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第一篇目次 > 本編
「はー、やれやれ。まさか身内殺しなんてする馬鹿が、俺の他にも居たとはな」
「おや、こんな時に感傷に浸るなんて、らしくないですねぇ……貴方の場合は――又従兄、でしたか」
「まーな。ありゃあいつを止められなかった俺の落ち度でもあるし。……今回も、妙にセルの姿を見ないとは思ってたが。こんな事になると予想できれば、まだ止められたかもしれないと思うと、な」
なかなか、苦しいモンだな。
返して、屋敷内を移動していたラヴファロウは、目的の部屋の前に着いた。
敢えて飄々(ひょうひょう)と声を上げる。
「さぁってと。セル・ティメルクの部屋だ。魔窟か楽園か。マリフラオ、おまえ、どっちだと思う?」
「普通の部屋である事を祈らせていただきます」
「だろうな。見たところ施錠されてねぇし、魔術の罠が仕掛けられてる気配もねぇし。突発的だったのか? いや、それにしてもティアを連れ出してやった事が呪いをかけただけだ。ああいうのは妹を溺愛する手合いだと見ていたんだが、父親に怨みがあった事とも考えると、確かにロヴェ・ラリアンが言った通りどうも引っかかる……」
とっかかりは、確かにある。だが、それが何か分からない。
ぶつぶつと材料を数え上げながら、ラヴファロウはノブを回した。
「ま、何はともあれだ。数日と使っただけの部屋に大したもんがあるとも思ってはねぇが――、」
言って、言葉を途切れさせた。
「――どうやら当たりのようだ。極めて古典的な手段だけどな」
「……の、ようですね」
「やれやれ。家出するガキでもあるまいし、一体何の弁解なんだよ?」
宿泊施設として、人がしばらく生活するには困らない程度の設備はある。隅の小さな備え付けのテーブルに近づくと、その板の上に目を落として、ラヴファロウは嘆息した。
「……やはり、外れなのではありませんか?」
マリフラオが横から覗き込む。
机の上に置かれた、開封済みの手紙。
しかし、セルの書いたものではないのは近づいてみてすぐに分かった。
蝋封が押されていた。彼が封のための蝋を所望したという話は聞いていない上に、置手紙にしてはあまりにも不自然だ。おそらく第三者からの手紙なのだろう。
だが、いつの間にこんなものを。
「おや、これは……執事の印ですね。それも、ラーニシェス家の。家紋の印を与えられるとは、よほど公に信頼されていた人物なのでしょう。……いつ受け取ったと思われますか?」
「十中八九、ディレイアからここに来るまでの間だろうな。炎塔の奴らを黒の森から脱出させてやったんだろ。接触機会はいくらでもあったはずだ」
「ええ、そうでしょうね」
マリフラオは頷きながら、手紙の中を確かめる。
「私も同意見です。ですが……どうも、中身は手紙ではなくて、誰かの手記のようですよ?」
「は?」
目を丸くして、マリフラオが眺めているものを覗き込んだ。
「ちょっと寄越せ」
「どうぞ」
古く黄ばんだ紙を掴むと、ラヴファロウは素早く目を走らせた。どこぞの本からでも千切り取られてきたのか、端がぼろぼろだ。紙の余白ぎりぎりに、内容を書いたのとは明らかに違う筆跡で走り書きがされていた。
「大陸古語……? 聖歴1215年、真の心忘るべからず――十七年前って、セルの生まれる前後か?」
内容を口に出して、小さく息を呑む。
「……また懐かしいものが予想外の場所から出てきたじゃねぇの」
声がした。
ぎくりとして、咄嗟にドアを見やると、ドア枠にロヴェがもたれて立っていた。
「おまえ……その口、どうしたんだ?」
言われて目を細めると、ぷっ、とロヴェは血の混じった唾を吐き出した。口の端がひどく切れて、血が流れている。
「ヘマをしたから怒られたのさ。……そういや、坊ちゃん好きの爺が書いてたんだっけか。じいの奴、慌てて千切って渡したんだろうな」
黒く腫れた頬を引き攣らせるように苦笑して、ロヴェは「ああでも、」と熱に浮かされたようにぼんやりと言った。
「それなら、納得が行くな。……ったく、どいつもこいつも馬鹿ばっかだ。ガキはガキで居ても立ってもいられなくなって暴走するわ、あいつはあいつでちっとも他人に心を許さねぇわ、カーレンの馬鹿もいなくなるわ……」
「……何て言った?」
乾いた唇を湿らせ、ラヴファロウは呆然と聞き返した。
「いないよ、屋敷のどこにも」
ロヴェはさらりと返した。どこに彼がいたとしても、それが大した事ではないと言わんばかりに。
「今頃、きっと海の上だ」
そして――今にも走り出そうとしたラヴファロウに、言葉をかけた。
「慌てんなよ。昔からそうさ。真実に気付いた時なんて、いつも誰かが勝手に全てを始めてしまった後なんだからな」
肩越しに振り向いたラヴファロウが見たのは、小さく微笑むロヴェの姿だった。
「赤ん坊みたいな小娘に慰められるような、情けない親だけどな。俺ができるのは、雨に濡れて乾くまで、待つ事だけだ。せいぜい出来て、迎えに行くのが関の山ってな」
なぁ?
そう彼が問いかけた先には、息を切らせ、アラフルとベルの先頭に立って廊下に立ち尽くすエルニス・クェンシードの姿があった。
□■□■□
「どうすんのよ、ティアまで屋敷にいなかったじゃない!」
夜を裂いて、ドラゴンの怒声が空に響き渡った。
「やっぱりカーレン一人に任せたのが間違いだったわ……っていうか、あいつもあいつよ! 何でわざわざ連れてったのよ! 呪いかけられてる癖に何しようっていうのよあの子は!?」
『落ち着け、ベル。うるさいから』
背中に跨られた下でエルニスがなだめるが、彼女の狂乱は治まらない。
『放っとけ。ドラゴンの雌は心配性だと昔から決まってる』
言った本人は、横を飛ぶアラフルの背に白亜将軍と乗り合わせている。
ロヴェの言葉に、エルニスは小さく溜息を吐いた。
『……本当に間に合うのか』
「間に合う訳がないだろ」
放たれた言葉は素っ気なく、厳しかった。
「本来の力を取り戻した今のカーレンは、聖人エル=ドラゴンと互角に渡り合える。だが、それだけだ」
『……』
エルニスは、目を限りなく細めて前を見据えた。
「エルがカーレンを打ち負かす事はない。だが、カーレンはエルには勝てない」
『なら、ティアの呪いは。あいつはどうなるんだ』
んなの分かるか、とロヴェは吐き捨てた。
『なら、誰なら分かる。運命に任せろっていうのか? 神に祈れって?』
カーレンがどれだけのものを見つめ、向き合ってきたのかなど、エルニスは知らない。ベルですら、ほんの僅かしか知らない。ティアだけは、知っているのかもしれないが。
それでも分かる。カーレンにとって、少女がどれだけ譲れないものだったのかぐらい。
ウィルテナトでの長争いは、二人にとっては単なる強者を決めるための戦いではなかったのだから。
長争いはエルニスとカーレンにとって、捨てられなかったものを捨てるための儀式であったし、どれだけの強い意志で戦っているのか、相手の覚悟を試すための儀式でもあった。
そして――最後に打ち合った時、目が合ったその瞬間、互いの心が透き通るように見えたと思った。
見て、思った。彼は――やっと、望むものを掴めたのだ、と。
譲れない。あの娘(こ)だけは。
その意志は、確固として揺るがず、エルニスがまだ手に入れていなかったものだった。
だから。
自分は戦いには勝ったが、長として、守る者としての勝負には、あの時は確かに負けていたのだろうと、そう思う。
それだけの想いを捨てて、少女すらも手放して、望んだものを結局、何一つ得られない。
そうまでして果てへと突き進んで――その先で、彼は何を見ようというのだろう? そこで何を得ろと。それは誰かに強制されてか、それとも自分で選んだのか。
考えている内に、分からなくなった。
分からないのはロヴェも同じ。なのに、愚かな事を聞いているのだと知りながら、問いかけた。
誰に願えばいいのかと。
「……この世界には、運命は確かに存在するのかもしれない」
先の見えないエルニスの声に、ロヴェはそれでも、答えの前置きとして言葉を返した。
「だがこの世界には、俺やエルのような存在はいても、全てを支配する神はいない。神の座にあるのは、人が妄信する虚構だけだ」
かつて神獣とまで謳われたドラゴンは、自ら神を否定する。
だが、確かにそこに何かを滲ませていた。
「天に願うか? 人に願うか? 祈りがどこに届く。どんなに望んでも、結局自分の手で勝ち取らなければ俺たちは進めなかった――だが、ならなぜティアは願いを司った? 欲望も、純粋な望みも……全て、至るべき結末へ彼女は導いてしまう。それが見えるし、触れるからだ。そういう事だよ、エルニス・クェンシード」
ゆっくりと、子に教えこむかのように、優しく諭すような声だった。
こんな声も出せたのかと、エルニスは驚いて目を瞠る。
「分かっただろう。俺が。おまえが。ベリブンハントが。アラフルが。白亜の道化が。そして、カーレンが」
ずっと、道に惑う旅人たちが探していた――。
声が不自然に途切れた、その機微を察せたのはほとんど奇跡に近かった。
咄嗟にベルを振り落とした。悲鳴すら上げる暇なく宙に放り出された彼女を、初めから心得ていたようにアラフルが近づき、ロヴェがあっさりと回収した。
「自分の雌だろうが。大切に扱えよ」
溜息交じりにロヴェが呟き、軽く放心するベルを抱える傍ら、飛来する何かを伸ばした爪で叩き落とした。
会話に気を取られている暇はない。同じ何かがエルニスにも迫っていた。
旋回。
閃光。
激しくぶれる視界。ひゅんと空気を切って、エルニスの世界の隅をかすめるのは。
『氷……あいつかっ!』
攻撃の主を知って舌打ちした。
鋭く翼で螺旋を切る際、仰向けになった短い時間で頭上を見上げた。
丸い月。蒼い空で不気味なほど白く、大きく輝いている、その中央に。
影が浮かんでいた。
それは、月の光を反射して、とろりと青の魔力を纏い、銀に輝くドラゴン。
エルニスは苦い顔で、彼を睨みつけた。
この――。
自分たちは、急いでいるというのに。
(くそっ)
言葉にならない罵声を上げるよりも、エルニスは怒りに震え、重く、鋭く声を発した。
『何の真似だ――レダン!』
レダンの青いドラゴンアイが、静かに冷たい輝きでそれに応えた。
□■□■□
『……何の真似、か』
ぽつ、とレダンは独り言を漏らした。
空中に浮かび、静止したまま翼を僅かに広げる。
『そんな事、俺が一番聞きたいよ』
『……何だ、』
と、という音が紡がれる前に。
瞬く間に距離を詰めたレダンは、エルニスの空色の瞳を覗き込む。
『エルニス』
溜息交じりに尋ねた。
『俺は、どっちの願いを守ろうとしてるんだろうな』
息を詰める気配がした。
氷と炎が激突する。
爆発が起こり、衝撃でどちらも吹き飛ばされた。
双方がそこにいた事の名残りのように、極光が鮮やかに大気に浮かんで消える。
『願いって何だ――誰の願いだよ!』
『兄と、俺の寵姫の願いだ』
エルニスが再び息を呑む。
『知ってるのか!?』
叫ぶと同時に、振るわれた翼から輝きが零れた。
『知らないさ。けど、俺に分からない訳がないだろう』
空から落ちてきた流星の群れを、瞬時に前転して体表を使って弾き返す。
翻した身の影から、鎌鼬(かまいたち)を繰り出した。
『何であんたたちには分からないんだ? どうしてカーレンがエルを殺そうとしているのか……どうして、エルがティアを死なせようとするのか……シウォンが、セルが、彼がどうして、愛する家族を裏切ったのか』
淡々と、レダンは言葉を繋ぐ。
『それがなぜ、分からないんだ?』
『分かる訳がないだろう―― “炎華”! 』
炎が空を焦がした。
舌打ち交じりに避けて、レダンは目を細めた。
視界が銀の揺らめきを帯びる。
『っち……“氷華”!』
炎と氷の嵐と嵐がぶつかり合い、相殺される。
揺らめく大気の向こうに互いの顔を見つめ、レダンとエルニスは再び中空で相対した。
揺らぎが収まった次の瞬間、レダンは動く。
風を切り裂き、エルニスに身体ごと激突した。
耐えかねて吹き飛ぶ彼の体表の鱗を砕き、血が滲む皮膚に牙を突き立てる。
『っ……の!』
ぞっ、と殺気を感じ、背に灼熱の痛みを覚えた。一気に肩口から脇腹までを爪で引き裂かれる。
『っ!』
喉から苦痛の悲鳴を漏らし、激痛の中でエルニスに更に深く氷の爪を突き立てる。
『凍て付かせてやる!』
『やらせるか……っ!』
口から血を吐き出して、エルニスが更に牙を剥いた。
奇妙な熱の揺らぎを感じて、レダンは咄嗟に爪をエルニスに残したまま離脱した。
音を立てて、炎が大気を喰らった。
見れば、エルニスの全身の体表が空色に透き通り、灼熱の業火へと変じている。
『……炎の覇王、ね。轟炎と名乗るだけはある』
ちらりと、その場を離れる事なく上空に避難しているアラフルたちを眺めてから、エルニスに目を戻してレダンは牙を剥いた。
『時間がない』
ゆらり、と彼の周りから、明らかに質の違う炎が上がる。
離れていても伝わってくる焦熱が彼の本気を伝えていた。
『一度だけ言う。……どけ』
レダンは軽く息を呑み――、
『嫌だ』
はっきりと、拒絶した。
相手の空色の瞳の奥で、一瞬にして瞳孔が縮む。
同時に限界まで彼の内で力が収縮していくのが分かり、はっきりと怖気を感じた。
レダンもまた、彼と同じ存在のはずだというのに――片目だけで、これ。
自覚するかしないかでこれだけ違う。
レダンはまだ、
歴然とした力の差に笑ってしまう。
彼の灼熱の炎は、その熱さでレダンの持てる全ての力を弱めてしまうだろう。
――ならば。
焼かれた鉄のように、冷えてより黒く硬い鋼になろう。
レダンが
それでも退けない。
誓いを立てた。
寵姫から離れ、傍観者で在り続ける事を、レダンは選んだ。
自分はどちらの味方にもならない。その代わり、絶対に邪魔はさせないと。
(「ねぇ、レダン。そろそろ、我が儘を言っても良い頃だよ――君は、どうしたい?」)
胸の内に、自らの寵姫が別れ際、最後にかけた言葉が蘇る。
『……俺は。セル。君と、カーレンの、二人の邪魔をさせたくはない』
レダンは呟きながら、左の肩口へと右の鱗に覆われた前足を添える。
両者の間にあった空を喰らい。
純白にまで燃え上がった劫火を纏って、巨大な火のドラゴンと化したエルニスが、
目前にそれを見据えながら――、
筋を切り、皮膚を裂き、鱗を破り、両肘に生えた蒼銀の刃を振り上げた。
遠い北の地に居るだろう二人と、彼らが愛する少女のために。
『許してくれなんて言わない。俺にだって、譲れないものはある』
――たとえその有様が歪んでしまったとしても。
あそこで全てを終わらせようとしているのは、自分の“兄”で。
全てを消し去ろうとしているのは、自分の“弟”なのだから。
彼らにとっての最後の機会ぐらい、守ってやりたかった。
エルニスの炎と、レダンの刃が交差する。
二つの力が衝突し、両者の間で魔力が激しくせめぎ合った。
やがて、その場に留まれる力の総量が限界にまで達し、
二人の間で、光と共に力は爆散した。
□■□■□
セイラックは暗闇に包まれていた。
雲の彼方からは時折思い出したように遠雷が低く轟き、雪が不気味に呻る風に煽られて不規則に舞っている。
「……まだ、ましな方ね」
少なくとも、冬将軍の支配するセイラックで暮らしていた民族であるパヤックにとっては、特にひどい天候ではない。猛吹雪ではないのが不思議なくらいだった。
呟いたティアは、後ろを振り返って、背後に立っていたカーレンを見やった。
漆黒の衣を纏う彼は、半分闇と同化している。
声をかけるのが躊躇われるほど張りつめた芯を秘めているのに、ふとした瞬間に闇へと溶け去りそうな、そんな危うい気配が彼の周りには漂っていた。
「……カーレン」
呼ぶと、闇の中で紅く灯る二つの目がこちらを見やった。
「ルティスと、シリエルと。二匹と一緒にいろ。怖ければ、目を瞑って耳を塞いでいればいい」
ティアはしゃがみこんで、足元にすり寄ってくる二匹の魔物に顔を一瞬埋めた。
そうして、無表情にこちらを見下ろしているドラゴンを見上げる。
「……カーレン、」
「夜が明けるまでここを動くな。大丈夫だ……朝になったら、全て、終わっている」
ずくりと、胸が痛む。
不快な熱を持ち続けている呪いの刻印に触れながら、ティアは頷いた。
闇夜だというのに、不思議なほど世界が鮮明に見える。
足元の白い雪と『花びら』を散らしながら、黒い姿が少しずつ、セイラックの滅びた街へ向かって遠ざかっていく。
セイラックの街と、その傍を流れる川。二つを一度に見下ろす事ができる丘の上には、一面に禍々しい純白の花が雪の上に咲いていた。
穢れた大地だというのに、尚そこに根を降ろし、土の毒素を吸い上げて華凜に咲き誇るその花は、黒の森でも咲いていたパフィアの花と同じもの。
だが、白の美しさでは、圧倒的にセイラックの方が強烈で、故に、それの含む成分も強い。
病む者が時に癒される。万能を誇り、一眠りで快癒へ導く。
健常な者が時に命を奪われる。永久に覚めぬ眠りの闇へと、蜜は口にした者を誘う。
単に楽しい夢を見られる花ではない。ここでは人を無差別に生かして殺す、恐ろしい魔の花だ。
その効能が強烈だからこそ、邪なものを近づける事もない、聖なる花でもある。
花が持つその言葉は――『安息の眠り』『ほんの一欠片の』、『明暗を分かつ』。花がどのように人に捉えられていたか分かろうというものだった。
本当に――まるで神の気まぐれのように、この花は人を救う。
昔、流行病にかかり、ティアもそうしてこの花で救われた事があった。
弱り切ったティアのために、両親は命がけで花の蜜を口にした。その蜜が死を与えるのか、生を与えるのか。熟達した薬師でも見分ける事は不可能である上、それに頼らずに済むならそもそも別の薬を調合する。医者も薬師もその時近くで見つかる事はなく、ティアに残された時間は少なかった。
両親が蜜を口にし、迎えた結果は無残なものだった。
戻らない両親を近くに住んでいた者たちが探しに出て、ティアは誰も見ていない隙に、熱に浮かされながら外へと彷徨い出た。
母の温もりが恋しくて、父がいない事が寂しくて。
父母が消えたという山へと分け入り、そうして見つけた。冷たくなって折り重なるように倒れ、事切れた二人の姿を。
二人の手にしっかりと握られた、華凜に美しく咲いていた花を。
自分が病にかかっている事を忘れた。苦しんでいた事すら忘れていた。
身体がうまく動かなくて、必死にそれを動かして、両親を殺した花の蜜を、ティアは口に含んだ。
生きたかったのか、死にたかったのか、覚えていない。
そして、花は両親を嘲笑うように、ティアが患っていた病を癒した。
ティアを探していた大人たちに連れ戻され、静かになった家のベッドで目覚めた。
握っていた花を見て、自分が生きている事の意味を考えて――ティアは、それを手の中で握り潰した。
どんな皮肉なめぐり合わせだ。
親を殺した毒の蜜は、自分を殺す事はなかった。あまつさえ、生かしたなどと。
思いつく限り、運命を呪い、神を呪い、今まで使った事もなかったような、幼さに似合わない暴言を吐いた。
哭いて、泣いて、泣き疲れて、生きてやろうと思う気も失せた。
花を恨んでも、誰も帰ってこない。もっと世界に嘲笑われるだけだ。憎む事も面倒だった。
祖母と暮らし、祖母を送り。
独りになって、そして生きた。独りでいい、そう思った。何度も今いるこの丘に来て、何度も花の蜜を口にした。毒が傍らに居る誰かを殺すなら、誰も寄せ付けなければいいと、友達にも一線を引いた。
流されるように日々を生きて、けれど、カーレンが来て、その日常は崩れたのだ。
「……」
しゃがみこんだ体勢のまま、ティアは震える手を伸ばした。無造作に、近くに咲いていた花を摘んで、それを唇に押し当てた。
『主』
『ティアさん』
驚き、責め咎めるような小さな声が両脇から上がる。
――甘い。花から唇を離すと、ティアはぽつりと呟いた。
「……大丈夫よ。この花の蜜は、私を殺せないから」
むしろ、自分を極限にまで高める花だ。
ディレイアではパフィアの花についてティアが思い出す事はなかったが、記憶が戻った今となっては、この花が何をくれるのかは知り尽くしていた。
二人が死んでから、毎日のように、花を探して蜜を舐めたから。
ティアが思うに、蜜は人を選ぶのだと思う。強い毒になる事もあれば、薬となる事もある……賭け事のように馬鹿げた花だ。賭けに両親は負けて、自分は勝って生き残った。
「蜜でほんの少しだけど、呪いを和らげたの」
『…………まさか。もう、そこまで進行しているのか?』
シリエルが愕然と呟き、ルティスは瞳を細めて黙した。
ティアはそっと、花を握りしめた手を懐へと抱き込んだ。この手が震えていたのは、別に死の恐怖のせいでも何でもない。ドラゴンとなったカーレンの背に乗っている時から、既に手足の先の感覚がなかったのだ。
ここに着く頃には、もう、ろくに腕も動かせなくなっていた。
「ルティス、シリエル。お願いがあるの」
二匹の案じるような視線を頬に受けながら、ティアは闇の中、ひたすらにカーレンが消えて行ったセイラックの街を見つめていた。
「朝になったら、カーレンのところに連れて行って。たぶん、私……」
『ええ、分かっています』
ルティスが、ティアの言葉を遮るように低く囁いた。
『大丈夫ですよ。あの
言いかけた言葉を喉の奥に押し込む。
『……ありがとう』
代わりに、礼を口にした。
力の入らない足で雪の上にへたり込むと、ティアは彼らの寒さを感じさせない毛皮に覆われた体躯に、二匹の体温を感じながら、疲れた身体を預けた。