Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-12- 願いの名前は

「……殺された?」
「どうも、そのようだ」
 ティアがうまく理解できずにいると、アラフルは長い溜息をついた。
「ユイが死んだ時、カーレンは自身も負っていた深い傷によって意識を失った。せめて、その有り様を見たときのエルニスの顔を見れば、あいつも少しは自重したんだろうがな。だが、本当の意味で大変だったのはカーレンが目覚めた後だ。重大な記憶の混乱を引き起こしていた」
 そういえば、とティアは思い出した。カーレンの記憶の中で妙な言葉を聞いた気がする。
 ―― 前にも、こんな事……あった気がするんだ ――
 遠雷のような爆発音が轟いた。はっと見やると、遠くの方で銀と明るい新緑の稲妻が無数に空を走っている。雷だと思ったのは間違いではなかったらしいが、その中で漆黒と翡翠のドラゴンがお互いの力を拮抗させている方が問題だった。
 壮絶な戦いに思わず呑まれて見入っていると、カーレンたちに対する野次や熱狂的な声援が次第に加熱していく中、妙に身体の温度が下がった気がした。
 記憶の混乱。思い出した事と結び付ければ無意識に理由に思い当たった。ティアは素早く首を戻してアラフルを見た。
「誰かが、以前にも死ぬのを見ていた?」
 アラフルは重々しく頷いた。
「言っている事はほとんど支離滅裂だ。聞き取れない言葉もうんざりするほどあった。そして、聞き取れた言葉は片言のみだったが、それだけでも十分何が起こったのか察せたよ」
 ちり、と頭が疼いた。涙の玉が頭に刷りこんだ記憶の切れ端に、僅かに残像だけが浮かんだ。

 ――夜の空。目の前でゆっくりと崩れ落ちていく人影が、自分に何か叫びながら手をかざしていた。辺りに生臭いものをふりまいて倒れていくのが、横たわっていても見えた。
 イキロ、と。あれはどういう意味の叫びなのだろう。ぼんやりとまだおぼつかない思考の隅で、本能がけたたましく警鐘を鳴らしていた。身体は痺れたように動かない。でも動かす事はできるはず。
 自分は、どうすればそれを為せる?

 これもカーレンの記憶なのだろう。けれど、ティアにも同じような経験があったと知ったばかりのために、当時の彼を目の前に生で感じるぐらいには想像できた。
「その時は、まだ幼すぎて分からなかったのだろう。それでも悠久の時を生きるドラゴンとて魔獣であり、獣だ。経験は何よりも物を言う。記憶ももちろん、生まれた時からある程度は作れるものだからな。だが、後で蓋を開けてみれば、そこに待ち受けているのは地獄だ」
 顔を歪め、アラフルは今まさにしのぎを削っている二人を見やった。
 カーレンとエルニスの戦いを見て、最強の魔物として恐れられる力を持つドラゴンというものを、ティアは今まで、その真の意味すら知らなかったのだと思い知らされていた。人の知るところを超えた先で、どんなものよりも遥かに超越した力を振るう彼らは確かに脅威だ。
 全身全霊を傾けて戦う彼らの姿が霞むたび、山が大きく削れて雲が二つに裂けた。凄まじい余波を見れば、なるほど、アラフルの里が沈むという言葉にも頷ける。そして、一ヶ所にそれほどの力が集まっている異常さにも、ティアは薄々気付き始めていた。
 なぜ、人間のようにドラゴンたちは暮らしているのだろう。下手をすれば人と見分けがつかないほど、カーレンは人間によく馴染んでいた。エルニスさえ遥かにその域を超えているというのに、ティアたちの常識というものをよく知っていたのだ。
「分かるか? 私は、カーレンの失ったものを少しでも取り戻してやりたいと思った。……あまりにも、彼に似ていたから」
「彼?」
「ロヴェ・ラリアン。ある意味、あれ程に美しいドラゴンはいないだろうな」
 ティアは目を瞠ったが、内心眩暈のする思いだった。またロヴェだ。
 一体彼は何なのだろう?
「私が彼と出会わなかったら、この里も生まれなかった。……彼が求めたのは、たった一つのものだけだからだ。カーレンが失くしたものと同じ、な。若き頃の私はそれをひどく嫌っていたが故に、対立もしたが」
 アラフルは疲れた動作でゆるりと頭を振り、片手で顔の半分を覆った。
「だがやはり駄目だな。失くしたものは二度と取り戻せない。新たに作り出して与えても、それは同じものにはなり得ないのだよ、ティア・フレイス。私は居場所は作れても、真に彼らを癒す事は不可能だったのかもしれない。誰よりもその大切さを知っていた者に諭されて、作り上げたものは所詮欺瞞にしか過ぎなかったのだ」
 ただ黙すしかないティアを、そして、何も言わずに会話の成り行きを見守っていたセルを、アラフルは温かい笑みを浮かべて見つめた。
 ああ、とティアは気付いた。その瞳に、どうしようもないほどの無念が宿っているのを確かに見てしまったのだ。この愚かで気高い真紅のドラゴンは、ロヴェやカーレンが求めたものを作りたかった。その果てに、偽りしかないのだと分かっていても。どんなに悔しくともそれを表に出す事なく、他の者たちのためにこの里を築いた。
 押されていたエルニスが一転してカーレンに反撃をしたらしい。一層、歓声がわっと沸き上がる。
 その喜びの声が、果たしてどれだけの辛苦を積み重ねた上に作られたものだったのか。この永く続く時を生きたドラゴンが見てきたものを思って、ティアは吐き出そうとしていた文句も怒りも何もかも、矛先を収めざるを得なかった。
「だが、一度作ったものを捨てる事はできない。ここは頼る者のいなかったドラゴンや私の仲間が集まってできた、最初の者達にとっての最後の楽園だ。私はこの先も里を見守る。居場所があるのならそれは守られなければならない。――だから、自由な君たちに託したい」
 そう締めくくり、アラフルは里中のドラゴンが見ているのも構わずに、ティアとセルに向かって腰を折り、深く頭を垂れた。
「お願いだ。カーレンを――、あの子に、もう何も失わせないでくれ」
「――アラフル」
 呟いたティアは、確かに彼を傲慢だと思った。ロヴェが教えてくれたものを作ってみようと考えて、失敗した。けれどそれでも、与える事を諦めなかった。できなかったと言い訳をするより、再び挑戦する事で償おうとした。背負うものの重さを知っていたから立ち止まらずにここまで歩いてきたのだ。その確かな強い思いが、こうしてアラフルに頭を下げさせている。
 今まで不躾な口の利き方しかしていなかったが――それでセルが蒼ざめていたのだとようやくティアは気付いた――、敬意を払うべきだと、素直にそう思った。
「……頭を上げて下さい、アラフル」
 一歩前に進み出て、ティアはアラフルに手を差し出した。きっとそうするのが正しいと思ったからだ。
 緩慢な動きで頭を元の場所へと戻した彼の手を、ティアは握った。
「ごめんなさい……私、約束します」
 最初に謝罪の言葉を口にすると、アラフルの表情が強張った。そんな意味ではないのだとティアは首を振りながら、安心させる為にそう付け加える。
 何も考えずにこんな事を行った訳ではなかったのに。それすら分からずに、目先の怒りをただぶつけようとしていた自分に気付いて、ティアは軽く自己嫌悪に陥っていた。
「僕からも、ね」
 そっと冷えた肌に触れていたティアの手の上に、セルが柔らかに温かい手の平を重ねた。見上げると、わずかに微笑んでいる。
「で? 周り、僕たちとカーレンたちと、どっちを見ればいいのか困惑しちゃってるよ?」
 慌てて見回すと、セルの言う通りだった。傍から見れば驚愕ものの長の行動に、困惑した表情を浮かべて見守る者が何人もいた。背後をかなり気にしながらなのは仕方ないが――やはり少し気圧される何かを感じる。
「……兄さん、いっつもいい所ばかり取ってくんだから」
 兄に向き直って唇を尖らせると、セルはじんわりと苦笑した。
「ひどいなぁ、それは。ほら、話が終わったんなら、カーレンとエルニスがどんな戦いをしていくのか見守ってあげようよ。……一応、君も懸賞として懸けられている訳だし」
「嬉しくないわ」
 これだけは本気だった。遠慮なくぶった切るや、アラフルがすまなさそうそうな顔をした。
「だから、その事については悪かった。あの二人なら、どちらが勝っても大丈夫だ。今はお互いあまり信頼していないようだが……どちらもきっと蹴るだろうからな」
 彼の瞳をしばらく見つめると、ティアは視線を外して歩き出した。目を向けた先では、二体のドラゴンが激しく争っている。下手をすると立っていられないぐらいの衝撃が近付くにつれ伝わってくるのを感じて、ティアはそこで足を止めた。
 彼は、何を思ってずっと戦い続けてきたのだろう。永い時を想い、空虚な気分で見上げると、漆黒のドラゴンと目が合った。あちこちの鱗が戦いの中で削ぎ落とされ、時折雨粒のような音を立てて雪の上に黒い欠片が落ちた。紅いものもいくらか混じっている。北大陸に向かう船の上で、ルティスの張った結界にレダンの血が落ちてきたときの事が嫌でも思い出された。
『――――、』
 何も言う事なく、彼は目を逸らす。ティアもまた、何も言わなかった。
 見ているだけでいい。それが彼の望みなら。
 ただ勝つため、勝利を求めてドラゴンは黒い皮の翼を広げる。数箇所が切れたり破られたりして、血が僅かに滲んでいたが、痛みを感じてはいないようだった。
 カーレンが睨む先を見やれば、やはり翡翠色のドラゴンがそこにいた。明るい緑色の魔力をふりまきながら四肢を踏みしめているが、時間が過ぎていくと共に、魔力の光が輝きを増していった。
 応えるように、カーレンもまた銀の輝きで体中を覆っていく。
 そうか、と思った。これが全力での勝負なのだ。二日前に見た、ドラゴン三体を相手取ったカーレンは、少しも本気を出してはいなかったらしい。
 不思議と、次で決まるのだと確信が持てた。なら確かに、見ているしかない。静かに吐き出した白い吐息の向こうで、じわじわと二体のドラゴンが跳び出す力を溜めていくのを、動かずにティアは眺めていた。風で黒い髪が煽られて、今にもどこかにさらわれそうな心地がした。
「ティアちゃん!」
 ようやく危険だと感じ取ったのか、セルが声を上げて戻れと言うのが聞こえた。口々に応援していたドラゴンたちもティアの置かれた状況にようやく気付いて、やめろと叫び出した。
「おい馬鹿っ、戻れ! そんな所にいたら、爆発に巻き込まれて死んじまうぞ!」
 叫んだ青年を見やると、カーレンにちょっかいを出していたドラゴンだった。取り巻きなのか、残りの二人の男女も必死な顔で叫んでいる。
「やめなさい! あんた、命が惜しくないの!?」
「……間違いなく死ぬ。いいのか? 二人は喜ばないぞ」
 声を聞きながらも、ティアはなぜか笑みが漏れた。背後では身の毛がよだつ程の魔力が満ちていくというのに、少しも怖い気がしなかったのだ。
 だが、まだそこに割り込む声があった。

「ちょっとカーレン、エルニス、あんたたち正気なの!? そのちっちゃな子、間違って死なせたりしたら今度は本気で両方ともぶっ飛ばすからね!?」

 先ほどの三人の怒号も形無しの、気迫だけで凍りつきそうな大音声が響いた。驚いて声のした方を見ると、ベリブンハントがワイン色に変じた瞳を怒りにぎらつかせ、じりじりとティアに近寄ってくるのが見えた。威勢がいいくせにへっぴり腰だ。本当は臆病なのかもしれない。
「動かないでね……やばいのよ、ホント。今のカーレンとエルニスがぶつかったら、私だってただじゃすまないんだから!」
『……ティア。少し下がれ。冗談でなく、本当に吹き飛ぶぞ』
 ベルのたっぷりどすを効かせた大喝が堪えたのか、唖然とするティアにカーレンが苦い声で唸るのが聞こえた。エルニスもまた、巻き込みはしないかと冷や汗をかいてこちらを見ているようだ。それでもこれは戦いなのだから、一切の手抜きができないのだろう。
 唯一、アラフルだけが一人、真剣な目で成り行きを見つめている。彼はあくまで傍観者に徹するのだろう。戦いが終わるその時までは。
 きっと、この争いが終わったら、親馬鹿かと思うぐらいに二人を心配して駆けつけるはずだ。
「……大丈夫よ」
 ティアは、三人にだけ聞こえるように呟いた。すっと右手が自然に上がり、触れられるほど近くまで来ていたベルの肩を軽く押した。
「え、ちょっと!? あ――!?」
 ベルの姿が瞬時に目の前から掻き消えて、怒鳴っていた三人組の足元に放り出されるのが見えた。今まで試した事はなかったが、触れたものを空間移動させる力は、思った以上に疲れるし、制御するのが難しかった。
 ともすればへたり込みそうなのを抑えながら、ティアはゆっくりとカーレンに振り向き、微笑んだ。
「巻き込まないようにしてくれるんでしょ?」
 そう、だから自分は最後まで見届けよう。彼が失くしたものの代わりを見つけられるまで。
 思えば、この時ほど苦々しげな顔を見たのも滅多にない事だ。
 次の瞬間、カーレンは細面なドラゴンの顔に憮然とした表情を浮かべたかと思うと、エルニスへと真っ直ぐに跳び出していった。
 ――肌に僅かな痛みを感じる。
 強烈な魔力の奔流。閃光が眩しくて、ティアは目を瞑った。瞼の奥まで灼かれるような奇妙な感覚があったが、一つ間違えば身体が消し飛びそうなほどの危険な流れに触れながら、ティアは傷一つ負わなかった。
 絶対にカーレンの魔力がティアを傷つける事はないだろう。エルニスもそうだ。だからこそ、二人を信じてその瞳を開いた。
 ―― ッ、ァアアアア! ――
 ドラゴンアイが白い洪水の世界さえも見通したために、光の中で二人が雄叫びを上げてぶつかり合う姿が見えた。銀と新緑が混ざり合って泡となり、蜃気楼のように弾け――。

 爆発が巻き起こった。

「くぅっ――!?」
 音という音をかき消して轟音と衝撃波が身体を叩き、ティアは歯を食いしばりながらも障壁を張った。この場で退いてはいけない。目を細めながらもまだ二人の姿を見定めようと、縦に視界の裂けた瞳孔を意識して細めた。
 そうして、新緑で全てが塗りつぶされた。


 その場に収まり切らずに溢れ出した魔力が何もかもを押し潰して飲み込み、やがて空気中へとゆっくりと光が霧散していった時、ティアは巨大な窪地の斜面にうずくまっていた。
 どうも身の内の魔力を使い果たしたらしく、ふらふらと足元が頼りない。馬鹿みたいに重いと思っていた頭を振ると、驚くほど空っぽのように感じるのだ。
「……ぅ」
 ティアは小さく呻きながらも、視線を足元から前へと上げた。窪地の中央に、人へと変化したカーレンたちの姿がある。霞む視界に二人の姿を捉え、よろめきながら立ち上がった。
「カーレン……負けた、の?」
 エルニスに胸倉を掴まれて、宙に足が浮いている。吊り上げられたままぐったりと動かないカーレンの姿があった。戦いの中盤で相手であるエルニスが猛攻を始めたようだから、そのせいもあったのかもしれない。
 亀のようにのろのろと近寄っていくと、エルニスはティアに一瞬だけ視線を向け、またカーレンをじろりと睨みつけた。
「一つ、聞きたい事がある」
 ぜぇ、と荒い息が口から漏れる。あちこちが切れたり引っかかれたり、良く見ればカーレンを掴みあげる腕にひどい傷を負っていたが、それでも苛烈な光がエルニスの瞳から消える事はなかった。
「何でそこまでして、勝とうと思ったんだ」
 意志を聞くのは、勝者のせめてもの情けという事なのだろうか。
 カーレンの唇が僅かに動いて何か呟こうとしたが、止まった。代わりに笑みを形作って頭を持ち上げ、エルニスを見下ろした。額が切れていて、血が一筋顔を伝っていくのがはっきりと見えた。
 血を振り撒かないように気をつけているのか、カーレンは首を小さく横に振る。
「さぁ。けれど……、これだけは、絶対に――譲れない」
 途切れがちに返された答えに、しばらくの間エルニスは口をつぐんでいた。
 やがて、やたらと大きな舌打ちが聞こえ、カーレンは物のように扱われて地面へと投げ出された。
「カーレン!」
 ティアはエルニスの暴挙に悲鳴を上げて、即座にカーレンの側にしゃがみこんだ。
 一方、乱雑にカーレンの身体を地面へと放り出したエルニスの顔は、舌打ちと同じぐらい盛大にしかめられていた。
「ああ、そうかよ。三百年もかけてようやく答えを出したか、この馬鹿が」
「っ……ずいぶん、扱いが酷いな」
 カーレンが地に伏せながら低く呻いた。恨みがましい声。けれど何かがおかしい事にここにきてようやくティアは気付いた。
 まだ彼は笑っているのだ。掠れた声からは力の抜けたものではなく、何か、揺るぎない芯があるのが感じ取れる。負けたにしては、清々しいだけに留まらず、可笑しくてたまらないようだった。
「酷くて当然だ。見たか、ティア? こいつさっき、爆発まであと少しのところで自分から魔力を出すのをやめて、ずたずたに引き裂かれるのも構わずに俺に一発食らわせたんだよ」
 あの時服を掴んでなかったらどこに吹っ飛ばされてたか、とエルニスはぼやいた。
「え――!?」
 慌ててティアがカーレンの身体をぺたぺた触って調べると、エルニスが言った通り、黒衣は血を吸ってべたついている上、破けていないところがないという悲惨な状態になっていた。改めて見ると顔色もずいぶんと蒼い。
 しかもエルニスの言葉を鵜呑みにして信じるなら、どうりであの爆発がほとんどエルニスの魔力だけだった訳だ。眉を潜めてティアがカーレンを睨むと、彼は地面に横たわったまま目を伏せて非難の視線を浴びまいとしていた。これだけの傷で激痛が走らない訳がないだろうに、少しも痛くないという顔をするところに、エルニスの気持ちがはっきりと分かるぐらいにはむかっ腹が立った。
「全く、最後の最後で――あんな命知らずな真似、二度とするな。いや、俺がさせない。分かったらさっさと出すものを出せ、のろま」
 大きく抉れた大地の淵に、続々と里の者が集まってきていた。静かな喧騒はカーレンの耳にも届いているのだろう。
 地面に力なく投げ出されたままの恰好で、カーレンは痛みに引きつれた顔で苦笑しながら――のろまと言われても仕方がないくらいの――、緩慢とした動作で首元のサファイアを鎖ごと引き千切り、そのまま右腕を掲げた。
 しっかりと天を突く拳が、奇妙な形で握られている。
 その中からきらりともう一つ、真紅の光が零れ落ちたのを目にして、ティアはあんぐりと口を開けて交互に二人を見比べた。笑みを隠し切れなくなっていくカーレンと反対に、隣に立つエルニスはますます苦い顔になった。
 眩い青と赤、二つの光が宝石から飛び出したかと思うと、穴の底から外へと放たれていった。青の光の方が輝きが強く、それの意味するところにしんと喧騒が止み、一瞬、山全体が静まり返った。

「う……わぁああああああっ! カーレンが勝ったぁああああ!?」

 ――と、一体誰が最初に叫んだのか。どっとせきが切れたように驚愕の喚声が沸いた。喜びの声ではなかったのが大いにティアにとっては不本意だったが、どちらにしても信じられない結果だった。
「え……ぅう、嘘――きゃああ!?」
 あまりに大きすぎる喜びを理解できずに叫びかけると、カーレンにぐっと抱き寄せられた。傷だらけだというのにどこからそんな力が出るのか、両腕で拘束されて動けない。彼の上に倒れこんだまま目を白黒させていると、カーレンの頬が頭に寄せられているらしく、耳元で声が聞こえた。
「く――は、ははは。ティ、ア――おまえは、本当に――っ! ……ふ、ふふ、あはははっ!」
 堪えきれないといった様子で、たまに痛みに呻き声を混じらせながらカーレンは笑う。
 ひきつけでも起こしたように全身が震えている彼をうんざりした顔で見下ろし、エルニスは口を開いた。
「ほら、いつまでも笑ってないで立ってくれ、"長"。全力で戦った挙句に一発喰らって、俺は死ぬほど疲れてるんだよ」
 とん、とエルニスが激しい戦いの最中で露になった喉元を叩くと、そこには拳大の赤黒い痣と浅い切り傷があった。首から下がっていたはずのルビーのペンダントは鎖ごとなくなっていて、――つまり、最後の瞬間にカーレンはペンダントを掠め取っていたという事になる。
 ティアはちらりと、腰に回されたカーレンの右手にこっそり目を落とした。サファイアとエルニスのルビーがしっかりと両方とも鎖を握られてぶら下がっており、それが勝利の条件だったのだと今更ながら思い出した。
 カーレンはひとしきり笑い終えたのか、ティアを抱いたまま身を起こした。おかげでもたれかかるような体制になってしまい、傍から見ればどんな風に見えるかを考えた途端に赤面して身体が縮こまってしまう。全く、この男はいきなり何をしてくれるのだろう。
「それは、同感だな……、ああ、来たか」
 疲労の見え隠れする声が頭上で響き、何かに気付いたような気配を見せた。
「え?」
 声を漏らして振り向くと、大穴を滑り下り、アラフルとセルが小走りにこちらにやってくるところだった。心底呆れ顔のクェンシードの長と、ぐしゃぐしゃの泣き笑いを浮かべる兄がなんとも言えない取り合わせだ。遅れて他のドラゴンたちも押し寄せてきていたために、ティアはその勢いの強さに呆然とするしかなかった。
 呆気に取られていると、背後でカーレンが立ち上がろうとする動きがあった。慌ててティアは身体を遮二無二よじると、拘束していた腕からようやく脱して、素早くセルに駆け寄った。
 顔を涙まみれにして、情けない表情の兄は腕をためらいがちに広げた。ティアは迷う事なく、体当たり気味にそこに逃げ――いや、飛び込んだ。
「兄さんっ!」
「ティアちゃん!」
 がっちりと妹の身体を締めつけ、兄は夢中で肩に顔を埋めてきた。潤む目がまさに迷子の子供のそれだ。
「無事でよかったよ――っ!?」
 ぐりぐりと存在を確かめるため、額が真っ赤になるほど肩で擦ると、セルはばっと顔を上げた。
「あはは、ほら、泣かないの。兄さん、もう立派な大人でしょう?」
「十七歳でも大人でも何でもいいから……っ、うぅっ、とにかく無事でよかったぁああ! もし死んでたりしちゃってたらどうやってカーレンとエルニスの寝首をかっ裂こうかって必死に考えてたんだよ!?」
「おい」と「こら」という底冷えのする声が同時に後方から上がったが、再会と無事の喜びを噛み締めている兄には聞こえてはいないようだった。普段あまりそんなところを見せないから忘れがちだが、命がけでシリエルの森ではティアを救ったりと、そういえばこの兄は根っからの妹思いだった事を思い出した。
「兄妹というより、もはや母と子だな……」
 どこか達観したような目で呟きながら、アラフルが懐から細長く裂いたような布を取りだした。
「リエラももうすぐこちらに来る。その前にエルニス、腕を出せ。それは止血しておかないとすぐに傷が塞がらんだろうに」
「あ、でももう俺の血は止まりましたよ、長……っと、アラフル様」
「だが傷は治りきっていない」
 嘆息混じりに指摘すると、アラフルは呼称には言及せずにエルニスの上腕部を縛り上げた。
「それと、カーレンは――私にできる事はないか。怪我をしすぎだ、馬鹿者が」
 その間にようやくセルからティアが離れると、カーレンは疲れた微笑みを見せ、手を伸ばしてきた。
「驚かせたのは謝るが――とにかくもう一度こちらに来い、ティア。おまえにはまだ、勝った方の寵姫となる約束があったはずだ」
「わ、そうだった」
 ティアだって、このまま誰かのものになる気はない。……少なくとも、今はまだ。
 思いながら近寄ると、カーレンはティアの肩に片腕を置き、もう片方の手で奇妙な銀色の模様を描き出した。それを維持し続けながら、カーレンは口をティアの耳に寄せて囁きかける。
「……気を付けろ。ドラゴンアイは下手な使い方をすれば、己の身さえも傷つける危険な力だ。寵を与えたドラゴンが、本来ならば使い方を教える必要があるんだが。いろいろ落ち着いたら教えてやるから、それまで無闇な発動は控えておけ」
 責めるような口調だったが、本気でティアの身を心配していたらしい。模様はカーレンが指で軽く弾くと雲散し、それを目の端に捉えながら、いつの間にかティアはうつらうつらとまどろんでいた。
「ティア?」
 怪訝そうにカーレンの眉が潜められる。
「あ……うん、ごめんな……さ、い――?」

 謝りかけて、ティアはふらり、と急速に身体から力が抜けていくという奇妙な感覚に襲われた。

「あ、おい!?」
「ティ――ティアちゃん!」
 カーレンがぎょっとした声を上げ、セルが再び真っ青になっているのが見えたが――、
 地面に崩れ落ちる寸前、カーレンに咄嗟に抱きとめられていた。
 ……何か、どうも前に似たような事があったような。やや複雑な気分のまま、ティアの意識はすとん、と闇に落ちた。

□■□■□

 ……で、なぜこんな事になったのだろうか、とティアは毛布に包まりながら考えた。

「――全く。いい、ティア? あなたはもう少し自分の事を知りなさい。慣れていない力を使ったせいで魔力は空っぽになっていたのよ? それに加えて、ここに来るまでずっと緊張の連続だったみたいだし、ほっとして旅の疲れが出たってところかしら。……まぁ、早い話が――よくもここまでひどい風邪をひいたわね、あなた」
 気分はどう、と尋ねられ、ティアは唸った。
「最悪……」
 まともに返事をする気力すらない。身体がこれでもかというほどだるく、気絶する前の出来事を、記憶が戻った時とは別の痛みを訴える頭でティアは思い出していた。
 あれから結局、いきなり皆の前で倒れたおかげで、自分は散々な目にあったらしい。
 気が付いて目を覚ますと既に辺りは暗くなっており、ティアはなぜか、見慣れない家のベッドの上で唸っていたのだ。壁にかけられたタペストリーや、自分に掛けられたふんわりとした桃色の毛布などから女性の家だとは分かったが、まさかベルの家だとは思わなかった。
 しばらくして戻ってきたベルに驚きつつも事情を聞いてみると、気絶した後、自分はかなり高い熱を出していたらしい。アラフルの妻であるリエラが診てくれた結果、風邪をこじらせていた事が分かり、うつしては大変だというのでセルとは引き離された。それで、こうしてベルの家で世話になっていたようだ。
 というよりは、その間自分はずっと意識がなかったので、気が付くとそうなっていたという方がずっと真実に近いのだが。
「カーレンとエルニスは……あれから、どうなったの?」
 どうにか起き上がって訪ねると、再び頭が嫌な疼きを訴えた。
「ああ、あいつらはね。エルニスの方は全快よ。もともと自分の魔力が爆発では勝ってたから、そんなにひどい怪我はしなかったようだし。腕の怪我なんかは、カーレンを助けた時のものだから名誉の負傷みたいなもんよ。ただ、カーレンは、ね……」
 ベルは渋い顔をしながら、つい先ほど運んできたスープをテーブルの上に置いた。
「リエラ様がいろいろ手を尽くしたからどうにかなったけど、あれは流石に危なかったかしらね。半分自業自得だけれど、失血量がひどかったのよ」
 カップに並々と注いだそれをティアに押し付けると、ベルはゆっくりと話しながら、棚からいくつかの薬瓶を取り出した。中には薬草を乾燥させた葉やら、花の蜜やらが入っているようだ。彼女は背中で扉を閉めると、冷ましながらスープに口をつけるティアの隣で、薬さじを片手に調合を始めた。
「かなり荒療治だったみたい。加えて魔力、体力、気力の全てが戦いで激しく消耗していて、体中に裂傷あり。ドラゴンでも急に回復できるようなものじゃないときたわ。慌てて造血の薬を飲まされたくらいだから、よっぽどだったんでしょうね」
 そこまで一気に言い切り、ベルがスープの湯気の向こうでふーっ、と長く溜息をつくのをティアは眺めていた。
「……今は?」
「ぐっすり寝てる。ていうか、寝込んでる。ざまぁみろよ、あなたみたいな可愛い子を戦いなんかに巻き込んだから」
「そ、それは私が勝手に飛び出して行っただけだと思うんだけど……?」
「えぇ? でも絶対、あれは巻き込むの分かってたわよ。なーにが少し下がれ、よ。ティアももうちょっと気をつけなさい。それと、ドラゴンを移動させるなんてふざけた真似は今後は絶対にしない事。同族でも疲れるんだからね、あれは。人間のあなたができたなんて、本当にどうかしてるわ」
「ベル……酔ってる?」
 噴水のように飛び出してくる文句と愚痴に対し、頭痛でくらくらしながらも訪ねた。さすがにこの状態で酒精の匂いはきつい。気付けばベルの傍らには、真紅の酒瓶が置かれていた。ラベルを見るに、どうも北大陸では有名な酒で、ティアも聞いた事があるものだった。……確か、かなり強い蒸留酒だったはず。
 と、聞いた途端に、ティアは即座に睨まれた。完全にベルの目が据わっている。
「酔ってないわよ」
 そんなに臭っているのに? とティアはぼうっとしながら首を傾げた。
「あなた、ひょっとして自覚ないの?」
「うーん……」
 ティアはベルから目を逸らして少し考えた。あまり頭を巡らせると頭痛がひどくなるためだ。
 それでもよく分からなくて、空を仰ぐ。さらにもう少しだけ考えて、ベルに視線を戻した。
「ないけど。でも、カーレンから注意はされたわ……」
 はっきりしない思考に苛立ちながら答えると、ベルは脱力して特大の溜息を落とした。ああ、やはり酒臭い。
「最初から説明しなきゃいけない、って事ね。……絶対にカーレンの奴、長だろうと何だろうと明日は締め上げてやるんだから」
 ぽつっと何やら不穏な言葉を呟くと、ベルは椅子に座り直して、ティアの顔をじっと見つめた。
「何から話せばいいのかしら……まず、ドラゴンアイの力が危険なものだって言われているのはね。それがもともと昔からあったけれど、ひどく曖昧なものだったからなのよ。――そう、力の輪郭がはっきりとして、安定させられるようになったのは最近の事。それも、とある人間の少年が千二百年も前に現れた事から始まったらしいわ」


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