Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-5- 歌い手の問いかけ

 生きたいか?

 誰かの声が聞こえた気がして、目を覚ました。
 まどろみの中で、ふと意識が浮かび上がる――そんな刹那のものではない。
 もっと、はっきりと目覚めを呼びかける声だった。それで、自分の存在に初めて気が付いた。ここに“在る”という事実は、奇妙な実感と共にやってきた。
 次に、ぼんやりとながらも、自分がどこか小さな世界の底に沈んでいる事も分かった。
 世界の外から覗きこんでくる瞳を、ぼうっと見返す事しばらく。じわじわと意味を悟った。

 誘われているのだと。

 やっとだ。
 心の中で呟いた。ずいぶんと長い間、自分がこの時を待っていたような気がした。
 外に呼ばれて、望まれた。とにかく、それが嬉しい事に変わりはなかった。
 ここは狭い。ここは寂しい。暑さも寒さもない。虚無か、それとも全てで満たされているのかも分からない。
 懸命に、手を上げた。小さくて小さくて、物を持つ事すらできるかも怪しい手を、それでも伸ばした。
 ここから出たい――生きたいんだ。
 大きな誰かの指先が、自分の手をそっと撫でた。じんわりとした温もりにくすぐったさを感じた。生まれて初めて、自分が触れた温かさだった。
 ただ、先ほどから何かを考えているのか、指先は迷うように彷徨っていた。

 なぜ生きたい?
 外はとても恐い場所。
 弱いおまえは、出れば死ぬかもしれないのに。

 分からないふりをして首を傾げた。その実、触れ合った手から伝わってきていたものがあったのだが。
 一気に流れ込んだ感情を、気付かれぬよう、時間をかけて理解していく。
 生きる事が苦しいのだ。ずっとずっと長い時を生きてきて、たくさんのものを見てきた。けれども、それでも何が大切なのか、何のために生きてきたのかが分からなかった。
 分からない。自分を壊して、世界を壊して。それでも何も、自分の手に入らない。

 だから――誰か。

 その呼びかけの先に続く言葉を、知ってはいても、彼は決して口にしようとしない。口にすれば、本当に、決定的な何かが壊れてしまうだろうと知っている。
 壊れてもいいのに。逆に、壊れる事で、彼は大切なものを知れたかもしれないのに。
 臆病で、怯えてばかりの寂しがり。精一杯に虚勢を張って自分を守っていた。何よりも脆い心を抱えて。
 その事を知りながら、自分は、分からないふりをした。

 だって、それが、命だから。
 例え何も知らなくても、精一杯に輝ける命だから。
 ありがとう。

 どうして、そう言う?

 一番初めに、教えてくれた。
 温かさが世界にはあるって。
 あなたが教えてくれたんだよ。
 だから、ありがとう。
 ――生み出してくれる事が、愛なんだね。

 おまえはまだ、何も知らないからそう言える。

 ……そうかな?

 知らないふりをしていよう。知ってほしくはなかっただろうから。
 だから忘れる事にした。覚えていてほしい事でもないと、そう彼が望んでいる。
 壊れたって、泣いたっていい。いつかふとした時に、彼はその事に気付くだろう。
 やがて訪れるその時まで、自分は覚えていない事にしておこう。
 初めて得た大切なものを、彼が握り締めていられるように。

 でも、忘れない。
 忘れないよ。

 だから、あなたが思い出したら、思い出すね。
 いつかきっと。
 約束だよ。

□■□■□

「さむ……」
 思わず漏れた呟きは、息と共に風にさらわれていった。

 そこには白い大地が広がっていた。
 七年間、全くという訳ではないようだが、人はこの地に近寄らなかったらしい。汚されていない雪の上を、ティアはゆっくりと踏みしめていった。
 肩には雪よりはやや黄ばんだ感じの、白いくたびれたマントを巻きつけている。裾をひきずるほど長く重いため、傍から見れば着られているように見えるかもしれない。マント自体はロヴェのものなのだから、当然の結果なのだが。
「どうせなら、おまえのマントを取ってから来れば良かったな。ま、今更、そんな事も言っても始まらないか」
 ほとんど独り言なのか、ロヴェが背後でそう呟いているのが聞こえた。転ぶまいと躍起になっていたティアには言葉を返す余裕が無い。しばらくして、立ち止まればいいのだと気付いてから、溜息をついて振り向いた。
 そこには、上半身を覆っているのが黒布のベストのようなものだけという、見ている方が寒くなる服装のロヴェがいた。一応腕はベストと同じ布で覆ってあるものの、肩はむき出しで寒々しい事この上ない。
 というより、寒々しいどころの話ではなかった。
「本当に寒くないの?」
「ああ。昔は多少は寒いって感じたんだろうけどな。今は暑かろうが寒かろうが全く気にならないのさ。どうも体温が変わってるみたいだけどな」
 じっと彼を眺めつつ、ティアは首を傾げた。
「変なの……」
「――ん、何だって?」
 思わず呟いてしまった本音が聞こえなくて良かったと安堵する。ひょっとしたら聞こえていて無視したのかもしれないが。
「……やっぱり何でもないわ」
「? ああ、分かった」
 頷くと、ロヴェから目を逸らして、ティアは前に向き直った。
 ついさっき、自分とロヴェが降り立った場所の方角を見る。
 前に見た時よりも遥かに近い、セイラックの白い廃墟が見えていた。
 ロヴェを背にして、ティアはぽつりと呟いた。
「ねぇ、ロヴェ。……私は、間違っていたの?」
 無意識に、あの日のセイラックの姿を、廃墟に重ねていた。


『  少し、出てくる  』

 固い面持ちで言って去ったカーレンを見送って、けれど、どうしても異様な胸騒ぎを掻き消す事ができなかった。
 もやもやする気持ちを抱えていると、友達に誘われたため、一緒に都へと出て行った。あちこち歩き回ったけれど、気は晴れない。
 帰りかけた時、不意に空が明るくなって――気がつくと、炎の中に立ち尽くしていた。
 ひょっとしたらその間に起きた出来事が、あまりにも現実味がなかったのかもしれない。ただの風景として見惚れていたのかもしれない。

 それほどまでに、炎が燃え盛り、そこに屍が横たわっていても尚、雪の都は美しかったのだから。

 愕然として都を眺めて、気付いたのだ。時折炎の中に、銀の光が閃いていた事に。
 どこをどう走ったのか、よくは覚えていない。気がつけば、炎の中、恐怖と不安にとり憑かれたように、彼の名を呼びながら走っていた。
 カーレンは、無事なんだろうか。誰かに良くない事をされでもしただろうか。
 頭に浮かぶのはそればかりで、考えもしていなかった。
 セイラック全てを巻き込むほどの業火を起こせる存在が、この国に何人いるかという事など。
 二年も一緒だったのだ。力の片鱗を見た事は、何度もあった。なのに、考えなかったのは、それだけカーレンを信頼していた証だった。
 そして、走る自分の目の前に、『彼ら』が立ち塞がった。
 漆黒の、長い、長い、髪。ティアたちとは違う、透き通るような紫色の瞳を持つ、綺麗な人。
 傍らには、炎と同じ、真っ赤な髪を、やはり長くなびかせた男。琥珀の瞳が、哀れむようにティアを見つめていた。
『  ああ――彼が護っていたのか。どうりで見つからなかった訳だ。愚かだね、自ら結界を抜けてくるなどと  』
 ようやく見つけた。
『  ドラゴンアイ――覇者の、瞳を  』
 そう言って笑った、白い顔。紅い光をその瞳に見たのを最後に、ティアの意識はしばらく、途切れる事になる。


「……あの時、一度おまえはルヴァンザムに捕らえられた」
 ロヴェの静かな言葉に、ティアは頷いた。
「私が次に目が覚めた時……それが、エリシアに思い出させられたものだったのね」
「捕まったおまえが逃げ出した後に、カーレンに差し向けられたのは、おまえの友人たちだった。カーレンはそうであると知りながら、偽体と化し、人ではなくなった彼らを――文字通り、斬り捨てた。だが、何も知らなかったおまえはそんなカーレンを見て、事実を受け入れられなかった」
 言葉が、その先を告げるのを躊躇うように途切れた。
 彼は、きっと全てを見ていたのだろう。セイラックが滅びへと足音を刻み始めたその時から、亡国の地へと変貌を遂げるまでの、全てを。
「……そう」
 ティアは先を感じ取り、どんな感情も込めずに一言、それらを理解した事を示した。
「暴走したのね、私」
 けれど、先ほどのロヴェの一言で、全てが分かった気がした。
 振り返ると、ティアはロヴェの瞳を真っ直ぐに見た。
「セイラックには……私以外、誰も?」
「生き残ったのはおまえだけだ。カーレンがあいつらに、おまえに付け入る隙を与えなかったのかもな。潜り込んだ偽体たちは寄生能力によって国中へ広がっていった。カーレンはそれに早くから気付いていたんだろう。その意図にもな」
「……ウィルテナトを、襲わせる。さっき、ここに来るまでに教えてくれた事ね」
 ――だから、ティア以外の者を警戒した。記憶の中のカーレンが他者へ示した態度には、全て意味があったのだ。
 ロヴェは、答えずに目を伏せる。
 次に瞳を開いた時、何かを確かめるようにロヴェは口を開いていた。
「おまえには、それは罪なのか?」
「……分からない」
「ティア・フレイスにとっての全てを滅ぼし、結果として命を守ったカーレン。おまえの目には醜く映るか? 大切なものを失ったおまえを見続ける事はできず、手放したカーレンを、それでも憎まないと?」
「――私の、せいだもの。私のために、滅ぼしたんでしょう?」
「確かに、そうだ。だが、違うな」
 ロヴェは首を振った。
「おまえは誰も殺しちゃいない。手を下したのはあいつだ。罪も責も自分にあるなんて、そう考えるのは傲慢だよ。例えカーレンが求めていなくとも、おまえには覚悟が必要だったんだ。あいつに全てを負わせる覚悟が。でも、おまえ、そんな覚悟なんか持ってないだろう」
 言葉が、次々に突き刺さる。

「そんな覚悟で、あいつをおまえは赦したと言うつもりか? いいや、赦せないはずだ」

「……」
 思い出すのは、ポウノクロスで、カーレンの言葉を聞いた時だった。
『  戻って来て、くれるのか? これほどまでに――、罪深くても?  』
 あの時――その言葉の意味を知らなければ、戻れないと思った。今のままでは、戻れないと、首を振った。
 胸に痛かった。血まみれになっても、カーレンが紡いでくれた言葉が。
『  ……そうか――、  』
 拒絶したのではない。それだけなのに、言えなかった。
 全てを言う前に、覚悟を決める前に、彼は声が届かない場所へと行ってしまったのだ。
「はっきりさせよう、ティア・フレイス。おまえだって、中途半端な状態は嫌なはずだ。俺が教えてやる」
 あくまで冷たく言い放つロヴェを、ティアは睨みつけた。
「カーレンは、おまえのためだと言いながら、自分の勝手で一国を滅ぼしたのさ」
 いつしか、彼の目は真紅に染まっていた。
 有無を言わせない、心の力。
 力に負けて支配を受け入れてしまうなら、自分はその程度の想いしか持っていないという事なのだろうか。
 そんなはずがない。
 負けはしない。絶対に。
 ドラゴンアイを――カーレンの力を、呼び覚ました。
 怒りに応えて、熱が周囲から立ち昇る。炎のような揺らめきが周りを溶かし尽くそうと、雪と氷で覆われた地表を舐めていく。
「違う」
「違う?」
 ロヴェの声音が明らかに変わった。
(『赦すな』)
 頭の中で声が響く。
 自分の心を折ろうとする、悪魔の囁きが。
「どこがだ。おまえをカーレンはただの自己満足で助けただけだろう」
「……違う」
(『憎んで、蔑めばいい』)
「汚い独占欲と執着心で、おまえを孤立させて、絶望を味あわせたんじゃないか? あいつはそれで苦しんでるんだ」
「違う!」
(『そうして、ドラゴンを憐れんでしまえ』)
「……ああ、苦しませたのはおまえだったか」
「違う、違う! よくそんな――っ!」
(『そうすれば、』)
「このままじゃ、」
 くすくす、と耳障りな笑い声が、ティアの言葉を封殺する。

(『おまえは綺麗なまま。カーレンやレダンの望む姿でいられるんじゃないか』)
「あいつが可哀想すぎる――そう思ってるんじゃないのか? 赦す覚悟もない癖に」

「 ――……っ!? 」
 許しがたい言葉だった。
 全身を貫いた憤怒に、縦に切れた瞳孔が極限にまで縮小する。
 刹那、視界が白く染まる。

 灼熱の雷が天を突き抜けた。

 鼓膜を突き抜ける轟音と、世界を揺さぶる激震。走り抜けた衝撃波に、大気が鈍く不気味な悲鳴を上げた。
 光が収束し、大地の震えが鎮まる。
 睨み続けるティアを見返しながら、ロヴェは、顔色一つ変えていない。

「……それでも、」

 ティアは低く、怒りの篭もった言葉を吐き出した。

「それでも私は、彼の言葉を嘘だとは思わない…………っ!」

「……へぇ?」
 ロヴェは片眉を上げ、続きを促した。
「私の感情は、そんな簡単なものじゃない……あなたが言う事を、私は認めない、いいえ、超えてみせる」
 一対のドラゴンアイで睨み返しながら、ティアはひとつの事を決めた。何が何でも、この意志だけは貫こうと。
「カーレンが私を生かしてくれた理由は、絶対に、そんなものなんかじゃないと信じているから」
「――裏切ったのにか?」
「カーレンを拒絶してしまった事は、やっぱり変わらない。でも、戻れなくても、進めないなんて事は絶対にない」
 自分は偽りのない本当の気持ちを言っているのだと、確信を持っていた。

「言ったはずよ。私は、信じる」

「……なるほど、な」
 ティアを見つめ、ロヴェはゆっくりと、小さく頷いた。
「合格。その言葉が聞きたかった」
 しばらくの間、怪訝な思いで近付いてくる彼を注視していたが、やがてゆっくりとその意図を理解した。
「試したの? 私を?」
「一応、おまえの本当の心が、どこにあるのか知りたかったのさ。もし俺の言葉に折れていたなら――いや、そんな事で折れるくらいなら、最初からおまえはカーレンの寵姫にもならなかったかもしれないな」
 その顔には、先ほどの嘲りの表情はどこにもない。どこまでも穏やかな表情に、ティアの奥底で燃える怒りが、徐々にその勢いをなくしていった。
「良かった。おまえなら、大丈夫だ」
「……何の、事?」
 ティアを迎え入れるように、ロヴェは両腕を広げた。
「なぁ、ティア。おまえを試すために言った言葉は、半分は本当の事さ。良くも悪くも、おまえはカーレンの心に深く踏み込んでしまった。一度でも、失いたくないと思わせた。生き死にが関われば、それこそ、おまえの心身の状態なんて二の次だ。命があればそれでいい。いっそ横暴なほどの執着心に、おまえは生かされたと言える。そして、生かされたのならば――おまえにはやらなければならない事がある」
 言葉も返せないティアの前で、彼はこちらの右手をとって、自分の心臓の上に置いた。
 ――鼓動がない。ただ、魔力の流れが、心臓と同じ位置から出発して、ロヴェの身体を駆け巡っている。その手も体も温かいはずなのに、命がこんなにも空虚に感じられたのは初めての事だった。
「救え」
 たった一言、ロヴェは告げた。
「罪人である彼を赦せ。おまえにしか、あいつの心を救う事はできないだろうが」
「……ロヴェ」
 目を瞠って、ティアは彼を凝視した。
「今となっては、俺はドラゴンでも偽体でもない。正真正銘、本物の化け物だ。たぶん、もう誰の心も救ってやる事はできない。――だから、俺は聞こう、ティア・フレイス」
 ロヴェの言葉を聞いて、その視線が合った瞬間、強い意志を秘めた目に一瞬で惹きこまれた。
「おまえには、罪を赦す覚悟ができたか?」
 誰の事かなど、分かりきっていた。
 ティアはロヴェの琥珀の目に見据えられたまま、小さく首を縦に動かした。
 ロヴェは無表情にも近い微笑を浮かべると、身体を前に乗り出して、ティアの耳に唇を押し付けるほど顔を近づけた。
 そうして、辛うじて聞き取れる程度に、耳に「それ」はかすかな声で囁かれた。
 正確に言えば、音でも言葉でもなかった。たった一言に込められていたのは、ロヴェの力の片鱗だった。魔力という単純なものではない。馴染みのない感覚を直接脳に刻みつけるそれは、ティアが扱うにしては明らかに身の丈に合わない、知識という名の力。
「……覚えておけ。たぶん、それが必要になる時が必ず訪れる」
 言って、彼は口をつぐんだ。
 ティアは、ずっと気になっていた事を聞いていた。
「ロヴェ……あなた、どうしてあの場所にいるの? 何のためにルヴァンザムと一緒にいるの?」
 腕を掴み、すがりつくようにロヴェを見上げる。
「私を助けて、それがあなたの何になるっていうの――?」
 その時、彼の浮かべていた表情に、ティアは言葉を失った。
 あまりにも、儚い、笑み。
 触れるだけで砕け散りそうな、あの哀しい微笑を、ロヴェ・ラリアンは浮かべていた。
「全てを語る事は難しい。強いて言うならば、」
 呟いた彼の目は、薄く潤っていた。
「――俺は、伝えられなかった想いを遺すためにここにいる」

□■□■□

「ん……?」
 寝ぼけた目を擦って、セルは首を傾げた。
 重い頭を上げると、何となく疲れが体に残っていた。半分居眠っていたに違いない。
 それにしても、気のせいか。眠りの中で、何か妙な感じを覚えたのだが。
「んー……」
 思い出せない。
 最も、幼少時から自分の身体の内にはあちこちに魔術の跡が残っているので、そんな不具合があってもおかしくはないか、とセルは思い直した。
 唸っていると、むくりと、ソファに寝ていた人影が動いた。
 エルニスはだるそうに髪をかきあげると、のろい口調で聞いてきた。
「……どうかしたか」
「あ、――起こしちゃった?」
「いや、最初から起きていた。それで?」
「うん」
 セルは腕を組んだ。
「何だか、変な夢を見た気がしてさ」
「変な夢? 悪夢か」
「違う、……何か、真っ白い夢」
「いや、さっぱり分からない」
 呆れたエルニスは、再びソファへ倒れこむ。
 セルは部屋を見渡した。エルニス以外、誰の姿もない。
「……そういえば、ベルやアラフルは?」
「まだ寝ぼけてるのか? アラフル様は部屋を移動して寝たよ。まだ寝足りないんだそうだ。ベルはマリフラオと馬の準備をしに行ってる」
「ああ、そっか……ん?」
 納得しかけて、気になってセルは聞いた。
「そういえば、君って馬に乗れたっけ?」
「乗れない」
 ぶっきらぼうな答えを返してから、彼は気まずそうな顔になった。
「……マリフラオに乗せてもらう事になってる」
「あ、そうなんだ」
 苦笑しつつも頷き、窓の外に目をやった。どうも昼前のようだったので、それほどラヴファロウと話をしてから時間は経っていないらしい。
 気分はずいぶんとすっきりしていたが、気になって呟いた。
「早く行かないといけないのに……」
「すぐにオリフィアに行ったとしても、奴らの居場所が分からないんじゃどうしようもないだろう」
 確かにそうだ。
 分かっている。要は自分がどれだけ早く答えを出せるか、それに尽きる事ぐらい。
「――それで、心当たりの場所とか、いくつ分かってる?」
「うん……あるにはあるけど。どれもあまり裏でこそこそやるには向いてない場所なんだ」
 テーブルの上に放り出していたハルオマンドの地図をとって、セルは呟いた。
「ラーニシェス領って呼ばれるまとまった地域は、確かにあるんだけどね。王が今まで何度か土地を与えた事もあって、飛び地も少なくないんだよ。九年間、僕は一箇所で育った訳じゃないし。父さんが気まぐれに場所を転々とするもんだから、僕も一緒にいろいろと移動したんだ」
「父さん、か」
 エルニスはゆっくりと繰り返した。
「そういえば、父親に何かされたとか言っていたな?」
「ああ、あれ……」
 セルは重い溜息を吐いていた。
「ところでエルニス。偽体たちと戦って、どうだった?」
「どうだったって……」
 いきなりの話題転換に面食らった顔をして、エルニスは眉を寄せる。
「ひとつひとつが厄介だったろう? あれが何百と集まったら、一体どんなものができると思う」
「何百――?」
 困惑しながらも、少し想像したらしい。
 しばらくして、エルニスは思わずといった様子で口を覆った。
「そんな事が可能なのか?」
「もちろん大きいものは、それに見合う魔術の核が必要になる。そうなると、ちょっとした文字や陣とかでは済まなくなってくる」
「と、すると……魔術を篭められるものは無数にあっても、その規模で相応の物となると……、小さな魔物を丸ごと使う事も有り得るか? ――まさかとは思うが」
 呟きながら、次第にエルニスの顔は強張っていった。
「……おまえは、その化け物の核にされた?」
 セルは強張った微笑を浮かべた。
「魔力も普通の人より大分高かったしね。命ひとつともなれば、最高の素材だから。クェンシードで一、二を争うだけはある。魔術には詳しいんだね」
「それは、一応一通りは……けれど、そんな他人事みたいに言う必要はないだろう」
「主観も交えたらもっと悲惨だよ?」
 言い返すと、エルニスはぐっと詰まったようだった。
「――悪い。嫌な事を思い出させた」
 セルは目を逸らした。
 僅かにこみあげた吐き気を飲み込む。
「……大丈夫、だよ。もう、一応は立ち直っているから」
 言ってはみたものの、やはり、まだ頭の中では九年前の記憶の断片が飛び交っていた。

『逃げた方がいい――シウォンが死んじゃうくらいなら、会えない方がまだいいから』
『ごめん、サシャ……ごめんね!』

『本気か?』
『オ願イ……ダカラ。核を。僕を。君を恨ンダリしナイ。コレは僕ノ選んダ事』

『返せ、カーレン! シウォンは、俺のたった一人の――!』

『ずっと憎んでいればいい……私の死が見たいのなら』

『もしレダンに会って……また会えたら伝えて。僕がここにいるって』
『殺されなかったらな』
『その時は、僕が止めてあげるよ』

 自由を得るために、たくさんの大切なものに背を向けた。
 振り向かないと決めたあの時から、前だけを見て進んできたのに。
 また、自分は失うのだろうか。
(無理だ……そんなの、耐えられない)
 叫び出したい衝動に駆られた。
 今にもこの胸も心も張り裂けてしまいそうだ。内で荒れ狂う感情を無理矢理に鎮め、セルは繋いだ。
「でも、もしもあの中でティアちゃんが犠牲になったら、僕よりももっと悲惨な事になると思う。僕もあれでドラゴンアイを発現してしまったんだ。相当に強い精神的な衝撃を受けたりとか、たがが外れると現れるみたいだけど」
「それじゃあ、カーレンは? あいつは何のために――」
 言いかけて、エルニスは口を閉じた。
 セルは苦い思いで、敗北を口にして認めた。
「そういう事だよ。父さんの目的は最初からティアちゃん一人だ。ポウノクロスでは最初から、カーレンや僕が手出しのできない状態にするつもりだった。つまり――僕たちは、まんまとあいつの思惑にはまってしまったんだ」
 一旦言葉を切って、唇を湿らせた。ここからは、自分の推測だけで話していかなければならない。
「でも、変だと思ったんだ。ドラゴンアイだけを求めていたのなら、カーレンを捕らえた時点でティアちゃんは放っておいても良かった。わざわざティアちゃん一人に絞っても、どうしたってカーレンと戦う必要が出てくる。なら初めから、彼一人を狙っても良かったのに」
 エルニスに自身が感じた違和感を説明しながら、セルは考える。
「父さんはカーレンがドラゴンアイを発現している事を知っていた。君も僕も、ひょっとしたらカーレン本人ですら知らなかった事だ。つまり――父さんはカーレンの親を殺した可能性がある」
「仮にそうだとして、どこで殺されたんだ? カーレンは……確か、北大陸の西側で見つかったはずだが」
「エリュッセルとエレッシア。双子の山だよ。ルティスが魔力の爆発が起きたって言っていた時、彼が妙な顔をしてて、気になってたんだ。それで思い出したんだけどね。発現したばかりの力がいきなり暴走する程だ。相当ショックだったんだろうし、当然、通常の力の行使にも影響が出て――眼の色は銀に変わらずに、敵の瞳の色を表した。その時に彼の親が最後の力を振り絞って、ドラゴンアイを封印したんだろうね」
「待て、セル。俺にはそこが分からない。あいつの親はその時点で既に殺されてるんだろう?」
「さぁ?」
 セルはとぼけた。
「そこからは一生懸命考えてね、エルニス。それでなくてもカーレンの核心に触れる事なんだ、僕がどうこう言えたもんじゃない」
 納得が行かない顔をするエルニスに、セルは暗い微笑を浮かべて告げる。
「まぁ、更に言うとするなら……三百年前、アラフルは何が起こったか、おおよそ推測がついていたんだ。カーレンの事は予想外だったし、だから本当の事に今まで気付かなかったんだろうけど」
「……え?」
 しばらくして、エルニスの口が大きく開いた。ぴんと来るものがあったのだろう。
 一旦頭の中でかちりと組み合わさったら、後は勝手に考えが回り出す仕掛けなのだが――それにしても良くできている。セルは固まったままのエルニスを見て感心した。たった一つの思い違いに気付き、仮定をする事で、全ての筋がするりと通ってしまうのだから。
「…………――あれ? え? おいちょっと待て、それじゃあいつは――というか、アラフル様はこの事を知ってるのか!?」
「……いや、たぶん確信したのは本当に最近の事だと思うよ。こないだ僕らに会ってからなんじゃないかな。薄々、もしやとは思っていたかもしれないけど」
 ほとんど推測の域を出なかったし。
 付け加えて、セルは顔が暗くなるのを止められなかった。
「今回、もしもティアちゃんが犠牲になるような事になったなら、カーレンは封印を退けてでも動くと思う。でも、全てを知って、その時……彼は、立っていられるかな。ティアちゃんは、彼を守れるかな。エルニス、僕は心配で仕方がないんだ」
「セル……」
「だから、早く行かないと。手遅れになる前に」
 言って、再び手の中の地図に目を落とした。

「こうなったら、もうあそこしかない。――僕の、生まれた場所しか」


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