Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-12- 朝を告げる鐘

「――!  !  、…………  ――!」
 誰かが叫んでいるような気がした。
 誰が呼ぶのか、それとも悲鳴を上げたのかは分からない。
 それでも、行かなければ、と思った。
 強く願い、足を動かしても、肩が捉えられていて抜け出せない。どんなものでも振り払える自信があったというのに、それでも抜けなかった。
 喉が痛いな、と思って、ようやく、叫んでいるのは自分だと気付いていた。
 だが、それにしても何を自分は言っているのだろう。何か、同じ事を連続して言っているようだ、と他人事のように思って、それでもまだ手足をばたつかせているのが子供みたいだと感じた。
 そんな風に、ないものねだりをする子供でいるのはもうやめようと、妹が死んだ時に誓っていたのに。
 次第に、自分の耳が正常に機能するようになっていた。
 ――いや、嘘は良くないだろう。最初から聞こえていた。

 一瞬のうちに、我を忘れ、全てを拒絶していたのだと、エルニスは知る。

「――レン! カーレン! 返事しろよ! カーレン! 聞こえないのか! カーレン!」
「……っ、よすんだ、エルニスっ――! 君が立ち向かっても、父さんには勝てないよ!」
 必死に呼びかけ、駆けつけようとするのを止めていたのは、セルだった。
「それがどうした!? あいつが、カーレンが死にかけてるのに黙って見ていろっておまえは言うのか!」
「もう助からない!」
 悲痛に絶叫したセルに、びくりとエルニスの肩が跳ねた。
「あれは、絶対に助からない……塞がらない! 英具で傷つけられたよりも、もっと性質が悪い……! 聞こえなかったのか!? カーレンは助からないんだよ!」
「冗談!」
 同じように叫び返し、エルニスは更に身体をよじった。
 セルが堪えきれずに放すと、その頬を殴り飛ばしていた。
「ふざけるな! 何か、何かあるはずだ……助かる方法があるだろ!」
「そんなものがあったら――っ、とっくにカーレンを助けてる! 分からず屋は君じゃないか!」
 起き上がったセルがエルニスに飛びかかろうとするのを、
「――やめなさい!」
 割って入ったベルによって、セルが突き飛ばされた。
 烈火の如く、憤怒に燃えるワインレッドの瞳がこちらを見据える。

 次の瞬間、鳩尾に叩き込まれていたベルの拳に、エルニスは成す術もなく体を折った。

 予想外に強い衝撃に、一瞬足が地から浮いた。体中が一気に鉛を飲んだように重くなった。
「っ」
 ちらちらと輝く薄紫の光に、彼女が衝撃を補強する為に、魔術の羽を握っていたのだと知る。周到さに歯噛みしたい思いだった。
「……退くんだ。カーレンを失った状態で、僕たちが長く持ちこたえられると思わない方がいい」
(――ちく、しょう)
 頷くベルの気配を感じながら、残った意識の全てを振り絞って、エルニスは目元を震わせ、セルを睨みつけた。
 痛々しいものを見るような目で、セルはエルニスを見つめ返し、何かを断ち切るようにきつく目を伏せた。
 そうして――、エルニスの意識は、落ちた。

□■□■□

「……死んだか?」
「さぁ。手加減なしだったから、どうとも言えないね」

 聞いて返ってきたなんとも無責任な答えに、ロヴェは舌打ちして軽く肩をすくめた。
「あーあ。ったく、俺は欲しいってちゃんと言ったはずなんだが、ルヴァンザム」
「すまないね。あまりに愉しくて、忘れていたんだよ」
 言うほどには、反省している気配が感じられなかった。
 再度舌打ちをして、ロヴェはずかずかと地面に伏したまま動かないカーレンへと近寄った。血の海を踏みつけるのも構わず、その側に屈みこむと、立ち尽くしたままのレダンと衝撃のあまりへたり込んでしまったティアの目の前で、乱暴にその束ねた髪の先を掴み上げていた。
 ぐっと持ち上げられた拍子に、カーレンの口がだらしなく開いて、唇の隙間から、ごぼりと、少なくない量の血が流れ落ちた。髪や顔が血に濡れる事も気にせずに、頬を口と鼻のすれすれにまで近づける。
「………………」
 何も感じない。
 しばらくそのまま静止してから、溜息混じりに顔を放して、それからぱっと手を離した。ずるりとまたカーレンの頭は血の中へと沈んだ。
 こちらを愕然と見ていたティアに目をやり、小さく首を振った。
「――貰ってく」
 何かを言おうとして、ティアの口がぱくぱくと動いた。四苦八苦しているような表情で、ようやくあるかないかといった唾を飲み込んだのか、掠れた声を発した。
「――どういう、事?」
「直撃だった」
 言った後、あまりにも静かだったので、驚きすぎて呼吸をしていないんじゃないだろうな、とロヴェは眉を潜めた。
「さて、おまえは今は自由に行動できると俺は思うんだが。どうする?」
 ティアは、蒼白な顔でゆっくりと俯いた。
「……見逃して」
 震える唇が、哀れに思えてくる。
「無理だ」
 ロヴェは無下に切って捨てた。
「こいつもおまえも、既にルヴァンザムに気に入られちまってる。けど、こっちの事を言ってるんなら、」
 言って、傍らに倒れているオリフィアの将軍を見た。頑なに目を逸らして、こちらに視線を合わせようとはしなかったが、その目はしっかりとカーレンに注がれていた。何も死を疑う事などないのだと、自分に飲み込ませようとしているのか、あるいは生きていると信じているのか。瞳に何も浮かんではいない。
「残していっても、別に困りはしない。どうせ、ほっとけばこいつも衰弱死だ。俺たちの目的は十分に達成された」
 少女が、また唇を動かした。
 どうして、と言ったようだった。
「どうして、その必要があったの?」
「…………知りたいなら、おまえは炎塔にこいつと一緒に来る事になるが」
 カーレンを顎で示すと、ティアはまた黙りこくった。
 今度の沈黙は、長かった。
 ロヴェはその間に、ルヴァンザムを振り返った。
「なぁ、この将軍、残しておいても問題ないか?」
「よほどの運がなければ、まず助からないと見たけれどね? 捨て置いても構わない。どうせ、オリフィアとポウノクロスの関係が悪化するのを見て、他の国がここに戦争を仕掛けるだけだろう。ハルオマンドにも響かないし」
 再び、ティアに視線を戻した。
「だとさ」
「……行くわ」
 ふらりと立ち上がる様子に、まるで生命の気配が感じられない。無理もない、とロヴェは思った。裏切られた相手だとしても、短いとは言い難い時間を過ごしてきたはずだ。
 リエラは一旦動揺が治まるまで何日かかったかな、と、自分の知っている儚げなドラゴンの事を思い出しながら見守ったが、貧血を起こして倒れるようなみっともない事にはならなかった。芯が強いと見ていた自分の目は、どうやら確かだったようだ。
(……それはそうと、向こうは随分静かになったな。さっきまであんなに喚いていたのに)
 横目で見やると、ぐったりとしたエルニス・クェンシードを抱えて、セル・ティメルクとベルとかいう女がこちらを見ていた。
 頷くと、よっ、とカーレンの身体を担いで立ち上がる。大の男にしてはやけに軽いなと思ったが、そういえば身体の血のほとんどは外に流れ出ていたと思い出した。
「悪いが、カーレンは回収させてもらうぜ。こいつは置いてく」
 軽く爪先でラヴファロウの身体を蹴ってつつくと、ロヴェは良く通る声を発してそう告げた。
「まぁ、死んだら好きにしてやればいいさ。どっちみち、こいつも頑張らなきゃ生きられないからな」
 はっと息を呑むような顔をしたセルを見て、嘲笑うように微笑んだ。
「それともう一つ。ルヴァンザムが結界を解く。せいぜい、大騒ぎの中でお荷物を抱えて、うまく乗り切る事だ」
 ロヴェが言い終わるのを見計らってか、ルヴァンザムが声をかけた。
「そろそろ行くよ。ブレイン、エリック。戻っておいで」
「は」
「はい、ご主人様」
 それぞれの返答を返して、騎士と少年は主のところに戻っていく。そこかしこに残っていた偽体たちは、宙の一点へと集まって黒い塊になると、少年の中へと吸い込まれていった。
 それを確認して、ロヴェはレダンをドラゴンの姿へと戻らせた。
 跡形もなく破壊されつくした庭園に、薄明るい空の下、白銀の巨大な姿が現れる。
 その背に飛び乗ると、立ち尽くすセル達をもう一度振り返った。背後でティアを連れて降り立ったエリシアが怪訝そうな顔をしていたが、すぐに興味を失くしたらしく、一言も発さない片割れを気遣っているようだった。
「…………ティアが、真実に気付けると思うか?」
 何の、とは問わない。限定するには、あまりにも問題が複雑すぎるのだ。
 しかし、それをどのように感じ取ったのか、返答は頭の中に返ってきていた。
(『俺はどうとも言えはしない。けれど、あんたを恨む』)
 そっけないレダンの声の中に、言葉通り、確かに憎しみが混じっているのを感じて、知らず、ロヴェは微笑んでいた。
(『何が可笑しい?』)
「別に」
 ただ、事実だけが目の前にある。
 このドラゴンには譲れないものがあった。だから、血塗れになってでも手を伸ばしたのだ。
 もがき苦しむ姿を見るのは、嫌いではない。その先にある光が、まだ見えている証だからだ。
 それでも、彼は手を伸ばせても、結局掴めはしなかった。
「だが、俺は結果としては、これはこれで良かったと思ってるのさ」
 抱えているカーレンを傍らに降ろすと、ロヴェは呟いた。ルヴァンザムが結界を解いた瞬間、いつでも飛び立てるように、レダンが飛翔の体勢を取った。
「俺は、変わる事を恐れない。それが必要な事なら、俺は誰であっても裏切れるし、憎まれる覚悟がある。ルヴァンザムも同じだ」
 答えがくるまで、今度は少し間があった。
(『あんたは、哀れだ。俺は違う。……俺だけの、道を探す』)
 ロヴェは目を伏せた。
「……哀れかどうか、か。そんなもの、俺にはもう何も分からないんだ、レダン」
 絶望の感覚なんて、味わいすぎて忘れたよ。
 口の中で呟いて、ロヴェは空を仰いだ。
 最後に自分の本当の感情を語れたのは、いつだったろうか。
 もう、それすらも思い出せない。

□■□■□

 扉がノックをされる音に、セルは顔を上げた。
「失礼しますよ、セルさん」
 言いながら、マリフラオが部屋の中に入ってくる。と、一歩踏み入ったところで足を止めて、気遣うような目で他の場所を見やった。
 セルも視線を追って、ドアから室内へと目を移した。
 そこには、気の毒なほど憔悴した様子の二人が、それぞれ一つずつ陣取ったソファの上に力なく沈みこんでいた。
「怪我の具合は、いかがですか?」
 聞かれて、セルは首へと手をやった。消毒薬の鼻をつく匂いと、丁寧に巻かれた包帯が、全てが終わってしまったのだという証拠を否応なしに突きつけてくるようだった。
「……大丈夫。それより、ラヴファロウはどうなったんだい?」
 聞かれて、マリフラオは何かを言いかけ、口をつぐんで目を伏せた。
「全く、あの人の意思の強さにはいつも困りもので……眠りましたよ」
 首を振りながら言う様子を見るに、薬を使ったのだろうな、とセルはぼんやりと当たりをつけた。
「できる限りの処置はしましたが、持ち直すかどうかは、まだ分かりません。少なくとも、数日は予断を許さないでしょう」
「じゃあ、ここに来て良かったのかい?」
「他の者に面倒を見させていますので、お気遣いは無用です」
 聞いて、セルはひとつ頷いた。
 目を、膝の間で組んでいた手に落とした。
「……あそこでマリフラオさんが助けに来てくれなかったら、どうなっていたか分からなかったよ」
「いえ。口先だけしか働かないので、あれくらいしか私にはできませんでしたよ」
 謙遜する彼に、そうかな、とセルは目を細めた。

 ――あの後、結界が解かれた庭園に押し入ってきたのは、ポウノクロス国の高位の魔術師や、将軍が率いる大勢の兵士たちだった。
 徹底的に破壊された庭園を見て唖然とするも、すぐにやるべき事を思い出して動いたのは、傍から見れば感心すべき事だったろう。
 しかし、その中心にぽつんと四人、その内動けない二人を抱えて成す術もなく立っていれば、関わる関わらない以前に、目立たない方が無理というものだった。
 案の定、取り囲まれて詰問された。傷つき、瀕死に陥りかけているオリフィアの将軍を見て、全員の間に動揺が走ったのも、セルはしっかりと見ていた。このままでは行き着く先は、将軍暗殺未遂でオリフィアに引き渡されるか、王宮を傷つけ反逆罪とみなされるか……明るい未来は少しも見出せそうになかったところに、兵士たちをかき分けてマリフラオがやってきた。ただし、執事服は着ていたものの、背の高い若い男の姿ではなく、いつか見た情報屋の主人としての姿でだった。
 彼はまず、その場ではおそらく最も発言力が強かったであろう将軍に、身分証としてスティルド家の家紋が刻まれた金時計を見せた。ラヴファロウの執事と知って顔色を変えた将軍を他所に、すぐに彼はセル達のそばにやってきた。
 そこで傷だらけのラヴファロウを見て、慌しく彼に応急処置を施しながら、
「良かった、ご無事だったのですね。主とご一緒だったと聞いて、まさかと思ったのですが。暗殺を企てた者共がいると、主が出かけられた後に情報を掴み、急ぎ参ったは良いのですが、既に非常に強力な結界が張られていたのです。兵たちにも止められ、遅くなりました事、深くお詫び致します」
 と、要約すればこんな内容になる事を、良く聞こえる声ではっきりと語られ、セルはこの場で自分がどのように振る舞うべきかを悟っていた。咄嗟に、ベルとエルニスを自分の付き人だという事にして、共に夜の庭園を歩いていたところ、急に襲われたのだと説明した。
 二人は高位の魔術師だったが、暗殺者の攻撃によって、エルニスが昏倒してしまっている。良ければ、そちらで休ませてもらえないか、と、何とか貴族の言葉遣いを思い起こしながら話し、どうにか、加害者から被害者へと、立場をすり替える事ができた。
 その後はマリフラオの独壇場となって、
「今回の舞踏会、貴方がたが警備の万全を期していると信じて来たが、多忙の中だというのにこの地に足を運ばれた主を、このような状態になるまで救えなかったなどと……ポウノクロスでのこの不手際、決して許される事ではない。貴方がたは、早くこの事態の収拾をつけるが宜しいだろうが、いかがか」
 と、こちらが圧倒されるほど見事な口上、口調で糾弾して、半ば強引に(兵士らを脅しながら)屋敷へとセル達を連れ帰ったのだ。

「まあ、姿を晒してしまったので、情報屋は当分休業ですね。しばらくは、大人しく執事を務めさせて頂きます」
「そうした方が、きっとラヴファロウも心休まるだろうしね」
 軽く皮肉混じりの冗談を飛ばすと、マリフラオは理解したのか、小さく笑ってくれた。
「ところで、カーレン様は……やはり?」
 うん、とセルは顔を曇らせた。
「……たぶん、あれじゃ助からない。父さんたちに連れて行かれちゃったし」
「ラーニシェス家、でしたか。ハルオマンドでは相当に名のある大貴族だと聞きますが」
「うん。たぶん、五百年ぐらいの結構長い歴史があるんだけど……実質的な当主は、ずっと父さんだった。何百年も人間が生きられる訳がないから、何人もの偽りの当主を据えて――だから、同じくらい古い貴族に見られた内部の腐敗はほとんどなかったけども、周りからは妙な家だって目で見られてたかな」
 実際変な場所だった、とセルは気のない声で淡々と告げた。
「しかし、数百年も人間は生きる事はできません。そこを、彼はどのようにして生きていたのですか?」
 簡単だよ。
 ソファに沈み込んだまま、力なく笑っていた。
「笑っちゃうくらい簡単な話さ。父さんはね、ロヴェ・ラリアンの寵姫だった。もちろんそれだけじゃあ寿命は人間よりちょっと長いくらいで、ほとんど同じだと思う。けど、違ったのは……父さんは人の域を踏み越えたんだって事。強烈過ぎた力のおかげで、身体の作りが根本的に自然の摂理から外れたものになった。ドラゴン並みに強い生命力を手に入れたんだ。そのおかげで、千年前から父さんは見た目は全く変わってない。ドラゴンだって死ぬ時は死ぬのに。不老不死の伝説なんてものが、本当に存在するのかなと思っていたけど。父さんを見ていると、疑う事自体、馬鹿らしくなってくる」
 マリフラオは驚きからか、半開きになっていた口をぴったりと閉じた。
「……彼が聖人エルドラゴンだという事ですか? つまり、自分の父親の正体を知っていたと」
 弱々しく微笑んでセルは頷いた。ああ、でも、とその後に思い出したように付け加えていた。
「教会にある銅像は、確かに父さんだけど……今よりもずっと、男性の姿をしてるはずだ。人の摂理から外れたからかな、どうも容姿が長い間で変わってきたらしくて、今ではあの通り、ほとんど性別の区別がつかない」
 どうしてこんなにも饒舌に話しているのか、自分でも不思議だった。マリフラオが単に聞き上手だからなのか、それともカーレンが死に、レダンすらいなくなって、知らないうちに絶望して自棄になっているのだろうか。
 気付けば、朝日の差し込み始めた開け放たれた窓から、どこか遠くで鐘が美しい音で鳴っているのが聞こえていた。
 いつの間にか、ベルとエルニスもソファから身を起こして、その話に聞き入っていた事に気付きながら、セルは肩をすくめて、話のまとめに取り掛かっていた。

□■□■□

「……言い換えれば、磨耗してるんだな。人間らしさが、だ。そして、あいつはそれに飽きていた。生きる事にも、死ぬ事にも、人が争う事にも、笑い合う事にも……全てに飽いて、だから滅ぼし出した。自分の全てに関わってきたドラゴンを、全てに関わられた人間たちを。ルヴァンザムは世界の姿に、俺と自分の姿を重ねたんだ」
 傍らで静かに語るロヴェの言葉を、白銀のドラゴンの背で、ティアは聞くともなく聞いていた。自分に余計な事を教えるなとロヴェに怒り狂っていたエリシアは毛布に包まり、エリックに支えられて寝入っている。おそらく空の旅を何度かした事があったのだろう。そして、話の中心となっていた当の本人は、命知らずなのか、レダンの頭部の上で角にもたれかかりながら、ぼんやりと過ぎ去る千切れ雲を目で追っていた。
 ティアはそれを眺めながら、とてもではないが、今の状況では寝られそうにないと既に悟っていた。顔を触れば眼窩が寝不足で落ち窪んでいるのが分かるのだろうが、それすらもする気力がなかった。風に乱される髪すら直さない。
 何の生きる希望も湧いてこない。そして、隣では、それと同じ物語をロヴェが紡いでいたのだ。――いや、頭上というべきだろうか。力を失くしたティアの身体は、膝を立てたロヴェの足と身体の間にもたれるようにしてあった。少し指をずらせば、もう一人、毛布にすっぽりと包まれたカーレンに当たるぐらいで、ドラゴンの背中は横には広くないのだなと当たり前の事を思う。
「自分を殺してるのね」
 ぽつりと平坦な声が漏れた。
「ああ、そう言うのが妥当だろうな。あいつは自分を殺したがってる。自分と、その世界を否定したくて、あいつは全てに絶望してる」
 ティアはしばらくそのまま、ロヴェの足の隙間から、流れていく雲を見ていた。どこまでも続く雲海の彼方から、眩い金の光が零れてくる。
「……あなたも?」
 え、と小さく聞き返す、虚を突かれたような声が風に紛れて聞こえた。
「私、リスコであなたに会った時、怖かった……。全てを失って、どうしようもなく、そう、ほんのちょっとだけ押せば……そのまま死の淵から落ちていきそうなくらい。死の底が見えなかったの。それだけ絶望しているみたいだった。それでも、救いを求めて小さく足掻いてる、可哀想なくらい悲しい人。こんなに悲しい人、見たことないって二度目に会った時に思った。兄さんが言っていたレダンの言葉の意味、ようやく分かってきた」
 ほとんど掠れるくらいに小さな声で、ティアはそれらの言葉を長々と紡いだ。顔を上げると、ロヴェの琥珀の瞳と目が合った。
 綺麗だ、と再び思った。
 いっそ、見ているこちらが泣きたいくらいに綺麗な、澄んだ透明な瞳だと。
「あなたはあそこで何を祈っていたの?」
 誰もこんな瞳をしていない。もっと、いろんなものが映っていて、いろんなもので心を表していた。けれども、彼の瞳はそんなものが一切ない。底まで見通せそうなほどのその純粋な無邪気さが、怖い。
 ルヴァンザムの絶望の理由も、分かる気がした。
「エリシアが言うような嫌な奴じゃない。あなたは、ただ哀しんでいるだけ。それを表に出さずに、そうやって全てを嘲笑ってるだけなんでしょう。私も、カーレンも、レダンも、……兄さんも。ルヴァンザムでさえ。だから、私、今はあなたが優しいと思う」
 ロヴェの呆気にとられた顔は、次第に何も含まない、冷徹なものへと変わっていった。
「……おまえに何が分かる?」
「そうやって突き放すのも、私に分からせようとしてるだけ。考える事が無意味だって」
 じっと注がれる視線に耐えながら、ティアはそれでも、と言っていた。紡ぐ唇は震えていて、きっと蒼紫色になっている。だが、止められない。止まったらきっと、自分は押し潰されてしまう。
 殺してしまった。死なせてしまった、その罪のあまりの重さに。
 ごめんなさいと、一言すらいう事ができなかった。
「考えてはいけないって分かってる。でも、無理なのよ。後悔するって絶対分かってるから、したくないからこんなにたくさん話してる」
「………………」
 ロヴェは答えずに、黙ってそのひんやりとした手をティアの目の上へと乗せた。
「どうしようもない……全てが遅すぎたのよ。私、気付けば良かった。レダンが罪を背負わせる事はできないんだって言った時、気付けば良かったの。断罪を望んでるのに、誰もそれを罪だと言わない。神様ほど、慈悲からきた無慈悲ではないから。それでは痛みが終わらない。だから、楽になりたかった……自由を探していた。――ロヴェ、カーレンはセイラックで何をしたの? どうしてあんな事をやらなければならなかったの? 真実も何もかもを無視して、私は大切なものを置いてきたのに……」
 動く事をやめない唇の上に、ロヴェの指が置かれた。
「そろそろ喋る事をやめないと、溜め込んでる物を失くしたらおまえは狂うぞ」
「構わないわ」
「やめとけ。カーレンが後で知ったら俺に何て言うか想像もつかないんでね」
 ティアは狭い場所で、身を小さくよじって笑っていた。
「ロヴェ、冗談はよして。生きていないのに喋れる訳ないでしょ」
「……そりゃそうだがな。いつだって、その選択をした後が怖いってのはあるもんだって事を忘れるなよ。狂うのを止める為だけじゃない、後に喋らなくちゃならない分を取っておけと俺は言っているんだ」
 分かったわ、と薄笑いを浮かべながら呟いて、ティアはロヴェの手が作り出した仄暗い闇の中で、そっと目を閉じた。
「変ね。鐘の音が聞こえる」
「ポウノクロスの最西端には、国の朝が来た事を知らせる“喜びの大鐘楼”がある。それが鳴ってるんだろ」
 言われてみれば、なるほど確かに、奥深い響きを持つ低い音は、静かに荘厳さと共に喜びを放っているように聞こえた。
「……私には弔いの鐘に聞こえるわ」
「おいおい、」
 呆れた声が聞こえてきた。
「そんなに悲観的にならなくても、おまえにはちゃんと光が残ってるよ。俺たちじゃないんだ」
「どうしてそうと言い切れるのよ?」
 泣きかけの声なのは、多分、気のせいではない。
「……聖書の最後にこんな言葉があるのを知ってるか? 昔、そこまで駄目じゃなかった頃のあいつが書き加えた言葉なんだが」
 何、と続きを促すと、ロヴェは滑らかに続きを言った。
「主が示された其は暗き道。道は語る、信ずるなかれと。闇は語る、希望はないと。人よたどれ、示されざる道を、その手に握るたったひとつの導きの元に……とな」
 どこかで聞いたことがある、とティアは思った。
「あちこちで語り継がれてる民謡の中には、似たような文句がいくつも入ってる。これは、ぼろぼろになった聖書を語り継ぐ為に、人々が紡いだ祈りの歌の原本なのさ」
 ああ、それで、と納得していると、ロヴェが言った。
「主――俺はいるかどうかなんて気にしちゃいないが――を否定しているのではと勘違いする奴が多いが、この言葉を残したのは罪人だ。罪人に主が示すのは、暗い断罪の道しかない。けれど、道はそれだけしかない訳じゃない。だから、たったひとつを握ってそいつらは旅に出なくちゃいけないのさ」
 そう言って、ふっと笑う気配がした。
「たったひとつ……そう、希望だよ。何よりも明るい至高の光が、ほの明るき道を照らし出す。罪人であっても、救われるための道を必死に見つけようとしていた証の歌だ」
「……そう」
 皮肉よね、とティアは呟いた。
「まさか、それを書いた本人が、救われなかったなんて話」
「救われないと知っていたから書いたのさ。あいつの後に続く、どうしようもなくなった奴らのために」
 言ったロヴェの言葉は、やはりどこか哀しげだった。
「なぜ、諦めたの? 生きているのに」
「逆だ。生きているからこそ、誰もが苦しかったのさ。カーレンだって、おまえだって、同じだ。どうしようもないくらい救われない所にはまって、どうやっても抜け出せない。それが分かったら、あとは沈むか、それでも抗うか、どちらかだけだ。俺たちも抗ったよ。それでも、時はあまりにも長すぎたんだ」
 透明な声が聞こえる。涙を流してはいないのに、彼はやはり、どこかで泣いている。
 耐え切れずに、ティアは目を伏せた。
 眠りたい、と願ったのに、一向に暗い安息は訪れない。
 朝の光を感じる中、密やかな歌声を聞いた気がした。
 歌は時々旋律を変えて耳に入ってきていたが、それも途絶えると、空の上には、白銀のドラゴンが風を切る以外、一切の音が消えうせてしまっていた。


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