Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-14- 稲妻と太陽

 半ば呆然として、ティアは目の前に広がる光景を眺めていた。
 セルと、途中から落ち合ったルティスの二人と一匹で、説明された道順を辿って言われた場所まで来たのだが……。
「何て場所なのよ」
 上が闇に呑まれて見えないほど巨大な洞窟を見上げ、ティアは溜息をついた。下手をすると、長の屋敷が丸ごと入る程度に大きい空間が広がっていた。寒さのせいか、空気がぴんと張り詰めているために、不思議と暗闇が怖いとは思わなかったが……それでも、不安があった。
 こんなに巨大な空洞があるのに、最初、中に入るための入り口は頭を打ちそうなほど低くて狭かった。少し窮屈に感じるほど、壁が両脇からせり出していたのだ。そんな道をひたすら進み続けて、ようやく解放されたと思ったら、今度はこれ。
 ―― 途中は狭いが、進んでいくうちに洞窟の中でも一際広い場所に出る。そこに外へ通じる穴があって、過去に一度、使った事がある。多分今でも使えるはずだ ――
 カーレンの言葉を、何度かつらつらと繰り返した、が。
 館から勝手に持ち出した灯りを掲げて、ティアは眉を潜めた。
「穴があるって言ったわよね?」
 確認するように呻いた。
『ええ、あると言いましたよ』
 ルティスが隣で返す。なぜか町にいる時と同じぐらい小さくなっていたが、その理由は言わずとも知れた。まじまじと、とある一点を凝視しながらティアは呟いた。
「私、てっきりドラゴンの姿でそのまま出れる大きさの出口かと思ってた」
「僕もだよ。まさか、こんなのなんて聞いてないし」
「……信じられない。カーレン、本気でここから出たの?」
『ええ、出ましたよ。信じられないでしょうが、事実です』
「って言っても……これ、昔のカーレンでも通れないと思うよ。まさか人間の姿で飛び降りたとか言わないよね?」
 セルの言う通りだと思った。
 狭すぎる。まず子供のドラゴンでは絶対に通れない大きさで、しかし人間なら大人でも楽々通れる穴が開いていた。――地面に、しかも垂直に。
 そして、気のせいであると願いたいが……水が流れ落ちるような音がかすかに聞こえてくる。
『ええ。そうです。――少なくとも、マスターは飛び降りました。"とりあえず"人間の姿で行けば外に出れるだろう、と。無謀の極みでしたが』
「で、君たちが生きてるって事は……出れる訳だね?」
『出れました』
 頷いたルティスの瞳は相変わらず表情が読めないが、尻尾がぱたりと地面に落ちていた。振るぐらい自信があればまだ安心できたのだが……。
『但し、安全かどうかは、ちょっと保障できませんね。何しろ初めて通った時、落ちる途中でドラゴンへと戻るタイミングがあと少しでも遅かったら……というところで切り抜けましたから』
「怖い事を言わないでくれよ」
 セルの顔がさっと蒼ざめた。
「ねぇ、水の音がするんだけど、あれって……?」
 ティアが呟くと、ルティスはああ、と首を巡らせた。
『下に巨大な地下水脈があるんです。大瀑布って分かりますか? とりあえずそれぐらい大きな滝の真上に落ちるので。ね、簡単でしょう?』
 ひょいと首を傾げたが、思わずセルと揃って二人で、その耳をつねり上げていた。黒くてつんと尖がった耳が無残にも伸びている。
「何が、ね、なんだよ……滅茶苦茶危ないじゃないか!」
『まぁ落ち着いてください。それと耳に向かって叫ばないで。人間と違って何倍も繊細なんですから』
「そりゃ叫びたくもなるわよ……」
 ティアは嘆息してルティスの耳を離した。
『落ちるだけなら誰にだってできるでしょう?』
「だから、そういう問題じゃなくって……ちょっとはこっちの気持ちも察してよ」
『それはお気の毒でしたね』
 棒読みだった。しかも、既に起こった事にされているというのがまた何とも言えない。
 頭を押さえながらどう伝えるべきかと思案していると、未だにルティスの耳を摘まんで宙吊りにしていたセルが、何かに気付いて顔を上げた。
「……どうやら、来たみたいだね」
 足元の砂利を靴で擦る音が聞こえて、ティアは今しがた出てきた小さな通り道の方を向いた。
 暗がりの中から、よいしょ、と小さく声がして、ひょっこりと銀色をした頭が現れた。屈めていた腰を痛そうにさすりながら、レダンはじっと見つめているこちらに気付いたようだった。
「ん……あんたの使い魔、随分といじめられているようだけど?」
「それぐらいで丁度いい加減だ。普段から十分憎たらしい」
 レダンの背後からカーレンの声がしたため、セルは慌ててルティスを持ち直した。抱え直したとも言う。
「へぇ、お気楽でいいね」
 紫の瞳が呆れたように細められた。
「平和で羨ましい」
「それほどでもないと思うけれどね……」
 苦笑するセルにレダンは微笑んだ。
 にしても、と、彼は穴の近くまで歩いてくると、顔をしかめて覗き込んだ。
「とんでもないやり方するね。普通誰が、地下水脈が滝の裏と繋がってるって想像する?」
『そこはまぁ、エルニスさんたちのおかげで……昔の探検の賜物と言いますか』
「ユイが気付いたんだ。滝の水が途中から多くなっている気がすると言い出してな」
 一瞬、ティアは内心でぎくりとしてカーレンを見つめた。ユイの事を何気なく言ったのが、妙に気になったためだ。
 あの記憶を思い出させるべきかどうか、ティアはかなり迷っていた覚えがある。結局涙の玉はエルニスが持って行ったため、彼に判断を任せた形になったが、どうなったのだろうか。
「……カーレン。エルニスと会った時、何かあった?」
 カーレンは何か言おうと口を開きかけたが、なぜかまた閉じて、妙な表情を浮かべた。小首を傾げてじっとティアを見つめる仕草が、言うまでもないと、そんな雰囲気を滲ませていた。
 やがて、ふっと頬を緩ませた。
「それなりに、な」
「何、その答え」
 むっとして口を尖らせるふりをしたが、カーレンが浮かべた優しい笑みの向こうに、寂しさと哀しさが見え隠れしているのを見て取って、ティアは内心が痛みに疼くのを感じていた。
 やはり思い出していたのだ。気取られないように目を逸らし、けれど自然にそう言えたのは、彼なりに乗り越える事ができたからに違いないと、そう思った。
 自分はどうだろうか、と、カーレンに背を向けながら思う。
 硬く閉ざされた扉の向こうにどれだけの哀しみがあったとしても、それをちゃんと受け入れられるのだろうか。それとも、受け入れられずにただ壊れるのか。
 悪夢がいつまでも自分を追ってきそうな気がした。小さな不安は胸に落ちて、それがどうしても消えない染みになった。
 とん、と軽い重みが肩にかかったのを感じて、ティアは肩を大きく揺らした。驚いて硬直していると、手を置きながら、後ろからカーレンが小さく呟いた。
「おまえが何を抱えているのかは分からないが……、怖いなら、前だけを見ていろ」
 ティアはしばらく目を見開いたままだったが、やがてじわじわと身体から力を抜いていった。
「どうして分かったの?」
 掠れるほど小さな声で聞くと、脇を通り過ぎながら返されたのは短い返事だった。
「足が震えていた」
「………………」
 あまりに自分の態度が分かりやすい事に気付いてティアは落ち込み、カーレンの気遣いも何もない返答に軽く傷ついた。そして、その事にひどく衝撃を受けた。
 なぜ、こんな何の意味もないやり取りのために自分が傷つかなければならないのかと思ったものの、代わりに無上の勇気を得た気がして、ティアはひどくほっとしていた。
 一方で、セルが少し顔をしかめていた。
「カーレン……それ、ちょっとひどすぎないかい?」
「どこがだ?」
「……いや、あー、うん。分かんないなら、いいや」
 あはは、と乾いた笑いを漏らして、セルがちらりとレダンを見やった。
「……だよね?」
「ああ」
 レダンもセルを見やり、何やら意味あり気な視線を交わしていた。
 何となく言いたげな事が掴みづらい。ティアが不思議そうな顔をしていると、セルは鈍いんだなぁ、とカーレンの背を見ながら呟いた。
 どうも自分はこういうところで妙な損をするらしい。言葉から考えられる意味を前後の会話や仕草から結び付けて、ティアは呆然とした。
「……え」
 そういう事ではないと思うのだが、ひょっとするとそういう事なのだろうか。
 気付かない方が良かった気がする。
 行くぞ、と声をかけてくるカーレンに慌てて返事をして、ティアはいつの間にか穴の側に行っていた三人のところに走り寄った。
「ねぇ、本当に飛び降りるの?」
「ああ。――今回は私とレダンの二人だからな。アラフルの時と同じように分けよう。セルはレダンと、ティアは私とだ」
 言いながらカーレンが視線で合図をすると、セルの手からルティスが離れて、カーレンの中へと飛び込んで消えた。その様子を見ていて、ティアはオリフィアの時を思い出した。
 今回は上昇ではなく下降。まさか、落下から飛翔などという無謀な事をやってのけるとは思いもしなかった、と心の隅で呟いた。
 カンテラを取り上げると、カーレンは中の火を吹き消した。瞬時に明るい暖色の光が消えて、暗闇へと変わった洞窟の中で、代わりにレダンの手が青白い魔術の光を灯した。ただの光の玉ではなく、いくつもの輪がその周りを囲っている。よく見ると、何かの文字の羅列で形作られているようだった。
 次いで、それぞれの面々を見ていくと、全員の顔が灯りに白く照らし出され、瞳に光の欠片を散らしていた。洞窟も先ほどの暖かさとは一変して、冷やりとした表情を見せている。
「わぁ……すごい」
 こんなにも灯りの質が違うだけで、洞窟や周りが様変わりするものだろうか。
 奇妙な恐ろしさと美しさの混じった光景をティアが感心して眺めていると、カーレンが首を巡らせてレダンを見た。
「先に行くぞ」
 レダンがおどけたように、肩を軽くすくめて見せた。
「はいはい、どうぞお先に」
 断り終えると、ひょい、とティアはカーレンにいきなり横から抱え上げられた。するのは簡単だが、やられた方はたまったものではない。
 不意打ちの浮遊感に思わず短い悲鳴を上げた。
「ひゃあ!? 待って、まだ心の準備が……!?」
「すぐに降ろす。騒がなくていい」
 とは言われても、やはり怖い。もう少し時間が欲しかったと内心でぼやいているうちに、あっさりとカーレンは穴の中に飛び込んだ。

「きゃぁああああっ!?」

 耳元で不気味に風が唸り、かつてない落下の恐怖に、ティアは思わずカーレンにすがりついていた。屋根から落ちた時よりもよっぽど怖い。頭上から同じようなセルの絶叫と、おっと、というレダンの呑気で軽い声が聞こえた気がした。
 地獄のような時間だった。落ちていた時間はそれほどでもなく、僅か二、三秒だったのだが、それでも死ぬほど長い一瞬に感じた。
 極限の恐怖に危うく気を失いかけた時、突然ふわりと風に巻き上げられるような心地がした。
『しっかり掴まっておけ。かなり激しい飛び方をするからな』
 身体の触れていた部分がしっかりとした皮と鱗の感触に変わって、ティアは慌ててドラゴンの背中にしがみ付いた。
「っ――ぅわっ!?」
 ぐいと強い力で引っ張られた気がしたが、急に体制を変えたからだとすぐに分かった。ずしりと重圧がかかったかと思うと、次の瞬間身体の回りで重力が一瞬失せ、ぐるりと世界が一回転したような感じがした。実際はカーレンが降下から上昇に転じて水平飛行のために身体を戻したためだったのだが、勢いが残ってティアの体が浮いたせいでもある。
 悪夢だと遠い心の呟きが頭をかすめたのは、轟々と凄まじい勢いで叩きつける風のせいだけではないだろう。いつの間にか灯りは消えて、全てが闇の中だった。ちゃんと前は見えているのか、不安で仕方がない。試しにドラゴンアイで闇を見透かしてみると、周りが驚くほどの速さで背後へ流れていっていた。
「……っ、速すぎない!?」
『そうだな、少し飛びにくい。……といっても、少しくらい当たったところで問題はないが』
 何が、という主語が抜けていた。おそらく天井とか、横から出ている岩とか、そんな感じなのだろう。
「当たったら痛いんじゃないの?」
『いや、特には』
 短すぎる答えに、レダンが呆れ半分に後方から補足を入れてくれた。
『ドラゴンの鱗っていうのは子供の時はそんなでもないけど、大人になるととても硬くなるものなんだよ。傷をつけられるのは、同じドラゴンの爪や牙か、よっぽど優れた英具か、それに匹敵するほどの力を持った魔物か……まぁ、あるとすればそれぐらい。ああ、あとはドラゴンアイもそうか』
「え? ドラゴンに?」
 ぎょっとした。
『そう、ティアもやろうと思えばドラゴンに傷をつけられるよ。同じドラゴンの力を有している訳だからね。ドラゴンアイを持つ者が人であって人でないというのは、そういう意味だ』
「……それを聞くと、普通の人間の方が良かった気がしてきたわ」
 ティアはドラゴンアイを引っ込めて言った。本当に傷つけはしないかと不安になったのだ。
『さあ……それは、どうだろうな』
 カーレンがぼそりと呟いた。
 え、とティアは顔を正面に向けた。
「どういう意味、カーレン?」
 飛行に障りがない程度にドラゴンは首を持ち上げた。ぞろりと牙を見せて小さく笑っているのを見て、自分の心中は見透かされていたのだとティアは悟った。
『例えば、おまえは護身のために剣を持っているだろう。だが、果たしてその剣は何を傷つけて、護らねばならないのか知っているだろうか?』
 ぽかんとして瞼を瞬かせていると、カーレンは低い声で喉を鳴らし、苦笑した。
 しばらく考えて、あ、とティアはカーレンの言わんとするところに気付いて声を漏らした。
 剣は、傷つけるものを選べない。それが人であっても物であっても、選ぶのはティア自身であり、剣を振るうのもまたティアだった。
『そういう事だ。要は、覚悟の問題だろう』
「えーと……え?」
 頭を必死に働かせてみたが……つまりは、ドラゴンの力も剣と同じで、ドラゴンアイはティアがその意志で力を振るうのだという事か。
『だから俺は言ったじゃないか。やろうと思えば、ってね。あくまで仮定の話で、君に本当にドラゴンを傷つける気があるとか、そんな事は思っちゃいない』
 レダンが半分呆れて笑いながら言った。
「もう、驚かせないでよ」
『だが、これでおまえは一つ知識を得た訳だな』
 カーレンはにや、と牙を剥いた。ティアは安堵にほっと胸を撫で下ろしながらも、もし、と考えた。
 もし本当にそんな事になってしまったら……自分はどうするのだろうか?
 だが、それもカーレンの言葉で霧散した。
『そろそろ外だ……急に明るくなるからな。目を回さないように気をつけろ』
 ちらりと白銀のドラゴンを振り返り、カーレンは軽く注意をした。
『へぇ……て事は、あんた、初めての時もそうなったのか』
 面白がるようにレダンが言うと、くつくつと低く喉を鳴らして、彼は答えた。
『危うく落ちかけたよ』
 ……大丈夫なのだろうか。だんだん心配になったティアは、顔から少し血の気が引いていた。


 ――そして、結果だけを言うなら、カーレンもレダンも落ちはしなかったのだが。
「うぇ……き、気持ち悪い」
「……セル。しばらく見ない間にだいぶ情けない身体になったな」
「し、しょうがないじゃないか。最近はカーレンが優しいっていうか――かなり親切な飛び方をしてくれていたから。大体、君は飛び方が荒っぽすぎるんだって――うぇええ」
 言い返して、再び川に向かって呻く兄を、レダンが呆れた眼で眺めていた。
「――親切な飛び方、ねぇ」
 ティアは我関せずの態度で焚火に向かっているカーレンをちらりと見た。膝の上ではルティスが勝手にじゃれついているが、それに構う事なく、カーレンがやけに深刻そうな表情で見下ろしているのは、何かの手紙のようだった。
「それ、何なの?」
 側に歩いていって隣に腰を下ろすと、カーレンはティアの方を見たが、また手紙に目を落とした。
「オリフィアからの手紙だ。といっても、ラヴファロウが書いたものではないし、差出人も奴じゃないな。あいつは悪筆だが……、文体からして、代筆を取らせた訳でもないらしい」
「書く人が決まっているって事ね」
「……大抵、信用している者にしか筆を取らせはしないからな」
 紙を振りながら言うカーレンを、ティアは目を瞬かせて見つめた。
「でも、貴族なんだから字が上手なんじゃないの?」
「いや。あいつはもともとが貴族とはいえ、ほとんど平民同然の状態から実力で成り上がった奴だからな。王都はともかくとして、最低限しか文字は平民の間では必要とされていない」
「だから字が下手?」
「そういう事になる」
 ろくに目も合わせずに答えると、カーレンは手紙を折りたたんで焚火の中に放り込んだ。手紙はものの数秒もしないうちに黒く焦げ、ただの灰になっていった。ティアが何を思うことも無くその様子を眺めていると、セルとレダンが川岸から戻ってきた。
「それで、手紙には何て書いてあったんだ?」
 レダンが手ごろな大きさの岩に腰かけながら聞いた。カーレンとの会話が聞こえていたらしい。当然と言えば当然だが。
「手紙というよりは詩集、詩集というよりは謎かけか。――我呼びかけん黒き風に。蒼き閃光は何処へ消えたか。君を追わば往け、緑野の彼方へ。謡う稲妻は我に届けた、白い花束を共に添えて。太陽はその先に」
 カーレンは視線で空を仰ぎながら、そこに手紙があるとでもいうようにつらつらと内容を告げた。
「……確かに詩だな。でも、そんな手紙を送りつけたのは一体誰だ?」
 レダンは奇妙な顔をした。ティアも訳が分からず、目を瞬かせるしかない。
「ああ、そういう事なんだね」
 と、セルが突然溜息を付いた。しばらく間を置いて口を開けると、思わぬ言葉がそこから飛び出した。

「オリフィアの王様が書いたんだよ。その手紙」

 一瞬、何を聞いたのか分からずに、レダンとティアは呆然としていた。
「カーレン殿に伝えよう。将軍は娘を通じて私に告げた。太陽はシウォーヌ姫の流れる野を越えてゆくと……ラヴファロウ、なかなか隅に置けないみたいだね?」
「恋仲になったのはつい最近だそうだ。娘たっての頼みの上に、有能な将軍からの願い出だ。父親も快く引き受けたというところだろう。あの王は娘が可愛くて仕方がないらしいからな」
「ちょ、ちょっと兄さん!?」
「――ああ、そういう事か。そういえばセルも元はそうだったしね」
 ティアは慌てて待ったをかけたが、レダンはどこか納得した表情で頷いていた。
「それにしてもカーレン、あんたはセルが詩を読み解いても驚かないんだね」
「予想はしていたからな」
 もはや完全に置き去りにされていた。訳が分からず混乱するティアに、カーレンは苦笑しながら簡単な説明を加えてくれた。
「――黒き風とは私の事、蒼き閃光はラヴファロウの将軍としての通り名で、そのまま稲妻にも意味が通じる。君とは恋人を表す時に使う事が多いが姫とも読め、すなわちオリフィアを流れるシウォーヌ川を示しているな。白い花束とは王都の花の事、つまり王女で、話し方からしてもそれより身分が高い者が書いたと分かる。……だから、王からみたら王女は娘。そういう事だ」
「えーと、……って事は、この詩は、ラヴファロウからの連絡って事? それで、セル兄さんは…………」
 おそるおそるセルを指差し、ティアは震えるほどか細い声で聞いた。
「き、貴族?」
「うん、"元"ね」
 間髪入れず、セルは即答した。
 つまり、そういう事だった。王族、貴族は嗜みや教養のひとつとして詩を詠うのだが、よく子供の頃からその教育を行う一族が多い。セルがそれを読み解けたという事は、つまり貴族の子供であったという事だった。よくよく思い返してみれば、確かに孤児になる以前の生活は豊かだったと何度も言っていた気がする。
「……それで、まさかとは思うが、やはり?」
 カーレンの静かな問いかけに、セルは彼らしくない、乾いた笑みを浮かべて頷いた。
 それだけでカーレンには分かったらしい。彼は、やや長めに溜息をついた。
「そうか」
「ひょっとして、リスコから出た時に……見ちゃったのかな?」
 セルのこの言葉で、ティアにもようやく、主旨が掴めた。
「カーレン、セル兄さんの背中にある傷を見たの?」
 聞くと、カーレンは後ろめたそうに目を逸らした。
「あの時は、おまえの服の裾も短かった。風でめくれ上がった時に偶然目に入ってな。悪いとは思ったが……勝手に見させてもらった」
「ううん、いいよ。別にそれほどのものでもないし。それに、」
 セルはカーレンの膝の上にいるルティスを見やり、柔らかに目を細めた。
 今しがたティアも気付いたのだが、彼の膝の上がよほど心地よかったと見えて、黒狼はいつの間にか寝入ってしまっていたようだった。
「彼が、怒ってくれたみたいだしね」
 セルが小さな従者を起こさないように囁き声で言うと、苦笑に近い微笑を浮かべ、カーレンはルティスの背を指先で撫でた。
 ティアもくすくすと肩を震わせて笑いを漏らした。あの時ルティスがカーレンを叱っていたのは、そういう意味だったのだ。
「そういえば、ウィルテナトを出て以来、あまり喋らないな。どうかしたのか?」
 レダンがルティスに視線をやりながら聞いた。
「ああ、今だけだ。エルニスとやりあった時に大分魔力を使った」
「そのくせ、やけに回復が早いように見えるけどな。そんな事で身体を壊さないのか?」
「だから肩代わりをしてもらっているんだ。彼なら、少しは耐えられるからな」
「肩代わりって……そんな事ができるほど使い魔と深く繋がり合っていたら、一方に何かあったら、もう一方もただじゃ済まなくなる」
「それはある意味仕方ない。共にいた時間は長かったから、嫌でも絆は深くなる。……ほぼ腐れ縁だが」
『何か言いましたか、マスター』
 と、耳を動かしながらルティスが青い目を開け、不機嫌そうに言った。どうもうたたねだったらしい。会話は何となく聞こえていたのだろう。
「いいや、特に何も」
『すっとぼけても無駄ですよ。ちゃあんと聞こえてますからね』
「…………普通こういうものには突っかからないだろう。つくづくおまえも嫌な奴だな」
『お互い様です。大体、あなたはいつも一言多いんですよ』
 カーレンは顔に浮かべていた笑みを少し深くした。
「ならおまえはその一言にいちいち突っかかる几帳面といったところか」
『大雑把の方が困ります。第一に貴方はウィルテナトをほっぽって出てきたじゃないですか。不真面目以外の何だと言うおつもりで?』
 挑発するようにルティスが目を細める。
 しかし、始まりかけた喧嘩はレダンの仲裁によって終わった。
「分かったから、二人ともそこまでにしてくれ。いい加減にしておかないと話が進まない」
 ティアは小さく吹き出した。揃ってこちらを見たカーレンとルティスに、苦笑する。
「どうした?」
「ううん。何か、いつも通りになったな、と思って」
「……そうか。君たちは毎日こんな感じなんだな……」
 言うと、レダンが溜息をついた。
「とにかく、その手紙の内容からして……あんたはオリフィアに向かうって事でいいんだな?」
 ぴくりと彼の言葉に反応して、セルが顔を上げた。
「待って。カーレン"は"ってどういう事だい?」
 レダンは即座に、呆れた顔をして首を傾げてみせた。
「セル……ウィルテナトでのカーレンの用事が済んだら、今度は俺が君を借りるって約束だったろ? 忘れたのか」
 そんな約束もしていた気がするが、里で起きた事があまりにも強烈な印象を残していて、ティアにはもう何年も前の出来事のように感じられていた。
「それで、あんたの頼みは確か、そこにティアも加える事だったな」
「ちょっと!?」
 冷や水でも浴びせかけられた気分だった。面食らったままティアが大声を上げると、一斉に四対の目がこちらを見た。
 それに一瞬ぎょっとしたが、何とか気持ちを落ち着ける。一呼吸を置いてから、ティアは言いたい事を軽くまとめて口にした。
「兄さんはレダンとの約束があるからともかくとして、どうして私まで?」
「あ……と、それはね」
 レダンは少し考えるような顔をしたが、助けを求めるようにセルを見た。
「太陽が眩しすぎるから、かな」
 兄はやんわりと、ほろ苦い笑みを顔に刻んだ。
 一応言葉は選んだのだろうが、やけに詩的な引っかけだった。考える時間が短かったのだから、同じぐらいの時間で意味は分かる。
「そう……危険って事なのね」
「誤解しないでほしい」
 低くなったティアの声に、カーレンが視線を避けるように目を伏せた。
「いろいろ考えてはみたが、どうしても連れて行けない。今までは火の粉を振り払うだけで十分だった。だが、今回ばかりは業火の中に飛び込むしかない」
「じゃ、どうしてその必要があるのか説明してくれる?」
 ずっとここまで一緒に来たというのに、ここで一旦別れろというのは少し虫の良すぎる話だ。
 ティアが苛立ちながら言った時、奇妙な事が起こった。カーレンが、ルティスやセル、レダンとで目配せをしたのだ。ここに居るティア以外の全員が、暗黙の了解という前提をおいて話をしているかのように見えて、それがティアに言いようのない戸惑いを覚えさせた。
「私が追われている事は知っているな?」
 ティアは眉を潜めたが、頷いた。以前から彼も言っていた事だ。ティアはちらりとしか見てはいないが、セルやレダンが追手に追われたという話は聞いているし、カーレンは、その彼らと対峙して切り結んだらしい。
「だが、何故なのかは詳しくは知らないはずだ」
「…………確かにそうだけど」
 一瞬目を逸らしたが、ティアはまたカーレンの目を見た。
「教えてくれるの?」
「全てとまではいかない。それに、聞いていて気持ちのいい話でもない」
 カーレンは答えてから、思い悩むような表情をふっと滲ませた。レダンもまた、表情を硬くした。
「私を追う者達の目的は、簡単に言えば『人間を護る事』だった――だが、何から護ろうとしたのだろう?」
 最後に放たれた問いかけの答えを、ティアは薄っすらと感じた。底がないのではと思わせるほどの深みが、その問いの向こうに広がっている気がした。
「ドラゴンと人が交わり、お互いを知った時、何が起こったのか。それによって、人は何を憎んだか。おまえに教えてから、それほど日は経っていないはずだな」
 視界の端で、レダンがはっ、と嘲るように薄い笑みを浮かべた。
「人と関わるドラゴンの駆逐だよ。奴らは正気の沙汰じゃあない。昔から、俺たちは増え続ける人間といやでも付きあわなくちゃならなかった。一切関わらないなんて不可能だ」
「……じゃあ、まさか」
「そう、建前さ。ドラゴンを滅ぼそうって魂胆なんだよ。しかも本気でやろうとしているのは、結果を見れば丸分かりなんだ」
 レダンは笑みを浮かべたまま、顔を歪めた。
「北はウィルテナト、南にライキア、東はグモストーン、西はツェンリハ、そして中央にマールウェイ。挙げたのは主な里だ。だが、五つの大陸にはまだ幾つか、ドラゴンの隠れ里が点在している。そして、その中の一つに、バンクアリフという中央の里がある。そこのドラゴン達は小柄で、幻惑の術を得意としていたんだが……戦いを好まない温厚な性格が災いした」
 淡々と、カーレンは表情なく言った。
「何が、起こったの?」
 ティアは、答えの予想はついていたが、それでも念の為に聞いた。

「――"俺"が滅ぼしたのさ。一体も逃がさずに、この爪でね」

 レダンが服の上から左肩の刺青を押さえ、暗い顔でそう告げた。


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