Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-14- 幽幻に願う

 思い切り、水面に叩きつけられたからだろうか。背中がひどく痛かった。
 顔をしかめ、薄っすらと目を開けると、なぜか溜息のような音が頭上から聞こえた。

『――お目覚めか?』

 瞬きをして、目に感じたごろごろとする違和感にアラフルは眉根を寄せた。まつ毛が弾いていた水滴が目の中に入ったらしい。
 痛む胸で呼吸をすると、やれやれ、と、生きている事への感嘆の息よりも、嘆息の方が先に出て行ってしまった。
 何度か余計に瞬きをして水を涙に馴染ませると、ようやく視界が定まった。眼前には、覗き込んできている黒狼――ルリエン・ティウスの巨大な鼻面がある。
「――や、おまえか」
 どうにか身体を起こすと、途端に全身から蘇った痛覚にしばし呻いた。
「……一応、湖に沈められるかもしれんとは思っていたのでな。いや、あらかじめ受け身を取っていて正解だった」
 長い間隔を開けて答えを返すと、アラフルはにやりと、それでも凄絶に笑ってみせる。

「一番必要な情報は手に入れた。おかげで今回だけは、奴が思い描くよりはマシな結末にできそうだ」

『……おまえがそう言うからには、何かしらの手段は思いついていると考えていいのだろうな?』
「ふむ、さて。ティア・フレイスを救い出すには少々困った事態になっている事は確かだ」
 ティアを精神の崩壊から救うのに一番役割的にも適していたはずのカーレンは、怒りに我を見失ってほぼ暴走状態にある。ルヴァンザムと今も激戦を繰り広げているだろう事は容易に想像できた。
 そして、そこを引っ掻き回して、更に輪をかけて事態をややこしくしているのが、ティアが囚われているあの偽体のドラゴンの存在なのだ。
(それが頭が痛くなる原因だ)
 心中でぼやく。
 脂汗の滲む額を拭うと、重く詰まったような眉間の感覚を消そうと、指先で揉みほぐした。
「彼女の精神は偽体のように堕ちてはいないが、完全に膠着状態。カーレンとルヴァンザム、どちらに対しても攻撃を仕掛けているからな……。しかも、<覇王(ドラゴン)>同士の戦いと来られると、巻き込まれないので精一杯だろう」
『……おまえやロヴェ以外では、やはり無理がある、か』
 アラフルは頷いた。
「だがあそこまで消耗していれば、例え戦いに介入できたとしてもルヴァンザムを殺す事はおろか、二人の攻撃をかいくぐってティアに干渉する事もロヴェには不可能だろう。……同じ<覇王(ドラゴン)>であるレダンやセルには、あの二人はいささか以上に荷が重い」
『理解しておらんようだな。だから彼はディレイアに再び向かったのだろう?』
 さらりと、ルリエンは毛並みを舐めつつ、横目でこちらを眺めて言った。
『おまえが切り捨てた可能性を拾うためにだ。――もう少し頭を働かせれば、答えに辿り着きそうなものを』
 その言葉に、アラフルは視線を地面から漆黒の始祖へと戻した。
「…………切り捨てた?」
 ルリエンは答えず、辺りには沈黙が落ちた。

 ――途端に、今までさほど気にならなかった音が、アラフルの耳に届いた。

 振り向くと、聞こえてくるのは静寂の向こうに轟く破壊の音ではなく、近くの呻き声だった。
 炎塔の者と思わしき人間たちが何十人と、木々に隠されるようにして岸辺のそこかしこに横たわっている。おそらくはカーレンの攻撃で負傷した者が大半なのだろう。
 だが、そこで違和感を覚えた。
(待て……誰が、彼らをここに運んできた?)
 ルリエンが運んできたとは思えない。周囲にいたブラルがわざわざ往復をして運ぶにも、人数が多すぎる気がした。まるで彼らが誰かに一方的に運ばれてきて、やってきた者から順に適当に転がされているような、そんな印象さえ覚える光景に、アラフルは一瞬混乱する。
 だが――逆に、本当にその通りだとすれば。そんな事が可能で、しかも実際に実行し得る存在は、ここには一人しかいない。
 そもそも、どうしてロヴェ・ラリアンがこの人間たちを救うのか。
 いや、単に助けただけかもしれない。切り捨てた可能性。そのついでに、気まぐれのように?
 それでも、人間たちが居るのは、今までの状況から考えても、ディレイアの地上、しかも瓦礫と化した場所としか考えられない。
 たとえ塔などにいたとしても、叩き落とされるようにして落ちてきているのだろうから。
 ……いや、待て。
 叩き落とされる?
「――っ!?」
 まさか、と呻いた。

 疑問という疑問の答えの断片が合わさって、とある一つの形を成した。

 アラフルの脳裏を過ぎった仮説を裏付けるように、その時、ディレイアから巨大な魔力の胎動を感じた。
 振り向いた先に、崖の上から放たれた、空色の明るい光が飛び込んでくる。
 ぽかんとしばらくその様を眺めていたが、

「は、はは……ははははははっ!」

 不意に笑えてきて、肩から力が抜けた。
「そ、うか。そういうつもりか……」
 くっくっとまだいくらか身体を震わせてから、喜びを押し隠せない声で納得した事を口にする。
「――なるほど、確かに。把握したぞ、ルリエン・ティウス」

 ――ロヴェは、静観していたのではない。

 本体である自分が動くべき時を、見極めていたのだ。
 気付いてみれば何という事はない。彼が取るべき行動は、ここまで来れば――いや、最初から一つしかなかったのだから。
 その道を潰して、新しい選択肢を作るには、あまりにも難題が多い。
 だがしかし、『まだ救える』という事実が、新たな光をアラフルに見出させてくれていた。
「っと――そういえば、まだ聞いていなかったな」
 だからこそ、背後に控えている始祖へと問いかける。
「なぜ、三百年もカーレンを見守り続けたおまえがここに戻ってきた上に、未だにほとんど何の干渉もしていないのかについて、だが」
『決まっているだろう。本人からティア・フレイスを頼むと言われたからだ』
 予想通りの答えに、アラフルは口の端を吊り上げた。
「……なら、ティアのためになる者なら、誰でも救うという訳か」
『そうなるな』
 屁理屈にも聞こえるが、彼は、そうやってとぼける。
 ロヴェと共に行動する事を選んだもの、全てティアのため。彼女の心身を守るためなら、それを損なう要素は彼が排除していくはずだ。それが、彼女にとって大きな割合を占める者なら尚更の事。
 むしろ先の先まで読んでいたこの始祖こそが、真に恐れるべき相手なのかもしれない。
 心地よい戦慄が背中に走るのを感じながら、アラフルは疲弊していた身体の奥底から、残っていた力を搾り出して立ち上がった。
「手伝え、ルリエン・ティウス。――ロヴェに死なれると、あの娘が傷つきそうでな。後々息子に首を絞められかねん」
『……そう言うと思っていたのでな。あらかじめ準備は済んでいる』
 一見つまらなさそうに、しかし声には多分に可笑しさを含んで、ルリエンは呼んだ。
『行くぞ。シリエル、準備はいいか』
『今終わった』
「!?」
 意外な名に驚愕して振り向くと、森へと続く黒い木立の間に、ぽつりと、白い小さな染みがあった。

『が――待ちくたびれた。これ以上待たせるなら、裂き殺そうかと思っていたところだぞ』

 くぁ、と気だるそうに欠伸をしたかと思うと、白い染みは見る間に巨大化し、あっという間にそれの身の丈はアラフルの背の五倍にまで達した。
 神々しい輝きを毛並みより放つ、純白の狐がそこに現れていた。
『幻影ばかりが彼女の得意技ではない事ぐらい、貴公も知っているだろう? アラフル』
 にや、と牙を剥いてルリエンは笑った。不本意そうな様子の彼女とは、実に対照的な表情で。

『シリエル・ファオライ――数百年の森を育てるのだ。命の奇跡を息吹に変える事ほど、彼女に容易い事はない』

□■□■□

『 ねぇ、ねぇ、旅人さん! 怪我が治るまでここにいたら? 』
『 ……必要ない。纏わりつくな。足を放せ 』
『 でも……でも、もうすぐ吹雪になるよ? 今出て行ったら、あっという間に凍えちゃう 』
『 助けてもらわなかった場合と同じだ。特に変わりはしないだろう 』
『 そんな。死んじゃうんだよ? もう二度と動かないんだよ? 何も分からなくなっちゃうんだよ? 』
『 今と同じだ。死のうが生きようが、私には大差ない――いい加減に放せ 』
『 っ……、わたしの、お父さんと、お母さん。冬の、山で。命を落としても、拾えなかったんだよ? 』
『 ―― 』
『 どうして簡単に捨てちゃうの? せっかく、失くさずにすんだのに 』
『 ……放せ 』

 背ける寸前に見えたのは、苦しそうな顔だった。
 そのまま足を放せずにいると、溜息をつく音がした。

『 ……動けないだろう。戻る邪魔だ 』

 苦々しい声にきょとんとしていると、そのままひょいと抱えられて、わぁわぁ叫んだ事は未だに鮮明に覚えている。

『 ねぇ、旅人さん。お名前は? 』
『 必要ない。どうせすぐに出て行く 』
『 あのね、わたしティアって言うんだけどね 』
『 おまえ……人の話を聞いているのか? 』
『 あ、ルティスちゃんは教えてくれたんだけど。マスターさんっていうの? 』
『 ……勝手にあいつと関わるな 』
『 教えてくれないの? しばらく一緒でしょ 』

 ぷう、と頬を膨らませる。
 呆れた目を向けられたけど、何とか負けずに頑張って。涙もちょっと滲んだけど。
 やがて、また溜息がひとつ。

『 ――カーレン 』
『 カーレンさん! 』
『 さん付けでなくていい 』
『 うん、カーレン 』
『 ……しつこい 』

 けれどもそうやって、歩み寄りという最初の一歩を自分たちはお互いに踏み出した。

 まだ互いの名前も知らない内にした、無茶苦茶な押し問答。
 それでも、何とか彼が逃げないように捕まえて、距離を縮めた。

 半分やけくそ気味になっていたのだと気付いたのは、それから、結構経ってからだ。

 そんなこんなで――彼との距離が近いようで遠かった事は、何度もあった。
 隣に座って、どこか遠くを見ていた彼が、本当にここにいるのだろうかと疑念を抱いた時もあった。
 つい最近で挙げるとするなら、ポウノクロスの時だろうか。あの時だって、何も言われずに、何が起こっているのかも分からないまま、心の距離が近くなったと思っていたら、急に遠くなっていった。
 逆に一番近いと思えたのは、自分に出会う以前の彼を知った時、だったのかもしれない。

 ぽつり、ぽつりと。
 今は亡い国で、彼が零したひとつひとつ。故郷にも滅多に戻らずに、人の間で当て所もなく過ごした、三百年の時の記憶。ひとつ何かを得るたびに、ひとつ何かを失って、結局何も残らなかったのだと、何でもなさそうに彼は言った。
 何でもない訳がない。たまにそんな話をした時、彼の横顔はいつも暗かった。
 そうして時を経ていく内に、彼が大切なものを失っていたと気付くのに、時間はほとんどかからなかった。

 だから、ティア・フレイスは拾い始めた。

 彼が失くしたものを探して、見つけて、彼の心に降り積もった雪の中から、そっと拾い上げていった。
 例えば、笑顔を。例えば、驚きを。怒りも、悲しみも、喜びも。彼が捨ててきたものを集めて、彼の手の中に戻した時、ふと顔を上げて――、

 静かにその頬を流れる涙を見た。

 どうして泣いたのか、彼にも分からなかったらしい。
 きっと失くしていた事を知らなかったのだろう。たくさん失くしてきた事に気付いて、それを取り戻してみて、初めて何かを思ったのだ。

『 あのね、カーレン。やっと取り戻せたんだもの。もう失くさないように、大切なことを教えてあげる 』

 項垂れていた彼の頭に投げかけた言葉は、自分にも向けた言葉だった。

『 ――人と一緒にいる事を怖がっちゃ駄目。怖がって手を伸ばさなかったら、欲しいものは何も手に入らないわ 』

 私もそう。言って微笑むと、何故だか分からないけれど、とても強い力で抱かれていた。
 泣いて掠れた声が、小さく耳元で、ありがとう、と聞こえた気がした。


『――なるほど。それが、貴様と奴との始まりか』


 薄れゆく意識の中で、記憶の流れを感じていたティアは、ふとそんな声に目を覚ました。
(……誰?)
『私だ。人間』
 どこか聞き覚えのある呼び方に、あれ、と目を丸くする。
(……シリエル?)
『気安く呼ぶなと言っただろう……まぁいい。今回は時間もない。許してやろう』
 相変わらずどこか不遜な態度の声だが、どこから聞こえてくるのか全く分からない。
 闇の中を見回したが、白い狐のそれらしき影はどこにも見当たらなかった。
『私の姿を探しても意味はない。……聞け』
 呆れた様子で、彼女の声が再び響く。
『ニーフェの本質は幽幻の奇跡だ――この世界で最も不確かなものを、あたかも確かなものであるように見せかける幻』
 しかし、と声は続く。
『命の流れを息吹と成す私と、失くしたものを取り戻したおまえならば。奇跡を、現実にできる』
(奇跡を……現実に?)
『そうだ』
 どこかで、彼女の紅い瞳が細まったような気がした。
『言え、人間』
 言葉と共に、砕けていた自分の身体――精神が、どこかと繋がったような気がした。
『貴様の願い、望みを世界へ穿て。そのドラゴンアイは、ドラゴン自体は“破滅”を強く司るが――おまえの力はもう一方の、神獣より彼の者に受け継がれた力を強く指し示している』
(でも……私には、奇跡は起こせない)

『――何を言っているのだ、このうつけ! それでも“願い”のドラゴンアイを宿す者か!?』

(っ!?)
 横っ面を叩かれたような衝撃が走った。
 痛みは感じなかったものの、しばらくその場で呆然とする。
『寵姫として契約を交わした彼のドラゴン、アレは貴様と出会った当時、心を死なせていた。それを取り戻して欲しいと願い、僅かな力と言葉ながらも見事に蘇らせたのは他ならぬ貴様だ、愚鈍娘が』
 いらいらと音が聞こえそうなほど危険な怒気を孕んだ声で指摘がされる。間に時折入る中傷がぐさりと痛い所に突き刺さるが、それよりも過去を読まれていた事の方に愕然としていた。
『理性のない状態であれだけ潜在意識を駄々漏れにすれば嫌でも読まされるというものだ。あの傲慢狼が言った通り、貴様は恐ろしく他者に働きかける力が強い』
 真正面から圧迫感を感じた。相変わらず何も見えないというのに、顔をずいと近づけられたのだと何となく分かった。
『奇跡は起こせぬと諦めながら、貴様はそれでも願っているだろう。ロヴェを死なせれば、カーレン・クェンシードをみすみす死に追いやるだけ。いや、あの愚か者は息子を死なせぬために貴様も犠牲にする覚悟だ。ただの母親以上に愛と救済に狂い果てている彼奴の心が分からぬのか、人間。貴様はあのドラゴンに利用されたのだぞ』
(…………ええ)
 ティアは、首を振った。
(分かっていたわ)
 闇の向こうで更に相手の怒りが増したように感じたが、ティアはそれを目で制した。
(カーレンを救ってやれと、ロヴェは私の背中を押したけれど……それはあくまで、例え彼のために死んだとしても、私自身が後悔しないため。偽体の中に取り込まれてから、彼が何をしたかったのかは分かった。でも、それ以前の私でも、きっとこうする事を――カーレンを救うって事を、選んでいたと思う)
『……それが、貴様の願いだと?』
 静かに押し殺した声で、シリエルが聞いた。
 問われたティアは自分の心の中を探したが、それでも、迷いはどこにもなかった。
(ええ。でも、少し違う。きっと私は、誰にも嘆いてほしくない)
 何故、と声が返ってくる。
 一瞬だけ考えると、ティアは心のままに告げた。
(嘆いていたら、見つけられない。罪の重さに、救えなかった辛さに、押し潰されたら分からなくなる。どこかにあるはずの、求めていた道すらも見えなくなる……私は、小さい時にそう知ったし、教えられた)
 言ってから、少しだけティアはシリエルが居るだろう場所に向かって微笑んだ。
(でも、あなたってやっぱり優しいのね)
『――何がだ』
(一度しか会わなかったのに、心配してここに来てくれた)
『うっ!? ……いや…………それは……うむ、その…………ぁー』
 答えの代わりに長い逡巡のような呟きが返ってきた。
 だがその中で、ティアはふと首を傾げた。
(そういえば……今さらなんだけど。どうしてここにいるの?)
 言った次の瞬間、はっと息を呑む音が聞こえた。
 更に一拍遅れて、目に見えて辺りが怒気を帯び、ギリギリと闇の向こうから何かが軋む不穏な音が聞こえた。……歯軋り、だろうか。
『始めにそれを貴様が聞けば私もここまで回りくどい話をせずに済んだのだ……この、間抜け』
(う……)
 聞けと言ったのはそちらではないか、という言葉はあえて呑んだ。
『……実際にしてみせた方が手っ取り早い。願いは先程のものではまだ抽象的過ぎる。もっと具体的に言え。用はそれからだ』
(……えっと、)
 具体的に。言うのは簡単だろうが、する方の労力はその比ではない。それでも、何とかティアは自分の中から答えを引きずり出そうとしていた。
 そう――誰にも嘆かないで欲しいと願い、それを本当にしたいのなら。自分がここから出る必要がある。
 けれど、ロヴェが死ななければ、ここから出る事は叶わない。しかし殺す事は論外だった。
 誰も示さなかった、けれどあったかもしれない道を見出すために、ティアはそっと、暗闇も見透かすドラゴンアイの瞼を開いた。

(……一つだけ、方法があるの)

 だが、それを成し遂げるための条件は、恐ろしくシビアだ。
 奇跡と呼ぶに見合うほどの何かが必要になる事は、おそらく必須。
 ――そして、今、この手に奇跡が握られているとするならば。
(私にしかできない。だからシリエル――命の奇跡を。一瞬の間、彼を立ち止まらせる。その一瞬で、私が救い出すから)
 闇の向こうで目が細まる。
『危険が付きまとうぞ。――何が前提となっているかも、分かっていよう』
 ティアは頷いた。

(……あなたを、使い魔にするのね)

 自分がどれだけ無謀な事をやろうとしているかは、十分に承知していた。
 未だかつて、一度しか前例のない事に、自分はこれから挑戦しようとしている。
 だが、不思議と躊躇いはない。
(使い魔として契約に必要なのは、何?)
『特別なものは必要ない。貴様と私の血を通わせ、その魂を繋げばよいだけ』
 言いながら、とうとう、闇の中から純白の魔物は現れた。
『ただし、私は幽幻の存在。精神において行われる契約では、最も下すのが困難な部類に入るだろう。……それでも恐れぬのだな。人間よ』
 ティアは小さく微笑んで、首を振る。
(恐れないんじゃない。これはね――、ただ、勇気なのよ)
『ふ』
 小さくその身体が可笑しがるように震えた。
『勇気、か。蛮勇だな。悪くはないが』
 皮肉気に笑い、シリエルは呟く。
『“強固な意志は時折、不可能をも可能にする――たとえそれが、勇気か絶望か、どちらであっても”……か』
(え?)
『いや、何でもない――始めよう』
 言われて、ティアはじっと自分の両手を見つめた。
 軽く拳を握り締めてから、やんわりと開く。片方を、兄やカーレンがそうしたように、鱗に覆われ、鋭い爪を備えたドラゴンのものへと変えていった。
 もう片方の生身の手に爪を押し当ててゆっくりと横に引くと、鋭い痛みと震えが走った。
 一瞬、鮮やかな肉の色を見せた場所から、じゅわりと血が溢れて手首から腕へと伝い落ちていく。
 痛みをしかめっ面でこらえながら、ティアはシリエルへ向かって血塗れになった手を差し出した。
 シリエルもまた、鋭い爪で自らの足の裏を引っ掻いて僅かに血を流す。
 一瞬だけティアとシリエルの目線が合わさった。
 傷ついた前足が、静かにティアの手の上に乗せられる。
 血が混じり合うのが分かった。
 今まで自分だと思っていた、確かで不確かで、絶対に崩れない何かが崩壊した。いや――偽体に取り込まれた時点で既に崩れかけていて、それでも最後の一線を保っていたものを、血の混ざりが突き崩したのだろう。
 自分が自分でなくなっていく、不思議で、恐ろしくて、奇妙な感覚を覚えた。
 ふと、カーレンとルティスはどうやって契約をしたのだろうと、どうでもいい疑問がティアの頭に浮かんだ。
 きっとこんな風に行われたのではなくて、更に大変な状況で契約を試みたのかもしれない。
 静かに自分がいなくなっていくような錯覚は、確かに怖い。
 今も、溶け合えない過去と今の狭間で、カーレンは苦しんでいるのだろう。少しだけ彼の気持ちが分かったような気がした。
 狂気に駆られ、惑う彼の元に行くためにも――戻って来なければならない。

 光が溢れた。


 混ざった血によって作り上げられた仮の繋がりを保ったまま、新しく、一からの繋がりをお互いの魂との間に作っていく。
 定まらない自分と相手の境界の間で、時に混じり、時に譲り合うように、ティアは想像以上の精神圧に顔を歪めながら、シリエルとの適当な距離を探した。

 ――見つからない。

 愕然とする想いすら、ティアを途方もない渦の中に呑みこませる危険なものとなる。
 しがみついていたものがどこか、一瞬分からなくなった、それが命取り。
 魂の奔流に呑まれ、自分があっという間に分からなくなった。

 ――嫌だ。
 ここで諦めたくなど、ない。
 藁にもすがる思いで、心の傍を掠めていく何かに、見えない手を伸ばした。

 掴んだそれに触れた瞬間、ティアの身体に温かいものが流れ込んだ。
 脳裏を、旅に出るまで、出てからの様々な光景が過ぎ去っていく。

 ティア、と声がする。
 たくさんの誰かが、自分の事を呼んでいた。

 いつも呑気で、無邪気な笑顔を向けてくれたセルの顔や、時折兄の飛ばす冗談で、腹を抱えて転がりまわっているブレインの姿が浮かんだ。

 仕方がないですね、と、主人に溜息ばかりつくルティスは、飄々とした顔をしているくせに、大抵叩くのは憎まれ口で、身体も黒なら腹まで黒いやつで。

 街道の近くで追っ手をやり過ごした時に聞こえた声――あれは、今思うとエリックだった。
 そういえばラヴファロウとは、初めて出会った時はカーレンに蹴り倒されていたっけ。

 森で出会ったのは、シリエル。遠目ながら、ロヴェとレダンの姿も見た。

 船の上で出会ったアラフルは、現れ方からして只者ではなかったような気がする。

 ウィルテナトでは――だめだ、エルニスと長争いの事もそうだが、風邪を引いた自分を看病してくれたベルの、べろべろに酔っ払った姿が強烈に印象に残っている。

 ポウノクロスの国の祭り。あそこでは、たくさんの事を考えた。

 自分の過去の事、カーレンの過去の事。セルもレダンもそう。

 エリックに会い、エリシアから知り、恐怖を覚えるほどの絶望を宿した人間――ルヴァンザムと出会って、ロヴェに教えられた事もいっぱいあった。

 失くした事を嘆き続け、進めずにいた自分の背中を、このディレイアで押してくれたのもロヴェだ。彼にはなぜだか、ずっと前から助けられてばかりのような気がするが。

 ――ほんの少しの短い間に、これだけ多くの道を歩いてきて、多くの顔を見てきた。

 ティアはそれらを引き寄せて、気付く。
 これも、今まで思い出していた過去の事も、全てが『自分』。
 そうと認識した瞬間に、自分の中のどこかで、すっと筋が通るような心地よい感じがした。
 十数年、生きただけ。旅に出たときは十三だったが、冬に入って、気付くともう十四歳になっている。
 けれど、それまで歩いてきた道を振り返った時、それはもう七年前から途切れているのではなく、ずっと、始まりの瞬間まで続いていた。


「――あ、れ?」

 気付くと、元の暗闇の中にいた。
 慌てて見回すと、小さな白い影が、宙から現れてすとんとティアの前に降り立った。
 見ると、町などでルティスがとる姿と同じ程度の大きさをした純白の狐が、そこに静かに座りこんで、優雅に尾を揺らしていた。
 と、その尾が震えて真っ直ぐに張り詰め、ぱさっと軽い音と共に十本に分かれたかと思うと、シリエルの背後で大きく膨らんでいった。そのまま静かに、彼女は尾を地面へと垂らした。身体に不釣合いな尻尾に囲まれ、まるで埋まっているように見える。
 シリエルは軽く身体の具合を確かめるように震えると、
『祝福する。契約は完結した』
 言って、悪戯っぽく軽い笑いを漏らした。
『――自分と相手の自我を溶かし、更にその中で再び形として自我を成す。自我が成ったその後にできる名残が繋がり。使い魔を得ようとする魔術師はなかなか、この理に気付かない』
 細められた目には、確かに優しさが秘められていた。
 白い狐は、優雅に首を垂れて、ティアに向かって足を折った。

『我、シリエル・ファオライ。この時より、契約主ティア・フレイスの意に従おう。――望みを、主』

 呆然としていたティアは、シリエルの言葉に我に帰る。
 じっと、主の命を待つ使い魔を見つめ――何度も決めた覚悟を、もう一度強く胸に秘めた。

「……ロヴェを、助けたいの。お願い、手伝って」

『……』
 シリエルはティアの言葉を噛み砕いて吟味するかのように、ゆっくり時間をかけて頭を上げた。
『……確かに。承知した』
 十の尾をふわりと揺らすと、彼女はティアに歩み寄ってくる。足元まで来たところで小さな身体が浮いて、胸ほどの高さでこちらを向いたまま止まった。
 何をする気なのかと、きょとんと見つめていると、呆れたように溜息がその鼻から漏れた。
『精神の世界より――現実の肉体に戻るがいい。幽幻である私と契約したのだ、狂いはもはや主を蝕む事はない』
 とん、と。
 鼻面で押されただけなのに、ぐらりとティアの身体が傾いて、闇に沈む。
「え? ……え!?」
 どこに落ちる場所が、と蒼ざめるティアに、
『ただし』
 シリエルがぼそりと言った。

『忘れるな。狂わなければ、主はほぼ自分の意思で取り込まれているアレを動かせるが。下手をすると、あの激戦の中で真っ先に――死ぬぞ』

 思考が止まる。
 ――死ぬ?

『主を取り込んだアレと、覇王(ドラゴン)が二人とで、三つ巴の戦いになっているらしいのでな。――ああ、ルリエンが呼んでいるのでそろそろ行く。……ではまた現実で、主』
 言って、シリエルは踵を返す。

 その背が見えなくなった時、ティアは、自分が強烈な力で何かに引き寄せられたのを感じた。


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