Dragon Eye

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第一篇 - 六章 『世界に刻む』

-1- ドラゴンは眠る

「……おいおいおいおい。ずいぶん大勢だな。死体まで持って帰ってきたのか?」
 戻ってきた一同を眺め、開口一番にラヴファロウが言ったのはそんな言葉だった。

 オリフィアの王都より遥かに離れた場所――山間にある小さな町というより、こぢんまりとした集落の外れに、遊楽を目的としたスティルド家の別荘がある。使用人も合わせて百人程度は余裕で滞在できる屋敷だった。
 この辺りは美しい景観が多く、貴族や裕福な平民が訪れる事も少なくはないために、ラヴファロウの「やれ」の一言で普段は高級宿泊館としても経営されている。
 突然の主の訪問により、現在ラヴファロウの背後では、急遽、宿泊していた客やその荷物が他の施設へと運び出されているところだった。

「こいつら……生きてるんだよな?」
 レダン、セルにそれぞれ抱えられた、ぐったりと動く事のないカーレンとティアを指差して訊ねる。
「ああ。今は、二人とも寝てるだけだ」
「時々目を覚ましてるし、大丈夫」

 ――そんな屋敷の門前に現れた彼らは、はっきり言って、目立ちすぎた。
 穏やかで平和、しかも大国オリフィアの治世の下にある、戦乱からはほど遠い集落なのである。
 間違っても、魔物であったり、血塗れであったり、血を流していたり、ぼろぼろであったり、意識がなかったり――それを抱えて仁王立ちしたりしている者が、十一人と二匹も居て良い場所ではない。
 屋敷の客がじろじろとこちらを不躾な視線で見つめてくるが、そこに居合わせている一番まともな人物がラヴファロウ・スティルドその人であると知るなり、慌てて目を逸らす事が何度も繰り返されていた。
 居心地の悪そうな二人組の隣で、アラフルが静かに口を開いた。
「……白亜将軍」
「あん?」
「これは、言っておくがただの死体ではない」
「……ロヴェ・ラリアンだろ? 分かってるが」
 言って、アラフルの肩に担がれているドラゴンをじっと眺め、ラヴファロウは顎に手を当てて考えこむ。
 ティアとカーレン以上に生気のない様子。担がれるというよりも、腰を支点にして身体を二つに折り、抱える彼の肩から垂れ下がっているように見える。
 下手をすると、この場に居合わせている誰よりも怪我の状態がひどかった。
 蝋燭並みに青白い肌や、左胸の貫通した傷といい、どう見ても生きているようには思えないのだが。
 思案しながら、顎から頭へ手は移動する。
 目の前に垂れてきた髪をかき上げて、呟いた。
「あー……まぁ、そういう事にしておこう」
 頭から手を放し、親指で背後の屋敷を示した。
「とりあえずは――諸事情は中でお聞かせ願おうか」

□■□■□

 一つの部屋に三つベッドを運び入れるように命じて、ラヴファロウはそこを急ごしらえの病室とした。

「全く、最近は怪我人の治療が多いですね……本職は執事なんですが。給金を上げて下さいよ」
「春が来るまでに考えといてやるよ。さっさと行け」

 ぼやくマリフラオを病室に蹴り入れた後、ティーセットを持たせた緊張した面持ちの小姓を引き連れ、残りの面々を待たせている隣室へと向かった。

「待たせたな」
「いや、構わん……時間をくれてよかった」
 ノックもなしにドアを開けると、やはり予想通りというべきだろうか。全員が思い思いの場所で、疲労困憊した様子で潰れていた。
 入り口で固まった小姓の背を叩いて中へ入らせる。
 自分はそのままずかずかと歩いていき、ソファに沈み込んでいるアラフルの正面に、テーブルを挟んで腰かけた。
「で? ありゃ一体どういうこった?」
 前置きをする暇すら惜しい。
 ベッドに横たえた面々からして事態が異常だ。一刻も早く説明が欲しかった。
「どういったもこういったもない……ああいう結果に終わった」
 手で顔を覆って天井を仰いだまま、アラフルは呻く。
「二日前の話だ。ハルオマンドからこちらに来るのが遅くなったのも、あの寵姫とドラゴンが原因とだけ言っておこう」
「ティアとカーレンがどうかしたのか」
「……カーレンがな。実の父親を手にかけたという事で……あと一歩といった所で、最後の力を振り絞ってティア・フレイスが踏ん張ってくれた」
 言葉の端々から察して、ラヴファロウは嘆息した。
「……狂いかけた、か。なるほど」
 ディレイアに彼らが発つ寸前、セルから彼が推測した今のカーレンに至る背景を聞いている。
 時折カーレンが感情を昂らせると、恐ろしく精神の均衡を崩すのは今に始まった事ではない。理由を聞いて納得すると同時に、下手に同情する事すら躊躇われた。
「ここに来るまでに三日もかかったのは?」
「……エルニスが潰れた。一度死にかけた所を無理矢理に戦ったせいだ」
 それで、彼がロヴェ・ラリアンに負けず劣らず血塗れだったのだ。
 アラフルの話を一つ聞くごとに、ディレイアでの戦いが当人たちにとってどれほど過酷だったかを思い知らされ、ラヴファロウはしばらく閉口した。
「かといって、さすがにベリブンハント一人にあれだけの人数を運んでもらう訳にもいかんからな。それに、全員が休息を必要としていた。尚更こちらに向かうべきだと思ったが、それでも無理をさせたくなかった」
「……よほどの事だった、って訳か」
 動けない者を四人も抱えていたという状況に、確かにと頷いた。
 ドラゴンがその巨体で運べる人数は、多いようで実は少ない。
 一族によっても違うという話だが、クェンシードは総合的に極めて戦闘に長けた一族であるため、細身なのだという。
 もともとクェンシードと体格が変わらないカーレンやレダンでも、乗せて三人程度。
 エリックの途中からの説明によると、それ以上乗せて飛べない事もないが、乗る方にも技術がいるらしい。ルヴァンザムは除外しても、元からドラゴンであるロヴェと、乗馬の経験を生かしたエリックとで二人ずつが限界だったと言われた。
 ベルもまたルヴァンザムに手ひどく痛めつけられていたという。アラフルの言うように、本当に下手に無理をさせる訳にもいかなかったのだろう。
 全員を休ませている間に、炎塔の残党はアラフルとルティスとで近隣の町の近くへと送り、二日経ってエルニスがどうにか回復したため、やっと出発を決めたらしい。
 ロヴェからブレインが離れたがらないなどの理由も考慮した結果、二人にはアラフルが付き、エリックはサシャに、セルはティアとその使い魔に下されたシリエル、レダンはカーレンとルティスに、という具合にそれぞれが面倒を見たのだという。
 更に体力面での問題も考えて、ベルの背にはセルとエリックの組が乗り、アラフルはレダンと共にエルニスの背に乗ったようだった。
 当面の間に知っておかなければならない事はこれぐらいか、と考えていたラヴファロウは、更に疲れた顔をしたアラフルによって度肝を抜かれた。

「それと――ルヴァンザム・ラーニシェスが死亡した」
「――、」

 思わずカップの持ち手が指の間から滑り落ちた。

「…………誰がやった?」
 脳裏に浮かんだ言葉そのままに告げると、カーレンだ、と声が返ってくる。
「言っておくが、嘘偽りはない。冗談でもない」
 唖然とするラヴファロウに、アラフルは重ねた。
「……あの化け物をカーレンがそんなに簡単に仕留めたのか?」
「そうだ。しかも無抵抗だった――と言うにはいささか奇妙な箇所がいくつかありはするが、これで諸問題はほとんど片付いたと見ても良いだろうな。後は、ロヴェの事だけだ」
 動揺が収まらない。ラヴファロウは気を落ち着けようとカップを持ち直した。
「――ロヴェっていうと……、あいつは一体どうしたっていうんだよ。ポウノクロスでは俺を殺しかけた奴だろうが」
 言って、隣の部屋がある方の壁を一瞥する。
「紆余曲折は散々あったが、今のところは我々の側だ」
「……死んでるんだよな?」
「まだ死んでいない。その寸前の寸前というだけだ」
 という事は、相当に際どい意味合いで生きているのだろうか。
「シリエル・ファオライの話では、」
 ちらりと、奥でルティスと並んで床に座っている白い魔物をアラフルは示し、

「――目覚めるかどうかは分からないのだそうだ。ティアが命の奇跡の実現を果たしたのと、カーレンがロヴェを刺したのがほぼ同時だったらしい」

 納得して、ラヴファロウは上の空で頷いた。
 命の奇跡と死がぶつかりあったとしたら、そこには何も残らない。
 本人に戻る気も死ぬ気もなければ、それこそ永遠に目覚めないのかもしれない。

「ただ、良い兆候は見られる。少しずつだが、小さな傷の数が減っている。ドラゴンが持つ治癒能力の根幹――生命自体は、まだ活動しているという証拠だ」

「まぁ、それはそうだろうが。心臓をぶち抜いてる穴はどうなんだ? ドラゴンはあれでどうにか生きてる事もあるって聞くが、あそこまで傷だらけだと信憑性に欠けるぜ」
 肩をすくめると、そこなのだ、と嘆息された。
「一応、血の通り道は繋いだ。ブレイン坊に手伝わせて、できる限り身体の中の瘴気も取り除いた。後は、ひたすら手を尽くすしかなかろう」
「……」
 途方に暮れて、ラヴファロウは天井を仰ぐ。

「……マリフラオの給金を本気で上げてやる必要が出てきたな」





 そして――カーレンとティアの二人が目を覚ましたのは、その三日後だった。





□■□■□

「納得いかない」
「というより、したくない」

 病室に並ぶベッド二つから、同じ数だけの抗議の声が上がった。

 大いに不満そうに唇を尖らせる妹と、彼女と契約を交わすドラゴンに向かって、兄が思わずといったように苦笑する。
「仕方がないだろう? 二人とも病み上がりじゃないか」
 セルの返事に、ティアは更に眉を潜めた。
「手は自分で動かせるんだから、ごはんぐらい食べられるわよ」
「まぁそう言わずに。はい、あーん」
「……」
 目の前に差し出されたさじ一杯のスープからは、ほわほわと美味そうな匂いが漂ってくる。
 しかし、食べる為に味わう事が必至の屈辱感には、どんなに胃が空であっても、ティアとカーレンも閉口するしかない。
 食欲と矜持の戦いは数秒続いた。
 やがて、ティアは仕方なしに口を開ける。すかさず、セルが丁寧に冷ましてくれていたスープがそこへ流し込まれた。
 不本意な食べ方ではあったが、料理そのものは美味しい。それがさらに面白くない。
「ほら、カーレンも」
「……絶対に納得できない。ティアだけならともかく、何故私もなんだ。説明しろ、ベル」
「あんた、食べさせてもらったその口でよく言うわね……」
 呆れ顔で、ベルがぷらぷらと空のさじを揺らす。
「――いやぁ、私だって一応、二人の矜持については考えてあげてって言ったのよー? そしたら、ラヴファロウとエルニスが……」

「「『散々心配させた二人にはお仕置きが必要だ』って」」

「……それで参加するおまえたちもおまえたちだな」
 カーレンは顔を引きつらせて、そんな事を言った。
 どのような経緯があって、このように妙な共同戦線が実現したのかは不明だ。だが、大体は二人の言うような流れらしい。
 ティア自身は、エルニスが何だかんだで(くすぶ)っていたところに、ラヴファロウが面白がって今回の案を持ちかけたのではないかと思っていた。案外、あのドラゴンは口八丁で丸め込まれていそうだからだ。
 それが他人に手ずから食事を食べさせてもらうという内容なのは、全く不本意ではあったが。
 一人前に食事をする身としては、これほど恥ずかしい体験をさせられるなど、一体何の恨みがあるのだと言いたくなる。
「大体、絶対に兄さんやエルニスの方が怪我はひどかったはずなのよ。なのにどうして意識がなかっただけの私たちがこんな扱いになってるの?」
「君は偽体に取り込まれて心身共に衰弱していただろう? 最後にあんな無茶もした。その上、カーレンはまだ傷が塞がってもいなかったというのに、激戦を重ねたらしいね?」
 半眼でセルがカーレンを見やったので、ティアもつられて彼を見つめる。
 三人分の視線が頬に突き刺さるのを無視して、カーレンはベルから強引に奪ったスープを黙々と口に運んでいた。顔がしかめっ面であるところを見ると、相当に決まりが悪いらしい。
 質問に答えが返ってこないという沈黙を破ったのは、ドアがノックされる音だった。
「入るぞ」
「あ、エルニス」
 噂をすれば、だろうか。
 返事もろくに待たずに入ってきた彼の格好を見て、カーレンがしみじみと感想を漏らした。
「……似合わないな」
「言うな。自分でも分かってるよ」
 彼は普段のカーレン同様に黒い衣装を身につけているためか、ウィルテナトやポウノクロスで見た時の服装とはずいぶんと雰囲気が変わっている。上着に空色と翡翠に染め抜かれた二本の線が幾何学的な模様を描いて、ただ黒いだけの服をより品のある様子に見せていた。
 ただし、カーレンが評したのはそちらではなく、エルニスの右目を覆う眼帯の方だった。顔の半分をほとんど覆うほどに隠す部分が多いそれは、服と同じく黒布でできている。目の真上にあたる部分には、銀糸や小さな石を用いて細かい装飾が施されていた。
「ああ、ようやく包帯が取れたのね。……その下、どうなってる訳?」
「別に見てもあまり良いものじゃないぞ」
 面倒そうに答えたエルニスだったが、それでも律儀に後頭部に手をやった。
 結び目はあっさりと解けたらしく、彼の肩に眼帯は落ちて垂れ下がった。露になった右目を見て、その場にいた全員が思わず息を呑んだ。
 一番驚き、唖然とした表情を見せたのは、カーレンだった。

「……ドラゴンアイが、常時発動している? どういう事だ?」

「さぁな。自然発現しなかった反動か……今のところ、戻し方がよく分からない。消えもしないし、そのままになってるだけだ」
 答えたエルニスの右目が、ぴく、とやや引きつった。目の周りにはうっすらと桃色に真新しい傷跡が走っていて、これから一生、彼がその傷と付き合っていくのだという事実をティアに認識させる。
 ティアが見ているのに気付くと、エルニスは小さく微笑んだ。
「ま、名誉の傷と思っとく事にしたよ」
 言って肩をすくめると、意味あり気な視線をベルに送る。
 見つめられた本人は、おずおずと顔を背ける。かすかに頬に朱がさしているのを見て、ああ、と納得した。
「おめでとう、ベル」
「ああ、そういう事か。……良かったな、エルニス」

「「おまえら(あんたたち)何を言ってるんだ(のよ)!?」」

 面白いほどすぐに反応が返ってきた。
「大体カーレン、おまえはいつもこういう事には(にぶ)かっただろ!? 何で今回に限ってそうなるんだよ!」
「……いや、ティアが言うならそうだろうと思っただけなんだが」
「ああ……あんたたち、そういう関係になったの。いつから? やっぱりディレイアで何かあったのね」
「え!? ち、違うわよ、ベル! ちょっと、カーレンも何言ってるのよ!」
「わ、悪い」
 はぁ、と重く息を吐いて、ずっと事の成り行きを見ていたセルが肩を落とした。
「素直に謝る辺り、君もまだまだだね……」
「そう言うおまえは何なんだ」
「いいや、別に……?」
 嫌そうに言うカーレンと、呆れ顔のセルの会話に、エルニスが当然のように頷く。
「ああ、おまえももうちょっと学習しろ」
「おまえまで……」
 よってたかってカーレンが責められているその脇で、ティアはじっとセルに視線を注いでいた。
「? 何、ティアちゃん」
「兄さんって、そんなにそっちに詳しかったっけ?」

「……へ?」

「察しはいいけど、肝心な事に関してはど下手じゃなかった? ほら、自分で言ってたじゃない」
「ちょ、ちょっと、ティアちゃん」
 全員の面白がるような視線が、今度は彼に集中する。
 何かを言いかけてから口を噤み、再び、セルは肩を落とした。
「……あのね、僕だって一応男なんだから、改善しようと努力はするよ」
「そんなもの?」
「そんなもの!」
 それでも、あまり納得がいかない。
 憂鬱そうに溜息をつく彼を見つめてから、ふーん、と適当に頷いた。

「……ねぇ、ところで。ロヴェの様子はどうだったの、エルニス?」

 ティアとカーレンが目覚めて間もなく、二人は彼とは別の部屋に移された。現在は、マリフラオが付きっ切りでロヴェを看ているらしい。
「っと、そうだ、その事もあったな。おまえが最初に話を逸らしたからだぞ、カーレン」
「似合わないものを似合わないと言って何が悪いんだ」
 先ほどの食事に関しての恨みがまだ消えていなかったらしく、カーレンが意地悪くも、にやりと笑った。
 それを見て、エルニスが虚を突かれたような顔になった。
「何だ?」
「いや……おまえ、何だか……性格が変わってないか?」
「別にこれが普通だろう」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 そこでティアも気付いた。
 話し方は以前のままだが、ディレイアから戻ってきてから、表情や仕草がどことなくロヴェに似ている――ような気がする。
 過去のカーレン・ラリアンと現在のカーレン・クェンシードが、うまく混じりあった結果、という事なのだろうか。
「いや、絶対に腹の立つ性格になってきている。間違いない」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
「気のせいだ」
「あ〜〜もう。はい、二人ともそこまで。……で?」
 ベルに制され、エルニスはカーレンを睨んだまま唸った。
「……変わってない」
 吐き捨てて、うんざりしたように頭を振る。
 それから、何故か、言いにくそうな顔をした。
「……ただ」
「ただ?」
 何か変化があったのか、とカーレンが目を僅かに見開く。
 エルニスはしばらく思案顔でじっと彼と目を合わせていたが、
「ああ――やっぱり、言うよりも行って実際に見た方が早いな。歩けるか、カーレン」
「それは、大丈夫だが」
 怪訝な顔をしながらも、カーレンは頷いた。
「なら、来い」
「……それほど説明できない事なのか?」
 背を向けて部屋を出て行こうとしていたエルニスは、足を止めた。
「……いいから。黙って来い」
 カーレンがどうするのか見ていると、こちらに問いかけるような目を向けてきた。
 小さく首を縦に振ると、頷き返して、ベッドから降りて立ち上がる。
 部屋を出て行くカーレンを見送ってから、セルの顔を振り返った。
「私も行って来ても良い?」
「構わないよ。僕も一緒に行くかな……ベルはどうするんだい?」
「そうね……私も行こうかしら」
「じゃ、私たちも行きましょう」
 セルとベルの手を借り、ティアもベッドから降りて、ロヴェが臥せっている部屋へと向かった。

□■□■□

 はっきり言ってしまえば、ロヴェの見た目はそんなに変わっていない。起きたばかりのティアが、半分恐慌に陥っていたカーレンと共にロヴェの前に連れて来られた時よりは、巻かれている包帯の量がやや減っている程度だ。
 先に部屋に入っていたエルニスとカーレンに続いて中に入るなり、ティアはそれだけしか思わなかった。
 だが、エルニスはロヴェに歩み寄ると、カーレンに向かって、黙ってその手を示した。
「握ってみろ」
 カーレンはちらりと疑うような目でエルニスを見たが、何も言わずに言われた通りにする。
 かけられた毛布の下から、まるで血の通っていない白い手を取り出して、そっと彼は両手で包み込んだ。ロヴェの眠る顔を見つめるその表情は、見ているこちらが目を逸らしたくなるほどに痛々しさに満ちている。
 そのまま、数秒が経過する。何も変わった事は起こらないように見えた。
「……?」
 しかし、カーレンが眉を潜めた。次第に、その顔は驚愕の色に染まっていく。
「っ――これは?」
 ティアの背後でも、二つの息を呑む気配がした。
 紛れもなく、『何か』が起きた事は、ティアたちの目にも明らかだった。

「――握り返しただろ?」

 エルニスが静かに問いかける。
「……ぁ、あ」
 声を出すのがやっとという様子で、カーレンはぎこちない動きで、何度も頷いた。
 確かに、そうだった。
 カーレンが手に触れてから、幾分か間はあったものの――ロヴェが、手に力を込めたのだ。
 まるで、向けられた心に応えるかのように。
「……つまり、快方に向かっている、という事でいいのかな?」
 低く落ち着いた声で、セルが問いかける。
「まだどうとも言えないが。一応、良い兆候と言ってもいいんだろうな……」
 言葉とは裏腹に、どういう訳か、エルニスの表情は晴れない。
 ティアがきょとんと彼を見ていると、セルが後ろから袖を引っ張ってきた。
「とりあえず、しばらくはそっとして置いてあげようよ。せっかく君もベッドから出たんだから、別の場所に行こう。実はこの間、ちょっとした場所を見つけたんだ」
「ちょっとした場所?」
「来てみれば分かるよ。ほら、おいで」
 手を引かれて、カーレンを一度振り返ったが、そっとセルに導かれるままに部屋を出た。ベルも何やら興味がありそうだったが、ついては来なかった。
 セルはもうずいぶんとこの屋敷を知り尽くしているようで、屋敷の中を迷った様子もなく歩いていく。
 客室として使用されているいくつもの部屋の前を通り抜け、正面玄関の階段を下って、そのまま階段裏にあったアーチのような通路を潜り抜けた。
 まるで秘められた場所へ続く道のようだ、と思ったが、それはあながち外れでもなかったらしい。

 通路の終わりに辿り着くと、そこに広がっていた空間に、ティアはしばし、立ち尽くした。

「これって……」
「そう。教会」
 脇を幾つも並ぶ長い木のベンチに挟まれて、深い紫の毛足の長い絨毯が中央の通路には引かれていた。その先には、眩いほど白いエルドラゴンの像がある。
 ――かつて救世を望み、成し遂げたルヴァンザムの姿が。
「……初め、ここに来た時にね。すごく、悔しくなったんだ」
「え?」
「何で、『彼』はあんな風にしかなれなかったのかなって」
 誰の事を言っているのかは、すぐにティアにも分かった。
「ねぇ、ティアちゃん」
 セルは像を見上げたまま、振り向く事なく言った。それでも今、彼がどんな顔をしているのかくらいは、ティアにも想像がついた。
 ただ、それは今までのセルの態度からしてみれば、とても信じられない事でもあったのだが。


「僕にはどうしても、あいつが死んだなんて信じる事ができないんだよ」


 きっと今――、
 それでも間違いなく、兄は、悲しそうな顔をしているのだろう。


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