Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-3- 再会、そして宣告

 カーレンが部屋から出て行った。
 一言も、自分と話さないまま。
 エリシアと会うな、とティアに言ったのなら、まだ許せた。だがカーレンは自分ではなく、セルに、ティアを舞踏会に行かせるな――つまり、エリシアには会わせるなと、そう遠回しに言ったのだ。
「……最低よね」
 地を這いずるような声だった。
「大人気ないにもほどがあるわ」
 ぼそっと毒付く。セルとラヴファロウが、どこかに何かつっかえでもしたのか、ぎこちない動きで顔をこちらに向けた。
「……あー、ティア、あのな」
「黙って。言い訳なんか聞きたくない」
 ラヴファロウが何か言いかけたのを遮ると、ティアは唇を硬く引き結んだ。
「みんなそうよ。兄さんもカーレンもレダンも、貴方も。私に何もかも隠してばかり。カーレンだって私を信じないのに、どうして私にだけ信じろって言えるの?」
 そんなものは不公平というのだ。理不尽とは言わないけれど、公平とも言えないものだった。
「ええ、分かったわよ。エリシアには会わない。……それでいいんでしょ?」
 泣くような声を漏らす。
「――ああ。それでいい」
 ラヴファロウの言葉にティアは顔を跳ね上げて、彼を鋭い視線で睨んだ。
「どうして私を駆け引きなんかに使ったのよ。つまりこういう事なのね? カーレンはずっと炎塔から――エリシアから逃げ続けてた。なら、今更立ち向かわせる必要なんてどこにもないんじゃない」
「それは、違う」
「何が違うっていうのよ?」
「……あいつは、逃げてた訳じゃない。追われてはいるが、その中で、ずっと別れた寵姫を探していたと思う」
 ラヴファロウは静かに目を伏せた。
「詳しい事は、語らなかったけどな。けれど、俺は、俺の目が届かない場所であいつとエリシアを会わせたくないと思った。もしも何も言わなかったら、あいつは一人でエリシアと会おうとしただろう。だから、その事で俺はおまえに謝らなくちゃならない」
 ティアは困惑して眉を寄せた。そこで何故自分に謝る必要があるのか、理解できなかったからだ。
 何に対して謝っているのかは、何となく分かる。だが、単にカーレンを誘いに乗らせるためという理由の裏に、ちらりとラヴファロウの不安が見え隠れしているような気がした。
「あいつがエリシアの前に立った時……正直、何をしだすか分からない。彼女を連れ去るか、それとも逃げるか……最悪なのは、何の抵抗もせずに殺される事だ。死ねと相手に言われたら、あいつが今にも、あっさり自分の首に刃を当てそうな気がする。俺は、とにかくカーレンを目の届く場所に置いておかなくちゃならない。特に、二日後……舞踏会当日の晩に、な」
「でも、それならどうしてエリシアに会っちゃいけないの? カーレンが心配なら、私達だって手伝うのに」
「それは――無理だと思うよ、ティアちゃん」
 セルが口を開いた。
 ティアが驚いて振り向くと、セルは言いにくそうな顔をした。
「君はドラゴンアイを持ってるじゃないか。ドラゴンの寵姫だって宣言してるみたいなものだから、分かる人には分かるし、……多分、エリシア・メイジには絶対に分かる。ドラゴンアイを持っているなら、同じ存在には敏感だろうからね。そうしたら、ティアちゃんは炎塔に捕らえられてしまうかもしれない。…………もしかしたら、僕も彼に……うん、いや、まぁ、どうせレダン繋がりでいろいろあって行けないんだけど」
 最後だけ少し躊躇っていたのが気になったが、そこを突っ込むとセルはいくら聞いても口を硬く閉じたままだった。
 とにかく、行ってはいけない理由があるらしい、というのは理解したように思う。
「まぁ、そういう訳で、レダンも同じ理由だ。カーレンはエリシアに会うなら手段を選ばないだろうからな、前提からして言うだけ無駄で……それで、俺が直接監視って事にしたんだよ」
「まだカーレンが行くなって言う理由が分からないんだけど」
「ああ、それな。俺も実を言うと、何だってあんな事を言い出したのか……あいつに承諾させてから、おまえに行くなというつもりだったから、他人の事は言えはしないんだが。ひょっとしたら、エリシア・メイジはセイラックが滅んだ時の詳しい事を知ってるのかもな。あんまり詳しすぎたらちょっとまずいし、それでカーレンはおまえに聞かせたくなかったんだろ……っと、だからってやっぱり行くとか言わんでくれよ」
「言わないわよ、子供じゃないんだから」
 かちんと来てティアは言い返した。
「まぁまぁ、ティアちゃん。その話はもうこれぐらいにして……とりあえず休もうよ。くたくただ」
「やべ。悪い、そういやおまえらは昨日から寝てなかったんだな」
 そういえば、とティアはセルを見返した。目の下にくっきりと隈ができている。自分もいい加減疲労が溜まっていたのに気付いて、溜息を落としたくなった。道理で、苛立ちやすくなっていると思った。
 ひとまずティアの怒りが静まった事にほっとしたのか、ラヴファロウは口調をやや砕けたものに変えた。そういえば、今まで普段より丁寧に喋っていた事に気付いていなかった気がする。
「じゃ、たっぷり寝てくれよ。起こさねぇように執事には言っとくからさ。起きたら金をいくらかやるから、ポウノクロスの町でも見に行くといい。炎塔の奴らは舞踏会の準備で忙しいはずだからな、鉢合わせって事はないだろ」
 セルはティアに向かって微笑んだ。
「決まりだね。ちょっとカーレンが心配だけど……行けない分、遊んでおこうよ。あの嫌〜な態度に対しての憂さ晴らしってことでさ」
 わざとおどけたように言ったので、ティアは急に覚えた眠気に、目を擦りながらくすりと笑った。
 こんな冗談を聞くのが、もう随分と久しぶりのような気がした。

 それから後の事は、あまり覚えてはいない。
 覚えている事といえば、ラヴファロウによって直接部屋に案内されて、一室のベッドに二人で折り重なって倒れこんでしまい、盛大に呆れられた事ぐらいだろうか。
 頭に乱暴にひっかぶせられた毛布の感触を最後に、ティアの意識はすこんとぬけ落ちてしまっていた。

□■□■□

 気付けば丸々一日眠り込んでいて、次に目を覚ました時、外はもうすぐ夜明けになるかという頃だった。
 よく晴れているのか、白み始めた空がカーテンの隙間から僅かに見える。
「やっちゃったなぁ……寝すぎてふらふら、お腹もすいてふらふらだ」
「ほんとに。どうかしてたわ……」
 薄暗がりの中、セルの声にそう囁き返すと、ティアはもそもそとベッドから這い出した。
 重い瞼を閉じさせまいと、のろのろと目を擦っていると、見計らったかのようにドアが叩かれた。
「俺だ。二人とも、もう起きてるか?」
「ええ……今起きたところよ」
 返事をすると、ラヴファロウが眠そうな顔で執事の男を従えて部屋に入ってきた。
 寝起きだからか、彼はズボンを履いている以外には、裸にシャツを着て前で交差させただけという、貴族にしてはやけに簡素な格好をしていた。
「とりあえず、だ」
 執事が次々とカーテンを開けていくのを見ていると、ラヴファロウが呟きながら、白い方の髪をかきあげた。
「さっさと飯を食って、遊びに行きたいのは山々なんだろうがな。炎塔の新しい情報が入ってきたんで、とりあえず俺も聞くついでに、おまえたちに知らせに来た」
「新しい……情報?」
 セルが欠伸を噛み殺しながら聞き返すと、ラヴファロウは後ろに控えていた執事に目配せをした。
「ああ、そうだ。――マリフラオ、頼んだ」
 はい、と執事は小さく頷いた。
「炎塔に属する可能性のある人物で――ここ、王都に居合わせていると確認できたのは五名……その内三名が、舞踏会に参加すると分かりました。エリシア・メイジ、エリック・ヒュールス……そして、ルーベム・ラーニシェス」
 最後の人物の名を聞くと、ラヴファロウが小さく舌打ちをした。
「ラーニシェス……御大が自らお出ましって訳だ。エリック・ヒュールスといえば、ハルオマンドでも名のある騎士の一人だよ。連中、よっぽどカーレンを始末したいらしいな」
 皮肉った口調に、ティアは目を瞬かせた。御大……という事は、炎塔を率いる人物が来ているのか。
 ドラゴンを滅ぼす事を夢見た人間。そのあまりの無謀さと、しかしそれを実行していく強かさ。ドラゴンの里、バンクアリフを滅ぼそうと計って成功させた人間がここに来ている。
 さて、カーレン・クェンシードをどうやって殺そうか――? そんな風に、ルーベムはつらつらと思いを巡らせているのかもしれない。
 ためらいもなく、全てを焼き尽くしていく人間がここにいる――ティアの背に、小さく戦慄が走った。
「…………ラー、ニシェス?」
 小さな呟きにティアが振り向くと、セルは焦点を合わせないまま、空ろに繰り返した。
「ルーベム・ラーニシェス……ルヴァンザムが、"あいつ"がここに……」
 鮮やかな紫の瞳に、奇妙な色が浮かんでいた。
 いつも能天気な性格のはずのセルには、絶対に、似合わない感情が。
「どうかしたか?」
「えっ?」
 はっとセルは紫色の目を見開くと、鋭い目でラヴファロウの顔を凝視して、それからようやく緊張を解いた。
「あ、あぁ、そっか、ラヴファロウか……びっくりした」
「……兄さん、今、人を憎んでた」
 呆然としてティアが呟くと、セルはぴたりと口をつぐんで、目をすっと細めた。
「それは、僕でも、人を憎む事ぐらいはあるよ」
「何だそりゃ。ラーニシェスの人間に恨みでもあったのか?」
「……リスコでね。教会の所有していた孤児院に居たんだ。寄付をしていた貴族の一つだったラーニシェス家が、それを突然何の通告もなしに打ち切ってしまって、その都合で孤児院は潰された。おかげでみんな散り散りになったし、その後に起きたハルオマンドとオリフィアの戦争に無理矢理連れて行かれて、もっとひどい事になった人もいたって聞いたよ」
 目を逸らして、セルは答えた。
「ああ……ありゃひどかったからな。俺も当時一兵卒だったから分かるが、ハルオマンド側にやけに若い兵が居たのはそのせいか。――もちろん、リスコでのおまえらの仲間も斬ったかもしれない」
 ラヴファロウは一旦、言葉を切った。次に何を言うべきか、言葉を選んでいるようにも見えたが、その一瞬にセルは割り込んだ。
「でも、打ち切られてよかったんだ。あの教会や孤児院を使って、ラーニシェス家は仲間に何か、おかしな事をしていたから。その人たちはみんな戦争に行けと言われても、何も感じてなかったみたいで……とにかく、どこか変だった。普通すぎて不気味だったんだよ」
「って事は、表向きは大貴族のラーニシェスも、なにやら後ろめたい事ばかりみたいだな。おまえらが聞かせてくれた話のおかげで、大分炎塔の黒幕に近づけそうだ……奴だと目星はついてるが、あと少しがどうしても届かないんだよな。で、マリフラオ、今の話、活かせそうか?」
「ええ、かなり。元から人間を何人か連れ込んでは妙な細工を施しているようですので、それが分かれば大分、炎塔が何をしているのかが掴めてくるでしょう」
「……よく考えてみると、すごく身近なところにまで炎塔が手を伸ばしてたって事だよね」
 セルのぼやきを聞いて、ティアは確かに、と寒気を覚えた。一つ間違えば、自分たちが炎塔の犠牲者になっていたかもしれない。いや――ティアは既に、その犠牲者になっている。かつての友を、故郷を、そして記憶を失くした。セイラックを、カーレン一人を狩る為に炎塔が滅ぼしたのだ。
 何が、『人間を護る』、なのだろう。滅ぼすなど、そんな大義名分を抱える者たちのやる事ではない。
「よし。マリフラオに調べるのは任せるが……まずその前に朝食の用意だな。カーレンたちを叩き起こしてくるから、何か作っといてくれ」
 はい、と返事をする声を聞きながら、そこで、ティアは何故か、聞き覚えのある名前でラヴファロウが執事の事を呼んでいるのに気付いた。
「あら? ……そういえば、執事さんの名前……マリフラオって確か、オリフィアの倉庫にいた人の名前じゃなかった?」
 執事はにっこりと微笑んだ。
「ええ。そういえば挨拶がまだでしたね。改めて自己紹介を致します、私、マリフラオ・ディノス……ラヴファロウ・スティルド様の執事兼、諜報担当員を務めております」
「ついでに捕捉しとくと、副業として情報屋をやってて、機密情報も金額次第で平気で流す金魔だ。チビデブの変装をするが本性はこっちだ、騙されんなよ」
「……えっと、自分の執事なのに随分とけなすんだね?」
 セルが曖昧な笑いを浮かべて言ったが、ティアは唖然として、すらりと背の高い、黒い燕尾服に身を包んだ執事を――一見、完璧に見える執事を、穴の開くほど見つめていた。
 ふいに、ぴんと来た。
「カーレンは、ひょっとして貴方の情報屋をよく利用してたりとか……する……?」
 頭を抱えたラヴファロウの浮かべている苦々しい顔、そして、マリフラオのいろいろ含むところがありそうな微笑み。
「ええ。この前も、ちょっとしたチップを頂きました」
 いけしゃあしゃあと、主の前で白状する。
 両者の顔を見比べて、ティアはやっぱりと悟り、同時に呆れた。
 ずいぶんちゃっかりしている。


 そのちゃっかりとした執事から銀貨を十枚ほど渡され、ティアが五枚、セルも五枚、懐に入れて、二人でこうして町を歩いている。祭りを楽しむには十分どころか余るほどの額だが、我慢をしなくていいというのは魅力的な条件ではあった。
 無論、あまりたくさん持っているように見せかけないために、一枚使ったらそれの残りから支払いをするという、面倒な金の繰り方も必要になってくる訳だが。
 屋台に並んで、香辛料をまぶして焼いた鳥の足にかぶりついていると、ティアは人ごみの中を通り抜ける小さな赤毛の頭を見た気がした。子供だ。歳にしては似つかわしくない、少し黄ばんだ白地の大きなフードマントを重そうに引きずっている。
 不意に、懐かしい少年の姿が目の前にちらついた。
「……ブレイン、元気にしてるかしら?」
「気になるかい?」
「ええ。特に、孤児院とか……あんな話をした後だし」
「きっと上手くやってるよ。僕たちの弟なんだから」
「そうだけど。でも、何か引っかかるのよね」
「え?」
「ほら、ここ、一、二年で、他から流れてきた子たちがいたでしょ? 彼らが、兄さんや姉さんたちと同じような気がしてきて」
 ああ、とセルは串に残っている肉を食いちぎりながら答えた。
「そういえば、似ていたね。普通の子供だった。一見それが正常に見えるけれど、大抵孤児の子はどこかに傷を持ってるし、それがないように振る舞っているだけ……だから、仲間だって分かるんだけど。あんまり多かったから、僕らもちょっと雰囲気に呑まれかけていたのかもね」
 それから、ふっと笑った。
「でも大丈夫だよ。ブレインはすぐに、流れてきた子に懐かれていたからね。なぜか、僕らよりもブレインに先に懐くから、ちょっと羨ましかったけれど」
「きっと似たような境遇だったからでしょうね」
「うん、たぶんね」
 セルは頷いた。
「ひょっとしたら、目の前にひょっこり現れたりするかもね。噂をすればなんとやら、って言うし」
「やだ、兄さん。そんなのある訳ないじゃない」
 ティアは呆れて、屋台に目を向けた。赤毛の頭の子供は、どうやら蒸し菓子の屋台に並んでいたらしい。店主に黒く古ぼけた銅貨を渡して、嬉しそうに串に刺された菓子を手に振り向いた。
「ブレインはリスコに居るのよ。大陸の反対側なんだから、居る訳が――――」
 途切れた。
「ティアちゃん? どうしたのさ?」
 隣でセルがティアの視線を辿り、
 そこでやはり、ぴたりと止まった。
 赤毛の子供は菓子を口一杯にほおばろうとして、ティアたちと一瞬目が合った。
 蒸し菓子を熱そうに口の中で転がしているのだろう。あごをもぐもぐと動かしながら小さく首を傾げて――目を丸くした。喉にでも詰まったのか、何度か咳き込んでいる。
 随分苦しそうにしているのを見て、慌ててセルが――遅れてティアも――子供に駆け寄った。
「ほら、落ち着いて! お腹から咳をするんだ、そうすれば取れるから!」
 セルが背中をさすってやると、子供はしばらく咳が止まらなかったが、どうにか詰まらせたものを飲み下す事に成功した。
 涙目で何度か荒く息をし、子供はありがとう、と呟いてから、目を瞠ってティアとセルを見た。二人も、子供を唖然としたまま見返していた。
「ティ、ティア姉さん――セル兄さんも」
 うわ言のように呟くと、ブレインは唾を飲み込んで喘いだ。
「な……なんで、ここにいるの!?」
「なんでって、ブレイン、おまえ――」
 セルががっちりとブレインの両肩を掴もうとして、素っ頓狂な声を上げるのと、
 よろけたおかげで、着ていた(というよりは着られている感じだが)長すぎるフードマントの裾を踏んづけてブレインがすっ転んだのは、
「――そりゃこっちの台詞だよ!?」
「うひゃっ!?」
 ほぼ同時だった。
「…………だ、大丈夫かい?」
 倒れたブレインを掴み損ねたセルは、上げかけた手をどうしていいのやら迷った様子で、ぽつりと呟いた。
「うん……なんとか」
 地面からよたよたと起き上がると、ブレインは打ったところをさすりながら呻いた。
「あ、でも、本当にどうしてこの町に? 僕、ティア姉ちゃんたちがこの町にいるなんて知らなかった」
「私たちだって知らなかったわよ……カーレンがちょっとした事情で、舞踏会に参加する事になってるのよ」
「え、姉さんたちも?」
 ブレインはやや目を丸くした。
「いいえ、私たちはお留守番よ」
 ティアは肩をすくめた。
『―― ティアは、絶対に舞踏会に来させないでくれ ――』
 カーレンの言葉を思い出し、むかっ腹が立ってきた。
「全く、思い出しても腹が立つ!」
「まぁまぁ……」
 セルがなだめたが、ブレインも彼なりに、何かあったと勘付いたらしい。
「何かあったんだね。……困ったら僕のところに来てもいいよ? ご主人様に言って、なんとかしてもらえるように僕が助けてあげる」
「ご主人様って……ブレイン、おまえは今、誰かにでも奉公しているのかい?」
「うん、そんなものだよ。ご主人様とはあまり話さないけれど……あ、でも連れの人とならたくさん話すんだ。ご主人様も舞踏会に出席なされるから、こうしてお供で。始めは連れの人だけで行く予定だったんだけど、あの人はきまぐれなんだって連れの人が言ってた。あと二人の、お姉ちゃんや男の人も顔とかちょっと怖いけど、よくしてくれてる」
 セルが訊ねると、ブレインはすらすらと答えた。
「怖くて泣いたりしてない?」
 聞くと、彼は少し恥ずかしそうに俯いた。
「実は、ちょっと。リスコからいきなり男の人に来いって引っ張られてきたから、びっくりして、男の人もお姉ちゃんも怖くて……泣いちゃった。そしたら、連れの人が慰めてくれたんだ」
「じゃあ、孤児のみんなはリスコに居たままなの?」

 ううん、とブレインは首を振った。

 しかし、そこに異様な間を感じて、ティアは妙な違和感を覚えた。気付かれないように、さりげなくブレインの顔を注視する。
「リスコにいたみんなは、ご主人様に話したら引き取ってくれたよ。今は、孤児院みたいなところを作ってもらって、そこでみんなで生活してるみたい。ほら、僕、昔から背中にちょっと変わった模様があるだろ? それがご主人様の興味を惹いたみたいで」
 ふうん、と頷きながら、ティアはブレインを観察していた。淀みなく答えているところを見ると、真実なのだろう。セルと目を合わせると、兄も頷いた。
 微妙な違いだが……しっかりとこちらの目を見れていないし、いつもの溌剌とした笑みではなく、曖昧な微笑ばかりが彼の顔に浮かんでいた。
 何か、隠し事をしているようだ。
「ブレイン、生憎だけど、僕たちは誤魔化せないよ」
 ゆっくりとセルが向き直ってから言うと、ブレインの笑顔が固まった。じわじわと、顔から笑みが消えていく。
「な、んで――そんな事、ある訳がないよ」
「いや。僕らには分かる……ブレイン、リスコの子達はどうなったんだい? 孤児院に入れられたと言っていたけれど、どこのどんな場所かは言っていない。それに、あの人数を保護できるのは貴族だよ。家名は言えるはずだろう?」
 ブレインは俯いた。
 やっぱり、とティアは感じた。あえてぼかした話をしていたのは、どういう事情があるのだろう。何か、ただならぬ気配がする。
「黙っていちゃ分からない。弟や妹たちに、一体何があったんだい?」
 ぎゅっと、何かに耐えるように、ブレインは辛そうに目を瞑った。
「……言えないんだ、兄さん」
 まるでそれが禁忌だという訳ではないのに、枯れそうなほどか細い声だった。今にも泣き崩れそうだ。
「言えない。兄さんたちには、――か、カーレンさんと一緒だから、言っちゃいけないって。ご主人様からも、連れの人からも言われてるんだ」
 セルが目を瞠った。
「言っちゃいけないって、そんな……おかしいじゃないか。出会う事が分かるはずがないんだ」
「兄さん――!」
 ティアは焦りを声に滲ませて兄を呼んだ。セルは振り向いて、深刻な色を目に浮かべ、途方に暮れた顔をした。
 彼の主人は、自分たちとブレインがこの町で出会うかもしれないと予見していたのだ。
 とてつもない――途方もなく暗い穴が、ブレインの後ろに口を開けているという錯覚に襲われた。
「ブレイン、お願いだから教えて。あなたの主人は誰なの?」

「――それを、言うなと命令されている奉公人に聞くのは、少し酷ってものだろう。そうだろう? ティア・フレイス」
 やんわりと、どこかで聞いた口調が耳に届いた。

 カツン、とブーツを石畳で打ち鳴らす音が、雑踏の中で、やけにはっきりと、近くから聞こえた。
 瞬間、感じた威圧感と恐怖に、ぞわっとティアのうなじが逆立った。
 ブレインは、セルに肩を掴まれたまま、絶望したように目を瞠って背後を凝視している。
 ティアとセルが戦慄しながら振り向くと、
 そこには、紅い男が立っていた。

 ティアが振り向いた時、石畳を鳴らした、濃い色のごつごつした編み上げのブーツや、ベージュのズボンなどの足元が、最初に目に入った。視線を上げれば、丈の長い黒いベストを、冬だというのに裸の上に一枚着て一箇所を前で留めただけ。そこへ腰の辺りに装飾品として、金や銀の鎖を巻きつけている。その内の一本には剣が吊り下がっていたが、吊っている鎖自体が魔術の品なのか、鎖は切れずに、ぴんと張る事もなく垂れていた。
 更に上へと目をやれば、むき出しの肩が寒々しかったものの、腕はなぜか両腕を同じく黒い布で手首まで、右手は手の平までもを覆っている。すらりとした細い身体を強調するように、上半身の全てがぴったりとしていて、良く見れば肩口にマントを止めるための留め金のようなものが引っかかっていた。ブレインの大きすぎる白い色褪せたフードマントは、彼のものだったらしい。
 最後に顔へと目線を移すと、薄っすらと日に黄色く焼けた白い肌と、形の整った顔があった。琥珀か緑か、奇妙な色合いの瞳に、目に鮮やかな銅や真紅の色を纏った、緩やかにうねりながら腰まで伸びた紅い髪。彼を紅い男と形容したのは、これのためだった。
「出会ったら逃げろと、忠告したけれど……出会ってしまったようだな、俺たちは」
 そして――ティアが見た事のある表情がそこに浮かんでいた。
 影の差したような、底の知れない微笑み。咄嗟に足元に再び目をやると、影がほんのりと紅の色を帯びている。

『―― 紅い影を持つ奴らに出会ったら、すぐに逃げろ。決して目を合わせるな ――』
 意識の奥底に刷り込まれていた、警告が。

『―― 彼ほど、哀しいドラゴンはいないんだって ――』
 他者から見た、その生き様が。

『―― ある意味、あれほど美しいドラゴンはいないだろうな ――』
 苦い告白に滲んでいた、懐古の情が。

 本人を前にして、全ての彼に関する事が、ティアの中で甦った。

「まさか……」
 そう。確かに、そこにいる男は美しかった。ともすれば妖しささえ纏うその細い身体に、しかし、何人も敵わないほどの覇気と力を兼ね備えて、レダンを通じて出会った時よりも更に明確な恐怖――畏怖を、ティアに容赦なく叩きつけてきた。
 そこに浮かべた微笑みの何が、底知れぬものを感じさせたのか。影を含んでいたのか。今なら分かる。
 一瞬、ティアとセルは、言葉もなく彼に見入っていた。
 ――こんなに哀しい、綺麗な微笑みを見た事がなかった。
「……ロヴェ・ラリアン? あなたが?」
「そう」
 頷いて、ロヴェはふと目を細めた。
「ブレイン、おいで。『彼』が呼んでる」
 ぱっとティアの脇を小柄な身体がすり抜けた。
「ブレイン!?」
「……ごめんなさい、ティア姉さん。セル兄さん」
 いつの間にセルの手を逃れたのだろう。赤髪の少年は、同じ紅い男の隣に立つと、済まなさそうにしながらもロヴェの後ろに隠れた。
「どういう事なんだい――? ロヴェ・ラリアンは、炎塔の――っ、まさか!?」
 セルがはっと何かに気付いて顔色を変えた。
「ああ、そうだ。ブレインは炎塔の……それも、かなり重要な位置にいる子供だよ。リスコに来る以前から、ね」
 ロヴェは呟くようにしながら、セルに目を向けた。
「二、三度見た事はあるが、直接顔を合わせた事はなかったな。レダンに服を運んでいった時と……シリエルの森からおまえたちを見送った時。あとは――ああ、そうか。九年前、レダンが逃げた時だな」
 その時、ブレインが影から堪えきれない様子で進み出てきて、大声で言った。
「姉さん、兄さん! 舞踏会に来ちゃだめだ! もしも来たら――んむっ!?」
 ロヴェがブレインの口を柔らかく塞いだ。窒息しないようにと力加減をしているようだが、ブレインがどう足掻いても逃れられないようだった。
「ブレイン!」
 ティアが悲鳴を上げると、ロヴェは溜息をついた。
「しょうがない子だ。……まぁいい。ひとつだけ教えておいてやる。当日には会場に来ない方がいい。舞踏会の晩に――俺たちの手によって、」
 すっと奇妙な色合いの目で、ロヴェは絶句して立ち尽くすティアとセルを見据えた。
 口を塞がれてからずっと揺れていたブレインの視線が、宣告を告げられる恐怖に、ロヴェにすがるような形で凍り付いた。

「そこで、一人が死ぬからだ」

 流れるような仕草で立てられた一本の指が、それだけで死をもたらすほど、不吉なものに見えた。


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