Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-8- 夢と狭間と現実と

 起きるまでに、随分と時間がかかったように思った。
 あれは眠りというよりは、無理矢理意識を落とされた感覚に近いのかもしれない、とティアは感じた。一度死んでまた生き返ったのではないかと思うほど、眠ったという感覚が欠落している。
 今はいつなのだろう、とぼんやり考えながら、ようやくティアの瞼は開いていった。
「……ぁ」
 掠れた声が出た。寝たまま、身体にだるさも何もない事を知る。目を擦りつつも起き上がると、ふわりと何かが肩から落ちた。
 何が落ちたのか、ほとんど条件反射で、青々とした草に覆われた地面に目をやった。
「……花びら?」
 白いそれを摘み上げ――そこで、ようやく周囲の異変に気付いた。
「――え?」
 唖然として、ティアはしばらくそのままで固まった。
 頭が状況を拒絶している。他人事のようにそんな考えが浮かぶ。
 たっぷりと秒数を数えてから、時間は再び動き出していた。

「――何、これ」

 花と、花と、花。時々、草や地面が見えるが、とにかく花だらけの場所だった。
 木々が多いところを見ると、ここもまた森の中なのだろう、ところどころにある木漏れ日が温かに揺れている。木が生えている場所以外の地面は全て白い花の絨毯に覆われていて、それがどこまでも続いていた。
「夢みたい……変なの」
 しかし、本当にここはどこなのだろう。
 起きたら朝になっていた、とするにしては平和すぎる気がした。日差しの温度からしても、今はどう考えても昼間だった。ロヴェに眠っている間にどこかに飛ばされたのだろうかと考えたが、意味のない事に思えたので、やはりこれも違うのだろう。
 結局、どこか知らない場所に、何だか分からない間に自分は来たのだと、ティアは結論付ける。
 立ち上がると、どうも坂のような場所に寝ていたらしい。下に広がっている花の絨毯を一しきり眺めてから、ティアは振り向いて上の方を見上げた。
「……家がある」
 ますます現実味がなくなってきた。
 木々の間にひっそりと隠れるように、そこに家があった。こぢんまりとした佇まいが、どこか懐かしさのようなものを胸に去来させる。
(知らない場所なのに)
 しかも、よくよく眺めてみると、家は見た事のない様式だった。一昔は前に建てられたのかもしれない、と適当にティアは当たりをつける。
 ドアの前に立って見上げてみると、小さな煙突からはのんびりと白い煙が細くたなびいている。
 人がいると分かって、ティアの身体に緊張が走った。
 ここがどこか、聞けば教えてくれるだろうか。
 恐る恐る、ドアのノッカーに手を伸ばす。
 二回だけ叩いてみて、少し待った。
「…………?」
 返事が返ってこない。人がいるのは確かなはずだが、と煙突をもう一度見上げる。
 考えてから、そっと取っ手を握った。意を決して内側へとぐっと押すと、あっさりと、大した抵抗もなくドアは開いた。
 頭だけをのぞかせて中を窺うと、暖炉でちろちろと燃える火が見えた。暖炉に鍋をかけるらしき場所は煤で黒ずんでいて、使い込まれている事が一目で分かった。中の壁は漆喰か何かで作られているのか、白かった。
 始めにそこまで眺めてから、ティアは横へと目線を移し――再び、固まった。
(……え…………)
 目を見開いて、眼前の光景を信じられない思いで見つめた。

「……カー、レン?」

 部屋の中央。
 クッションを敷いた木の椅子に沈みこみ、足を組んだ上に本を載せて静かに読みふけっていたその男は、間違いなく、死んだと思っていたカーレン・クェンシードその人であった。
 カーレンはティアの声に気付いて、我に帰ったようにぴくりと頭を揺らした。長時間同じ姿勢をしていたのか、ゆっくりと首を持ち上げて顔をしかめ、なおかつ、ティアの存在を認めて、呆けた顔をしてみせた。
「――珍しい」
 ぽつりと呟く声も、やはり聞き慣れたそれだった。
「人間なのに守りをすり抜けてきたのか。……あいつは何をやっているんだか」
 呆れたようにぼやく声に、ティアは眉尻を下げた。
「……何を、言ってるの?」
 言うと、カーレンはこちらを見つめ、目を細めた。
 見据えられたティアは、背中を凍らせた。カーレンの眼差しは、明らかに見知らぬ者に向けられるそれだった。
 彼は自分を知らず、そして、警戒している。
 このカーレンを、ティアは知らない。
 そう思わせるのに決定的だったのは、カーレンが発した一言だった。
「君は誰だ? それに、どうして“俺”の名前を知ってる?」

 身が震えた。

「ティア……ティア・フレイス」
 名乗る声には怯えが出てしまっていた。

 ――ここはどこだ。

 愕然とその場に立ち尽くし、ティアは呟いた。
「これは……夢なの?」
 そして、意外な反応が返ってきた。
「……夢?」
 最初、怪訝そうな顔をしたカーレンが、次の瞬間、急に身を強張らせた。そして、合点がいったとでも言うように、またすぐに身体から力を抜いていった。
「ああ、そうか……そういう事か」
 訳が分からずにティアが瞬きを繰り返していると、カーレンはじっとティアを興味深そうに見つめた。
「安心していい。ここは現実じゃない」

 一瞬、耳がおかしくなったのではないだろうかと思った。

「俺も、君が知る現実のカーレンとは違っている。……だから、言われるまで君を思い出せなかった。俺は、原初に在ったカーレンだから」
「……え?」
 聞き返すと、カーレンは噛み砕くようにゆっくりと言った。
「つまり、これは、君が見ている夢だ。そして、現実に起こっている事でもある。……君は、もう一つの今に、夢を通じて来ていると考えたら良い」
 必死に考えて、ティアは確認するために聞き返した。
「じゃあ、本当の私は?」
「おそらくまだ眠っている。君が眠りに落ちた場所で」
 カーレンは本を脇の机へと押しやると、立ち上がった。
「ここに来たのもきっと、何か意味があるんだろうな。ここには何もないが、まぁ――茶ぐらいなら飲んでも構わないだろう。……入らないのか?」
 言われても、ティアは入り口に立ち尽くしたままだった。
 現実であって、現実ではない。矛盾に満ちているのが夢だとしても、それを平気で口にする彼に違和感を覚えないのは何故なのだろう。それが、また別の意味で妙だった。
 水瓶から薬缶へと水を汲みながら、彼は聞いてきた。
「パフィアの花で来たんだろう? 白い花が近くに咲いていたはずだ」
「あ……あの花」
 思い出して、頷く。
 そこに座って、と促され、ティアは二つあった椅子の一つを選んで、腰を下した。もうどうにでもなれと思ったためだ。
 しかし、カーレンの話からして、他にも共に暮らしている者がいるのだろうか。
「三人で暮らしているの? 両親?」
「いや。親が一人、弟が一人……いるはずだ。親は始めから一人だ――もともと、俺は無から生まれた有であるから。糧となる血を与えられたから、肉親だというだけだ」
 ぽかんと、ティアはカーレンを見上げた。薬缶の水を一言呟いただけで沸騰させた彼は、適当に茶葉らしきものをそこへ放り込んでから、カップと共に机の上へと持ってきた。
 どこからどう、話に踏み込んでいけばいいのだろう。
 ティアは呆然としている傍ら、自分にできる限界の速度で思考を巡らせていた。
「はずって」
「よく分からない。……たぶん、俺が夢の中の存在だからだろう。分岐点では、弟はまだいなかった。だから、日常で何度も顔を合わせていたとしても、俺は弟の顔を知らない。過去とか、時間が欠落しているんだろうな。ここには本当の意味で、もう一つの現在しかないという事だ」
 分岐点、とティアは繰り返した。そこからのもう一つの未来がこれだというのだから、時間の中での分かれ道、という解釈で間違ってはいないだろう。そして、現実に起こった事をおそらく彼は知っている。
 だから、ここには本来の現実も含まれている。
「……無から生まれた有、っていうのは?」
「純粋に、莫大な魔力の中で俺の卵が発生したという事。弟と一緒に」
 カップに茶を注ぎ、カーレンは答えた。
 差し出されたものを受け取ると、頭で整理しつつ、どこかで聞いた、と思い返した。
「そっか、シリエルから聞いたんだっけ……でも、あなたがそうやって生まれたなんて、知らなかった」
「当然だ。俺は起こった事を覚えていないだろうからな」
 言いながら、カーレンは椅子に再び座り直した。
 ティアは暖炉を見つめる彼をじっと眺めた。
 やはり、そうだ。現実の方しか知らないはずの事を、こちらもある程度知っている。
 同じ事を何度も確認し直して、ティアは内心で一つ頷いた。……信じられないが、間違いない。
 それでも、今の内に、聞いておける事は聞いておいた方が良いのかもしれない。
「じゃ、どうして覚えていないの?」
「……ドラゴンアイが暴走した。俺は力を親に封印されたんだが、その直前に、逃げたいと願ったんだ。何も知らない存在に戻りたかった。そうして、俺の身体は時間を逆戻りした」
 淡々と語り、カーレンは目だけをティアに向けた。
「俺のドラゴンアイはただのドラゴンの力じゃない。覇王の力だ。俺が望んで行いさえすれば、その力は使いようでは世界を変える事だってできる。実際に、ロヴェ・ラリアンとルヴァンザムは千年の昔、闇の時代に光と風をもたらした。もしも二人が違う事を望めば、あるいは世界の覇者になったかもしれないな。最も、俺は別に何も望みはしていないが……現実の方は、どうだろうな?」
 紅い目は、何かを問いかけているようだった。そして、その意味を理解するのに、ティアは考える必要は無かった。
「……私は、彼の寵姫だから」
 その力を扱えるのは、現実では彼だけではない。自分もまたそうであるという事なのだろう。
「そして、途方もない危険に晒されてもいるな。俺から真実を引き出さなければならないほどに」
 呆れた様子でもなく、淡々と言い当てられる。頷くしかない。
 だが、話している間に、違和感を覚えていた。
「ねぇ、……夢なのに、これは現実なの?」
「俺が語った事は、全て事実。ここにいる俺は、全てが嘘。ここは虚構の場所だ。望んでも決して届きはしない場所」
「でも、存在したはずのカーレンでしょう。あなたは初めからいたんじゃないの? 本当に一人しかいないのに、どうして別々だって思うの?」
 言われて、カーレンは身を強張らせた。
 ――違うはずだ。
 ここは、確かにカーレンが言うように虚構の場所だ。だが、目の前の存在は嘘ではなかった。現実であって、現実でない。本当の今も嘘の今も、元を辿れば一つの過去しかない。
 彼は原初の存在であり、現実であり、もう一つの今である……そうすると、どうなるか?
 ここにいるのは、一人の『カーレン』だという事になる。
 ただ、彼が言っているように、本人は現実から自分を隠しているに過ぎない。先ほどティアに見せたように、自分でも戸惑っているのだ。『どちら』に自分を合わせるべきかで。
 夢の中のように不確かになって、そして、眠りの中で、彼もまた迷っていた。

「生きていたのね。カーレン・クェンシード」

「……よく、分かったな。鋭いと言うべきか?」
 はっきりと呼びかけると、カーレンは一瞬驚いた顔をしてから、自嘲するように薄く笑い、顔を小さく背けた。
「不思議と、死ぬ事はできなかった。まだ、何かを望まれている気がしたからだ」
 ティアは頷いた。
「私、もう一度あなたに会いたかった。――ねぇ。本当に、事実しか言っていないの?」
「親と弟がいるというのは、分かる。だが、弟は本当に知らない。幼い頃、自分を俺と言っていたのも思い出した。……だから、迷っている。目覚めれば時は動き出す。その時が、――私は、怖い」
 一瞬、自分を指す時に迷ったのを自嘲し、彼は力なく笑った。
「自分が自分でなくなる気がした。今までずっと自分はカーレン・クェンシードだったのに、今はただのカーレンにしかなれない」
「……それで、いいんじゃないの?」
 ティアはカーレンを見つめた。
「最初から、カーレンは一人しかいないじゃない」
「目覚められないと言っただろう……無理なんだ」
 言って、カーレンは顔を覆う。
 ティアは首を傾げた。それだけではよく分からないと感じて、もう一つの事を聞く。
「じゃあ、何が怖いの?」
「――ロヴェが成そうとしている事を、受け継ぐ事が」
 ぽつりと、重い言葉が落とされた。
「彼の想いを継ぐのならば、ルヴァンザムを殺さなければならない。それは……きっと、歪められる。憎しみによって、ただの復讐になってしまう。ルヴァンザムは私と弟を引き離したし、私を守るために立った親も、その手にかけられた。それでは、誰も救われはしない。死に逝く者の全てが、安らかに眠れると思うか? 考えるまでもない。否だ」
 ――迷っていたのではない、とティアは気付いた。
 ただの、カーレン個人になる事。それは、確かに簡単なようでひどく難しい事だ。今までの自分の全てが、現在の自分に繋がっている。
 自分と過去の自分を別々に分けてしまう区分け――記憶の境界を取り払う事が、彼の目覚めへと繋がるのならば、それは逆に目覚める事が恐ろしいと言うカーレンにとって、どうしても乗り越えられない壁に変わる。
「目覚めれば、きっと私は狂って暴れ出す。それがおまえに止められるか、ティア。いや……私を、止めてくれるか」
 ティアは、頷いた。
 何のためらいもなかった事に、逆に疑いの目を向けられたため、ティアは微笑んだ。
「だって、――あなたの心を救えるのは、私しかいないらしいから。私はカーレンの寵姫だもの。セイラックで全てを懸けてくれたあなたに、同じように私が全てを懸けないでどうするの?」
「……赦すというのか? 全てを滅ぼして奪っていったのに」
「何も知らずに、あなた一人に罪を負わせていたのは私なの」
「綺麗事を」
 平坦な呟きが、逆に胸に鋭く突き刺さった。痛みを堪え、ティアは微笑したまま首を振る。
 彼は、赦さないでいて欲しいのだろう。レダンがポウノクロスで言ったように、ティアだけは、血で汚したくはないと願ったのだ。
 一人だけで血の河の中に立ち尽くす。それでいいと満足しようとした彼に、自分は自ら河に足を踏み入れて、手を差し伸べに来た。
 咄嗟に切り返しが浮かんだのは、幸運だった。
 それが最高の殺し文句だったのは、奇跡だと思った。

「それを信じた私だから、あなたは私を寵姫にしたのよ。忘れちゃった?」

「……」
 憮然としたカーレンを見つめ、ティアは小さく噴き出した。
「ねぇ、カーレン。――七年前……別れる寸前にしたあの約束。まだ、覚えてる?」
 無言の肯定が返ってくる。
 立ち上がって近付くと、両手でカーレンの頬に触れた。指の背でこめかみにかかっていた髪がのけられて、されるがままになっている彼の耳が露になった。
 左には、一つの耳飾り。右には、何もない。一見不釣合いに見えるそれには、意味がある。
 翼の形を象った、本来なら一対であってもいいはずの、片割れだけの耳飾り。その意味に、オリフィアで見た時は気付けなかった。ただ、それを見て思い出した事があって、レダンに会った時に頼んだのだ。
 リスコの武器屋に預けた一つの物を、取りにいって欲しいと。
「ちゃんと、果たしに行くから。待っててね」
 紅い鮮やかな瞳に目を合わせ、笑った。
「……片割れを、もう一度」
 低い声が紡ぎ、
「――一対の翼にする」
 静かに、ティアが告げた。
 リスコに来た当時、記憶を無くしていたというのに、絶対に手放したがらなかった。
 そう言われたほど、大切にすがりついていたものがある。
 それは、自分の右耳に光っていた、翼の形の耳飾り。
「また、会えるわよね?」
 七年前にも交わした言葉を再び口にする。
 カーレンは静かに、真摯な目でティアを見つめた。
「あの時はまだ、仮の契約だった。いいのか? 本当に寵姫になれば、もう戻れなくなる」
 ティアは片眉を上げた。
「今更それ?」
「今更だからだ。……ドラゴンアイに囚われたら、おまえは人間ではなくなる」
「それは、ルヴァンザムのように人の摂理から外れるという事ね?」
 頷いたカーレンは、だが、と続けた。
「どこかで、それを望む自分もいる。本能として暴走したなら、寵姫としての力は強引にでもおまえに刻まれる。逆に、おまえが本当に心から拒絶するなら……きっと、止まれる気がする」
「じゃあ、あなたを止めない」
「ティア」
 咎めるように向けられた目を覆って、ティアは囁いた。
「約束なの。あなたの心を守るって、私は二人のドラゴンに誓った。彼らの思惑はどうでもいい。私が誓った、その事だけが大切。誓いを果たすためには、私があなたの側にいなければ意味がないわ。――それとも、カーレン」
 吐息がかかるほど間近から覗き込んだ。
「私を傷つけるのが怖い? 傷つくのが怖い?」
「怖いに決まっている。自分を知る事だって怖かった」
 手の平の下で、瞼がきつく瞑られた。
「思い出さなければ良かった。誰かを傷つけてしまうぐらいなら。……父を悲しませたくはなかったのに」
 独白のようにも聞こえる言葉を口にする。
「たとえそうだとしても、いつだって私は変わってきたじゃない」
 ティアは苦笑を浮かべて言った。
「私、傷つけられてでも、きっとあなたに触れに行く。だから、大丈夫」
「……そうか」
 途方に暮れたように、目を覆われた間抜けな格好のまま、カーレンが溜息をついた。
「思い出しても、思い出さなくても、変わらない、か。私がそうなら、おまえは尚更なんだろうな」
 何の事か分からずに瞬いた。
 ぼやくようにした彼から手を退けると、ティアを眩そうな目で見つめてきた。
「おまえは。……おまえの言葉は、命を持つ。気付いていたか?」
 それが、ティアに対する文句のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「だから。おまえの言葉を聞くと、間違えそうになる。人としてのおまえを生かしたいのに、自分の感情が邪魔をする」
 再び、溜息をひとつ。
「おまえを恨む。あの時、私に命の在り方を刻んだ、おまえの言葉を」
「……カーレン?」
 ティアの予想だにしなかった言葉を吐いたカーレンは、苦しげな感情を瞳に乗せていた。
 気付けば、身体の自由が効かない。両腕でやんわりと、しかし固く身を抱き締められていた。
 ティアは焦った。目の前が、覆いをかけられたように暗くなっていく。
「時間切れか」
 呟いたカーレンの声は、ただ無機質なものだった。
「約束してくれ、ティア。おまえから会いに来るのは、後にも先にも、これから起こるただ一度だけだと。さもなければ――」
 最後に消えていく温もりを肺一杯に吸い込み、ティアは目をきつく瞑った。
 忘れまいと。
 だが、彼は、突き放つように言葉を口にした。

「本当に――、本当に、おまえを殺してしまいそうだ」

 背中に痛いほどに食い込む指の感触が、やけに生々しく感じた。

□■□■□

「――殺すって。どういう事……カーレン」
 呟いて、ぼんやりと、花の中に沈みながらティアは目を開けた。
 辺りは不気味なほどに音一つなく静まり返っていた。
 無言で起き上がり、ティアは目だけを動かして周りを確かめた。
 眠っている間に、いつの間にか、森の泉には誰もいなくなっていた。
 ロヴェも、エリックも、ルティスも、その他、泉に集まっていた大勢のブラルも、誰の姿も見えない。
 唯一、何故か隣にブレインが眠っていた。
 意識した訳ではなかったが、ブレインよりも気になる何かに引き寄せられるような心地を覚えて、ティアは泉を覗き込んだ。

「…………え?」

 ぽかんと。思わず口が開いた。
 ティアは水面を凝視した。
 月明かりで僅かに見える程度だが、波紋を広げていくそこに、明らかに月の光ではない色が混じっている。
 夜空に浮かぶそれよりも鮮烈な、銀色の二つの瞳。
 漆黒から変貌を遂げた自分の双眸をまじまじと見つめ、ティアは更にその中に、妙な既視感を感じた。
 見えづらいが……これは、ただ銀色があるだけではない。
 瞳の中で、様々な色が交じり合っている。
 まるで、ロヴェの瞳のように。
「まさか……これって、ドラゴンアイ?」
 水面を見つめ、ティアは自然と呟いていた。
「望んで、行いさえすれば――」

「――世界の全てを統べる事もできる。そうだね。その通りだよ」

 予期せぬ声に、背中が凍った。
 振り返る事はできなかった。振り向かなければとありったけの意思をもってしても、その場に固定されたように動く事ができない。
 いや。固定されているのだ、実際に。
「ロヴェとルリエンは退いたか……まあ、彼らができる最大限の事はしたのだろうけど」
「……ルヴァンザム」
 呻くように、辛うじて声を絞り出す。
「何かな。ああ、動けないのは別に気にしなくてもいいよ。君だって傷つけたくないだろう、その少年――ブレイン・オージオを」
「っ――」
 ぎり、と、身体に巻きつけられた黒い触手。
 眠っていたはずのブレインはいつの間にか目を覚まして、焦点の合わない瞳でティアを見ている。その瞳の奥に紅い色が過ぎるのを見るまでもなく、その行動が彼の意思ではないのは明らかだった。
「どうして、ここに」
「別に大した事じゃあない。ブレインが召喚されたのは知っていたからね。ドラゴンの紋章を持つ者は、丁度使役者と使い魔の関係のように、刻んだドラゴンとその寵姫との間にある種の繋がりを持つ。その繋がりの糸を、一つ私が引き抜いただけ。ロヴェは、それを使って君をカーレンに会わせたようだけれどもね。本来はドラゴンと寵姫の精神は別々のもの――夢と現実の狭間で、出会える訳がないのだから」
 強張った肩にやんわりと、ルヴァンザムの手が添えられた。
 とさりと、再び花の上へと上体が倒される。
 動けぬ悔しさと、これから何をされるのか分からぬ恐怖に歯噛みし、耐える。肩に置かれた手はそのまま首筋を撫で上げて、頬を覆った。
「無理矢理にという事も考えてはいたけれど……眠らせている間に覚醒させるときたか。君への負担を最小限に抑えるためといったところかな」
 震えた所へ、視界に逆さになった彼の顔が現れた。
 垂れる黒髪の中に埋もれているそれは、白い。例え逆さまでも、ぞっとするほど美しく冷酷な微笑がそこに湛えられていた。
「ロヴェはね。アレは、優しい奴だろう? そして残酷でもある。悪なる赤を超えるほどの力の使い手であったけれど、矛盾を抱えるが故に、むごい結果をもたらす事もあった。例えば……レダンがそうなのかな? 一思いに殺せば楽だったろうに、わざわざ呪いを刻んで炎塔と自分の支配下に置いて、その命を繋いでいた」
「……けれど、結果として、兄さんと会ったわ――っ」
「黙って聞いていて。こうして長話をしているけれど、あまり時間もないのでね」
 くん、と喉を押され、声が出なくなった。
「……まあ、そうだね。シウォンと会って、レダンは自由になった。その代わりに自らも罪をその背に負う事となったかな。そんな風に、ロヴェがやる事はいつも良い結果とは言い難いし、たまに自分だけ傷ついていた事もあった。その度に思ったよ、人の心も理解できないが、彼も同じくらい理解不能だとね。アラフルも理解に苦しんでいたかな。最終的には慣れるという結果に落ち着いていた気もするが」
 首を傾げながら、ルヴァンザムは目を細めた。
「結局は、そういう事だ。あのドラゴンは優しくて残酷で、誰かを慈しんでやる事しかできなくて、自分がどうしようもなくなってもそれを続けるほど、馬鹿で愚かなドラゴンだった。ただそれだけだ」
「――、  。 」
 ティアは口を開いたが、ルヴァンザムは相変わらず指で喉を押さえていて、声を出せなかった。
「言いたい事は分かるよ。こうして説明ができるのだから、私はそれでも、それだけ彼を見ていたんだ。ロヴェが私を愛していたというなら、そう、私も彼の事を大事に思っていた。だから、五百年ぐらい前から思い出した。そろそろ終わらせてやろう、と。しかし私の方もそう思われていたようでね――それから、お互いに愛憎に塗れた血みどろの殺し合いだ。希望も何もあったものじゃない。救世を成した二人とて大した事はなく、呆気なく遥かな時の前に心が朽ち果てたという訳だね。それでもまだ救おうというのだから、ロヴェは大した奴だと思うよ」
 くすり、と彼は思い出し笑いをしてみせた。
「さて。優しく哀れなドラゴンの話はこのぐらいにしておこうか」
 喉から指が離されて、咳き込みながら、ティアは潤んだ視界に彼を映す。
「……あなたも、十分に哀れだわ」
「同情かな?」
 彼は愛おしそうな声で聞いてきた。
「生憎と、それは不要だよ。今夜、私が君に望むのは――」
 微笑みを浮かべ、ルヴァンザムは瞳を閉じる。

「――君の壊れた心だけなのだから」

 そのまま、唇が押し付けられた。氷よりも冷たい接吻に、ティアは目を瞠る。
 冷たさはティアの臓腑までもを一瞬で凍てつかせると同時に、その胸の奥底を鋭く刺し貫いた。
 何を思う間もなく、世界の全てが一つの色で塗り込められていった。

 黒い、絶望の色に。


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