Dragon Eye

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第一篇 - 五章 『慰めの歌』

-2- 冷たい手の平

 ――どこか遠くで、歌が聞こえていた。

 低くて心地よい声が、指が弾く弦の奏でる音色と共に、優しく歌を歌い上げていて――それが耳にふわふわと何ともいえない感覚を与えるから、夜になると、その歌を聞くのが好きになっていた。歌詞を教えてもらって、一緒に歌った事もあったほどに。
 もう、すっかりその歌は覚えている。思い出せないと思っても、探るように歌っていけば、ちゃんとその続きが出てくるくらいだった。
「――   、   ……――」
 歌を聴いているうちに、とろん、と瞼が垂れてきてしまう。
「…………ん」
 目を擦りながら、微笑が口元には浮かんでいた。
 始めは、とてつもなく無愛想な人だというのが感想だった。この怪我人の男の人を勝手に連れてきて、勝手に看病したのは自分なので、恨めるのは自分しかいない。そう、思っていたけれども。
 何だ、意外と優しい人じゃないか。そう胸の奥で呟いてしまうくらい、歌は柔らかな響きをもっていた。
 けれど、違うんだ、と気付いてもいた。自分以外の人には、あまり優しい目は向けてくれなかった。どころか、悩むような目をしている事が多かった。それが、今のところ自分の抱えている不満。
 聞いているうちに、とろとろと、堪えられないほど眠くなってきて、ついに頭が下がってきた。
 それに気づいてか、静かな部屋に流れていた甘く物悲しい演奏が止んだ。
 頭上で、ふっと笑いを漏らす気配がした。ベッド脇の机に、かたりと楽器を置く音が聞こえた。
「もう、眠った方がいい」
 大きな手が、すっぽりと頭を包んでくれる。撫でてくれる感触が気持ちいいなと思って、思わず髪が乱れるのも構わずに擦り付けてしまった。
「ん。……もぅちょっと」
 そんな眠そうな声で言われてもな、と苦笑されて、けれどそんな時間が温かくて、嬉しかった。
 まるで、本当の家族を持ったようで。
 両親は、ティア自身も覚えていない頃に、手も届かないような場所に行ってしまった。祖母がしばらく自分の面倒を見てくれたが、それも去年の冬までの事だ。生きる為に必要な事は、時々、人に手伝ってもらう以外は、全て自分でやらなくてはならなかった。だから、数年とはいえ、いろいろ教えてもらえた事は運が良かったとしか思えない。
(血の止め方なんて、今まで大事って思った事もなかったのに……覚えておいてよかった)
 放っておいても腹部の傷は治ったらしいが、それでもあんな場所では凍えて、両親のように雪の中で冷たくなってしまっていただろう。
「カーレンが寝るまで起きてる」
「……いい加減に寝ないと、明日の朝が辛いぞ」
「だって、わたしがそばにいなかったら、いつも悪い夢を見てるでしょ?」
 いつもの事だ、と素っ気無く言われて、自然と頬が膨れていくのが分かった。頭を撫でる手から逃れると、もぞもぞとベッドの上を、毛布やカーレンの足を越えて、短い手足で這っていく。
「わたしがいたら見ないもん」
「……分かった。分かったから。大人しく寝るから中に潜ってくるな。ちゃんと自分のベッドに行って寝なさい」
「やだ」
 子ども扱いしないで。
「…………ティア」
 明らかに呆れられた。白い目が毛布越しに突き刺さるのを感じていたが、ティアはカーレンの脇腹にしがみついて離れようとしなかった。
「やだ。一人は、やだ」
 困らせてはいけないと分かっているけれど、押し当てた頬から感じる温かさは、一度味わってしまうとなかなか離れられなかった。
 だって、こんな温かさ、何年も感じた事がなかった。祖母は、身体もひどく冷たくて、病気がちな人だったから。母さんも父さんも、ティアを置いて、戻って来れない場所に行ってしまったから。冷たくなって、雪の中で眠っていたから。
 だから、かもしれない。同じようにこの人がそうなってしまわないかと、それが怖くて、連れて帰ってきたのだ。
 目が少しだけ涙で濡れていた。
 服を湿らせる感触に気付いたのか、何も言わずに小さく抱いてくれる腕があった。
 けれど、首を横に振る。彼の腕の中からするりと抜け出ると、ティアはベッドから降りた。
「……ごめんなさい」
「どうして、謝る?」
「だって、カーレンは、わたしよりずっと長い間、一人だったのに……」
 ティアは、顔を俯けた。
「わたしだけ、一人がやだなんて言えない」
 本当は嫌だけど。
 唇がつんと尖がっていたのだろうか。
 ひとつ、溜息をつく音が聞こえて、伸ばされた両腕がひょいとティアの身体を軽々と抱え上げた。再びベッドの上に置かれたかと思うと、長い指がそっと、下の唇を押さえた。
「口。またマリーに、可愛くない、と言われても知らないからな」
 指を離されるのを待って、ティアはそっぽを向いた。
「意地悪な妖精みたいに口は尖ってないもん」
「だろうな。私にわざと悪い夢を見させて、おまえは最初から意地悪だから、口を尖らせる必要もない」
「い、意地悪はしない!」
 ぎょっとして、かけられた毛布の中にティアはいそいそと潜り込んだ。
「絶対にしないもん! 本当よ! カーレンの方が意地悪だもん!」
 喉を鳴らすような笑い声が、彼の胸元に押し付けた頭にくぐもって響いてくる。
 気がつくと、良いように言い包められて、結局一緒に寝させてもらっていた事に気付いた。
 しかし、やっぱり素直に甘えたままでいれば良かったかと言われると、そうでもない。
 痛みを分かってあげられたから、きっとこの人も、ティアに優しくしてくれるのだ。
 そう、感じていた。

□■□■□

「…………起きたか?」
 しばらくぼうっとしていたティアは、そう声をかけられて、ベッドから跳ね起きていた。
 寝過ごしたかなと一瞬思ったが、良く考えれば、寝過ごして困るような事は何もない。七年前なら、様子を見に来たイオナ小父さんに、寝癖だらけの頭を見られていたかもしれないが。
 それか――ティアは思い出して、暗く小さな微笑みを漏らした。
 ――それか、カーレンと一緒に寝ている所を見られて、こっぴどく彼が怒られるかのどちらか。
 呆れるほど豪奢な模様の毛布が、留まっていた胸からずり落ちる。その感触に、はっと我に帰った。
(そうだ……誰か、いた)
 気がついて振り返れば、目が覚めるような紅い髪が目に入った。
 彼の事は、見ればすぐに分かるくらいに知ってしまっていた。この五日間――早朝、夕方、夜明け前、または昼間と――、不規則ではあるものの、ティアの様子を見に来る事を、彼は未だに一度も欠かした事がない(しかも、全てエリシアのいない時に現れていた)。
 枕元に座っていたロヴェの顔をまじまじと凝視してから、ティアは首をかしげた。
「もう、朝?」
「いいや。まだ夜中だ」
 言ってから、ロヴェは綺麗な笑みを顔に浮かべた。ちらちらと揺れる灯に合わせて、顔に落ちた濃い陰影も、頼りなく形を定めずにいる。
「明かりがついているのに居眠るなんて無用心、エリシアが知ったら怒り狂うぜ」
 ティアは呆れて、何も言わずに天井を見上げた。
「たぶん、あなたがこの部屋に入った事の方が、怒り狂うもとだと思うわ」
 まだ半分夢見心地のまま言い返して、ティアはふと、ベッドの掛け布に目を落とした。
 確か、自分はベッドの上に座っていたが、潜り込んではいなかったはずだ。
「もう冬だっていうのに、よく何も掛けずに寝てたな」
 苦笑する彼の言葉に、少し顔が熱くなった。きっと、動かすのも忍びないと判断して、ロヴェがもう一枚、毛布を持ってきて掛けてくれたのだろう。
 決まりが悪くなって再びベッドに倒れこむと、温かい笑い声が頭上に響いた。背を向けたままでいると、髪をそっと梳かれた。
「ま、子供がおまえみたいにいろんな場所で居眠りしているのを見つけたら、よくこうしてやってたからな。別に苦労とは思っちゃいない」
「……え?」
 ぱちぱちと瞬いた。そのまま転がって、明かりの眩しさに目を細めながら、ロヴェの方を見上げた。
「あなた、子供がいたの?」
「二人な。上の方が、よくちょこまかと動くんだ、これが。弟の入った卵をかかえて、あちこちうろちょろするから、今にも転ぶんじゃないかと危なっかしくてな」
 いつもはらはらさせられた。
 その様子でも思い出したのか、懐かしそうに笑った。
「ま、それほど前じゃないが、もう百年より昔の話だ」
 それで子供の話を切り上げるつもりらしく、ロヴェは穏やかな顔をすっと冷たいものへと変えていった。
 ティアはロヴェのその様子を見ながら、内心で小さく溜息をついていた。
 ――未だに、このドラゴンの事がよく分からない。
 ロヴェ個人としては、ティアの事を心配しているような素振りを見せている。
 そして、事実そうなのだろうと思う。
 だが、炎塔の立場としては。
「話は変わるが……昨日も夕食を食べなかったと、じいから報告があったんだが。現在のあんたは、ルヴァンザムの個人的な客として招かれている状態だ。客の管理が悪いと、俺たちの主がいい加減機嫌を損ねるんでね。そろそろ意地を張るのをやめちゃくれないか」
 口調を崩さずに、そのまま、話の内容が事務的なものへとすり替わった。
 ティアは答えずに顔を背けた。
「食べられないのよ。……仕方がないじゃない」
 返事に僅かに苛立ったのか、ロヴェは小さく舌打ちをし、首を振った。その気配に、ティアは身をすくめた。
 どうしても、食事が目の前に出されたとしても、食べたいとは思わない。空腹を感じないほど、精神が弱っているのだと自分でも分かっていた。しかし、そう簡単に、今内に渦巻く感情を割り切れるとも思えないのだ。
 ティアが重く口を閉じていると、ロヴェはすぐに内心を察してきて、目を逸らした。
「確かに、おまえみたいな娘に見せるべき場面じゃなかったさ――。だが、それを抜きにしても、故郷を滅ぼされたのにおまえはカーレンを恨んでいないように見える」
「そんなこと!」
 瞬時にこみあげた怒りに、勢いよく顔を上げた。だが、ロヴェを睨んでいたはずなのに、すぐに目線が下がってしまうのが自分でも良く分かった。
「……恨んでるわよ。どうして、そんなこと」
「ああ、違う。言い方が悪かった」
 ロヴェは溜息をついた。
「恨んでる。それは確かだ。けど、おまえは憎む事を迷ってる。カーレンがどうして、そこまでする必要があったのか――それが分からずにいるからだろう」
 思わず、自分の身体に腕を回していた。
 自分の中を丸裸にされたような、嫌な不快感が奥底からわき上がってくる。
 脳裏に、炎に包まれた故郷の姿がちらついた。業火の中、火の粉を撒いて立つのは、全身が人々の血に塗れているカーレンだ。
 けれど、記憶の中のティアは、彼を責めなかった。いや――この感覚は、違う。そうしたくても、できない理由があったのだと感じた。
 彼を否定してはいけないと、一度失った七年前の自分が叫んでいる。
 なぜ、こんなにもセイラックの事になると、焦りが生まれてくるのか、ティアには分からない。故郷も記憶も、全てを自分から奪っていったのに、どうして彼の姿を思い起こすのがこんなにも辛いのだろう。
 苦しい。息をし辛くなっていて、喉下を抑えた。目を閉じると、涙が滲む。
 すっと、顔の横で乱れていた髪を、ロヴェの指が丁寧にすくって、ティアの耳にかけた。瞬間、冷やりとした感触が、触れた指先からこめかみを伝って、頭の中を駆け抜けた。
(な、に――?)
 じん、と頭の奥で疼くようなものを感じ取り、身体を強張らせたティアを、ロヴェは眉を潜めて見つめていた。
「そう……俺が、怖いだろうな。死の底が見えないのは、ある意味では正しいさ。それが当然だ」
 どういう意味かと聞き返す前に、彼は口を開いた。

「ひとつだけ、俺が知っている事がある。あいつは――おまえのためだけに、セイラックを滅ぼしたんだ」

 え、と声にならない声が漏れる。
 目を瞠る間に、ロヴェは突然ベッドから立ち上がった。
「ロヴェ?」
「悪い、構ってられなくなった」
 彼は見た事もないほど急いだ様子でテラスへ飛び出したかと思うと、別れの言葉すら告げずに屋敷の中庭へと飛び降りていった。
 間発入れずに、部屋のドアが叩かれたため、ティアは大きく息を呑んで飛び上がった。
「ティア? 起きている?」
 エリシアの声だった。
「……エリシアだったの。びっくりした」
 ゆっくりと緊張が解けていく。
 返事を返しながら、ロヴェが急に慌しく部屋を出て行った理由に思い至り、ティアは憐れみと呆れが半々といった心境でテラスを見やった。人の気配を感じ取るのがよほど上手いのだろう。
 ドアを開けて入ってきたエリシアは、テラスの方を見やって、眉根を寄せた。
「今、人の話し声がしたのだけど。誰かいたの?」
 ティアはベッドの上に毛布がまだあった事に気付いて、慌ててエリシアが気付かないうちにそれを蹴り落とした。立ち上がる際に、さらに足の裏を使ってベッドの下へと押しやる。
「どうして? 誰もいなかったわよ?」
 言いながら、ベッド脇に置いていた燭台を取り上げて、離れた場所のテーブルの上へと移動させた。
 ソファに座ると、エリシアはまだ疑わしそうな目でテラスを見つめていたが、ようやく頷いてこちらに視線を移した。彼女はすぐに、憂うように眉尻を下げ、ティアの顔を除きこんできた。
「ひどい隈ね……今日も寝ていないの? あまり無理をしないで、ティア。あなたに何かあったらって、私、心配なのよ」
「うん……分かってる」
 ごろごろと異物感を訴える目を擦りながら、ティアは返した。
「そういえば、エリシアこそどうかしたの? こんな夜中に来るなんて」
「…………」
「エリシア?」
「え? あ」
 エリシアは、俯けていた顔をはっと上げた。我に帰ったような表情に、ティアは瞬く。
「大丈夫? 何だか、調子が悪いみたいだけど」
「……何でもないわ。ちょっと、最近集中が途切れがちなのよ」
 ふらりと呟きを零す姿が、妙に今にも消えそうな違和感を覚えさせた。目を伏せて頭を振った拍子に、ティアと同じ漆黒の髪が揺れる。
 ティアの片割れであった少女の弱々しい姿に、眉をしかめかけた時、
 不意にテーブルの上の灯りが一瞬、隙間風で不規則に乱れた。

「え?」

 ティアは小さく目を瞠った。
「エリシア? あなた、その目……」
「……ん、何?」
 きょとんと瞬いた彼女は、普段の緊迫した面立ちよりも、年相応の表情をしていた。丸く見開いた夜のように暗い瞳を覗き込むと、ティアは首を振った。
「ごめんなさい……私の見間違いだったみたい」
 いや、本当にそうだろうか。
 ほんの一瞬だったが、あれは見間違いだったのか、とティアは心の中で首を捻る。
「それで……どうしてここに?」
「あなたの部屋の灯りが見えたから……ここのところ、ずっと眠っていないんでしょ?」
 言って、エリシアは眉を潜めた。
「どうして、あんな奴の事であなたが心を痛めなくてはならないの?」
 彼女の腕が、ティアの頬をかすめる。ふわりと鼻腔を、少女のつけている甘い花の香りがくすぐった。頬が彼女の胸に触れる。とくとくと、鼓動を打ち続ける胸の中は、泣きたいほど温かかった。
「ねぇ、ティア。私たち、ずっと一緒だった……お互いの気持ちを良く分かってた。なのにどうして、今は違うの? 私はあの日を忘れられなかった。あなたは記憶を失った。それだけの違いだったのに」
「……エリシア」
 ティアはうわ言のように、片割れの名を呟いた。
 エリシアは、セイラックが滅んだ時から、炎塔でカーレンへの復讐を誓ったという。
 裏切られた、という気持ちが強かったはずだ。カーレンを信じていたのだから。なのに、全てを奪われ、滅ぼされ、どうしようもなくなった彼女に、他にどんな道があったのだろう。
 自分は、恵まれていたのかもしれない。全ての記憶を失い、毎日を孤児としてそれなりに生きてきた。何の先入観も持たずに、カーレンと再び出会い、また共に過ごしていた。
 記憶が、あるかないかの違いだった。一方は憎み、一方は慕い、お互いに正反対の感情を持った。
(けれど――カーレンは私たち二人ではなく、私一人のためだけに、セイラックを滅ぼした?)
 言われたばかりの、ロヴェの言葉を反芻する。安心させるために抱き締めてくれた彼女の腕の中が、ひどく居心地の悪い場所に変わった気がした。
 だとしたら、自分は、カーレンに背負うはずだった全ての罪を押し付けたという事になりはしないだろうか。こうして自分が生きている事こそが、実は間違いだったのではないのだろうか。
 許されなかった未来を、何も知らないからと無知を振りかざし、安穏と生きてきた自分がいたのかもしれない。

 もしも。

 エリシアから憎まれるべきが、カーレンではなく、自分だったとしたら?

「っ!」
 思わず、エリシアを突き放して、立ち上がっていた。
「ティア?」
 驚きの声を上げてこちらを凝視するエリシアを見返し、ティアは後ずさりした。
「……違う、の。そんなつもりじゃ」
 ゆるゆると首を振ったが、何を言っても言い訳にしかならないと気付いて、顔を背けた。
「エリシア……違うのは、当たり前なのよ。だって、」
 無意識に、今、自分の頭に浮かんだ事を言うべきかどうか、言葉を選んでいた。
「だって、私とあなたは……同じでも、違ってしまったから」

□■□■□

「……寝入ったかな」
 恐る恐る、という訳ではないが。
 屋根の上からひょっこりと顔だけを突き出し、そっと部屋の中を覗き込んで――ロヴェは溜め息をついた。
「エリシア……人が大切な話をしようとした矢先にこれだ。あいつ、何か勘付いているんじゃないだろうな」
「苦労しているみたいですね」
「ああ、全く――って、おい」
 思わず頷きかけてから、気付いた。振り向くと、興味津々といった目で、ブレインがこちらを見つめている。一晩中張り込むつもりでいたのか、どこから持ってきたのか知らないが、ほわりと白い湯気を吐き出す小さな木のカップをその手に握っていた。光を取り入れる天窓のために、屋根の一部が突き出しているのをいい事に、そこに背中を預けてすっかりくつろいでいる。
「おまえまで何で屋根の上にいる?」
 苦りきった声を上げて、ロヴェは顔をしかめた。まずいところを見られたというのは否定できない。
「ロヴェさんと同じ事を心配したからに決まっているでしょ」
 むっとした顔でブレインが返した。
「姉さん、ここ最近、どうも満足に寝ている訳でもなさそうだから」
 そう言って、赤に近い桃色の目が、ちらりと屋根の下を示した。
「いや、俺の場合は」
「そういえば最近、滅多に屋敷で会わないって皆が噂しているみたいですけれど。忙しいんですか?」
 思わず口をつぐんで、ブレインをじろじろと眺めてしまった。
「……どこまで知ってる? 誰に調べて来いと言われた」
「エリックさんです」
 返事をして、ブレインはカップをくいと軽く持ち上げた。それを口元に運び、言う。
「ご主人様には会っていないから、今のところ、ほとんど何も」
「あいつ、余計な事を」
 舌打ちをする。そんな事で少年も手を煩わせる事はないだろうにと、呆れるように彼を見つめた。
 困り顔で肩をすくめてみせたブレインは、ぱっとそれらを引っ込めて、無表情にロヴェを見つめた。
「それで、どうなんですか? 僕もあちこち探してみたけど、どこにも見つからないんです」
「簡単に見つかるような場所に、俺があいつらを連れていく訳がないだろ」
「……ですよね」
 納得したように頷いて、ブレインは首を傾げた。
「でも、カーレンさんをどうするつもりですか?」
「俺は表向きは炎塔の一員だが、あいつに仕えてる訳じゃない。どうしようと俺の勝手だ」
「ご主人様もそう言っていましたけど……じゃ、ロヴェさんって一体何なんですか」
「俺は、俺だろ」
「それは答えになってません」
 むぅ、とむくれて頬を膨らませる様だけは、ちゃんと子供に見える。
 苦笑しながら近寄ると、軽く頭に手を置いて、数度弾ませた。子供扱いされたのが気に入らないらしく、一瞬驚いた後、表情が嫌そうなものに変わる。
「そうだな……強いて言えば、俺は生かされているのさ」
 ブレインは目を丸く見開いて、ロヴェを見上げた。
「生かされているって……誰にですか?」
「――、」
 目を、瞠る。
 自分でも不甲斐ないと感じながら、この時確かに、ロヴェは一瞬だけ、答えに詰まってしまった。否――答える事を、躊躇ってしまったのだ。
「……さぁね」
 嘆息交じりに、そう漏らす。
「……この世界に、かな」
 言いながら見上げた空に、まだ朝の気配はない。
「おまえももう寝ろ。今日はこれ以上の収穫はなしだ」
「誰も漏らすなんて言ってませんよ」
「なら、今聞いた事は、おまえの中にだけ閉まっておけ」
 未だ、不服そうにしているブレインの頭をもう一度だけ撫でると、そこに彼を置き去りのまま、ロヴェは屋根の上を伝っていった。
「ロヴェさん!」
「ん?」
 背中にかかった声に振り向くと、ブレインは小さく笑みを浮かべていた。
「……おやすみなさい!」
「!」
 虚を突かれて、ロヴェは目を見開いた。
 返事を返す間もなく、ブレインは素早く身を翻すと、屋根を駆け上り、その反対側へと消えてしまった。
「…………ったく、」
 しばらく、呆然と立ち尽くしたままだった事に気付いて、ロヴェは舌打ちした。屋根の頂からふいと顔を背けると、腰に手を当てて、溜息をつく。
 そこから歩き出すための意思が、なかなか出てこなかった。ようやく嫌がる足を宥めて動かすと、渋々といったように、滑らかな歩みが再開される。
 意識せずとも、口角が吊り上がってしまう。
(―― 『父さん!』 ――)
 空耳だと分かっている。
 けれど、いつか聞いた幼い声が、確かに胸の内に響く。
 自分の手が届かない場所へと行ってしまった子供の事を――、忘れようとしてはいても、どうしてもできなかった日々を思い出した。いや、今でもそうなのかもしれない。
 背格好の似たような子供を見れば、振り向いてしまう癖が身に染み付いて離れなかった。あのまま育っていたらどんな姿になったのか、もう想像すらつかなくなった頃、ようやくその癖はなくなったのだが。
 ただ一つだけ、その時から今までを生かされてきたロヴェが知ったのは、運命はどうしようもなく残酷だったという事だ。ずっと前から知っていて、否応なく思い知らされてきた。それを改めて目の前に提示されたような心地で、少なくとも良い気分ではなかったはず――そう、記憶している。
「あいつの事を、思い出してしまうじゃないか……馬鹿野郎」
 呟いた時、ロヴェは屋敷の隅にそれぞれ建っている塔のひとつ――その、最上階へと飛び移っていた。
 その場所から屋敷全体を見下ろして、ロヴェは目を細める。
 ディレイア。
 人里からも離れ、秘境と言えるほどの深い森に隠された、古い巨大な湖。断崖絶壁の湖畔に位置するこの場所を、ルヴァンザムは内部のものだけに通じる名で、そう呼んでいる。
 ハルオマンド王国はラーニシェス家の当主が、どこに居住地を定めているのかと問われて、明快に答えられる者はこの国中のどこにもいないだろう。炎塔の人間ですら、はっきりと聞かれれば、そういえば、と考えこんでしまう。正確には、領地内のどの場所と言えばいいのか分からないのだ。仮に王国に報告している居住地を答えたとして、書類上の当主がいるだけで、ルヴァンザム自身がその場所にいる事などはほとんどないに等しい。
 だが、ここは少なくとも、彼の領地であり、炎塔という組織の要所でもある。そのため、実際に組織にいる者と、使用人でありながら、内部の事情にも通じている者が混在しているという有様の上に、建物までが屋敷と要塞が入り混じったような構造をしているという、なんとも奇妙な場所となっていた。
 何にせよ、人目につく事がまずないのは確かだ。
「……ふん」
 ロヴェはディレイア全体をざっと眺めた後、とん、と足元を革靴の先で軽く叩いた。眩い真紅の光がその場を中心にして、一瞬の内に複雑な幾何学模様をした魔術の陣を描く。陣は次の瞬間、先ほどよりはいくらか単純な、ひとつの紋様に組みなおされ、瞬く間にロヴェの全身を這い上がって包みこんだ。
 沼の中に沈むような錯覚。足の爪先から頭の天辺まで、何を思う間もなく引きずり込まれたかと思うと、肌は夜の外気から遮断される。ざっと生暖かい空気が首筋を撫でたと感じた瞬間、ロヴェは一つの、窓のない部屋の中にいた。
 瞼を開くと、暗闇だった。
 少し考えてから魔力を解き放つと、その伸ばした触手が伝えてくる感触を頼りに、燭台を探り当てた。軽く念じて、その先の蝋燭に火を灯す。もともとドラゴンは体内に炎を溜め込めるため、それを移動させただけだった。
 眩しさにやや目をすがめつつ、部屋の空気が微かに揺れている事を肌で確認する。
 部屋には、窓もなければ、扉もない。壁や天井、床に至るまで、全てが冷たい石で覆われている。それ以外では、隅に開けられている通気用の穴と、室温を調節する魔術の刻印が、部屋の隅に一つ刻んであるだけの部屋だった。広くはないが、かといって狭くもない。人間が手足を広げて寝転がって、四、五人は楽に寝れるだろう。
 鎖を鳴らす音が耳に入って、それが聞こえてきた方を見やる。ロヴェは一泊置いてから、ごくごく薄い笑みを浮かべた。
 レダン・クェンシードだった。
 ぐったりと壁に寄りかかり、眠っているのか、規則正しい呼吸が聞こえてくる。両手足には、封印を兼ねた鉄の輪がはめられている。細くも太くもない鎖にはゆとりがあるために、部屋の中を動けはするものの、人並みに抑えこまれた力で、ましてや扉も窓もない場所から逃げ出す事は不可能だった。本人もそれを承知しているのか、ここに監禁されてから、暴れた様子もない。
(ま、暴れられる訳がないよな)
 それができないもう一つの理由を、ロヴェはちらりと横目で見やった。
 部屋の隅には、簡素な作りの、しかし寝具だけはやけに華やかなベッドが置かれている。必要なマットや毛布は適当に屋敷から持ってきたので、微妙にその妙な華美さと共にやってくるちぐはぐ感が否めないが、用が足りればそれでいいと考えた結果だった。
 その中に沈み込んでいる人影は、ぴくりとも動かない。ベッドの外に投げ出されるようにだらりと垂れている腕は、傍目から見たら死体ではないかと眉を潜めるほど、血の気がまるでなかった。
 足音を立てないように注意しながら、ロヴェはベッドの脇までそっと歩み寄った。背にした灯りが、自分の影を寝ている人物の上へと落とす。
 ふと腕を上げて手を伸ばすと、深い眠りの奥を見通すように、閉ざされた瞼を優しくなぞる。
 長い間、彼を見つめたまま動かなかったが、ようやく変化を見せた時、ロヴェは小さく自嘲の笑みを漏らしていた。
「……運命はいつだって残酷だよな。忘れた頃に、俺はこうして思い知らされるんだ」
 手を動かして、顔にかかっている乱れた髪を、そっと払ってやった。青白い顔には、いくつもの汗の玉が浮かんでいる。息をしているのかも疑わしいほど、彫像のように動かない顔には、深い傷を負った者の苦悶の跡が窺えた。
「なぁ、カーレン。おまえはそれでも逆らうのか?」
 呟きは、一つとして、誰の耳にも届かないだろう。
「俺は……逆らえないなら。抗う事すら、許されないなら……」
 それを知りながらも続けている事に……どれだけの意味があるだろうか。
「――いっその事、殺された方がどんなにマシかと。そう、思うのさ」
 触れた頬は、色がないくせにやけに熱い。浅く温度の高い呼吸が、途切れ途切れに手にかかる。
 自分の手に、温かい血は流れているだろうか、とロヴェはぼんやりと考える。
 この命が自分のものでなくなった時から、生死をはっきりと感じるのは、戦いの最中にある時だけだ。それも、果てなき高揚と興奮が冷めた後には、まだ自分は生きていたのかと、いつも失望とどうしようもない倦怠感が残る。
「嫌になるね。……死ぬための方法を必死に探してるんだ。――ああ、あるさ。方法は、ある」
 けれど――そのために他者に強いなければならないのは、どこまで暗い道だろうか。
 その暗さを思うだけで、押し潰されそうになるような重圧に、自分は一体どうやって耐えているのか不思議だった。だが、その理由は既に分かっていた。
 自分には、自分の目的がある。
 それを果たすまでは、自分は決して折れないだろう。――あるいは、もしも遺志を引き継いでくれる者がいるのなら……ひょっとしたら、後を任せて、自分は永い眠りにつくのかもしれないが。


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