Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-8- 記憶の色

「っ!」
 隣にいたブレインの身体に力が入り、一気に脱力したのをロヴェは感じた。
「……何人やられた?」
「五人……一度に襲いかからせたものが、全員やられました。……身体ごと潰されて」
「まぁ、前にやったのとほぼ同じ方法だな」
 ロヴェは軽く頷いた。
「相変わらず思いきりがいい……それで、いいのか、ルヴァンザム? カーレンをエリシアに任せたままで」
 背後に問いかけると、どうやってか屋根に上がってきていた炎塔の主は、その歩みを止めた。
「別に構わないさ。ティア・フレイスが我らの手に落ちるのなら、それも収穫と言うべき事だ」
 ルヴァンザムがロヴェの横に立ちながら、くすりと笑う。優しげな目でこちらを見下ろした。
「それよりも、おまえは今やるべき事をやらないとね。偽体の血の匂いで、もううずうずしているだろう?」
「…………」
 ロヴェは言葉を発する事なく、ルヴァンザムから目を逸らして、エリックと休みなく剣を打ち合わせているラヴファロウを見つめた。
 ややあって立ち上がると、ロヴェはすらりと剣を抜いた。
 一点の曇りもない、冷たく滑らかな鋼の表面が、冷え切った夜の空気に晒される。月明かりに輝いた刃は、自分の静かな顔を映していた。
 ――ほんの一瞬、ぞくりと背筋が震えるのを、ロヴェは確かに感じた。
 無言のまま、冷え切っていた目に殺意が宿る。
 口元に小さく笑みを浮かべ、ロヴェは呟いた。
「ああ。殺してくるさ、ルヴァンザム」
 軽く地を蹴り、離れた場所から、ロヴェは一気にラヴファロウ・スティルドへと迫った。
「どけ――エリック!」
 目をらんと輝かせて。


「! げっ!?」
 ラヴファロウは背後に突然出現した殺気に、ほとんど条件反射で動いていた。
 咄嗟に頭を鎮めると、すれすれのところを空気を切って剣が通過した。
 止まらぬ剣をエリックが慌てて受けたが、向こうへと弾き飛ばされるのがちらりと見えた。衝撃に逆らわずに地面に転がった彼は、ぎろりとロヴェを睨みつけると、よろよろと起き上がってすぐにその場を離れていった。
 だが――、それを見送る暇はない。
 考える間もなく、身体をひねって足で襲撃者の腕を蹴り上げた。それでやや上へと弾んだ紅い髪の男が、迫ってきた時の勢いを保ったまま、エリックが居た位置に降り立った。
「おいおい……、ロヴェ・ラリアン?」
 相手が誰かを確認して、ラヴファロウは顔を引きつらせた。
 呟いた声に出たのは、防ぎきれたという安堵が半分。そして、現れた新手に感じた戦慄が半分。
「冗談だろ? エリック・ヒュールスだけでも仕留めるのに手こずってんのに、この上に人外かよ……身体がもたねぇって」
「今おまえが言ったそれが、冗談っていうものじゃないのか?」
 面白がって、ロヴェは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「まだまだいけるって証拠だよな? でなくちゃ困るんだが」

「っ!」
 危険を感じたラヴファロウの身体は、恐ろしい速さで迫って来たロヴェの攻撃をかろうじて受け流していた。
 ジンと手足に伝わる衝撃と痺れに、ラヴファロウは歯を食いしばった。
「くそ……手がいかれやがった……!」
 こちらが毒づくのに合わせて、彼は笑う。
「へぇ、そうか……じゃ、これはどうだ?」
 ふわりとその場で、ロヴェが踊るように廻った。
 次に来る攻撃を予感して、ラヴファロウは剣を身体の脇に立てた。思った通り、回転で威力を増した切りが来た。
「っ、ぐぁ……っ!?」
 受け止めた瞬間、強烈な衝撃がラヴファロウを襲った。
 何とか持ちこたえたが、大股三歩は横に滑った。その一撃の重さで確信した事実に、ラヴファロウは背筋を凍らせる。
 ――ドラゴンと人間とで、そもそもの筋力が違いすぎる。
 直接受け続けていては足腰が砕ける。かといって受けられないなら受け流すしかない。それができなかったら、結局受けるしかない――堂々巡りが続く前に、ラヴファロウは思考を断ち切った。
(……どっちにしても、危険すぎるだろ!)
 続いてやってきた頭上からの降り下ろしを、目を皿にして見定めた。
「っ、ぁあああ!」
 刀身を擦り合わせてぎりぎり受け流した。耳元で剣が鋭い金属音の悲鳴を上げ、火花が幾つも散る。
 何とか残した勢いで、身を屈めているロヴェに剣を突き出すと、彼は地面からほとんど離れずに水平に飛んだ。足元から真紅の光が飛ぶのを見て、魔術だと知る。
「――へぇ、すごいな。これだけ俺の攻撃を生身で耐えた人間っていうと、たぶん数十人もいないと思うぜ」
 すぐに身体を起こして立つと、ロヴェは言った。
 肩で荒く息をして、ラヴファロウは剣を構えた。
「ほとんど意地と気合だ……なめんなよ……!」
 エリックに対してはまだ余裕があったが、ロヴェは力だけでなく、技量も彼の騎士を遥かに上回っていた。余裕どころか、全力を出してもぎりぎりかもしれない。
 数百年という年月が成せる業なのか、それとも元からの才覚かは分からなかったが、恐らくその両方だろうと思う。
 下手すると死ぬな、これは。
 口の中で呟き、汗ばむ手で、今にも滑りそうな剣の柄を握り締めた。

□■□■□

 ティアが何も言えずにいると、エリシアは、ゆったりとした足取りでこちらに近寄ってきた。
「懐かしいわね、その顔……七年前と全く変わってない」
 微笑んだままの彼女に、ティアはカーレンを見上げた。
「彼女なの?」
 言わんとするところには気付いていたのだろう。だが、彼は一瞬、戸惑うような色を浮かべただけだった。
「私が寵姫って事?」
 エリシアが代わりに、確かめるように聞き返した。
「ええ、そうよ。けど――ドラゴンの得体の知れない力に体中が侵されてるっていうのは、やっぱり気持ちが悪いわね」
 それを聞いて、やはり炎塔の人間なのだ、とティアは思った。口調で分かる。エリシアもまた、エリックと同じようにドラゴンを嫌悪し、憎んでいるのだ。
「どうして、あなたは炎塔にいるの……?」
「あら、あなた、全部忘れていたのね」
 エリシアはくすくすと笑いながら、冷たく目を細めた。
「その理由は、カーレンが一番よく知ってるわよ……ねぇ、ティア。やっぱりあなた、何にも知らないんだわ。知ってたら、絶対に彼の傍に立っていられなくなるもの」
 ティアは振り返ってカーレンを見たが、彼はエリシアを微動だにせずに見つめていた。
「……どういう事?」
 その時、兄が唐突に口を開いた。
「ティアちゃん、だめだ」
「え?」
 セルはエリシアを厳しい目で見据えていた。エリシアは、涼しい顔でセルの視線を受け流している。
「……彼女の言う事は、本当の事じゃない」
「それって……まさか、兄さんは本当の事を知っていたっていうの? セイラックで何があったのかも、全部知っていたの……?」
 ティアは、自分の口調が責めるようなものに変わっていくのを押さえられなかった。
 セルは目を逸らして口をつぐんだ。
 罪悪感の滲んだ表情が、全てを肯定していた。
「じゃあ、どうして……」
 なぜ、何も教えてくれなかったのか?
「――どうしてですって?」
 エリシアは可笑しそうに笑ってから、急に表情を冷徹なものに変えた。
「ティア。彼らはあなたに教えなかったんじゃないわ」
 エリシアが言い放った。
「教えられなかったのよ。あなたが本当の事を知ったらどうするのか、それが分かっていた。怖かったから、あなたが知る事を少しでも遅らせようとしていたの。……ティア。私が、あなたに本当の事を教えてあげる。七年前のあの日、セイラックで何が起こったのか……いいえ、彼が、何をしたのか」
 それから、エリシアは小さく笑みの形を作って、唇を動かした。
 知りたい? と。
 ティアは、自分が吐く息が震えているのを感じていた。
 彼らが恐れていて、エリシアが望むティアの選択肢が何なのか……薄っすらと感じてはいたが、ティアは頷いた。
 いい子ね、とエリシアは呟いた。
「ティア、あなた、"あの人"の事、覚えてる?」
 ぴく、とティアは肩を揺らす。何かが心の端に引っかかった。
「そう、覚えているはずよ。雪の日に偶然見つけて、重傷を負っていた彼を慌てて家に連れ帰ってきた事……彼はいろいろなところで深く傷ついていた。心も、身体も……長い旅に疲れ果てて」
 どこか空虚な笑みが、少女の口に浮かんだ。
「彼は、長い間あなたの傍にいた。けれど、二年の月日が経った時、彼を追う者たちが彼を見つけ、そして私たちは捕まった。必死に逃げ出した私たちが次に見たのは何だったと思う? 変わり果てたセイラック国の姿だったのよ……!」
 最後の言葉には、深い憎悪がこもっていた。ティアを見つめるエリシアの目が、真紅の輝きを放ち、その中を覗き込んだティアは――目を、見開いた。
「――ぅ」
 激しい頭痛と共に、脳裏を様々な光景が駆け巡った気がした。
 赤――赤。真っ赤な色が、目の前に広がる。
 その色が空を染め、地面を濡らした。
 そんな、忌まわしいあの日の記憶に残る色が。

 灼熱の地獄に変わった冬の町で、振り向いた"あの人"の瞳の色が、鮮やかに、甦った。

 思わずこめかみを抑えた。
「ティアちゃん……!?」
 頭に走る痛みに耐えられずに、セルに寄りかかったティアを、カーレンが見下ろしていた。何の感情もその目に浮かべていない。そう、"あの時"と同じ、何かが壊れた心でこちらを見ている。
「何をしたんだい、エリシア」
 幼いティアが見た時、彼の綺麗だった金の髪は奇妙な色に染まっていた。赤黒くて、べたべたしているものがたくさんついていた。どうしてそうなったのか、彼が手に持っている剣と、その足元に倒れている人を見て、何となく分かった。
 ああ、この人が。
「ちょっと思い出すのを手伝ってあげただけよ。……さぁ、思い出せたわよね、ティア。彼が……カーレン・クェンシードが、何をしたのか」
 この、人は。
「何、を……?」
 震える唇で繰り返した。
 何を、したか?
 ――そんなの、分かりきっていた。
 認めたくない、けれど、認めるしかなかった。これは、まぎれもなく自分の記憶なのだ。
 そして、目の前にいる彼もまた、炎の中に居た時と同じ顔をしていた。見間違えるはずがない。
 ぐらりと視界が更に傾いだ。認めるまいとしていた痛みがぶり返し、心が幾重にも引き裂かれ、細切れにされるようだった。
 衝撃と憤り、悲しみ、そして怒り――あまりにもたくさんの感情が、ティアの胸の中を荒らしまわっている。
「――――、のに」
 この人は――自分を。みんなを。
 ティアは掠れた声で呟いた。セルの身体からふらりと離れて、エリシアの方へと一歩、よろめいた。
 セルが慌てて支えようとして伸ばした手を、ティアは叩き払った。
「嫌」
 ――裏切られたんだ。
 自分は、何もかもに、裏切られていたんだ。
「ティア、ちゃん…………?」
 顔を上げる。
 そのまま自らを焦がしそうなほどの、激しい怒り。
 言葉を失うセルを――そして、かつての自分から何もかもを奪っていったカーレンを、ティアは睨みつけて叫んだ。
「信じて、いたのに……みんなして、私を裏切ったんだ!」
 涙が溢れて、カーレンの姿がぼやける。それでいいと思った。
 こんな、最低な奴の姿なんか、見たくない。

「あなたが殺したんだわ! あなたが、みんなを、セイラックを滅ぼしたのよ!」

「――ああ」
 静かに、カーレンが肯定する声が聞こえた。
「……最低よ。あなたなんか、最低よ! 知っていたのに! あなたは、何も知らない私をリスコから連れ出した……っ」
 被せられた外套を、音がするほどティアは強く握り締めた。涙のせいか、激情に任せて発現させたドラゴンアイのせいか、目頭が白熱していた。
「ティアちゃん、待っ――!」
「来ないでよ!」
 金切り声を上げると、ティアは手を前へ振った。袖の中から出てきた短剣を掴み、迷わず鞘から引き抜いて、怒りに震えながらセルの喉元に突きつけた。
「っ」
 兄は息を詰まらせて止まった。
「――こっちに、来ないで……っ! 裏切り者!」
 切っ先がティアの震えるのに合わせて、カタカタと音を立てて揺れていた。刃越しに二人を見据えていると、悲しいほど彼らが遠く見えた。
「これで分かったでしょう、カーレン。ティアは私たちを選んだ」
 エリシアの声が冷たく響く。
「……だが、私に止める権利はないな」
 どんなに罵倒しても動揺した気配すら見せない。カーレンの平静そのものの姿に、ティアは肩を震わせた。
「ええ、そう。ないわ」
 勝ち誇った表情になり、エリシアが頷く。彼女はティアの傍まで歩み寄ってくると、そっと、ティアの肩にひんやりとした手を置いた。
「もう、大丈夫。誰もあなたを裏切らないわ、ティア」
「……っ」
「これ以上、裏切ることなんてできないもの。そうでしょう」
「……う。ん」
 肩を抱かれても、震えが止まらない。唇を戦慄かせ、かろうじて声を絞り出して返答を返すのがやっとだった。
「カーレン……本当に君はセイラックを?」
 愕然としながらも、目だけでティアとカーレンを見比べたセルは、カーレンに問いかけた。
 ややあって、カーレンはゆっくりと頷いた。
「確かに、私が滅ぼした」
 ティアの手が一際激しく震えて、セルの白い喉元に小さな血の玉をつくった。
「どうして、そんな事を」
 セルは苦しげな顔のまま聞いたが、カーレンはぞっとするほど冷えた目で彼を見た。
「おまえが知る必要はない」
 答えて、カーレンは鱗に覆われた右手を前へ差し出した。
 カーレンはティアを見据え、鋭く言い放った。
「取り上げろ!」
『――はい、マスター』
 ティアの足元で、しばらく聞いていなかった声がした。
 エリシアが驚愕に目を見開いた。
「! まさか使い魔を!」
 驚きから覚めて反応する暇もなく、するりとティアの影から黒狼がしなやかに伸び上がる。
「っあ!?」
 ルティスは尻尾で短剣を握っていたティアの手を絡めとったかと思うと、一瞬で咥えて短剣をもぎ取った。
 手を庇いながら後ずさると、ティアは地に降り立ったルティスを信じられない思いで見つめた。
「ルティス……あなたまで」
 ティアが彼を呼ぶと、カーレンの従者は蒼い目を伏せ、尾をふらりと揺らした。
『……申し訳ありません。マスターから、ティアさんの傍を離れるなと命じられていましたので。……どうか、解って下さい。私も貴女を傷つけたくありません』
 彼は首をくいっと振った。その口元から銀の輝きを反射しながら短剣が飛び、カーレンの手に収まる。
 一瞬、紅い目に何かをためらう色が浮かんだが、それは次の瞬間には消えていた。
「すまない」
 短く謝ると、カーレンは素早くセルを後ろから羽交い絞めにし、首筋に刃をひたりと当てた。
 はっとティアが気付くと、彼らの周りを偽体たちが取り囲んでいた。そのうち三人ほどがティアとエリシアを守るように立ち、残りは飛び出そうと構えた。
 血の気と共に、一気に怒りが引いていった。代わりに大きな焦りが押し寄せる。
「! だめ、やめて!」
「……やめなさい」
 何をしようとしているのかすぐに察したティアは、咄嗟に叫んだ。偽体が一斉に飛びかかろうとしていたのを、ティアの声に反応したエリシアが止めた。
「兄さん……!」
『マスター……正気ですか? 普通やりませんよ、自分の連れを人質に取るなんて』
 ルティスが咎めるような目で主を見た。
「これは……また卑怯な手を使うじゃないの」
 エリシアが軽蔑した口調で、カーレンを見て呟く。
「この場をしのぐのに一番良い方法が、どうにもこれしか思い当たらなかったのでな」
 カーレンは額に冷や汗をかきながら、薄く引きつれた冷たい笑みを浮かべた。
「でも、できるのかしら。あなたに彼を傷つける事が」
「できるさ」
 カーレンは何の気負いもなく答えた。
「九年前、彼の背中に傷をつけたのは私だからな」
 ティアは一瞬、自分の耳を疑ってカーレンを凝視した。
「……嘘」
 セルの背中に走る傷痕を、ティアは何度かはっきりと見た事がある。
 深く、深く、背中全体を斜めに切り裂かれた傷痕だ。気が遠くなるぐらいの激しい痛みを味わったに違いない傷を、僅か八歳だったセルに与えたのがカーレンだというのか。
「――ごめん、ティアちゃん!」
 堪えかねたような声に我に帰ると、カーレンがセルの首に刃を突きつけたまま、偽体たちの間から輪の外に出て行くところだった。
 セルも彼に逆らう事なく、同じように後ずさり――ある地点まで来ると、ぱっとセルから短剣を離してカーレンが短く叫んだ。
「走れ!」
「待ちなさい! ――行って!」
 ちらりとセルが後ろ髪を引かれているような表情で振り返ったが、エリシアが追わせた偽体たちを見ると、咄嗟にカーレンの腕を掴んだ。
 ふっ、と二人が青い光を散らして虚空へとかき消える。エリシアが一瞬、うろたえて足を踏み出す様子を、ティアは立ち尽くしたまま見ていた。
 そして、不意に悟った。
 行ってしまったのだ、と。
 彼らと自分は、ある意味で遠くなったのだ。
「迂闊だったわ……急いで合流しなければ。とにかく行きましょう」
 偽体を呼び戻したエリシアは呟いて、早足で歩き出した。動けないティアの袖を掴んで引っ張ろうとしたが、ティアがついていこうとしなかったため、エリシアは振り返った。
「ティア……どうしたの?」
「……何でもない」
 やんわりと頭を振ると、ティアは動きたがらない身体を動かそうと、無理にでも足を前へと運んだ。嫌な虚脱感が全身を支配していた。
 ふらりと夢を見ているような心地で歩き出す姿に鬼気迫るものを感じたのか、エリシアは袖から手を離した。
「カーレンたちが行くところ、たぶん私には分かる……きっと、ラヴファロウのところだわ」
 構わずに呟いて、ティアは先ほどカーレンたちと突き抜けてきた茂みを、ぼんやりと眺めた。
 新たに戻った記憶の中、生々しい光景が頭にこびりついて放れない。
 かつて親しかった人々はなす術もなく、目の前にカーレンに殺されていった。炎の中に立つ彼の姿を思い浮かべると、涙が滲んできて、同時に記憶もぼけていくような錯覚を覚えた。
「……どうして」
 突然目の前で親しい者の命が奪われる痛みを、彼はドラゴンの少女の死で知っていただろうに。
 苦しみを押し込めて生きる辛さが、彼に分からないはずがないのに……。
 分からない、何も。

 だめだ――考えるな。考えれば、余計に苦しくなる。

 言い聞かせて涙を拭うと、ティアはゆっくりと庭の方へと向かった。

□■□■□

 鋭い金属音が響いた。
 剣を弾き飛ばされ、ラヴファロウは後ずさった。
「――くっ!」
 手が痛みと痺れを絶える事なく訴えてくる。ラヴファロウは右手を庇いながら、ロヴェの追撃を間一髪で避けて舌打ちした。
 自分ではあと少しは耐えられると思っていたが、どうやら腕の方が先に根を上げてしまったらしい。
(頼りになりそうなのはカーレンだが……間に合いそうにねぇな、こりゃ)
 ちらりとそんな事が頭を過ぎり、はは、と乾いた笑いが漏れた。
 いい加減集中力も途切れてきた。一撃一撃を防ぐ事だけに、精力を使い果たしたからだろう。
「どうした? ああ、もう終わりか」
 ロヴェは小首を傾げてくすりと笑った。
「うん、俺が相手にしたら、人間にしては良く耐えた方だった。いい加減楽になれよ、ラヴファロウ・スティルド」
 刃が空気を切り裂く危険な音を立ててラヴファロウに迫る。
「誰がっ――!」
 かろうじて避けると、今度は左肩をかすめた。皮膚が一瞬引きつれて裂け、腕を生暖かい感触が伝っていく。だが、これがこの戦いで初めての傷ではない。
「くそ、前が見えねぇ……っ!」
 頬を伝う血が視界を半分塞いでいた。必死に受け続ける内に、額を切っ先で引っかかれたのだ。
「くく――ははは。惜しいな、もうちょっと楽しみたかった」
 言葉通り、心底楽しそうにロヴェは笑うと、霞むほどの速さで足をラヴファロウの鳩尾に叩き込んだ。
「がっ――ふ!?」
 こみあげる苦痛にがくりと身体が二つに折れ曲がり、後方へと吹き飛ばされる。
(息、が……)
 喘ぎながら仰向けになった時、空に跳び上がったロヴェの姿がちらりと視界の端に見えた。
「うぁああ!?」
 残りかすにも満たないような力を掻き集めて、踏み砕かれる前に大きく転がって避けた。
 軽い着地音。背後で細かな砂利を踏みしめる音がする。
 足音は軽やかに、悪夢のように迫ってくる。
 すぐに追いつかれるのが分かっていても、ラヴファロウは身をよじって少しでもロヴェから離れようとした。
「ほら、無様に逃げてみろよ」
「ぐは、ぁ……!」
 蹴って転がされた。
 逆らわずに転がり、再び仰向けになったところで、ロヴェのブーツの底が胸に叩き落とされる。目を見開いて息を詰めると、すぐ目と鼻の先に鋭い切っ先があった。
 白く輝く中に一点、紅い曇りが見える。自分の血で汚れた刀身を見つめ、ラヴファロウは荒く息を弾ませ、苦痛に歯を食いしばった。
 朦朧とした意識で見上げると、ロヴェが薄ら笑いを浮かべていた。
「悪いな。おまえの命、俺が貰った」
「っ……この、野郎……勝ったとか、思ってんじゃねぇぞ……!」
 ロヴェの足に力なく手を這わせると、ラヴファロウは無駄と知りつつも、ぐっと足を押し戻そうとした。
 へぇ、とロヴェは面白そうに片眉を上げた。
「いいぜ、気に入った。最後まで足掻きぬこうとする奴は嫌いじゃない」
 すっと剣が引かれる。
 にっ……とロヴェの口の端が更に引き上げ、伸ばされた。
「ご褒美だ。綺麗に殺してやるよ」
「ぐ……ぁあぁあああああああああ!」
 斬られる、と直感して、ラヴファロウは目を見開いたまま、最期の絶叫を上げた。
 ここで死にたくない。だが、逃れる事ができない。
(悪ぃ、カーレン――先に逝くかもな、俺)
 心の中で友に謝りながら、ラヴファロウは死を覚悟した。
 どんな情の欠片もなく、白刃がラヴファロウの心臓目掛けて振り下ろされる。
 そして――ぴたりと、皮一枚を裂いた所で、剣の切っ先は静止した。

「…………邪魔を」
 小さく、舌打ちをする音が聞こえた。

「……っ?」
 声を出す気力もなく、ラヴファロウは目だけを薄っすらと開けて、何が起こったのかとロヴェを見た。
 頭上で、ロヴェが心底嫌そうに、同じく頭上に立つ誰かを睨みつけていた。自分に浅く突きたてられた剣は、何かの鋭い爪によって、それ以上進むのを阻まれているらしい。
 カーレンが間に合ったのだろうか。いや――違う。ラヴファロウは自分を助けた誰かの、月明かりに輝く銀髪を見て思った。
(これは――?)
 彼がすっとラヴファロウから視線をそらした時、少し癖のある、短い毛が風に僅かに揺れるのが見えた。紫の瞳は、ロヴェの複雑な色をした目が放つ剣呑な眼光をしっかりと受け止めている。
「どこのドラゴンだ」
 止めを刺すところを邪魔され、不機嫌になったロヴェの険悪な声が響く。ラヴファロウは驚きを更に重ね、唖然とした。
 ドラゴン?
「エルニス・クェンシード」
 聞きなれない男の声が答えた。
 硬質な音を立てて、翡翠の輝きが、ロヴェの剣を二つに折った。激しい戦いで服がややはだけていたラヴファロウの胸の上に、突き立っていた剣の片方が回転しながら落ちた。
 断面が赤く熱を帯びているのを見て、ロヴェは顔に浮かべる笑みを深いものに変えた。
「クェンシード……加えて、この剣の叩き折り方も、何か見覚えがあるな。……碧き流星の息子って訳か」
「確かにそれは、俺の父であるラジク・クェンシードの通り名だ。だが――」
 エルニスと名乗ったヒスランの男は即座に答えて、身を屈めてロヴェに飛びかかった。
「クェンシードの今の碧き流星は、彼じゃない」
 名をそのまま体現するかのように、エルニスが掲げた指先に従って、翡翠の光が、じりじりと焼くような熱を帯びて天から降ってきた。
「げ――!?」
 それこそ、星の数ほど。
「……流石にまずいか」
 呟いたロヴェが足をどけて跳び退る。
 その場所に炎が襲いかかるまでの僅かな間に、誰かの手が腕を掴んで、そのままラヴファロウは後ろへ引きずられて、危うく炭と化すところを救われた。
 爆音が響き、三歩と離れていない場所で、自然にはありえない明るい緑色の火柱が青白い光を放ちながら立ち昇った。
「……何だありゃ」
「良かった」
「あ?」
 呆気にとられて二人のドラゴンが次々と火柱を生み出しながら戦う様子を見送っていると、どこか勝ち気な印象の女性の声が後ろから聞こえた。
 振り向くと、ヒスラン人の女がそこにいた。
「マリフラオのご主人さんは、どうやら無事だったみたいね。……ちょっとずたぼろかしら?」
 まさか、彼女もそうなのか。
「クェンシード……か?」
 荒く弾む息でどうにか聞くと、女はワイン色の瞳を悪戯っぽく輝かせて微笑んだ。
「ええ。ベル――ベリブンハント・クェンシード。カーレンの仲間よ。といっても、」
 言って、ベルは肩をすくめてみせた。
「まだ姿の見えない我らが長を、しょっぴきに来たんだけどもね」
「……なるほどな」
 口から笑いに似た溜息が漏れる。
「そりゃ、大いにしょっぴいてくれて結構だ」
 どっちにしても助かった、と、安堵の呟きを漏らした。
 


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