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第一篇目次 > 本編
ずる、と何か重い物をひきずるような音に、レダンは目を覚ました。
(……何だ?)
瀕死のカーレンの呼吸以外、何の物音もしなかった部屋に、自分以外の他者の存在を感じた。
暗闇の中で、咄嗟に身を緊張させる。
だが――この気配は。
「……カーレン?」
呟くと、一瞬、物音が止まった。
フー、フー、と、唇の間から薄く漏れだす、荒い息遣い。獣か何かかと勘違いしてしまいそうなほど。レダンに嫌な予感を抱かせるには十分な要素だった。
戦慄する中で視線を巡らせると、闇に光る、二対の銀と目が合った。
「っ」
本能から反応して、咄嗟に転がった。
間髪入れず、ゴッ、と重く鈍い音が頭上で響き、振動が壁から床伝いに身体を揺らした。握り拳ほどもある砕けた石の欠片や、鎖を壁に繋いでいた金具が落ちてくる中を、更に転がっていく。
「っは」
思わず息を呑み、じゃらりと、鎖の耳障りな音を立てながら後退する。
感じた事もない類の恐怖、そして目の前に迫る正体不明の脅威に怯えながら、レダンは目を瞠ったまま立って後退ると、自分が繋がれていたのとは反対側の壁に背中を貼り付けた。
夜目が作用しているのだ。闇に溶けるように立っていても、彼を見間違えるはずもない。
しかし、無表情にこちらを見据える彼は、明らかに様子がおかしかった。
カーレンの上半身の鳩尾辺りから、血が床へと伝い落ちて、その臭気がレダンの嗅覚を刺激した。ドラゴンの強烈無比な治癒力でも未だに塞がりきらないというのに、無理に動いて傷口が僅かに開いた結果だろう。
それが、足元から這い上がるようにして体表に生じた鱗に覆い隠され、見えなくなっていった。漆黒の鱗は腹から胸へと、見る間に彼の身につけるものの少ない身体を覆っていき、ついには首元のほとんどと、顔をやや侵食するまでになった。腕は剥き出しのまま、手から肘までの半分が鋭い爪と鱗に変じている程度だ。
壁を抉った左手が無言で持ち上げられ、目一杯に開かれるのを、レダンは呆然と眺めていた。
次の瞬間、その一言が聞こえなければ、きっとレダンの頭は潰れていただろう。
「よせ、カーレン。そいつはおまえの邪魔はしない」
「……っ!?」
咄嗟に我に帰って顔を逸らすと、直撃はなくても掠りはしたはずの一撃は、右頬のあった場所を打ち砕いただけだった。
「外したか」
どことなく感心したような響きを含む声に、聞こえる方向を見やると、ロヴェが部屋の中央にいた。
「理性もなく暴走するかと思ってたが……意外に欠片ぐらいは残っていたのな。すごいよ、おまえ」
そう告げて、薄く笑う。
そんなロヴェを、カーレンは軽く首を傾げて眺めてから――突然、姿を消した。
「なっ」
絶句するレダンを他所に、目で追える速度を超えた一瞬の攻防が始まり、終わった。
ぱしん、と、先ほどの威力からは想像もできないほど気の抜けた音でカーレンの手首をロヴェが取る。
彼は至って危機感を抱いた様子もなく、のんびりした顔で告げた。
「まぁ、そう突っかかるなよ。速くなったのは認めるが、前みたいに頭を使え。読めすぎて逆に笑えてくる。それにその力、まだ完全に目覚めた訳じゃないだろうに」
「……、」
「俺が誰か、もう分かるだろ? 言う事は聞くものだ。……ほら、行け。後腐れないようにしないと、ティアが泣くぞ」
言って、ロヴェはカーレンの手を離した。立ち尽くす彼に向かって、自分の立っていた場所から一歩退くと、そこには紅い紋様があった。
何の躊躇いもなく一歩を踏み出し、カーレンは紅い光と共に消えた。
「…………!?」
「何が起こってるか分からないって顔してるな。当たり前だが」
笑いながら、その場に残ったロヴェが言う。
「変な奴だよな、おまえも。俺が誰かは知っていたのに、あいつが誰かはまるで分かっていなかった。この世で唯一、おまえにとって大切なものなのに」
レダンはロヴェを見つめ、しばらく黙っていた。
「……知っていた」
「?」
意外そうに、ロヴェが眉を上げる。
「なら何で言わなかった?」
聞かれて、首を振った。
「言えなかった。俺は、知らないからカーレンを傷つけた」
首を傾げていたが、やがて合点がいったのか、彼は頷いた。
「ああ……九年前の事か。それは、逆に良かったんじゃないのか?」
「え?」
「おまえが傷つけなきゃ、あいつはティア・フレイスには会えなかったろう。結果として、最後には自分の命を何とも思わなくなっていただろうからな。まぁ、間接的にでも生きるきっかけを与えたんだろうな」
ロヴェはぽかんとするレダンに言いながら、こちらに背を向けた。
「……正直、おまえを生かして良かったと思ってる」
目を瞠ると、ロヴェは吐息に紛れて微笑んだようだった。
「どんな罪を背負っていても、おまえは自由を掴んで幸せになったからな。約束だ……どんな事があっても、シウォンを信じて歩け。俺たちのように、殺し合う事にはなるなよ」
「っ、ま、待ってくれ!」
レダンは慌てた。言いたいだけ言って、すぐに去らねばならないほど、彼が立ち急いでいる事に気付いた。
「カーレンの封印が解けたら、あんたはっ……!?」
引きとめたい訳ではない。しかし、咄嗟に叫んでいた。
ロヴェは一瞬、足を止めた。振り向いて、二人の時にしか見せない顔を見せた。
くしゃりと、本当に嬉しそうな笑い顔を。
「今の言葉。カーレンが正気に戻ったら、あいつにも伝えておいてくれ……扉、開けておくからな」
一歩を踏み出し、その姿が消える直前に、ロヴェが呟くのが聞こえた。
「――ありがとう、“レイディエン”」
「…………」
伸ばしかけた手が、虚しく宙をかき、力をなくして垂れ下がる。
たった一人、部屋の中に取り残されて、レダンはのろい動作でベッドに座り込んだ。
「レイディエン?」
震える声で、名であるのだろうそれを紡いだ。
――一度も。
ただの一度も、彼からそんな名前で呼ばれた事はなかった。
「“レダン”、って事なのか? ……はは。何だ、それ」
片手で顔を覆うと、左手の甲に、ぱたりと温かいものが落ちた。
一瞬口をつぐんだ後に、そっと、大切なもののように口にした。
実際に、大切なものだった。
「レイディエン……一度も呼ばなかった癖に……レダンは愛称で、そっちが真名だった、って事なのか」
手をきつく握り締め――緩めて、湿った息を吐く。
そうだ。
ずっと、知っていた。炎塔に閉じ込められて、三百年間の幽閉の中で、レダンは彼を恐れながら、それでもどこかでは慕っていた。幼い身体に刺青を刻まれた時も、激痛に泣き叫ぶ中で、あやすように優しい声を聞いていた。
レダン自身の真名を告げたという事は、おそらく、これが別れだと告げたも同じ事。
「……そうだな。ありがとう、ロヴェ」
小さく。
届いて欲しいと願った。一度も呼ばなかった呼称を使って、願った。
「ありがとう――父さん。俺を、生かしてくれて」
レイディエン・ラリアンは、そうして、胸の中の想いを膝と共に抱いた。
天井を仰いで、溜息を吐く。ややあって立ち上がった。
一歩、二歩、――三歩。四歩目で、外への扉の中に入った。
暗い闇を潜り抜けると、顔に夜の冷たい風が当たった。いつか憧れ、手にした開放感と共に、手足の鎖は拘束の金具もろとも、どこかへと溶け去っていた。
全てを振り切るように目を見開いて、身の内のドラゴンアイを呼び覚ます。
青い魔力を周りに渦巻かせながら、レダンは口の中で呟いた。
――さぁ。やるべき事をやろうか。
塔の上に降り立った月光のドラゴンは翼を広げる。
遥か空へ向けて、高らかに咆哮を上げた。
□■□■□
「……」
ディレイアの塔に白銀のドラゴンが舞い降りるのを、エリシアは黙って自室の窓から眺めていた。
――素直に、美しいと思えた。
罪と泥に塗れても、大切なものを失ったとしても、それでも足掻いて生きようとする姿が。
だからこそ、憎かった。
希望を見失った自分が、暗い道の途中で立ち止まって、泥をすくい続けているだけのような気がしていた。彼らが前に進み続ける姿があれほど美しいのだとしたら、復讐のただ一点に拘って、ここに居続けている自分は醜いのだろうか。
(『……惨めだと思うのは、おまえが心のどこかでドラゴンを憎む事を認めていないからじゃないのか?』)
(……違うわ。ロヴェ)
絶対に、そんな事じゃない。
自分から奪って、大切なものを傷つけていった奴らは、もがいてもがいて苦しんで、自分と同じように暗い感情に埋もれて死ねばいい。
ずっとそう思っていた。
(逆、なのよ。逆だったの)
憎めないから、惨めだったのだ。
気付いた時には、自分を拘束していた魔術が消えていた。
『君はカーレンの寵姫か?』
魔術の檻を叩き割ったのは、白銀の髪と、鮮やかな紫の瞳を持つ男だった。寵姫、という言葉の意味が分からなかったが、とりあえず頷いた。
『あいつがカーレンを潰しにかかっている今が好機だ。……俺が自分を制御できなくなる前に。早く逃げろ!』
彼は先ほどまでとは違う、苦悶に満ちた表情を浮かべていた。
『あいつって、あの黒髪の人? あなたは一緒に行かないの?』
『……行け!』
苛立つような声と共に、背中を押された。何かを跳ね除けて必死に叫ぶ彼の声に、頷きながら転ぶように走り出した。
『たくさんの命を奪った……赦してくれなんて言わない……俺が、俺である限り、絶対に』
耳に残る、小さな呟き。
『ただ……カーレンは。彼だけは赦してやってくれ。君は、彼の大切な――』
声を風が掻き消した。
煽られて更に勢いを増した炎の中を走っても、不思議な事に、彼らは少女を舐めようとはしなかった。まるで自分を恐れるかのように、ひらりと身をかわしていく。
今から思えば、その時自分はカーレンの力を現している事に気付きもせずに走っていたのだろう。相当に疲れるらしく、滅多に見せてはくれなかったが、炎だけでなく大抵の自然の物はカーレンの意に従わせる事ができた。そんな力の純粋な塊とも言える少女が、真っ直ぐ進むという意思を持って走っていたのだ。炎が自分を焼き尽くせる訳が無かった。
しかし、他は違う。何もかもを灰に変える。少女だけを残して、国の全てが無へと帰っていく。
『やだ……カーレン、やだよ。置いてかないで!』
涙を流した。
『う……ひぐ……いなくなっちゃやだ……どこぉ、カーレン!』
――そうして、既に息を引き取った、友達の姿を見つけた。
カーレンは彼らを見下ろしていた。その手に紅く濡れた剣を握って。
少女が見ている目の前で、少年が貫かれ、がくりと膝をついた。そのまま力なく地面に伏して、ぴくりとも動かなかった。
『あ……』
思わず漏らした声に、ぴくとカーレンが反応する。その目は恐ろしく凍えていた。だが、少女の姿を捉えた瞬間、その瞳が驚愕に見開かれた。
『……ティア』
呆然とした顔。
呼ばれただけなのに、肩が揺れた。
――嘘だ。
違う。こんなの、嘘。
嘘。嘘、嘘、嘘、嘘嘘だ嘘嘘嘘嘘嘘うそ嘘うそうそ嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘だ嘘じゃない嘘よ嘘――ッ!
『ティア!』
異変に気付いたカーレンが声を張り上げた。
『――ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?』
辺りが。純白ともとれるような、銀の閃光に染まる。
何が起こったかなんて分かる訳がない。
どこか遠く、自分の知らない場所で、全てが滅びていくのを感じていた。――やがて暴走の果てに、炎の中で正気に戻るまで。
我を取り戻しても、けれど彼を心配する自分を嫌悪した。
暴走の最中、彼の欠片を受け取らされていたのを思い出して、それで自分の力に鍵をかけた。誰が見ても、カーレンの力だとは分からないように。もうこんな怖い力が、使えないように。
少女を追ってきたカーレンは、何も言わずに赦してくれた。
その時、両耳に輝く耳飾りのうち、右の方を外すと、少女の耳へとつけた。
足音がもう一つ、角の向こうからやって来ていた。
現れたのは、瞳を紅く染めた、先ほどの白銀の男だった。白い衣服には血も焼け焦げの跡もない。完全な白い死の神がそこにいた。
咄嗟に、カーレンが少女を抱き締めた。ドッ、と嫌な音と衝撃があった。くぐもった呻きが漏れ、つぅっと頭上から地面に向かって紅い筋が滴り落ちた。
絶句して見上げると、口を拭いながら、カーレンが虚ろな笑みを浮かべた。その間にも、傷がどんどん、彼の背中に増えていく。
『必ず、片割れをもう一度、一対の翼にする。約束だ……私が迎えに行くまで、うっかり死ぬんじゃないぞ』
今にも死にそうな、傷だらけの姿で冗談を飛ばす。その背後に、止めを刺そうと白刃が迫っていたにも関わらず。
手を動かして、魔術の軌跡を描く。
『させないよ』
背後から穏やかに、彼にとっての地獄の訪れを告げる声が聞こえた。
カーレンは右の胸を貫かれた。少女が小さな悲鳴を上げるが、彼は構わず、描いた奇跡の光をそっと弾いた。光が胸に触れる寸前に、頭を激痛が走る。何かが根こそぎ奪い取られていくような、そんな感触があった。
『間に合わなかったか――』
そのまま死へと続きそうな溜息と共に、カーレンの呟きが漏れていた。彼の頭部に、カーレンのものではない手が当てられている。
苦痛に歪む表情が見えた。
『往生際の悪い……諦めろ、カーレン。おまえはどうせ全てを失う』
残酷な言葉を誰かが吐いた。
しかし、光が少女の全てを包んだ時、確かなカーレンの言葉を聞いた。
『――生きろ! 例え、覚えていなくても……必ず迎えに行く』
『……また会えるよね!?』
彼は答えず、凄絶に笑んだ。
――それは、ティアの記憶だ。何度も記憶の中で呼ばれていたのは、ティアの名前だ。
けれども、それを強引に書き換えた。
怖かったから。
自分がティア・フレイスでないのなら、エリシア・メイジでもないのなら。
自分は誰なのかが分からない。
それが怖かった。
「どうしてよ……」
震えるそれを止めようと、固く握った手の上に、もう片方の手の平を乗せて包み込んだ。
「何で、よ。全部、奪って、殺して、傷つけたのはあなたじゃないの。私を一人にして、汚したのはあなたじゃない……っ!」
なのに。
「どうして、そんなに必死にティアに手を伸ばすのよ。どうしてあなたはあんな顔をしたの! どうして、あなたはあいつを赦すの! ティア!」
嫌だ、と呟いた。
「嫌よ。一人は、いや……一人ぼっちになんかなりたくない……! やだ……カーレン。ひとりにしないでよ」
呟きも、虚しい。偽者の声が届くものか、と、どこかにいるもう一人のエリシアが自分を嘲笑う。
それに、「ひとりにする」も何も。
最初から自分は、カーレンの寵姫でも、ティアでも何でもないのだ。
膝から力が抜けた。
ずるりと、泥の中に沈み込むように、時間をかけて座り込む。
――そういう事だ。一人で寂しかったのは、自分の方。残されたと思い込まされて、勝手に恨んでいたのも、自分の方。ルヴァンザムは自分を助けてくれたのではなく、ただの駒として自分を利用した。
どうせあの炎の中で助けてくれるのなら、カーレンが殺してくれれば良かったのに。
ティアの言った通りだ。覚えているのと、忘れているのとで、全く違ってしまった。それに、忘れたのは彼女のせいではない。ただの偽体が記憶を持ち、エリシア・メイジという少女であるために、ルヴァンザムがティアから記憶を奪ったせいなのだから。
作り物。紛い物。なのに、感情に囚われて苦しまなければならない自分から目を逸らしたくて、思い返す度に無意識にそこは空白になっていた。
――こんな、偽物の身体に、偽者の心を抱えて。自分はどこにいけばいい。
項垂れたまま目を閉じていると、窓の縁に唯一、まだすがりついていた手の先に、何かが触れた。
「……?」
薄っすらと瞼を明ける。
曇った空は、時々しか月の光を漏らさない。部屋の中は灯りもつけず、暗かった。
なのに、あたりはぼうっと、銀色に明るい。
(ああ……そっか)
エリシアは顔を上げた。小さく、皮肉るように微笑みながら。
漆黒の鱗に覆われたその身体は、いつもの黒衣に身を包んでいるようだった。宙に浮いて彼の周囲を舞っている鱗は銀の光をまとっており、それで部屋全体を仄々と照らし出していたのだ。
「ティアがいるのはここじゃないわよ? ……どうして、ここに。私なんかの偽者のところに、あなたは一体何をしに来たの? カーレン・クェンシード」
「……、」
真紅ではなく、銀の瞳をしている彼は、目を細めてエリシアを見下ろしただけで何も言わなかった。
「……」
じっと恨みがましく見上げていると、こちらが馬鹿のようだ。
視線を外して俯くと、溜息混じりに吐き出した。
「やめてよ……」
もう十分。虚仮にされるのは懲り懲りだ。
「どうせ来るんなら、私を連れて行ってくれればいいのに……そうする気もない癖に」
これが最後なのだから、思う存分詰らせてくれたっていいものだろう。
思いながら、エリシアは投げやりに言葉を繋ぐ。
「期待なんか、させないで」
彼の足先に僅かに触れていた手を引っ込めて、庇うように胸へ抱き込んだ。
一瞬、触れた指先に心を向けた自分を恥じてから、手を離す。
窓から距離をとって、エリシアはのろのろと立ち上がった。
目線は合わせない。合えば、きっと決意が崩れてしまう。
カーレンを迎え入れる気はなくても、そっと両腕を広げて、震える唇を動かした。
「殺して――それが、あなたにできる私への償いよ」
「……」
「どうしたの? ティアを奪った私に対して、何も思うところがなかったなんて――そんな事ありえないでしょう」
無言を貫き通すカーレンに、苛立ちを覚えた。
何故殺さない。
「殺しなさい……早く!」
それでも、カーレンは動きを見せない。
「殺せって言ってるのよ!」
「エリシア様!」
絶叫したエリシアは、背後からの悲鳴にぎょっと背中を強張らせた。
振り向くと、部屋のドアを蹴り破るように、エリックが中へ転がり込んでくるところだった。
状況をすぐに見て取り、走って上気していた顔の血相が変わった。
そして、カーレンが動いた。
おもむろに、ぐらりと身体を前に倒し――加速した。
肩口を掠めるように、物理を無視した速さで、カーレンはエリシアを素通りしてエリックに飛び掛かった。
エリックの身体が横殴りに吹き飛ばされるのを見て、エリシアは悲鳴を上げた。
「エリック! ……やめて! 殺すのは私だけで十分でしょ!?」
何となくだが、分かっていた。今の彼は――正真正銘、ドラゴンという世界最強の、誇り高き種族であるのだと。
「――おまえは殺さない」
崩壊した壁による土煙の向こうで。
熱に浮かされたような、けれどぞっとするほど冷えた声が聞こえた。
「ティアの匂いがする……だから、おまえは殺さない」
「匂い……?」
言われて、気付く。
そういえば、昨日の夜にティアに触れてから、まだ湯浴みもしていなかった。
まさか、そんな事で敵味方を判断したのか。
だが、それは違うとすぐに分かった。
「寵姫が触れたのなら……それは、寵姫のもの。奪う者は殺す」
銀の目に見据えられ、エリックが息を呑む。明らかな理性。しかし、それは人間には理解できないドラゴンの理性だ。
「――生かすも殺すも、彼女が決める。邪魔をするな、人間」
絶句する二人に対し、カーレンはエリックから離れると、エリシアの方へと近寄ってきた。
「それから――ティアのものなのなら」
首を傾げただけで、恐怖を感じる。
後退するエリシアに、カーレンは手をかざした。
「外見は偽らない方がいい。アンジェリーナ・サシャ・ディアン」
「――何だと?」
目を瞠り呆然とするエリシアの耳に、エリックの間抜けとも言える声が届いた。
視線を送ると、ふらつきながらも立ち上がった彼は、こちらを凝視していた。
何かの見間違いであって欲しいと、そんな風に顔からは読み取れた。
きょとんとしていると、視界の端で、さらりと金が揺れる。
カーレンの髪ではない。自分の髪だった。
「え……?」
「勘違いするな。おまえを迎えに行くのは――私ではない。直に、ここに来る」
言い残して、カーレンはエリシアの脇をすり抜けて行く。
「っあ、ちょっと」
つられて振り向いた時には、既に窓から彼が飛び降りた後だった。
「…………エリシア様が?」
呆気にとられていると、背後から声がした。
振り向いた途端、万力のような力でしっかりと、エリシアはエリックの腕に抱かれていた。
「サシャ、だったのか……なぜ? 死んだのでは……」
サシャ。
――サシャ?
(私は……誰? ――私は、サシャ?)
ぱきり、と。頭のどこかで、何かが割れるような音がした。
「あ」
目を丸くすると、エリックと目があった。
「エリック……」
――分かった。
自分が、誰なのか。
ぽかんとした顔でお互いに見つめ合っていた事に気付き、エリシアは、苦笑した。
「ごめん……私、生きてた」
「――どういう事だ?」
「ちょっと……待ってて」
彼の抱擁から何とか逃れると、急いで鏡台の前に立ち、自分の姿を確認した。
金の髪に、碧の瞳。確かに、以前の自分だ。九年前の自分の、九年後だと思われる、どこからどう見ても立派な貴族の少女の姿がそこにあった。
振り向くと、思考の混乱が頂点を極めているであろうエリックがいる。その心中を察しながらも、エリシアは――サシャは、どうするべきか、必死に冷静になって考えた。
「まずは、あの子を助けないといけない」
そのためには。
「え。あ、ちょ……サ、サシャ!?」
貴婦人の品格など、今は邪魔な飾りでしかない。なりふり構わず、サシャは台の引き出しから小刀を取り出し、ドレスの裾を腰のあたりから一息に切り裂いた。
これで走れる。
ぎょっとして紅くなったり蒼くなったりするエリックの手首をひっ掴んで、勢いよく言った。
「何から説明すればいいかしら。まずはシウォンを迎えに行かなきゃ。身体が辛いだろうけど、行きましょう」
「行くって、どこに……!?」
「決まってるわ」
部屋の外にエリックを支えつつ飛び出しながら、サシャは叫んだ。
「レダンの所よ! 一番目立つ場所に行くの!」