Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-4- 揺らぐ意思

 気付くと、セルがゆっくりと、ティアを庇うようにロヴェの前に立っていた。
「ティアちゃん。この事をラヴファロウに知らせて」
「兄さん、でも」
「大丈夫」
 どこにそんな根拠があるのか、セルは断言した。
「殺されやしない。彼らが殺したがっているのは、僕たちの事じゃなくて……たぶん」
 ティアは目を瞠った。自分やセルよりも邪魔な人物といえば、一人しかいない。
 カーレンを思い出すと今でも少し嫌な気がしたが、この際、そんな些細な自分の感情に構ってはいられなかった。
 少し躊躇ったが、ティアは小さく後ずさると、屋敷に向かって走り出した。そこに置き去りにしたブレインやセルの事を、何度も、何度も振り返りながら。


 へぇ、とロヴェは感心して、青年に向かって笑った。
「なかなかやるじゃないか。確かに、良い判断だ……けれど、それだけじゃないんだろうな」
「聞きたい事があるんだ」
 目の前に立つ青年は口調こそ穏やかだったが、その鮮やかな紫色をした瞳には剣呑な色が浮かんでいた。
「あいつは――ルヴァンザムは来るんだね?」
「ああ、来るよ」
 ロヴェは頷いてから、青年が拳を硬く握り締めているのを認めて、苦笑した。
「そんなに憎いか? あいつが」
 青年は俯いていたが、はっ、と嘲笑った。
「…………人を人とも思っていないのに? 僕に、彼を愛せと言うのか」
「……これは興味本位なんだがな。憎しみは愛の裏返しっていう言葉を知っているか」
「生憎だけど、知らないな」
 肩をすくめて、青年はそう言った。
「少なくとも、君は経験者みたいだけどね」
 虚を突かれて、ロヴェは僅かに目を見開いた。
「ふ……、それは、言えているかもしれない」
 一瞬だけ薄く唇を引き延ばすと、ロヴェは物も言わなくなったブレインを抱え上げた。自分の兄のあまりの豹変ぶりに、言葉も出なくなっていたらしい。こちらとしては、口を塞ぐ手間も省けて、話が出来るので一石二鳥ではあった。
「いいのか? 舞踏会に来ると、殺しを見る事になる」
「構わないよ。僕はあいつに復讐さえできれば、それでいい」
 ロヴェは青年の姿を見つめると、賞賛の意味も込めて、鼻で笑ってやった。
「……ふん。甘ったれた根性も鍛え直されれば、ここまで粘り強い鋼になるか。ルヴァンザムも、そろそろおまえの事が空恐ろしくなる頃だろうな」
「馬鹿にしないでほしい。九年前と今とじゃ、僕の力には歴然とした差がある」
「力……そうか、レダンのドラゴンアイだな。確かに、持っていてもおかしくはない」
 ロヴェは呟いた。
「カーレンと与えた本人以外は、あいつらは気付いていないように見える。今まで誤魔化していたのは、自分の正体を隠すためだったんだろうが……だが、その目は今は死んでるな? 時折、相当に痛むはずだ」
 図星だったのだろう。反論はしなかったが、しかし青年はたじろぎもしない。
「直に再び目覚める。僕はそのために七年、どんなにあの子を助けたくても我慢して、あの子一人だけにドラゴンの力を使わせて、その責任すら押し付けてきた。あの子の辛さや努力を僕は絶対に無駄にできない。……七年前にそう誓ったんだ」
「へぇ? ――具現化せよ」
 呟き、ロヴェは真紅に変色したはずの瞳で、青年の瞳の奥底に眠る力を見定めた。
 普段の色と重なって、銀色のドラゴンが持つ蒼き力が、炎の残り火のように燻っているのが見て取れた。今にも再び、強烈な魔力の炎となって燃え上がりそうだ。
「なるほどな。でも惜しい、おまえのその目が完全に目覚める前に、レダンの封印は解けるぞ」
「分かってる。水晶はレダンの魔力で満たされ続けるけれど、その度にそれが持つ封印の力が薄まっていく事ぐらい、僕も知っていた。けれど、それぐらい分かるんなら……僕の目がいつ甦るのかも分かるはずだろう?」
 ロヴェはブレインを抱えなおすと、片方の肩に頬を寄せた。
「……レダンの封印が解けるのと同じ頃だな。全く、厄介な人間を外に逃がしてしまったとつくづく思うよ」
「恨むなら、彼を恨んでくれ」
「違いない。……ったく、あの馬鹿が。放っておけと言った時点で後々最悪の事態になるのは目に見えていたはずなのに」
 ここにはいない友に、溜息をついた。
「――それで? リスコの孤児院を廃止させたのは、彼の命令だったの?」
 青年は眉一つ動かさずに訊ねた。
「そうだと言えば、あいつもなけなしの愛情になったんだろうがな……いいや、俺だよ」
「君が?」
 流石にこれには驚きを隠せなかったらしい。怪訝な顔をして、青年はロヴェを見つめた。
「一体何の為に」
「さぁ、何だと思う?」
 ロヴェは三日月さながらの細く裂けた笑みを浮かべ、話は終わりだと踵を返した。
 振り返り際、秘め事をするように、指を唇に当てた。
「まぁ、例えるなら……歪んだ愛情ってところかね」
 青年をその場に置き去りにして、ロヴェは雑踏の中を歩き出した。
 人を避ける必要はない。向こうが勝手にこちらを見るなり、慌てて道を開けてくれるからだ。他人はそれを覇気だというが、実際は自分にも分かりづらい。
「宿が変わった。舞踏会に出席すると告げたら、向こうが慌てて応対してくれたらしい。今日から二日、呆れるほど豪勢な場所に泊まる事になるから覚悟しておけよ」
 冗談めかして言うと、ブレインは目を逸らした。
「…………」
 青年からは離れたというのに、返事がない。ロヴェが広めの歩幅で歩くのにつられて、大人しく揺られているだけだった。
 ロヴェはちらりとその様子を見上げてから、前に視線を戻した。
「――やけに静かだな。どうしたよ」
 肩に乗っている子供に語りかけると、ブレインは震えていた。
「ねぇ、ロヴェさん……あの人は、誰?」
「知らない訳がないだろう。おまえの兄だよ」
 呆れて答えると、ブレインは違う、と答えた。
「あれは、違う……兄さんじゃない。ロヴェさん。あの人は、誰?」
「………………」
 ロヴェは口を噤んだまま、前を見据えて歩き続けた。
 それからブレインに向かって口を開いたのは、会話が途切れてから数十歩も進んだ後だった。
「敵だ」
「え?」
「あいつはセル・ティメルク――炎塔の、敵だ。そう割り切らないと、たぶん、おまえはやりきれないよ」
 ブレインの困惑した視線を頬に受けながら、ロヴェは微笑んだまま前を見続けた。
 歪んだ愛。それ以外に、何とこの感情を表せるのだろう。
 あの時、自分が独断で行動した事について、ルヴァンザムからは何も言われなかった。
 つまり、あのきまぐれな友にとっては、全てが取るに足らない事だったのだ。もちろん、ロヴェがその範囲内であるように務めたからでもあったが。
 自分がしてやれたのはそれだけだ。ティア・フレイスとあの青年を助けたかったのではなく、自分は彼らの望みを代わりに叶えてやっただけ。
 だが自分は彼らの敵だ。間違っても味方をしてはならないのは、よく分かっている。
 自分の全ては、友と彼らのために捧げているというのに、これは何という矛盾だろう。
 歩きながら、ロヴェはブレインに聞こえないように、ぼそりともう一つの心中を吐露していた。
「――俺と同じさ」
 かすかに笑いながら。
 矛盾に満ちたこの世界の姿に、せめてもの哀れみを込めて。

□■□■□

「あぁ、もう……ラヴファロウもカーレンもどこに行ってるのよ!?」
 一人でここにはいない二人を毒づきながら、ティアは屋敷の廊下を走っていた。
 セルと別れてからここまで戻ってきたのはよかったが、肝心の二人が二人とも居ない。さらに言えば、今までに誰にも会っていない。
 もうこの際誰でもいい、と思い、ティアは思いつく限りの名前を声を張り上げて呼んでいった。
「ラヴファロウ! カーレン! ルティス! マリフラオさーん! レダン! ――誰も居ないの!?」
 ――果たして、返事があった。

「ここに居るよ。だからそんなに大声を張り上げないでくれ……耳が痛い」

 角から声が聞こえたが、かなりの速さで走っていたので、急には止まれず――結果、廊下を曲がりかけていたレダンと危うく正面衝突をするところだった。
 結局、慌てて急停止したせいでつまづき、その場に転びかけたのをレダンに救われた。
「おわっ、と……気をつけろよ」
「ご、ごめんなさい」
「とりあえず、まず落ち着け。そんなに急いで、何があったんだ」
「――っあ、そうなの!」
「っ!? 何だ、いきなり」
 ティアがぱっと顔を上げると、レダンは驚いた顔をした。
「町で、町で会ったの……弟に!」
「はあ?」
 理解が遅い。
 考えてみればレダンはブレインの事を知らないはずなのだが、それに気づくだけの余裕をティアは持ち合わせていなかった。
 素っ頓狂な声を上げるレダンに、ティアは苛立ち気味にまくしたてた。
「ブレインよ! リスコに居たはずなのに、ロヴェ・ラリアンと一緒で……! 彼が、カーレンを殺すって!」
 唯一レダンが理解できる名前が出てきた時、彼の顔が瞬時に強張った。
「! 待て……ロヴェ? 今、ロヴェ・ラリアンって言ったのか?」
 気付くと、ティアの肩をレダンが強い力で掴んでいた。
 頭の中で思考がどれだけ目まぐるしく変化しているのか、彼は遅れて更に驚いた顔をして、大きな焦りの表情を浮かべた。
「そうだ、ロヴェ……という事は、炎塔に見つかってしまったんだな?」
「だけど、それで兄さんが」
「セル? いや、それどころじゃない。後はつけられなかったのか? 何人居たんだ?」
 レダンは一瞬だけ我に帰ったようだったが、すぐにまた矢継ぎ早に詰問された。
 掴まれた肩に更に強い力が加えられたために、凄まじい痛みが肩を襲い、ティアは喘いだ。
 自分以上に相手が慌てると、人間というのは落ち着くものらしい。レダンの気が動転したおかげで、何とかティアは痛みに涙目になりながらも、正常な思考を取り戻した。
 精神的に大きく動揺しているのかもしれない。とにかく、こちらの話を聞けていない。
 改めてレダンを見ると、彼の瞳の奥に、時折青い魔力の光が走っているのが見えた。肩を掴む手の皮膚一枚を隔てて、恐ろしい量の力が駆け巡っているのが、ドラゴンアイによって感覚を鋭敏にしてもいないのに分かるのだ。
「わ、分からない……けど、大丈夫だと思う。二人だけだったの」
「セルは? 彼はどうした」
 もう話が支離滅裂だ。
 いい加減、肩の骨が軋んで悲鳴を上げていた。レダンは気付いていないのだろうか。とにかく、このままだと肩を砕かれかねない。
 ティアは痛みを堪えて、レダンの手にどうにか触った。びくりと熱いものにでも触れたかのように、彼の肩が大きく揺れた。
「っ……レダン、痛い」
「ぁ――す、すまない」
 小さく告げると、レダンは目を見開いて、ようやく完全に我に返ったようだった。肩を放しはしなかったが、掴む力を緩めてくれたため、ティアは痛みと、緊張による焦りから整える暇もなかった呼吸を、ようやく穏やかなものに変えた。
「落ち着かなきゃいけないのはあなたの方ね……兄さんは、ロヴェを足止めするみたいな事を言っていたわ」
「だが……、セルのドラゴンアイは、今は使えないはずだ」
 ティアはレダンを見上げた。
「ドラゴンアイ? 私……セル兄さんの目が遺伝だって聞いた気がするんだけど」
「いや、遺伝なんかしない。……知らなかったのか。俺がセルに与えたんだよ」
「じゃあ、……まさか」
 ティアは一つの可能性に気付いて、目を瞠った。
「セル兄さんは、"寵姫"って事?」
「……ああ」
 レダンは頷いてから目を逸らしたが、何か思い出したのか、小さく目を見開いてからこちらに視線を戻した。
「そういえばティア、君はさっき、ロヴェがカーレンを殺すとか言っていなかったか?」
「言ったわよ。人の話を聞かないからでしょ」
 ティアは眉を潜めたが、やや棘のある声で言い返した。
 レダンはじっとティアを訝るような目で見つめた。
「……ありえない」
「何が?」
 ティアは更に刺々しく聞いた。
 レダンは答えずに、目を細めた。
「ロヴェがそう言ったのか? カーレンを殺すと」
「それは」
 反論しかけて、ティアははたと止まった。心のどこかで、制止を囁きかける声が、違和感を訴えていた。
 そう――そういえば、一言も言っていない。誰が死ぬという事は明言していなかった。
「けど、殺されるとしたら彼以外には」
「だから、それがありえないと言っているんだ」
 レダンは首を振った。
「ロヴェ・ラリアンは……仮にカーレンを殺すとして、それに自分も加わると言っていたのか?」
「言っていたわ」
「じゃあ、大丈夫だ」
「ちょっとレダン。それってどういう意味なの?」
 面食らってティアが聞き返すと、レダンは溜息をついた。
「一から説明するとかなりややこしくなるんだ……だから、これだけ覚えておいてくれ。カーレンをロヴェが殺す事は、絶対にない」
「ど、どうして? だって、ロヴェは……炎塔のドラゴンなんでしょ?」
「ティア。俺はずっと彼の側に居たんだ。ロヴェ・ラリアンの事をこちらの中では誰よりも良く知ってる。深くは聞かずに、俺の事を信じてくれないか」
「けど」
 また、何も語らずに信じろと言う。
 ティアは困惑と疑いの目でレダンを見つめた。
「あなたを本当に信じる事ができるの? 私にはまだ、誰も、何も教えてくれていないわ。あなたや、兄さんとカーレンの間に起こった事の半分も知らないのに、それを理解して従えだなんて無茶を言わないで」
「ティア……」
 肩を掴む手を振り解いて、ティアは後ずさった。追いすがるように手が伸ばされたが、まだ涙の残った潤んだ目で睨むと、レダンは怯んだ。
「私、そんなに都合が良くできてなんかない」
「……そうか。カーレンが信じられないんだな」
 レダンを睨みつけてそれだけを呟くと、彼はティアから視線を外さずに、憂うような目でこちらを見た。
「彼は、君に全てを話さないつもりだ」
「分かるわよ。それが、何」
「君が真実を知る時を恐れている。……君がどんなに自分の故郷について知りたいと思っているか、彼はちゃんと分かっているよ。カーレンはそれを話さなければならないと思えば思うほど、自分で泥沼にはまっているんだ」
 ティアは眉を潜めたが、レダンは構わずに、目を伏せて続けた。
「全てを話さないと、彼の意思を知った君なら、分からないはずがない。カーレンは、君に何を言っても言い訳にしかならない。そう感じているんだろう」
 ティアとカーレンのすれ違いを思って、そんな顔をしていたのだろうとは思う。
 分かっていても、それでもカーレンが、真実に対する言い訳すら恐れる理由が理解できなかった。
 レダンもまた、諭すだけで真実は何一つ教えていない。
 誰も信じられないのではないか、とちらりと不安が胸をかすめた。
「……例え言い訳であっても、それすらも話さないのは卑怯よ」
 だが、レダンは悲しげに微笑んだだけだった。
「羨ましいよ。君はまだ綺麗だから……罪を犯した事がないから、俺たちに言えない事が言える」
 だから、と、レダンはその手でティアの手を取った。そっと包みこんでくれた手は、白さに似合わず温かかった。
「俺たちは……ティアに全てを話す事をどうしてもためらってしまう。あまりにも、罪が重い……俺たちが抱える過去は、君には業が深すぎるから」
 この手は、どうして温かいと思う、とレダンは聞いた。
「簡単だよ。……俺も、カーレンも同じ手を持ってる。この手で他人を殺して、その血を絞り取って握ったんだ。だから温かいのさ。君が今触れているのは、人殺しの手なんだよ」
 皮肉なのか、冗談なのか。
 それとも、本気だろうか。
 どちらにしても、あまりにも血生臭いと感じて、ティアはレダンのまるで血の気のない手を見下ろした。
 触れる事すらためらうようにティアの手を柔らかく包んでいた両手を、レダンは苦笑しながらふわりと離した。
「ほら。これだけでそんな目をしてしまうのなら、とてもではないけれど全てを一遍には話せない」
「けど」
「許してくれ。君に綺麗でいて欲しいという願いが、俺たちの自己満足にしか過ぎないって事は分かってる……それでも、自分の気持ちを殺せないんだ」
 立ち上がると、レダンはティアの頭の上を通り越して、背後の何かを優しく目を細めて見ていた。
 振り向くと、セルが立っている。なぜか傍らには、ラヴファロウの執事であるマリフラオも一緒だった。
 無事に戻ってきてくれた事にほっとしながらも、意識は、レダンの最後の呟きに向けられていた。
「彼はともかくとしてね。俺やカーレンは、自分を戒めている」
 レダンに首を戻すと、彼はティアを見下ろしたが、その表情はがらりと変わっていた。
 ロヴェ・ラリアンが、そしてカーレンが度々浮かべていた、冷たい空虚なその瞳に、ぞくりと来るものがあった。

「俺たちには、それだけの罪があるんだ。――君にその真実を知って、俺たちを断罪する覚悟があるか? ティア・フレイス。なければ、知らない方がいい。断罪も出来ず、許す事も出来ない。そんな未来永劫続く苦しみを、君に与える事はできない」

□■□■□

 戻ってきたセルは、何かを考えているのか、しきりに首を傾げていた。廊下にいたティアとレダンに場所を移動しようと言い出し、兄妹が寝室として使った部屋で、それぞれ一人掛けの椅子に座ってテーブルを囲んでいた。

「カーレンはああ言ったけど、僕たちはやっぱりこっそり潜りこんだ方がいいんじゃないかって思うんだ」

 マリフラオが温かいハーブティーを小さな白い陶器の器に注いでいくのを横目で眺めていると、そうセルが口を開いた。
 ティアは目を丸くした。
「潜り込むって……舞踏会に? でも、ラヴファロウに行かないって約束したし、警備だって厳しいわよ? どうやって潜り込むつもりなの?」
 どう考えても、はっきりと身分を証明できない限り舞踏会の会場には入れない気がする。
「……ひょっとして、あの肩書きを使うのか?」
 レダンが聞くと、セルは頷いた。
「うん、足がつくけどね。でも、炎塔にはもうばれていたようなものだから、直接の被害はないと思う」
「どういう事?」
「ほら、僕が元貴族だって事は前に話したろ? ……あまり使いたくないけど、家名を使わせてもらうんだよ。実は炎塔にものすごく関係が深い名前だけど、今回はもう僕がこの町に居るってばれてるから、飛び入り参加なら居合わせていると分からないし、使っても大丈夫。持っているものは有効に活用しないとね」
 セルは片目を瞑ってみせてから、問題は服装なんだ、と続けた。
「どう見ても軽装だからね。って事で、彼に協力してもらう事にした。計画はばっちりだよ」
 彼、と示されたのは、傍らにずっと立っていたマリフラオだった。彼は、ティアとレダンが目を向けると、伏せていた瞳を薄っすらと開いてから、静かに微笑んだ。
「カーレンとラヴファロウには悪いけど……どうも、僕が会わなきゃいけない奴が来てるみたいだ。ただ、レダンは……」
「分かってる。俺はここに居るよ。君たち二人がちゃんと留守番をしていたと、演技をしなくちゃいけないからね。でも、くれぐれも気をつけてくれないか」
 セルははっきりと首を縦に振った。
「分かっているよ。……で、ティアちゃん。君にもちょっと協力してほしいんだよね」
「え? 私?」
「うん、そう」
 兄はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「兄さんって呼ばない事。あと、セルとも呼んじゃだめだ。一応恋人同士で舞踏会に参加しにきたって風に見せかけておきたいから、僕の愛称を教えてあげる。本名は、まぁラヴファロウに知られたら困るから言わないけど」
 言いながら、セルはちらりとマリフラオを見た。そういえば、金魔だと言われている。彼が怪しいと思って銀貨でも投げれば、あっという間にセルの正体がラヴファロウに知られるだろう。
「私はどう振舞えばいいの?」
「うん……そうだな。アンジェリーナ・サシャ・ディアン……いや、同じじゃまずいか。アンジェリーナ・ミーナ・ファジオンとでも名乗っておいて。九年前の元許婚の名前だから」
「……ひょっとして、その人と結婚するのが嫌で逃げてきたとかじゃないわよね?」
「まさか。とっても可愛らしい子だったよ。ただ、そうだね……歳を重ねればそうでもなかったのかもしれないけれど、ちょっと僕には幼すぎたかな。僕が八歳なら、向こうはまだ五歳だったから」
「って事は、私と同じ歳なのね」
「そうだね」
 セルは、ほんの少しだけ微笑んだ。
 その笑みを見て、ティアは内心で首を傾げた。

 今、確かにセルの目の奥に悲しみが見えた気がしたのだ。

「その子の事……ひょっとして、兄さんは好きだったの?」
「さぁ、どうかな」
 声を上げてセルが軽く笑った。
「僕は八歳だったんだよ? 恋だったかどうかなんて、覚えていられないぐらい昔の事さ」
 無理をしているんだ、とティアは思った。
 気丈に笑ってみせているが、その胸の内に激しい痛みを伴っている事は間違いない。
 目の痛みに耐えながら、幼かったティアに大丈夫と笑って見せた時の顔に、その笑顔が似ていた。
 だが、彼女の事を裏切ってまで、父親を捨てるほどの理由がどこにあったのだろう。
 考えながらレダンの事をちらりと見やると、彼の瞳は深海と間違えそうなほどに深くて空虚で、とてもではないが心の底まで見通せそうにはなかった。ただ、視線はじっと笑うセルに注がれたままだ。
 表情を消すのが、カーレンと同じぐらいに上手いと思って、ティアは小さく眉を潜めた。

 心すら読み取れない。
 そんな相手を、本当に信じてもいいのだろうか。

 信じて大丈夫という確証もなく、暗闇の中を見えない手に引かれている錯覚を覚えた気がした。
 その行く先がどこなのか、ティアは知らない。
 深い絶望の穴かもしれない。逆に、眩しいぐらい温かくて、優しい世界かもしれない。
 カーレンに自分の意思を伝えていたらどうなっていただろう。エリシアに会いたいと思ったのは、セイラックで起こった真実を知りたい――本当の自分を取り戻したいからだ。たとえ滅んだ故郷であっても、自分には帰る場所があった。それを確かめたかった。
 だが、カーレンはそれを許さなかった。
 真実を知られるのが怖い。
 本当に、それだけの理由で?
 少なくとも、エリシアは、そこで何があったのかを知っている。教えてくれるはずだ。
 ドラゴンアイがどうだろうが、知った事ではない。
 カーレンに黙って、行くしかない。直接彼女に会わなければ、分からない。――そう、ティアは決めた。

□■□■□

「――そう。来るの、彼」
 エリックが報告すると、暖炉の前で椅子に腰かけた少女は、薄暗がりの中で呟いた。
「ティアは?」
 ぱちり、と暖炉で赤々と燃える炎から、火花が音を立てて弾け飛んだ。
「いえ。どうやら、奴に止められたようです」
「……会わせないつもりなのね」
 少女は僅かに顔を背けた。炎によって明暗が強調されているせいで、表情が窺い知れない。
 エリックはただ、黙って少女の次の言葉を待った。

 くす、と笑う声が聞こえた。

「やっぱり、あなたって臆病なのね。信じる事を恐れた。そうじゃない?」
 エリックは瞬いただけだった。
 少女の呟きは、おそらく『奴』に向けられたものだ。自分が返事をする道理はない。
「私に対してもそうだった――。どうしても信じられないのよ。私から全てを奪っても、まだ怖いの。ねぇ、エリック? 可笑しいと思わない」
 炎が大きく揺らめき、その瞬間に、顔の半分が照らし出された。心底愉快だと、嘲るように歪められた、美しく可憐な表情。
 そうですね、とエリックは微笑んで答えた。
「ですが、くれぐれもお間違いになられぬように、エリシア様。今回の目的は、ティア・フレイス様の奪還ではありません……それは、あくまでもついでだと、ルヴァンザム様も仰っておられます」
「分かっているわよ。あれを殺すんでしょ? でも」
 くすくす、と少女は笑った。少女が身体を小刻みに揺らすたびに、彼女の纏う真紅のドレスの裾が、炎の影と同じように揺れた。
「それってあいつの――ロヴェの仕事よね。彼、殺すのは苦手だと思ったけれど」
 エリックは紅い男の事を思い出し、苦い顔をした。
「ルヴァンザム様は……あれは、暴れると手がつけられなくなると。やはり本性は原始のドラゴン。争いとなると、どうしても血の匂いに気が立つようで。性格が変わる事もあるとか」
「やっぱり、馬鹿よね。あの男」
 少女はうんざりしたように肘に顔をもたせかけた。
「それに、ドラゴンアイを失ったのは、何も私の責任じゃないのに。あれが何て言ったと思う?」
 不機嫌そうに、鼻を鳴らした。
「ドラゴンアイがないのなら、ここに居る価値もないだろうに、って。そしたらルヴァンザム様ったら……ああもう、思い出すだけで嫌になるわよ。どうしてあいつのドラゴンアイなのかしら。……もし彼のものだったら、この力で殺してやるだけでも十分復讐になるのに……悔しいったら」
「仕方がありませんよ」
 エリックは少女を宥めたが、彼女はもとより本気で怒っていたのではないようだった。
 その目に浮かべた色は、喜悦。
「でもいいの。彼には、たっぷりと仕返しをしてやれそうだから」
「は?」
 少女は口の端を小さく吊り上げた。
「来るわよ、あの子。だって、私はセイラックで何があったのか、全部知ってるわ。会って話すだけ。それで、私のところに彼女は……ティアは来てくれる。やっと、二人になれる」
 だから、と笑う声が、最も愛らしく、恐ろしい音色で、閉め切られた部屋に響いた。
「誰にも、邪魔なんかさせない。いいえ、させてあげない。カーレンにも」
 エリックは少女の目をじっと見返した。
 紅い少女の瞳は、血を思わせる色に染まっていた。
 彼女にドラゴンアイを与えたロヴェ・ラリアンの本質が、かぐわしい香りに飢えているようで。
 エリックは、小さく震えていた。恐怖でも畏怖でもなく――怒りから。
「エリシア様。セル・ティメルクの事、私に任せてくれますか」
「あの人? ええ。良いわよ、好きにして。どうせロヴェが標的を殺す事になっているんだし。私たちは舞踏会をせいぜい楽しみましょう」
 少女はふっと目を伏せた。
 


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