Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-3- 時を越えて

 ブレインがその旋律を耳にしたのは、ロヴェに別れを告げて寝入ったその翌日。昼下がりの事だった。
 昨夜の話の続きを聞こうと彼の姿を探していたのに、いくらブレインが人に尋ねても、誰も見た者がいないというのだ。
 ひょっとしたら――それがどこなのかブレインには見当もつかないが――彼が捕らえたドラゴンたちのところにでもいるのかもしれない。
 そもそも、普段ロヴェがどこで寝起きしているのか、知る者が誰一人いない。もしや眠る必要がないのでは、などという噂が密かに広がっている程だ。かくいうブレインも、それが実は一番近い答えなのではないかと思い始めている。自分もまた、生きている身でありながらも偽体という人の範疇から外れた存在であり、眠りは生前(と言っていいのかどうか)よりはそれほど必要としなくなっていたからだ。
 それに――たぶん、彼と自分はどこか、根本的なところで在り方が似ている気がするのだ。
 考えながら廊下を歩いていると、聞いた覚えのある旋律を耳にした気がしてブレインは振り返った。
「――あれ?」
 耳を澄ませてみると確かに聞こえる。歌と共に、竪琴のような楽器の音が。
「……ティア姉ちゃん?」
 彼女が楽器などを奏でられたかどうか、記憶にはない。しかし聞こえてくるのは確かに、彼女が昔口ずさんだ事のあるものだ。
 首を傾げながらしばらくその場に居ると、背後から誰かが歩いてくる気配がした。
「――ブレイン。この旋律は?」
「あ、エリックさん」
 振り返ると、相変わらず一糸の乱れもなく金の髪を整えた騎士が立っていた。
 ブレインはエリックを見上げながら首を傾げてみせた。
「いえ……僕も良く分からないんです。ティア姉ちゃん、楽器は弾いてるのを見た事ないから。それに、ちょっと声が違う気がして」
 言われたエリックは、片方の眉を上げた。
「ティア様は、歌を歌われた事が?」
「あります」
 頷いて、ブレインは少しだけ寂しさを感じて微笑んだ。彼女の歌声を、そういえばもう長い間聞いていない。
「でも、誰に教わったのか覚えていないんだそうです」
「…………北大陸に伝わる古い歌だな」
「お詳しいんですね」
「いや。エリシア様も時々、歌われる事があるからな」
 目を丸くしてブレインはエリックを凝視した。
「え? あの人が?」
「北の生まれだからだろう。だが、あの方もやはり楽器を奏でる事はないな……誰だろうか」
 お互いに顔を見合わせてから、ブレインとエリックは旋律の流れてくる方へ、そっと歩き出した。
 上から聞こえるようだったため、階段を上がった。が、上階に辿り付いても、更にその上から音色は聞こえる。見上げると、昨夜ロヴェの様子を見るために上がった天窓が開いていた。梯子がかかっていたので、エリックと顔を見合わせてから、ブレインはそれを伝っていった。
 窓から顔を出し、左右に首を振って見回していると、旋律が止んだ。
「…………おまえか。好きだな、昇ってくるの」
「うぇっ!?」
「危ない!」
 真後ろから聞こえた声に、驚いて梯子の段から足を滑らせる。がたりと梯子は窓から外れ、バランスを崩したブレインはそのまま落下していった。――咄嗟にエリックが下で受け止めてくれたために、怪我はしなかったが。
 エリックと尻餅をついたような格好で、しばらく二人揃って呆然としていた。と、ひょっこりと窓から頭だけを出して、呆れ顔のロヴェが現れる。
「おまえなぁ……人の事をいちいち探ってくる癖に、声を聞くなりそれはないだろ。大体、うぇって何だよ、うぇっ、て……」
 言いながら、ロヴェの声はなぜか尻すぼみになっていく。原因がひとつしか見当たらなかったので、ブレインが頭上を見上げると、エリックが唖然として、ロヴェの顔を穴が開くほど注視していた。
「……おまえもか、エリック」
 一段階低くなった声が落ちてくる。いない方が良かったのにという感想が、嫌でも透けて見えてきそうだ。ブレインの事もあったのか、いつもよりは鬱陶しそうな口調だ。
「驚いた」
 そして、いつもならロヴェの言葉に怒るはずの彼も、常の反応を返さない。
「貴様、楽ができたのか」
「エリック……おまえ、俺を怒らせるのがそんなに楽しいのか?」
 頬を引きつらせたロヴェの顔には危険な笑みが浮かんだ。が、その笑みを、今日の彼は奥へと引っ込め、どういう訳か、視線をそらした。
「ああ。ちょっとした民謡くらいなら歌えるさ」
「ロヴェさん……その歌、ティア姉ちゃんが歌ってた歌です」
「ティア・フレイスが?」
 小さく目を見開いて、ロヴェはブレインを見た。ややあって、その顔に何かを理解したようなものが広がる。
 ゆっくりと彼は、面白そうに笑った。
「へぇ……あいつがね。考えた事もなかったかな」
 言ってから、ふと、考え込むような顔をして彼は黙り込んだ。
 ロヴェを観察しながら、ブレインは首をかしげた。ロヴェの言った「あいつ」が、ティアとは違う誰かの事を指しているような気がした。
「ぶっ……でも似っ合わねぇ……」
 突然噴き出した。
「一体何なんだ、おまえは」
「それって昨日の夜に僕がしたのと同じ質問ですよ」
 呆れたエリックの呟きに、こっそりとブレインは指摘を入れた。
 ロヴェは未だに笑っていたが、どうにかその笑みを、微笑とも無表情ともつかない程度にまで抑えた。それでもまだ頬がひくひくと動いていたが。
「なぁ、エリック。エリシアの奴、今はどこにいるか分かるか」
「貴様に会おうとなされるとは思えんが」
「いいから教えろ。どこにいる」
「何をごちゃごちゃと…………自室でお休みになられているはずだ。だが、それを聞いてどうするつもりだ?」
 エリックの言葉を聞いて、ロヴェは眉を軽く上げた。
「いや、一応あいつの場所を知っておいた方が色々と都合が良くてね。見つかるとその度に面倒な事になるんだよな…………とにかくうるさいの何のって」
 天窓から軽い身のこなしでエリックとブレインの側に降り立つと、倒れたままの梯子を起こして壁に立てかける。  振り返って、床に座り込んだままの二人を見下ろしてきた。
「それに――そろそろ、言わなきゃまずい事もある」
「まずい? エリシア姉ちゃんに何か言わなきゃまずいんですか?」
「いや、あいつじゃなくてティアの方。……ああ、それともう一つ」
 ロヴェは二人を指して言った。
「ブレインと俺がティアの方を見る。エリック、しばらくおまえはエリシアの近くにいてやれ」
「は?」
「ロヴェさん、何言ってるんですか?」
「一番悲惨な結果を招きたくなかったら、そうしておけという意味だ。近い内、炎塔は消滅する。あいつは最終段階に入った」
「最終段階……?」
「炎塔の役目の終わりが近付いている。偽体と、ブレインという生死の狭間の存在を作る事、そして、俺以外のある力を持つドラゴンを探す事。必要な条件は全て揃った。あとはおまえとエリシアとティアが鍵になる」
「どういう事ですか? 僕と姉ちゃんたちが鍵って……」
「……直に身を持って知る事になるさ。心配するだけ無駄だ。少なくとも、その時まではな」
 言い置いて、ロヴェは廊下を歩き去って行った。
 一方、言われた意味が分からなかったブレインとエリックは顔を見合わせる。
「どういう意味だ?」
「さぁ……僕もよく分かりません。まぁ、とりあえず、」
 ブレインは、未だに身体に回されているエリックの腕を示した。
「そろそろ立ちませんか? いい加減、この姿勢も辛いんで」
「あ、悪い」
 ばたばたと慌しい音が廊下に響いた。音が止んだ後には、二人は既に向かい合って立ち上がっていた。
 身体についていた埃を払っていると、エリックがじっと見つめている事に気付いて、ブレインは首を傾げた。
「……おまえ、あの方に似ているな」
「ご主人様の事ですか」
「いいや、違う。私が言っているのは、その……ジャスティ・シウォン・ラーニシェス様の事だ」
「ジャスティ……ラーニシェス?」
 しばらく目線を宙に泳がせ、頭の中にそんな名前があったかどうかを探していた。どこかで聞いたような覚えはない。ラーニシェスというのだから、ルヴァンザムの血縁者か何かだろうが。
 エリックに目線を戻した。
「誰ですか、それ?」
「おまえと一時期は共にいたんだろう」
「いえ、ますます覚えがないです」
 さっぱりと答えると、エリックは頭痛を覚えでもしたのか、片手を額に当てた。
「ああ、だから……そう、セル・ティメルクだ。知っているだろう」
「え!? 兄さんの事だったんですか!?」
 ブレインが目を剥くと、エリックは一瞬ぎょっとしていた。
「……一体何人の兄なんだ、彼は」
 またすぐにげんなりとしたのは、たぶん、ティアがセルを兄と呼んでいたからなのだろう。
「何人って、リスコの孤児はみんな兄さんの弟妹たちですよ? ティア姉ちゃんだって、セル兄さんに拾われたんですし。だから、みんなが家族なんです」
「みんなが家族、か。なるほどな……妙な孤児たちだと思ったが、世話好きなあの方らしい」
 ぼやいたエリックを見つめ、ブレインは首をかしげた。
「でも、僕が似てるって……エリックさんとセル兄さんは、どんな関係だったんですか?」
「従兄弟だな。塔の方――ルヴァンザム様が一応私の伯父にあたる。母の姉のアリアナが彼の下に嫁いだ」
「それで生まれたのが兄さんだった?」
「表向きはそうだ」
 表向きという事は、実際には違うのだろうか。
 ……だんだん話がこんがらかってきた。
「じゃ、その裏は?」
「アリアナが懐妊したという話は聞かなかった。病弱だった彼女に子を宿せるはずもなく、またルヴァンザム様もその気ではなかったと聞いた。だが……シウォンは生まれた。いや、生まれたというのは正しくないかもしれない。私はルヴァンザム様に連れられた先で、彼に『会った』。赤子であったシウォンは、なぜか水盆の水の中にいた。幾重にも魔術で厳重に守られ、いかなる病も敵も彼を害する事はできず、どんなものも彼の眠りを覚ます事はできなかった。眠れば、起きる。これは当然の事だ。だが彼にはそれがなかった」
 どういう事か分かるか、とエリックは眉を潜めた。
 ブレインは話をいくらか頭の中で整理してから、首を振った。
「時間が彼には存在しなかった。眠ったまま、シウォンの時間は他ならぬルヴァンザム様の手によって止められていた。そしてあの方は、幼い日の私にシウォンを示して『私の子だ』と仰った。……今なら分かるが、あれはまだ胎児で、アリアナの子でもなかった。誰の子か、いつから時間を止められていたのか、気になって調べた。五百年に及ぶラーニシェス家の歴史の中には、一筆たりとも彼の赤子の記述はない。加えて、水盆は似たようなものを見つけたが、それは千年も前のものだった」
 いまいち現実味がないといおうか、実感が湧かないといおうか。
 頭の中が煮詰まる前に、微妙な微笑みを浮かべてブレインは首を傾げていた。
「……眠って千歳?」
 そんな単純な話で済む訳がない、と呆れを含んだ言葉が返ってきた。
「千年も前に女の体内から取り上げたという事は、そもそも当初は、シウォンを産ませる気がなかったのだ。かといって殺される事もなく、千年間ルヴァンザム様に守られてきた。それが、なぜ今頃になって生を受けさせる気になったのかは分からないが」
 ふうん、とブレインは頷きながら、密かに驚いていた。まさか、兄の出自をこんな形で知る事になるとは夢にも思わなかった。
「あれ? でもそれじゃ、兄さんはラーニシェス家で生まれたって事ですよね。飛び出しでもしない限り、リスコに居る訳がない」
「私には彼の心を察する事はできない。ただ確かなのは、九年前、彼が家から出るために自分の婚約者すら犠牲にしたという事だ。婚約者の名は、アンジェリーナ・サシャ・ディアン。彼女もまた私の従妹で、生きていれば、そうだな……ティア様と同じ年だろう」
「どうして死んだんですか?」
「何者かに殺された。ルヴァンザム様が遺体を見つけて、その時の彼女を私はシウォンだと思った。彼のために彼女がわざわざシウォンに姿を似せていたからだ。オリフィアの王都の外れ、北の森で彼に実際に出会うまでは、ずっとシウォンを失い、またサシャもどこか、瓦礫の中で埋もれて息絶えたのだと……だが、違った」
 ブレインは四半秒、息を止めていた。
「瓦礫の下?」
「凄絶を極めた戦いがあった。ドラゴン同士、レダン・クェンシードとカーレン・クェンシードの戦いが。その場にはまだ私と知り合っていない頃のロヴェの姿も、炎塔の人間に混じってあった。巻き込まれた人間の数がどれだけ多かったか、おまえには分かるまい」
 嘆息するエリックに、ブレインはまたもや、唖然として聞き返した。
「カーレンさんが?」
「どうも、密かに炎塔に忍びこんで、シウォンやレダンと知り合っていたようだ。巻き込まれたシウォンがどのような経緯でリスコに落ち着いたのかは不明だが、おそらくレダンではなく、カーレンが連れ去ったのだろう。深手を負った奴はシウォンを逃がし、北大陸の故郷に帰還しようとしたが、途中で力尽きて、辿りついたセイラックで二年間を過ごした……大方、こんなところだろうな。バンクアリフというドラゴンの隠れ里を壊滅させた勝利の日から、僅か数日後の事だった」
 エリックは僅かな間、口を閉じて思い悩むような顔をしていた。
「……シウォンの様子がおかしくなったのも、バンクアリフを滅ぼした日からだったのかもしれない。体調が思わしくないとは思っていた。シウォンとサシャ、二人が居なくなったその日の後に、幸運な事に残っていた日記から、少しだけシウォンの心を窺い知る事はできたが」
「何て、書いてあったんですか」
「ただ、『耐えられない、これ以上はもうもたない』と。彼らしくない、弱々しい筆跡だった」
 言葉は、端的なものだった。
 しかしブレインの心は、セルがシウォンとして最後に紙へと明かした胸の内に反応して、奇妙にざわめいていた。
 何が耐えられなかったのだろう? 苦しんだのか。身体的、それとも精神的なもので?
 ポウノクロスでカーレンが言った事を、偽体を通じてブレインは聞いている。
 兄の背に残る古く深い傷痕。それを与えたのは自分なのだと言ったカーレン。恨む素振りすら見せず、どころかルヴァンザムを憎んでいたようにも見えた兄。自分があの時見た彼は、果たしてセル・ティメルクか、それともジャスティ・シウォン・ラーニシェスだったのか。
 彼の憎しみは、一体どこから来たのだろう。
『――ねぇブレイン。君やティアちゃんたちのためなら、僕は……きっと、ドラゴンすら殺してみせるよ』
 いつか、ティアと共に冗談だろうと笑った言葉を、けれどセルは確かに口にしていた。
 彼がルヴァンザムの息子だと分かった今――その一言をまだ笑えるだろうか。
 ドラゴンを殺す事が可能なこの炎塔に関わる彼に、それができないと誰が言えるだろう。
 恐怖と疑いに蝕まれていくブレインの心など知らぬかのように、その背に刻まれたドラゴンの紋章は、じくりと、少年の変化の予感を感じて疼き始めていた。

□■□■□

「……え? 帰る?」
 予想もしていなかった言葉に、セルは思わず声を上げていた。
 隣では、同じように呆気に取られてぽかんと口を開けている翡翠のドラゴンが一人。残る二人の内一人であるアラフルは、現在ベッドを占領して爆睡している。もう一人であるベルは、未だに、エルニスの隣にあるソファの上で、惰眠を貪っていた。

 オリフィアに戻る。

 アラフルがセルたちを訪れたその翌朝。ラヴファロウはベッドから抜け出し、セルの部屋にやってくるなり、突然そんな事を言い放った。
 驚かれたのが心外だったのか、言い出したラヴファロウは眉を潜めていた。
「……、おまえ、出かけたらそのまま元の場所には戻らないのか?」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。まだ怪我も治っていないのに、もう戻るのかい?」
「休んでる場合か、これが」
 言って、ラヴファロウは白い方の頭をかき上げた。
「おまえだって、聞いたろ。昨日、悪なる赤が俺たちに言った事を」
「そりゃ、そうだけど」
 反論しかけて、セルはそのための言葉がない事に気付き、口をつぐんだ。

『――、世界を変える? ティアちゃんとカーレンが?』

 昨夜、アラフルから告げられた事に衝撃を受けながら、セルは、やっとそう返すしかできなかった。
 言われた彼は、セルを見つめながら、ぼうっと夢を見ているような顔のまま呟いた。
『証拠と言うのも何だが――あの子がそれらしき力を使った痕跡を見たことがある。意識のないカーレンを抱えたままで、あの時はそれほど注意深くは見れなかったのだが』
 意識が無い――ユイが死んだ時の事を言っているのだと直感して、背筋が少しだけ寒くなった。セルも、カーレンのあの悲惨な記憶を知っている。
『彼を襲った魔物は、尋常でない力で引き裂かれていた。子供だという事を抜きにしても、あれほど徹底的な殺戮は、滅多に成獣のドラゴンもやらん。時々嗜虐的な殺し方を好む輩もいるが、あれはそうではない』
 そして、とアラフルは、自身の推測を告げたのだった。
『並みでない力を発揮した事はその一度だけだったが、思うに、ルティスが弱った事が鍵だったのではないかと思う。奴は見たところ、ここにはいないし、契約も途切れた可能性がある。もしもカーレンが未だ、意識を回復させていないとすれば……最悪、ティアに炎塔が何かするかもしれん。そうなった時、彼女の声に反応したカーレンがどうなるか、予想もつかん』
『それって、まるで……』
 今にもティアが殺されるような言い方だ。
 言いかけて、セルは言葉を呑んだ。一見炎塔に保護されて安全なように見えるティアは、その実、最も危険な状態に晒されている。考えてみれば当然だ。ルヴァンザムがもしもその気になれば、簡単に彼女の心は壊される。彼はそれができる人間なのだから。
 そして――最悪の可能性に気付いたセルは、息を詰めてアラフルを見つめ返すしかできなかった。
 ――壊された心が操るドラゴンアイは、何もかもを滅ぼしていく。
 きっとそうなるという確信がある。下手をしたら、自分も同じように堕ちていたかもしれない身なのだから。

「エリシア・メイジは、ティアの側に本当に居たのか……?」

 アラフルとの会話を思い起こしていたセルは、ふと、そんな事を漏らしたラヴファロウに聞き返した。
「え?」
 セルは奇妙な声を上げた。
「本当にって……?」
「……何か、引っかかるんだ」
「そう……エリシア、ね」
 実際のところ、セルの呟きには多分に含まれるものがあったのだが、ラヴファロウは気付いてすらいないようだった。
 無意識に覆っていた口から手を離して、セルは声を強めた。
「前々から気になってはいたんだけど。以前、ティアちゃんと僕に、カーレンの寵姫について話してくれたよね」
「ああ」
「でも、容姿については何も言わなかった。名前だって違う。ラヴファロウ、カーレンについて、まだ君は何か隠してるんじゃないかい?」
 ラヴファロウは一瞬、口を真っ直ぐに引き結んだ。話す事を躊躇したような、微妙な変化だった。
 それを見て、やはり、とセルは眉を寄せる。
「話して」
 彼は数回、唇を動かし――ややあって、溜息をついた。
「…………あいつの記憶には、ところどころ欠落してる部分があるんだよ。カーレンは自分の寵姫の名前を覚えていなかった。傷が原因か、それとも別の何かなのか……俺には見当がつかない。だが、どう見たって、カーレンに何か俺の知らない秘密があるとしか思えない。エルニス、あんたはカーレンの幼少時代を知ってるだろう。あいつについて何か、変わった事はなかったか?」
 エルニスが少し考えるような顔をした。
「いや……だけど、魔力が異常に少ないのと関係があるかどうかは分からないが、あいつの身体に妙なモノを見た記憶はある」
「妙なモノ?」
「一瞬しか見えなかっし、見たのは俺だけだった。けど、あれがもし気のせいでなかったとしたら……」
 エルニスは息を呑んだ。
「そう、おまえが言っていた封印具……あれがそうだとしたら、確かに強力なはずだ」
「さっきからあれあれって、一体何なんだい?」
 セルが困惑気味にぼやくと、エルニスは立ち上がって近寄ってくると、セルの額に手をかざしながら呟いた。
「……レダンの左肩には、刺青があるらしいな」
 レダンの記憶を探しているのだと悟って、セルは身体を硬くする。が、すぐにエルニスは目当てのものを探り当てたのか、それ以上踏み込んでくる事はなかった。
 手を離すと、彼は宙に魔力で、レダンに刻まれた呪いの刺青と、それに似たような紋様を描き出した。ただし、後者はレダンのものよりもいくらか広範囲にあるようで、細部も曖昧な様子になっている。
「そう、ちょうど、あいつの肩に刻まれているみたいな、妙な模様で……これでもかってほどびっしりとあった。真っ黒な刺青みたいなものが全身を這い回ってて、それから一瞬であいつの肌に吸い込まれて消えたんだ」
「それを見たのは?」
「あいつが、涙の玉で記憶を手放して倒れた時に。最初に駆け寄った俺だけが、アラフル様が来る前にそれを見つけた。本当に一瞬だったから、俺はあれが本当にあったと信じられなかった」
 けれど、とエルニスは続けた。
「仮にその刺青がカーレンを縛っているのだとしたら、あいつは器が小さいんじゃなくて……放出できる力の量を、制限されているのかもしれない。無理をして魔力を使った時、熱を出して寝込んでいた事が度々あった」
 言ってから、エルニスは少しの間、口を閉じた。
「……セル。あれも、呪いなのか?」
「良くは分からないけれど……もし仮にそうだとしたら、寵姫のドラゴンアイは相当に強い力のはずだよ。カーレン自身の制約は、あったとしてもあまり受けないだろうから――待てよ。今、君、黒って言った?」
「? ああ、真っ黒な模様だった」
 それがどうした、と言いかけたエルニスを手で遮って、セルは声を上げていた。

「ティアちゃんのドラゴンアイは黒だ。きっと、カーレンに影響されて、いくらか抑え込まれていたのかもしれない」

 一瞬の後。
「「――ああ!?」」
 ほぼ同時に意味を理解して、エルニスとラヴファロウが揃って目を剥いた。
「という事は――寵姫はほぼ、ティアで間違いないって事か?」
 エルニスと目を合わせて、ラヴファロウがまだ驚きも覚めないままに言った。
「うん。けれど、問題は……」
 セルは呟きながら、眉を潜めた。
 エリシア・メイジ。
 ティアと、全く同じ顔。黒髪も黒目も、記憶すら同じかもしれない、しかし、『実際には存在し得なかった』であろう少女。
 彼女は、きっと――七年前にとり逃したティアを手に入れるために、ルヴァンザムが用意したものなのだろう。
(だとしたら、父さんは、ティアちゃんがドラゴンアイを持っているという可能性を知っていた事になる。そして、もちろん、カーレンの事も)
 だが、一つ疑問が残る。
 ルヴァンザムならば、カーレンを追っている内に、セイラックでティアの存在に気づく事が出来ただろう。しかし、どうしてドラゴンアイを持っているかもしれないという可能性にまで気付けたのか。
 考えられるのは、ルヴァンザム自身がカーレンを知っているという事。
 九年前以前の接点があるのかもしれない。
 何より、彼は長い時を生きてきた。いつ、カーレンに関わっていたとしてもおかしくはない。少なくとも、彼以上に長い、永遠にも思われる程の時間を生きているのだから。
 思考に沈みながら、ふと、ベッドで寝ているアラフルに目をやった。
 少なくとも、クェンシードに連れてこられてから九年前まで、カーレンはルヴァンザムに出会ってはいないと考えていいかもしれない。
(――アラフルは、そもそもどこからカーレンを見つけてきたんだろう?)
 疑問を感じた瞬間、そこから可能性が生まれた。
 ルヴァンザムとカーレンが出会う事は、例えカーレンが存在している数百年のどの時点であっても、ないとは言えない。となると、本人もアラフルも分からないような、カーレンの曖昧な部分が存在すれば、あるいは――。
 そう思った時、脳裏に稲妻のように閃きが走った。
 ひょっとしたら、と。
「! まさか」
「あ? どうしたよ、セル」
 ラヴファロウの言葉は耳に聞こえていても、セルは反応できなかった。
 セル自身の体験。セルが聞き知った事。以前から知っていた事。
 そして、今浮かび上がった仮説。
 熱に浮かされたように呟いた。
「……エルニス。カーレンが里に連れてこられたばかりの時、カーレンには記憶がなかったんじゃないかい?」
 彼は顔をしかめた。
「何でそんな事を知ってるんだ? まぁ……確かにそうだけどな」
「じゃあ……時間について。自分が今、何年も前の時間にいると信じていなかった? その時間の時、何かドラゴンたちの間で、大きな変化がなかった?」
 エルニスの顔色が本気で変わった。引きつった笑いのような表情と共に、冷や汗が彼の頬を伝う。
「…………おいおい、セル。まさか、俺の記憶を読んだとか言わないよな?」
 セルは答えなかった。心臓が痛いほど激しく胸を打っている。
 エルニスの言葉で、確信した。
「――――そう」
 セルは、じんわりと衝撃が脳天から降りてくるのを感じていた。
 最終的に、自分の中で得た推測を、今まで彼らについて経験してきた様々な場合に当てはめて、それらに矛盾がないか確認する。
「……そういう事だったんだ」
 これは、きっと真実だ。勘や思い込みではなく、セルはそう確信できた。
「どういう事だよ?」
「簡単な事だよ。刺青の意味が分かった。カーレンの魔力が少なかった原因もそれだ。たぶん、封印を実際に行った誰かは、封印の力を調節する暇すらなかった。それだけ切羽詰まっていたんだ」
 ラヴファロウとエルニスが、食い入るように自分を見つめて来ている。
 息を吸って、セルは気を落ち着けようとしていたが、何度も失敗した。放っておけば、体の中で何か、自分でも良く分からないものが爆発してしまいそうで恐かった。
「人間で言えば、君は七歳、カーレンは二歳、だっけ。でも、カーレンは、自分の時間を破壊したんじゃないかな。本当なら、もうその時既に、エルニス以上に成長していたはずだったんだ」
 セルの言いたい事を、ラヴファロウは察したようだった。
「違う時点から別の時点へと移動する……時間を破壊……? そんな、理を曲げるような真似ができる訳――おい、まさか」
 言いかけて、ラヴファロウは気付いた。ほぼ同時に、エルニスも目を瞠って、同じ事を思ったようだった。
 それを可能にする力を、カーレンが持っているかもしれない。アラフルがそう告げてから、まだ一日と経っていない。
「ルヴァンザムが、セイラックで会ってからわざわざエリシアを用意してまでティアちゃんを狙い続けていた理由がやっと分かった。あいつは、僕にした事をティアちゃんにやろうとしている」
「おまえにした事?」
「忘れた? 僕は聖人の息子だよ」
 皮肉に満ちた笑みを浮かべて、セルは自分の目を示した。
「僕も覇王ドラゴンになれるんだ。でも、そうとなれば、ぐずぐずしていられない」
 セルは焦燥感から、そう口にしていた。
「バンクアリフの時と同じだ。ドラゴンを滅ぼす化け物が現れる」


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