Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-6- 黒の森の王

「おい、場所が分かったって?」
「分かったっていうか……うん、まぁ、推測では」
 夕刻。
 言いながら部屋へ乗り込んできたラヴファロウを見返して、セルは困惑しながらも頷いた。
 会議に使われる部屋らしく、中央に置かれていたテーブルの周りには、既にクェンシードのドラゴンたちとマリフラオが集合している。
 ゆっくりと全員の顔を見渡して、言った。
「たぶん、隠れられる場所があるとすればここしかないと思う」
 自分の前に置かれた地図上に、セルは指を置く。
 示したのは、ラーニシェス家の管轄にありながら、未だに人が入る事のできない場所だった。
「……黒の森?」
 ベルが怪訝な声を上げた。
「“第一位”のお膝元だった場所じゃないの。大小ピンキリ、ブラルのわんさかいる森よ。そんな場所にどうやって乗り込む気?」
 不審そうな目を向けてきたので、セルは苦笑した。
「大丈夫だよ。何だか彼が敵に回った気はしないから」
「彼?」
 聞き返されて、翡翠のドラゴンに目をやった。
「ルティスの事だけど」
「ルティス? ただのブラルが第一位に口出しできる訳?」
「あれ、ひょっとして二人とも知らなかった?」
 思わずきょとんとしてセルは聞いた。
「……どういう意味だ」
 エルニスが眉を寄せる。
(――そうか、しまった)
 セルは思わぬ自分の失態に顔をしかめた。
 アラフルは薄々察していたのだろうと想像できた上に、ラヴファロウもまた、カーレンとルティスの裏の事情には多少通じている。てっきり後の二人も知っているものと思って話を進めてしまっていた事に気付いて、少し反省した。
「ルティスってね、“第一位”ルリエン・ティウスの名を縮めたものなんだよ」
 一瞬の間。
「――は?」
「おい……今何だって?」
 ベルもエルニスも自分の耳を疑ったようだった。
「俺は初耳だぞ」
「何だ、気付かなかったのか。私は知っていたぞ?」
「なら教えてくれたって良かったでしょう?」
 ベルが呆れて目を細める。
「気付く事も大切だ。それに、別に教えたところで大差はなかろうと思ってな。あれも同じブラル。我々の敵でないのならば、仲間に攻撃をさせるような無益な真似はするまい」
「もう、アラフル様ったらまたそう変に誤魔化すんだから」
「……まぁ、つまりそういう事だから」
 苦笑混じりに軽くまとめてから、セルは腕を組んで考えた。
「父さん、つまりルヴァンザムがティアちゃんの近くにいる事を考えると、とにかく時間がない。けれど、ドラゴンの姿になって飛んでいくのもまずいんだ。途中に魔術師がいたら、姿を見るなり即連絡されてしまう危険がある」
「辿り着く前に逃げられる上、邪魔が入る可能性もありか。戦でやったような派手な追いかけっこも考え物だな。隠密行動は性に合わんが、仕方ない」
 となると――。
 全員の視線がラヴファロウへと集まった。
 彼は頷く。
「馬は既に用意してある。準備が出来次第、出発してくれて構わない」
「君はオリフィアに戻るのかい?」
「ああ。おまえらは伝説やおとぎ話のように姫を助け出して戻って来て、でもそれで終わりじゃないだろ」
 ラヴファロウはにやりと強気に笑った。
「戻ってくるだけでなく、次の戦いのために休める場所が必要だ。昨日からマリフラオに手を打つように言ってあるしな」
「……ごめんね。今回の事といい、君は国のために動かなくちゃならないのに」
「言っとくが、俺も国もカーレンには恩がある。ハルオマンドとの戦の時、あいつがいなけりゃ下手したら王都が陥落していたかもしれなかった。俺が恩を返す事に眉を潜める奴はいても、責める奴はいないだろうさ」
 そして、オリフィアの将軍は笑みを消した。
「帰って来いよ。最初にオリフィアに来た時みたいに、カーレンとティアと……レダンの奴と。全員連れて戻って来い。セル・ティメルク」
「うん。ありがとう、ラヴファロウ・スティルド」
 セルは小さく頷いた。
「ふむ。カーレンもうまくやる。情はかけておくものだな」
「……あはは」
 最後に締めくくったアラフルに、思わず脱力した。
「……最後で台無しね」
 言ったベルも少しだけ、安心したような笑みを浮かべている。
 不安はある。だがきっと大丈夫だと、少なくともそう信じていよう。
 妹も、カーレンも、レダンも……誰ももうこれ以上、苦しませたりしたくはないのだから。
 思って、表情を引き締めた。
「明日まで待っていられない。すぐに出発しよう」
『了解』
 それぞれの声と想いが重なった。

□■□■□

 ディレイアの塔の頂に、金色のドラゴンはそっと降り立った。
 皮の翼を一度大きく広げてから、彼は軽やかに、塔を傷つける事なく一瞬で着地する。最大限、振動を乗っている人間に与えぬように細心の注意を払っていた。
 その場で身体の内の動きや勢いを静かに治めると、ドラゴンは首を後ろへと巡らせた。背中に乗せていた少女を丁寧に地上へ降ろしてから、その姿は一瞬で幻のように掻き消えた。
 同じように一瞬でその場に現れたロヴェをじっと見上げ、ティアはしばらく動かなかった。
 一方で、見つめられているロヴェは全く意に介さず、少女の向こうに見つけた人間に向かって声をかけていた。
「へぇ……迎えはおまえだけか。てっきりエリシアも来ると思っていたんだがな」
「エリシア様はルヴァンザム様に呼ばれている。しばらくは戻らん」
「そうか。そりゃ好都合だ」
 ロヴェは小さく頷いた。
 エリックは側のティアをちらりと見やってから、また顔を元に戻した。
「ロヴェ。おまえにルヴァンザム様から伝言がある」
「伝言?」
「第三者からのものらしい。心当たりはあるのか?」
「あぁ――、」
 納得して、ロヴェは首を傾げた。
「あるっちゃあ、あるが。ちょっと待てよ、それで思い出した……おまえに話さなきゃならない事ばかり頭にあったからな、すっかり忘れていたよ」
 ティアへ言いながら、ごそごそと懐を探る。
「ほれ」
「……何、これ?」
 油布で軽く適当にくるんだだけの小さな包みを差し出すと、ティアはきょとんとしながらもそれを受け取った。
「渡してくれって頼まれた。おまえが北で、あいつに頼んだやつだそうだが」
 眉を上げると、ティアは「北……?」と呟きながら、記憶を掘り起こしているようだった。
「レダンだよ。あいつ、おまえの頼みを引き受けるために、短い期間で中央と北を往復したらしいぞ。頼んだ本人が忘れてちゃあ世話無いな」
「あ! ひょっとして、港で頼んだあれ?」
 目を丸くするティアに、何が何だか分かっていないエリックが後ろで首を傾げていた。
「あれ?」
「ん……大事なものよ。あの人に貰った、大事なもの」
「貰った……何?」
「ううん、何でも」
 後の言葉は、小さすぎてエリックには聞き取れなかったらしい。
 ティアは微笑みかけたが、無理にという事は明らかだった。
 ロヴェを見上げて、少しばかりぎこちなく目を逸らしてくる。
「思い出す前に渡してくれれば良かったのに」
「悪かったな、忘れっぽくて。これでも千年生きてるじじいなんだよ……で?」
 冗談交じりに言って軽く少女の額を弾くと、ロヴェはエリックたちに向き直った。
「伝言では何て言ってる」
「ああ……『昼から夕刻まで。森にておまえを待つ』だそうだ。一体誰だ? 外の森はブラルが多く生息している。危険だという事を知らんのか」
「少なくとも、別にあいつは危険じゃないんだろうな」
 理解しかねて困惑する彼に向かって、一つ頷いた。
「大体分かった」
 ロヴェはすぅっと微笑した。ひょいと身を乗り出して、耳元に口を寄せる。
「ありがとうな、エリック」
「なっ」
 思わず虚を突かれたような顔をしたエリックを、面白い顔だと思って間近から見つめた。やがてそれが引きつった表情に変わる頃、身体を戻した。
「ねぇ、森で誰が待っているの?」
 側で声が上がる。
 ロヴェは少女を覗き込んだ。

「知り合い。おまえも良く知ってる奴だよ」

 言って、塔の縁に立つと、振り返って二人を見た。
「ついてくんなよ? あいつ、許可しない奴は食い殺すからな」
「どういう知り合いだ」
 ぼそりと不機嫌な顔で呟いたエリックの言葉ににやりと笑い、ロヴェはそのまま塔から飛び降りた。

□■□■□

 まさか、生身で飛び降りるとは思わなかった。

「ドラゴンって……」
 ティアが唖然としていると、エリックが背後から声をかけてきた。
「それにしても、一体どこで何をしてこられたのです?」
「あ……うん。散歩みたいなものよ。それと、ちょっとした悩み事を聞いてもらったの」
 エリックは顔をしかめた。
「あの馬鹿大トカゲにそんな器用な事が?」
「トカゲって……あんなに綺麗なドラゴンなのに」
「……ティア様は、ドラゴンが好きでいらっしゃるのですか?」
「私? ――人間と同じだと思ってる。悪いドラゴンももちろんいると思うけれど、良いドラゴンがいないとは限らないでしょう? 炎塔の人からすれば、みんな嫌なものみたいだけどね」
 首を傾げてみせると、エリックはばつが悪そうに目を背けた。
「……私には分かりかねます。ドラゴンが美しいと言うあなたの感性も、シウォンがレダンにあそこまでした理由も」
「別に、分かれとは言わないけれども……何というか」
 なかなか適当な言葉が見つからず、ティアは頭をひねった。
「私やセル兄さんにとってね、その存在が自分にとっての全てだったと思うの。何もかもを渡してしまうけれど、代わりに相手からも何もかもを預けてもらえる。出会った瞬間から、その人の全ての運命を変えてしまう……お互いにそんな存在だったからこそ、最初のエルドラゴンのように、寵姫って存在が生まれたんだと思う。上手くは言えないけれど」
「だが、それが悪く転じる事もある」
「……そうね。私も友人やセイラックという故郷を失ったし、兄さんも許嫁だったアンジェリーナとあなたを失ったわ。正直言って私なんか、自由を得た兄さんに比べたら何を得たのか疑問だけど……たぶん、これから訪れる。七年前の事は、まだ始まりに過ぎなかったんだって思う事にしたの」
 言ったティアを、エリックはまじまじと見つめた。
「本当に悩み事を話されただけですか? ずいぶんと、その……吹っ切ったという感じがありますが」
「吹っ切ったわ」
 は、と聞き返される間も置かず、ティアは言葉を重ねた。
「決めたの。一度全てを預けたのだから、何が何でも、ずっと彼を信じていようって。全てを預けた彼はもう生きていないけれど、それでも」
 ふと顔を曇らせると、エリックは妙な顔をした。
 複雑な想いをそのまま告げるべきか否か、決めあぐねているような様子だ。
「…………会いたいのですか?」
「?」
 エリックは数度、唇を湿らせる。
「ここが、嫌ですか」
 エリックを見返して、ティアは首を振った。
「全部、って訳じゃない。でも、兄さんの気持ちも分かる気がしたの」
「え?」
 驚いたエリックから目を逸らして、ティアはディレイアを眺めた。
 森に囲まれた秘境と言えば聞こえは良い。
 だが、ここにはそうではない別の何か……別の意図をもって作られたような、そんな気配がある。
「……私なら、ここには住まない。ここは全てを閉じ込めてしまう。自分の存在も、声も、想いも。言ってみれば、牢獄みたいな場所だから。不思議だとは思わなかった?」
 聞きながら、腕を広げ、七つの塔を示す。
 その間に、数歩、後ずさった。
「何かをここから出さないように、禁じている。でも、誰を?」
 エリックははっと息を呑む。
「いけな――」 「私も――」
 意図に気付き、動き出したエリックに被せるように。

「――“自由になりたい”“世界に出て行きたい”って、ここにいて思った。兄さんみたいに」

 言って、ティアは倒れた。
 背中から。

 何もない空間に向かって。

「ティア様――!?」
 エリックの悲鳴のような声が掻き消える。
 空が遠くなっていく。
 落ちていく時の浮遊感は、ずいぶんと久しぶりのような気がした。
 怖い。けれど、地面に叩きつけられはしないと確信していた。
 世界が歪んだ。
 空気が変わって、光が失われた。

 そして、とさり、と。軽い音と共に、身体は誰かの手で受け止められた。

「やっぱりついてきたな。しょうがない奴だ」
 どこか可笑しげなロヴェの声がした。
「許可があったらついてきても良かったんでしょ? それに、受け止めたって事は私を待ってたんじゃないの」
 半眼になって彼を見上げて言うと、笑い声が落ちてくる。
「大胆だが察しが良いな。ますます気に入った」
 そんな風に答えたのならば、きっと認めたという事でいいのだろう。
 地面に降ろしてもらってから見回すと、視界は全て木で埋め尽くされていた。
「ここって、森の中?」
「そうだ。あらかじめ、塔から降りる途中からここに繋げておいた」
「だからそのまま飛び降りたのね……」
 言った時、背後でどさっと重い音がした。
 頭のどこかで予想はしていたので、ティアは驚く事なく振り向いた。ロヴェも興味深そうに覗き込んでいる。
「で、おまえも中途半端に頭は悪くなかったと。本当にしょうがない奴らだな、おまえら」
「……悪かったな」
 苦しげに、うつ伏せ状態で倒れているエリックが言った。舞い上げた木の葉がいくらか背中に積もっていて、騎士にしてはやや情けない格好だ。
 落下の衝撃でやや息を詰まらせたのか、エリックは咳き込みつつも立ち上がった。
「これ以上おまえの好きにさせていたら、何が起こるか分からん」
「――それはルヴァンザムの命令という事か? それともおまえ個人、エリック・ヒュールスとしての意思か?」
 ティアは僅かに目を丸くした。エリックに向けられたロヴェの声は常よりも鋭く、相手を貫くような意力を持っていた。
 言われたエリックも、動揺したように目を泳がせたが、すぐに落ち着いて彼を見返した。
「いいや。これは私の意志だ」
「…………」
 ロヴェは透明な琥珀の目で、しばらく見定めるようにエリックを見つめていた。
 痛いほどの沈黙に、ティアは喉を小さく鳴らした。
「――ふん」
 やがてロヴェは鼻で笑った。
「いいだろう」
 挑戦するような目にその色を変えて、小さく微笑を頬に刻む。それを見て、エリックはほっと息を吐いて、肩から脱力した。
 ティアも同じ気持ちだった。あの目に見つめられると、自分の奥底まで見透かされている気がしてくる。受け止めるエリックも相当に辛かったのだろう。
 だが、それも次の言葉で引き締まった。
「ここから先、おまえが見た事は全ておまえの中にしまっておけ。それをどう受け取り判断するか、全てはおまえ次第だ。誰かに相談する事も許さない」
 厳しい声でロヴェが告げる。
「他の誰でもない。おまえが自分で、自分を決めろ――シウォンがやったようにな」
 エリックは答えなかったが、ロヴェは了承の意と受け取ったらしかった。
 身を翻し、背を向けたまま言った。
「行くぞ。ティア、エリック」
「――これだけは聞いておきたい。どこにだ?」
 ロヴェは小さく振り向き、瞳を細めた。

「“第一位”、ルリエン・ティウスの御座に」

 暗く、夜の闇を纏い始めた黒の森に、その声は粛々と響いた。


 がさがさと木の葉を蹴散らす音が、静寂のおかげで耳に痛いほどうるさい。
 魔物に気付かれはしないかと冷や冷やしているらしいエリックとは別に、音を出している張本人は平然とした顔で先頭に立って突き進んでいる。ティアは二人に挟まれ、辺りに生えている植物に物珍しさを感じて、きょろきょろしながら歩いていた。
「……ロヴェ」
「ん?」
「……さっきから気になっていたのだが」
「何だよ。回りくどいぞ、さっさと言え」
 エリックはひどくげんなりとした表情を見せた。
「段々増えていないか……?」
「そりゃあな。始祖の所に行くんだ、数が増えて当然だろ」
「いや、そうではなく」
「どうしたの? ひょっとして、エリックは落ち着かない?」
 ティアは首を傾げた。
「逆に聞きたい。……どうして貴女やロヴェはこの状況で落ち着いていられる!?」
 この状況、とは、大勢のブラルに周りを取り囲まれながら前進しているという状況の事だろうか。
「……おまえみたいにブラルが横を歩く事に慣れてないからな。まぁ当然の反応だよな」
 叫ぶエリックを瞬きしながら見ていると、ロヴェが横から言ってくれた。
「あ、そっか」
 納得してティアは頷いた。ちらりと間近にいたブラルを見やると、一瞬鮮血の目と視線がかち合ったが、すぐにブラルの方から逸らされてしまった。
「あ……」
 残念に思って声を上げたティアに、ロヴェが苦笑しながら肩に手を置いて言った。
「仮にも始祖と話した人間だ。直接目を合わせるのは畏れ多いんだろ」
「ふぅん……やっぱり、ルティスって始祖だったのね」
 話を続ける自分たちを見つめ、エリックが遠い目をしている。
「……危機感がなさ過ぎはしないか?」
 聞いてくるエリックに、ティアとロヴェは顔を見合わせた。
「いや――」
「ううん――」
 揃って首を横に振る。
「「――全然?」」
「……呑気過ぎだ」
「――お。見えたぞ」
 肩を落とすエリックを尻目に、ロヴェが声を上げた。
 振り向いたティアの耳に、こんこんと水の湧き出る音が聞こえた。
 日はほとんど暮れかけて、辺りは全く夜と言っても良い程に暗い。その中に、ぼうっと青白く光る場所が見えた。
「あれって……泉?」
 それにしても、黒の森と人々に恐れられている場所にしては似つかわしくない、清らかな空気が感じられる。
 疑問に思いながらも進んでいくと、気付けばティアたちは木々の全くない、円形に開けた場所に出ていた。泉はその場所のやや奥にあり、そこから先は崖の鈍い岩肌が泉の光を照り返している。
 辺りにはむせ返るような甘い香りが妖しく立ちこめており、元を辿ると、泉の近くに咲いていた小さな白い花からのようだった。
 近くから見ると、泉の大きさはそれほどでもないが、ティアが身を丸々沈められそうな位の深さがあるように見える。なぜ泉が光っているのかは、畔に他のブラルたちよりも一際体色の濃い漆黒の魔物が座り、泉に魔力を注いでいるのを認めた事で謎が解けた。
「あ……ルティス!」
『おや、誰かと思えば。久しぶりですね、ティアさん』
 微笑みかけるように蒼い目を細め、今までと変わらぬ調子で彼はそう答えた。
「あ、馬鹿」
 一気に胸に熱いものが込み上げて、ロヴェが呆れるのも構わずに、思わずティアはルティスに駆け寄った。
 飛びつくように彼の首に腕を回して抱きしめると、長く柔らかい毛並みの中に顔を埋める。獣の臭いではなく、足元に咲いている花と同じ香りがした。
『お元気でしたか?』
「うん……! ルティスは? 元気? 大丈夫なの? あれから――ポウノクロスでどこか怪我してなかった?」
 まだ続けようとしているのを鼻で突いて制して、ルティスは可笑しがるように喉を鳴らした。
『慌てすぎです。まずは、ちゃんと話をさせて下さい。今の私はルリエン・ティウスなのですから』
「あっ――と、ごめんなさい」
『別に構いませんが、もう少し気をつけて下さいね? 周りのブラルたちが一瞬とはいえ殺気立ちましたし』
「え」
 恐る恐る周りを見ると、ルティスを囲んでいたブラルはほとんどがあらぬ方を向いていた。どこか気まずそうな空気が漂っている。
 同じように目を逸らしていたロヴェが咳払いをし、呆然としていたエリックもはっと我に帰ったようだった。
「……あー、とりあえず。落ち着け」
「……う」
 何も言い返す事ができないティアは、名残惜しかったが渋々ルティスから離れた。
『久しいな。ロヴェ』
 ルリエン・ティウスとして彼が発した言葉に、ティアだけでなくエリックも少なからず驚いた様子を見せた。
「本当に“第一位”と知り合いなのか、おまえ」
「だからそうだって言ったろ。……まぁ、ちょっとした、な」
 小さく得意げな笑みを浮かべると、ロヴェは正面に向き直り、ルティスを見つめ返した。
『ポウノクロスでの戦いはなかなか良かった。また再戦できれば良いが』
「勘弁してくれ。俺も忙しいんでね。そうそうおまえばかり構ってられないのさ」
 肩をすくめ、ロヴェはすっと目を細めた。
「で? 彼らは既に動いたのか」
『今しがた、ポウノクロスを出たようだな。既に張らせていた者から報告がある』
 会話を聞いて、険しい顔になったエリックが呟いた。
「まさか、侵入を手引きするつもりか……?」
 ロヴェを睨みつけるエリックを見て、ティアは思わず口を覆った。
 彼らとは、まさか。
「兄さんたちが、こっちに向かってる?」
「そういう事だ」
 ロヴェは言った。
「だが、間に合わない。ルヴァンザムはもうそろそろ事にかかり始める」
「ロヴェ……貴様は正気か!? 塔の方を――ルヴァンザム様を裏切る気か!」
 エリックが顔を歪めると、ロヴェはあろう事か、鼻で笑った。
「は……裏切るって?」
 ぎくりと身を強張らせたのは、ティアだけではない。一瞬、凄まじい覇気が周囲に撒き散らされた。
「馬鹿を言え。俺はあいつを裏切るんじゃない。そんな生っちょろい事じゃあいつは止まりはしない」
 言って、更に度肝を抜くような事を口にした。

「――あいつを止めるには、もう誰かが殺してやるしかないのさ」

 ロヴェは、またあの儚い笑みを浮かべていた。
 すいと、彼の指が動かされる。
『すみません、ティアさん。少しの間だけですから』
「!?」
 一瞬、ルティスから漂ってくる花の香りが濃厚になった。泉の水が風もないのに波紋を起こし、中央に生じた雫が真っ直ぐに飛んできて、ティアの上で弾けた。鼻腔に触れる匂いに脳髄から痺れ、ティアの平衡感覚がなくなった。
 視界が横倒しになった。ぐるぐると頭の中が回るような気持ち悪さに、吐き気がした。
「ぅ……」
「しまった……パフィア、眠りの花か」
「監視の魔術師の場所を教えてもらいたい。配置はおまえがしたんだろ」
「裏切りに加担する気はない……!」
 ティアを案じつつも、動けない様子のエリックが見える。苦い顔をしていた。
「今のおまえはエリック・ヒュールス個人。ならば、ルヴァンザムに仕える騎士としてのエリックはここにはいない」
 背を向けているロヴェから、冷たい声が聞こえる。
「言ったはずだ。おまえが自分で自分を決めろと」
「もうその言葉は――」
「九年前。バンクアリフでシウォンに起こった事の全てを話そう」
「……何だと?」
 吐き捨てかけて、エリックは眉を潜めた。
「その後でどうするか決めればいい。無理強いをする気はないからな」
 エリックはしばらく黙って思考に集中していたのか、答える事はなかった。
 そして、搾り出すような呻き声が聞こえたのを最後に、ティアの意識は落ちた。
「……分かった。聞こう」


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