Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-13- 古の者たち

 ――紡がれる記憶は、聖書に綴られた歴史をなぞっていった。

 千二百年という時間は、年月や月日で表すには永過ぎる時間だった。
 その頃の人はただ強大な魔物に怯えて争いを繰り返すばかりであり、今は広く知られる魔術師さえ、ほとんどまやかしの域にしか到達していなかった。
 巨大な力を持つ魔獣であるドラゴンもまた、人をそれほど重要な存在としては見ておらず、人の姿を取る事もほとんどなかった。

 が――いつの時代にも変わり者や酔狂な輩というのは存在したのだな、と彼は思った。

 たまに、そんな人を好く物好きなドラゴンたちがいた。
 脆弱である彼らを己の手の中で転がすだけでは飽き足らず、微々たる魔力以外は何の力も持たない人に、ドラゴンは自らの力を分け与えた。
 けれどそれは人にとっては強すぎた。力に耐え切れずに自らを滅ぼすか、耐えたとしても大きすぎるその力に驕り、自らに寵を与えたドラゴンさえも手にかけて、結局何もかもを焼き尽くしたという話すらあるほどだ。
 過ちを犯した事に気付いた者も多かったが、既に手遅れとなっていた。ひどい場合、ドラゴンが子を残したまま人に殺される事すらあったという。いつの時代もドラゴンという存在は人にとっては脅威にしか過ぎず、手元にそれらを滅ぼす力があるのなら――滅ぼすと約束はできなくとも、彼らに匹敵する力があるというのならば、狩ろうと思うのも無理からぬ事ではある。
 そして、ドラゴンもまた見境無く人を狩った。誰が力を持ち、誰が持たずにいたのか、この時点で見分ける術はなかった。血みどろの戦いが続き、どこにも光明すら見出せぬほど、両者は疲弊したという。
 まさに暗黒の時代であり、ここまでが、聖書にも長い闇の記憶として語られている事実だ。
 だからこそ、誰が知るだろうか。
 人が救いの奇跡と信じたものもまた、脅威を、脅威の力によって払ったのだと。
 もしもこの事実を知る者がまだ人の間にいるのならば、これを聞けば誰もが皮肉に感じるだろう。実際、皮肉そのものだ。――聖人と後に名乗り、崇められる事になる名も無き少年もまた、ドラゴンの力に犯された者であったのだから。
 どこで誰の腹から産み落とされたのかも分からない少年は、中央大陸を放浪する内、一体の若きドラゴンと出会ったのだという。彼は、ドラゴンでありながら人の父に育てられた奇妙な存在だった。滅ぼすのも人ならば、救うのもまた人であったのだ。
 その時代には珍しくも、人の子供の姿をしていたドラゴンは、名も無き少年をエルと呼んだらしい。その地方では、エルという呼び名はそれほど珍しいものでもなかったのだと少年が告白していたのを、後に教会を建てた信者が書き残していたからだ。
 邂逅してからいくらも経たない内に、彼らは寄り添うように共に世界を巡り、やがてドラゴンの子供は少年に力を与えた。その瞳は友であるドラゴンと同じように金色に染まり、細長く切れた瞳孔で世界を覗き見た。
 だからこそ、ドラゴンの眼を持ちながら、闇を払う者として――エル=ドラゴン、と少年は呼ばれるようになる。
 全てに、意味を与える者として。

「其は人にあらねど、人であり――そして、そこから救世の物語は始まった、か」
 呟き、男は笑みを浮かべた。
 それでも、未だ力に驕らぬ者はいないのだ。

 ――さぁ、ずいぶんと待たせてしまった。彼のところに行かねばならない。

 男は迷うことの無い足取りで歩み出した。
 人には見透かせぬ、先の見えない闇の中を。

□■□■□

 カーレンから話を聞いたティアは、つまるところ呆けていた。
「――え? じゃ、聖人エルドラゴンって?」
「記録にある限り、この世で最初にドラゴンアイと呼べる確かな力を発現させた者だ。本当は、『ドラゴンのエル』、という意味合いだったらしい」
「そっか……変わった名前だって思ってたけど、そんな裏があったのね」
 膝を抱えて頬杖をつくと、ティアは視線をちらりとベッド脇に座るカーレンに向けた。
「で? ベルに断り無く家に入って来ちゃってるけど。いいの、カーレン?」
「別に構わん。まだ私は治療中だから、怪我人には手出しはできないだろう。それよりも、話の途中で倒れたそうだが?」
 カーレンは言いながら、じろりと足元を睨み付けた。
 床の上にティアとカーレンが二人で揃って目を落とすと、完全にだらけきって眠り込んでいるベルの姿があった。昨夜、話の序盤を少し口にしたかと思うと、急に倒れこんだのだ。ぎょっとして覗き込んだら何とも間抜けな顔を晒して寝ていたので、逆に呆れて脱力してしまったが。
 仕方がないので一晩を熱にうなされながら眠って明かすと、気付けば隣にカーレンが座っていた。
 ドラゴンアイについて教えてやる、という昨日の約束を思い出してカーレンに聞いてみると、冒頭の話の続きが聞けたという訳だ。
「全く……、いくら驚きの連続だったからといって、こんな酒を煽るとは。玄関を見てきたが、同じものが空で五本は転がっていたぞ」
 ぼやきながらも、どこから出してきたのか、右手には"そんな酒"がなみなみと注がれたグラスがある。
「カーレンだって飲んでるじゃない。大体、朝からお酒? しかも、あなたの言葉を借りるなら――病人なのに?」
「それを言われると反論できないが……。傷はほとんど治った。後は魔力が満杯に少し足りないくらいだからな。完治を祝ってくれる者もいないときたから、まぁそういう事だ」
『何がそういう事ですか。要は単に、誰もいない場所でベッドの上にいるのが退屈だったんでしょう?』
 するり、とティアの傍らにルティスが出現して、腕の下に陣取った。肘掛のような具合になっているが、撫でろという意思表示なのだろうと察して、指先で頭を軽く掻いてやる。
『絶対安静と言われていたのに。勝手に抜け出してきたんですから。後でみっちりと怒られる事は覚悟の上ですよね?』
 ルティスの言葉には答えず、カーレンはグラスを持っていない手で、テーブルの上にあった調合しかけの薬を摘んだ。
「……ふん?」
 思案顔のまま妙な声で唸ると、カーレンは薬を口の中に放り込んだ。手に付いた残りを舐め取りながら、体調を聞いてくる。
「風邪はましになったのか?」
「実は、あんまり」
『そういえば、触れていてかなり熱いですね』
 小さな狼の発言に肩をすくめると、ティアは普段よりも熱のこもった溜息をついた。
「なかなか熱が下がらなくて。むしろ、昨日より上がった気がするわ。……カーレンにうつらないかしら?」
「いや、それは大丈夫だろう。今は酒が入っているから、身体も大分温まっている」
 首を振って答え、カーレンはベルが作っていた薬に、僅かにグラスの酒を注いだ。花の蜜も少し溶かしたりして、たまに味見で様子を見ているようだ。
「……何してるの?」
 聞くと、カーレンはティアに一瞥して、小さな鉢の底に溜まった薬を指ですくった。蜜のおかげで飴状になっていて、酒でのばされてはいるが、やたらととろみがついていた。と、それをティアの鼻先に突き出してくる。
「舐めてみろ。多分これで効く」
 言って、自分はグラスの残りを煽っていた。ティアは二、三度瞬き、「垂れるぞ」の一言に慌てふためいた。どうしようと焦った挙句、思い切って口に含んでしまってから自分のした事に気付いて固まった。
「仕方がないだろう。薬さじが床に落ちているんだからな」
 苦笑して肩をすくめるカーレンはさして気にした様子もなく、片手だけでグラスに瓶の残りを全て注いだ。本当に平然としているために、ティアもいちいち気にするのが馬鹿らしくなって、しかめっ面をしながらも薬を舌に絡めて舐め取った。
 少し味を確かめると、ほんのりと苦味があったが、蜜のやや癖のある甘味が効いていて割に食べやすいものだった。酒は思った以上にかなりきつくて、おかげで身体の芯から嫌な熱が表面に浮き出てくる気がした。
 確かにこれは効果がありそうだ。しばらくじっとしているだけで、じっとりと汗が滲んでくる。
「そういえば、カーレンはいつからここに?」
「さて……夜が明ける前からか。おまえが風邪を引いたというのは手当てを受けている時にリエラから聞いたから、移されるとしたらここだろうと思った」
 カーレンは指に残った薬を舐めながら言った。
「私の全治を待ってから、長の引継ぎは行われるらしい。……が、少し思うところがあってな。そこでだ、ティア。少し手伝ってくれないか」
「……何を?」
 カーレンは密かな含み笑いを零すと、ティアの方に身を乗り出した。酒精だけでなく、僅かに首筋から何か、不思議な香りがした。
「脱出だ」
 ベルはぐっすりと眠っているし、家の周りには誰もいないだろう。耳を済ませているのはティアとルティスだけだというのに、カーレンはまるで禁忌でも口にするかのように、密やかな囁きを唇から漏らした。
「……脱出?」
 そう静かに繰り返して、ティアはカーレンを見つめた。なぜ脱出なのだろう。
「言ったろう。気になる事があるが、それを調べるには一旦ここを出なければならない。今回の帰還はあくまでアラフルに呼び出されたというもので、長の引継ぎなどはその延長だ。なら、それを逆手に取って、引継ぎが行われる前にウィルテナトを出る」
「でも、カーレンはほとんど治ってるってさっき……」
「そうだ」
 言った彼の目に愉しむような光がちらつくのを見て、ティアは嫌な予感を覚えた。絶対に何か企んでいる。
「実はな。この酒、薬草と合わせれば薬にもなるが、調合次第では毒にも変わる。免疫を落としたから、今は本当に人並み程度の抵抗力しかないな」
 ほとんど瞬間的に、カーレンが手に持っていたグラスの事が思い出された。しかも、ティアが舐めた薬をカーレンも舐めている。まず間違いなくうつるだろう。
「な……っ、じゃ、風邪はうつらないっていうのは嘘だったの!?」
「……まぁ、落ち着け」
 驚きすぎて素っ頓狂な声を上げると、カーレンが軽くなだめ、ルティスが狙っていたかのように尻尾で口を塞いできた。
「弱りきっているところに私が風邪をひけば、それなりに猶予はできる。さっきの薬はかなりきつめに作ったから、しばらくすれば動き回っていても熱や頭痛はほとんどなくなるはずだ。セルの所に行って、レダンを呼んで来てくれ」
 カーレンの話を聞いていると、いい加減窒息しそうになったため、長い尻尾をはぎとった。ルティスを飼い主である彼の膝の上へと追いやり、ティアは困惑して眉尻を下げた。
「呼ぶって……どうやって呼ぶのよ。場所も分からないのに」
「一つ、方法がある。ドラゴンアイを使え」
「……え?」
「ベルを移動させられるだけの力があるのなら容易い。――そうだな。言ってしまえば、意識だけでの会話だ。おまえも前にやった事があるだろう」
 一体いつの事を言っているのか。思い出せずに眉を潜めていると、カーレンはやんわりと溜息を吐いた。
「リスコで、時計台にいた時。私や魔物の声を聞いただろう?」
「あ」
 ぽん、と手の平を打った。カーレンに聞き返したあの時、声無き声で話した事が確かにあった。
「じゃ、あの要領でやればいいのね?」
「捉えられるかどうかはやや賭けだが――あれも強大なドラゴンだから、おまえの声なら聞こえるだろう。ついでに力の使い方も覚えられる」
 うん、と頷いて、ティアは首を傾げた。
「でも、ウィルテナトから長が居なくなったら困らない?」
「アラフルやエルニスが居る。しばらくの間なら大丈夫だ」
 言うと、カーレンは立ち上がった。ルティスが肩の定位置に収まるのを待ってから、彼は顔をしかめた。
「明日には一気に調子を崩しそうだな……おまえ、どうして昨日の朝に気付かなかったんだ?」
「え? ああ、うん……ちょっとね」
 ティアはあえて、答えずに肩をすくめるだけにとどめた。まさか悪夢のせいで気分が悪いのだと思っていたとは、口が裂けても言えない。
 カーレンは何も知らないのだ。言える訳がなかった。

□■□■□

 中央大陸では、オリフィアとハルオマンドの国境沿いに、大陸を東西に横断する形で一本の街道が走っている。ナバレ街道、と呼ばれるまだ新しい街道だが、この辺りは少し前までは魔物が跋扈する危険な土地だったらしい。オリフィアが大国として名を馳せてから四年が経つが、ここまで安全な地帯に変えるのに一体何をしたのか、未だに様々な憶測が飛び交っているそうだ。
 ――曰く、巨大な魔物の始祖が群れを率いて現れて、辺りの魔物を一掃して去っていったとか。
 ――曰く、空を覆う程の闇が一瞬で広がり、紫電の稲妻が幾千、幾万も地に落ちたとか。
 ――曰く、夜が昼間のように明るくなり、銀の月が出した閃光が魔物を焼き尽くしたとか。
 ――曰く、遥か頭上から神の怒号が聞こえたとか。

 その他、もろもろ。

 何やら尋常ではない事が起こったらしい、と、その様子を見かけた(かどうかは定かではないが)旅人たちはあちこちでぼやいていた。
 そんな曰くつきの妙な道だが、便利な事には変わりはない。
 ナバレの延々と続く緑の大地と、近くを流れるシウォーヌ川を右手に見つつ。
 手綱と鞭で前にいる馬を操りながら、ロヴェは荷馬車を淡々と走らせていた。
「……何だかなぁ」
 馬が道をそれそうになったため、手綱を軽く引いて元の進路に戻す。後は盗賊が出没する事があると聞いたので、周囲をそこそこに警戒するだけ。何とも呑気で退屈な作業に飽いて、ロヴェはそう零した。
 なぜ自分がこうして荷馬車を走らせているのかと問われたら、間違いなく今なら文句がいくらでも言える。それを言わないのは、隣にちょこんとブレインが座って、こちらにもたれかかっているからだった。
 もたれるという事は遠慮がちな彼にはあまりないだろうと思っていたが、どうやら眠くなると誰かに寄り添う癖があるらしく、すやすやと音もなく寝ている。まさか、自分が文句を呟き続けたために起こしてしまうというのはあまりにも不憫だ。それだけでなく、文句を言おうにも言えないという状況にロヴェは置かれており、そんな事を呟こうものなら間違いなく後ろの二人に殴られるだろう。痛いのが好きだと言う酔狂な奴でもないので、黙っているのが現状だ。
「俺って可哀想なやつ」
 ぽつ、と誰にも聞こえないぐらいの声で呟き、再び手に持った鞭を振るうと、馬が不満そうに嘶いた。
「ちょっと痛いくらい我慢しろよ。俺だって嫌というほど我慢しているんだ。それに、俺が御者ほど扱いが上手くないのは当たり前だろ?」
 そう。事の発端は実に簡潔なものだった。御者が急に風邪を引いて倒れた、それだけである。まさかエリックやエリシアが、そんな流行り病にかかったって平気な顔をしていられる訳がないので、ロヴェが伝令と御者を塔に運んでやったのが一昨日の事。
 ……今年はひどい風邪が流行っていると聞いたが、まさかこんなところでその災いの影響を頭から被る事になろうとは思いもしなかったな、と内心でぼやいた。
 問題はその後だった。御者がいなくなり、馬車を操るのは誰かという事になったのだ。隠密行動なだけに代わりの御者を連れてくる訳にはいかない上、エリックが馬に乗る技術は上級のものを持っているだろうに、自分は馬車を繰る事はできないと言ったのだ。申し訳ないというよりは不機嫌そうな面持ちで、だ。
 騎士をやるか貴族をやるかしか能が無いのか、と小さく毒づくと睨まれたため、仕方なく口をつぐまなくてはならなかった。
 言うまでもないが、エリシアやブレインはそもそも問題外である。

「……仕方ない。俺がやるしかないな」
「なんだ貴様、馬車を走らせる事ができたのか」
「おまえは俺を今まで何だと思って見てたんだ?」
「みすみす獲物を逃がしたただの馬鹿大トカゲであるが、何か?」
「…………あ、そ」

 と、やたらと腹の立つ会話を騎士と交わした後、こうして手綱を握っているのだが。
 ブレインだけならまだしも、何が悲しくて、こんな奴と御者台に座っていなくてはならないのだろうか。思わず息を吐きかけて、慌ててロヴェはずっしりとした重い空気の塊を飲み込んだ。聞きとがめられては叶わない。実際、穴が開くほど横の男はこちらを見つめてくるのだから、微々たる表情の動きすら瞬時に読み取ってしまうに違いない。……どうも戻ってくる時に乗せてきたのが間違いだったらしいとロヴェは思った。
「……何? 俺の顔にでも何か付いてるのか?」
「いいや? 先ほどからくるくると考えている事が変わっている様子が面白いと思ってね」
 くっくっと、立ち上がれば足首に届きそうなほど長い黒髪を揺らして男が笑う。その笑い声が何となく気に入らずに、ロヴェは苦い顔を前へと戻した。
「大体さぁ、あんた、この前は髪を切ったんじゃなかったのか。また伸びてるぜ」
「どうも魔力を常人並みに抑えるのが難しくてね。有り余るものを抑えようとしたらこのざまだよ」
「へぇ、さいで」
「「ロヴェ!」」
 最後の発言は男のものではない。荷台に座っている二人の声だった。
「貴様、塔の方――領主様に何という口の利き方をするのだ!」
「――どうも新入りにしては敬意も何もかもが足りないわね」
 激昂する煩い男エリックと、冷え冷えとした視線を向けてくる少女エリシア。温度差の激しい二つの怒りを背に受けて、ロヴェは唇をひん曲げた。その様子を隣で見ていた男は小さく苦笑を漏らす。
「……と、言われているようだが? まぁ、新入りといっても、おまえも炎塔の中においては非公式だが、かなりの古参だからな」
「え? ……それは、本当なのですか、ルヴァンザム様?」
 見えないが、きっと彼女はきょとんとした顔をしているのだろう。自分とはひどい扱いの差だ。
「ああ、本当の事だよ、エリシア。そう、ざっと三百年ぐらい」
「では――、炎塔があった当時から?」
 ルヴァンザムは、エリックからの問いに鷹揚に頷いた。本当にこの男、いくつ呼び名があるのだか。エリックは炎塔に属していると同時に、貴族としてのルヴァンザムの近衛の騎士でもあるから、領主と呼んでいるが……それにしても肩書きが多い。
 ぎょっとした視線が自分に向けられるのを感じて、ロヴェは顔をしかめた。複雑な立場にあるのは、どうも彼だけではないようである。
「ま、要するに俺とおまえたちの立場は、今までがしっかりしていたら逆になってるのさ。といっても、表に加わるのは俺は反対だった。なんせ、ドラゴンだからな。炎塔の目的自体に沿わない」
 がたり、と馬車が一際大きく揺れる。
「あんた、何であそこに戻ってきてたんだ。ラーニシェス領に帰ったんじゃなかったのか」
「いや、そちらが少し面白い事になっているようだから。退屈していたんだよ、私も」
 嘘吐け、とロヴェは吐き捨てた。
「そこらを見れば腐るほど仕事があるだろうに。大体、この子はどういう了見で連れ戻した? あの村がカーレンに壊滅させられた時点で既に用済みだったはずだ」
「それについてはもう話したろう? 背中の紋章。それは、運命を引き寄せる力がある」
「……知ってるさ、それくらい。俺だってやった事がある。だからこそ紋章の怖さはよく知ってる。正直、あいつがやったのが信じられないぐらいだ」
 ふふ、とルヴァンザムは優雅に微笑んだ。貴族さながらの微笑だが、底知れないものを感じて、ロヴェの背筋に戦慄が走った。
「だからこそ……そう、だからこそ、なのだよ。彼の下に、直に全ての者が集まる。ブレイン・オージオは、そう成るべくして成った、私ですら予想だにしなかった存在なのだから」
 運命の歯車というやつだよ、とルヴァンザムは少年をそれになぞらえた。
「無限を刻む時の針は、歯車が無ければ動かないからね」
「歯車、ねぇ…………」
 ロヴェは口をふっとつぐませた。確かに、紋章を背負うブレインにはその役割が相応しいだろう。そして――ロヴェは膝の上で無垢に眠る少年の行く末を思って、しかし憂いは顔に出さなかった――、そして、最後には完膚なきまでにずたずたにされるのだ。彼にどんな終わりが待ち構えていようと、いずれにしても希望を見出せそうにない。悲愴な終焉ばかりが伏せた瞼に浮かんでは消えた。
 首を振り、考えられる事態を一旦全て消し去ると、ロヴェは再び口を開いた。
「……ひとつ確認していいか、ルヴァンザム」
「無論だとも。何かな」
 ロヴェは目を細めた。

「あんた、"生きたまま"いじったろ?」

 荷台の二人が妙な顔をした。意味が分からなかったらしいが、ロヴェは一生分からなくていいと内心で呟いた。いや、この二人だからこそ、分からせる訳にはいかない。馬鹿と無知、それに加えて無垢とくれば、もうたくさんだった。
 話に置き去りにされていれば、口を挟む事もないだろう。
「……ふ」
 ルヴァンザムは笑みを浮かべ、音もなく目を伏せた。眠っているようにも見えたが、薄く開いた唇から静かな言葉が漏れた。
「どれの事かな?」
「とりあえず、今あんたが思い浮かべた奴ら全員だ」
「やれやれ全く……おまえはいつになっても優しいね。けれどロヴェ、その優しさがいつか己の身を滅ぼす事にならないかと、私はいつも冷や汗ものなんだよ? 実際よくもあのレダンの所に通い続けたものだ。噛み殺されてもおかしくはなかったというのに」
「簡単な事だよ。確かに小さい時はやや狂暴だったが、俺が誰なのかはちゃんと知っていたんだ。あんた以外では多分今も昔もあいつ一人きりだな」
「だが、そういう事ならおまえも分かっていたはず」
 ルヴァンザムが不意に口を開いた。呆れ声だ。
「ロヴェ。おまえ、『あれ』に哀れまれているだろう?」
 肩をすくめ、ロヴェは答えた。
「同情されても仕方ない。実際俺はそういう奴だ」
「ああ、それだけではないよ。……レダンが嘘のように大人しくなった時期があったろう? あの時何が起こったのか、おまえは知っているはずだね」
「ある朝行ったら服を着てたな。それだけだ」
「では聞くけれど、塔に彼へ服を贈る気になる人間がどれだけいる?」
 答えられずに、ロヴェは黙した。すると、まるで沈黙の続きを知っているとでも言うようにルヴァンザムが笑った。
「ある朝行ったら服を着ていた。ではその前の晩はどうだったのかな」
「…………何も。いつも通り、ぼろ布に包まって丸くなっていた」
 そのぼろ布さえ、どこから持ってきたのかも分からない。最初に見た時は『やや』ぼろかった気がするが、どうやって手に入れていたか、その辺りは口にしなかった。ルヴァンザムはこの件がロヴェの仕業だと思っているからだ。
「では、侵入者がいたという事だ。あれだけの魔術の防御を張り巡らせていても、それをあっさり潜り抜けられるのは、よほど炎塔でも重要か、それか彼と縁が深い者だけ。でも、おまえは私に面と向かって嘘をついた事はないから、まぁ後者しかいないだろう」
 ルヴァンザムは荷馬車の進む先を見つめ、ふっと表情を消した。
「なぁロヴェ。あれは、一体誰だった? おまえは見ていたはずだよ」
「ああ、見ていたね」
 ロヴェは頷いた。手綱を引いて馬車を止めると、止まってから真っ先に馬には溜息を吐かれた。
 本当に、呑気なものだ、と思う。半ば呆れつつもぼそぼそとルヴァンザムにその名を告げると、彼にしては珍しく、本気で驚いたようだった。紫の瞳を軽く見開いたのがその証拠だ。

「え? ――あの子が?」

□■□■□

 あふ、とアラフルの出す間抜けな欠伸の音が隣から聞こえた。
 勝手にずかずかと自室に入り込んできておいて、さらには茶を淹れて一人楽しむという厚かましさ。いつまで経っても変わらない、周囲を振り回す傍若無人ぶりに溜息が出そうだった。
「おまえもつくづく、あ−、何と言おうか……運に恵まれとらんようだな」
「自覚はしている」
 物言いがいかにもわざとらしい言い方だったため、僅かにカーレンは苛立ちを覚えた。ついでに咳を二、三度してやると、予想通り、アラフルはかなり嫌そうな顔をした。
 長の位は辞したものの、里の主だった顔ぶれが全て寝込んでいる状態とあっては流石に彼も倒れるわけには行かないのだろう。恨みがましそうな視線からカーレンは目を逸らした。
「熱を出してから二日経つが……まさか、エルニスやベルにまで感染するとはな。どうせティアからもらった時点で、ただでさえひどい風邪をさらに強力にしてしまったんだろう?」
「それだけ分かれば十分だ。さっさと出て行ってくれ。感染るぞ」
「ほう、どこからだ?」
『アラフル様。マスターが怒り出す前に言う通りにした方が無難ですよ……』
 唯一、風邪も引かずにぴんぴんしているルティスがそんな合いの手を横から入れた。
 アラフルは答えずに嘆息を漏らしたかと思うと、黙ったまま丁寧に折りたたまれた紙を懐から取り出し、乱暴に突き出した。
「ん」
 ――貴方は子供か、と思わず口を突いて出そうになるのを抑え、眉を潜めてカーレンは差し出された紙を見た。よく見ると、妙な形にしわが寄っている。何のしわなのか、見覚えがあるためにすぐに分かった。鳥の足に直接くくりつけて送ってきたものだろう。
「……オリフィアから、だそうだ」
 軽く心臓が跳ねた。
 ちらりとアラフルに目を合わせた後、カーレンは手を伸ばして手紙を受け取った。
「ではな。私はそろそろ戻るとしよう。右腕があまり動かんのでな」
「ラジク、か?」
 最近父は眠りがちなのだと、見舞いにやってきたエルニスが呟いていた事を思い出した。彼はアラフルよりはいくらか年が上だ。確か、三十ほど。思って、カーレンは立ち上がったアラフルの背を見やった。
「貴方も、休んだ方がいいんじゃないか?」
 不機嫌になるかと思った。だが、足を止めて振り向いたアラフルは苦笑していて、カーレンは息を呑んだ。
「だから、おまえに託したのだ。早く風邪を治して位につけば、私も休めるというものだがな」
「……そういう事か」
 静かに呟くと、アラフルは頷き、部屋を出て行った。しばらく閉じたドアを見つめてから視線を落とし、傍らの机に手紙を置くと、カーレンはその手で無言のままルティスの毛並みをいじった。
『……マスター』
 仄暗い部屋で宥めるように声をかけてくる従者は、静かな瞳をしていた。
 そのまま撫で続けていても何が変わる訳でもない。糸が切れたようにベッドに伏せ、カーレンは大きすぎる衝撃を受け入れる為に小さく息を吐いた。
 ――まさか、彼の弱音を聞くとは思いもしなかった。
 力は衰える様子を見せないが、あの調子ではすぐに老衰を迎えるだろう。ラジクの体調が減退の一途を辿っている事も、少なくない重圧を彼に浴びせていたのだ。次の長としても、里の変化にカーレンは気付いておくべきだった。
 だというのに、自分はここを誰にも断りなく出て行く。彼に休息を与えてやる事は、しばらくはできそうになかった。
「千二百年……十分な時間だ。あの人にも休むべき時が来たんだろう」
 ドラゴンの時間は確かに長いが、終わりが来ない訳ではない。二日前にティアに話した、天井に描かれた金のドラゴンの姿を見上げて、カーレンは呟いた。聖人とドラゴンの子供。そういえば、アラフルは彼らと出会ってから価値観が変わったのだとぼやいていた。
 ルティスが、黙って鼻を頬に寄せてきた。湿った冷たい感触を目を閉じて楽しんでいると、黒狼は小さくカーレンに語りかけた。
『――終わりは来ます。死のない生は、生ではありません』
「分かっている。だから、それまでに終わらせる」
 頷くと、こんこん、と何かが軽くぶつかる音がして、カーレンは薄く目を開けた。視界の端で、日の差し込む窓を軽く叩いている人影が見える。
 逆光の中でそれが誰なのかを見定めると、カーレンは小さく目を見開いた。
 そして、僅かに笑った。
「ああ。今行く」
 聞こえる訳がないが――とりあえずそう答えて、カーレンはベッドから降りた。まだ身体はだるいが、何とか床とベッドの隙間から荷物を取り出す。ついでにベッド脇の手紙を片手に窓へと近寄り、鍵に手をかけた。
 下がるように合図をしてから窓を開け放つと、軽い調子の声が耳に飛び込んできた。
「で? 俺に何の用かな、カーレン」
「……少し頼みがあるんだ」
 窓枠を弾みをつけて飛び越えると、カーレンは雪の上に着地した。寝間着として軽く白いローブを一枚羽織っているだけの姿のために、隙間から入り込む風が冷たかった。
 立ち上がって膝についた雪を払うと、レダンは顔をしかめていた。見るからに寒そうなカーレンの格好に責めるような視線を送っている。この分だとティアからこちらの状態は聞いているのだろう。愚痴混じりにレダンに話している姿が簡単に思い浮かんで、少し笑えた。
「その前にまず着替えたらどうだ? 風邪がひどくなるぞ」
「大丈夫だ。それについては心配しなくていい」
 苦笑いして、カーレンは答えた。


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