Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-15- 新たなる追跡者

「――ふむ。これで足跡も消えたか……見事に行方が分からんな」
「……そうですね、アラフル様」
 全快して、来てみたらこれか。エルニスは内心で乾いた笑いを浮かべる。肌を刺すような冷気も、気にする余裕すらない。
 呆然と立ち尽くすエルニスの横で、アラフルが呑気にも冒頭の言葉を呟いた。同意はしてみたが、たぶん独り言だったのだろう。
 山の天気は言わずもがな、今朝まであれほどからりと晴れていたのに、窓の外は猛然と吹雪いている。開け放たれた窓からは寒風と共に雪が吹き込み、部屋の中を水浸しにしていた。……ところどころ凍っているところを見るに、火が消えてからかなり時間が経っているらしい。
 部屋の主が居るはずの場所に目をやると、毛布がそれを被っていた人物によって憎たらしいほどきっちりと畳まれ、ベッドの上にちんまりと置かれていた。
「…………」
 エルニスは無言のままつかつかとそこに近寄り、ベッドが嫌な音を立てて軋むほどの勢いで、凍りついたそれに拳を沈ませた。
「……まぁ、とりあえず落ち着け」
 憤怒に震える肩に、アラフルが宥めるように手を置いた。その口元が心なしか奇妙に引きつっているのは、おそらくエルニスの怒髪天の突き具合が半端なものではなかったからだろう。
「落ち着く?」
 唇から囁きが漏れ、アラフルの手がぎくりと強張った。
「これが落ち着いていられますか? 次期長がどこに行ったのかまるで分からないのに……? あの馬鹿が自分の状況をまるで理解していなかったのに落ち着いていられる……? 大丈夫だって……」
 すぅ、と息を吸う。
「本気でそう思ってるんなら馬鹿ですよ貴方はっ!?」
「…………おまえも段々ラジクに似てきたな」
 気圧されながらも、アラフルは感慨に満ちた感想を述べた。
「父はカーレンが貴方に似てきたとも言っていましたが。特に"無茶苦茶をやるところ"が」
 皮肉たっぷりの台詞をお返しすると、アラフルは心なしか少し落ち込んだようだった。リエラに慰めてもらってくる、と引き返しかけたその首根っこを引っ掴むと、エルニスは俯いた。
「……アラフル様。ほんの少しでいいんです、しばらくお待ち下さい」
 伏せて隠している顔に、しわ一つ無く丁寧に、にっこりと笑みを貼り付ける。目もしっかり笑っているだろう。それでも怒りと悪意に満ち満ちた心は、かろうじて額の青筋に浮き出る事を許された。

「あの馬鹿、どこに行きました? 知っていますよね」

 面を上げると、アラフルの恐怖に引きつった顔が見えた。
「知っていますよね?」
 再度、問う。逃がさないと、がっちり捕らえた手首と胸倉が、どんな口よりも雄弁に物語っていた。
「…………エルニス。やっぱりおまえ、父親に似ただろう?」
 ぽつりとウィルテナトの悪なる赤はそう告げて、
「そりゃどうも。父に貴方の締め上げ方は教わったので――で、カーレンの居場所は? 今どこにいるのか……」
 まだ二つ名も持たない翡翠のドラゴンは、父親も顔負けの気迫でかつての長に迫った。
「教えてくれますよね? アラフル様」


「…………で?」
 話を聞いて、彼女が最初にあげた第一声がそれだった。
「ああ。うまいこと聞き出せた……聞き出せたんだが、かなり遠い。あの馬鹿、どこまで行く気だ」
 エルニスが毒づくと、朝食代わりの干し肉を口の端に咥えたまま、ベルが溜息をついた。付き合っていられないといった顔だったが、それでもここに留まっていてくれているのは、長い付き合いの賜物だろう。
「俺は、アラフル様の言う通りだと思う……。落ち着けよ、エルニス。今はあいつ……っと、長が、一番強いんだ。彼のやる事に俺たちは、口出しはできないさ」
 噛んで含ませるように、背後で別の方向を見ているフォルが言った。カーレンが里から頻繁にいなくなる事が多い為に、今では当番制で見張りが成り立っているのだが、今日はフォルがそうだった。エルニスとベルが登ってきた時に少し肩をすくめたぐらいで特に咎められもしなかったのは、エルニスがここに来て話す事が特に珍しい事でもなかったためだ。
「そういやおまえ、ちょっと前にカーレンにぶっ飛ばされただろ。宴にも出てたらしいけど、もういいのか」
「……別に。こっぴどくやられた気もしたけれど、俺もジェーンも、オーティスも、身体はそんなに痛くないんだ。……俺、長の事を侮ってたよ。おまえとの戦いを見て、ちょっと目が覚めた」
 フォルは、青紫の静かな瞳をエルニスに向けた。
「カーレンは、長に一番向いてない。けど、一番長に向いてる」
「何だ、それ」
「少なくとも、俺はそう思う、という事」
 エルニスは呆れて、フォルから視線を外し、前へと戻した。
 本来なら魔物が入ってこないかどうかを見張るための場所なのだが、そのために見晴らしは良好で、今日は特に絶景と言えるほど良く晴れていた。はるか彼方まで黒々と続く山並みを、立ち上がってエルニスは見渡していた。隣でちゃっかり腰かけているベルは殺風景だとしか感じなかったのか、つまらなさそうな目で眺めた。
「だからね。カーレンも……あいつも単に天邪鬼な訳じゃないと思うわよ。仕方ないと言えば仕方ないんじゃないの?」
「それでもあいつの放浪癖は異常だよ」
 苛立ち紛れにエルニスは雪を蹴り上げた。
「おまえもそう思うだろ、ベル」
「……ん〜、」
 振り向くと、ベルはしばらく干し肉をぷらぷらと唇で上下させて弄んでいたが、やがて飽きたのか、指先で摘んで口から離した。

「異常かどうかはともかくとしてね。放浪癖は、もう治ってると思うのよ、私」

 エルニスは信じられないと目を剥いてベルを凝視した。
「本気で言ってるんだろうな」
「ええ、間違いなく本気よ。それとも、信じられない?」
 フォルが、ゆっくり振り向いた。
「少なくとも、俺は信じる」
「ありがと、フォル。で、あんたは?」
「……根拠を教えてくれ」
 ベルは軽く苦笑した。
「気付いたのはこの間の宴の時だったけれどね。あてどもなくぶらぶらして、たまにふらりと戻ってくる事ばっかりだったでしょ。……それで、エルニスからカーレンへ目を合わせた時、あれって思ったのよ」
 ふっと浮かべた笑みを見て、エルニスは軽く息を呑んだ。ふわりとした雰囲気が、ひどくリエラのように落ち着いて見えたためだ。
 そんなエルニスの様子には気づかずに、ベルは続けた。
「目が違った。本当に放浪していた頃はぼうっと夢見がちな目をしていたのに、今じゃしっかりと芯が入って、目の光だってあんなに鋭いのはついぞ見たことがなかったわよ。別人を見てるみたいだったわ。何が変わったのか、私には分かる気がする」
「あの子たち、だよ」
「もしくは、それよりもっと前。アラフル様も、カーレンが変わったのを感じて長を辞めたのよ」
 ベルは頷いた。
「だから、理由も無く出て行ったんじゃないわ。あんたもそれが分かってるから行くんでしょ? ――中央、ポウノクロスへ」
 エルニスが黙ったままでいると、フォルが口を開いた。
「ベルは、ポウノクロスに行った事があるんだろ」
「ええ、何度かね」
 楽しそうに言うと、ベルは雲が過ぎ去り、晴れた空を仰いだ。弱々しくもほのぼのと温かい太陽の日差しが彼女によって遮られ、雪の上に青い染みを落としている。
「……良い国よ、ポウノクロスは。華やかで、特に舞踏会が素敵。特徴的なのはね……貴族だけじゃなくて、平民までもが同じ日に都で踊っちゃうって所かしら。とにかく愉快で、お祭り好きな国なのよ」
「それは知ってる。だがカーレンに手紙が来たのはオリフィアからだろ。どうしてポウノクロスなんだ」
「だって、太陽が東へ帰っていったらおかしいじゃない?」
「訳が分からな――待て」
 エルニスはぴたりと言葉を止めた。唖然としてベルを見ると、彼女はにや、と不敵な笑い方をした。
「そういう事よ。カーレンは太陽のような炎を追いかけている。しかも、触れれば骨まで焼かれそうなほど危険な火」
 それから、ふと真顔になった。
「その火の粉が、近いうちに私たちに降りかかるかもしれないとしたら? ほうら、あいつの目的が見えてきた」
 沈黙が三人の間に落ちた。気まずいものではなく、謎が氷解した時の心地よさがエルニスを包んでいた。
「だとしたら、まずいんじゃないか。だって、普通それは長のやる事じゃ……」
「ないわよ、明らかにね。心臓が身体から飛び出て一人歩きなんて、特に最悪」
「…………追いかける、べきか?」
 フォルが最後に首をかしげ、そしてエルニスの心は決まった。
「当たり前だろ、馬鹿!」
「おぉっ」
 怒鳴りつけると驚いたのか、(棒読みながらも)声を上げ、フォルが少し目を見開いて後ろへすっ転んだ。
「――決まりね。長の捜索は私とあんたの二人で行きましょう。フォルはオーティスとジェーンに謝っておいて」
「見張り番、明日も俺たちがやるのか? 魔物だって、エルニスがいないだけでも苦労するんだぞ」
 フォルが情けなさそうに眉を下げた。
 その時はその時よ、とベルが返して、エルニスに向き直った。
「道中の事は私に任せて。こう見えても、カーレンと同じくらい旅慣れてるのよ」
「……任せっぱなしってのもな」
「そう言うけれど、賊とかに襲われた時はあんたが私を護るのよ? 持ちつ持たれつよ」
 おまえは十分強いだろうが、とぼやくと、無言でエルニスは足を踏まれた。
 女を護るのが男の役目でしょうが、と目でねめつけてくるベルから目を逸らす。小さい頃から彼女の隠れた凶暴さは知っているのだ。そして、いつも威勢がいいくせにいざと言う時はやけに臆病だという事も思い出し、エルニスは溜息をついた。
 ――全く。本気なんだか、ふざけているのだか。
「じゃ、準備してくるわ。そこで動かずに待ってるのよ。フォルと一緒に見張り番でもしてれば、そんなに暇じゃないでしょ。言っておくけれど、さぼったら承知しないから」
「無茶苦茶だな」
「慣れなさい。さもないと、この先カーレンの右腕は務まらないわよ」
 エルニスは軽く目を見開いた。
「おい、俺がか?」
「あんた以外に誰か適任がいるの?」
 鮮やかに笑う彼女を見て、エルニスは呼吸を一瞬止めた。かと思うと、ベルは見張り台から雪道を下って降りていった。
 その姿を見送ると、エルニスははぁ、と大きく息を吐いた。山の上に吹く強い風に、短いくせのある髪が遊ばれるのも気にせず、途方に暮れて宙を仰ぐ。
「……エルニス」
 フォルに呼びかけられ、エルニスは振り向いた。
「ん?」
「いや。苦労人だな」
「まぁ、な」
「……"炎の恵みよ"」
 肩をすくめると、フォルは足元に置いていた皮袋に向かって加熱の魔術を呟き、こぽこぽと何かを木のジョッキに注いだ。ん、とエルニスへ差し出されたジョッキの中を覗き込むと、温めた乳牛の乳だった。人里に降りない限り滅多に手に入らないし、高級ものなのだが、どうも宴の時に使った残りを拝借したらしい。
「へぇ……気が利くな」
 小さく笑い、礼を言って受け取ると、一口を口に含んだ。じんわりと伝わってくる温もりにほっとしていると、丸まったフォルの背中から唐突に声がかかった。
「エルニス。おまえ、実はあいつの事、好きなんじゃないか?」
 牛乳を口にして気分がいくらか緩んでいたエルニスは、軽く首を傾げてやった。
「誰を?」
 例えば、ベルだろうか。彼女に対しては決してそんな……いや、在り得る。先ほど笑みに見とれたのはどこの誰だ。もしかしたらと気付いて、エルニスは嫌な可能性だと内心で毒づいた。
 フォルは少し考えるような顔をした。言っていいのかどうか迷った顔だ。エルニスはその間にもう一口、ジョッキに口をつけた。
 どうもそれがいけなかったらしい。
「いや……だから、カーレンの事」
 予想どころか、全く想定外の答えが返ってきた。
「ぐ」
 危うくむせるところだったが、それを押さえると、エルニスはそのまま混乱と共に牛乳を一気に飲み干した。
「――っぶは、」
 思わぬ爆弾発言に、顔に血の気が上って、音がしそうな程の速さでまた引いていった。喉が火傷しそうなほど火照っている。
「……おまえ、いきなり何を言い出すんだよ!?」
 藪から棒に何なのか。息を落ち着け、ようやくそれだけを口にした。
 が、
「……分かりやすいな」
 必死の反論をフォルは一言で切り捨て、エルニスは固まった。振り向いて合わせた目は、半分伏せられている。
「嫌いだ、とか言ってたからさ。そりゃ、嫌いになるよな。友達の為に目上の奴まで殴ったのに、あんな反応されて、嫌な態度とられたら。でも、だから悲しかっただけだ。違うか?」
 フォルは薄く笑みを浮かべた。
「本当は、手伝いに行きたくてたまらないくせに。いつまでも、理由なんか作らなくてもいいのにさ」
 そう言ってから、フォルは首を傾げた。
「なぁ。今日、実は俺、見張りの番じゃあなかったんだ。じゃあ何で、こんな所にいると思う?」
 エルニスに向かって、にっと笑いながらフォルは腕を上げて見せた。
「これ、今の長が落としたのを見たからだよ」
 手の先から小さな銀の板が零れ落ち、ちらちらと光を反射して輝いた。
「あ、あの馬鹿」
 思わず声をあげ、エルニスは舌打ちをした。
「ユイのヴィランジェ、忘れていきやがった」
「彼女、予知とか、悪い事を未然に防ぐ素質があったからな。うまく作れたんだって、喜んでたっけ」
 言って、フォルは寂しげに目を細めた。
「もう少し、彼女が大きくて、才能も育ってれば――苦しまずに済んだのかな」
 予知ができていれば、という事を言いたいのだろう。エルニスはヴィランジェを受け取ると、それに静かに目を落としたが、小さく首を振った。
「……いや。あいつはもっと前から、苦しんでたよ」
 フォルが目を瞬かせたが、エルニスは多くを語らずに、手に乗せたそれを握り締めた。
「これだけじゃまだ終わってない。だからあいつ、出て行ったのかもしれないな」
 小指の先にはめた指輪に当たり、細い鎖が小さな音を立てた。
「なるほどな。ああ、確かに適役だよ、ベル」
 こんな口実ができて、自分がひどくほっとしていた事に気付いてしまった。不本意ながら、エルニスは小さく頷いて肯定した。
「……第二代、誕生だな」
 どういう意味かとフォルを見ると、彼はにっと唇を吊り上げた。
「おまえと長……ラジク様やアラフル様に似てるから」
 それに対してエルニスが渋い顔をしたのは、言うまでもない。
 うんざりして首を振ると、エルニスは疲れを少しでも軽くしようと、天を仰いだ。
「ほら、また理由を作ったな? ――変なところで意地っ張りだな。長も、おまえも」
 穏やかに微笑むフォルの声が、ささくれた心をそっと撫でて直していった。

□■□■□

 ティアは眠い目を擦り、漆黒のドラゴンの背から延々と続く北の大地を見下ろした。風が耳元で轟々と激しく音を立てているが、それはあまり気にならない。寒さにももういい加減慣れてきたので、顔に叩きつける冷気が痛いものの、心情的には爽快な心地よさを感じていた。
 と、ちらりと視界の端に白銀の翼が見えて、ティアは唇を棒の形に軽く引き結んだ。
 先ほどからカーレンとレダンは無言で飛び続けている。バンクアリフの一件をレダンが告白してから、かなりの時間が経っているが、未だに言葉が発せられる事はなかった。
 セルを振り返ると、兄はもうレダンの飛び方には慣れたらしい。やや疲れた顔をしているものの、ティアの視線に答えて微笑むのが見えた。それで、どうにか一声を上げる決心が付いた。
「カーレン」
 前で、鬣をなびかせる頭部が軽く揺れた。力強く翼を羽ばたかせ、滑空に必要な高度を保つと、カーレンはようやく返事をした。
『どうした?』
「私たち、どこに向かっているの?」
 それを聞くのかとでも言いたそうな様子で、カーレンは不機嫌そうにくるる、と唸った。
『さぁな……レダンに聞けばいい。進路からすると、双子の山の方角。北大陸を東から西へと渡っている事になる』
「西?」
『ウィルテナトのあるクラズア山脈は大陸でも東の方だ。双子の山は中心より西。……横に長い大陸だからな。いくらドラゴンの飛行速度が速いとはいえ、時間はかかるぞ』
 人の足では何日かかるのだろう。ティアは以前、カーレンが陸の上を低く飛んでいた時に見た速度を思い出して、大雑把に計算してみた。
「地上をいけば、一週間はかかるのかしら?」
『もう少し長くかかるな。……全く。おまえのおかげで結局全員を連れて行く羽目になったぞ』
「ご、ごめんなさい」
 じろりと睨まれて、ティアは内心で縮み上がって冷や汗をかいた。人間の姿の時はそうでもないが、ドラゴンの姿だと妙に迫力がある。
 しかし、責められる理由も責任もティアにはない。完全な八つ当たりなのだ。
 ……たぶん。
 というのも、カーレンが言ったように、こうして今レダンと共にカーレンが飛んでいるのは、他でもないティアによるところが大きいためだった。離れなければならないと聞いた後、あまりに自分が情けない顔をしていたからだろう。レダンが一緒に連れて行けばいいと言い、炎塔の事を持ち出してから、やたらとぎくしゃくしていたのは自分にも非があると思っていたようなので、カーレンも渋々ながら承諾していた。
 迷惑をかけているのは重々承知の上なので、流石に何も言い返せない。本来こういった怒りはレダンに向けられるのだろうが、カーレンにとっては、どうやら二人を預ける事自体があれこれ考えた末の選択だったらしい。
 要するに、「連れて行きたきゃ行けばいいだろう」というストレートな言葉をぶつけられて、なまじそれが自分の本音でもあった為に反論できなかったのだと思う。行き場を失った怒りやら不満やらが溜まった結果の八つ当たりだというのだから、それこそティアにも迷惑な話ではあるのだが。
 などと、だから自分は悪くないと内心で弁解していると、カーレンはふいと視線をそらした。ちょっと可愛いと思ってしまったが、間違っても口に出してはいけない。手が付けられなくなるほど拗ねられたら、ルティスに出てきてもらうしかなくなるからだ。
 ただ、とティアはカーレンの後頭部を見つめながら考えた。それだけ自分とセルを連れて行くべきかどうか、手紙を読みながら思案していたのは何故だろう。
 連れて行きたいと思っている。なのに連れて行けないと考えるのは、それが危険だと知っているからだ。だが、レダンに預けるかどうかを迷う必要がどこにあるのか? 自分たちと離れたくないから、と思うのは流石に自惚れている自覚があるのでやめておいたが……不意に、カーレンとレダンの間に見えない溝が生じているのではという懸念が頭に浮かび上がってきた。それに、セルやレダンとのあの目配せには、一体どういう意味があったのだろう。
 九年前に起こった、バンクアリフの壊滅事件。
 待って――九年前?
 かちり、と何かが音をたてて組み合わされた気がしたが、ティアはそこで思考を本能的に停止させた。それ以上考えるな、と脳が警告を発している気がしたのだ。
 しかし、一旦それが当てはまったら、止まらなかった。怒涛の勢いで答えが導き出されていくのを、ティアは戦々恐々とした思いで、内心で震えながら目を見開いていた。
 ―― これでも、九年前までは結構良い暮らしをしてたんだよ、僕 ――
 セルの声が頭の中で反響した。確か、オリフィアでそう言いはしなかっただろうか。恐る恐る兄を見ると、退屈そうに呑気に大欠伸をしている。視線に気付かれる前に、ティアは下に視線を落として、カーレンの背中の突起を掴む手に力を込めた。
 ティアの異変に気付いたらしく、カーレンが軽く振り向いたが、生憎とそれどころではなかった。
 九年前まで、セルは貴族の子供だった。九年前、バンクアリフのドラゴンたちはレダンに滅ぼされた。二人が何らかの形で出会ったのが、その頃だとすれば。
 これで、セルとレダンが繋がった。後は、カーレンがその事件に関わっていたとしたら完璧だ。あの目配せの意味が通る。それに、兄の背中に存在する傷は、ティアやブレイン、それに限られた孤児たちしか知らなかった。レダンだけでなく、カーレンと兄までもが、以前に出会った事があったのだと確信して、ティアは呆然と振り返ったカーレンを見つめた。
「カーレン、あなた――まさか?」
 その先が言えない。
 ああ、自分は何といえばいいのだろう? だからセルもあんな笑みを浮かべたのだ。
 何も知らずに笑っていた自分が、情けなくて仕方がない。
 ティアは気付けなかった事に苛立ちを覚えて、唇を噛んだ。また、だ。また、自分は知らずに誰かを傷つけた。これで二人目だ。思って、あれ、とティアは疑問に思った。
「一人目って……誰だっけ?」
 ――戻りかけの記憶はひどく曖昧で、ところどころが塗りつぶされたように欠けていた。誰かだという事は分かるのだ。生きろと叫んだあの人だという事も。
 ……けれど。
 顔が。あの人の顔だけが、どうしても思い出せなかった。


「ここだよ」
 そうレダンが言ったため、ティアはぐるりとその場で一回転して、辺りを見回した。
「……なるほど。確かに双子の山だね。高さも大きさも形も、まるでそっくりだよ」
 セルが感心したように鼻から息を吐き出した。
「まあ、距離はあるし、離れているけれどね……二人の男女の名前が、山についているのさ。エリュッセルとエレッシア……カーレン、あんたなら、この山がどうして二つに分かれているのか知ってるだろ?」
 ティアも聞いた事がある山の名だった。
 あれ、とセルは片眉を上げた。
「その言い方だと、まるでこの山が昔は一つだったって言ってるみたいだよ」
「事実、そうだった」
「……」
 カーレンがあっさりと頷き、セルは驚きのあまり口をつぐんだ。
「親である山から、双子の山が生まれた。私が生まれる少し前ぐらいだろう」
「でも、どうして二つに分かれてしまったのかしら」
「さぁ……」
 彼は薄く、硝子のように微笑んだ。
「魔物が激しく争ったのか、それとも知られていないだけで火山でもあったのか。大規模ながけ崩れだろうか」
 ちらりと思わせぶりにルティスを見やったために、揃ってティアとセルが彼を見ると、黒狼は嫌そうな顔をしながら鼻をひくつかせた。首を振るので、そんな気配や匂いは一切ないらしい。といっても、カーレンの歳をティアは知らない。かなり昔だという事は分かるので、あったとしてもとっくにそんな匂いは消えているのだろう。
「それとも……始祖やドラゴンが争った後、とか」
 低い声でレダンが告げ、それがとても冗談には聞こえなかった為に、ティアは顔をしかめた。
『……まぁ、当たらずといえど遠からず、ですね。昔この辺りに住んでいましたから、その時の事はよく覚えてますよ』
 ルティスが首を傾げた。
『ええ。確か、覚えている限りでは二体のドラゴンが争っていましたよ。でも、山が裂けたのはそのせいじゃありません』
「じゃ、何で?」
 ルティスは目を逸らした。
『巨大な魔力が噴き出したんですよ。それこそ、山のど真ん中から。衝撃があまりに大きすぎて、山は裂けたばかりか、大地を削りながらお互いに離れて、そして深くて広い峡谷ができた……山が一つだった頃は、もっと高い山だったんですがね。で、その頃から開けた平野に人が入り込んで、パヤックの国が出来上がったんですよ』
 思わず頭上を見るが、見事な蒼穹が広がっているだけで、何もない。
「パヤック? じゃ、その国が、アラフルの言っていたエリシア・メイジの?」
『ええ、そうです。雪の妖精が踊る国……といっても、今となっては存在しませんが』
 ちら、と、ここでルティスはなぜかカーレンを見た。彼の瞳に少したじろいだ色が見られたのを、ティアは見逃さなかった。
『燃えて、なくなったんですよ。七年前にね』
「七年、前……燃えたって?」
 ゆっくりと、目を見開く。胸が焼け付くような痛みを覚えたのは、きっと気のせいではない。
「ティアもパヤックだけど、その大部分がこの国に住み着いていて……けれど、国は燃えてしまったから、当然その人種も今じゃほとんど見られなくなった」
 レダンの言葉に、はっと振り向いた。山の向こうに、ちらちらと白く輝く何かが見えた気がした。
「それで、その……セル。あの時、俺がどこに居たのか、知りたがってたろ。それに、ティアももしかしたら、ここの出身じゃないのか?」
 顔をしかめながらレダンが言った。
「国の名前はセイラック。まぁ、大国だったんだが……ここも、炎塔に俺達が関わっていたばかりに、巻き込まれて沈んだ国だ。丁度この峡谷が国境線だったよ」
 呆然とそれらを見つめるティアに、言いにくそうに説明するレダンの声はひどく遠く聞こえた。

「……ぁ」

 突然、脳裏に浮かんだ情景があった。
「そうだ……そうやって、会ったんだ」
 呟いて振り返ると、三人と一匹がこちらをじっと見ていた。
 カーレンと目があって、ティアは少し迷った。だが、結局口にする事にした。
「あのね、カーレン。私……」
 告げた言葉を聞いた瞬間、目に見えて彼の顔は強張り、蒼白になっていった。

「七年前から以前の記憶が……全く、ないのよ」

□■□■□

 ――その日はひどい嵐になりそうだった。空は重苦しい雲にすっかり蓋をされていて、ちらちらと舞い始めた雪の中を急ぎ足で家へと向かっていた。ふと気付いて立ち止まると、雪の中で今にも凍えそうな顔をして目を閉じ、座り込んでいる人がいた。よく見たら腹部に大きな怪我をしていて、自分は慌てて、彼を家の中に引きずるようにして運び込んだ。
 そして、あの終わりを告げる鐘が鳴るまでの間……彼は、しばらくそこで心身を休ませたのだ。
 あれから、月日も流れたけれど。

 ――今は、どうしているだろうか。


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