Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-7- 裏切られた少女

「……どうして」
 ティアはそれだけを呟く事しかできなかった。
 なぜ、自分の心が分かるのだろう。
「言っただろう。ドラゴンアイは絶大なる力だと。私のドラゴンアイは、心の力に長けているのだよ」
 紫の色に、血のような鮮やかな赤が一瞬だけ混じった。
「やろうと思えば、精神に語りかけたり、その身体を自由に操る事もできる」
 ティアは、彼もまた寵姫であった事を意外に思い、驚いた。
「! ……レダンも、それで操られているのね」
「私ではないけれどね」
 さらりと答えて、ルヴァンザムは悪巧みをする子供のように、小さな含み笑いを漏らした。
「知った後、君がどうするかは自由だ。詳しい事はエリシアから聞くといい。少し遅れているけれど、彼女はもうすぐ来るはずだろうからね」
 言って、ルヴァンザムは最後に大きく廻ると、ティアを放した。
「わ」
 後ろに放り出された格好になったティアは、素早く誰かに受け止められた。
 肩ごしに振り向くと、ラヴファロウがティアを見下ろしていた。
「大丈夫か、ティア」
「ラヴファロウ……!」
 いつの間に、と思う間もなく、ラヴファロウは舌打ちした。
「くそ、悪い。カーレンがおまえらに気づかないようにするので精一杯で、ルヴァンザムの奴が近付いたのに気付けなかった」
 会場の壁際までティアを引っ張りながら、ラヴファロウが言った。
 ティアはラヴファロウの手から放されると、横に首を振った。
「ううん、いい……それより、兄さんは?」
「おまえがルヴァンザムに手を取られるのを見て、気が気じゃなかったみたいだな。血相を変えてたが、何とか落ち着かせて外に出した」
 良かった、とティアは溜息をついた。
「ったく……舞踏会はそこら中に暗殺者が潜んでるんだ。迂闊に歩いていたら危ない事ぐらい、おまえにも分かると思ってたんだが」
「あ、えと……それは、その」
 凄みのある鋭い目で睨みつけられて、ティアは軽く怯んだ。
 言葉に詰まる。
 しばらくラヴファロウはティアから視線を外さなかったが、ややあって、ふっと目元を緩ませた。
 ほっとしたティアに向かって、妙に情けなさが滲んだ溜息をつくと、彼は頭を力なくかき上げた。
「……仕方ない。とりあえず、セルのところに行くぞ。あいつもあいつで、何か危なっかしいところがあるからな」
 言って、何かに気付いたように目線を上げ――頭痛を覚えたのか、ラヴファロウは頭を軽く振った。
「カーレンもカーレンだ……おまえら、三人揃って何か共通の厄介事を抱えこんでんじゃないだろうな?」
 一瞬、セイラックの事を思い出してぎくりとする。
「……いいえ。何もないわよ。それより、兄さんのところに早く行きましょう」
 ティアは、それを表情に出さないようにしながら、目を逸らして呟いた。
 ラヴファロウはティアを無表情で見つめていたが、やがてこちらに背を向けて歩き出した。ティアも黙ってその後に続いた。
 会場を出ると、ラヴファロウは無言のまま、迷う事なく通路を進んでいった。早足でラヴファロウに追いつくと、ティアは聞いた。
「どこに行くの?」
 彼はこちらをちらりと見やり、また目を前に戻した。
「中庭だ。庭園といった方が正しいかもしれないが」
 ぴりりとした気配を感じて、ティアは顔を強張らせた。
 俯いて歩いていると、ラヴファロウが怒気をはらんだ声で小さく言った。
「……俺やあいつは、確かにおまえを信じなかったかもしれない。けれどな、おまえが俺たちに嘘をつくって事は、それと同じなんじゃないのか?」
 その言葉が、さくりと何かに刺さった。
 軽く刺さっただけと思ったそれは、ティアの予想をはるかに超えて傷口を押し広げ、やがて耐え難い痛みを身体の芯に訴えた。
「…………っ!」
 爆発するように衝動が喉にこみあげてきて、ティアはぱっと顔を上げた。
「だって……!」
 ティアは声を荒げたが、怒りは続きはしなかった。
 続くはずがない。彼に怒るのは間違っていると、どこかで自分が自分を押しとどめていたのをティアは感じた。
「……だって、仕方ないじゃない。私だって、自分が一体誰だったのか、知りたいのよ。故郷だってあったはずじゃない。暮らしていた場所も、優しくしてくれた人たちだって……。どうしてかは分からないわよ。けれど、私はその全部を失ったの。失って、たぶん、二度と取り戻せなくなった」
 双子の山に降り立ったあの時、ティアの目に映ったもの――遠くに白く光って見えたものは、瓦礫と化した一つの大きな町だった。何一つ生きた気配のしない、死に果てた町。
 ウィルテナトで見た炎の悪夢が、嘘だったと思いたい。けれど、思えなかった。あんなものを見た後では尚更に。
 しかもそれに加えて、カーレンが考えている事が掴みづらくなったのだ。前は何となくでも彼の心が言葉の端から読み取れたのに、それが気がつけばなくなっていた。いきなり、自分の前から誰かが消えていたような錯覚さえ覚えるほど突然に。彼に心を閉ざされたという気がしないほうが、おかしい。
「カーレンはどうなの? レダンは? 二人は私に何も教えてくれなかった」
 不意に、その場に蹲りたくなった。しゃがみこんで――泣きたくなる。子供かと呆れられても構わないとさえ思うほど。しかし、硬く拳を握り締めて、ぐっと衝動を押さえこんだ。
「私は何を信じればよかったのよ……?」
 囁くように呟いて、ティアは自分の本音を掴みかけた気がした。
 すぐにどこかに消えてしまったそれを必死で探したが、見つからない。
 ――そうして考えている内に、もう何が何だか分からなくなった。
「やだ……もう」
 本当に短い時間だったはずなのに、ひどく疲れた気がする。どうせなら、考えるのを辞めた方が楽だとさえ思えるぐらい。
 心底から溜息をつくと、ティアはラヴファロウに向かって、小さく首を横に振って見せた。
 結局、自分だけが何も分からないままかもしれない。
 けれど、もういい――どうにでもなればいい。エリシアとカーレンの事も、兄の昔の友人の事だって、きっと何とかなるだろう。あるいは、なるようにしかならない、か。
 自嘲するように口の中で呟いた。
「ごめんなさい。……結局、私のわがままだったのよね?」
 ラヴファロウは一気にティアの感情の嵐が鎮まった事に、逆に驚いたのか、目を丸くした。
 だが、すぐに半眼になってティアを睨んだ。
「……おい」
 ティアは聞こえなかったふりをして、無理矢理顔を引きつらせて微笑んだ。
「私たちの事、別にカーレンに言っても良いわよ。どうせ、エリシアに会えば全部分かる事なんだし、今更信じる信じないで揉めてもしょうがないから」
「ティア」
「あ、そうだ。もうそろそろ、兄さんの近くに来た頃よね? 後は一人で行けるから、ラヴファロウはもうカーレンのところに戻った方がいいわよ。何をしていたのかって聞かれてごまかすの大変でしょ?」
「ティア、おまえ」
「いいから」
 にっこりと、今度は完璧に笑えた。
「いいから行って?」
「………………」
 ラヴファロウが口をつぐんだのを確認して、ティアは安堵したように、力の抜けた笑い声を漏らした。
 身体が重いのに、意識だけが妙に軽い。自分が発している声が、上辺だけつるつる滑っている感じがして、早くこの気持ち悪さから逃れたいと思った。
「本当に、いいから。構わないで」
 こちらを見ていた顔が、一瞬しかめられた。
 こいつ……自棄になりやがった。
 ぼそりと、途方に暮れたようにそんな事を呟いたのが聞こえたように思う。
 大きなお世話だ、と言いたくなった。
 それでもラヴファロウは何かを言おうと口を開きかけたが、すぐに閉じた。
「何を言っても無駄、って顔だな……」
 軽く頭を振りながら、言う。
 次にティアに彼の目が見えた時には、何も浮かんでいない、静かな眼差しだけがあった。
「これだけは言っとく。……後悔だけは、するんじゃねぇぞ」
 ティアは首を傾げかけた。
 どういう意味か分からなかったが、とりあえず、頷いていた。
「? ……うん」


「――アンジェリーナ! 良かった、無事で」
 セルは、中庭の噴水の前に腰かけていた。ティアが近寄ると、驚いたような、ほっとしたような顔でこちらにやってきたので、ティアは微笑みかけた。
「うん……シウォンこそ、何ともなかった?」
 セルはふっと表情を消した。これから起こる事が、憂鬱で堪らないとでも言うように。
「いや。……あったよ。ラヴファロウと別れた後にね」
「え?」
 ティアがセルを凝視すると、セルは一歩、ティアの正面から脇に身を引いた。それでようやく、ティアは噴水の近くにもう一人、誰かが居た事に気付いた。
 その顔に見覚えがあるような気がして、ティアは内心で頭をひねっていたが、彼が立ち上がると、あ、と声を上げていた。
「エリック・ヒュールス……ハルオマンドの騎士、だったかしら?」
 そして、炎塔の人間。
 言うにつれて、顔が強張っていくのが嫌でも分かった。
 二度も炎塔の人間に、しかも、強大だと聞いている人物に立て続けに出くわすと、もう偶然なんて言葉で笑えなくなってくる。
「ええ。こうして会うのは初めてでしたね、ティア・フレイス様。最初の出会いがドラゴン抜きというのも、実に良かった」
 彼は、セルに視線を移した。
「貴方にも一度、お会いしておく必要があった。森以来の再会ですね……セル・ティメルク。いいえ、シウォン・ラーニシェス殿」
 え、とティアは思わず、セルの方を見た。
「……ラーニシェスって、まさか」
「知らないのも当然です。彼は、ずっと身分も名も捨てて、ただのセルという孤児として生きておられたのですから。しかし、ティア様。貴女は彼の名を知っておくべきだ」
 どこか憎々しげな口調で、セルを睨みながらエリックは語った。

「貴方の兄を名乗ってきたセル・ティメルクという男は――本名を、ジャスティ・シウォン・ラーニシェス……我らが炎塔の主、ルヴァンザム様のご子息であらせられるのですよ」

「――そして、本来、九年前に死んだ人間だったのさ。レダンに殺された形でね」
 詠うようにセルが続きを引き継いだ。
「まぁ、彼もそれを信じていたんだよ。森で会うまでは」
「……シウォン。貴方に会った時、私には分かりましたよ。九年前のあの日、……貴方が、私の従姉妹であり、次期ラーニシェス家当主の婚約者でもあったアンジェリーナ・サシャ・ディアンに、何をしたのか」
 エリックは顔を歪めた。
「レダンを、あのドラゴンを逃がしたのは、貴方だったんですね。サシャを殺して、そして、逃げて……ティア様を彼女の代わりにした……!」
 咄嗟に、違う、と言いかけた。
 セルは、自分をちゃんとティア・フレイスとして見ようとしていた。罪悪感に苦しめられていたんだと、そう叫んで、兄を守りたかった。
 けれどその心に、するりと冷たい声が入りこんだ。
 ――本当に? 作り話だったら、どうするつもりだ、と。
「……っ!?」
 否定ができない。今までなら、即座に否定できた声が、拒めなかった。
 一瞬、誰も信じられなくなっていた事に気付いた。ティアは声を発するのも忘れ、そこに立つ事しかできなかった。
「うん。――そうだね」
 セルは頷き――そして、その場から跳び退っていた。
 瞬間、目と鼻の先で振り下ろされた白刃に驚いて、ティアは息を詰めた。
 鋭い眼光はセルを捉えたまま、エリックは抜き身の剣を片手に、セルとティアの間に立ち塞がった。月の明かりに、冷たく剣呑な光を放つ刃の切っ先を、ティアはただ見つめる。
「それだけの事をして、平気でいられる貴方が私は信じられない……っ!」
 激しい怒気が、背中越しにびりびりとティアに伝わってきた。
 エリックの広い肩から覗いて見えたセルの顔は、一瞬誰かと見間違えそうなほど冷たく、目の前の騎士と、その後ろにいるティアを見据えていた。
「それがどうしたの? 僕とレダンがサシャを殺したから、君は炎塔に入ったって言うのかい? それこそ馬鹿ってもんだよ、エリック。本当の馬鹿だ」
「駄目――!」
 ティアが制止する間もなく、エリックが再びセルに切りかかった。
 それも軽くかわして、追撃を避けながら、セルはエリックを見据える。
「そうやって剣を振り回していられるのがその証拠だ――君には真実が見えていないんだ、エリック。君は僕の父さんがやった事を見て、何も感じなかったのか?」
「真実が見えていないのは……どっちです!」
 最後の大きく払われた一撃を後ろに下がって避けると、セルはティアが瞬きをする間に、すぐ側までやって来ていた。
 驚くティアとエリックに構わず、セルはティアの腰を抱いた。
 瞬間、景色が霞んだ。
「――え!?」
 気がつくと、ティアはセルと共に、噴水の頂上に立っていた。何かの魔術の名残なのか、青い光の欠片が辺りに散っている。
「空間転移……ドラゴンアイの力、ですか」
「その副産物ってところかな」
 本命ではないと匂わせて、セルは再びティアと共に、今度は宮殿の屋根の上に転移していた。はっと我に帰って見ると、噴水の上にエリックが降り立ち、こちらに振り返るところだった。
 彼が豆ほどの大きさにしか見えない。それほど遠くに一瞬で移動した事で、ようやくティアはセルが強大な力と魔力を有している事を知った。
「僕の父親がルヴァンザムだからね。ドラゴンの寵姫となってから増大した魔力は、僕の中にも血となって流れてる」
 小さく地面を蹴る音が連続して聞こえる。
「でも、炎塔の主がどうしてドラゴンと……?」
 ティアはエリックが来ないうちにと、セルに聞こうとした。だが、
「申し訳ありませんが、お二人共」
 やけに近くから割り込む声があった。
「悠長に話している暇は、ないと思うのですが」
「!? しまった」
 セルがエリックに注意を戻すと、彼はティアたちよりも高いところ――空中から、鋭い一撃を繰り出してきていた。信じたくはないが、どうも噴水の位置から数回ほど跳んだだけでここに到達したらしい。
 その速さを見て、ティアはこれは避けられない、と直感で感じた。どれだけ瞬時に転移ができても、セルがエリックの動きを見誤れば意味はない。
 あくまでセルのみを狙った迷いのない突きに、息を呑む。

「奇遇だな。俺もたった今そう思ったところだ」

 キンッ、と鋼のぶつかり合う、澄んだ音が辺りに響き渡った。

「――悪いな。結局カーレンのところには戻らなかった」
「ラヴファロウ!?」
 オリフィアの騎士は、振り向きがちにこちらを見てにやりと笑った。
 相当に重かったはずの突きをあっさり止められ、唖然としていたエリックは、目の前の相手が誰かを知って強張った笑みを浮かべた。
「標的自らお出ましとは、大胆だな、スティルド将軍」
「こちらこそ、ハルオマンドの白騎士が炎塔の一員だとは思わなかったぜ」
 素早く立ち上がると、ラヴファロウは掲げていた剣を握り直し、一撃をエリックに振り下ろす。
「!」
 咄嗟にエリックは防いだが、後からラヴファロウが繰り出す変則的な攻撃に、一旦退いて中庭へと降り立った。
「すごい……」
「こら、ぼさっとすんな。危ねぇから下がってろ、おまえら」
 ラヴファロウが呆れた顔で振り向いた。
 ぽかんとしたままのティアは、セルに手を引かれて、更に一段高い屋根の上へと避難した。
「惜しいとは思うが……主の命だ。その命、刈らせてもらおう」
「やってみろ、のろま」
 剣を構え直したエリックにラヴファロウが向き会う。だらりと右腕を下げて、彼は苦々しげに零した。
 再びぶつかり合った二人を目で追っていたティアだったが、セルがそっと袖を引いた。
「大丈夫……ラヴファロウのあの強さなら、エリックには負けない。今の内にここを離れた方が良さそうだ」
「でも、兄さんはあの人と話したかったんじゃ……」
「ううん、もういいよ」
 セルは首を振って、少し悲しげに微笑んだ。
「話をしても無駄だって事は、分かったからね。……ルヴァンザムとは、また今度かな」
「へぇ……ま、そう言わずに、会っていきゃいいだろ? 久しぶりの親子水入らずの再会になるんじゃなかったのか、シウォン」
 頭上から聞こえた声に、ティアは目を見開いた。
 見上げると、屋根の頂上にロヴェ・ラリアンが立っていた。月を背にしているために顔が暗いが、それでもにっと笑った拍子に、歯が覗いた事は分かった。
 だが、そんな事はまだ驚きの序の口に過ぎなかった。
 ロヴェの傍らに立つ人影に気付いて、ティアは息を止め、一歩下がった。

「カーレン…………!」

 呼ばれて、ロヴェと背中合わせになるように立っていた彼は、すっとこちらを振り向いて目を細めた。
「ほら、俺の言ったとおりだ。おまえの連れ、ちゃんとこっちに来ていただろう?」
「……どちらの連れだ?」
 カーレンはぞっとするほど平淡な声で呟いた。紅い目が、無機質なガラスのようにこちらを見つめている。
「舞踏会での連れか? それとも旅の連れか?」
 低く小さな声が地を伝って、ぞわぞわとティアの背を這い上がった。
 まさか、彼の声で悪寒を感じるとは、思いもしなかった事だった。
 ロヴェは面白がるようにカーレンの顔を覗きこみ、笑った。
「ははあ、怒ってるな、その顔」
 カーレンは答えない。
 ティアに向き直り、カーレンは小さく口を動かした。
「……できれば、見られたくはなかった」
 彼の言った意味が分からなくて、ティアはカーレンを見つめた。
 と、屋根の向こうから、カーレンの背後に一人の人間が進み出てきた。
 やけに空ろな目をしたその男は、カーレンに向かって手を伸ばす。男の手の平からは、黒く禍々しい、どろりとしたものが吹き上がっていた。
 だが、彼は背後に注意を払わず、また気付いている様子もなかった。
「カーレ――!」
 ン、と言う間もなく、それは一瞬で起こった。
 ぴちっ、と自分の頬に生暖かいものが触れたのを感じたが、ティアはそれよりも、目の前で起こった事の方が理解できなかった。
 カーレンに手を伸ばしていた男の上半身が、消え失せていた。気付けば、彼は右腕を横に伸ばした状態で静止したままだ。
 いや――右腕だったものが、そこにあった。服ごと体を巻き込むように鱗が身体のそこかしこを覆い、特に鱗が多くなった肩からは、明らかに人間のものではない――ドラゴンの前足が伸びていた。
 本来よりいくらか小さいが、それでもその腕が凶悪な武器である事に変わりはない。

 それを、鍵爪に引っかかった、引き裂かれた男の上半身が示していた。
 死体と化した男の身体からとめどなく流れ、あるいは千切れ落ちるものを、ティアは見た。

「あ――っ、ぅ、ひっ!?」
「ティアちゃん!」
 喉から妙な声が漏れて、ティアは目を見開いたまま口を覆った。セルが咄嗟に目を覆ってくれたが、見てしまったものが網膜に焼き付いて離れない。
「だから、来させるなと言った。ラヴファロウも、こうなる事は分かっていたからな」
 視界を閉ざされ、暗闇の中でカーレンの声が聞こえた。
 ――ひどい。
 嗚咽を堪えながら、ティアは、ぼんやりと思った。
 自分に、エリシアに会って欲しくないからだと、そればかり思っていた。だが、一度だってそんな事をカーレンが言った訳ではない。ラヴファロウがそれらしく話したのを、自分が勝手に信じただけだったのだ。レダンもきっと二人の真意を知っていて、それでもティアに嘘をついたのに違いない。
 確かに、それは優しい嘘だったけれど。大人しく騙されて、それに甘んじていれば、こんな、血みどろの世界を知らずにいただろうけれど。
 それでも、ひどすぎた。
 みんなが、自分に嘘をついていた。
 騙されて、そして、やってきた自分が見たのが、今の光景。本当の理由。
 罪を許せるか、と聞いたレダンの言葉が、急に実感を伴ってきていた。
「……っ」
 こみあげた吐き気を押し戻そうと喘ぎ、しゃくりあげて、何とか呼吸をした。
 自分が流している涙が、悲しいからか、それとも身体が苦しいからなのか、それすらも分からないまま、セルの手をティアは外した。
 現実を、見なければ。
 そうしなければ、自分は何も分からないのだと、思い知りながら。
 震える瞼をこじ開けると、ちょうど、カーレンが死体を外して放り捨てたところだった。
「派手にやるなぁ……ったく、偽体だってすぐに作れるわけじゃねぇんだけどな」
「核がもう少し分かりやすければ、ここまでひどくしない」
 困り果てたように――しかしおどけた調子で言ったロヴェに、カーレンが淡々と返す。
「ふん……まぁ、元は死体だ。体のどこかに埋め込んだ核さえ潰されなけりゃ、何度でも動きだすさ。首だけになっても目が動いてるような、不気味な代物だからな」
 ロヴェが言うと同時に、ふらりと、残っていた男の下半身が"歩いた"。二、三歩よろめいたかと思うと、急に素早く跳び上がってカーレンに襲い掛かる。
「っ!?」
 ティアはその異様さに顔を引きつらせるが、カーレンは顔色一つ変える事もせずに、それを変化した右腕で叩き落した。更に血が辺りに飛び散るが、押さえつけられた足はまだばたばたともがいていた。
「相変わらず、見てて気味が悪いね。それ」
 目を瞠るティアの傍らで、セルが驚いた様子も見せずに呟いた。
「ほとんどの奴らがそう言うな。エリックでさえ吐いたくらいだ、ティア・フレイスにはあまり見せない方が良かったんじゃないのか?」
 ま、遅いけどな。言って、薄っすらとロヴェが笑った。
 すっと彼が手を上げた時――ロヴェの後ろに、更に十数人、同じように空ろな顔をした人間たちが、小さな赤毛の少年と共に現れた。その後も、一人、二人と徐々に人間たちが増えていく。
「……ブレイン!?」
 ブレインはこちらをしばらくぼうっと見つめていたが、カーレンに静かに視線を移した。
 彼を指差して、ブレインは少しためらうように唇を噛んだ。
 そして、言った。
「殺して」
 その言葉に従うように、偽体と呼ばれた彼らは声もなく動き出した。
 雪崩を打つように襲いかかる彼らを、カーレンは眺める。そして、まだもがいていた下半身から腕を放すと、すかさず踏み砕いた。
 また血が広がり、一度大きく痙攣して足は動かなくなった。
 カーレンはそれに注意すら払わず、砕いたその足で屋根を蹴ると鋭く跳んだ。再び降り立つまでに数体を引き裂いて、覆いかぶさるようになっていた偽体たちを一瞬で蹴散らす。散らされた彼らは、全身から黒い液状のものを吐き出した。
 黒い液はすぐに変化し、礫や霧状になってカーレンを襲う。
 その全てを彼はするりとかいくぐって、ティアたちの方に走ってきた。
 来るなり、カーレンは早口で言った。
「行くぞ、ここは狭い」
 何かを感じる暇もない。
 一瞬の浮遊感。覚えのありすぎる感触だった。
「え?」
 気がつくと身体は空を舞っていた。
 カーレンがドラゴンではない方の腕でティアを抱えて跳んでいる。だが、セルがいない。
「兄さん!?」
「大丈夫だ、転移がある」
 彼の言ったとおり、庭にカーレンが軽い身のこなしで降り立つと、傍にセルが蒼い光を散らして現れた。
 カーレンが腕を一振りすると同時に風の刃が幾つも生まれ、屋根の上から降りてきた偽体を押し戻して切り裂いた。
 血が降りかかってくる前に、すぐに腕をぐいと引っ張られた。
 近くにあった茂みを通って通路に出ると、カーレンはマントの下の外套を急いで脱いで、それでティアを乱暴に包んだ。マントがちょうど返り血を弾いていたのか、外套はほとんど血の匂いがしない。
「逃げろとは言わない。おまえたちはとにかくここから離れろ」
 外套の襟を寄せながら言うカーレンの瞳は真剣だった。
「けど」
 ティアが言った時。

「あら――それが、自分の都合に他人を巻きこんでしまった人の言う事なのかしら?」

 耳に入った軽やかな声に、カーレンはぴくりと顔を上げた。その目に一瞬、怯えのようなものが見えた。
 ティアが振り向くと、鮮やかな赤が目に入った。
 パヤック特有の漆黒の髪。白い肌に真紅の口紅をさして、同じ色のドレスに身を包んだ、彼女の顔。漆黒の瞳に浮かぶ色は、やはり真紅。
 けれどその顔は、どこかで見覚えがあるものだった。いいや、見間違うはずがない。自分は鏡の中にその顔を見ていたのだから。
「私が、居る――?」
 開いた口が塞がらないとは、この事を言うのだろうか。
「七年ぶりね。カーレン」
「…………エリシア」
 ティアに被せた外套からカーレンは手を離して、傍らに立つ。返り血にシャツを染めながら、彼は静かな驚きを声にたたえて彼女の名を呼んだ。
 ティアを見つめてその少女は微笑んだ。
「ねぇ、久しぶり、ティア。いいえ、初めましてかしら――? 私は、炎塔のエリシア・メイジよ」
 まるでずっと前から友達だったのだとでも言うように。
「会えて、とても嬉しいわ」
 とても、親しげに。


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