Dragon Eye

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第一篇 - 四章 『鐘よ、朝を告げよ』

-1- 踊りと祭りの国

「失礼します、ラヴファロウ様」
 軽くノックをする音が聞こえて、窓際に立っていたラヴファロウは外から部屋の中に目を移した。
 開かれたドアの前で、執事がポットとティーカップの載った盆を持って立っていた。
 執事は軽く一礼してから入ってくると、ドアを片手で静かに閉めた。それから、こちらに歩み寄ってきた。
「お茶をお持ちしました。それと……例の手配、完了したそうです」
「そうか。……ご苦労さん。金は指定の所から払ってやってくれ」
「承知いたしました」
 うん、と頷くと、ラヴファロウは再び外を見た。開け放たれたガラス窓の向こうからは、時々風に乗って軽快な音楽が流れてきている。
 が、部屋にある窓はこれだけではない。澄み切った朝の空気を切るように差し込む明るい日の光が、頭上や壁のステンドグラスを通して部屋の中に入りこみ、室内を温かい光で満たしていた。
 中央大陸、ポウノクロス国。ラヴファロウが居るのは、その国で賓客を迎える為、あらかじめ用意されていた屋敷だった。
 王宮から遠いという短所はあるものの、眺めはいい。草木の緑と鮮やかに塗られた色とりどりの屋根が、オリフィアの白亜の王都とは違い、個性があって楽しめた。普通これほど屋根の色がバラバラなら雑然とした感覚を覚えるはずだが、不思議とそんな感じはしない。
 離れた場所からは微かに道をゆく人々のざわめきが聞こえていたが、背後で執事が紅茶を淹れている音だけが心地よく響き、この部屋の中だけが穏やかな静けさを保っている。
「こねぇな……あいつ」
 執事が差し出した皿ごと受け取ると、ラヴファロウは紅い水面を覗きこみながら呟いた。
「あれから二週間、ですか。あちらもそう簡単に用事は片付かないでしょうね」
「まあなぁ……。分かっちゃあいるんだが」
 言うとラヴファロウは顔をしかめたまま、一口、丁度良い温度になっている茶を口に含んだ。舌に柔らかく触れる液体は僅かに甘く、そしてほろ苦かった。
「あと何日だったかな」
 執事は僅かに視線を巡らせ、考えるような顔をしてから答えた。
「今日を除いて、三日ですね」
「てことは……準備が一日から二日必要だと考えりゃ、今日中に北大陸を発ってないと――もちろん飛んでくれる事が前提で――間に合わないな」
「やはり、あの方が居られた方がよろしいので?」
「いや、別に居なくても不都合じゃない。普通だったらな。今までだってこっちには何度も来た。……けど、今回は別だ」
 ラヴファロウは溜息をついた。
「溜息など似つかわしくありませんよ、ラヴファロウ様」
「しょうがねぇだろ。そんな事言っといて、三日経ってその翌日、てめぇの主人がばっさりやられました……なんて事になっても知らんぞ、俺は」
「また。そんじょそこらの暗殺者にやられるほどではないでしょうに」
 執事は半分目を伏せて言ったが、ラヴファロウは鋭利なものを含んだ瞳で執事を射抜いた。
「いいや、まだ奴らがいる。おまえにあの四人の事を調べろと命じたのは俺だッて事を忘れるなよ、マリフラオ・ディノス」
 執事は肩をすくめた。
「その名前で呼ばないで下さいと何度も申し上げたはずです。どこから情報が漏れるか分からないのですから」
「あー、それな。聞こう聞こうと思ってたんだが、」
 ラヴファロウは頬を小刻みにひくつかせ、カップをソーサーの上に置いた。
「おまえ、何であんなチビデブの変装なんかしてんだ。酒屋の倉庫に陣取ってる諜報員なんざ聞いた事がない」
「まぁ、旦那様もいい顧客ですからねぇ。あれをしていると儲かるんですよ」
 ぴたりとラヴファロウは口をつぐみ、呆れて済まし顔の執事をねめつけた。表面こそ涼しい顔を崩さないものの、内心ではほくそ笑んでいるのだろう。
「…………」
「…………」
 やや沈黙が落ちて、最初にそれを破ったのはラヴファロウだった。
「おまえ……俺の友人からも金取ってたのか」
「情報料ですよ。前に幾らか貰っていたので割引もかねて」
 ちゃっかりと答えたマリフラオに、ラヴファロウは紅茶を零さない程度に、小さく肩を落とした。
「副職なんて許した覚えはねぇぞ……」
 しかもその内容が情報屋である。もともとがラヴファロウも頼りにしている諜報員なだけに余計に性質が悪かった。今度帰ったら別の人間にしようか、と半分本気で人事について考えてみたが、やはり彼ほど諜報能力に長けた人間もそうそういる訳がない。
「オリフィアにはまともな人間はいねぇのかよ……ったく、敵国ながらハルオマンドが羨ましいぜ。こっちなんか、そんじょそこらの高位の貴族よりも、下手すると平民上がりの騎士の方が真面目にやってくれてんだもんなぁ」
「おまけに旦那様、っと、分かりましたよ、そんなに睨まないで下さい――カーレン様も働かせてしまっていますしねぇ。あ、今回もそうでしたか」
「そこ、一言多い」
 ったく、と舌打ちをして、ラヴファロウは中身を飲み終えたカップを、皿ごとマリフラオに突きつけた。それを丁寧に受け取ってから、執事は首を傾げた。
「もう一杯いかがです?」
 ラヴファロウはしかめっ面で執事を睨んだが、
「…………いる」
 はい、と執事は笑んだ。
「素直でよろしい」
「……おまえは俺の保護者か?」
 この他、上から目線は主人に対してどうなのかや、その温かい笑みは一体どういう意味かなど、聞きたい事は山ほどある。複雑な心境から僅かに口の端をひくつかせたが、ラヴファロウは頭を振って思考を切り替えた。
「ふざけるのはこの辺でやめにしようぜ、マリフラオ。今回報告に来たのは、手配の話じゃなくて、そっちの方が本題だろ」
「……そちら、ですか。ああ、そうですね。確かに」
 マリフラオもまた、顔を単に涼しげなだけのものから、主人に忠実な僕のそれである、どこか硬質な冷たさを含むものへと変えた。
 ラヴファロウはそれを確認して目を細めると、ゆっくりとした足取りでそれほど離れていない場所の椅子に歩み寄り、そこに腰を落ち着けた。
 ――落ち着けて、ふと、思った。上質な布地と木の色艶、こんな椅子一つをとっても最初は戸惑ってばかりいたというのに、今ではすっかり慣れてしまっている。こうして貴族を演じる事にも、いつしか違和感がなくなっていた。
「俺も変わったなぁ……」
「ラヴファロウ様?」
「ああ……悪い。ちょっとな」
 小さく苦い微笑を浮かべて、ラヴファロウは友の姿を思い描きながら呟いた。
「で、王宮舞踏会に炎塔のエリシア・メイジが出るってのは、本当のところどうなんだ?」
「確定情報で、間違いないかと。私も確認いたしましたが、塔側がわざと情報を掴ませた可能性が考えられます」
 ラヴファロウは鼻から深く息を吐き、嘆息した。
「だろうと思ったよ。……ったく。ようやく炎塔の黒幕がハルオマンドのルーベム・ラーニシェスだって目星はついたのに、肝心の証拠が何一つない。今回だって、どうせエリシア・メイジの実力については分かってないだろ」
「いえ、それが」
「あ?」
「……ドラゴンアイを持っているとの情報が」
 驚きのあまりに、思わず腰を浮かしかけた。
「誰の……いや、どのドラゴンが与えたものだ?」
 分かりません、と執事は首を横に振った。
 ラヴファロウは緊張で強張った身体から力を抜き、顔を力なく歪めた。
「今回……カーレンには来るか来ないか、選ぶ事ができるように王には願い出たつもりだ。けど――あーっ、くそ!」
 マリフラオが眉を潜めるのにも構わずにひとしきり毒づくと、ラヴファロウは乱暴に纏めた黒髪をかき上げた。
 エリシア・メイジが、ポウノクロス国の舞踏会に出席するとなれば――、これは、厄介だ。
「こうなると、逆にカーレンには来てほしくねぇな……」
 げっそりとしてラヴファロウは呟いた。
「もし来たら?」
「こっちが何を言おうが、聞く耳持たねぇだろ。もう七年だ。あいつも、オリフィアを発ってからずっと探してたんだろうな――エリシアを」
 マリフラオはおや、と片眉を上げた。
「確か、かのエリシア・メイジはカーレン様の寵姫だとお聞きしていますが」
「ま、詳しくは聞いちゃいないが。寵姫ってのは、たぶん形式的な称号だろ。正式な血の契約を交わしてたら、向こう側は七年前、カーレンの居場所がオリフィアだともっと早く察知できたはずだからな」
 そうでなければ、三年も隠れられなどはしなかっただろう。思って、ラヴファロウは眉を潜めた。
 瀕死。ベッドに伏せ、重い傷による激痛と発熱に苦しむカーレンの姿はまさにそれだった。人間の状態なので少し衰えてはいただろうが、それでもドラゴンの強靭な生命力がなかったら、危なかったのではないかと思う。
 命を賭けてまで、彼が救うに値すると判断した少女。差し伸べたその手が拒絶される瞬間を、それでも平静を保とうとするのを、見たくないのが本音だった。その痛みと想いを、理解できてしまう。
 分かっている。カーレンは自分の選んだ事に傷つきはしても、後悔はしないはずだ。
 彼を見ていて傷つきたくない。それは自分本位の考えで、単なる自分の我侭だ。
 分かっているつもりだった。
「……ティア・フレイス」
 つい先日、カーレンが引き連れてきた少女の名を、ラヴファロウは口にした。
「そして、エリシア・メイジ、か。どっちが本物なんだろうな」
「さぁ――こればかりは、カーレン様と本人にしか分からないでしょう」
 どちらも、ドラゴンアイをその瞳に宿している。ドラゴンの寵を受ける――言い換えれば、ある種のパートナーになる――資格を持つ者という事だ。
 けれども、どちらか一人しか、カーレンの寵姫では在り得ない。ドラゴンアイを与える事ができるのは、たった一人だからだ。最悪、彼がドラゴンアイを与えていなかったという事も考えられるが。どうも、与えたのかどうかが曖昧だ。あまり自覚がないようだが、記憶をいくらか失っている傾向が見られるためだ。
 考えるだけで頭が痛い。
「ま、いいさ。あいつはどの道止められないだろうからな」
 ラヴファロウは嘆息し、マリフラオを見た。
「ああ、そうだ。カーレンが下手して魔力の制御ができなくなったら厄介だからな。安定剤、また作っといてくれ」
「ですが、材料からしても、あれは劇薬になるかと」
「ま、薬程度には負けやしないだろ。大体、あいつの魔力自体、ルティスを使い魔にしておくために使ってるとか思われがちだけどな。ありゃ、実際にはもう少し違うと思うぜ」
 何の気もなくラヴファロウは頷いて、声を潜めた。
「どうも、ルティス辺りが原因を知ってそうな気はするんだが。心配で気が気じゃないんだよ、俺も」
「はぁ」
「……おまえ、ひょっとして俺の話まともに聞いてなかったのか?」
「いえ、聞いていましたよ?」
 マリフラオは飲み終えた紅茶のカップを片付け、
「では、引き続き炎塔の調査をして参ります」
「頼んだ」
 一礼して部屋を出かけて、ふと振り向いた。
「そういえば……もしも魔力を使い魔に使っていないのなら、どうして魔力の器がそれほどまでに小さいのでしょう?」
「……、」
 ラヴファロウは黙って、組んだ手の上に顎を乗せた。
「さぁ。あいつは生まれつきだとか言ってたけどな。実際は、何かあったんじゃないか。そう俺は思ってる」


 ――そして、翌朝、カーレンはラヴファロウの元にやってきた。
 ただ、一人では、なかったが。
 何か思い悩むような顔をしている一同を眺め、レダンの姿を見つけて驚き、妙に殺気だったカーレンに、ラヴファロウは首を傾げた。

□■□■□

 ぴりぴりしている。とにかくその一言に尽きた。
 ポウノクロス国まで一晩かけ、休みもせずに飛んだせいだろう。流石に二人とも疲れたのか、ラヴファロウとおざなりに再会の挨拶を済ませたかと思うと、カーレンはティアたちに一言もかけずに、レダンもまた表情もなくふらふらと屋敷の奥へと消えていった。
 ドラゴンたちが通り抜けて行った豪華絢爛な廊下の向こうからは、それから何の音もなく。ただ、不気味な静けさだけがそこにあった。
「…………ティアちゃん。あれ、ちょっとまずかったんじゃない?」
 彼らの消えた角を横目にちらりと見ながら、セルがほとんど囁くように言った。向き直った時に、こつん、とブーツの下から硬い音がして、広い廊下に響き渡った。おそらく床が大理石でできていたからだろう。廊下、というよりはこれはもう通路と言っていいのかもしれない。早朝という事もあり、まだ日が昇っていない廊下に点々と燭台が置かれて、明かりが灯されていた。
 呆れるほど高い装飾だらけの天井を見上げ――アラフルの屋敷もこれほど高くはなかった気がする――、ティアはだって、と呟いた。
「だって、私もあんな反応されるなんて思ってもみなかったもの」
 同じく囁き返すと、カーレンの顔を思い出して、ティアは顔をしかめた。
 血の気の失せた――死人の顔というべきか。蒼白どころか、ほとんどが白に近い顔をしていた彼は、昨日から必要な事以外に対しては口を開かない。いや――違う。セルやレダンの何気ない言葉にも受け答えを返していた。ティアとだけ、一言も喋っていない。レダンもこの状況に何かしらの負い目でも感じているのか、口数が一気に減っている。
「私が何をしたっていうのよ。ちょっと記憶がないって言っただけじゃない」
「ううん……七年前、っていうのが既に鬼門だったというか」
 穏やかになだめる兄に背を向け、ティアは唇を真っ直ぐに引き結んだ。
「そんなの、私が知る訳ないじゃないの。どうせ、セル兄さんとレダンと、カーレンしか知らないんでしょ」
「まさか。僕が知る訳ないじゃないか。僕がリスコに連れてこられたのは、君が現れるよりも二年も前なんだよ?」
 ティアは思わず振り向くと、唖然として兄を見た。しまったという色がありありと目に浮かんでいる。これ以上喋ったら全部口から滑り出てしまうとでも言いたそうな顔で、両手でぴったりと口を覆っていた。
「連れてこられた?」
 そんな事実、今まで一度も聞かせてはくれなかった。驚きのあまり、ティアは素っ頓狂な声を上げた。セルを凝視して、おずおずと聞く。
「じ、自分で来たんじゃなかったの?」
「……良く分からないけど、たぶん」
「たぶんって……」
 セルはあれこれ迷うように視線を彷徨わせると、いきなりティアが怒りを爆発させないかと恐れているのか、ちらりとこちらを見た。灯りが兄の顔に濃い陰影を落として、不安そうな色をより際立たせていた。
「どうしても話さなきゃいけないかな?」
「どうしてもって訳じゃあないけど……、どうして兄さんに限らず、みんなはいっつもいっつも私の知らないところで全部終わらせて来ちゃうのよ!」
「それはたぶん、聞いてても見てても結構こたえる話だからだと――わっ!?」
 お互いの額がぶつかりそうなほど詰め寄ると、セルは慌てた様子でティアを制止しようと、両手を肩の高さにまで上げた。
「ちょ、待って待って! それ以上近寄られたら僕が後ろに――うわぁっ!?」
「きゃあっ!?」
 言い終える前にセルが後ろに倒れた。咄嗟に彼が何かに捕まろうと伸ばした手が、ティアの左腕の袖を掴んだため、ティアは引っ張られてぐるんと身体ごと視界が回った。ウィルテナトから出た時の事を思い出したが――それもほんの一瞬の事。身体に受けた強い衝撃と痛みのせいで全てがいっぺんに吹き飛び、どたっ、と重くて柔らかいものが落ちる音がしたかと思うと、それきり廊下は静まり返った。
「「…………」」
 兄妹そろって仰向けに重なり、床に倒れこんだまま、しばらくそこできょとんと頭上を見つめていた。見つめられた方も、途方に暮れたような顔で見つめ返していた。
「あー……やぁ。一ヶ月ぶりだよね?」
「半月よ、兄さん。ところで、ラヴファロウはそんなところでどうしたの?」
 訊かれて、ラヴファロウは溜息を着いた。疲労の色が微妙に滲んでいる様子が、何とも痛々しい。
「……おまえら、そこで一体何やってるんだ?」
「あはは……ちょっといろいろ」
 セルがティアの下で乾いた笑いを漏らした。
「兄さんがリスコに来た時の事を話してたのよ」
「……リスコに?」
 ティアが何とか起き上がりながら言うと、ラヴファロウは興味を示したようだった。何か考えるような顔で、じっとティアを見つめてくる。
「何?」
「ん、ああ……。なぁ、ティア。ちょっと野暮な事を訊くんだが、おまえ、リスコで孤児の暮らしを始めたのはいつだ? できれば、季節も言ってくれれば助かる」
「そう言われると、何ともいえないけど……確か、七年前の秋だったかしら。もうすぐ冬になるかならないかって頃だけど。それがどうかした?」
 ティアは眉尻を少し下げた。
「七年……! やっぱりそうか。時期的にもあってる」
 ラヴファロウは僅かに険しい表情を浮かべ、小さく顎を上げた。
「あの、どういう意味なんだい?」
 セルが困惑気味に尋ねると、ラヴファロウははっとした顔でティアとセルを見比べてから、廊下を見回し、誰もいない事を確かめた。
 それから、何故か真剣な顔で大股に近寄ってきたために、ティアはぎょっとした。騎士団をまとめる立場で、将軍という地位もあるだけに、真剣となると迫力だけは人一倍にあるようだ。気圧されて後ずさるが、そこでがっちりと腕を掴まれた。
「よし。おまえら、ちょっと部屋に来い。何か飲みながら話そう」
 顔に浮かべた笑いに、限りなく嘘くさい感じがした。
 返事をする間もなく、ティアとセルはラヴファロウに引きずられるように歩き出す。
「え? ちょ、ちょっと、ラヴファロウ?」
「どういうつもり――」
「おまえら、ちょっと黙っててくれ。カーレンに聞かれたら厄介だ」
 むぐっと、廊下に空しく声が木霊した。


 部屋に連れてこられると、口を塞がれて散々唸っていたティアとセルは、ようやくラヴファロウの腕から解放された。外見はかなりすらりとした体格のくせに、見かけによらず力は強いらしい。痛む腕をさすりながらティアがラヴファロウを軽く睨むと、彼は肩をすくめて見せた。
「そう怒るな。ちょっと気になる事があるんだよ――まぁ、とにかくそこら辺に座れ。今なんか探してくる……お、あったあった。ちょっと埃っぽいけど大丈夫だろ。ほれ」
 ぽいぽいと二つ、放り投げられたのがやけに高級そうなグラスだったのに気付いて、ソファに座りかけていたティアとセルは、慌ててグラスを受け取った。
「ほれって……普通グラスなんか投げないよ!?」
「細かいことにこだわんなって。どうせ俺は成り上がりで平民暮らしの方が長いし、貴族のしきたりなんかは付き合い程度であんまり重視してねぇしな」
「だったら貴方は絶対、金銭感覚の方が狂ってきてるんだよ。割ったら大変じゃないか!」
 セルは相当に胆を冷やしたのか、信じられないという目でラヴファロウを見ながら言った。
「いや、それ安物だから」
「安物って……元々貴族だから分かるけど、これ一つで平民なら、普通の生活を三ヶ月ぐらい続けられるよ。金貨一枚ぐらいはしたでしょ、絶対」
「だろうな。ま、そんなのでスティルド家は微塵も揺るぎやしねぇよ。昔は没落寸前、今は実力で成り上がりの大貴族だ。心配すんな、この屋敷には腐るほどあるから。一、二個割ったところでばれやしねぇ」
「そういう問題じゃあないと思うんだけど……というかここはポウノクロスのはずだよね?」
 という事は、このグラスもポウノクロスのものだ。受け止める事ができて良かったとティアは心の底から思った。
 ラヴファロウは机の上に無造作に何本か置いてあったボトルの一本を手に取ると、こちらにやってきた。
「一応聞いておくけれど、お酒じゃないよね?」
「ただの果物を搾っただけのもんだ。……大抵二日酔いになってから飲むやつだけどな」
「そんなに飲むの?」
 ティアがきょとんとして訊いた。まさか、この将軍が酔いつぶれるほど酒を飲むような人間には見えない。
 ラヴファロウは鼻で嘆息して、白みかけた窓の外を見やった。
「心配事が多いんだよ、俺も。将軍なんかの立場は責任が重過ぎてな、たまには酒を浴びたくもなる」
「責任があるってのは自覚していたんだ?」
 セルが茶化したが、ラヴファロウにとっては心外な事を言われたらしい。ティアのグラスに澄んだ赤紫色の液体を注ぎながら、目を細めてセルを一瞬だけ睨んだ。
「ああ、そうだよ。……っと、そう、その心配な事で、おまえらに来てもらったんだ」
「心配な事? 何が?」
 すぐに答える事はせず、彼はセルのグラスにも並々と果汁を注ぐと、ごつりと重い音を立ててテーブルに置いた。
「――カーレンだ」
 たった一言で、簡潔にラヴファロウは話の核心を持ち出した。
「三日後、俺は国の付き合いって事もあって、ポウノクロス国主催の舞踏会に出席する事になってんだよ」
 ティアは一口、果汁を口にした。甘酸っぱい香りが口の中一杯に広がる。風味からして、葡萄をそのまま搾ったもののようだった。何度も布でこしてあるのか、口当たりは滑らかで、つるりと喉を滑り落ちていく。
 よく分からないが、かなりの高級品には違いない。あまり舌が肥えて贅沢になってはいけないと思いながら、ティアは聞き返した。
「……それとカーレンとどういう関係があるの?」
「慌てるな。今から説明する。ハルオマンドからの出席者の中に、エリシア・メイジという少女がいる」
「え? エリシア・メイジ?」
 セルが隣で驚いた声を上げた。まるきり偽名なのでは、とティアは眉を潜めた。
 エリシア・メイジ。エレッシア山に住むという妖精の名前――そして、滅びつつあるパヤックの民をドラゴン達が呼ぶ時の通称。
「彼女は、カーレンのかつての寵姫――ま、言い換えれば一種のパートナーみたいなもんだ――だった可能性が高い人物だ。これだけなら、まだ嬉しい再会……ってなるはずだったんだがな」
 ラヴファロウは重い口調で言った。
「問題は、エリシアが炎塔の一員である事なんだよ。炎塔については、カーレンから聞いているか?」
「ええ、少し……ドラゴンを滅ぼそうとしているって」
「まぁ、その言い方が妥当か。無謀な奴らだとは思うが、実際に一つ、奴らのおかげでドラゴンの住処が潰れてるな。カーレンもそいつらに長い事追われてる」
 ティアとセルはぎこちなく目を逸らした。
 彼には、そのドラゴン達を滅ぼしたのがレダンだという事は、あまり知られたくない真実だ。
「その途中で出会ったのが、さっきも言った彼女だった。だが見ての通り、カーレンの傍らにそんな少女はいねぇだろ。七年前、炎塔が本格的にカーレンを狩ろうとした事があって、その時以来まるで行方が知れなかった……それが、おまえらがオリフィアを出て行ってから、つい数日前までの状況だ」
 ラヴファロウに気付かれないように、ティアは極力、顔が強張るのを抑えた。一瞬、ちらりとカーレンの蒼白な顔が蘇る。あれは、まるで。
「罪人の顔」
 ぽつりと表情なく呟いたティアの言葉に、ラヴファロウは渋い顔をした。
「……ひょっとして、その話も聞いているのか?」
 ティアは首を振った。セルに目を合わせ、首を傾げる。
「話すべきだと、思う?」
「さぁ。僕が決める事じゃないよ。けれど、話した方が良いのかもしれないね」
 言われて、膝の間に視線を落とした。しばらくそうして迷っていたが、ティアはやがて顔を上げた。
「ラヴファロウ。私も、七年前にちょっと問題を抱えてて……その、だから、どうしてカーレンがその時の事にあんなに敏感に反応してるのか分からないの」
「その時っていうよりかは、経過した時間って事か。具体的にどんな話だ?」
 ティアは喉の奥に苦い味のする唾を押し込んだ。短い間に、これほど何度も自分の記憶について話をするのは何年ぶりだったろう。ところどころつっかえながら説明していく内、幼い頃に周りの人間が見せた反応を思い出して、気が落ち込んだ。
 可哀想に。きっと怖い目に合ったんだろう、と。何人もの人間が同じ事を言っては、自分の前から去っていった。だが、自分が欲しかったのはそんな同情の言葉ではなかったように思う。
 ――そっか。じゃあ、これからどうする?
 そう言って手を差し伸べてきた一人の少年の言葉の方が、ティアにはよほど重みがあって、記憶がなくても、すがっている事のできるものに思えた。
 その頃の事を思い出しながら話していく内、リスコに残してきた弟や妹たちの事が気になった。
 あれから、どうしているだろう。
 何とかして、様子を確かめられればいいのに。
 ラヴファロウは真剣な顔で膝に頬杖をつきながら話を聞いていたが、やがてその手を、膝の間に落としていたもう片方の手と組み合わせて、こちら側に身を乗り出した。
「カーレンがこの前オリフィアに来て以来、どうにも気になっていて仕方なかったんだがな。これで何とか、条件が揃ったってとこか」
「どういう、事?」
「あのな、今までの話を思い出しても分からないか?」
 ラヴファロウはやや呆れたようだったが、それよりも、ティアに何かに気付いて欲しそうだった。
「おまえにも寵姫である可能性が出てきてるんだよ、ティア・フレイス。カーレンもその事は考えていたんじゃねぇか? ……口では色々ぼやいていたけどな」
「え?」
 ティアが唖然としてラヴファロウを見ると、彼は興味深いものを目にしたような顔で、じっとティアを見つめていた。


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