惜しいね、カーレン。すごく惜しかった」
――傷は、刺青をわずかに逸れていた。
「……」
それをただ事実としてのみ認識して、カーレンは再び中空で構える。
「やれやれ」
エルは肩をすくめて呟いた。
「ポウノクロスじゃ弱かったのに、セイラックといいディレイアといい、やりたい放題の大暴れ。君は本当にあの娘の事となると、馬鹿みたいに強くなるね。少し前とじゃえらい違いだ。そうじゃないかい?」
「……そういうおまえは、前と比べると切羽詰っているようにも見えるが」
言われて、彼はくすりと微笑み、金の方の瞳を閉じた。
銀に輝くもう片方が、音もなく細まる。
「それは僕だよ、カーレン」
セル・ティメルク個人からの返答を聞き、カーレンは黙した。
ただし、返しを考えていたのではない。
エルが小さく顎を上げた。頬を一筋の光が掠める。
頬は引き攣れて裂け、紅い極太の筋がそこから垂れた。
「本当に君は――、大切なものが関わると、容赦がない」
ディレイアとセイラック。
場所は異なっても、夜空が再び銀に染まる。
災害の如き光の雨が降り注ぎ、見る間にセイラックの街は形すら叩き潰される。
「ロヴェの事といい、ティアの事といい。目の前で誰かが失われていくのは、よほど堪えたと見えるけど、」
そこに、真紅が花びらのようにひとひら、混じる。
「救うためならば、君は自分の破滅すら厭わない。まさしく、君の本質そのものだね。存在しているだけで、君は知らず、君自身を破壊する。身体も心も壊れるようにと願いながら戦う」
破壊による衝撃、巻き上がった土、何もかもを紅が吹き飛ばした。
「そして誰かに、存在の根幹を求めて依存する。私たちは知っている。それが君の逆鱗である事も」
再び対峙した時、そこには更に満身創痍になった二人が居た。
「最初は生みの親。次は親友の妹。その次にも何人か支えが居たけど全て消えたか、自分が離れて捨てたか、あるいは一線を引く事を決めた。まぁ前代は悪運の強さはさすがと言おうか、ポウノクロスでしぶとく生き残った。だが、後にも先にも、最も深く君が根を降ろし、記憶がないにも関わらず、二度も君の支えを務め上げたのは――」
「――ティア・フレイスただ一人。……そうだな。少しも違わない」
「理由がなければ、君は君ではなくなる。それを克服しない限り、誰もがいつまでも不完全な覇王のままだ、カーレン」
「……それがおまえの本音か、セル」
エルは鼻で嘆息した。
「セルとティアという名前の兄妹はもういないよ、カーレン。僕が今ここで殺す。それでも君は、セルと僕を呼ぶんだろうけど」
純白の剣がまっすぐにカーレンへ向けられた。
「ティアは今、独りだ。君もまた独りでここに来た。それは君が選び、彼女が選んだ事だ。だから僕が兄妹を殺したというなら、カーレン、君はドラゴンと寵姫という関係を自分で終わらせてきたんだ。もし君が再びあの子に会うとすれば、それは君が勝ち残った時だ。敗けたならば、その時に全てのものを失うと思え」
そしてこの戦いの敗北の形とは、死しか有り得ない。
カーレンは口の中で唱え、改めてエルを見返した。
もう、あまりいくらも時間がない。
カーレンが彼を殺すより先に、ティアが限界を迎えるかもしれない。
考えながら、カーレンはゆっくりと目を伏せ、横に頭を振った。
――だが、見つかった。
彼の、答えが。
「馬鹿な事を。誰も喜ばない」
「でも、それは君も同じ」
初めて、エルが心の底から目を細めて微笑みを浮かべたように見えた。
「だから言わなかったんだよ、カーレン。君は私を殺そうとしている。そうだろう? そして敗けはしないだろう」
銀の瞳が、揺れる。
「ならその全てを、私はこれから全力で潰さなくてはならないね。そうでなければ結末など迎えられる訳がない。君の心が望まない事を、これから私が強いるのだから。足掻くならば最後まで、泥の中で足掻いてほしいものだ」
――セルがティアに呪いを刻んだのではない。
あれは人質だった。カーレンが戦うと決めるための、停滞した状況を動かすための、ルヴァンザムが差し出した切り札だった。
セルはセルで、自分が事を成す為に敢えて見過ごし、手引きをした。その結果としてここにいて、彼の背負う役目は、恐らく。
エルがカーレンに目を合わせる。
どこまでも真っ直ぐで透明な、底のない色の目を。
来い、と暗に告げていた。狂おしいまでに望んでいた。
だから、これは一人と二人との戦いではなく、
始めから一人と一人の戦いだったのだ。
目の前に一つの景色がある。
それが何かを考える必要などなかった。
カーレンは剣を握り締めた。
互いに、進む先に望むものを見つけ。
戦いの先にしか得られないと知って。
想いばかりが遥かに遠く、引きずられるように戦いが始まる。
今までよりも更に苛烈に攻撃を加えながら、カーレンは彼から目を逸らさなかった。エルもまた同じで、攻防は果てしなく続いた。
刃を振るい、力を振るい、時にはドラゴンの翼も爪も、牙すら使って、あらゆる限りを尽くして、銀の光を時に散らして、そうして、合間に喘ぐように思うのだ。
ルヴァンザムが挙げたように、自分はある意味そこに在る理由を他者に頼っているようなものだった。その他者は、いつも自分の傍に在る者だった。
誰か無しには存在できない。ならば、誰も居ない時にどうすればいいのか、考えるだけで恐ろしかった。誰かの為に存在できる、それは素晴らしい事だと、昔一人の人間が言っていた。最初から全て独りで立てる者などいないと言ったのも彼だった気がする。
それなのに、よりにもよって、深手を負って動く事すらできない自分が最後に頼ったのは、儚くて弱くて、助けてくれた以外は何もできそうにないようなただの人間の少女だった。
選ぶ事に基準はなかった。その自由さこそが逆に奇妙だ、と今更ながら思った。
もう少し。
それで辿り着けるというのに、
もどかしいほどに、最後の要が、分からない。
「っぁあああ!」
「――っく!」
剣先は何度も、エルの身体を捉えた。もはや布同然となった服を更に切り裂いて、白い服をどす黒く染めた。自分ですら、羽織っていたマントなどどこで破り捨てたか分からない。残った部分すらとうに脱いでいる。
自我すら食い尽くした、獣のように露骨で、ひどい泥仕合だった。
相手を殺そうとしている事も、自分が殺されようとしている事も忘れて、純粋に精根を使い果たす勢いで戦う。
力が拮抗しているからこそ、全てが克明にカーレンの中に入ってきた。
何度目かに放った破壊の魔術が砕かれ、爆発に揉まれる中で、カーレンは次こそ、と剣を構えて魔力を捻り出し、
「っ――、 !?」
かくん、と。
膝が、抜けた。
「終わりのようだね」
「!」
一言呟いて、粉塵の向こうからよろめきながらもエルが迫る。いつかの紅い剣をその手に握っていた。
(『できるかな? ――七年前、何一つ守れなかった君が!』)
様々な場面が、
(『綺麗事を』)
(『それを信じた私だから、あなたは私を寵姫にしたのよ。忘れちゃった?』)
カーレンの頭を過ぎり、
(『私を傷つけるのが怖い? 傷つくのが怖い? 例えそうだとしても、カーレン、あなたはきっと変わらないわ』)
ティアの顔が思い浮かんだ所で、走馬灯に似た記憶の本流は終わる。
止めを刺そうと振り下ろされた十字剣を、死ぬ気で転がって避けた。それもエルが疲労していたからこそ可能だった。
だがそれでも死ねない。
ここで死ぬ事が許されるはずがない。
絶対に、何があっても――。
辛うじて生み出した魔力の砲弾すら、
「――、っ」
エルに切り捨てられる。
稼いだわずかな時間。
魔術をいちいち紡ぐ暇すらないほどの一瞬。
起き上がって遮二無二全身から魔力を掻き集め。
それより先にエルがカーレン目掛けて剣を突き出し。
直前、
崩落した廃墟の瓦礫が予期せず彼の頭に当たって、よろけた。
「っ、――!」
ふらつくエルはそれでもカーレンに刃を届かせて、
届く寸前――、
カーレンは黒剣を、
力の限りに、押し出した。
「 “カーレン・クェンシード” !」
「 ――“エル” !」
呼んだのは、互いの名前。
二つの剣が、二人の手を離れ、
二人の魔力が、進む力となり、
「っ――」
カーレンの剣は、エルの胸の中央、――呪いを構成する魔術の刺青の中心に、寸分の互いもなく突き立った。
同時に、左胸に鈍い衝撃が走った。
重く心臓に切っ先を滑り込ませた鋼は、背中を突き破るだけに留まらない。
見開いた両者の目には、ありありと、驚きと、そしてやり遂げた、という満足の色があった。
半端でなど決してなかった魔力は、更に互いの身体を宙に浮かせ、
――そして、遥か遠くへと消し飛ばした。
□■□■□
ふと、予感めいた何か、あるいは薄れた苦しさに異変を感じて、ティアはそっと目を開いた。
『主』
気遣うようなシリエルの声に、沈み込んでいた彼女の白い毛並から身を起こす。
「ごめん、……ちょっと、寝てたみたい」
『馬鹿も休み休みに言わぬか。ずっと意識がなかったぞ』
シリエルの心配する声も余所に、ティアはぼうっとしたまま胸元に手を当てる。自分の目で確認しても、そこには跡形も紅い色は残っていなかった。
だが、身体の中で、感じた。
「……ルティス、」
声が震える。
黒狼は、高台からセイラックを見下ろしていた。
ルティスは、ティアに気付いてゆっくりと振り向いた。
『……ティア』
常からの使い魔らしい口調すら、動揺で吹き飛んでいる。
蒼い瞳が、何もかもを含んで揺れていた。
何かを言いかけ、呑みこみ――、ようやっと、というように、彼は、一つの戦いの結末を告げた。
『………………相討ちだった』
『――主!?』
聞くなり、自分でもどこにそんな力が残っていたのかと疑う程の勢いで、ティアは立ち上がっていた。それだけでなく、猛然とセイラックへ――意識を失う前と後で、壊滅的なまでに様変わりした街へと走り出した。
呪いにごっそりと体力を削られたせいで、息が荒い。
それでも押し潰されそうな不安だけがティアを突き動かす。
走りながら、ティアは堪え切れずに叫んでいた。
「兄さん、 ――カーレン!」
少女の悲鳴が、白み始めた空に上がった。