Dragon Eye

Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編

第一篇 - 六章 『世界に刻む』

-5- 祈りと、願いと、そして

「――確か、シウォンが生まれる少し前の事だった」
 エルニスとレダンの戦いから離れ、しばらく魔力の淡い光が宵闇に散るのを注視していたラヴファロウに向かって、ロヴェがおもむろに口を開いた。彼の左の手は、気絶したベルの髪を軽く梳いている。
「手記の話だよ。あいつはエリックに息子の姿を見せる以前に、その存在をもう三人にも知らせていた」
「それは……あんたと……?」
「じいだよ。ラーニシェス当主に代々仕えて補佐をしていた者だ。そして残る一人はアリアナ。あいつがラーニシェスを名乗ってから唯一娶った妻だった」
 その話を聞いて、ラヴファロウは首を傾げた。
「……あの男が女を愛したってのか?」
「いいや?」
 肯定するかと思われたが、しかし、意外な事にロヴェは片眉を上げてそれを否定した。
「確かに愛した奴はいたが、それはアリアナじゃない。俺が知る限り、あいつが生涯で愛した女はただ一人きりだ。それも聖戦の最中に命を散らしてる。――あいつが妻を迎えたのは、アリアナがたとえ病弱であっても、ルヴァンザム自身にとって都合の良い存在だったからだ。アリアナ自身も承知の上でラーニシェス家に入った。それを知っていたじいが、将来、本当の事を知るだろうルヴァンザムの息子のために書き残していたのが、おまえが見つけた手記さ」
「……」
 ラヴファロウは複雑な想いを抱えたまま、懐に入っている手記の存在を意識した。
 衣服の上から確かめるように触れると、かさりと紙が中で揺れる。
 真実というよりは、本人が思った事をありのままに記しただけのようなもの。だが、それだけに余計に、今までの彼の人物の真意が全く予想と違っていた事に驚かされた。
「じゃあ、知ってたっていうのか。ルヴァンザム・ラーニシェスの本心を?」
 これにも、ロヴェは頭を振る。
「……何で俺が、一度は寵姫にまでした人間を殺そうとしたか、分かるか」
 右の手の平で彼は顔の上半分を覆ったが、目の前の現実を仕方のない事なのだと受け入れている者の顔をしていた。
「俺があいつにドラゴンアイの力さえ与えなければ……俺が、兄弟さえ、友さえ、家族さえ欲しなければ、あいつは狂わなかったかもしれない。そう思ったからだ。……そうでなけりゃ、誰かが傍にいる事の温かさを忘れる事なんてなかった。死にたがる事も、ドラゴンに牙を剥く事も、なかったからだ」
 そう言いながら薄く笑う彼の横顔は、僅かに疲れていた。
「あいつが殺そうとしたのは、一番殺したかったのは、ドラゴンそのものなんかじゃない、自分を生かし続ける世界だったんだ。本来なら、罰せられるべきは俺だ。聖戦が終わった時、あいつはもう死にたがっていたのに、それをずっと留めていたのは俺の我が儘だった。――なのに俺は、解放すらしてやれなかった。その時間が、あいつを頑なに閉ざさせた」

 無償に、無限に注がれると約束されていたはずの親愛。それが有限、あるいは偽りだったと知った時の彼らが抱いた絶望。
 知っている。
 それによってどれほど彼らが脆くなり得るか――いいや、脆くなるどころの話ではないと思い直す。

 ルヴァンザムとセル。父と息子が、決して互いに明かさなかった胸の内を、相手にさらけ出す時が来たとしたら、彼らはどこに向かうだろうか。
 その答えが、今の結果なのだ。

「死にたがって、死にきれなくて、それでも――求めて殺す事すらできないのか?」

 ラヴファロウは口を歪める。

「それがあいつらの真実だって?」

 そんな望みは満たされる訳がない。
 互いに互いを殺したところで、彼らはまた一層深く、引きずり出せないほどの闇に沈むだけなのだから。


□■□■□


 互いの激突が引き起こした暴風の中で、エルニスとレダンは対峙していた。
 ゆらゆらとエルニスが放つ熱で空気が揺れる。
 陽炎の向こうにいるレダンを睨み据え、エルニスは口を開いた。
『……何でだ』
 劫火の中、エルニスは呟いた。
『何でだ。セル・ティメルクがおまえにとってそんなに大切なら、どうしておまえはここにいるんだ。……何で止める事を選ばなかった! あの二人を戦わせる事が何を意味するか、分からない訳がないだろう! 無闇に傷つくだけの戦いだろう! 何で、何で止めなかった!』
 理解ができない。
 二人が戦えば、どちらかが死ぬのは何よりも明らかなのだ。
 なのに彼は、どちらの願いも叶って欲しいと思っている。
『何で止めない。矛盾してる……!』
 吐き捨てたエルニスの言葉に、レダンはしばらく黙っていた。

『……俺には、二人を止めない理由も、止める理由もないんだ』
『っ、』
『何で、とか聞かないでくれ。俺だって知らない』
 レダンは目を逸らそうとするかのように、瞳を揺らした。実際にそうしなかったのは、これが戦いだと自覚しているからだろう。
『セルは、カーレンにとってのティアと同じだ。俺にしてみたら、彼は俺の魂を救ってくれた恩人なんだ。……でも、カーレンだって俺にとって大切なんだ。出会った時なんて、俺の兄だって知らなかった。けどやっぱり魂が震えたんだ。俺たちは双子だ。同じ血を分け合った片割れだったんだって思うと、何が何でも味方したくなるぐらい。ポウノクロスでだって、結果として足手まといになっても動かずにはいられなかった』
 ぽつぽつと言うレダンは、まるで独りで自問自答しているようだった。

『けど、そう俺が思ってしまうのって、どうしてだ?』

 エルニスが気付いた時には、また最初のような氷の刃が無数に降って来ていた。
『それがたぶん、ここに父さん(ロヴェ)やあんたたちを止めに俺が来た理由なんだ。……一人で待ってて、ずっと考えて、答えがまだ見つからない』
 そして、と声が続く。その間に、エルニスは炎を使って刃を粉砕した。
 動き出したレダンとの距離を見、いつ仕掛けてくるかを計った。
『自分が誰かって、普通は考えない。俺は今までずっと誰かに支配されてきて、俺がどうしたいかなんて考えた事はなかった。どうしたい以前の問題で、俺は自分が何を望むような奴なのかも知らなかった。でもそれは父さんのせいじゃない、俺のせいだ』
『っ!』
 間を外してレダンが襲ってきた。
『俺は、“どうしていいか分からない”から、とりあえず身近な相手に縋って、やっと自分を保っていただけだった。だから簡単に精神なんか乗っ取られたんだよ』
 振り下ろされた大鎌を、躱す。

『――だから、確かめたいんだ、兄みたいに。俺が、レダンがどう在るべきかを。俺はそのために戦ってる!』

 レダンの追撃は、続く。

『そうしなきゃ、やっていられない――怖いからだよ、エルニス・クェンシード!』
 それは、ずっと抑え込まれていた彼の悲鳴のようだった。

 バチッ――と、明らかに氷結では有りえない音が響いた。
 同時に雷気を肌に感じる。

 こいつ、稲妻まで――。

 纏う炎でどうにか凌いでも、冷や汗が頬を伝った。

『自我を失う恐怖って、知ってるか?』
 レダンが身を翻す。彼の影から、再び牽制のように氷の礫が飛び出した。
『壊れていく音を聞いた事があるか? 知ってるから、二人じゃなくてあんたを止めるんだ! 自分が何者かも分からなくなって、その場で立ちすくむしかない辛さなんか、知った事もないだろう!』
『っ――』
 身体を捻り、礫のほとんどを打ち砕いた。
 だがそれだけで終わらない。
 砕けた欠片を大鎌へと集めて、更に怜悧になった凶悪な刃をレダンが振りかぶる。
『あんたに、カーレンの痛みが分かるのか! セルの気持ちが分かるのか!』
 受け止めた時、さすがに衝撃の重さに気が遠くなった。
『……く!』
 だが、まだだ。聞くべき事は、次から次へと湧いて出てくるのだから。
『ずっと見て来た。辛かった……! 何よりも自分で自分を苦しめていた。壊れるまで進み続けて、何に追いかけられているのかも分かってなくて……狂ったみたいに走っている! 今もだ!』

 力の拮抗だけが続き、沈黙が二人の間に落ちる。それが長いのか短いのかは判断がつかなかったが、純粋で強烈な感情に後押しされたレダンの力は、エルニスを今にも押し潰そうとしていた。

『ぅ、……!』

 酸素を求めて喘ぐと、遠い世界で声がしたように思った。

 教えてくれよ、と。
 弱い声が響いた。
 その声は、嗚咽さえ含んでいるようにも思われた。

 それを聞いて初めて、エルニスはレダンが、まだ十分に成長してもいない精神を抱えたままだったのだと気づいた。

『俺たちは何を失くしたんだ。壊れたまま、どこに向かえばいい? セルもカーレンもあんなに傷つかなくちゃならない理由なんてどこにもなかったはずなんだ!』

 見上げると、銀の滴が落ちてきた。

 涙、だった。

 硬い皮膚に当たる大粒の水の感触に、エルニスの頭は冷えた。

『……どこにも……なかった?』

 何かを思うよりも先に、ぽろりと口から言葉が出ていた。
 そして、何を思ったか認識する間もなく、エルニスは急に何かが切り替わったような音を確かに聞いた。

 次の瞬間、心は決まっていた。

 翼を広げ、力を失くしていたレダンの身体を吹き飛ばす。
『――おまえがどう在るべきかって?』
 宙に踏み留まるレダンに、エルニスは声を張り上げた。
『どうせおまえにしか分からないんじゃないか。だったらそれは俺に聞く事じゃない。大体、もうおまえは知ってるはずだろう!』

 そう、そうだった。
 だから、おかしかったのだ。

 呆然とするレダンの銀に変じている瞳を、エルニスは見つめた。独り宙に浮かぶその姿が、迷子になって泣いている子供のようだ、と思った。
『それでも分からないと言い張るなら、おまえにはこれ以上構わない。時間がないんだ、俺は今度こそ力ずくでここを押し通る!』
 言いながら、エルニスは妙な確信を持っていた。

 きっとロヴェも、この事にどこかで気付いていた。だからディレイアでカーレンに心臓を貫かれた時も、ティアが差しのべた救いの手を掴む事ができた。

 果てへ突き進んで何を見るのか。そうまでして何を掴み取るのか。

 この胸に確かに降りてきたものが、先ほどの自分の問いに対しての答えなら。

(ああ、そうか)
 エルニスは納得する。

(カーレン。おまえ、“そう”だったのか。だからウィルテナトに居られなかった。だから、ルヴァンザムと決着を着けに行ったのか)

 だが、彼がもしもこの答えを掴んだのなら、きっと戻ってくるだろう。
 自分がこうあるべきだと、そう信じる姿を見つけて。
 なら、自分がやるべき事は一つに決まる。

 エルニスの宣言を受けたレダンが、再びその目に闘志を宿した。

 全力で、行く先を塞いでいる彼へ向かって飛ぶ。
 かわして行こうとすると、させまいと、すぐ後を追いかけるようにレダンが迫る。

『一度きり、これで決める。俺が勝って通るか、おまえが負けて去るかだ!』

『っ――』

 追ってくるレダンの顔に、余裕の色は欠片もない。
 エルニスも、迫りつつあるその瞬間を思って、気が気ではなかった。

 うまく行くかどうかなど関係ない。
 やる覚悟があるかどうかだ。

 だが、空路を必死の思いで飛ばし続けてきたエルニスと、ただ滞空していただけのレダンの体力には元から歴然とした差があった。

 故に、それほど時間をかける事なく、レダンはエルニスの背に追いつく。

『エルニス――!』

 声が届き、

 氷結の刃が貫き、



 そして、



『――ぁ』

 小さく、レダンが呆然と声を漏らすのを聞いて、エルニスは雌雄が決した事を悟った。

 両者はいつの間にか、完全に空の上で止まっていた。

 レダンの攻撃はエルニスの背中に深々と突き刺さり、溢れ出た血が翡翠の身体を鮮血に染め上げていた。

『こ……の、まさか』

 愕然と、レダンが呻く。
 エルニスは返事を返さなかった。
 いや、返す余裕がなかった。

『あんた、正気じゃないっ……』
『ああ、そうか。俺も同意見だよ、この野郎』

 やっとの思いで、かすれた声で罵り混じりにそう答える。

 エルニスは背中に身体の芯に届くほどの深手を負った。
 そして、レダンは胴を五ヵ所貫かれていた。

 そう、決着は着いた。

 即ち――エルニスが自らの爪で、己の身体ごと背後にいたレダンを刺すという形で。

『なぁ……おまえ、本当に分からないか?』

 エルニスは意識を保ちながら聞いた。
 痛みか、それとも肯定か。黙りこむレダンの気配を背中に感じ、嘆息する。
 傷が裂けるのも承知の上で、エルニスは身体と首をひねってレダンを睨んだ。

『大切な奴とかどうとかいう話以前に、おまえはセル・ティメルクのドラゴンだろうが』

『!』

 レダンの銀の瞳が瞠目する。
 青天の霹靂だと言わんばかりに硬直したドラゴンと自分から、エルニスは爪を引き抜いた。
 どっと栓を失って溢れる血を、傷口を押さえる事で止める。動揺している白銀のドラゴンを更にねめつけた。
 見据えられていたレダンは、やがてふらりと身体を傾がせ――深手を負っているとは考えられない速度で、エルニスの身体を掠めるように飛び去って行った。
 敗走したドラゴンの背をエルニスはしばらく見送っていたが、

『……っ、』

 一気に気を詰めていた反動が来て、ぐらり、と身体が傾いだ。
 ドラゴン同士、治癒を遅らせるよう爪や牙で傷つけあった事もあってか、血を失い過ぎたようだった。もう空中に留まる力もそれほど残されていない。
 墜ちる、と思ってエルニスは目を閉じた。

『ぐぁあ!』

 だがその直後、首根っこや肩口や脇腹をがっしりと背後から抱えこまれ、傷の痛みに悲鳴を上げる事になる。

『おまえ、今さんざんに痛めつけたのが俺の息子だって事忘れてただろ』
 文字通り、地を這うような声がした。視界の端でぶらりと黄金色の長い尾が揺れる。
 恐ろしく不機嫌な様子のロヴェは、ぎろりと、人化時の琥珀色とは違う、真紅の瞳で見下ろした。
『手負いの雄のドラゴンなんて抱えんの辛ぇし嫌なんだよ。さっさと人間に化けろ。でないと俺が直々に海上に突き落とすぞ』
『…………っ! 待って、くれ』
 悶絶するエルニスは、息も絶え絶えに言葉を繋いだ。
『カーレンの、所には……行かない』
『行かない代わりに、どうする?』
『だから!』
 呆れ混じりのロヴェの声に、ない力を振り絞った。
『待つんだ……あいつと。カーレンと、ティアを、信じてみたい。それに、カーレンは……邪魔をされたくないらしい』
『……いいぜ』
 は、とエルニスは声を漏らした。
 あまりにもあっさりとエルニスの提案を承諾したロヴェは、近寄ってきたアラフルに声をかける。
『なぁ、道化将軍が見つけた手記、おまえとベリブンハントもまだ読んでいないよな?』
『……まぁ、そうだが』
『正直口で説明するのが面倒臭い。待つだけも面倒だ。どうせなら北大陸に行って、そこでいろいろ知った後で祈りでもするとしよう』
 ロヴェの投げやりに近い口調に、アラフルの背中からラヴファロウが顔を出した。
「何を何に祈るんだよ」
 決まってるだろ、とエルニスの頭上から答えが返る。

『万事が丸く収まるように、世界に願を掛けるのさ。奇跡すら起こしたティアと、そいつを寵姫にしたカーレンなんだ。祈りを捧げるだけでも、きっと何かの力にはなる』


(……そう、か)
 その言葉を聞いて、エルニスは軽く、意識を失う事にした。
(なら……願おう)
 うす暗い闇の中へ墜ちて行きながら、思う。

(世界に刻む――それぐらい、強く願おう)

 ひょっとしたら、おまえはどうでもいいかもしれない。
 だが、おまえが求めていた答えを見つけたら、きっとますますあの少女が惜しくなると思う。

 だから、カーレン。

 おまえとティアが戻って来られるように――微笑う事ができるように、俺たちは願おう。



『……おい。おい、病み上がりの俺にこのまま飛ばせる気かよ。人になれっつってんだろうがこの馬鹿』

 そして、ロヴェの言葉は、既に届いていなかった。


□■□■□


 ふと、気配を感じた気がして、カーレンは立ち止まった。

 静寂と闇を含んで重くなった大気を、同じように闇に溶けたマントの裾が掻き回し、すぐに落ち着いた。

「……」
 息を押し殺して、カーレンは剣の柄に手を押し当てた。
(何だろうな……)
 ゆっくりと音もなく、腹の中に溜まったものを吐いていく。

(――身体が、ひどく熱い)

 全身を巡るのは、ディレイアで三百年ぶりに解き放たれた力。
 生まれてまだ数年も経たない頃、父がカーレンの目の前でルヴァンザムに敗れたあの時から、自分はこの力と共に在った上、数度しか使っていない。なのに、自分の手足以上に、自分そのものにしっくりと馴染んでくる気がした。
 手の平が思わず強張るほど冷え切った柄を握りこみ、カーレンは目を伏せる。

 途端に、肌を熱が焦がした気がした。

 ちらつく炎の残像。殺してくれと、狂ったように泣き叫ぶ異形の人々の声。
 そして、
(『何を、してるの……カーレン?』)
 幼かったティアの、戸惑う声と、怯える瞳。

 瞼の裏に残っている。耳の奥に木霊している。
 だが、それはもはや現実ではない。
 それらは既に起こってしまった事であって、自分が対処するべき問題は他にある。
 それらを意識の隅へと追いやりながら、カーレンは自らに言い聞かせるように呟いた。
(……ここには、もう、誰も居ない)
 自分が暴走し、痛みに狂い足掻く中で、この力を振るって全てを滅ぼした。

 ただあの日と変わらない事があるとすれば――自分がこの場所に、彼女が愛したものたちを葬り去るためにやって来た事だ。
 もう少女以外に、かつてのこの国を知る者は自分しかいないのだろう。
 自分がこの街を焼くよりも以前に、既にセイラックの人々の命はティアの手から零れ落ちていた。それを知りながら、最後まで真実を言えなかった。あの子の顔が再び孤独に歪むのを見たくなかったばかりに。
 少女の心を守るためか、それとも自分の自己満足だったか。どちらでも良いと今こうして思えるのは、きっと、そう、彼女が変わっていたからだ。素性も知れない自分が傍に在る事を、ただ許し、離さなかったからに他ならない。
 天涯孤独となって、たった一人で立ち続けるにはまだ彼女は幼かった。どう見ても生きるためには誰かの手助けを必要としていた幼い少女は、しかし、周囲の者ではなく、全くの部外者だったカーレンを選んだ。
(必要とされた事……それが思いがけず、閉じた私の瞳を再び開くきっかけになったな)

 自らが何者なのか……誰の子で、なぜ生まれたのか。今となっては解決したそれは、幼い時から、クェンシードの一員になった時から常に心のどこかにあった疑問だ。

 どうでもいいと思った時期も、確かにあった。だが、友の最愛の妹を死なせてしまった事件を機に、またしてもその問いに対する答えを考える羽目になった。
 出生の謎、存在の理由。呼び方はさまざまでも、自分の起源を解き明かすのは、その頃のカーレンにとっては夢などという次元を超えて、その生の命題にも等しいものへと変化していた。
 だから探した。
 確固たる何かが欲しくて、自分の存在する価値を欲して、それが見つかるなら何も苦ではなかった。
 虫が泥の中を這いずるように、あらゆる地を歩いた。時に無様に草原の中に倒れた回数も、両手の指では表せない。その姿は、他者から見ると痛々しいものだったのかもしれない。
 ベルが気にかけ、リエラが心に病み、アラフルが目を細めようとも、それでもカーレンは探して、求め続けて、旅を続けた。夜空を見上げ、日々目を閉じて、明日、明後日、その先もこうして夜を過ごすのだろうなと想いを馳せた。


 幾度も、幾度も…………幾度でも。

 星の数ほど、願い続けた。

 だが、どれだけ探しても、世界を回ってみても、見つからないものだと分かるのに時間はかからなかった。


 百年、それが、カーレンを諦観へと追いやった時間で、

 二百年、それが、カーレンを自棄にさせた時間で、

 三百年――それが、カーレンから感情を奪った時間だった。

 流浪に際し、存在の意味を探すという目的を、いつしか見失っていた。もう誰も、カーレン自身ですら、今の状態から立ち直れないだろうと諦めていたし、そうなるに至った理由も本人からも忘れ去られていた。
 例えるならば、それは不治の病のようなものだった。後はただ、いつ訪れるだろうかと、期待も不安もなく死への日々を指折り数えていくしかないだけの。
 炎塔の噂を聞いた時など、どうにでもなれと思いながら潜り込んだのだ。その先で立て続けに、思わず面食らうような言動を取る少年とドラゴンに出会ったのだが。
 そして、最後に傷付き、力尽きて倒れ、やっと終わると思った矢先――現れたティアの存在が、どれだけ当時の自分にとって救いであったか、生きる気力を与えてくれたか。きっとあの子はどれほどのものを自分に与えたのか、露とも知らないでいるだろう。
 九年前のティアは独りで、カーレンが居なければ、儚く消えそうな弱い存在だった。
 七年前になって、少しだけ強くなった彼女なら生きて行けると信じて、願うように、胸を裂くような想いで手離した。
 再会した今なら、大丈夫だと確信をもって言える。まだ少ないが、彼女と心を繋ぎ、独りにさせずにいてくれる存在は、確実に増えてきている。彼女がカーレンを特別に必要とする理由などもうどこにもないのだ。
 だから、最後にその命を繋いで、彼らの元へと背中を押しだしてやるのが役目なのだろう。

 そして、カーレンにとっても、大切な何かがここにはある気がした。

 怖いのは自分が敗ける時だけだ。敗けなければ、彼女が死ぬ可能性は消える。

 だから、気にするべきはティアの事ではなくて――。


 閉じた瞼を開いた。
 剣を抜き放って、横薙ぎに切り払う。
 細い見た目に反し、はるかに重い剣から放たれた一撃が、近くの壁を切り崩した。

「……セル。一つだけ聞きたい」

「――何かな。カーレン」

 崩れた壁の影。上がる土煙の中から姿を現した青年は、薄く笑んでその問いかけに答えた。
 闇に沈んだ街の中で、神々しさを感じるほどに、金と銀へと変わり果てた異色の双眸が煌めきを放っていた。
「…………セル・ティメルク」
 彼を見据え、しばしの沈黙の後、カーレンは剣を構えた。
「おまえ――“何”を決めた?」
 カーレンは目を細める。
「ティアに呪いをかけるなど……、あれほど妹を溺愛していたおまえなら、するはずがない。“何”があったんだ?」

 青年は、つまらなそうな顔をする。
「君にだけはそれを聞かれたくなかったよ」
 そう口にした。

「だって、」
「!」

 咄嗟に剣を持った腕を上げる。
 相手の持つ純白と、カーレンの漆黒の剣が、澄んだ音を立ててぶつかり合った。

 力と力が拮抗する中、気づけば、互いの吐息が感じられるほど近くに彼の顔がある。

「だって、そんな事したら、君、“僕ら”を殺せなくなるんじゃない?」
 言いながら、エルは嗤う。
「まぁ、聞きたい事はこっちにもあるけどね? 聞いたら僕も、どうするか分からない」

 剣を支える腕に感じていた重みがふっと失せた。
 咄嗟に身体を捌いて、二、三撃程の追撃を受け流す。
 ひとしきり打ち合った後、後退して距離を取った。

「……ティアの呪いを解こうと思うなら、」

 言って、彼は喉元に手をかけ、そこからわずかに除く紅い色を示した。

「この紋様。中心を貫きさえすれば、それだけで向こうも呪いが破られるよ」
 でも――、と、エルは得体の知れない笑顔を浮かべて言った。
「“私”相手に、それができるかい? カーレン」
「……」
 カーレンは僅かに目を細め、
「元から、そのつもりだ」
 剣を身体の脇に構え、前へと体重を乗せて踏み出した。
「――ふふ」
 エルの笑みが深くなった。
「良い顔をしている……そうでなくては、最後にしては、あまりにも面白くないしね」

 もう、彼のどの部分がセルで、どの部分がルヴァンザムだった部分なのかも分からなくなってきた。

 元々いくつか似通った点のあった二人だが、――それでも、決定的な違いはある。それがどう間違って一所に収まってしまったのかを、知らなければならないだろうと思った。

 それが、気にするべき事。自分がここに来た事の目的。

「セル。ルヴァンザム。私は……」

 おそらくは、カーレンにとってのもう一つの命題。

「……おまえたちを、殺しに来た」

 そして目の前の青年も、薄く微笑して一歩、カーレンと同様に前へと出る。

「――うん。私も、そのつもり」

 その声を聞いた時、胸の内で最後の何かが、ふわりと解けたような気がした。
 ああ、と、カーレンは気付く。

(そう、答えは出たな)

 同時に、カーレンは小さく笑んだ。

 この戦いが終わって、もう一つの命題に辿り着いたならば――



 自分はきっと、微笑って死ねる。



 そうして、しばらくの空白を経て――示し合わせたかのように動いた二人は、自らの握る剣と共に再びの邂逅を果たした。


Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編
Back  Next