Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-11- 紫美の翼に言葉を

 重い感覚がする。
 胃に落ち込むような精神的な圧力が、エルニスに襲い掛かっていた。
 どこかで感じた事がある。
「ちょうど……ロヴェ・ラリアンを相手にした時に似てる、か」
 独りそう呟くと、エルニスは地を蹴った。
 頭に思い浮かべるのは、流星の軌跡。上空へと飛び上がると、そのまま重力に身を任せ、カーレンの元へと瞬間的に到達した。
 腕を振りぬくと、通り過ぎた後から翡翠の炎の鞭がカーレンへ向かって襲いかかる。
「レダン」
『――分かってる』
 エルニスの求めに応じて、背後からレダンが銀の炎を噴き出した。
「――、 」
 迎え撃つカーレンは、僅かにそれを眺めてから、跳んだ。
 軽く宙へ舞っただけのその姿が、一瞬霞む。
 ぞくりと予感を感じて、エルニスは咄嗟に回し蹴りを背後へと放っていた。
 空気がたわみ、音が一瞬消える。予想を遥かに上回る速さで後ろへ回り込んでいたカーレンは、するりと蹴りをかいくぐって、見る間にエルニスの懐へと到達した。
「っ!」
 いつか見た景色。
 だが、今回はエルニスには彼がいる。
「気を、」
 ふわりと、銀が風になびき、
「――つけろって言わなかったか!?」
 人型をとったレダンが、身を屈めたカーレンの頭上すれすれを飛び去った。
「悪い!」
 全身を駆使して何とか追撃を逃れ、エルニスは転がるように倒れこんだ。
 幾つもの激突音がした後、接近していたレダンが弾かれるように同じ場所へ吹き飛ばされ、着地する。
「近接はよした方がいい。今までカーレンは魔力を使わない戦い方をしてきたはずだ。見たところ、あんたは強いが体術が得意って訳でもないだろう」
 構えながら言い当てられ、エルニスは息を吐いた。
「……助かる」
「頼りにされてもね」
 微妙な顔をしながらレダンは言った。
「俺だって、そんなに得意な訳じゃない――っ」
 次の瞬間、二人は同時にその場から飛び退いていた。
 頬の脇をすり抜け、髪を引き千切る勢いの余波を放ちながら遥か背後へと飛んでいった影を、辛うじてエルニスは目で追っていた。
「――鱗?」
 ぽつりと呟いた時、漆黒の鱗は空を滑って再びエルニスに接近してくる。
「うぉっ――っの!?」
 数十枚に及ぶそれらを慌てて焼き払い、あるいは打ち落として、振り向き様にカーレンに向かって流星群を放った。
 同時に、レダンも無数の氷刃をカーレンへ放つ。

 しかし――それら、ドラゴンたちの最も得意とする攻撃をも、覚醒した覇王は凌駕した。

「 ……名を冠し 驕れる者よ 」
 遥か空へと黒い鱗の群れは舞い上がり、一層強い銀の光を帯びた。
「 我が(つぶて)は光となりて――、 」
 カーレンの唇が僅かに開かれる。
「っ」
 次の瞬間に何が起こるのかを本能的に察して、エルニスはレダンの袖を何とか掴むと、塔から身を投じていた。示し合わせたように、二人で瞬時に防御の魔術を編み上げ――遥か下へと投じる。

「 ――汝らの翼を削ぎ落とそう。落ちろ、ドラゴン 」

 それはもはや、自身に暗示を与えるものなどではない。完全な命令だった。
 言葉と同時。
 銀の光の筋が、天から地へと無数に乱立する。
 決して交わる事のない両者の間を、破壊の柱が貫いた。

「がっ――ぁああああああああああっ!?」
 大地だけでなく大気をも揺るがして、滅びの雨は激震を身体に伝え、命令通り地獄へとエルニスたちを叩き落とした。常のカーレンからは考えられない、ロヴェとの戦いでもついぞ味わった事のない凄まじさを身をもって知る。
(っ……どんな威力だよ!?)
 意識がもぎ取られそうになる衝撃の中、毒付いた。
 ディレイアに居るほとんどの命が一瞬とはいえ、光の串刺しの危機に晒されたという事に対しても戦慄する。
「あいつら……アラフル様たちも、無事なんだろうな……?」
 ふらふらと頼りない身体でどうにか宙に留まり、呻くレダンを抱えたまま呟いた。

□■□■□

 それは丁度、塔と塔の間の連絡通路を走っていた時に襲ってきた。

「っ」

 突如として天から降ってきた破壊の雨を見上げ、セルは血の気が引きそうな思いだった。

 実際に血が引くのを感じる暇などなく、咄嗟に全力を防御に回し、小さく硬く結界を作る。
「ベルっ!」
 叫び、先を走っていた彼女を辛うじて結界の守護範囲に引き込むと、一瞬遅れて周りが銀色の光に押し包まれた。

 ドン、と――光の渦が全てを飲み込み、桁外れの音の洪水と揺れが襲い、セルたちに牙を剥いた。

「っうわ――!?」
「きゃああ――っ!?」
 突如として訪れた天変地異に、二人して膝を折り、その場に重なるように崩れ落ちた。
 銀の光で周囲が何も見えない。轟音の中、お互いの悲鳴はおろか、自分自身の声さえ掻き消された。
 結界が本当に通用するのか。不安と恐怖がセルの脳裏に突き刺さり、警鐘を鳴らす。
 幸いというべきか、ディレイア全体を点の面積で焼いた魔術は、ありったけの余波を残してすぐに途絶えた。
 永く続いたように感じられた一瞬の後、青い結界はその役目を終えて崩れ落ちる。
「っ……は」
 セルは喘ぐように息をした。暴風に体中をかき回され、全身に切り傷ができようが、生きている事のほうがほとんど奇跡。何も感じる事なく死ぬよりは数百倍はましだった。
「ぅ……」
 小さく呻きながら、余韻のように残る不気味な石の崩壊の音だけを残して、しばらくの間沈黙があった。

「っ……カーレン、ね。今のは……! 何て、攻撃してくれんのよ……あんのイカレ野郎……っ!」

 口汚く罵ったベルは、言葉とは裏腹にひどく震えて、怯えていた。
 ほぼ半泣きに近い状態である彼女の下敷きになっていたセルは、このまま落ち着くまで居させてやりたいのは山々だったが、気まずさに小さく咳払いをした。
「ごめん、あの……と、とにかく上から退いてくれないかな。辛いんだけど」
「あ……」
 慌てて退いてくれたベルは、疲れた顔をしながらもどうにか笑いかけてくれた。
「ありがとう、セル……本当に助かったわ」
「あと少しでも遅れたら消し飛んでたから、僕に感謝はしなくていいよ。感謝するならエルニスとレダンたちにしなくちゃ」
 よろめく足で立つと、告げた。
「どうも……君を守る分の余裕を、二人が僕に回してくれたみたいだから」
「え――それじゃ、エルニスは? 無事なの!?」
「ちょっと、落ち着いて――」
 目を見開き、必死になって掴みかかってきたベルを見上げ、両手を上げて押しとどめた。
「――大丈夫。レダンが死んだら僕には分かる。彼が死んでいないなら、エルニスだって死なないよ。二人とも互角の実力を持ってるしね」
 一瞬だけ微笑み、安心させようとベルの背を二度ほど力強く叩いた。ほんの気休めにしかならない事は分かっていたが、いくらかは効くだろう。
「ティアちゃんのところに急ごう。カーレンの相手はあの二人でも手に余るみたいだ」
「……ええ!」
 動揺は治まった訳ではなさそうだったが、唇を引き結んでベルは頷いた。
「……それにしても、厄介だね」
 ほとんど崩れた通路の辛うじて通れる箇所を辿りつつ、ティアを取り込んだ偽体のドラゴンが居るはずの塔を見上げて、セルは眉を潜めた。上はカーレンと二人の戦いが繰り広げられているためにあえて下からの通路をとったが、逆に危険だったのではないかと、新たな不安が沸いていた。
 それらを押し込めていると、軽やかに足場の悪い中を走っていくベルが、懸念を口にした。
「道中で、あんたの話はあら方聞いて理解したつもりだけど……ティアの――あの子のところに辿り着けたとして、どうやって彼女を助け出すつもり? 取り込まれているって事は、つまり偽体の核になってるって事なんでしょ?」
 偽体を殺すならば、核を破壊しなければならない。カーレンが言った事でもあるし、セルも知っている事だった。
 だが、核が助ける対象のティア自身なのでは、死のドラゴンは殺しようもない。
「あんたはアレになった時、どうやって助かったの?」
 ベルの問いに、セルは一瞬、口を噤みかけた。
「……僕は助かる方法をとらなかった。助かったのはあくまで幸運だったんだ。九年前、僕はカーレンに偽体の核を――僕自身を攻撃させたから」
「…………」
 ベルはすぐさま足を止め、振り向いて唖然とこちらを見つめた。
「――あいつ正気だった?」
「休んじゃだめだ。ちゃんと教えるから」
 彼女を追い越して、セルは答えながら更に先へと進んだ。
「とりあえず、これがその時の傷」
 服を一瞬だけまくって、背中の傷をちらりと示す。
「――心とか感情は死にかけてたけど、少なくともカーレンはまともだったよ。僕が狂っていたんだ。というか……」
 顔をしかめてから、すとんと、無表情になるのが自分でも分かった。
「もう一つ、ティアちゃんを傷つけない方法は……不可能だと思うけど、ティアちゃん以外の偽体の核を全て潰すって事だ。途方もなく時間がかかる。けれど、ブレインを見て、偽体の核にも核があるんじゃないかって。そう思った」
 塔の中に入ると、またしても崩れかけた階段を危なっかしい足取りで上っていった。疲労と激しい運動のために、ひどく息が上がった。
「そいつを潰せば、あのドラゴンもどきは消し飛ばせるのね?」
「おそらくは。でも、核はブレインじゃないと思う。ブレインは、あくまでも、きっと分体のはずなんだ。本体は、ルヴァンザムがどこかに隠してるはず……一体どこにあるのかも分からないし。だから不可能だって、言ったんだけど」

 切れ切れに言葉を紡ぎ、セルとベルは屋上へ到達した。

「そもそも――偽体一つの核の場所は僕には分かるし、破壊の仕方も知ってる。けど、それが具体的にどんな形をしているのか、一度も見た事がないんだよ」
「……打つ手なしって訳?」
「そういう事だね。でも、何とかしないといけないんだ」
 言って、セルは目の前に現れたドラゴンを見上げた。
 こちらを待ち構えていたように見下ろす巨体は、光を吸収しているのではないかと思うほどの濃い闇に見えた。同じように漆黒のドラゴンであるカーレンでも、鱗が光を照り返せば、彼はセルがこの世で最も気高く美しいと思える生き物へと変貌する。
 だが、これは――、ただひどいと、そう感じる他にはない。
 『彼ら』は死してなお世界に縛り付けられる、安らげない魂たちだ。命がなくとも、魂は身体に宿るもの。偽りの、作られたものだとしても、決して彼らは生きながらの死を望んだわけではない。
 その事を証明するかのように、ずっとドラゴンは啼いていた。悲哀に満ちた声は、セルの耳に届いている。
 ひょっとしたら、それはティアだけでなく、全ての魂の声なのかもしれない。
「ティアちゃん……聞こえてる?」
 そっと語りかける。
「もし聞こえているなら……辛いだろうけれど、彼らを慰めてやって欲しい。この偽体の核にされるという事は、君が全ての感情と魂に全く無防備な状態で晒されているって事なんだ。彼らを鎮めれば、ある程度、僕らにも君にも余裕がでてくる。――君が助かるために必要な余裕が」
 壊れている心に、どこまでそれができるのか。
 強いる事が、どこまで残酷であるのか。
 知っていても、セルは告げなければならなかった。
 自分はそうしなければ堕ちてしまっていた。ならば、ティアもまた抗わなければ、偽体と同じになってしまう。何も考えられなくなり、ルヴァンザムの意思に従えられるだけの存在に。
 レダンと自分はそれを拒絶して、魂と精神の自由と解放を求めた。
 だが、彼女を不幸せにしてまで、ずっとそうで在りたいなどと思える訳がない。
「支配される事の理不尽さは……僕とレダンが、一番良く知ってる」
「 ――  ! 」
「っう……!」
 声にならない叫びと共に、黒い触手が一瞬でセルをからめとり、引き寄せた。
「っセル!?」
 慌てたようなベルの声が聞こえた。
「っ……大丈夫。偽体は、僕を傷つけられない。僕だって核だ……呑みこまれないようにすれば、多少は……!」
 死んだドラゴンの腹にどうにかして抱きついたセルは、そっと囁いた。
「出ておいで。狂いに取り付かれていても……外の空気に触れれば、少し、楽になるから」

『……要らナイ』

 ぽつり、と。そんな少女の声が、返ってきた。
 一瞬、息を詰める。
「――って事は、息を吸えないほど、困っていないんだね?」
 わざとおどけたように笑いながら、闇の中に手を埋めた。冷たくおぞましい臭いと狂気に侵蝕されるのを感じ、笑みを歪めながらもセルは必死に語りかけていく。
「大丈夫だよ……僕が、ここにいるから。恐れずに……怖がる必要は何もないんだ」
『……違ウの』
 静かに、どこか決意を秘めたような呟きが聞こえた。

『兄さン。オ願イ……コの子ヲ、オ願イ』

 セルはゆっくりと目を見開き、ドラゴンを見上げた。
「ティアちゃん?」
 不定形の黒い流れの中で、柔らかくてしっかりとした感触が手に触れた。まるで、何かを受け渡されたように。
「……まさか」
 はっと気付いて、更に腕を深くまで押し込む。
「セル! やめなさい、それ以上やったら、あんたまで……!」
「――大丈夫。大丈夫だからっ……――っ! ごめん、手を貸して! 腰を引っ張ってくれるだけでいいから!」
 ベルを振り向いて言うと、セルは手に捉えたものを放すまいと、ほとんど顔まで突っ込むようにして抱き込んだ。
(――『ダレ?』)
 中に入った瞬間、魂の呻きが耳に入ってくる。
(『生キタ身体』『羨マシイ』『チョウダイ』『助ケテ、ネェ』『嫌ダ、コンナノ嫌ダ』『死ナセテ』『私モ連レテッテ』『ズルイ』『卑怯者』『ドウシテ』)
 ――どうして、生きている。
 生者を責めるそれらの声は、圧倒的な数、圧倒的な暴力の塊だった。だからこそ、偽体の核が狂えば狂うほど、彼らはそれに従っていくのだろう。生を渇望するが故に、自分たちの手で堕としたいがために。
「……ごめんね」
 闇の中だというのに、何故か存在がはっきりと感じられたのは、彼女が気付いてほしいと思っていたからなのかもしれない。
 どろりとした地獄の中で独り、抗う妹に向かって、罪滅ぼしにもならない言葉を言い訳のように呟いた。
「たった一人の妹すら、僕はすぐに格好良く助けられない――情けない兄だよ、本当に」
「……大丈夫って、言ったでしょ」
 憂鬱気に、狂気に抗いながら微笑む少女は、セルに向かって囁いた。
「この子、私をずっと守ってくれていたの……でも、私だって、守られてばかりじゃいられない。信じてるの、きっと助けてくれるって。だから……救われるって分かってる私だから、それ以外の人にできる事をしてみる」
「でも、カーレンは暴走してる」
「ええ――そう。でも、時間はそんなに残されていない。兄さんは分かるのね」
 ティアはぼんやりとした虚ろな目を伏せた。
「……兄さん、聞いて。この人たちを解き放つ方法がある」
「分かってる。核の中枢を見つけて破壊すればいいんだろう? どこにあるか知ってるね?」
 ティアは頷いた。

「でも、絶対にそれをしちゃだめ」

「……え?」
「させてもだめ。お願い、兄さん。早くしないと、カーレンがもう戻れなくなる。誰にとっても、取り返しがつかなくなる。私が何とかするつもりでいるけれど、間に合わないかもしれない」
『セル! 何やってんのよあんた!?』
 外からベルの声が聞こえる。
 驚くセルの腰に駆け寄ってきたベルの腕が回されて、力任せに後ろへと引っ張られた。
「カーレンが――死を、選ぶ前に。彼の行為を止めてあげて。お願い――あの人を早まらせないで」
 偽体から解放されていくセルは、闇の中に消えていく少女の言葉が刻む意味を、呆然と受け止めていた。

「死者にも生者にもなれないからって、私は、まだ生きられるこの子や、エリシアを死なせる訳にはいかないのよ。まだ生きているなら、ブレインも人間に戻れるの――っ」

「――っ、抜けた!」
 外の世界に戻ってきたセルは、すんでのところで暴れ始めたドラゴンからベルに距離を取らされた。
 ベルからすれば恐ろしい事だったのだろう。瓦礫の影に引きずりこまれると、怒鳴られた。
「エルニスといいあんたといい……何で男ってこう無謀な訳!? こんな長い時間首なんか突っ込んで、あんたは何やってたのよ!? しかもそのどろどろの塊、一体何!?」
「ごめん、ベル。……この子を助け出してたんだ。ティアちゃんから預けられた」
 ベルは怪訝気な顔をする。無理もない、と地に座り込んでいたセルは、抱えているものに目を落とした。単に偽体の一部が纏わりついて、何だか泥に覆われただけの奇妙な形をした粘土にしか見えない。だが、これは粘土などではない。
 闇色の悪臭を放つ泥を払いのけていると、汚泥の中から現れたものが何なのかに気付いて、ベルは驚愕の色を目に浮かべる。
「って……その子、確か偽体の」
「……ブレインだよ。僕の義理の弟」
 ぽつりと呟いて、セルは死人じみた色をした弟の顔を見下ろし、心痛に顔を歪めた。
「自分と弟。どっちも大事だ。でも、ティアちゃんは……弟を救って、自分を偽体に残した。二人だから今まで耐えられたのに……くそっ!」
 毒づいて、ブレインを抱く手に力を込める。
「こんな……こんなに、近くに来ているのに! 助けたい人を、助ける事ができないなんて……っ」
(『救えるのは、誰だろうな――』)
 そんな言葉を吐いておきながら、遥か空で力と感情に支配されている漆黒のドラゴンを見上げ、睨み据える。
「君が――君が、助けなくちゃだめなんじゃないか! カーレン!」
 悔しい。自分ではなくて、彼にしかできないと、そう確信している事も。今すぐにでも苦しんでいる彼女を救えるのに、彼が自分の感情に走って、そうしようとしていない事も。
「核を破壊するのは止められた。中枢が誰なのかも結局分からなかった! じゃあ、僕にどうしろって言うんだ!」

「――簡単じゃないか?」

「っ」
 聞こえた声に、傍らで膝をついていたベルが、息を呑んで緊張するのが分かった。セルも同じく、背を凍らせる。
 いつ、現れたのか。
 ルヴァンザムの姿が、偽体のドラゴンの側にあった。
「ティア・フレイスを殺すか、それか――おまえが死ねばいい。分かっているだろう、シウォン? 暴走したアレは、どの道誰にも止められはしないと」
 艶やかな笑みが、一層残酷に見えた。
「っ――ふざけた事を、言ってんじゃないわよ!」
 脇を駆け抜ける存在があった。
「! ベル、だめだ!」
 慌てて止めたが、ベルの耳にセルの制止が届く事はなかった。
 ふわりと、魔力の結晶が舞う。
 澄んだ紫と赤に光り輝く美しい羽根が、広げた腕の間で意思を持つように渦巻いた。その上さらに、彼女を覆うようにして飛び交いながら、羽根はその数も光も増してゆく。
 さながら、それは翼のようで。
「――かつて君と同じように、紫美の名を誇ったドラゴンがいたけれど」
 ルヴァンザムはさらりとベルの様を謳い上げて、
「君は、その翼を以ってして、紫美の名を名乗るのだね」
 自身の手に紅い十字架を出現させた。
 あっさりとベルの身体はいなされ、二人は入れ違うようにして、お互いに向かい合う。
 が、ルヴァンザムはそのまますぐに紅い大剣をベルに突き立てる事はしなかった。
 本来そうする必要もないのに、十字架は勢いをつけるように彼の脇で一瞬、ためられる。
 避けようと思えば避けられる攻撃。わざとそうしたのは、逃げられないようにするためだ。
 ――後ろには、ティアがいる。
「さぁ、君が死ぬか、彼女が死ぬか――まぁ彼女が死んだとしても、もう偽体になりかけているから大差はないけれど。カーレンのようにコレを受けるかい?」
「……っ、」
 ベルは呑み込んだ息すら気迫に変え、
「舐めるなァアアアアッ!」
 精一杯の威勢を張って一喝し、翼を振り下ろす。
「ベル――ッ!」
 セルは叫んで駆けた。
「……無駄だよ」
 小さく呟きながら、ルヴァンザムが下りる翼と交差するように十字架を振り上げ、
「おや」
 ベルの背後に、カーレンが降り立つのを見て、薄っすらと笑った。
 彼はベルなどを見てはいない。その手からは黒銀の炎が、ルヴァンザムに向けた殺意と共に放たれようとしている。
 彼女ごと撃ち抜くのか。見て取ったセルは、思わず内心で呻いた。
 誰かが撃たれて生き残る奇跡なんて、そう何度も起こらない。
「――――っ!」
 ルヴァンザムに砕かれた翼は羽根へと戻って無残に散らばり、ベルは自らの魔術に揉まれて宙を舞っていた。
 間に合うはずがない。知りながらセルは走る。
 カーレンの銀に染まった瞳の奥で、瞳孔が極限にまで細まった。
 黒を纏った銀の炎は球状に収束し、莫大な魔力と共に膨張する。熱に大気が焼かれ、闇を帯びた風が音も光も消し飛ばした。
 何が起きたのか分からないまま、気付けば視界は空高くから対峙する二人を見下ろしていた。
 吹き飛ばされた身体にも構わず、セルはそれでも届かない手を伸ばし――気付いた。

「――ベリブンハントォッ!」

 ベルの名を呼ぶ絶叫が聞こえた。

 セルの目に、その光は流れて砕けた星の欠片のように見えた。
 遥か天空から落ちてきた翡翠の光は、散った翼をすくい上げようとしていた。

(エルニス……!?)
 驚愕し、満身創痍の姿で飛び込んだ彼を見つめる。
 流星の軌跡を描いて急降下してきたエルニスは、その勢いをもってして、着地するだけでほとんど塔を踏み崩した。
 辺りを丸ごと揺るがす衝撃波の中で、彼はベルの身体を両腕で救うと、
「頼む!」
 そのまま、意識すら危うい彼女を空高くへと放り投げる。
「ああ――任された」
 返したのは、彼女を受け止めたレダンだった。
 ったく、と。
 遠い所からでも、ドラゴンアイの力ではっきりとエルニスの声が聞きとれた。
「――無闇に飛び込むなって言ったの、おまえだろうが」
 しょうがない奴。
 自分の状況も省みずに、困ったような顔で彼はベルを見上げていた。
 位置が入れ替わった――それの意味するところは、つまり。
 何が起こったのか、セル以上に飲み込めていないであろうベルに向かって、エルニスは笑う。

「言った先から死んでいくなよ――俺にとって最高の女なんだから」

 偽体のドラゴンが絶叫と共に、死の息を吐き出す。
 同時に、ルヴァンザムが紅い大剣をカーレンに向けて一閃し、カーレンもまた、炎球を操っていた拳を一杯に開いた。
「エルニス――駄目だ!」
 叫んだセルに気付いた彼は、少しだけ少年のような笑みを浮かべて振り向いた。

「――悪い。帰ったら殴ってもいいって、あいつに言っておいてくれ」

 それが、最後。

(そん、な……)
「……駄目だ。駄目だよ! エルニス!」

 半壊していた塔は、ついに衝撃に耐え切れずに崩落する。
 絶望を塗りつぶすように、セルは声を張り上げていた。

「死んじゃ、駄目だ――エルニス・クェンシード!」

 宙にあった身体を、受け止めるものは何もなかった。
 絶望の一瞬の後、更に全身に叩きつけられるような痛みを覚え。
 翡翠のドラゴンと同じように――、何もかも、純白の光の中へと溶けて消えていった。
 


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