Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-4- 自らの在処

 部屋に小さく、歌声が響いていた。
 誰も聞くことのない、もう一つの歌だった。
 風に乗って聞こえてきた覚えのある調べに合わせ、ティアはそっと口ずさむ。
「 月を見上げて 君と行った 夜空の下を 君と行った 」
 耳を傾けていて、旅をしていた彼に似合う歌だと思ったのが、最初の感想だった。
「 風の中で 君と眠った 草の匂いに 君と微笑った 」
 曲も単純、歌詞も覚えやすいから、それほど難しくはない。
 歌を知らないと言った自分に、そう言って彼が教えてくれたのが、この歌だったのだ。
 けれど、そんな事を思い出して――今更、何になるのだろうか。

「 火を灯してもまだ道は暗い どこまで行っても見えない果て
  星よ おまえが照らしてくれ
  たった一つの望みを抱いて 私はおまえのもとを往く
  いつかきっと 辿り着く日 彼の人が 安らかに在れるように 」

 涙を流したような気がして頬に触れたが、濡れている感触はしない。歌ったおかげで気分も少しだけましなように思った。
 ポウノクロスでのあの日の出来事はまだ生々しく心に痛みを訴えてくるものの、一つの場所に閉じこもって五日も経てば、どんなに気が滅入っていてもいくらか癒えてしまうものらしい。
 底を擦るほど沈んだ心に、いつまでそうしているつもりかと問いかける声が、自分の中に出てきていた。
 もう、終わった事なのだ。
 誰も帰ってこない。何も、戻らない。
 なら、忘れた方が楽じゃないか。何もかも忘れて、なかった事にして、七年前の自分のように生きていれば良いだけだ。
 無知を盾に、生きればいいだけ。
 でも。
(本当に、私はそう思ってるの……? 忘れられるの?)
 分からない。
 答えの出ない問いを、エリシアが去ってからいつまでもこうして繰り返している。
(それに、カーレンはもう居ない)
 思った途端に、胃の底が重くなる。
(セイラックを滅ぼして、私から何もかもを奪って……そうだったんじゃないの? 私だけのために滅ぼしたって、どういう事、ロヴェ?)
 彼が居なくなってからも、知りたい事はたくさんできた。
 けれども、もう真実を知る術はない。彼が語ってくれる機会など、永遠にやって来ない。
(私は、答えが出せなかった……何を信じれば良かったのかすら、分からなかった)
 自分は、何一つ満足に分かってなんかいなかった。

 今は、何も考えたくはない。
 いっその事、外に出た方が別の事に気を逸らせていいのかもしれない、と思った。
 身体が自分の意思に反して、鉛よりも重かった。溜息を吐いてから、しばらく動かずにありったけの意思を蓄えた。
「……っ」
 思い切って動いて、やっとベッドの上から降りた。靴がないため、柔らかな毛の履き物を足に引っかけてテラスへと出た。
 一瞬で、全身が純白の光に包まれる。何も見えなかった。
「ぅ――」
 目が眩んだ。しばらく暗闇の中にいたからだろうが、とにかく光が染みる。
 すぐにでも部屋の中に逃げ帰りたい欲求が沸いたが、ぐっと堪え――不意に光が弱まったような気がした。目が慣れてきたらしい。
 今なら、大丈夫。ティアは意識して、瞼を薄く押し上げ、

 目を、瞠った。

「――綺麗」
 掠れた声が喉から漏れた。
 見えたのは、どこまでも淡く薄い、冬独特の青空だった。
 遠くに見える霞のような雲すらも、空の中にぼんやりと溶け込んでいる。頭上で輝いているはずの太陽は今は薄い雲に隠され、輪郭を美しく光で縁取って、淡い金の欠片を落としていた。
 薄着のまま冷たい空気の中に出たからか、次第にがくがくと体が震え出した。しかし、それすらも気にならないほど、目の前の光景に見入っていた。
 今まで通り、そしてこれからも続いていくはずの光景なのに、驚くほど新鮮に感じられる。
 自分がずっと沈んでいた間も、こんな風に景色が広がっていたのかと思うと、ティアにはそれが不思議だった。
 いつか、こんな風に美しい空を見た事があった。北大陸に向かう船の上で、カーレンが見せてくれた夜明けの空だ。
 思い出して泣きそうになる。
 全て自分が壊してしまったのに。
 ――まだ、世界はこんなにも鮮やかなのだ。

「最高の天気だろう?」

 空を仰いだままでいると、階下から、珍しい人物の大声が聞こえた。
「……ルヴァンザム」
 下を見ると、中庭の一角に黒髪の男が一人で佇んでいた。深い緑の中に浮かび上がる純白の服が、対称的な色を纏っていた誰かと重なる。
 その誰かの影を振り払うと、ぎこちなく、微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。……良い天気ね」
 こちらを見上げていた彼は、紫の目を細めて笑んだ。
「おいで。少し、一緒に歩こう」


「どうして、あんな場所にいたの?」
「君と同じだよ――空が、綺麗だったから」
 言って、隣を歩くルヴァンザムはくすりと笑った。
「歌を聞いて、久しぶりに思い出した。昔の事をね」
 鮮やかな色の瞳が、ティアを見つめる。
「君も、彼の歌を聞いただろう?」
「……あれは、ロヴェだったの?」
 自信がないため、確認するように聞き返すと、ルヴァンザムは頷いた。
「ああして、時々歌う。子供がどこかで聞いているはずだから、と。ああ、女のようだとは言わない方が良い。怒るからね」
 もちろん、冗談だったのだろう。
「怒られたの?」
「それはもう、こっぴどく」
 お互いに軽く笑い合ってから、静かな沈黙が落ちた。
「…………」
 気まずさに、黙って俯いた。
(ああ……やっぱり)
 どこかで、そう感じている自分がいた。
 わざわざ理由までつけて、あの場所からここまで連れ出したのだ。何も聞かれずに済む訳がないとは思っていた。
「――君は、」
 ルヴァンザムは不意に笑みを消して、ティアをじっと見つめた。
「君は後悔しているのか? ここに来た事、カーレンを裏切った事を」
「…………私は」
 続ける言葉に困り、ルヴァンザムから顔を背ける。
 彼もまた、気付いているのだろう。自分が部屋に閉じこもっている理由が、本当は、ルヴァンザムの言ったものなどではないという事に。
「嘘をつこうとしているね」
「!」
 思わず、ティアは顔を上げた。
 こちらを見つめる彼の表情は、哀れんでいるようだった。そして同時に、ティアを慈しんでいるかのようでもあり。
「私……私、あなたが分からない」
 ティアは呟いた。
「ラヴファロウを殺す気だった。なのに、中途半端で終わらせたでしょう」
「そう。なぜだと思う?」
 頷いて、逆に問いかけてきた。
「君と会ったから」
「……私に?」
「ポウノクロスの舞踏祭で、カーレンが君を来させる訳がないと思っていたのでね。道化将軍に狙いを定め、エリシアと共に来る事で、彼を捕らえて動けなくさせるのが目的だったのだよ。カーレンには、寵姫に関する記憶がないと知っていたから」
「……記憶がないから、寵姫がどちらか、カーレンは分からなかった?」
「というよりも、自らの戒めのために思い出せなくなったのかな。知っていたかい? 彼の精神は、本当の彼のものではない。本当の心を壊さぬように守るための仮の鎧だ。その鎧は崩れそうになると、自分で崩れる要因を無理矢理失くそうとするんだよ。例えば、記憶を消したり、暴走したりする事でね」
「記憶を、消す……」
「心当たりはないかな」
 言いながら、妖しい微笑を彼は浮かべる。

(『前にも、こんな事……あった気がするんだ……』)
 幼いカーレンが呟いた、曖昧な過去。
 まさか、彼が忘れなければならなかったのは、小さなドラゴンの死ではなくて。

「そこには小さな矛盾も許されない。本人が疑問を感じれば、その時点で鎧は意味を成さなくなる。無意識に、心の鎧は彼を傷つけてでも記憶を消す。それが本人のためになると、そう定義されて作られたものだからだよ。傷つけられたカーレンの心すら、本当の彼自身のものではないのだから」
「そんな」
「理不尽だろう」
 声を上げかけたティアに被せるように、話は続いた。
「でも、幼かった彼は、そうでもされなければ滅茶苦茶になってしまった。彼は自身を封じられる事で、破滅の未来から逃れ、その先で生きる事が許された」
 くす、と、ルヴァンザムは笑う。
「愚かだね。本当の寵姫はすぐ側に居たというのに、自分にはめられた枷にがんじがらめに縛られて、偽者に釣られなければならないのだから。こんなに周りが理不尽だらけなのに、彼はそれにすら気付けない。いや、本能に近い部分では感じ取っていたのか。最後には君に手を伸ばしたのだから」
「……じゃあ、――エリシアは。彼女は……?」

「――あの子は偽体だよ」

「……――っ」
「私が本当に殺したいのはね、ドラゴンなんかじゃない」
 絶句するティアを気にした様子もなく、ルヴァンザムは独り言のように呟いた。
「私が殺したいのは、私の力。ドラゴンアイそのもの。私をここまで連れて来た、運命の力だ。覇者になれる力など欲しくはない。私が欲しかったのは、私と共に在ってくれる者だった――けれど」
 そっと彼の目が閉じていく。
 手をこちらに伸ばした。
「誰も、私の手に届かない。何も落ちてこない。千年の昔、私は知らなかった。憎しみも、悲しみも、慈しみも――愛ですら。無知とは恐ろしいものでね。知らないものは恐い。恐かったら壊せばいいと。でも、私はその全てを壊せなかった。知らずには居られなかったから」
 そして。
 ――見開かれた瞳の奥に、ティアは底知れぬ恐怖を覚えた。
 ドラゴンアイ。
 だが、真紅ではない。
「知って、理解ができなかった」
 ティアが後ずさると、彼は一歩、踏み出してくる。
 金に変じた瞳から目を逸らせないまま、ティアは自分の意識が遠ざかるのをどこかで感じていた。
 ――忘れていた。
 彼は心の力を扱えるのだ。例え本来のドラゴンアイを顕さなくとも、精神に影響を及ばせられたのに。

 囚われた。

「分かるか、君に。世界の全てが私と噛み合う事なく、見えない所で歪んでいくこの絶望が? いくら歩み寄っても遠ざかって、私はずっと独りだった。憎しみでも何でもいい、私に触れてくるほどの者が欲しいと、狂おしいまでに求め、与えられず……」
「――そして、あなたは狂ってしまった」
 どこか遠いところで、自分が呟くのが感じられた。
「カーレンと同じで、探し求めていたものは近くにあったのに。それに気づかずに『彼』に手をかけたんだわ」
「そう、だけど」
「もう……触れられない」
 互いに呼び合うように言葉を重ねる。
「どんなに笑いかけたって、もう、そこにいない」
 だから惹かれていく。どこまでも、どこまでも、どこまでも、どこまでも――自分に触れる事ができる存在に。
 なら――世界を、壊せばいい。触れられるぐらいの小さな欠片に閉じ込めてしまおう。
 唯一自分が信じられるものを。
「そう……同じ、事なのね」

「――でも、違う」

 ぽつりと呟くと、ルヴァンザムがふと、目を細めた。
 怪訝そうな顔で見返してくる。
「……違う?」
「彼は見誤らなかった」
「っ?」
 目の前で、彼は小さく息を止めた。
「本当に大切なもの……失われてしまったもの。見誤ったりはしなかった。だから、私がここにいるの」
 胸を押さえ、自分の存在を示した。
 忘れてはいけない。
 たとえ心が奪われても、自分はここに在る。
「……君は」
 戦慄の滲む声。
 初めて、彼が動揺を垣間見せた。
「どうやってこんなに早く心の支配を解いたのか、分からないでしょう。――ああ、それとも」
 ティアは金に染まった瞳を真っ直ぐに見た。
「どうして私が知らないはずの事を知っているのか、かしら」
 言いながら、ティアにもなぜかは分からなかった。
 ただ、これだけは確かだ。
 自分は何もしていない。こうして瞳を真っ直ぐに見て、何の影響も受けていなくとも、ドラゴンアイは呼び覚ましていない。
 心の支配が解けたのも、知らなかった事をなぜか知っていたのも、たぶん。

「何をやってる、ルヴァンザム。まだ時ではないんだろう」

 背後から、声が聞こえた。
 振り向くと、ロヴェがすぐそこに立っていた。
「……ロヴェ。全く、おまえ、本当に」
 ルヴァンザムは呆然とぼやいた。
「いつの間に、彼女に本当の事を教えた?」
「いや、直接教えてはいないさ」
 ロヴェは吐息で笑い、こめかみを指で示した。
「覚えてるか、ティア? 俺がおまえを追うために、リスコで髪に込めた魔術の事。あれから二度目に同じ場所に俺が触れたのはいつだった?」
「…………あ」
 昨日の、夜。
 確かに、リスコでレダンに入り込んだ彼がそうしたように、ロヴェは再びティアの髪をすくっていた。
 いずれも、ティアに魔術を籠めるためにした事だ。
「なぁ。もうそろそろ、分かってきただろう。本当の事」
「……ロヴェ」
 ルヴァンザムが囁きにも近い声で、彼の名を呼ぶ。
 それに答えるかのように、ロヴェの薄い唇が長く弧を描いていた。
「なかなか来れなくて悪かったな。やる事がいろいろあったのさ」
「……それで? やる事ができて、もう満足したかい?」
 俯いた彼は、溜息を吐いたようだった。
 ロヴェが表情一つ変えずに首を振る。
「いや、全く」
「……そうか」
 ルヴァンザムが伏せた顔を上げた時、そこにはいっその事不自然なほど、何も無かった。
 変化は一瞬で起こっていた。
 一陣の強い風が吹きぬけた。思わず足を踏ん張るほどの勢いに、明らかに自然のものではないと確信する。
 気付けば、隣にいたはずのルヴァンザムの姿がなかった。
「!?」
 何が起こったのか理解できずに驚きに目を見開いた時には、既に彼がロヴェの前に立っていた。
 白い手が真っ直ぐに伸びて、ロヴェの喉元に指を絡みつかせた。
「いけない子だ、ロヴェ」
 歌うように呟く声が、ぞっとするほど冷たい響きを持っていた。
 指が喉に食い込んでいく。
 絞められた首の軋む音が聞こえた。ティアは震えたが、ロヴェは至って平然とした顔でルヴァンザムを見下ろしていた。
「今まで敢えて見過ごしていたけれど……どこまで引っ掻き回せば、おまえの気は済むのかな?」
「気が済まないから、やりまくってるのさ。分かっているだろう、ルヴァンザム。俺は、あんたに素直にほいほいと従うほど従順ではないし、かといって手を出さずにいられるほど我慢強くもない」
 特に苦しげな様子も見せず、ロヴェは普段どおりに言葉を操っていた。
 普通じゃない。あれだけ首を絞められているのに。
 指の締め付けの強さがどれほどかは、喉への食い込み方を見ればすぐに分かる。
 だらりとした身体を動かす事もなく、ロヴェはティアに目をやった。
「全く……おまえも、早く答えに気付いても良さそうなものなのにな」
 潰れた喉から出しているためか、声が掠れていた。
「――え?」
「余計な事は言わない方がいい」
 今までこちらに話しかけていたのと同じ調子で、穏やかさからは程遠い言葉をルヴァンザムは吐いた。
「いくらおまえがこの程度では死ねないとしても、痛めつける方法はまだいくらでもある」
「……俺を、痛めつける?」
 くすくす、とロヴェが笑った。嘲っているのではなく、純粋に可笑しがっているようだった。
 ルヴァンザムを見て、ロヴェは血の気のない顔に、この場に不釣合いな柔らかい微笑みを浮かべた。
「無理だ、ルヴァンザム。おまえにはできないよ。俺を殺す事なんて」
 二人の温度の低い視線が交差する。
「それができるのは、この世にたった一人だけだからな」
 しばらくの間、ルヴァンザムが言葉を発する事はなかった。
 やがて、唐突に興味を失くしたようにロヴェを地面へと放り出して、振り向いてティアを見た。
 目が合った瞬間、今まで毛ほども感じなかった殺気を全身に浴びた。
「っ!?」
 心を支配された時とは違う、心臓が握りつぶされたような錯覚を覚えた。
 身体が全く動かない。
 ルヴァンザムはすぐに視線を外し、ロヴェと自分の二人に背を向けて屋敷の方へと去って行っていた。
「――まぁ、いい。今はまだ、おまえが必要だから」
 言葉を残して。
 彼の背を見送る間に、次第に、ゆっくりと全身から力が抜けていった。力の抜け具合がある一定のところまで来た時、やっと身体が呼吸を思い出した。
「っぷは、……はぁ!」
 緊張の糸が途切れた。
 気付くと、かくりと膝から力が抜けて、その場にへたりこんでいた。
「――驚いたろ。悪かったな、びっくりさせて」
 そんな自分を見ていたロヴェが立ち上がり、近寄って手を伸ばしてきた。
「あ……ありがとう」
 一瞬ぽかんとしていたが、すぐにその手を握った。
 一息に引き上げられたおかげでようやく立ち上がれたものの、足はまだふらふらとおぼつかない。
 ティアが彼を見上げると、首筋には痛々しいまでの赤黒い痕が残っていた。
「大丈夫なの?」
「……声がちょっとな。それ以外は、特に問題はねぇよ」
 ゴホッとひとつ咳き込み、ロヴェは首を傾げながら薄く笑った。
「周りの奴らと違って、少しばかり特別なんでね。痛覚もそう……さっきみたいに首を絞められても、呼吸をしたいとも思わない。偽体より少し優れているくらいか。たぶん腕を切り飛ばされても平気で立ってるだろうな」
 さらりと言ってのけると、ティアが絶句してロヴェを見つめている事に気付いて、彼は苦笑した。
「半分、死んでいる。分かるか? 俺もブレイン同様、生きながら偽体になったようなものさ。というか、俺が原本とも言えるんだが」
 黙ったまま硬く口を引き結び、ティアは首を横に振った。到底、分かるとは思えなかったからだ。
 ロヴェももとから理解できるとは思わなかったのか、それを見て肩をすくめていた。
「それより、そっちこそ大丈夫か? 顔が随分蒼ざめてるぞ」
 さすがにうんざりして、眉を寄せた。
「……そうなっても、ちっとも不思議じゃない事が目の前で起こったわよ、今」
 一瞬、彼の顔から表情が抜け落ちた。
 ロヴェは目を逸らし、ぼそりと零した。
「肝心なところばかり似てるな、おまえら」
「誰の事?」
「エリシアだよ――っと、その事で思い出した。昨日、言いかけた事があったな」
 少し考えてから、ティアも思い出した。
「セイラックの、事ね?」
 頷くと、ロヴェはぼやいた。
「さぁて、どうするか」
 しばらく考えていたようだったが、彼はひとつ納得したように頷いて、ティアに腕を差し出した。
「俺に掴まれ、ティア」
 きょとんとして見返すと、早く、と促される。やや遠慮がちにティアがロヴェの腕を掴むと、呆れられた。
「おまえな……そんなんじゃ振り落とされる。もっと、こう――あ、そうだ。しがみつけ」
(……しがみつく?)
 何が始まるのか分からずに、ティアはとりあえず、ロヴェに抱きつく格好になった。
「こう?」
「そうだ。じゃ、行くぞ――気絶するなよ!」
 何の事だ、と言い返す暇もなかった。
 ぐっと引き寄せられたかと思うと、息もできぬ衝撃が全身を襲った。
 痛みはなかったが、あらゆる方向から身体を圧迫されているような感覚がある。全身を巡る血液が一気に引いたようで、頭が強烈に痛んだ。混濁する意識の中、髪が風に暴れて頬を打っている事だけが、辛うじて感じられた。
 やがて、気味の悪い浮遊感が襲ってきた。
 くらくらしながら、何が起こったのかとロヴェの胸から顔を離すと、ティアはそのまま硬直した。

 空の上で。

「っ――!?」
『慌てるなって』
 軽く反響するような声が聞こえる。
 気付くと、ティアは黄金のドラゴンの背に跨っていた。
 見下ろすと、目が回るほどの高さだった。本当に眩暈を覚えて、思わずロヴェの背の突起にしがみついた。
 屋敷が点に見える。あの一瞬で、空を蹴って一気にこの高度まで跳び上がったらしい。
『カーレンより乱暴だったか?』
 くっくっと喉を鳴らす音が聞こえる。振り返ったドラゴンの真紅の瞳の奥で、縦長に切れた瞳孔が細まった。
「――……かなり」
 呆然としながら、そんな事を言った。
「どこまで行くの?」
『さぁ。どこでも行けるぜ。どこに行きたい? ――お望みなら、セイラックにも行ける。そこで話した方が良いかもしれないな』
「でも、ここは中央大陸じゃ――」
 カーレンでも、多少寄り道はしたが、ずっと飛び続けで一昼夜はかかったはずだ。
 思って聞きかけた時、ロヴェがぞろりと笑った。持ち上がった口角から、巨大な牙がちらりと覗く。
『俺を誰だと思っている? ――行けるさ』
 妙な自信に気圧されて、しばらくロヴェを凝視していた。
 ロヴェはにやにや笑ったまま、もう一度聞いた。
『行くか?』
「――うん。行く」
 ティアは唇を軽く引き結ぶと、頷いた。
 このドラゴンは、言葉通り、それができるのだろう。
『では、行こうか』
 空は果てなく広がり、目指す地は、想像もつかないほど遠い。
 だというのに、ちょっと散歩にでも、といった調子で、気軽に彼はそう告げた。

□■□■□

「良かったのですか、行かせてしまって」
 傍らから声が聞こえた。
 ルヴァンザムは廊下で立ち止まると、ゆっくりと振り向いた。
「……ロヴェの事だ。本当に私の邪魔になるような事は言わないだろうさ」
 言い終えてからしばらくして、柱の影からフードを目深に被った男が現れた。
 彼は数歩こちらに近付くと、優雅に礼をした。
「ご無沙汰しておりました、ルヴァンザム様」
 声からして、青年のようだ。
(さて……誰だったか)
 ルヴァンザムは目を細めた。
「やぁ、君か。元気だったかい」
「ええ、まぁ。しばらくお休みを頂きましたが、ゆっくりと身体を休める事もできましたし。今日からまた働かせてもらいます」
「そう」
 頷いてから、ルヴァンザムは腕を組み、じっと青年を見つめた。
 何かがおかしい。
「君、どこの出身だったかな。地方特有の訛りがまるでないんだが」
「ああ、お忘れですか? 西端の国の出身なのですが……そうですね、小さい頃からかなり綺麗な言葉を覚えたので、分からなかったかもしれません」
「……なるほど」
 返しながらも、話す青年を注視していて、気付いた。
 そもそも、この青年そのものがおかしいのだと。
 人間に擬態した時の気配に特に違いのないドラゴンは、独特の魔力を持つのでそれで見分けるが、この青年はそれすら上手く隠してしまっていた。逆に隠れすぎて、違和感を覚えたのだ。
 感覚が鋭敏なはずの自分でもしばらくは分からないとなると、擬態としては相当な完成度だ。
「西端の国――ああ、そうか」
 呟いてから、ルヴァンザムは少し首を傾げて微笑んだ。
「上手く化けたね。思い出せない使用人も確かにいるけれど、恐れ入ったよ。流石に私も騙されかけた」
「――、何の事でしょう?」
「君、人ではないだろう。ドラゴンでもないか」
 男は言葉を返さなかった。
 絶句するというよりも、どう返そうか考えているように、男はゆっくりとフードを取った。
『――思ったよりも遅かったな』
 流暢に滑り出ていた言葉が、思念へと変わった。
 真っ黒な髪がフードの下から現れ、肩に短く散る。
 露になった白い顔は誰が見ても感じの良さそうな風貌だったが、油断なく光る夜の蒼い目が、本来の冷徹さを醸し出していた。
「君の擬態があまりにも見事だったからね。危うく騙されかけたよ。騙されるのも久しぶりだけど……千年ぐらいかな」
『見破られなければ困る。話も進まん』
 つまらなさそうに鼻を鳴らして、男は目を細めた。
 身を屈めて四つん這いになったと思うと、そこにはもう人間ではなく、漆黒の狼が座っていた。
『さて。では、彼に伝言を伝えてもらおうか』
 優雅に長い尾を揺らし、ルリエンは言った。
「…………」
 答える代わりに、静かに彼の次の言葉を促していた。


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