Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-11- 空へ散る華

「――彼女を取り戻せると、本気で思っているのか?」
 何度目かに打ち合わせた時、鍔迫り合いの中でルヴァンザムが発したのは、そんな言葉だった。
「っ……」
 思わなかったら、少なくともここにこうしてはいなかった。
 そう思い浮かべるだけに留め、カーレンは剣を払いのけ、続く追撃をかろうじてかわした。返事を返す余裕は、与えられない。
「また七年前のようになりたいか? 何かを犠牲にしなければ、君は生きる事すらできないというのに」
「黙れ……!」
 呟いて、追って来る彼を流す。それでも、ようやく一度の攻撃に出られる程度の隙しかできない。
 一旦離れて、カーレンは息を小さく整えながら、手の平に感じる鋼の重みを改めて確かめた。
(英具に鱗と同じである爪は効かない……厄介な相手だ)
 く、と唇を浅く噛む。
 その様子を見やってどう思ったのか、ルヴァンザムは溜息混じりにゆるりと言った。
「そうやって迷っている隙に、君が守ろうとしたものは次から次へと零れ落ちるとも知らずにね」
「!」
 カーレンの傍らを、一陣の風がすり抜ける。
 目の端に辛うじて捉えたのは、白銀の色。
 そして――思い至って、カーレンは背筋を凍らせた。
 ――自分の後ろには、彼が。
「まさか」
「余所見をしている場合かな」
 呟いた瞬間、間近に刃が迫る。
 間一髪、受け止めた剣は寸分の狂いもなく首筋を狙っていた。
 剣が拮抗し、小刻みに激しく打ち擦れあう音が、やけに耳についた。どちらの手にある鋼の刃も、己に加えられている力に慄いて震えている。もはや相手は人の域にはなく、尋常ならざる力に、押し返す腕が悲鳴を上げていた。
「――、」
 つ、と首を伝う生暖かい感触の不快感を無視して、カーレンは眉を潜めた。
「ドラゴンを操ってまでして、おまえは何を望んでいる」
「いいや、何も」
 彼は目を細めた。
「望んではいない。ただ、いい加減に飽きたんだ」
 金属がぶつかり合う音の冷たさが、そのまま声になって聞こえているようだった。
「――だから、飽きたら切り捨てる。そうする事に私は決めたんだ。君が産声を上げるよりも、ずっと以前に。そして、やっぱり私は、」
 こちらを見つめる目が、気だるげに瞬きをした。

「――飽きたんだよ」

 鈍い憎悪の色を乗せて、掠れるほど抑えられた声が、カーレンの鼓膜を揺らした。
 言うなり、ルヴァンザムが素早く剣を引く。
 押し返す相手がいなくなって前のめりになったカーレンの身体を、素早く手首を返したルヴァンザムの一撃が斬り裂いた。
「がっ――!?」
 神秘殺しの刃によって刻まれた傷が肉を断つ不気味な感触に、カーレンの全身が悪寒に凍え、意識が白熱した。
 かろうじて叫び出しそうになったのを喉の奥に押し留め、続く追撃をどうにか受ける。
 その瞬間、今までぎりぎり均衡が保たれていたのが、カーレンが負傷した事で一気に崩れた。一つ受ければ、一つがどこかを浅く切り裂き、肉を断っていく。傷を負うごとに痛みと流れ出る血が、全身を重く鈍らせていった。
 しかし、悲鳴は決して上げない。
 上げたが最後、その瞬間にでも死に至る傷を刻まれる事を覚悟して、カーレンは奥歯をこめかみが痛む程にきつく噛み締め、必死に防いでいた。
 やっとの事で再び相手から距離をとった時には、肩で息をして喘ぎ、全身から血が滲んでいる有様だった。
 目の前に立っている男の異常な強さに戦慄していると、驚き怒るような鳴き声が聞こえて、すぐ側に見慣れた従者の姿が叩きつけられた。
「ルティス……!?」
 驚きに駆られ、滅多に背に土をつけたりはしないはずの使い魔の名を思わず呟いた。
 さほど響かなかったのか、すぐに黒狼は唸りを上げて起き上がる。間髪入れずに飛んできた真紅の爆発する矢をかわして、飛び退りながら怒鳴った。
『よそ見してる場合ですか、馬鹿マスター!』
「はっ――素敵なダンスを楽しんでるみたいだな?」
 足元の砂利を派手に蹴散らして、ロヴェが愉悦と嘲りに歪んだ壮絶な笑みを浮かべていた。
 彼がちらりと見やった方につられて目をやると、レダンの猛攻を防ぎ続けているラヴファロウがいた。
 友の疲労の色が濃いと見て取るなり、カーレンは叫んでいた。
「ラヴファロウ!」
「ま、あっちも、程よく盛り上がってるみたいだが」
 反撃として返ってきた深緑の光の刃を彼は避けて、手元の剣から紅蓮の衝撃波を生み出しルティスへと放つ。
「けどな、」
 彼が噛み付くのを、ひらりと羽根のごとくかわし、
 ついでとばかりに、カーレンに向けてロヴェは片目を瞑っていた。
「今宵の踊り明かす相手を無視しちゃあ、流石にまずいんじゃないか?」
「!」
 気付けば、既にルヴァンザムが笑みを浮かべて、懐に迫ってきたところだった。
 カーレンは息を吸いながら剣を前に引き寄せ、ルヴァンザムは僅かな唇の間から鋭く吹き出し、
「――ァあっ!?」
「――っ、は!」
 一拍遅れて、双方の剣が衝撃に絶叫した。
「っ、ぁ」
 肩まで尽きぬける振動を感じつつ、カーレンは更なる力を求めるように喘いだ。友人のもとに行って助けてやりたくとも、ルヴァンザムがさせてはくれない。
 反動で弾むように離れた剣を、その場で身を翻して回転をつけるように振り回す。背後で全く逆の動きをルヴァンザムがして、下から振り上げられる形で剣は再びの邂逅を果たした。ロヴェではないが、確かに踊るような心地ではある。
「それにしても、随分と激しい踊りだとは思うがね」
 先のロヴェの言葉が聞こえていたのか、ルヴァンザムは愉しげに、剣を操る片手間に言葉を紡いだ。
 息つく暇もなかった攻めが、急になくなる。すかさず間をとったカーレンに、ルヴァンザムはああ、と笑みを深めた。
「それとも、止め時が分からないか? ならば、無理矢理にでも止めてやろうか」
 不吉な言葉を、薄い唇が囁いた。彼が剣で示した方向には、力尽きて倒れ伏すラヴファロウと、それに歩み寄るレダンが見えた。
 いつの間にか、ルティスがこちらへと駆け寄ってきていた。ルヴァンザムの隣にも、ロヴェが薄く微笑をしながらゆっくりと歩いてくる。
 しかし、互いにそれらを気にも留めない。一瞬でも気を抜けば、死ぬのは自分の方だと知っていた。
 傲然と笑い、ルヴァンザムは言い放った。

「どちらか選べ、"ドラゴン"。人か、それとも同胞か。選べるのは二つに一つだ」

「……、」
 息を荒げたまま、カーレンは黙して、ただ驚愕と怒りに目を瞠った。

□■□■□

「……どうして?」
 ぽつり、と。
 ブレインを止めたセルの叫びに、ティアはそうやって疑問を口にした。
 兄として慕っていた彼が、今、自分の目の前にこうして青く変じた瞳をもってして、敵意を突きつけている。
 弟だった少年が、人を超えた怪物と化して、ティアが共に一時を過ごしたドラゴンたちと戦っていた。
 そして、隣に立つ彼女は、ティアの不安をどこまでもかきたてるのだ。

 ――どうして誰も、自分が願っていた姿のままであってはくれないのだろう。

「……どうしても、だからだよ」
 答えたセルは、首を振った。そうするのも辛いのだと、顔を歪ませる。
「エリシア。ティアちゃんを返してくれないか」
「帰るかどうかは、ティアの決める事よ。けれど、戻る気はしないでしょう?」
 ねぇ、と囁きかける声。
「私たちを二人だけにしてしまったのは、誰か……忘れられるはずがないものね?」
 すぐにさっと身体を離して、エリシアは冷たい声をセルに投げかける。
「あなただって、自分のために殺したじゃない」
 セルの顔が、びくりと、今までにない動きをした。
「……そうだ。僕は、そこにいる"僕の妹"みたいに優しかった子を、自分の為に殺してしまったんだ」
 ティアの知る彼の声よりも、数段低い声が小さくその口から漏れた。
「僕は、あの時と同じ間違いを二度と犯したくはない」
「あくまでも自分のせいじゃないって言い切るのね」
「僕のせいじゃないって、死ぬ間際に言ってくれたのは彼女なんだよ。分からないのか。そういった時の、彼女の気持ちが。君なら分かるはずだ!」
 セルは、エリシアに向かって声を張り上げる。
「君は、知ってるはずなのに……!」
「……訳が分からないわ」
 エリシアは眉を潜めたが、すぐに首を横へと振った。さらりと、手入れされた長い黒髪が揺れて、ティアを掠めていく。
「もう話をしても通じない事は、これで充分に分かったわよね?」
 振り向いた少女の瞳が、闇色から紅く変じる。
「ティア、本当に貴方には悪いのだけど……邪魔者は、始末させてもらうわ」
「!?」
 目を見開いたティアの前で、エリシアは後ろ手に左手を振ったかと思うと、
 ――一瞬の後に、指先から長く伸びた漆黒の爪が、セルを貫いていた。
「兄さん!」
 絶叫するティアを他所に、エリシアが呟いた。
「素早いわね」
「――簡単には、諦めたくないんだ」
 小さな返答と共に、一撃を受け止めていた右手を振り下ろして、セルはそのまま爪を叩き折った。見れば、カーレンが右手を変化させた時のように、セルの手の一部が鱗に覆われていた。
 砕けた鱗のかけらが地面に落ちる間すらなく、瞬時に、エリシアの姿が掻き消えると、セルの姿も合わせたかのように消えた。次にティアが二人の姿を捉えた時には、セルと自分たちとの間の、丁度中間でぶつかり合っているところだった。
 キンッ、と響く澄んだ音が、激突に耐えかねて空気が悲鳴を上げたかのようにティアは感じられた。
 短く連続して鳴り響く、戦いの奏でる音は、一瞬ごとに相手の喉を掻ききろうとする行動の結果だった。試みて、防がれ、また殺そうとする。相手を少しでも傷つけ、弱らせ、死へ追いやる音――。
「嫌っ――」
 やめて、と吐息だけを吐き出した。こんな音は、聞いていたくない。
(みんなが、死んでしまう――あの時みたいに、殺されてしまう――っ!)
 ほんの一瞬だけ、再び脳裏にあの『赤』が過ぎった。
 そう――殺されてしまう。
 止めなければ、と思った。
 けれども、足が動かない。
 時折、入り乱れて飛び交う魔術や剣戟の嵐の中、いつしか、ティアの目はカーレンの姿を探していた。
 離れた場所で、ロヴェがルティスが飛びかかるのをかわしているのが見えた。
 更に目を移せば、ブレインが偽体たちをエルニスとベルにけしかけ、更にエリックがそれに加勢している。
 ふと、気配を感じて、ティアは振り返った。
 背後に、レダンが立っていた。彼の瞳の奥に灯る紅い光を見て、彼の自我がないと知る。暗い瞳を覗き込んだ瞬間、誰かの瞳に重なった気がして、ティアの喉は恐怖に一気に干上がった。
「……ごめん。俺は、どうしても……彼には、抗えないみたいだ」
 呟いたのはロヴェではなく、レダン自身だった。表情も何もないまま、無機質な声で、単調に言葉を紡ぐ。必死に自分の意思を表に出しているのだというのが、額に滲む汗で分かった。
「だから、せめて、祈っていてはくれないか。――願わくば、誰も、俺が殺す事のないように……誰も、死ぬ事のないように」
 呟くレダンの言葉を聞いていて、何か、嫌な予感がした。とても嫌な予感が、ティアの胸をどくりと、大きく打つ。
 ふらふらと手で剣を掲げた瞬間、レダンの小刻みな震えが止まった。一気に冷徹な色を表情に帯びて、ルヴァンザムと戦っていたカーレンの側をすり抜けるように、ラヴファロウの元へと向かっていった。
 ティアは、ラヴファロウが剣を杖代わりにして立っていた事に気付いて、冷たい夜気が胸の中を滑り降りていくのを感じた。いつそうなったのかは知らないが、ラヴファロウが傷を負っていた。顔色だけでもその深刻さが察せられるほど、血の気が見えない。
 あんな状態でレダンと戦えばどうなるかなど、見るまでもなく明らかだ。ようやく見つけたカーレンもそれを察していたのか、ルヴァンザムを相手に苦戦しているというのに、何とかラヴファロウの元へと行こうとしていた。
「カーレン……無理よ」
 首を振った。
 諦めなければならない時もあると、彼も分かるはずなのに。
「守れる訳、ないじゃない……勝てる訳、ないわ」
 ルヴァンザムと目を合わせた瞬間から、分かっていた。
 ――彼は、彼と同じぐらい深い絶望を抱えなければ、倒せないと。
 レダンの一撃に、ラヴファロウは何とか持ちこたえていたが、二度目、三度目と続くにつれて、動きが鈍くなっていき――長引いた戦いの果てに、やがて、力尽きたようにレダンに吹き飛ばされて地面へと転がる。
 そのまま、微塵も動いた様子がない。
「だめよ」
 小さく、届きもしない制止の言葉を発した。
「だめ……レダン、だめよ。殺したら、あなたは……!」
 止めを刺そうと、レダンが歩み寄っていく。
 ラヴファロウは、動こうとしない。
 思わずカーレンを見ると、ルヴァンザムを前にしながら、助けを求めるように見回す目と視線が合ってしまった。
「あ……嫌っ」
 必死の眼差しを受け止められず、ティアは呟いて後ずさった。
 死んでしまう。
 思っても、どうしてもラヴファロウから目を背ける事が、できなかった。交互にカーレンとラヴファロウを見比べながら、動けない。
 かろうじて、いつでも目を覆えるように、両手を耳元まで上げた。

 震えながら、ティアは、決着が着く時を――着いてしまう瞬間を、待つしかなかった。

 祈る事しかできない自分が、どうしようもなく非力で、無力だった。この目に宿るドラゴンの力すらも、ろくに使えないのなら、役に立つ訳がない。
 もう、嫌だ。
 誰も、死ぬところを見たくない。
 誰にも、目の前で死んで欲しくなどない。
 『あの地獄』を、二度と思い出したくない。
 思い出したら、絶対に自分は耐えられない!
 傷つきたくなかった、――これ以上は。
 瞬きをした時、稲妻が走りぬけたように脳裏が痺れて、ティアは驚きによろめいていた。
(――っ!?)
 ティアは目を一際大きく見開いた。

 そう。

 だから、自分は――。

□■□■□

「っ……情け、ねぇな」
 微かな呟きが耳に入って、カーレンは迷わせていた視線をラヴファロウに向けた。
「カーレン――俺、あいつに言っといたぜ。……後悔はすんなってな」
 ラヴファロウは微笑んだが、すぐに、かはっ、と妙な咳き込み方をして、血の塊を小さく吐き出した。
「あー、くそ……身体、動かねぇ」
 言う事を聞かない身体に悪態をつく彼に、もういい、とカーレンは首を振った。
「喋るな……後は、私に任せておいてくれ」
 言って、ラヴファロウの側に立つレダンを見やった。無表情にこちらを向いているところを見ると、自我などは既に意識の片隅に追いやられているのだろう。
 と、カーレンの目の前で、レダンは手に持っている剣をラヴファロウの首筋に当てた。
 動けば切る、という脅しだった。
「さぁ、どちらを選ぶ、カーレン」
 ルヴァンザムが面白がるような声を発していた。そちらに向き直ると、カーレンはしばらく、彼の瞳を見返していた。
 だが、ルヴァンザムは突然顔から笑みを消して、冷徹な表情を向けてきた。
「選べないなら、選ばせてやろう。追い詰められた状況になるほど、人も魔獣も考えが単純になる」
 剣を持っていない方の手を掲げ、ルヴァンザムはそこに紅く巨大な魔力を立ち昇らせた。
「その方が、迷う暇もなくてはっきりするだろう? ――あまり、私を退屈させないでくれないか」
 身体全体に圧し掛かるように襲ってくる重圧に耐えながら、カーレンは動けない事に歯噛みした。
 彼らを睨みつけていると、ルヴァンザムの背後にいたロヴェと目が合った。
 彼の複雑な色をした琥珀の目に、吸い寄せられるような奇妙な光を感じて、思わずカーレンはロヴェを凝視していた。
 ロヴェもしばらくカーレンを見つめていたが、ややあって、ふっと馬鹿にしたように笑った。
『マスター!』
 訝しさに目を細めていると、ルヴァンザムが呪文を謳いあげる声が響いてきていた。ルティスに言われ、はっとそちらを見やる。
「 汝に刻もう 」
 一言、ルヴァンザムが声を発した時、彼の手にあった魔力の流れがねじれた。
 待ってはくれないとようやく実感して、カーレンは口の中が乾いていくのを感じた。
 ――自分が一人を選べば、一人が死ぬ。
 今、助けるべきなのはどちらなのか、分からない。
 選ぶなどと。正気か?
 意識の隅で声が上がる。
「 証を、刻もう 」
 ねじられた流れはやがて渦巻き、彼の望むがままに変形していく。ルヴァンザムはそのまま、剣を持っているのを感じさせない動きで両腕を広げ、ラヴファロウたちとの間にカーレンを挟んで立った。
 自分にとって、彼らは何だと、置かれている状況を忘れ、カーレンは自問した。
「 印を、刻もう 」
 剣を持たなかった手に、十字架にも見える紅蓮の大剣が握られる。
 一目見て、その魔術に心当たりがあった。その紅さから、血の断罪と呼ばれた術だ。
 神の力と恐れられ、数多の魔物を死に追いやったその力が、今度は自分の良く知る相手に向けられていると知って、カーレンは戦慄する。
 紫紺の目が、再三、カーレンに愉快気に問いかけていた。

 どちらを選ぶ? と。

 ――自分は。
 焦りに、視界が狭まっていくような錯覚を覚えた。
 レダンが急に刃を収めてラヴファロウから離れ、全く無防備にその場に立ったのを見て、息を呑んだ。
 再び残酷な微笑をその顔に浮かべて、ルヴァンザムは腕を交差させ、
「 ――その身に、千年の罪を刻もう 」
 言い終えた瞬間、漆黒の光を放つ血の十字架と、神秘を殺す英具の聖剣が、二人に向かって放たれていた。
「っ!」
 身体のすぐ横をすり抜けて飛んだ凶器に、咄嗟に手にしていた剣を投げていた。
 二本の剣は、耳障りな音を立てながら軌道を変えて、ラヴファロウから離れた地面に突き立つ。
 しかし、残りは。
「レダン!」
 あの魔術を止める方法など、カーレンは知らない。仮に知っていたとして、その術を持ち合わせてはいなかっただろう。
 彼の紅い光をともした瞳は、じっと、ルヴァンザムたちに注がれていた。
 いつまでも、信じていると言うように。
 叫ぼうとした。
 手を伸ばそうとした。

 それよりも先に、カーレンは、見た。

 ――黎明を迎えようとしていた空高く、鮮やかな真紅の華が、飛び散っていったのを。

□■□■□

 間一髪、漆黒の鞭をかわして、エルニスは今まで数度しか感じた事もなかった死の気配に、鋭く息を吸い込んでいた。
 吐き出す暇もなく、鞭の向こうから突き出されてくる偽体の腕を避けて、後に続くベルへと声を投げた。
「気を付けろ、ベル!」
「言われなくてもっ!」
 目標を失って倒れこむ男の偽体を、ベルが爪で二つに引き裂いた。むせ返るような悪臭を放ちながら、赤黒い死んだ血が地面へと飛び散っていく。まだ片方の半身がびくびくと痙攣している方に火を放つと、エルニスは舌打ちをして偽体たちに向き直った。
「くそ――きりがないぞ!」
 ゆらゆらと身体を小さく揺らす様は、そよ風に揺れて楽しんでいるのではないかと錯覚させるほど自然だった。逆に、その様が不気味さを余計にかもし出し、エルニスは物言わぬ人外たちに恐怖以上に嫌悪と吐き気を感じていた。
 いっそ、死人が腐り落ちた肉を持っていたら、魔物の中でも厄介な類として片付けられたかもしれない。だが、彼らは生前の肉体を完璧なまでに保っていた。いや――もう、既に腐るような肉はない。全てがあの黒い物質へと変じるのだとしたら、死体そのものがなくなっているのだ。
 数の多さにもう一度舌打ちをして、エルニスは腕を天へと振り上げた。再び、頭上が真昼同然の翡翠の輝きを放って、数百もの流星を偽体たちに叩き落した。押し潰され、砕けていく彼らの行く末を見守る事もせずに、彼らを壁としてその後ろで槍を構えていた少年のもとへと一気に迫る。
 今、カーレンが何をしているのか、全く分からない。
 だが、ユイが自分に託した兆しの示す時まで、もうあと一刻もない事を、薄明るい空が告げていた。ぐずぐずしてはいられないというのに、それでもこの人でも魔物でもない異形が邪魔をする。
「そこをどけ、化け物!」
「誰が! ……ご主人様の邪魔は、させない!」
 黒い槍が、エルニスの振り下ろした長い爪をあっさりと砕く。生命力を奪われたのか、と腕から流れ出る嫌な感触に顔を歪めた。
 そこへ、すぐ傍から殺気を感じて、咄嗟にそのまま屈みこんだ。風を切る音がして見やると、騎士の男が剣をちょうどエルニスの首の高さで振り抜いていた。
 危なかったと胃に冷たい物が降りる心地でいると、横からベルが男に飛びかかった。男が身をかわして剣を振るうと、僅かに彼女の脇腹をかすめ、血が飛ぶのが見えた。
「! てめぇ……よくもベルを!」
 一気に全身の血が沸騰するのを感じて、エルニスは腕を振るった。指先から強烈な熱波が矢の如く男へと飛んだが、慌ててかわした男の外套を少し焦がしただけに終わる。
 キンッと何か硬い物が折れるような音がして振り向くと、自分の身体を貫こうとしていた少年の黒槍がベルの飛ばした白刃で半ばから両断された音だった。
 黒い鞭の届かないところにまで後退していた彼女は、苛烈な瞳で少年と騎士の男を見据えた。
「エルニスに手を出すな、この下種が!」
 思わず、危機的な状況だという事を忘れてエルニスは呆れた。
「おいおい、凶暴女。口調が変わってる」
「一番あんたに言われたくないわよ! さっき私が切られて憤ってたくせにこの馬鹿!」
「馬鹿って……」
 おまえ、小心者じゃなかったのか。聞きかけて、エルニスはベルが指を二本立てて構えている腕が、小さく震えている事に気付いた。
「それよりも!」
 ベルが、震えているなどと思わせないような毅然とした顔で叫んだ。
「早くカーレンのところに行きなさいよ! 聖人なんてあんな見るからに危険なの、一人で相手させてんじゃないわよ、馬鹿!」
「……ベル。おまえ」
 エルニスは目を瞠ってベルを凝視したが、すぐに歯噛みしながら目を逸らした。
 くそ、と無意識に口が毒づく。
「馬鹿はどっちだ、そんなに強がって……!」
 悪態をつきながらも、悪い、と目配せをして、まだ周りにいた偽体たちを手当たり次第に吹き飛ばし、カーレンの姿を探した。
「どこだ……どこにいるんだ、あいつは!」
 囲まれていたところを突破し、近付いてきた一体を腹から一気にかき裂いて捨てたところで、エルニスは悲痛な呻きを聞いた。
「これは……セルか!?」
 辺りを見回すと、セルはエルニスからそう遠く離れていないところで、ティアに良く似たあの少女と戦っていた。怪我をしたのかと胃が落ち込むような不安を覚えたが、すぐに不自然さを感じて、そうではないと気付いた。
 エルニスが感じた不自然さは、誰の目から見ても分かりやすいものだった。少女が一方的に戦いを放棄して、くすくすと身体を折り曲げて笑っていたのだ。対して、セルはそれを叩こうともせず、呆然とした様子で少女とは違う方向を見やっていた。
「セル! 一体どうした? 何があったのか教えろ!」
 セルは初めてエルニスに気付いたと言わんばかりに、びくりと肩を揺らした。
「……エルニス? エルニスかい?」
 そろそろと振り向く顔は、今までにないほど蒼白でひきつっていた。
 その背後で、笑いを堪えるようだった少女が、ついにその感情を爆発させていた。
 何かのたがが外れたようにけたたましい笑い声を上げて、引きつけでも起こしたかと訝るほどに背を逸らしたり折り曲げたりと、狂喜に浸っている様子だった。
「――やったわ! あは、あははははは! そらっ、み、見なさいよ、私たちを、滅茶苦茶にした……報いが来たんだわ……うふっ! あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
 単純に喜びだけを表した底抜けの笑顔に、エルニスはぞっと寒気を感じていた。そこから感じ取るのは嬉しさだけだというのに、声にありありとこもる憎しみと嘲ったような哄笑は本物だった。
 ――狂喜ではない。これは、狂気だ。
 だが、そこまで彼女を狂わせるものが一体何なのか、それが分からなかった。
 思い当たるのは、セルが見ていたものだが――。
 エルニスは何気なく、セルの視線を辿り、

「…………おい。――嘘だろ?」

 ぱたり、と血が地面へと滴り落ちていくのが見えた。

□■□■□

 ティアは、愕然としてその光景を見ていた。見ながら、なぜか足が震えながら勝手に動いて、彼らのもとへと近寄っていた。
 目の前で起こった事が未だに信じられずにいる自分と、それを認め、奈落の底に突き落とされたような絶望感に身体が覆われていくような心地の自分がいた。
 ラヴファロウへと向かった剣を、カーレンが弾き飛ばしたまでは良かった。
 だが、どこかでレダンに向かっていくルヴァンザムの紅蓮の十字架は、カーレンには止める事は間に合わないだろうと悟っていた。
 だから、こんな結末など、予想だにしていなかった。

 ――真紅の光に身体を貫かれた、カーレンを見るまでは。

「――、レン」
 震える唇で、形にならない名前を、声にならない声で紡いだ。見開いたまま、瞬きもしない瞳に映っているのは、時が止まったかのようにその場に立ち尽くし、とうとうと大量に血を流し続ける彼の姿だった。
「――カー、レン……カーレン?」
 呼びかけると、小さく項垂れていた頭が動いた。ルヴァンザムたちに背を向けているために、彼の表情はティアにしか分からなかった。
 口からも幾筋も血を溢れさせていたが、カーレンは構わず、熱に浮かされたような顔で唇を動かした。
 ティアがその意味を悟って、拒絶するように目を瞠り、首を小さく振ってみせると、彼はティアに向かって微笑みかけ、
「、――」
 そのまま、カーレンの身体は大地へと崩れ落ちた。
 十字架の剣が、消える。
 栓を失った傷口から止め処なく出てくる鮮血が、音もなく地面へと広がっていった。
 いつの間にか、レダンのすぐ隣にまで来ていた。ぴちゃっ、と何か、飛沫のようなものが飛んできた気がして、見下ろした。
 自分の足元に、カーレンの血が飛んでいる事に気付いて、短く息を呑んで後ずさった。
「ぅ、あ」
 呼吸が震え、不規則に乱れた。足がもつれるようにして、べしゃりとその場に座り込む。
「…………」
 ぬめるような感触に、ティアはおそるおそる両腕を持ち上げた。
 手の平には、まだ生ぬるい血がべっとりとついていた。座り込んだ時に手をついたので、その時に触れたのだろう。
 どうしてだろう。傷つけたのは、自分ではないのに。
 けれども、ティアにはそれが、自分自身がカーレンを殺してついた血のような気がしていた。


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