Dragon Eye

Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編

第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-7- 世界の底で

「――まぁ、大方は話した通りだ」
 それが締めくくりの言葉だった。
 やっとの事で話を語り終えたロヴェは、溜息をついていた。
 長い、長い話だった。始めはセル・ティメルクと名乗っている青年の過去にだけ触れるつもりだったのが、エリックの質問にもいちいち答えているうちに、あんなに長い話になってしまった。
 だが、これだけ喋ったのだから、それなりの成果はないと困る。
 完全に沈黙したエリックを見つめ、ロヴェは首を傾げてみせた。
「どうだ。少しは彼に対する評価が変わったか?」
「……その話は、全て本当なのか」
「ああ。どんな偽りもない。俺の魂と全てにかけて」
 エリックは信じ難いように首を振った。
「シウォンの話は、まだ良い。信じたくはないが、理解できる。だが……おまえに関わる話は、あまりにも」
「急で、突拍子もないってか?」
 エリックの言葉を引き継いで、ロヴェは薄く笑った。
 無理もない、と思う。
「だが、これで俺の行動する理由は話した。次はおまえが決める番だ、エリック」
 エリックは長い間、目を伏せ、眉間に深く皺を刻んでいた。
 それは、苦悶だ。
 彼が配置した者たちは、何も魔術師だけではない。ひょっとしたら、彼に深く接してきた者もいたかもしれない。ロヴェはそれを知っていたからこそ、あえて判断を本人に委ねた。
 彼が判断を下す事が、延いては彼のためになる。強要したのでは、彼は一生を自分のために彼らを殺したと後悔したまま送る事になる。
「……仲間を、俺に売れと言うのだな。おまえがする事と同じ覚悟を、俺に示せと」
 騎士の言葉遣いまで捨てて、エリックは、彼が個人以外の何者でもない事を示していた。
 握り締めた彼の拳は小刻みに震えている。
 あえて見ぬ振りをして、ロヴェは頷いた。
「覚悟がないのならば、今までと同じようにルヴァンザムに忠誠を示せばいい。滅ぼされるか、それとも生き延びるかは別としてな。残酷な選択をさせているのは、俺も自覚している」
「それを、おまえはまた他の誰かにさせるのだろう? 誰かの生死を左右する、そんな選択を彼女にも強いるのか」
 ロヴェの背後で眠り込むティアを示し、彼は睨んでくる。
 明らかに怒りを帯びた視線を、ロヴェは平静そのもので受け止めた。
「そうだ。ティアはその覚悟を決めた」
「おまえが決めさせたんだ!」
 詰め寄るエリックに、片方の眉を潜めた。
「ほー、そう来るか」
 嘲るように笑う。
 流石に、不快感があった。
 今までどこかずれているとは思ったが、この一言で決定的に決まった。
「そんな事を吐かす甘ったれでも、一人前に騎士を名乗れるんだな」
 言われたエリックは、憎悪の色を瞳にのせる。
「俺が決めさせたって、今おまえはそう言ったよな。“覚悟は誰かが無理矢理決めさせるものだ”って言ったんだな?」
「……何を」
 言質を取ると、ロヴェは顔を壮絶に歪めた。
 決めた。
 ――こいつの価値観を叩き潰す。
「……ならおまえは、今言ったのと同じ事をシウォンに言えるんだな? あいつは誰に示唆される事もなく、自分であの道を選んだのだろうに」
 明らかに彼の顔色が変わった。白い怒りを湛え、今にも掴みかかりそうな勢いだ。
 それを見て、更にロヴェは畳み掛けた。ここで壊しておかなければ、意味がない。
「誰かのためという理由だけで、自分一人の手を鮮血で染め上げた奴は何人もいるさ。カーレンはセイラックを滅ぼし、レダンはバンクアリフを焼いた。オリフィアの将軍だって生きるために殺したが、結果としてそれと同じだけの人間を守った。おそらく誰もが、自分の手でそうすると決めた。守った者、殺した者に詰られ、憎まれる覚悟をした。俺の後ろにいるこいつだって、たった一人の心を助けるために、血の河を歩く覚悟をした――おまえはどうだ、エリック?」
 立ち尽くす人間に向かって、嘲笑う。彼を本当に奮起させるために。
「シウォンが知らなかった事を確かにおまえは知ってるさ。だからこそポウノクロスであの言葉が言えたんだしな。けれど全てを知った今、もう一度同じ言葉があいつに言えるか。実の妹と同義だった従妹の死が、誰に届く事もない感情が、今を必死に生きている奴よりもそれほど大事か。信じていた道を違えてまで意に沿わない事に従うのがおまえの美徳か?」
 そして、全ての表情を意識して顔から削ぎ落とす。
 
 ドン、と。

 地面が揺れ、周りにいたブラルたちがざわめいた。
 土の上に引きずり倒したエリックの頭を踏みつけ、ロヴェは軽蔑の目で見下ろした。
 ああ、ティアを眠らせておいて正解だ。
 こいつは今のところ、自分と同じ目線に立つにすら値しない。

「馬鹿にするのもいい所だ、糞野郎」

 ぎり、と歯軋りの音が聞こえても、容赦をしない。してたまるものかと思った。
「散々馬鹿と罵ってきた大トカゲに踏まれた気分はどうだよ、えぇ?」
 詰られるのが自分だけならまだいい。だが、それが他の人間の心の姿を無理矢理歪めるようでは、我慢がならなかった。
 ただで許すわけには行かない。
 今こいつは自分だけでなく、失いたくないがために足掻く他の全ての者たちを心底から見下して、後ろ足で泥をかけるような事をほざいてくれたのだから。
「動くな」
 逃れようとするのを抑えつける。幾分殺意の混じった声に、エリックはびくりと、明らかに本能的な恐怖から震えていた。
「いい加減に自分の立場を決めろ。おまえが信じていた事をもう一度思い出してみろ。――思い出したか? 思い出したら今俺の言った事の意味を考えてみろ。おまえのそのふざけた口から出た言葉が、一体どういうつもりで出てきたものなのかを、自分と一緒にじっくりと見つめ直すんだな」
 しばらく、間を置いた。
「自分がしでかした事の意味が分かったか?」
 エリックは目だけでこちらを見上げてくる。
「分からないようなら教えてやるよ。耳をかっぽじって良く聞け糞野郎」
 別に、自分が怒る必要はどこにもないようにも思える。だが、それで大切な物が揺らぐくらいなら、自分は率先してこいつを怒鳴りつけてやろう。
「例えその気がなくてもな。おまえは俺だけじゃなく、覚悟を決めて前に進もうとする奴を貶めたんだよ。――そんなのが騎士のする事か」
 足の下でエリックの体が強張った。
 吐き捨てるように言う。
「そんな事をする奴に従っているおまえの仲間も可哀想だよなぁ? 騎士は騎士でも、所詮貴族階級だ。お坊ちゃまには逆らえない。なら、上に立つ奴の志が正しいと信じているしかないだろうが」
『――急げ、ロヴェ。時間がない』
 ルリエンの声が背中へとかかった。
「……分かってるよ。ルリエン」
 静かに呟き、ロヴェは緩慢な動きでエリックの頭から足を退けた。
 だが、彼は地面に伏したまま起き上がらない。
「俺が言えた義理じゃないかもしれない。そこにずっと這いつくばってたいんならそうしてろ。俺たちはおまえを踏み越えてその先を行く。――だが、」
 腕を組み、鼻から嘆息する。
「その前に、今からでも償える事はないか探してみたか? 遅すぎるなんて考えずに、自分の誠意を見せてみろ」
「――っ」
 歯を食いしばり、必死に何かに耐えている男をずっとロヴェは見つめ続けた。
「俺は、違う。もう後戻りなんかできない。やり直しすらできない。そうする事のできるおまえは恵まれてるんだよ……エリック・ヒュールス」
 思わず漏れた本音は、意図していたよりもずっと切実な感情が滲み出てしまっていた。
「だから、まだ戻れる奴らを救ってやれ。俺やルヴァンザムのようになる前にな」
 数秒の後。
 男の震えは止まった。
「……、聞かせてくれ。ルヴァンザム様を殺すと言ったおまえは、彼をどう思ってる」
「それを俺に聞くのか、おまえ」
 ロヴェは疲れて、ぼんやりと呟いた。激昂していた自分に呆れてもいた。こんな場所でいい歳して、青年を地面に這い蹲らせてぐちぐちと説教を垂れて、一体自分は何をやっていたのだろうとも思った。
 だが、これで協力が引き出せたのならば、よしとしなければならないのだろう。
「救うために殺すんだ。それぐらい、あいつを大切に思ってきたさ」
 ふと、頬を冷たいものが伝い、零れ落ちていった。
「――愛してきたよ。寵姫のドラゴンとして。唯一無二の半身とも言うべき友として、な」
 果たして、その言葉は彼にどう響いたのだろうか。
 ロヴェに分かる訳もない。
 しかし、エリックはゆっくりと頭をもたげた。
 のろい動きでも地面から起き上がって、立ってこちらを見つめてきた。
 静かに見つめ返してくる目は、もう何も、余計なもので曇ってはいなかった。

□■□■□

 夕闇を切り裂くように、四頭の駿馬が打ち鳴らす馬蹄の音が響く。馬を駆る者たちは皆、深い紫色のフードマントですっぽりと全身を覆っていた。
 先頭を行く一頭を駆るのは若い青年だった。慣れた様子で馬を走らせ、そのまま後に続く三頭の馬上の四人(一頭だけ二人が相乗りしていた)を先導する。
 ポウノクロスの王都から街道へと出た彼らは、そのまま道を行く事はなかった。街道からそれ、大地に横たわるシウォーヌ河を遡るようにして走り続け、やがて彼らがオリフィアへと到る頃には、辺りはすっかり闇に覆われ、月明かりが僅かに足元を照らすだけとなった。
 街道は一度、オリフィアとポウノクロスの国境となる河の一部で切れてしまう。その街道と街道を繋ぐ舟の渡し場からかなり離れた場所で、彼らは馬たちを止めた。ここから見ても、一応渡し場らしきものがあるのは分かるが、人も馬も何が何だか分からないような大きさにしか見えない。
「さて……まずは第一関門、ってところかな」
 馬に水を飲ませてやりながら、フードを脱ぐと、そっとセルは呟いた。
「ここに魔術師がいるのか?」
「舟の渡し守のふりをしているんだと思う。空を飛んだとしても、川の側なら、まず視界をさえぎるものはこの平地ではほとんどないからね」
 アラフルにそう答えると、セルは振り向いた。
「で、問題は……魔術師をどうするか、って話になる」
「そのまま打ち倒しても問題はないんじゃないか?」
「定期的に連絡を取り合っていると思うから、もしも遠い方から連絡が途絶えていったら、さすがに誰だっておかしいって気付くよ。だから、気付かれずに行くしかないんだけども……河の表面だけを凍らせていくかな。通り過ぎたら溶かせば何も残らないし」
 セルは力を瞳に宿すと、ぼそりと魔術を呟きかけ、
「――伏せて!」
 叫んだ。
 即座に全員が馬から離れ、身を屈めて臨戦態勢を取った。
 頭のすぐ上を、髪の先を焦がすような勢いで炎の魔術が飛んでいく。馬たちは驚いて嘶き、散り散りに散っていった。
 ほとんど転がるように近くの茂みに飛び込むと、隠れながらさらに移動する。
 せまい中で身を縮め、奥歯を噛んだ。
「参った……こんなに早く気付かれるなんて」
「まぁ、仕方ないな」
 舌打ちしていると、エルニスが脇からやってきた。
「どういう事?」
「偽体だ」
 彼が示した先に、ぼんやりと立ち尽くす人影がある。
「ドラゴンの生命力には人並み以上に敏感なんだろ」
「なるほど」
 納得して呟いた。
「それは厄介だね」
 手の中に青い光を閃かせる。セルはそれを手に留めたまま、青く変じた瞳で人影を見定めた。
(見えた)
 口の中で呟くと同時、手を振りぬき、光の刃を投げ放っていた。
 光がその体を貫いた次の瞬間、偽体は下手な人形師が操る人形のようにぎくしゃくと震えた。しばらく痙攣を続け、やがて、不気味な呻きのような音を立てて、崩れ落ちる。身体から黒い何かが立ち上がってもやとなっていたが、それもすぐに弾けて消えた。
「核だけを破壊した」
 唖然とするエルニスの横で、小さく何をしたのかを告げた。
「見えるのか?」
「一度同じものになってるし。感覚を掴めば大体はね」
 ちらりと目をやると、あちらでもワインレッドや紺の魔力が炎塔の魔術師のものとぶつかっている。
「いいぞ、押してる!」
「――セル! 上だ!」
 飛び出しかけたセルに、エルニスが危険を知らせた。
 咄嗟に視線を跳ね上げると、黒い影がふわりとこちらを見下ろしている。
(っ――しまった!?)
 鱗で覆った腕を振るい、落ちてきた攻撃を受け止める。
 白銀の鱗が砕けた。剣だ。それも、神秘殺しの文字を刻まれた。
「騎士――貴方は!?」
 顔見知りの壮年の騎士を認めて、セルは顔を歪めた。
「ジャスティ殿――残念ですが、命を貰います」
「……残念だけど、やられるわけには行かない――よっ!」
 拮抗を崩し、更に氷の刃を放つ。
 彼の命まで奪わなくてはならないのか。心中で呻きながらも後退すると、騎士がエリックのそれには劣るものの、確かな速さで肉迫してきた。
「お覚悟」
「――っ」
 切り裂かれる事を覚悟して、セルは背後に対して空間移動を行う。
「ぐっ……」
 腕に走る鋭い痛み。
 与えられる暴力をろくに知らなかった身体は、それに敏感に反応する。
「こんなの……カーレンや、レダンの痛みに比べればっ……!」
 それでも、目は閉じない。
「僕はこんな所で諦められない! エルニス!」
「ああ!」
 背後から突然現れたエルニスに、騎士が怯む。
 だが、攻撃は届かなかった。
「!? な、に――?」
 別に、エルニスが攻撃を受けたわけではない。セルが切り裂かれたのでもない。
 単に、目の前の騎士が、何かの黒い影によって横から攫われていっただけだった。
 思わず目でそれを追うと、地面に騎士の身体を叩きつけて昏倒させたのは、長い毛をなびかせる黒狼だった。大きさだけで、普段見慣れていたブラルの二倍近くある。
「ブラル!? 黒の森はまだ遠いはずだぞ!」
 エルニスが叫び、こちらを庇うように前に立ったが、セルはそれを制した。
「待って、エルニス。少し様子が変だ」
「変って」
 反論しかける彼の脇をすりぬけ、注意深くブラルに近寄って行くと、セルは小さく首を傾げた。
「……ルティス……じゃ、ないね?」
 紅い目を見て、セルはそう判断した。おそらく、彼の配下のブラルだ。
『始祖ルリエン』
「!?」
 突然感じた思念に、セルは目を瞠る。
『汝らを助けよと』
 ブラルは頭を少し下げた。敬意を表しているらしい。
 面食らいながらも頷いた。
「あ……ありがとう」
「やれ、とんだ助太刀が入ったな」
 背後からかかったアラフルの声に振り向くと、更に五頭ほどのブラルに囲まれて、ベルとマリフラオと共に彼がやってくるところだった。
『魔術師は我らに任せられている』
「奴らの配置が分かっているという事か?」
 アラフルの質問に、ブラルは唸った。ふわりとその身体が一瞬緑の魔力で覆われて、それで始祖と通じ合っているのだろうと察する。
『エリック・ヒュールス……彼もまた一つを選んだ』
「! エリックが!?」
 目を瞠るセルを一瞥し、ブラルは更に言う。
『飛べ。急ぐのだ。間に合わなくなる』
 全員が視線を交わらせ、即座に頷いた。
「マリフラオ」
「ええ、分かっています。馬は私が集めてオリフィアへと行きましょう。貴方がたは早く」
 皆まで言わずに、執事は近くに残っていた馬に跨って一気に駆け去って行った。
 それを見送る事なくセルは振り向く。背後では次々に出現する巨体によって暴風が吹き荒れていた。
 空を仰げば、それぞれ真紅、ワインレッド、翡翠に鱗を輝かせるドラゴンたちの姿がある。
『さて――乗るが良い、聖人の子』
 セルは黙って微笑み、首を振った。
「ううん。今日は、僕も頑張るって決めてるから」
 言いつつ、内の力を解放する。
 ただのぼんやりとした感覚を、はっきりと実感のある物へ。自分の想像になぞらえ、体内に生じた莫大な魔力を作り替えていった。
 そうして、そこに現れたのは。
『――へぇ、やるじゃない』
『なかなかの出来だな』
 エルニスやベルの面白がるような声が上がる。
『ほう……見事だな』
 笑うアラフルに、セルは同じように牙を見せた。
 透き通った体躯は、光り輝く青い魔力。
『本当にドラゴンにはなれないけど、こんな真似ができたりするんだよね』
 言いながら、エルニスたちの半分ほどしかないちっぽけなドラゴンが空に舞う。青い魔力の中に閉じ込められた青年は微笑んだ。
『さぁ、僕についてこれる? こう見えて、見た目以上に速いよ』
『望むところだ』
 全員がそろりと控えめに笑った。

□■□■□

 荒い息遣いが、闇に沈む森の静寂を乱していた。
「くそっ……」
 エリックは木々の間を縫うように移動しながら、側で滑るように駆けるブラルに怒鳴った。
「本当にこっちで合っているんだろうな!?」
 紅い目が一瞬、面倒そうにこちらを見る。
『無論』
 一言、呟かれた言葉はそれだけで、間違いなく自分がディレイアへと向かっているのだと確信させた。
 何が悲しくて魔物に道案内をされなければならないのか。だが、ここに来たのもそもそもはロヴェが空間を繋げるという離れ業をやってのけたからでもある。
 そう、ロヴェだ。
「あの馬鹿ドラゴン……! 間に合わなかったら承知せんっ」
 舌打ちをしながら、己にできる限界を振り絞って、エリックは黒の森を走り抜けていく。


「おまえ、一旦帰れ」

 魔術師の居場所を伝えた後に言われた言葉に、最初、絶句したのは言うまでもない。
「な……」
「戻って、エリシアの側にいろ。俺はしばらくここに居る……こいつと共に、時を待つしかないからな」
 ルリエン・ティウスにもたれ、眠り込む少女の側に膝をついて屈み込む彼の背に思わず、ふざけるな、と怒鳴りつけそうになった。
 散々自分に言うだけ言って、用が済んだらこれか。
 それでもその怒りが爆発しなかったのは、ロヴェの不穏に過ぎる言葉のためだった。
「怒るなよ。ここで無駄に怒っている暇があったら、あいつが完全に壊れる前に行ってやれ」
 踏み出しかけた足が、止まる。
「壊れる……?」
「言葉は悪いが……エリシア・メイジは、あれはティアと記憶で繋がっているようなものだ。一応、パフィアの花で眠らせはしているから、今のところこっちからはそれほど影響はない。……早く行け。手遅れになるぞ」
「待て。おまえはどうするつもりだ」
 言われて、振り向いたロヴェは妙な顔をしていた。
 意識して感情を失くしたような、そんなのっぺりとした無表情だった。どこか空虚な目に、エリックは言い知れぬ寒気を覚えた。
 死人のような。そんな比喩が似合いそうなほどに、暗く落ち着いた、静かな目がそこにあった。
「言ったはずだ。俺は、ここで時を待つ。選択の時を」
 呟きは無機質な響きだった。
 この世界に初めから思うところなどなかったかのように、彼の目はエリックを通り越して、真っ直ぐに死を見つめている。
 深い瞳を覗いて、ようやく気付いた。
「おまえ……まさか、初めから」
 それは聞いてはならない禁忌のように思えた。だが、口をついて出た言葉は止まらない。
「初めから、おまえ、死ぬつもりなのか?」
「ルヴァンザムを殺す。それだけが、俺にできる、唯一のあいつへの償いだからな」
 繰り返して、ロヴェは眠りにつく聖者のように目を伏せる。
 幻だろうか。一瞬、翼を畳み、身を縮こまらせた、くたびれた様子の金色のドラゴンが重なって見えた。
「だが、何もそれをするのは俺でなくてもいい。いや、俺ではいけないんじゃないか。そう思った。だから、俺はどちらを選ぶべきか、見極める」
 それから、ふと思い出したように薄っすらと、瞼を上げた。
「未来か、それとも過去か……。いずれにしても、動けない。最後の輝きが放たれるまでは」
「……どういう事だ」
「おまえ、そればかりだな」
 疲れた笑みが返ってきた。
「どうもしないさ。行け、エリック。次に会う時は……きっと、地獄だ」


「何が地獄だ……!」

 この世の全てが、自分を捕らえる地獄だとでも言うような顔をしていた癖に。
(九年前の……あれ以上の地獄など在り得るものか)
 思って、エリックは立ち止まる。怪訝気にブラルも多少行き過ぎた先で止まって、こちらを振り返った。
(いや……)
 それとも。

「あいつやルヴァンザム様にとっては、世界(ここ)が地獄なのか……?」

 もし。もしも、そうなのだとしたら。
『早くしろ』
 苛立つ声に促され、再び走り出す。
 時折木々の合間から見えるディレイアの塔は、次第に近付いてきている。
 走る間、後ろ髪を引かれるような思いだった。無意識の内にだが――短い付き合いの間でも、一応自分は彼を認めていたらしい、と分かった。
 思えば、始めから彼は予見していたのかもしれない。
 近い内に、起こるべき事が起こるだろうと。
 だからこそ、炎塔が役目を終え、ただの人の集団となる前に、彼は誰にも見えない闇の中から表へと出てきたのだろう。
 ただ、彼を止めて死ぬために。
「……死んで、おまえはどこにいくつもりだ、ロヴェ」
 知らず、奥歯を噛み締めていた事に気付いて、苦さと共に吐き捨てた。
「馬鹿が。分かってるんだろう……愛しているという程の友ならば、殺せるはずがない。逆におまえが死ぬだけだというのが、なぜ分からない――!」
 それを凌駕するほどの意志を身につけるのに、どれほどの覚悟が必要だったのか。
 分かる訳がない。所詮、ロヴェに諭された程度の自分に、理解できる気がしない。
 それでも、言葉が止まらなかった。

「おまえは大馬鹿だ――ロヴェ」

□■□■□

 そっと、眠る少女の頬を気遣うように撫でる。
 泉の水を掬い、やけに渇いていた口を潤しながら、すまないな、と呟いた。
「俺が、おまえにやってやれる事はここまでだ」
 頬から、濡れた指先が唇をなぞり、顎を伝う。
 喉元を滑り降りて、胸へと続くそこのくぼみに、注意して指の腹を置いた。
「 命じる。印を持つ者よ 」
 言葉と共に、指先に銀の眩い光が灯る。
「 主に代わり、姫に代わり、俺がおまえを呼ぼう。来い、ドラゴンの紋章を宿せし者 」
 銀の光は螺旋を描くように、指先を離れ、少女の全身を一瞬包むほど輝いてから、ふわりと舞い上がっていった。
 段々と光はその量と大きさを増し、やがて泉を中心とした一帯が光の洪水に押し包まれた。少女のもたれる漆黒の狼も、眩げにその青い目を細める。
 ロヴェは静かに、現れた時と同じように、ゆっくりと収束していく光を見つめていた。
 銀白色の光は、やがて人の形をとった。
 小柄な身体。赤い髪。日に焼けた褐色の肌も、きょとんと見開かれた赤味の濃い桃の瞳も、ロヴェが知るものだった。
「……ロヴェさん? と、ティア姉ちゃん?」
 ぽかんと口を開けて宙に留まる少年は、唖然としたまま、ティアとロヴェを見下ろした。
「ブレイン。おまえにちょっと頼みたいんだが」
 ちょいちょい、と手招きをして引き寄せると、ルリエンに再び目配せをする。
 ふわりとパフィアの花の濃厚な香りがブレインを包み、あっという間に彼はまどろみの中へと引きずり込まれていった。
「ここで、眠っていてくれ。大丈夫、ルリエン・ティウスっていう最強の護り手がついてるからな」
 いつか自らの子供にも言った、冗談交じりのおやすみの言葉だ。くく、と小さく笑う気配が背後からして、つられて僅かに微笑んだ。
「……この世界が、もう少しだけあいつに優しかったら良かったのにな」
 始祖の腹から少女と少年をずらして、花の中へと横たえる。
 ロヴェは立ち上がると二人に背を向けて、そっと背後で眠る者たちに告げた。
「せめて、時が来るまでは。傷つかずに、安らかに在れ」
 花の中に沈み、穏やかに眠る二人とは対照的に、ロヴェの目に映るのは暗い雲に覆われていくディレイアの姿だった。
 空気は湿ってはいない。おそらく雨は降らないだろう。ただ、全てをかき回すような風が吹くだけで。
 だが、そんな暴れ狂う風すら、これから起こる争いに比べればちっぽけなものだ。

 森の最奥に佇むドラゴンは、紅い髪を揺らし、琥珀の目を音もなく細める。

「さて――誰を残して、誰が去るべきなんだろうな?」
『……それは、おまえが決める事だ』
 優しく、ルリエンが言葉を返す。
 やや不自然な間の後に、ロヴェは頷いた。
「そうだな。俺が決めればいい。最初から決まっている奴もいれば、そうでない奴だっている」
 そして、呟いた。
「俺としては、そうでない奴もできる限り助けたつもりだけどな。なあ、ルリエン。俺はどこから間違えたかな」
 始祖である知己は、深く、溜息を吐く。
『分岐点などいくらでもある。アラフルの誘いすら蹴って、あんなひっそりとした森の村に住み着いて子育てなどしだしたと聞いた時は、いくら友でも我が耳を疑ったがな』
「ああ、慌てて正気かどうか確かめに来たっけな。覚えてるよ」
『……怒っていないと言えば嘘になるだろうな』
 ルリエンは低い声を漏らした。
『あの子を独りにしたのはおまえだ。親の責任放棄など、褒められた事ではない。今更何をあの子にしてやるつもりなのだ』
「別に、何もしてやれない」
 ロヴェは唇を皮肉に曲げた。
『――もう、寄せ。眠ればいいだろう。おまえは当の昔に死んでいたのだから。何がおまえを繋ぎ止める?』
「分かるだろ、おまえなら」
 ややあって、ルリエンは苦々しげに唸った。
『やはり、あれはおまえの魂なのだな? あれほどひどいものを己が子に巻きつけておいて、何が親だ、馬鹿者が』
「言われてしまったな」
 苦笑して、ロヴェはその笑みすらすぐに消した。
「心配ないさ。もうすぐ終わる。その時になれば、もう苦しまずに済むよ」
 まだ口を開きかけたが、ロヴェは結局、語らなかった。
 続きは、もうこの世に出る事はないだろう。胸の内に仕舞われるのみだ。

 そう。もう、苦しまずに済む。

 自分はあの子に、決して癒える事のないかもしれない、消えない傷を刻む。
 深く、深く、抉るように。
 血を吐くほど重く辛く悲しき罪を、子の背中に残していく。
 そうして、自分は眠るのだ。
 絶望に沈み、嘆く子の声を聞きながら。
 どこかで理解していた。そして、どこかで罪悪に冷え切った悲しみと、それに負けぬほど熱く狂おしい渇望を持っていた。
 その深い絶望だけが、ルヴァンザムを殺す。暗い道の果てで、お互いに潰し合って、きっと二人は死ぬ。

 ――自分はあの子の背中を、二度とは戻れぬ絶望の奈落へと突き放つのだ。


Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編
Back  Next