Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-2- 惑いの真意

 かなり、突拍子もない話だと思う。
 自分がリスコに来たのが七年前だというだけで、カーレンの寵姫だと断定できるものだろうか。たまたま、という事もありえるというのに。
「そんな……私が寵姫かもしれないなんて、どうして?」
 まず、話が見えてこない。ティアは困惑して眉尻を下げた。
「俺も最初は半信半疑だったよ。最初、寵姫だと思っていた人間のほかに、もう一人その可能性を持つ奴が出てきたんだからな。カーレンも一見したら普通に見えるが、内心、大混乱してんじゃねぇのか?」
 乗り出していた体勢から素早くソファの背もたれに身体を沈めると、ラヴファロウは頭をかきながら苦い顔をした。
「オリフィアにおまえが最初にやってきたその時は、まだエリシア・メイジがドラゴンアイを有しているなんて話は聞いていなかった。だから、ひょっとしたらティアの方が寵姫なのかと思ったんだよ。それにしたら、おまえはカーレンの事を覚えてるっていう様子をこれっぽっちも見せないし……俺だって大混乱だ」
「でも、私の目に宿ってるドラゴンアイは……カーレンのものじゃないと思う」
「違うってのか?」
「違うというより……カーレンのものなら、私の目は本当なら銀色になってるはずだって、向こうで聞いたの。もとの黒から別の黒に変わったんじゃないかとも言われたけど」
 ラヴファロウは妙な顔をして首を傾げた。
「それじゃ、カーレンも銀色でないとおかしいんじゃねぇか? あいつ、紫っぽい色だけどな」
 今度はティアがきょとんとする番だった。
「あれ? そういえばそうよね……?」
「おいおい、条件すらねぇのかよ」
「……そういう事、たまにあるって聞いた事があるよ」
 隣から上がった声に、ティアとラヴファロウは揃ってセルを見た。
「父さんから聞いたんだ。ドラゴンアイは、使う人の状態によって変わるんだって。体調不良とか、そんなんじゃなくて……もっと、精神とか魔力とか、曖昧なところで」
 ラヴファロウは何か心当たりがあるらしく、一瞬はっとした表情で視線を宙に走らせ、納得したような顔になった。
 言った兄は、少し嫌そうな顔をしていた。父があまり好きでないのは知っていたが、口に出すのも嫌だとなると、逆にどんな親だったのか興味が湧いた。もちろん、実際には聞かなかったが。
 考えるような顔をしながら、セルは続けた。
「でも、カーレンのドラゴンアイが銀だったら、エルニスと戦った時のカーレンの目を見て、ウィルテナトのみんなはどう思ったんだろう……ティアちゃんはそっちに夢中だったから分からなかったろうけど、僕が見た限りじゃ、特に何も反応がなかったんだ」
「始めからそうだったって言いたいの?」
「いや、だからさ。僕が言いたいのは、とにかくドラゴンアイは滅多に変化しないけど、変わる事もあるって事。カーレンの場合は良く分からないからまぁ置いておくとして、ティアちゃんは特にそうなんじゃないかな。力はそこにあるけれど、それがどんな風に出たらいいか、そのドラゴンの事を覚えていないから分からない。だから色がなかった……とか」
「じゃあ、思い出したら変わるようになるかもしれない?」
「うん、たぶん」
「て事は、結局そこに行き着くのか……力を与えたドラゴンが誰か、分からないってのが痛いな。消去法も出来やしねぇ。そりゃカーレンが戸惑うわけだ」
 ラヴファロウの言葉に、ティアは俯いた。
「それだけで、あんな顔になる? 白くなるぐらいだったのよ」
 そう、本当に、それだけであんな顔になるのだろうか。
 そういえば、ラヴファロウはその話も聞いたのか、とさっき言っていた。
 七年前の事について知っている。確信して、ティアは聞いた。
「ねぇ、ラヴファロウ。北大陸で、セイラックって国が滅んだ事について……何か、知ってる? 炎塔が関係してるらしいけど」
 ラヴファロウは眉間に皺を寄せ、滅多に見ない顔をした。
 吐き捨てるように、苦く、そして忌々しげな声だった。
「知らない訳がないさ、俺とカーレンが出会う事になったきっかけだよ。……まさにその事件で、あいつは寵姫と引き離された上、深い傷を追って、この中央大陸まで逃げてきたんだからな。脱出する直前の事も覚えていないし、見つけた時には半狂乱だったしで、結局事情を聞けたのはそれから二週間も後になってからだった」
「じゃあ」
 脳裏に、レダンの言葉が甦る。炎塔に俺たちが関わったばかりにと、そう彼は言わなかっただろうか。
 俺たち、とは、レダンと、誰の事だったのだろう?
 鮮やかな深緑の瞳が、静かな怒りに燃えてティアを射抜いた。
「ああ、そうだ。カーレンもセイラックが滅んだその日、その場に居合わせた一人だよ。炎塔に操られていたレダンを止めようとして……そして、炎塔の思惑にはまって死にかけたんだ。寵姫は一度は炎塔の手に落ちて……それから、どうなったのか誰も分からない。知ってるとすれば、その時のカーレンと、本人だけだろうさ」
 沈黙が部屋の中に落ちた。ラヴファロウは激情を抑えようとするかのように拳を膝の上で震わせ、セルは神妙な顔でラヴファロウを見つめている。
 ティアは驚きに呆然としたまま、動けなかった。
 もしも寵姫がエリシアだったなら、彼女はなぜ、ドラゴンを滅ぼすはずの炎塔に味方したのだろう。それだけドラゴンに敵意を持つほどの理由が、どこにあったというのだろうか。
 彼らを憎む理由が、どんなに探しても見つからない。

□■□■□

 男の黒髪が、冷たい風に長くなびいていく。
 藍の外套の裾が風に煽られ、ふわりと広がってはしぼんでいくのを、ロヴェは静かに眺めていた。
 自分たちが立つ塔の遥か下から、ポウノクロスの色鮮やかな都が広がっている。塔はやや王都から外れた場所の高台に位置しているために、ここからなら、町の隅々までがよく見えた。ルヴァンザムはどうだか知らないが、自分には通りを歩く人影も、何人いるかも大体分かる。
 けれど、そんなものに興味はない。そもそも、興味を示している暇がないからだ。
 こうして傍らではらはらと見守っている事には気付いているのだろうが、ルヴァンザムは景色を楽しんでいるだけで、一向に自分の足元を気にする様子を見せない。
 彼の事だから落ちても大丈夫だろうとは思う。しかし万一、上ったばかりの朝日に目を眩ませはしないかと、かなり高い場所のためにそれでも心配だった。
 頼まれてここまで彼を抱えて跳んできたものの、連れてきてよかったものかどうか。
 いつしか見守る事を諦め、三日後に迫った祭りの空気を鼻腔で敏感に感じ取りながら、ロヴェは思案していた。
「分かるかい? ロヴェ」
 突然、ルヴァンザムが口を開いた。
 ロヴェが顔を上げると、振り向いていた彼は、艶やかな微笑を浮かべる。
「おまえが案じている子がいるよ」
「……案じている、ねぇ。気にしちゃあいるが、案じるのとはちょっと違うな、ルヴァンザム」
 すん、と鼻を小さく震わせ、まだ空に残る三日月と同じくらい、ほっそりと裂けた笑みをロヴェは浮かべた。そうでもしなければ、ルヴァンザムを納得させるのは難しい。
「レダンの事なら、今は無理だ。呪いがすっかりカーレンに封じられちまってる」
 ロヴェは静かに返した。
「封じられている、ねぇ……」
 ふむ、とルヴァンザムは思案顔になり、右手を口元に当てた。
「あとどれくらいで封印は切れそうかな?」
 ちらりと、ロヴェはルヴァンザムを見やった。それから少しもためらう事なく、自分の右腕をほとんど覆っている黒布を外した。肩から手先までが空気に晒され、冷やりとした感覚が襲ってくる。
 露になった腕には全体にわたって、禍々しい真紅で呪いの刺青が施されていた。
 その右手をロヴェは軽く握り締め、ゆっくりと開いた。
 しばらくも待たずに、刺青が血のような光を放ち、身体の内の力が働き出した。魔力が生み出した風の流れに紅い髪が舞う。
 肌をくすぐられるような感触に、静かに目を伏せた。
「……、」
 じりじりと肌が疼く。その僅かな違いを、少し集中しながら感じ取った。
 長い間身体に刻んでいた呪いのため、ほとんど手足に近い状態になっている。感じた手ごたえはすぐに霧散したが、それまでの時間から、封印がどの程度弱っているかは手に取るように分かった。
 再び右手を握り締めると、瞼を通して入ってきていた紅い光は失せて、ロヴェはゆっくりと目を開いた。
 黒布を被せて刺青を隠しながら、ロヴェは答えた。
「――少なくとも、今日と、明日と……明後日と。三日後、それからなら、力技で破れる」
「という事は、舞踏会当日か……エリシアがおまえを上手く使えるかどうか」
「いや、たぶん無理だ」
 自分たちが出てきた宿で昨日起こった出来事を思いだし、ロヴェはげんなりしてぼやいた。
 ブレインに準備について指示していた時、刺々しく絡んできた事が、それこそ数分前のように瞼の裏に浮かんでくる。どうも近くにいるだけで機嫌を悪くさせてしまうらしいので、それ以来あまり近寄ってはいない。別に自分も好き好んで激怒させたい訳ではないため、当日共に動く事だけは御免だった。下手をすると、最初の目的さえ実行できない事になる。
 だが、それを聞かせたところで彼はさして興味を持たないだろう。
「あいつ自身に俺を使う気がないだろうからな。エリックを行かせるといい」
 それだけをロヴェが言うと、ルヴァンザムはこちらの顔を見て、噴き出すように笑った。
「おまえはいつも苦労しているようだね」
「全くだよ。指示を伝えに行くだけでどれだけ睨まれたか、いちいち数えてたらきりがないぜ」
 皮肉気味に言うと、堪えきれなかったのか――大笑いではないが――、かなり笑われた。
「……それで? 舞踏会、彼は来ると思うかい?」
 ふふ、と笑みをまだ含ませながら、ルヴァンザムが聞いた。
「来るよ、間違いなく。餌はきちんとおまえの望みどおりに撒いたからな。あとは獲物が引っかかるのを待つだけだ」
 しばらく言葉が途切れた。
 一泊置いて、ルヴァンザムは無言のまま唇で弧を描いた。
「エリシア・メイジだからこそ、喰らいつく獲物だからね。彼が一番、気にかけていた人間だろう、彼女は」
 だからといって、放っておけば勝手に相手に喰らいつきに行くような罠を、堂々と獲物の前に仕掛ける者がどれだけいるだろう。いや、勝手に喰らいつくからこそ置いておくのか。
 それ以前に、彼は彼女に心がないと思っているのだろうか。それならば、かなり思い違いをしている事になる。
「ああ、あれがどう考えるかは分かっているつもりだよ。そう――エリシアは、制止を聞かないだろう。おそらく、自分のやりたいようにやる。だから役目らしい役目は、相手をおびき寄せるまでという事だ」
 ロヴェは一瞬だけどう返そうかと考えを巡らせたが、
「俺は時々、あんたがこの上なくあくどく見えるな」
 結局、それだけを言った。
 僅かに恨みがましさが混じっていたかもしれない。聞きとがめたのか、ルヴァンザムは目を細めた。
「ロヴェ……おまえ、言うようになったね」
「お互い様だろ。あんたも、人には言えない事をこそこそやってるだろうに」
 ロヴェの応酬にルヴァンザムは無邪気に笑って、何の気もなく悪意を口にした。
「そうだね。……それで? 殺してくれるかな、彼を」
 ロヴェはルヴァンザムをじっと見つめた。
 笑ってはいるものの、紫色の瞳からは何の感情も読み取れない。
「ああ。――可能な限り、必ず殺すさ」
「気をつける事だ。おまえは、戦いになるとすこぉしばかり、我を忘れる癖があるから」
 可笑しがるような口調に、ロヴェはややあって頷いた。
 戦いになれば、また自分は笑いながら血を求めるだろうか。
 考えながらも彼が次に望む言葉を感じ取って、ロヴェはどんな想いも込めずにそれを口にした。
「あんたが、俺にそれを望む限りな。そうだろう、我が愛しき友――」
 妖しく、無邪気な悪意がそこにある。
 彼を救う術を、自分は知らない。しかし、それを腹立たしく思う事はない。
 救われる術など存在しないからだ。彼はかつて、救う側だった事をロヴェは知っている。それでも自分が救われる方法を見つけ出せずに、ここまで堕ちたのだから。

 ただ――そう、それが悲しい事なのだなとは、時々感じる事がある。

□■□■□

『で? どう話すおつもりですか』
「……今それを考えているんだが?」
「無駄だろう、たぶん。ありのままに話すしかないんじゃないのか」
 カーレンは、天蓋付きのベッドの上で悠々と寝転がっているレダンと――普段の大きさにもどり、その脇に陣取っているルティスをちらりと一瞥した。
 そのまま、乱暴にもう一つのベッドに身を投げ出す。
「どういう事か分からない」
 呟いた。リスコでティアを見つけた時にもちらりと感じた予感が、ますます強まってきている。
「ティアが記憶を失っているのが七年前だ……だが、エリシアは炎塔にずっと居るような素振りをロヴェは見せた」
「シリエルの森でか。そこは俺も保証するよ。実際、炎塔でエリシアを一度見た。一週間後、船の上に乗っている訳がないし、当たり前だがあんたもその船に乗っていて、四六時中ティアの側にいた。同一人物って事はない……少なくとも、物理的な問題だけで見たらの話だけどな」
 そこで、レダンは少し顔をしかめた。
「それより、俺の気のせいか? ――あんたが、本当の事を知られるのを怖がっているように見える」
「怖い、か――ああ、そうだな。ティアが真実を知ったらどうするか――分かるというのは、嫌なものだ」
 素直に恐怖を認めると、カーレンは目を伏せ、くすりと自嘲気味に笑った。
 本当に。もし彼女が真実を知れば……どうなるかなど、明らかだ。そして自分には、その現実を受け止める覚悟ぐらいはある。あとは、その覚悟が自分の恐怖に打ち勝てるかどうかで決まる。
 大した事はない。そう、大した事なんて、何一つない。今までがそうだった。死にかけた事も、孤独も、気にする程の事ではない。全てが過去だからだ。
 気にすべきなのは、少女がそこからどうするのか、そして、自分はそれをどう受け止めるのか。これからの事、それだけだ。
『止める気はないのですか』
「では聞くが、強制する権利があると思うか?」
 むしろ面白がるように言ってやると、使い魔は憮然とした顔で尻尾を一振りして目を逸らした。
 ティアがそうするという事を前提に話をしているのだから、単にこれは説得する、という意味で捉えるべきだったのだろう。だが、カーレンはそうしようとは思わない。
 わざと意味を履き違えて、強引な手段へと書き換えた。
『そういう訳ではありません。ただ、誤解を招くような状態にしておくというのは、貴方らしくないと言っているのです』
「――果たして、本当に誤解なんだろうな?」
『マスター、まさか』
 ルティスは驚いて首をもたげた。
『まさか貴方には、ティアさんに訳を話す気がないのですか?』
 狼が苦しげに呻いたが、カーレンは冷ややかに笑って返した。
「ああ、ない」
 珍しく蒼い目を丸く見開き、ルティスが絶句した。だが、カーレンの笑い声が引きつっていた事に気付いて、鼻面を歪めた。
 カーレンはレダンへ視線を移した。レダンも気付いていたらしいが、こちらは静かにカーレンを見ていた。
「セルはこの事を?」
「いいや、知らない。九年前のあの時以来、何にも巻き込んじゃいない」
 レダンは首を振る代わりに、軽く目を伏せた。
「……もしあんたが、ひょっとしたらと思う事があるんなら、セルに聞くといい。俺は知らないからさ」
「そうか。――おまえがそう言うのなら、私の推測も確かなものだろう」
 カーレンは頷いて、立ち上がった。
「どこに行くんだ?」
 ドアに向かいかけると、レダンが聞いた。
 カーレンは小さく振り向くと、微笑んだ。
「――ラヴファロウを探しに行く。何があったか、聞いておく必要があるからな」


 がらんとした廊下を歩きながら、そういえばティアたちはどこにいるだろうか、とぼんやりと考えた。
 適当な部屋で休んでいるか、あるいは――。
 たまたま通りがかったラヴファロウの執事にカーレンが声をかけると、彼の主人は思った通り、ティアたちを自分の部屋に引きずっていったらしい。
 ラヴファロウが居ると聞いた部屋の前に立った時、中からかすかに声が聞こえてきた。
「――そりゃカーレンが戸惑うわけだ」
 取っ手にかけた手を、思わず止めた。自分の事が話題になっているらしい。昨日の事か、と思いついたが、開けるかどうか、迷った。
「それだけで、あんな顔になる? 白くなるぐらいだったのよ」
 ティアの声が聞こえる。
「ねぇ、ラヴファロウ。北大陸で、セイラックって国が滅んだ事について……何か、知ってる? 炎塔が関係してるらしいけど」
 ひくりと手が動いた。面白いほど勝手に反応をしてくれた身体に眉を潜めつつ、カーレンはそれ以上に、ティアの口から滑り出た単語に顔をしかめた。
 彼女は、知らなくていい。知らない方が、幸せだとは思う。だが、いきなり扉を開けたりして、知る機会を失わせるような真似はできない。
 ティアを止める権利がないように、知る事を止める事は……自分に許されてはいないと思う。
 行き場をなくした手を、静かに軽く握り締め、しげしげと眺めた。
 立ち聞きしている事実に気付いてはいる。だが、戻る気にもなれない。
「知らない訳がないさ、俺とカーレンが出会う事になったきっかけだよ。……まさにその事件で、あいつは寵姫と引き離された上、深い傷を追って、この中央大陸まで逃げてきたんだからな。脱出する直前の事も覚えていないし、見つけた時には半狂乱だったしで、結局事情を聞けたのはそれから二週間も後になってからだった」
 カーレンはゆっくりと目を瞬かせた。
「じゃあ」
「ああ、そうだ。カーレンもセイラックが滅んだその日、その場に居合わせた一人だよ。炎塔に操られていたレダンを止めようとして……そして、炎塔の思惑にはまって死にかけたんだ。寵姫は一度は炎塔の手に落ちて……それから、どうなったのか誰も分からない。知ってるとすれば、その時のカーレンと、本人だけだろうさ」
 それきり、部屋の中から何の気配もしない。
 長い間カーレンは沈黙を保っていたが、やがて、長く息を吐き出した。肺の中の息を全て出し切ったと思った時、しばらくそのまま呼吸をせずに思いを巡らせる。
 記憶が、ないというよりは……思い出せるのに、それを自分で邪魔している、と言う方が正しいのかもしれない。
 いくら記憶を辿ろうとしても、邪魔をする。全身を巡る血が、魔力が、そして精神が、記憶を拒絶する。ロヴェに言われた通りだ。知っているくせに、知らないふりをしているのだから。
 自らが振りかざした刃が引き起こしたのは、寵姫であった少女にとっては、悲劇とも言うべき過去だ。それを思い出したくない……向き合いたくない。そんな理由は、自分勝手にすぎた。
 なのに、自分はまだ再会を望んでいるのだ。あれだけ傷つけて、全てを失わせてしまったというのに。
「……まだ、奪い足りないのか?」
 自分に向かって問いかけると、小さく溜息をついた。
 ひどい気分だったが、やはり、立ち去る気にならない。握った手を再び開いて、ノックもせずに部屋に入った。
 中にいたティアとセルが、ぎょっとした顔でこちらを見る。カーレンは特にそれに反応せず、ちらりとラヴファロウの持っているボトルに目をとめて、
「――もらうぞ」
「おう」
 短い会話の後に、それを取り上げた。
 直接口をつけて、残っていた半分のほとんどを飲み干すと、口の中は一気に甘ったるくなったが、疲労はいくぶんかそれで洗い落とされた気がした。
「カーレン、ひょっとして聞いてた?」
 セルの問いかけに、カーレンは黙って呆れた表情を向ける事で応えた。
 聞く事そのものが、何か聞かれたくない事を話していた証拠だろうに。子供でも分かりそうなものだ――そう思って、セルの視線に気付いた。
 どうなのか、と問いかけている。セイラックの事を知りたいのは、何もティアだけではなかったのだと気付いた。
 聞いている事は、知っていたとでも言いそうな顔だ。だが、知っているはずがない。
 ボトルから口を離すと、垂れ落ちた果汁を手の甲で拭い取り、カーレンは目をセルに向けた。
 鎌をかけたか、とわずかに口を歪める。いや……既に、かけられていたのか。扉の向こうに居るかどうかも分からない相手に向かって、挑発をした馬鹿が、少なくともここに一人。
 しらばっくれるつもりならやってみろ、という事だ。
「全く……いい度胸だ。なぁ、ラヴファロウ」
 ぼそりと呟くと、カーレンはぎろりと将軍を睨んだ。視界の端で、二人が身じろぎするのが見えた。
「おお、こわ。そんなに睨まなくてもいいだろうが。おまえは何年経ってもこの話題になると不機嫌になるな、おい」
 ラヴファロウは大げさに肩をすくめた。
「ったく。エリシア・メイジについて話してたんだよ。そうカリカリすんな」
「……どこでその情報を?」
 声がいつもより数段低くなったのは自覚していた。
「さぁな、間諜が優秀なんだろう」
 ラヴファロウはにやりと笑った。
「また私情か、とかはなしだぜ。盗み聞きした事でおあいこだ」
 神とやらに誓ってもいい。もしも魂だけが離れられたら、苦虫を千匹噛み潰しても足りないような顔が見れたはずだ。
 と、目の前に一枚の紙が差し出された。受け取って紙を見ると、ポウノクロスの舞踏会への招待状だった。国王の署名まで入っているが、宛名はラヴファロウだ。
「賓客専用の招待状だ。その下に、執事のほかに従者を一名までなら、連れて行ってもいい事になってるって書いてある」
 すぐに、カーレンには話が読めた。
「エリシアがこの舞踏会に出るという事か」
「ああ。この舞踏会はちょいと特殊でな。王都全体で誰でも自由に参加できる。王侯貴族ならびに、諸国の将軍や姫君、王子もやってくるってんで、警備はきつい。それだけ暗殺事件の起こる危険性が高いんだなぁ、これが。……ま、おまえが行かんと言うなら、同じくエリシアに興味のあるティアでも連れてこうかと思ったんだが」
「ちょっと、ラヴファロウ!?」
 ティアが悲鳴を上げたが、これにはカーレンも顔を引きつらせるしかなかった。
 ラヴファロウはハルオマンドだけでなく、他の国にとっても厄介な存在だと言える。もちろん守りは固めてあるだろうが、国の外で、しかも暗殺行為が日常茶飯事に行われる危険性があるというのに、のんびり構えていられるその精神力は賞賛に値するだろう。
 その彼の側に、自分の代わりにティアが行く? しかも暗殺の危険性が高いところで?
 一瞬、ティアが行かないと返事をする事も考えたが……それはありえないと、真剣そのものの目を見て断定した。
 無理だ、行かせられない。どの道これでは拒否権はないに等しかった。
 冷や汗を垂らしながら、カーレンはゆっくりと口角を上げた。
 本当に、この友人は。いい度胸をしている。
「……よりによって彼女と引き合いに出すか」
「舐めんなよ。これでも一国の騎士団と、将軍を勤め上げる身だぜ? これぐらいの事、考え付くのは寝ぼけてたってできる」
 ラヴファロウは笑った。一瞬、食いつぶしてやろうかという凶暴な考えが頭を過ぎったが、それをおくびにも出さずに表情を保った。
「で? 返事は?」
 カーレンは一瞬、ティアに視線を走らせた。黒い瞳の放つ光が、冷たくこちらを見据えている。
 この目を、自分は知っている。
「舞踏会には行こう。準備はおまえに任せた」
 ――目を逸らすと、ティアは顔を歪めて、俯いた。
「ああ、そうだ。セル、おまえに少し頼みがある」
「ん、何だい?」
 カーレンは口を開きかけて、一瞬だけためらった。
「――ティアは、絶対に舞踏会に来させないでくれ」
 信じていない訳ではないのだ。ただ、やりかねない。
 セルの隣に座っている少女は顔を伏せたままだ。ますます苛立ちを募らせているのが手に取るように分かり、カーレンは逃げるように部屋を出た。
 廊下を足早に歩いていると、足元からするりと、黒狼が現れた。
『マスター……』
 呼びかけには答えず、カーレンは無意識に歯を食いしばった。耳鳴りがする。
「くそっ――」
 珍しく己の主が毒づいた事に、ルティスが驚いて耳と尻尾をぴんと立てた。
『何かあったのですか?』
「いいや、なかった」
 苛立った口調で返した時、ぶつりと音を立てて唇が切れた。
 咥内に広がった血の味と鉄錆びの匂いに、ささくれ立った心の亀裂から、凶暴な獣が顔を覗かせているような気がした。気に入らないものがあれば、すぐにでも叩き潰してしまいそうだった。
 ティアの瞳が、何度も脳裏に浮かんで離れない。あの日少女が見せたものと同じ感情がこもった瞳が、未だ、カーレンが忘れられずにいる記憶を思い起こさせた。
 自分は、知っている。確かに覚えている。

 ――あれは、疑いと、敵意の目だ。
 


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