Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-12- 紅と赤

「……では、ロヴェは始めから、ルヴァンザムを殺すつもりだったという事か?」
 長い思考の末に、アラフルは確認するように呟いた。
 話し終えたエリックの脇で、サシャが頷く。
「まとめれば、そういう事になります」
「炎塔に従うドラゴンはやはり異質だとして、組織の中には彼を危険視をする者も居ましたが……ルヴァンザム様自身が、アレは害がないから放っておけと言われたのもあります。……確かに、その通りでした。彼は何もしなかった。ただ、事態をじっと見据えて、動くべき時を見計らっていたのだと、今から思えばそう感じるのです」
 眉を潜めつつも、エリックが見解を述べた。
 二人で目を合わせてから、お互いに少し俯くように足元へ視線を落としている。
 アラフルはその様子を見つめながら、思考は他の場所へと飛ばしていた。
(……ここに来て、見えてきた事もあったか)
 複雑な想いを唇に乗せ、静かにそれを噛み締める。
「ロヴェ・ラリアン……彼は、そのためだけに今まで生きてきたのか」
 一体どうして、ルヴァンザムと彼が行動を共にしていたのか。なぜ、死んだはずなのに生きているのか。そもそも、彼がどういった経緯で炎塔に入ったかどうかも、今まで、彼に関するほとんどが謎だった。
 ロヴェのここ数百年ほどの足取りを、アラフルは詳しくは知らない。しかし、彼が動く理由の一端を知った今、彼が何を思い、何を決めて、何のために闇の中を歩いていったのか。その道筋が、わずかに窺える程度の足跡を手がかりに、ぼんやりと浮かび上がってきていた。
「――あの、赤」
「うむ?」
 目線を上げると、サシャが不安そうに覗きこんできていた。
「……あれは」
 示した先には、銀と紅の激突がある。
「……翡翠を操られていた方は、大丈夫なのでしょうか?」
 助けに行かなくてもいいのか、と。
 言外に込められた意味を察し、先ほどそこへ飛び込んでいった光を思い出して、アラフルは眉間に深く皺を刻む。
 ――血の断罪の紅十字。受けて生き延びる事ができるのはドラゴンでもごく僅かだったあの魔術。それに加えて覇王(ドラゴン)としてのカーレンの攻撃と、偽体の死への呪いを籠めた屠殺の息。
 生きている可能性はないに等しい。たった一つ、あの現象が起こらない限りは。
「……例え私が赤だとしても、」
 ぽつりと呟いた言葉には、意識したつもりもなかったが、ひどく冷えた感情がこもっていた。
 サシャが震えるのを見ながら、アラフルは目を細める。
「行って、彼にしてやれる事は何もない。誰が去ろうと、戦いが終わるまで立ち止まる事は許されない。自分の力で這い上がるしか、生き延びる道はない。死ぬのならば、それが運命だという事」
「そんな、」
「サシャ」
 言いかけた少女の肩にエリックが手を置いた。彼は諭すようにじっと彼女の顔を見つめ、横に首を振った。
 アラフルは、長く嘆息した。
「残酷なようだが。これが事実。これが、現実だ。死ぬのならば死ね。生きるのならばその命を燃やせ。そうして踏み越えた者の声を、魂を背負え。――我々にはそうして、激動の時代を生きた過去がある」

 だから、と、目を伏せた。

「彼らもまた、よくぞあそこまで自身を保ち続けたものだと。切にそう思う。あの男も、ロヴェも、最も激しく、厳しく、険しい道を強いられた者たちの一人だった。二人は長き旅の終わりにはまだ至っていない。辿り着くまで、きっと様々なものを抱えて沈んでいくだろうとは思っていた」
 エリックの碧い目が、静かにアラフルを見た。
「……あなたもまた、そうなのですか?」
「私かね? ……だんだん、自分の中に矛盾を見つけてしまってなぁ。素直にならざるを得ず、それに気づいた時に戦い続ける事をやめたさ。だから、先ほど言った事も事実だが――」
 間違っているのもまた事実だ、という言葉を飲み込み、アラフルは自嘲した。間違っているのなら、助けに行かない自分は何だ、と。
 だが、既にエルニスの生存は絶望的なのだ。言ったとおり、何も彼にしてやれる事はない。
「私は彼らと旅を共にしたが、沈む事はできなかった。先見の目を同じように持っていたとしても、その未来を良しとして受け入れるほど、私は運命に対して殊勝でもなかったのでな」
 突き上げた指は、真っ直ぐに天を目指す。濃紺の魔力を帯びた風が一瞬、アラフルを中心に吹き荒れて、球状の力場を作った。
「私も、エルニスの父親――碧き流星として名を上げた、ラジク・クェンシードも。覚醒を選ばなかった者の一人だ。だが、最近こう思うこともあるのだよ、若者よ」
 塔の端へと歩いていくと、アラフルは小さく微笑みながら振り返る。
「<覇王(ドラゴン)>になるという事は。たとえどんな事が起ころうとも、一つの意思を貫き通すと、そう覚悟を決めたという事なのではないかと。だからこそ極限の状態において、世界に対峙するほどの力を彼らは発現したのだろう、と。――ああ、それと」
 二人に向けた背に巨大な紅い翼を広げ、アラフルは思い出したように付け加えてから、その場から去った。

「少し行ってくる所がある。結界の中から迂闊に出てはならんぞ。さもなくば――巻き込まれて死ぬのみだ」

 立ち尽くす二人を置き去りにして、湖の上空を駆けた。
 ディレイアから離れ、打って変わって恐ろしく静かな黒の森を見渡した。

 この場所に彼の気配がない事自体、奇妙に思っていたのだが――事ここに至っても、未だに彼が事態を静観している事実に、何かしらの胸騒ぎを覚えていた。
「やれやれ……面倒な」
 持てる感覚を自分の内から外へと広げて、世界を掌握する。
 本来ならばこの芸当は覇王(ドラゴン)として覚醒していなければできない。覚醒を選ばなかった自分は、あらゆる意味で規格外の上に想定外。神獣と呼ばれるまでに至った『善』の彼に肩を並べる『悪』として、『紅』に対する『赤』とアラフルが呼ばれた所以は、ここにある。
 しばらくして、辺り全域の中に意識を浸透させていたアラフルは、小さく纏まった、しかし明らかに強い力の波動を感じていた。
「……そこか」
 呟いて、最もディレイアから遠い岸へとアラフルは降りてゆく。
 果たしてその場所に、真に紅き色を持つ金色の神獣はいた。

「……よぉ。久しぶりだな、アラフル」

 呟いて、ロヴェ・ラリアンは以前と少しも違わない笑い方をした。会えた事が本当に嬉しそうな、そんな顔で。
「相変わらず老け顔だな」
「言うな、性別不詳が」
 互いが変わらない事を確認するように、やや毒のある軽口を叩きあう。
 千年前から続く挨拶を終えて、静かにアラフルはロヴェを見る。
「……おまえが破壊したポウノクロスの庭園を見た」
 告げると、ロヴェは続きを促すように片眉を上げる。
「が、あの程度でおまえが済ませたのが妙だと思ってな。――やはりというか、予想以上にひどい状態だったようだが」
「ああ――別に隠しているつもりはなかった。単に言わなかっただけだったからな」
 くっくっ、と。
 何でもない事のようにロヴェは喉を鳴らした。
 本人にとっては、アラフルが見て取った変化は些末事にしかならないのだろう。

「見ての通りさ。ぼろぼろだよ」

 つぅっ、と。
 言って微笑むロヴェの唇の端から、極太の血の筋が滴り落ちた。

 見てくれと言わんばかりに両腕を広げたロヴェを、アラフルは目を眇めて見つめた。
「痛ましい姿だと、そう言えばいいのか?」
 ――否。言葉など必要ない。“こんな光景”に、限りある言葉など投げかけてはならないと、爆発するような感情を腹の中に抱えていた。
 例えば、今。ロヴェの背後にある巨石など、彼が何かにぐったりと背中を預けている姿は、アラフルの記憶でも数度しか目にした事はない。
 その体は、最近は一度も彼にとって激しい戦いなどなかったはずなのに、どこもかしこも傷だらけだった。
 頬や額に生じたひどい痣や切り傷などは、ほとんど無傷の分類に入る。肩口を切り裂かれて片腕は力を失くし、首筋にもひどい裂傷が生じている挙句、胸元にはぽっかりと穴が黒い口を開けていた。目立つ傷もそうだが、全身に至る細かな傷など、数えていけばきりがない。
 そのような凄惨な状態になってもまだ命を繋ぎとめる代償として、身の内には死毒にも似た穢れた魔力が渦巻いていることだろう。気も狂わんばかりの激痛が走る事は必至。
 血飛沫などは辺りには飛び散ってはいなかったが、ロヴェが上体を動かす事で届きそうな範囲には、黒々と血溜まりが雨に流されたような跡が残っている。それだけでもこの数百年、おびただしい量の血反吐を吐き続けてきたのだと察する事は容易であった。
 ――だというのに、彼は肉体を崩壊に追い込み、その魔力や魂を枯渇させてまでしても、自身という存在を限界以上に酷使している。
 ぼんやりと宙のどこかを見つめ、ロヴェはぼやく。
「この身体で死んでいない事が既におかしいのは、分かるだろ」
「見ればすぐにな。どうやってその状態で生き永らえているのか……いや、言わなくていい。大体は分かっている」
 アラフルが眉を寄せて首を振ると、ロヴェが小さく笑う気配がした。
「心配するなよ。あと何時間なんて事はない。もうすぐ全部終わるのさ。封印は破られた……もう、俺との間に繋がりがあるのは、レイディエンぐらいだな」
「……戻らないつもりか?」
「さぁて、ね」
 ロヴェは静かに呟いた。
「生きる事も考えてみたが……よく想像できなかったのさ」
 彼が視線を投げた先を何気なく追うと、そこには、漆黒の砕けた結晶のようなものが漂ってきていた。
 億劫そうにロヴェが伸ばした手の先に、砕けたガラスの欠片のように、何かの残骸は集まっていく。同時に、以前から比べれば見る影もなかったロヴェの力が、徐々に強大になっていくのが全身から感じられた。
 やがて、集まった欠片は一つの巨大な一つの紋様になり、ロヴェを取り巻いた。
 ロヴェの背より広がる、巨大なドラゴンの翼。そして、もう一対の翼を閉じ、鎖を表す印に縛られ、うずくまるドラゴンの姿。
「……封印、束縛、閉鎖。魔力ではなく、元になったのはおまえの魂か?」
 呟きながら、紋様の色やその様相から、アラフルは意味を薄っすらと読み取った。
 広げた翼は、背負うべきものの重さを示し、また支配と圧力を象徴してもいる。捕らわれたドラゴンは、深く心を閉ざし、自らの意思に関わらず、幽閉される者の姿だ。
 幽閉されるのは、紋様を刻まれた者の精神と、その魔力。
 翼と捕らわれのドラゴン、この二つを抽象化し、束ねて刻むその術は、ロヴェ以外に使用する者を見た事がなかったのが現実だ。――少なくとも、最近まではそうだった。
 ウィルテナトで、アラフルがティアに対して無断でかけた契約の魔術を解除した、カーレンのソレを見なければ。
「カーレン・クェンシードに施した封印か」
「…………」
 聞いたアラフルの声に、ロヴェの目が無言で、気だるそうにこちらへ向けられた。
「やはりおまえだったのか?」
「……何の事だ?」
「とぼけるな。それとも、死にかけで頭まで腐っているのか」
 目元を歪め、言葉を繋げた。
「――三百年前に放たれた、あの魔力の波動。あれはおまえ以外の第三者が発した魔力の波動だったのだろう? ――あれはドラゴンの死が引き起こすものではない。覇王(ドラゴン)としておまえが覚醒した時に放ったそれと酷似していた。……意味するところはただ一つだ」
 ロヴェが上げた目線が、真っ直ぐにアラフルのものとぶつかった。

「カーレンの父親として……ルヴァンザムの魔手から我が子を隠して、私の所に逃がすつもりだったのだろうに。違うか」

「…………」
 再び黙すロヴェに向かい、アラフルは重ねる。
「……今のルヴァンザムを殺せるのは、カーレンしかいない。おまえにはできない。それが分かっているからこその今までの行動なのだろうがな。彼にこれ以上何を失わせるつもりだ? ――おまえの願いのためだけに、親でありながら地獄を見ろと子に命じるのか」
 言いながら、アラフルはついに、その顔全体までもを歪めていった。
「あの子を一時でも愛したのなら、それがどれほど残酷か、おまえに分からない訳がないだろう……ロヴェ・ラリアン!」
 だが。

「――愛していなかったら。最初からこんな道などとらないさ」

 ぽつり、と。
 アラフルの怒声に微塵も揺らがず、ロヴェは呟いた。

「逆だ、アラフル。俺は、カーレンからこれ以上奪わないために死ぬ。あいつがルヴァンザムを殺さなければ、意味がない。俺では遅すぎるんだよ……ティアが死んでしまうからな」
 吐き出した事を堂々と真っ向から否定されて、アラフルはしばし、唖然としてロヴェを見つめた。
「……どういう意味だ?」
 やんわりと、死を含んだ笑みが彼の顔に広がった。
「何だ……まさかおまえ、俺に起こった事に気付いても、今の状況と俺が生きている事と関係があると考えなかったのか? ティアは偽体に取り込まれて、とっくの昔に気付いたぞ。――仕方がない奴だな」
 言いながら、彼はふらりと立ち上がった。
 生者にしてはあまりにも儚く、幽鬼にしてはあまりにも確固たる存在として。
 動く度に身体から止め処なく溢れ出る紅いものは、もう血液などではなく、別の何か――死毒として発生した魔力だったのだろう。ぼたぼたと粘つきながら地面にある彼の影にそれは吸い込まれ、本来黒いはずの影を禍々しい真紅へと染め上げていた。
 封印の紋様は役目を終えて黒という色を失い、透明な魂魄の球体へと一瞬で収束する。それらは小さな二つに分かれて、彼の両目へと宿った。
「さて――これで少しだけ、俺がここに居られる時間が増えた」
 ロヴェは囁くように、嘲るように、
「教えてやるよ。その上で俺を生かす方法があるのなら、言ってみな。アラフル」
 その顔に、妖艶とも言える笑みを浮かべ。
「    」
 彼は、唇だけを動かした。
 そこから内容を読み取ると、アラフルはゆっくりと、驚愕と衝撃に目を見開いていく。
「…………」
 目の前で、琥珀の瞳を金へと染め上げていくドラゴンを、しばし無言で見つめていた。
「――もしも、それが本当の話だったなら。あるいは、もしもその上で、おまえを救う術があるのなら。全力でおまえを止めるしかないのだろうな」
「それができたらの話だけどな」
「……ふざけた話だ」
「さぁ、どうだか」
 ロヴェは一対のドラゴンアイをもってアラフルを見据え、凄絶に宣言した。
「一度でもこの俺を助け、この死を食い止められたなら。俺は大人しく生を享受しようじゃないか。だが、五百年、あるいは千年――時を待ち続けてきた俺の覚悟は、そう簡単に捨てられるものじゃあない」
 言って、笑みを一層深くし、

 次の瞬間、何の躊躇いも顔に浮かべる事なく、空中に浮かんでいたアラフルへ、ロヴェは飛び掛かってきた。
 確実に命を削りにきた、自分を見つめるその視線は――気付けば間近で鮮血を求めて戦いに酔い痴れ、打ち震えていた。
「ふざけているのはそっちじゃないのか? アラフル」
「――ッ!」
「ああ、そうじゃないよな。おまえは昔から、現実的で優しくはなくて、大したお節介をする訳でもなく。だがとても他人や自分自身の強い感情に弱い奴だったんだよな……そうだろ?」
 遥かに重い一撃を受け止め、呻くアラフルに、ロヴェは掠れて、熱に浮かされたような声で囁きかける。
(――死に掛けている、だと?)
 はっ、と。膨大な魔力に中てられ、思うように働かない意識の中で、アラフルは自分を哂う。
 否。こんなにも苛烈に戦う彼が死へ向かっているなどと、疑った自分が愚かしく思えてくる。
 それは確かに、事実でもあるが。
 実際に対峙した彼は、これほどまでにも純粋で狂気染みた感情を抱え、それでもまだ子のためにと動いていた。
「俺の友。親愛なるアラフル・クェンシード。おまえの言葉は正直、とても嬉しい。けれども、」
 彼の金の目(ドラゴンアイ)は見開かれ、縦長に瞳を切り裂く瞳孔が収縮した。

「生憎だが。平和惚けで耄碌した貴様如きに、俺が負けている暇はない」

 直後、

 古代から静けさを保ってきた湖の水面は、叩きつけられたアラフルの身体によって轟音と共に割れた。

「手加減しておいた。――この程度で死んでみろ。向こうでおまえを見つけたら、本気で殴ってこの世に送り返してやるからな」

 水の間隙に飲み込まれ、意識を刈り取られる刹那、そんな彼なりの不器用な情けがかけられていた事を知った。

□■□■□

 ――性質の悪い冗談みたいに、今見た光景が信じられない。
 朦朧としかけていた意識が、馬鹿みたいにはっきりと、ある事実の輪郭を浮かび上がらせていた。

 エルニスが死んだ。

(――こんな、無鉄砲に飛び出た私を庇ったばっかりに)

 お互いに危なっかしくて見ていられないから、助け合うように戦ってきたのだ。そう何となく、ベルは理解していた。
 彼が無謀にもその身以外に何一つ持たずに、長となったカーレンを追って飛び出していこうとするのが、見ていて怖かった。……それもある。
 けれど一番の理由は、やっぱり彼が心の底に秘めてる危うさで。
 いつその滅茶苦茶な行動でうっかり死んだりしないかと、常に不安だったのだ。
 妹を亡くし、友までもを失いかけた幼い日の彼がぼんやりと立ち尽くしていた後姿は、未だにベルの記憶に鮮明に残っている。
 放浪し出したカーレンがどこか茫洋とした様子であったように、始めからそこに居なかったかのように消え去るのではなく。
 芯を持ちながらも、ある日突然それが呆気なく折れて、惨い壊れ方をしていくような――妙に現実に迫る危うさが、その背中にはあった。
 今にも折れそうであったのが怖くて、ベルが彼を慰めた時には、必死に耐えていたその感情の重さに、大声を上げて苦しみを吐き出していたほどだ。
 次第に成長するにつれて、危うさは以前よりは成りを潜めていたかのようにも見えたが、実際には更に増大していたのだとベルは知っている。
 ――人間がドラゴンに比べて短命だからだろうか。彼らの戦乱に関われば、その中で得た何かを失う事も必然的に多くなって、カーレンは喪失を恐れる事に疲れていたとベルは知っていた。
 一方で、自分は怖がりだという自覚があったから、その分、その命を燃やす彼らと楽しみを分かち合う事を選んだのだ。
 だが、エルニスは違う。たった一度だけ、大きなものを失った。そのたった一度が、何よりも彼を必死にさせた。仲間を守るため、幼いドラゴンが二度と妹のような悲劇に見舞われないために、彼は強くなったのだ。
 それと同時に、自らを犠牲にする事すら躊躇わなくなっていた事にも、できれば気付いていて欲しかったのだが。
「……想ってたっていうんなら――せめて、キスの一つぐらい贈ってから逝きなさいよ」
 ぽつりと、震える唇でそう呟く。
 涙なんか出ない。そんなものでこの苦しさから解放されるなんて思えない。代わりに、死にたいぐらい情けなかったが、それも死ぬなと言われたためにできなかった。
 自分を抱えて助け出したレダンが気遣っている気配を背に感じながら、ベルは何も言う事はなかった。
 不気味なほどに凪いだ心とは裏腹に、目は最早追い切れない二つの力のせめぎ合いを見つめていた。
「許さない」
「――駄目だ。ベリブンハント」
 静かに、さり気なく自分を拘束していた腕に力が篭もった。
「放して、レダン。あいつの所に行くのよ」
 嫌だ嫌だと駄々をこねるように首を振り、けれど、大人しく連れて行かれるしかないほど、身体には力がなかった。もとより、自らの魔力でひどい痛手を負った状態なのだから、動けるはずもない。分かっていても、彼の元に行きたいと願った。
 ふわりと、アラフルが作ったらしき結界の中へと降り立つと、レダンはベルを地面に降ろした。
「……それでも、駄目だ」
 力なくぺたんと座り込んだこちらを見下ろして、彼は沈痛さを滲ませた顔をして、ベルの肩に手を置いた。
「セルは一人でも自分の身だけは守れるからともかくとして――君を死なせるなとエルニスに言われたのだから。俺は承諾できない」
「っ――」
 腕をがむしゃらに振って、肩の手を叩き払った。
 地面に向かって、激情の滲む罵声を吐きかけた。
「分かる訳、ないでしょ。分かんないわよ! あいつが死んだなんて、誰にもまだ分かんないわよ!」
「……そう、分からない。だが、たかが一時の動揺を振り切るために、ここで無闇に行動して彼が繋いだ命を無駄にするというのなら、それは愚か者のする事だと言わせてもらおう、ベリブンハント」
 ひどく冷たい口調に、引っぱたかれたような思いでベルはレダンを睨みつけた。
 白銀のドラゴンアイが蔑むようにこちらを見ていた。
「俺のこの命だって、他の誰かが命を賭してまで繋いでくれたものさ。あんたがもしもエルニスの感情を蔑ろにするというのなら、誰に恨まれたって俺があんたを殺してみせる」
 冷え切ったその顔には、激怒が白く現れている。
「今のあんたは、気に入らない」
「…………」
 呆然と、ベルはレダンを見つめていた。
 不意に目の前がぼやける。
 視線を落として、
「……やめてよ」
 ぽつりと。
 ベルは己の願いを切実に口にした。

「あいつがもう戻ってこないみたいな事、言わないでよ。私と、カーレンと、あいつと。失うのは……消えていく命は、ユイだけでもうたくさんなのよ――っ!」

□■□■□

「……どうして、傷ついたとして、歩く事を強いられなければならないの?」
 そう独りごちたサシャは、蹲って悲鳴を上げる儚いドラゴンを、哀れみの眼差しで見守った。
「サシャ――歩かせる事は、確かに必要な事でもある。どんなに辛い時でも、傷つけてでもそうしなければならない時はある。悪なる赤も言っていただろう。立ち止まってる暇はないんだ」
「……さっきから、言えるのはそれだけなの?」
 エリックが言い聞かせるように言ったのを、サシャは振り返って睨み付けた。
 立ち止まる暇などはない?
 耐え切れるのなら、そのまま進まねばならないと?
 聞いた時、衝撃を覚えると同時に、激しい憤りが駆け抜けるのを感じた。
 果たして、本当にそうだろうか、と。間違っているとも思った。そんな、詭弁のような言葉を信じてはならないと。
「あなたもよ、レダン」
 ベルに向かっていた彼にも、サシャは非難の矛先を向けた。
「耐えられないと分かっているのに、それでも強制して、無理やり背中を押して進ませる事が正しいって、本当に言える? 私は思わない……拷問みたいに傷つけて。まだこれ以上に彼女を追い込むつもりなの?」
 あるいは、やり切れぬほどの感情を抱える事を知った上で、泥沼の中をあえて進ませていく非情さこそが、優しさだとでも言うつもりか。
「それは確かに、美しいかもしれない。あなた達からすれば、綺麗で、立派で、すごい事かもしれないわ――でもそんなの、優しさでも何でもない。優しいと思うのは自分だけで、人からすれば傲慢でしかない。汚い自己満足みたいなものじゃないの」
「サシャ――それは、違う」
「……どこが? 何も違いやしないわよ!」
 涙声を張り上げたサシャの声に、エリックはぎょっとして目を瞠った。

「――あなたたちも私も、身の程を知るべきだと思う」

 サシャは、引きつったように笑った。
 エリシアだった時のように冷たい怒りを含んだ微笑みを見て、エリックは蒼白な顔で息を呑む。それをいい気味だと思ってしまったのは、たぶん、ティアもエリシアも自分も、この馬鹿の一つ覚えのように同じ事を唱え続けるどうしようもない男たちに、相当に頭に来ていたからで。
 しかしながら、残念な事に、ティアもまたその危険とも思える考えに感化されかけているらしい。わずかに残る絆から、それが伝わってくる。
 原因は……やはり、『彼』なのだろうが。
 息を吸った。
「例えばの話よ。エリシア・メイジ――彼女は、ティア・フレイスという少女の悲劇の記憶を基にして、私の上に塗り重ねるように作られた人格だったわ。故国を滅ぼされた事への復讐を誓わせて、もう一人の寵姫としてカーレンを惑わす存在とするためには、エリシアと私は立ち止まってはいけなかったのよ。……確かに、最後まで立ち止まりはしなかったわね。でも、他者から強制されて、自分からもやったとしても、果たしてそれは美しくて綺麗で、立派で、しかもとってもすごい事だった?」
「それは、……」
 言葉に詰まるエリック。
 少し後ろでは、レダンも同じように答える術を見つけられなかったのか、目を逸らしていた。
「ほら、答えられない。当然よ。だって、全然違っていた。私たちは……醜くて、汚くて、惨めだった。すごいどころか、卑怯でもあった。例え私たちが傷だらけで進んだとして、行く先に待っているのは、やっぱり取り返しのつかない終焉しかない。そんな終わらせ方で得られるようなものが、あなたたちの本当に欲しいものなの? ――違うでしょう?」
 笑みを消すと、サシャは言った。

「全部を完璧に助けるなんて無茶は言わない。でも、救えるのなら救いましょう。願わくば、誰も犠牲にならないように――私たちなりの方法で」


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