Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-9- 記憶の色

「――これは、面倒な事になったなぁ」
 翡翠の光に目を細めながら、ロヴェは呟いた。
 さっさとラヴファロウに止めを刺せばよかったか、と後悔が一瞬頭を過ぎったが、それも立て続けに炸裂する流星の矢の前に霧散した。
「昔からラジクの流星は厄介だったからな……息子が扱ってるのがそっくりそのままって訳じゃないようだが」
 流星群の中をするするとかいくぐって、軽やかにロヴェは屋根の上に着地し、更に状況を考える。
 思考に集中力をいくらか割いているのに、それでも比較的楽に避けていられるのは、おそらくアラフル・クェンシードがいないからだろう。
 いくらこのドラゴンがラジクより魔力や術の扱いが未熟だと感じても、それは年季の違いによるもの。元からこの攻撃は厄介なために、それほど差があるとは思えない。となれば、やはりあの存在は大きかったのだ。
 最後に本気でぶつかり合ったのは、いつの事だったか。考えて、ロヴェは笑った。あの時、ラジクに子供が生まれていたという話は聞かなかった。だが、このドラゴンは見たところ、三百年を超えているだろう。
「……もう三百年以上経つのか。あの日決別して以来、俺もアラフルとは長いこと会ってないんだな」
 といっても、会わないのが当たり前か。
 遠い年月に思いを馳せながらも、若いドラゴンの一撃を右腕で受け止めた。わざと砕かせた鱗の欠片が、金色に輝きながら彼の頬をかすめ、細かい傷をつける。
 エルニスが僅かに怯むのを見逃さず、ロヴェは一気に迫った。
「甘いな、流星の子!」
 顔を庇う腕を踏み台にして飛び上がると、こちらを振り仰ぐエルニスを見下ろして、ロヴェは笑みを浮かべた。
 確かに攻撃は厄介だが、
「数を打てばいいんじゃない……」
 ――だからといって、打つ手がないという意味ではないのだ。
「数ってのは――こうやって使うんだよ!」
「な……っ」
 驚愕に、深い紫色の瞳が見開かれた。
 無理もない、とロヴェはほくそ笑む。
 ロヴェとエルニスの頭上に浮かぶのは、幾重にも連なった翡翠の光だった。真昼のように明るく庭園全体を照らすその数は、どう見てもエルニスが一度に打ったものとは思えない。
 ただ逃げ回っていたわけではない。途中で捕まえて、気付かれない内に術の主導権を奪えば、意のままに操れる。
 流星はエルニス目掛けて、四方八方から彼を取り囲むようにして襲い掛かった。
「っ…………!?」
(かかった)
 咄嗟に身を庇う姿勢を見せたエルニスを見下ろして、ロヴェはにっと口で弧を描いた。
 結果を言えば、魔術は、エルニスに当たる事はなかった。
 どころか、彼をかすめるようにして飛び回るだけだ。不審に思ったのか、エルニスは星たちに当たらないよう、その体勢を保ったまま――目を見開いた。

 当たらないようにしなければならない?

 そんな疑問が、彼の中で湧いた事だろう。
「ほら、もう動けない」
 ロヴェは笑った。
「動こうにも、それができないっていう状況は初めてだろう?」
 見事に術中に嵌まったドラゴンに対してそう呟き、楽しげに目を細める。
 常に途絶える事なく、身体をすれすれにかすめてゆく魔術たち。だが逆に言えば、動けばそれらが全て当たるという事だ。
 翡翠の流星群と、もう一つ、手の平に巨大な真紅の炎を浮かべながら――ロヴェはにやにやと笑った。
「ここで一つ、どでかいのを打ち込むとどうなるか……分かるよなぁ?」
 エルニスの瞳が見開かれる。
 ――その顔に焦りの色が浮かぶ間もなく、空に真紅と翡翠の光が炸裂した。


(ま、ないとは思うが、一応、不意打ちされる要素は除いておくのが一番か……っと)
 轟音が止みかけてくると、ロヴェは念のために腕を一振りし、大量に上がった灰色の煙を風で吹き払った。
 一気に視界が晴れると、そこには自身が作り出した惨状が広がっていた。
 が、
「あー、……これは」
 地上を見下ろし、ロヴェは何とも言えない声を漏らした。
 空からの熱に焼かれ、大きく焼け焦げた跡を残した大地。砕かれた花壇の煉瓦の破片があちこちに転がり、まだ燃えている炎が点在していたそこに、しかし、全身を焼かれて横たわっているはずのドラゴンがいない。
「……やりすぎ、って事はないよな? 流石に」
 まさか、一発で消し炭にしてしまったという事はないだろう。
 さて、どうしたものかと空から見下ろしていると、頭上から声が聞こえた。

「生憎だけど――間一髪、救出させてもらったわよ」

 見上げると、声の主である女と、エルニスがそれに寄りかかるようにしながら、こちらを睨みつけていた。
 あの瞬間に何が起こっていたのか。
 ロヴェは小さく眉を潜めたが、すぐに何が起こったのかに気付いて、思わず目を丸くした。
「っはは……、なるほどな。直前に流星群の全てを爆発させて、うまくすり抜けたってところか」
 大したもんだ、とロヴェは不敵に笑う。
 あの数瞬にも満たない間で、ロヴェの握っていたはずの魔術を奪い返すとは。
「最も――無傷、って訳じゃあないようだが?」
「……っ」
 目を細めて指摘してやると、だらりと垂れ下がった右腕に目をやり、エルニスは顔を歪めた。
 さて、どうしてやろうか。
 軽く舌なめずりをしながら、ロヴェはふっと笑って思案する。
 だが、エルニスが口にした言葉に、その表情は消えた。
「…………ベル。レダンはどこに行った?」

 ――レダン?

「知らないわよ。あんたがラヴファロウを助けに入った時には、もう居なかったわ」
「何だと?」
「おい、おまえ」
 冷やりとした声をロヴェは発し、エルニスはぴたりと唇を閉じ合わせた。ベルと呼ばれた女もまた、何かを感じ取ったのか、目を瞠ってこちらを見る。
「今……レダン、って言ったな? あいつはここにいるのか」
 うろたえるような表情をした彼女の顔を、ロヴェは見逃さなかった。
「はぁん……ここにあのドラゴンがねぇ?」
 面白がるような素振りを見せる傍ら、ちらりと地上を見やるが、どこにもラヴファロウの姿はない。上手く逃がしたか。
(しかし……これは、オリフィアでエリックに嘘をついて正解だったか)
 二人を威圧しながら、ロヴェは内心で呟いた。とりあえず凶暴だと教えてあるので、不用意に手を出す事は避けるだろう。いや、出されてはこちらが困るのだが。
 あとは、どう回収するかだ。
 ――考えながら、ふと、思いついた事があった。額に軽く指を置くと、ロヴェは小さく呟いた。
「なぁ、ルヴァンザム。悪いが、そっちは任せたぜ」
『――少し手こずっているようだね? それとも……我がままかな』
 額が温かくなる。目の前が白く淡い光に包まれ、頭の中に、穏やかな声が反響した。
「いや……我がまま、だろうな。許してくれるか?」
 沈黙。
 ロヴェが息を詰めて返事を待っていると、ややあって、溜息が聞こえた。
『……仕方がないね。エリシアには、よく言って聞かせておこう』
「頼んだ」
 頷くと、ロヴェは目の前で呆気に取られてこちらを見つめるドラゴンたちに注意を戻した。
「……今、あんた、寵姫と話していた?」
「………………」
 注意深く聞いてくるベルをしばらく無言で見返してから、ロヴェはにやっと笑った。
「考えている事は分かるぜ」
「そんな、まさか、ありえない」
 ベルが首を振った。
「だって……"その存在"は、もう死んでいるはずなのに……!」
 くっくっと喉の奥で笑い声を堪えて、ロヴェは言った。
「表向きはそうだ。が……まぁ、アラフルが本当の事を教えてくれるさ。俺の最高の好敵手だったドラゴンだからな。何が起こったのか、察せないはずはない」
 その言葉で確信を得たのだろうか。
 エルニスが、呆然と呟いた。

「"神獣"……生きていたのか」

 ロヴェは笑って頷こうとしたが、やめた。
「さて……生きてるっちゃあ、生きてるが。どうだかなぁ?」
 曖昧に言葉を濁してみる。
 そんな自分を他人事のように、ロヴェは嘲笑った。
「程よく封印も解けかかっている事だしな……そろそろ始めようじゃないか。なぁ、レダン?」
 言いながら、するりと腕の布を外した。露になった真紅の紋様に、エルニスたちが警戒の色を見せる。
「エルニス、あれって……?」
「分からない。気をつけろ、ベル。何か始まるぞ」
(言ってろよ。本番はこれからだ)
 笑って口の中で呟くと、ロヴェは瞳に力を発現させる。
(さて……レダンを握ったら、しばらくこいつらと遊ぶとするか。落ち合うのに時間がかかるだろうしな)
 そうして紅い光を空に灯し、唇は言葉を紡ぎ始めた。封印を破り、再びドラゴンをこの手に握る為に。
「―― "指先に宿るはその意思" 」

 さぁ――レダン。また、俺のもとに堕ちて来い。

□■□■□

「どこだ……どこにいる……!」
 松明が仄暗く照らす回廊を走り、レダンは右手にあった庭園の方を向いて立ち止まった。
 弾んだ息を整える間もなく、まずいな、と口の中で呟いた。
(今のカーレンでは……ルヴァンザムとの力の差を埋められない)
 焦燥に駆られながらもカーレンの気配を必死に探っていたが、彼の放つ魔力の所在が掴みづらかった。ドラゴンの本来の域に届いていない彼の力は、他の場所ならまだしも、大勢の偽体たちが放つ気配があまりにもごちゃごちゃとしているせいで、完全に掻き消されてしまっている。
 血濡れた手から立ちのぼる臭気に、思わず鼻にしわを寄せた。先ほども数体に襲われたばかりだ。これでは臭覚も効かないだろう。
 耳を使うか……と考えて、レダンはここに来てから感じ続けていた違和感の正体にようやく気付いた。
「舞踏会の会場がすぐ近くのはずなのに……人が誰も来ていないっていうのはどういう事だ?」
 振り向いて確かめるが、やはり人間の気配がない。
 何が起こっている。
 舞踏会の様子を聴覚を澄ませて探ろうとして――、妙なものに阻まれた。
 レダンは一瞬目を瞠ってから、小さく舌打ちをした。
「っ……そうか、結界が張られているんだな」
 これでは誰も入ってこられない訳だ。外からは大きな物音がしている事に気付くどころか、中の様子さえ分からないのかもしれない。人間の魔術師が何人か気付いていたとしても、これは彼らの魔力程度でどうにかできる規模のものではないだろう。
「こんな強力な結界……しかも、こんな大規模なものを、一体誰が維持してるんだ……?」

「――それには、とりあえず、私が張ったと答えようか」

 穏やかな声がした。
 聞き覚えのありすぎるその声が撫でた背中に、ぞくりとしたものが走る。
 レダンは無意識に身体を強張らせながら、ゆっくりと振り返った。
「こんな所で出会うとは、奇遇だね。君にはセイラックでの一件以来、会っていなかったか」
 それは、闇の中で幾度となく聞いた声だった。
 計り知れぬ深みを持つその音が、レダンの鼓膜だけでなく、精神そのものまでもを、根幹から揺るがした。
「その様子だと、カーレンを追っていたのかい?」
「――くっ……!?」
 彼は優しく微笑んでみせたが、レダンにそれを眺めている余裕はなかった。
 一挙に身体を襲い始めた違和感に、がくりと膝をつく。
「おまえ……カーレンに、何をするつもりだ……っ」
 胸が異様な痛みを訴えてくる。肩に広がる呪いの証がじりじりと焼けつくような感覚を覚えさせ、同時にレダンの意識を侵食していっていた。
 呪いの中心を抑えて、レダンは絶望にも似た感情が湧き上がってくるのを感じた。
 今までずっと力を抑え続けていた水晶が、砕けかけていた。
 ルヴァンザムの真紅の瞳が、ゆるく閉じられていく。
「さぁ、ね。ロヴェが、彼が欲しいと、言っていたけれど」
 眠るような声で言うと、彼は愉しそうに笑っていた。
「――さて、もう、限界が近いか?」

 パキン、とひどく澄んだ音がして、レダンは起こった事を拒絶するように、目を極限まで見開いた。

 水晶が――割れた。
 さらさらと脇腹の上を滑って、服の隙間から細かい砂となった水晶が床に零れ落ちた。
 意識に、耳障りな雑音が混じる。
 幾重にも重なる囁き声が、声をかき消す。雑踏の音がする。意識を踏みにじられるような感覚に酔い、誰かが遠くで叫んでいるような錯覚を覚えて、頭が割れるように痛んだ。
 暗闇が崩れ落ちるようにして、崩れ落ちる音の洪水は騒音となって、容赦なく自分を飲み込み、背中に重圧を叩きつける。
「やめろ――」
 自分の声が遠く聞こえる。どこかにぶつかって返ってくるような心地がした。
 世界が、あやふやになっていく。
 前後は、どうだったのか。
 虚脱にも似た浮遊感。ふわふわとどこかに運ばれていくようだ。
 頼りなくなっていく、自分の存在。
 混濁し、訳が分からなくなっていく意識の中で、身体の先の感覚がなくなったのをレダンは知った。
 恐怖すら、水で薄められたようなものでしかない。それでも最後に足掻こうと、レダンは呟いていた。
「嫌だ……俺は――俺なんだ」
 違う、と声がする。
(『いいや。おまえは誰でもない、レダン』)
 はっきりと、自分のものではない声が聞こえる。身体を手放すまいとしがみ付く手に、別の手が引き離そうとかけられた。
 腕が意識に逆らい、指で天を指した。
「―― "指先に宿るは、その意思" 」
(違う! 俺は、誰にもなりたくない)
 諦めろ、ともう一つの声は言う。
(『分かっているだろう。おまえはどこにもいない。始まりから何も変わっていない。レダンという存在などいない』)
「 "印を刻まれし、汝に命ず" 」
 否定されるレダンの自我を、呪いが徐々に侵していく。どこまでも意識が先細り、それでも抵抗しようと身体は小さく揺れて震えていた。
 しかし、それさえも直に止まる。
「 "我が望みに応え隷属せよ" 」
(『俺は言ったよな。確かなものはこの世のどこにもない。不確かな存在も、在る事を許されない。確固として存在する身体と、あるかどうかも分からない自我。矛盾を抱えているからこそ、おまえは破壊を定められる』)
 違う、とレダンは意識だけになりながらも、小さく首を振る。
(それ、で も。俺は、ここ  に い   ――)
 その呟きを最後に、自分と呼べるものはいなくなった。

「 "抗う術は  なし" 」

 ――最後に残ったのは、拘束され、操られるがままの、堕ちたドラゴンだった。


「――さぁ、レダン」
 記号以上の意味を成さなくなった名前を呼び、ルヴァンザムが笑う。
 首を垂れ、レダンはぴくりとも動かない。
「一緒に、皆のところに行こう」
 ルヴァンザムの唇の端が、音もなく引き上げられる。
「おまえが大好きなカーレンも、捕まえなくてはいけないからね?」
 ゆるゆると顔を上げ、白銀のドラゴンは、虚ろな目をルヴァンザムに向けた。
 そうして――無言で立ち上がり、レダンはルヴァンザムの手を取った。
 ルヴァンザムの目に合わせられた瞳が、真紅の光を帯び。

「  、――」
 求められたものに答えるかのように、何かをレダンは呟いた。

 次の瞬間、二人の姿は回廊から消え失せた。
 後にはただ、名残を残すように、真紅を纏った青い光が、その場にちらちらと舞い落ちていった。

□■□■□

 目の前をちらちらと光が舞ったような錯覚を覚えた。
 ぐるりと世界がひっくり返るような嫌な感触から解放された途端、走りながら移動したためか、セルだけでなくカーレンまでもが大きく前へとつんのめった。
 強かに身体を地面に打ちつけ、冷たい廊下の床へと転がると、カーレンはうっと息を詰まらせた。そのすぐ隣では、ルティスが『重い』だの『早くどいて下さい』だのと散々悪態をついている。身体の半分を下敷きにしてしまったらしい。道理で息苦しい訳だった。
 吐き気を堪え、やっとの事で息をすると、思わず声が漏れた。
「っ……なかなか面白い着地だな」
『下手!』
 ルティスが唸る。
『変に皮肉る暇が、あるんでしたら……っ、即刻上からどいてほしいですね』
 半分潰れたような途切れ途切れの声が、下から恨めし気に響く。
 定かではない平衡感覚にふらふらしながらも、どうにか起き上がったカーレンは辺りを見回した。身体の下から抜け出たルティスは、身体をぶるりと震わせて、横でまだ呻いているセルを鼻先で突く。
『ほら、しっかりして下さい。大丈夫ですか?』
「うぅ……吐くかと思った」
 咳き込んで呟いた青年を見下ろして、呆れたようにルティスは青い目を瞬かせた。
『あぁ、何ですか、その様は。……意外に情けないんですね』
「転移は相当な力を使う上に、集中力も喰う。私も得意ではないんだ……そう言ってやるな」
『まぁ、確かに、さっきのはかなりお粗末でした』
 前足を舐めて毛を整えながら、ルティスはちらりとカーレンを見る。悪かったな、とぼやきながら、カーレンはセルの傍に屈みこんだ。
「自分だけでなく、ドラゴンと始祖まで移動させたんだ。相当身体が辛いだろう」
「……カーレンが咄嗟に魔力を注いで支えてくれなかったら、危なかった。助かったよ」
 仰向けになったまま、セルが首を振る。起き上がるのに手を貸してやると、特大の溜息をついていた。
「偽体があんなに居たなんて……ブレインまで、偽体だとは思わなかった」
「ロヴェが外から連れて来ていたところに出くわした。私もあれほどの数を揃えるとは思わなかったが。……ところで、セル」
 声が数段低くなったのを感じ取って、セルはぎくりと肩を強張らせていた。
「おまえ、どうしてティアを連れてきた?」
 セルはしばらく固まっていたが、やがてゆっくりと身体から力を抜いていった。代わりに、責めるような色を浮かべてカーレンを睨み返した。
「……カーレンこそ、ラヴファロウと揃って嘘をついたんじゃないか。ティアちゃんをあそこまで疑心暗鬼にして、それで彼女があのまま引き下がる訳がないよ。ティアちゃんは自分の意思でここに来た。本当の事を知りたい、その一心で。君は……ティアちゃんの想いに対して、何をしたか分かっているのかい?」
「…………」
 問い返されて、カーレンは口をつぐむしかなかった。
「踏みにじったよ」
 たった一言。
 それだけでセルは、カーレンを断罪した。
「エリシアも、君も、ティアちゃんの心をずたずたにした。僕は、それが許せない」
 一呼吸を置いて、セルは吐き捨てるように呟いた。
「君は、君の弱さでティアちゃんを傷つけたから。……傷つける事に臆病になって、拒絶される事に怯えて、何もかもを隠した。……エリシアが最悪の形で知らせて、それを君は止めなかった。何を言っても無駄だって諦めて……それで、君は何を望んでいたんだっけ?」
 口を歪めたその仕草に、彼がその場でできた最大限の、そして精一杯の皮肉が込められているのを感じ取って、カーレンは僅かに表情を硬くした。
「そんな中途半端で、簡単で、弱い気持ちで、本当に君は寵姫を救えるのかい? ……"答えろよ"、カーレン・クェンシード。僕の妹をそんな気持ちで救おうとしているんだったら、僕は君を許さない」
 見つめてくるセルの目には、失望と、そうであって欲しくないという僅かの期待が入り混じっていた。
 その、ほんの少しの期待。
「私は……」
 それが大きすぎると感じた事は、なかっただろうか――自問して、カーレンは目を細める。
 なかったとは、決して言えない。
「こんな事で本気になるんだったら……君は、ティアちゃんを諦めた方がいいよ」
 先に目を逸らしたのは、セルだった。
「これじゃ、ティアちゃんが、辛すぎる」
 泣いているのではないかと思うほど、声は震えていた。
「君が、君の本音を認めずに、素直にならないせいで。どれだけ傷つく人がいると、思っているんだい?」
 震える声で言葉が紡がれるのは、例え血の繋がりがなくとも、心の底から妹を想っているからだ。
 言葉通りにカーレンに諦めて欲しいと本気で思ってはいないはずだ。そうでなければ、始めから言葉などは投げてこない。
 だが――今の自分は、間違いなくその期待に答え切れていない。
 目を伏せて、今、言える言葉があるかを探していた。
 そんなものは、始めからない。
 自分は誰も止められない。誰にも本当の事など言えない。そんな事を言いながら、結局、踏み出す事を躊躇っていただけで、今やっと動こうとしていた事に気付いた。
 遅すぎる。
 自分でも失望を覚えて、思わず深い溜息を漏らした。
「……そう、だな。あぁ……、そうだ」
 一緒に言葉も漏れた瞬間、どこまでも絡まっていた感情が、するりと解けたような錯覚を覚えた。

 カーレン、と呼ぶ、幼い声が聞こえる気がした。

 思い出したのは、少女と出会ってからの日々だった。
 心が磨耗し、長い時の旅に疲れ果てていた自分を、それでも救おうとした寵姫に感じたのは眩ゆさだった。焦がれるほどの光の強さに、どうしても惹かれたのだ。
 そして、不意に、自分がどうして旅をしてきたのか、その根源の最たるものに気付かされた。
 ――『これ』が欲しくて、見つからなくて、だから探し続けていたのだと。
 あまりにも弱く、じりじりと続く頼りない絆。それでも、大切に持っていたいと、旅をしていて初めて思ったものだった。
 それを失った後に味わった喪失感は、どこまでも懐かしさと、胸の痛みだけを与えてくる。
 そして、強い焦燥も。
 救ってやらなければと思う心が、いつしか、彼女を自分から離す事こそが、彼女の幸せなのでは、という思い込みに変わっていた事に、今更ながら思い至る。
 少女の心など、自分に分かるはずもなかったのに。
 どんな事があっても、この絆だけは失えない、と、それでも強く抗う声があった。
 譲れないのだ、これだけは。
 だから――取り戻さなければ。
 思わず笑みが漏れていた。何が可笑しいのか、とセルが目の前で顔をしかめている。
(たった一つの弱い絆……こんなものにすがりついて、足掻いてまでしても、あの子に会いたいと……七年前、そう思った時点で気付くべきだったな)
 更に苦笑して、首を横に振る。可笑しいのではないと、セルに示した。
『 ―― 人と一緒にいる事を怖がっちゃだめなのよ。怖がって手を伸ばさなかったら、欲しいものは何も、手に入らないわ ―― 』
 そんな、懐かしい言葉が、胸に蘇っていた。
 自嘲するような想いを抱いて立ち上がりながら、
「救えるのは、誰だと思う?」
 決まりきっている事を、聞いた。
 見上げたセルは、一瞬、呆けたような顔をしていた。しかしすぐにその表情に、じわりと怒りを滲ませていく。
「それを、君が聞くのかい?」
「……いけないか」
 カーレンはセルの目を静かに見返し、

 ふわりと、笑った。

 青年は、僅かに怯んだように目を瞠った。
 お互いに視線をぶつけ合った後に、カーレンはセルに背を向けた。
 そのまま進む。前へと、歩き出す。
「届くかどうかは分からない」
「!」
 背後で、小さく息を呑む気配がした。
「だが、諦めない。彼女が気付くまでな」
 そして。カーレンは口には出さずに、その先を続けた。
 絆の先を辿って、探し出す。探して、示してやらなければ。
 少なくとも、それが、自分で答えを探しに来たティアが、辿りつく答えでなければならない。
 思いながら、カーレンは目線を足元から上げていた。
 気配は、始めからあった。
 だが、改めて、その瞬間に予感にも似た何かを感じたのだ。

「……ようやく、ぐずぐずしていた状態から抜け出せたってか?」

 そして、その通り、彼は『そこ』に居た。
 柱に寄りかかって、少し辛そうにしながら振り向くのは、ラヴファロウだった。
「ああ」
 かつ、と足を止めて、それから小さく苦笑した。
「本当に、ようやく……何か、掴めた」
 それを聞いて、友は盛大な溜息をついていた。心底呆れた目を向けられても、肩をすくめて大人しく視線を受け止めるしかない。
「七年もかかってこれかよ。セル、おまえ、本当にこんなのにティアを任せるつもりか?」
 振り向くと、セルは渋い表情でこちらを眺めていた。何と言おうかと考えているのか、さんざん唸った挙句、
「……賭けるしか、ないかな」
 苦笑いだった。
 青年の様子を見て、お手上げだとばかりにラヴファロウは宙を仰ぐ。
「ったくどいつもこいつも……賭けの勝算はあるんだろうな?」
 まさか、と二人を眺めていたカーレンは、思わず零していた。
「ある訳がないだろう」
 しかし、呆れた上に見放されてしまっては困る。
 あんぐりと友の口が開き切ってしまわないうちに、カーレンは続けていた。
「勝たせてくれるか、負かされるか……選択権など、私たちに委ねられている訳がない」
 言うと、ラヴファロウはこれ以上はないというほど思い切り顔をしかめた。胡乱気な目でカーレンを上から下まで眺めてから、わざと大げさに肩をすくめて見せる。
「……正論だ。どんな女神も、通り過ぎたら待っちゃくれねぇからな」
 おおよそ貴族には似合わない、平民特有のどこかがさつな笑みが、彼の白い顔に浮かぶ。
 良く見さえすれば、額には薄く、苦痛を表すように汗の玉が浮いているはずだ。それでも無理をおして首を傾げる様子に、カーレンは薄く笑みを浮かべながら頷いていた。
 不安がないと言えば、嘘になるだろう。
 ただ。
 予感に顔を上げたあの時……嫌なものも、胸を過ぎった。

 それだけが、気にかかる。


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