Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-11- けれど望みは傲慢で

 炎が勢いよく燃えさかる。
 石畳を舐めるようにしてところどころに陽炎が躍り、辺り一帯がどこまでも続く紅の海。赤々と嘲笑いながら破壊を謳歌する火の影と、流れて黒く焦げた血からなされる紅い海だった。
 倒れ伏す人は誰一人としてぴくりとも動かない。先ほどまで命あった者が、ただの物と化していた。その事に少女は恐怖したのだ。
 炎は少女の知る人々の命を奪い去っていった。今も少女が身の内に大切に抱えているものを、貪欲に求めて迫ってくる。
 ならば、とまだ幼い少女は茫然と立ち尽くしながら思う。なら、自分がさっき見たものは何だったのだろうか。
 寒く冷たい風が吹き荒ぶ街だ。けれどここほど人の心が繋がっている街もない。そんな場所に破壊は一瞬でもたらされた。自分の良く知る、のんびりと老婦人が買い物を楽しんだり、仕事帰りの男たちが酒を飲み交わしていたり、男女がそれぞれの恋人と共に温かい時を過ごしたりしていた、そんな光景はもうどこにもなかった。
 ずっとこんな毎日が続くと思っていた。自分もまた、さっきまで何人かの友達と一緒に、他愛もない話で笑いながら帰る途中だったのだ。
 この人たちと同じように、彼らも死んでしまったのだろうか。過ぎる考えを振り払い、少女はしかしその場から一歩たりとも動けなかった。目に、炎にすっぽりと包まれて地面に横たわった、小さな身体が映った。
「イシュー」
 ――ああ、イシュー。さっきまであんなに怯えていたのに。
 少女は唇の動きだけで、命を落とした小さな男児の名を呼んだ。
 死んでしまったのか、とどこか麻痺した頭でぼんやりと思う。嘘みたいに涙が出てこなかった。眼球は乾いていて、潤む気配すら見せない。
 マリーも、ディックも、フェルノーも。みんな、みんないない。生き残っているのは、わたしだけ。
 父や母の名を呼んで助けを求めようにも、そんなものは少女が自我を持った頃から存在していなかった。
 けれど、一人だけ、そんな人がいた気がする。誰だったろう? その人なら、絶対に自分の事を助けてくれる。可哀想に、怖かったろう、と抱きしめて頭を撫でてくれるだろう。
 そうだ。忘れていた。彼は、無事なのだろうか。怪我をしていなければいいなと思う。初めて出会った時も傷だらけだったから。

 でも彼って、誰?

 そんが疑問が、少女の中にむくりと沸き起こった。一つ生まれたらまた次が。どこからそれほど出てくるのかと呆れるくらいに、疑問が生まれた。
 イシューって、誰だろう? 少年の名前だ。でも、自分はそんな少年を知らない。
 マリーって、誰だろう。決まっている、友達だ。少女が一人だった頃から自分を理解してくれた、ちょっとませた女の子だ。けれど、そんな女の子も友達も自分の中にはいない。
 ディック? 聞かれるまでもない、毎回気の弱いフェルノーを巻き込んで悪さをする悪戯っ子。そういえばこの間は、あの人にとんでもない事をしてくれたっけ。だけど、そんな男の子たちは少女の記憶にはなかった。
 そして、あの人は。

 ――誰? あの人なんて、私は知らない。

 炎が少女を囲んでいた。どこか遠くで、鐘が鳴っている。火事を知らせる鐘を誰かが必死に鳴らしているのだ。それともこれも、この灼熱の身体を持つ魔人たちの仕業なのだろうか。いいや、実体のない彼らには鳴らせない。きっと鳴らし続けている人も、直にその手に命を握りつぶされる。今の少女のように。
 ちょっと長く伸ばしすぎた髪が、炎熱に煽られてふわふわと揺れる。鐘の鳴る音はどこからするのか。人の気配を求めて、現実と夢の狭間で少女は辺りに視線を巡らせた。
 耳に入る音は、だんだん大きくなっていた。こつこつ、こつこつ、規則正しく、力強く、火傷をする程に熱せられた石畳を打つ音が聞こえる。鐘ではなかった。あの人だ、と少女はその音の正体をすぐに悟って、炎に囲まれながら待った。  状況は絶体絶命といえるくらい最悪だ。でもあの人は必ず助けてくれるだろう。そう約束したからこそ、今だってこうして少女を探してくれているのだから。
 ここだよ、と少女は熱と煙にやられてほとんど使えない喉を酷使し、必死に声を張り上げた。少女の主張に、いつも聞きなれた革靴の底が鳴らす音は、ためらうように少女の耳元でさまよう。それもやがて確信を持った足取りに変わり、どの辺りにいるのかはっきりと分かるくらいにまで近付いてきた。
 魔人が、ちろりと悪魔の舌を躍らせる。
 おくれ。おまえの命を、その血を、その身体を。
 ぱちぱちと、ごうごうと、囁く。その囁きに少女は振り向き、寂しげに呟いた。幻覚と分かっていても、例え僅かな時間であっても誰かと話せないのは悲しかったから。
「あなたたちには、わたしは捕えられない。だから、望むものはあげられない」
 足音のする方角へと向き直ると、少女は手を伸ばした。最後の、たった一つ残された救いへとすがるために。
 少女の求めに応えるように角から彼は飛び出すと、すぐに何かを振り払うような仕草をした。たったそれだけの動作で、怖気づいたように炎が後退した。意思を持っているのではない。それだけ自然にも畏れられている証拠なのだ。
「――見つけた! 無事か!?」
 せっかくの低くて耳に心地のいい声にどこか必死さを滲ませながら、あの人は少女へと駆け寄った。
 けれど、やっと訪れた救いの背後に、少女は悪魔の姿を見てしまった。
 あの人は気付かずに、少女だけを必死に見続けていた。その背後で天に突き上げられた白刃はぞっとするほど冷たいのに。
 悪魔が身にまとう白衣がまるで、これから紅く染まる為にあるのだとでも言っているように見えた。
 三日月のように裂けた真っ赤な口が笑って泣いていた。嘲りと恐怖に歪められた紫の目からぼろぼろと紅い滴をこぼして、なびく銀の髪は、炎に照らされて夕焼けのように紅く染まった。
 嫌だ、と悪魔が泣いた。殺せ、と誰かが嘲笑った。
 刃が振り下ろされる。
 銀の光が閃き、再び新たに紅い血が、同じ色をした海へと散っていった。

 気がつくと、少女は絶叫していた。

□■□■□

「――いやぁあああああああああっ!?」
 喉を引き裂かんばかりの悲鳴と共に、ティアは全身に嫌な汗をぐっしょりとかいて目を見開いた。
 あまりにも現実味の強すぎる恐怖が身体中に残っていた。激しい危機感に支配され、自分がどこにいるのか、何者なのかすら忘れて暴れた。
 だって、怖い。――怖いのだ。誰かが、自分のせいで誰かが死んだのに!
「だれかっ、だれか助けて!」
 無我夢中で伸ばした手が虚しく空をかいたかと思うと、暖かい手にしっかりと腕を取られた。
「どうしたのっ!?」
 声がして、誰かがティアの目を覗き込んでくる。その色が、怖い。
「嫌だ……紫……お願いだから、その人を殺さないで!」
「ティアちゃんっ!」
 痛いほど強い力で肩を揺さぶられ、ティアは息を呑んだ。同時に、今までろくに呼吸ができていなかった事に気付いて慌てた。
「落ち着いて。深く息を吸うんだ」
「む、り……無理、よ」
 喘ぎながら首を振る。言葉では言いながら、ティアはひくつく肺に強引に空気を送りこんで、咳き込みながら吐きだした。
「焦らなくていい、ゆっくりと……そう、もう一回」
 穏やかな声に言われるまま、もう一度同じように息を吸って、今度は気持ち、ゆっくりと吐いた。もう大丈夫、そう思えるまで何度も繰り返した。
「――落ち着いた?」
 心配そうな声にのろのろと顔を上げると、夜明け前なのだろう、薄暗がりの中でセルの瞳と目があった。そういえば彼の瞳も紫だったのだとティアは気づき、兄が白銀の髪でなくて良かったと思った。もしもセル以外の、たとえばエルニスが同じ事をしたら、ティアは余計に混乱していただろう。生々しい悪夢の余韻がまだ消えなくて、ひどく肩が震えていた。
「何か、夢を見ていたね? ひどくうなされていたよ」
 強くはっきりとした口調で言われて、ティアは俯きがちにして頷いた。身体ががくがくと揺れて、なかなか全身の痙攣が収まらない。自分でも頼りないと分かる動きで必死に肩を抱くと、セルがティアの跳ね除けていた毛布を引き寄せて包んでくれた。
「ありがとう……」
 震える唇でようやくそれだけを言うと、ティアは膝に顔を埋めた。背中をさすりながら、セルが聞く。
「どんな夢を? 話してごらん、少しは楽になるから」
 ティアは夢中で首を激しく振った。思い出す事を全身が拒否して禁じている。
 しばらくすると、兄が困ったようにほぅと吐息を落とす気配がした。
「……七年前の事を、夢に見たんだね?」
 セルの声に、不思議なくらいぴたりと急に震えが止まった。
 記憶が戻りかけているのだろうか。なぜ今になってと思うが、そういえば、カーレンの記憶に昨日は触れた。人の記憶が雪崩れこんだショックで、似たようなものが戻ったのかもしれない。
 そろそろと頭をもたげると、セルが痛むような顔をしていた。
「……カーレンのせいかもしれない」
「え?」
「だって、ショックを受けたら似たような夢を見る事だってありえるもの」
「でも、それだけなら君はあんなに叫ばなかったはずだよ」
 ティアは言葉に詰まった。叫ぶ理由が思い当たらない。悪夢は何度も見た事があっても、悲鳴を上げたのはこれが初めてだったのだ。可能性は高かった。
「わた、し……私、怖くて、逃げたんだわ」
 けれど、だとしても本当に過去にあった事なのだろうか?
 うずくまり、疑問と共に頭を抱えたまま、ぽつぽつと拙いながらもティアは話し出した。
「――街が、燃えていたの。人が、たくさん、し、死んでて」
「……うん」
「夢の中で……私だけが立ってた。誰も、いなかったの。友達も、みんな、死んじゃって。どうしようって、立ってるしかできなくて。そしたら、誰かが、来てくれたの」
「誰か……? レダンかい?」
 違う、とティアは目を伏せた。すぐに彼の名が出てくるのは、ティアが以前、彼に出会った覚えがあると言ったからだろう。まさか、自分だって本当に会っているとは思わなかった。
「レダンじゃない。ううん、レダンは居たの。でも、たぶん、レダンが殺そうとしたのよ。きっとその誰かを、『あの私』はすごく慕ってたんだわ」
 リスコで夢に見た、あの目の色。そう、あの紫色はきっとレダンのものだった。だから教会で会った時に、恐ろしくてたまらなかったのだ。本能だと教えられても納得できなかったのも、このせいだった。
 もっと、もっと思い出せないのか。見えない記憶の中に入り込もうとすると、つきりと頭が痛みを訴えた。なおも試みているとだんだんひどくなってきて、一際ずきんと痛んだところで、ティアは溜息をついた。無理だ。今はこれ以上思い出せない。
「でも、レダンは船の上で見た時よりもおかしかった。望んで喜んでいて、けど嫌がって泣いていたの」

 ―― 嫌だ! 俺に、殺させないでくれ! ――

 絶望の声が耳の中で木霊する。
「呪いだね」
「ええ、きっと。けど、私……どうしてレダンが居たのかしら?」
 セルの言葉に頷いたが、ティアは首を傾げた。
「うーん……」
 小さくセルは唸ったが、かといって彼はティアではないのだから、その理由が分かる訳もない。
「とりあえず、確か、レダンは呪いで操られている時の事を覚えていなかったはずだよ。なら、君の事を覚えていなかったのも当たり前だし。ところでその誰かって、殺されたの?」
 ティアは眉間に力をこめて、思い出そうと務めながらも答えた。
「いいえ、殺されてなかった。少なくともその時点では。だって、私はその人にリスコまで飛ばされたのよ」
 セルはきょとんとした顔で目を見開いた。
「あれ? じゃ、レダンの言ってた人ってひょっとすると?」
「何?」
「あ、ううん。何でもない」
 ふるると頭を振り、セルは考えこむような表情をしながら、二段ベッドの上に座り直した。そういえば今日は防犯用の魔術に吹き飛ばされなかったのね、とどうでもいい事に気付いたが、兄のためにも黙っていた。
「だとしたら、レダンに呪いを仕掛けた奴は、その人をどうにかしようとしていたんだ」
「ああ……ね、それについてちょっと考えてたんだけど」
 声に出して考えを呟いたセルに、ティアは口を挟んだ。カーレンに預けてレダンの手に渡った、銀の卵の欠片を思い出したのだ。
「レダンの卵の欠片を持ってたのは、炎塔って奴らの魔術師だったみたいなの。……たぶん」
「たぶん?」
「実際に落としたところを見ていないわ。でも、シリエルに乗ってたから。慌てて隠れて、それで落としたのかもしれない」
 ティアは肩をすくめた。実際、あの白狐の魔物は"第二位"という実力者だ。慄かない訳がなかった。
「でも、だとしたらレダンは炎塔の内部で生まれたって事になるのかしら?」
「ああ……そんな事、言ってたかな。ずっと魔術の鎖で繋がれていたらしいんだ。何百年もだよ? 飲まず食わずじゃなかったらしいけれど、たった一人ぼっちでさ。僕が抜け出した彼を見つけるまで、一言も喋った事がなかったんだって」
「でも、名前は覚えていたの? それとも兄さんがつけた?」
「いや……僕じゃない。誰もつけていないのに、自分が誰か分かってたんだ。不思議な話だよね。でも本当は完全な一人ぼっちでもなかったらしくて、時々誰かが――待てよ?」
 そこでセルが突然言葉を切ったので、ティアは首を傾げた。
「どうしたの?」
「うん。ああ、そういえば呪いをかけられる奴が一人居たな、って思って」
「え?」
 驚きに目を瞠ったティアの前で、セルは想像もつかない速さで頭を巡らせているようだった。目線がうろうろと天上の辺りを彷徨っている。
「……それって、誰?」
「人間じゃないんだ。同じドラゴンだってレダンが言ってた。……ロヴェ・ラリアンって言うらしいけど、そいつが何度か、レダンのところに来て話しかけていたんだって。一週間前も、ひょっとしたらそいつにあんなにひどい事をされたのかもしれない」
 紫の瞳に一瞬だけ、嫌悪と憎しみの色が過ぎった。
「それで、ちょっと変わってたらしい。レダンと同じで、影がたまに紅かったみたいなんだ」
「……ロヴェが?」
 咄嗟にリスコでの忠告を思いだして、ティアは声を上げそうになった口を手で覆った。
『――俺のような影を持つ奴らに出会ったら、絶対に話すな』
 奴らの一人、という事なのだろうか。いや……おかしい。彼の影は、教会ではティアと同じように、朝日に照らされて僅かに蒼かった気がする。なのにどうしていきなり紅い色に変わっていたのだろう?
 ひょっとして、ティアがリスコで最後に話した、あのレダンは。
「私……そのロヴェ・ラリアンと、レダンを通じて話したのかも」
「え? それ、本当に?」
 ティアは頷き、乾ききった唇を舐めて湿らせた。
「それで、追跡されて……じゃ、私があそこで彼と出会ったから、シリエルの森ではあんなに大勢の追手に追いかけられる羽目になったんだわ」
 一旦話し出すと、セルは黙ってリスコでのティアの体験を聞いていたが、話の始終、妙な顔をしていた。
 話し終えて沈黙が落ちた時、不意に天窓から部屋に光が差し込んだ。金色の朝日が入ってくると、セルとティアの間にきらきらと落ちる。それを眺めながら、兄は静かに口を開いた。
「でも、だとしたら筋が通らない。やっている事が無茶苦茶だよ。わざわざレダンを使ってまで殺そうとした人って一体、誰だい? どうして君に会って忠告したの? それに、どうして、負けそうだと分かっていてカーレンとレダンを戦わせたのかな。どうして、捕まっていたレダンの様子を見ていたんだろう……?」
 どうして。その一言で、ティアの頭の中は一杯に埋め尽くされた気がした。
 ――分からない。何一つ、分からないのだ。
「分からない。でも、ロヴェ・ラリアンの事を話した時、レダンが気になる事を言ってたよ」
 セルの目は真剣さを帯びて真っ直ぐに部屋の向こうを睨んでいたが、視線は動いて、ティアの瞳にひたと据えられた。不思議でたまらない、そんな純粋な光が宿っていた。
 次の言葉には、なるほど、ティアも首を傾げるしかなかった。

「――彼ほど、哀しいドラゴンはいないんだって」

 それを告げた時のレダンの気分が、透けるように自分の中に溶けてくるのではないか。錯覚を覚えて、ティアは眩しさに目を細めながら窓から見える天を仰いだ。
 実際にその姿を見た事のないドラゴン。行動する理由も何もかもが謎めいていて、まるで掴みどころがない。なのにそんな哀しい人を知っているようで。
 ……なぜか、胸が痛かった。

□■□■□

 吹く風の温度の低さが、どこか懐かしいと感じたのはなぜだろうか。
 多くの里のドラゴンたちが集まりつつある一際高い山の尾根に立ち、ティアはそこよりも少し低い場所に広がる雪の平原に、二人のドラゴンが対峙している様子を視界に収めた。
「……ねぇ、兄さん。あれから何があったのかしら?」
「さぁ……どうにも、ちょっと殺気立ってる気がするよね。二人とも」
 ひそひそと囁き声で言葉を交わすと、また微塵も動く気配を見せないカーレンたちを見やる。
 ちょっと聞いてくる、と小走りに駆けていくセルに頷きながら、ティアは視線を両者からそらさなかった。
 昨日エルニスと別れてから二人の間に何があったのか、二日前以上にお互いに敵意が芽生えているようだった。特にティアが首を傾げたのは、カーレンの表情だ。最近、ドラゴンアイの力が異常に強くなってきているのか、素でも遠くの様子が良く見えるようになっている。そんな良好な視野に捉えた彼の顔は、これまでに見た覚えがない表情だった。
「おまたせ。事情を聞くのにはそんなに苦労しなかったよ」
 すぐさま戻ってきたセルと、ティアは音もなく顔を見合わせた。
「……カーレンは何を怒ってるの?」
「分からないけど。聞いた話だと、エルニスがどうもみんなの前でカーレンを挑発したらしいよ。……内容も聞いたけど、これはできれば……うん」
「何?」
「いや、後で聞いた方がたぶん君のためにもいいと思うし」
 つっと目を逸らすのを不審に思い、ティアはセルを見つめる視線に力をこめた。
「セ・ル・に・い・さ・ん? 何か隠してるわね?」
「う……」
「何か隠してるのよ、ね?」
 ティアは兄が話しやすいようにと、にっこり笑って問い詰めた。目が笑っていないのはご愛嬌だ。


 ――そして、結果を言えば、渋々ながらも兄は折れた。半刻かけて説得した甲斐があったというものだが、意外なしぶとさを見た気がする。
 よくよく聞いてみると、エルニスがカーレンを挑発したというのは少々穿った視点から見た者の意見だったらしい。いや、挑発といえば挑発なのだが、どちらかというと脅しに近かったのだそうだ。
 その内容というのが、
「え……私?」
 セルは後ろめたそうに顔をしかめ、ゆっくりと頷いた。
「うん……カーレン、たぶん君に迷惑がかかるから、それを気にしたんだよ。で、あんなに怒ってるみたい」
「ちょ、でも、ちょっと待ってよ。勝った方の寵姫になるって……、どういう意味なの?」
「それがねぇ――訳知りの人を探すの、大分苦労したんだけど――そもそも、二人ともあまり乗り気じゃなかったでしょ? で、僕ら、昨日ある意味火に油を注ぐじゃなくて、ほとんどぶっかけちゃったじゃないか。それで、屋敷の正面でばったり……って来れば、もう分かるよね? エルニスはユイの事もあるし、たぶんティアちゃんの事、同じぐらい気にかけてたんじゃないかな。カーレンはカーレンで、ティアちゃんを巻き込む事は避けたいと思うよ。そこを見越してアラフルが、完全に僕たちを巻き込んで火をつけたみたいなんだ」
「……寵姫っていうのは?」
「文字通りの意味。王様でいえば側室とかなのかな。一応、ドラゴンの寵を受けた人って歴史にも何人かいるけど、すごいらしいよ。ほとんどみんな、そのドラゴンと同じくらいの力を持ってるんだ。竜人に変化できた人までいたくらい」
 ――セルの話を聞いただけでは何とも言えないが、おぼろげながら、自分とあの二人が置かれた状況は分かってきた。とにかくこれでもかというほど、エルニスはカーレンを信頼してはいないらしい。いや、そもそも自分の了解も取らずに、アラフルは何を考えているのだ、とティアは唇を噛んだ。
「エルニスは彼が、ティアちゃんをユイみたいにしてしまうんじゃないかって、すごく怖がってる。カーレンは別に、エルニスの寵姫にティアちゃんがなっても大した事ないって信じてるみたいだからそんなに問題はないみたいだけど。むしろ、巻き込んだっていう事のほうにショックを受けてるね」
「ねぇ、まるで物扱いされてる気がするの、私だけ?」
「ううん、僕もちょっとアラフルのやり方には目に余るところがあると思うかな」
 僅かに苦笑を浮かべるセル。ただ、兄の懸念はそこではないのではないかとティアは感じた。何か別の事を気にしているようだ。その証拠に、微妙に答えが答えになっていない。扱いに対して抗議をしたのに、手段についてセルは語ったのだから。
「……ここまで対立させて、アラフルはどうするつもりなんだろう」
 予想通りというか、セルの口からそんな言葉が漏れ出たのを聞きつけて、ティアは眉を潜めた。未だに、彼の意図が分からない。すぐそこにある気がするのに見えないのだ。
「それに、空白を埋めるっていうのも、記憶を戻す事とはちょっと違う気がする」
「うん……」
 曖昧に頷きながら、ティアは視線を巡らせ、はっと息を呑んだ。それほど離れていない所に、アラフルの姿を見つけたのだ。儀礼的にも見える荘厳な衣装に身を固めているのは、ひょっとすると戦いのすぐ後で長の引継ぎでも行うのかもしれない。
 呑気に構えているこの状況を引き起こした張本人を見つけて、ティアは黙っていられなかった。勝手に何をしてくれたのかは知らないが、とにかく文句の一つも言わなければ気がすまない。
「ね、兄さん……私たち、一応やる事はやったのよね? なら、直接彼に教えてもらっていいはずよ」
「えぇ!? 今聞くの?」
「今聞かなくていつ聞くのよっ!? ほら、早く!」
 うろたえるセルの手を引っ掴むと、ティアはそこら中をうろつくドラゴンの間をかき分けるようにしてアラフルへと近付いていった。息巻くティアに何事かと奇異の視線を向けるドラゴンたちを訝しく思ったのか、アラフルは少し眉を潜めてから、ティアたちの姿に気付いて納得したような顔を見せた。
「ごめんなさい。ちょっと場所を空けてくれる?」
 はっきりとした口調で告げると、周りが音もなく、アラフルとティア、セルの周囲に空間ができるように退いた。
 一方、取り残された恰好になったアラフルは特に慌てる様子も見せず、自分が野次馬の一人にでもなったような態度で周りを見回した。何か呟いて一つ頷いて見せたりと、驚いた様子は見られない。
 ティアは空いた空間の中央に進み出ると、真っ直ぐにアラフルと対峙した。
「……アラフル。私たちがやるべき事をやったら、質問の答えを教えてくれると言ったわよね? 後はカーレン次第になった今、その時が来たんじゃないかしら」
 一気に言い切ると、周囲がしん、と静まり返った。あまりに唐突に訪れた静寂に戸惑っていると、背後でセルがあわあわと蒼ざめている。何かまずいことを言っただろうか。
 アラフルは半分伏せた目でまじまじとティアを見つめてから、肩をすくめた。
「……度胸があるのか、命知らずか。それとも自覚がないだけか」
「何の事?」
 首を傾げると、呟きを漏らした彼は、喉を震わせて笑った。
「いいや。こちらの独り言だ。気にしなくて良い。だが、見立てた通り、君はドラゴンの寵を受けるに値する人間でもあるらしい。何より、物怖じしない事は賞賛ものだ」
「でも、私が巻き込まれるなんて、そもそも聞いてないわ」
 顔をしかめて唇を尖らせると、アラフルは渋い表情になった。
「悪かった。だが、あれでしか二人の注意を引き、かつ止める方法がなかったのでな。あの場で戦いでも繰り広げられたら、里が沈みかねん。――それに、これは君たちに示した答えの一部でもある」
「……つまり、もう答えが出ているという事?」
 肩をすくめてみせたアラフルに対し、ティアは目を見開いていた。
「答えは既に示されているようなものだ。言ったろう。カーレンの空白を埋められるのは君だ。そして彼にとって、君は既に思いがけないほどの深みに踏み込まれてしまった存在でもあるのだよ」
 太い笑みをクェンシードの長は浮かべた。
「そんな彼女が何も知らないまま、戦いの舞台に役割を持って引きずり出される。……カーレンが本気にならない訳がない。そして、エルニスもな」
「アラフル! あなたという人は……!」
 セルが後ろで声を荒げてアラフルを罵倒するのをティアは聞いた。
 だが、問題はそこではないのだ。ティアのために憤激してくれる事には感謝するが、今はそれをしている暇さえ惜しい。いつエルニスとカーレンが衝突するのか、気が気ではなかった。
「よして兄さん。それに、アラフルも話を逸らさないで」
「だが、知ってどうする。聞いてから後悔しても遅いぞ」
「じゃあ逆に聞かせてもらうけれど……まだ私たちを試すの?」
 アラフルは口をつぐみ、ティアの背筋が凍りつくほど冷酷な視線を紺色の瞳で返してきた。冷やりとした殺気を感じたが、それでもティアは引かない。冷気に対抗するように身体の奥から熱がふつふつと湧き上がった。一際強烈に発熱した目からは不可視の力が解き放たれ、アラフルの放つ圧力を押し戻す。
 ぶつかり合う力の奔流に、周りは息を止めて見入られていた。
 やがて、アラフルが急にふっと圧力を緩めた。重圧に対抗していたティアはその動作によって少しよろめいたが、目だけで彼をしっかりと見据えた。
「……良かろう。もともと約束もあるのだ、こちらとしても答えねばならない。ただし、」
 アラフルの目元が凄みを増した。一族の長として、そして、聖書でも魔物の頂点に立ったドラゴンとしての威圧感を、ティアは確かに肌で感じた。
 すっとかざされた手が、何を意味するのか咄嗟には分からなかった。ティアとセルの目の前で、一瞬天に向かって突き上げられた腕が、霞むほどの速度で一方向に振り切られる。
 鐘が割れたかと思うほど不可思議で巨大な音が、辺り一帯に轟いた。
 同時にすぐ脇で雪を蹴る音がして、ティアは反射的に今まで動かなかったカーレンたちを振り向いた。
 いない。
「まさか!?」
 長い髪をうねらせ、ティアは頭上を見上げた。空中で折り重なるように、エルニスが鋭く伸ばした爪を、カーレンが鱗で硬化させた腕で防いでいるのが見えた。次の瞬間、軽く残像を引くほどの速さで二人は動いた。あらゆる場所に飛び移り、走りながら打ち合っていく。
 裏切られた……!
 脳天まで全身の血が一気に駆け上がり、怒髪天を突いた。
 気絶しかねないほどの憤怒を覚えてアラフルに視線を戻すと、彼は涼しい顔をしてその場に立ち、言い放った。
「ただし、二人の戦いを眺めながらだ」
「――!」
「そうだ、その怒りを失うな」
 ティアが激昂して何かを言う前に、アラフルはあっさりとそれを遮った。ティアが面食らっている間に、セルが口をはさむ事も許さずに続ける。
「怒り、蔑めばいい。こうでもしなければ、私は語る勇気すらない愚か者だ」
 自嘲するようにアラフルは笑う。驚くほどカーレンのそれに似ていたが、全くの別物だった。カーレンは何も含ませずに嘲笑を浮かべるが、彼のものは暗い淀みを連想させたのだ。
「私は確かに君とセル君に、空白を埋め、彼を守る事を託した。だが、本当の意味でそれでカーレンを救えるかといえば、否と答える」
 まるで三人だけがその場で時を止められているかのようだと思った。周りはアラフルの下した合図によって始まった若きドラゴン同士の戦いに夢中で歓声を上げていて、誰もティアたちに注意を払わない。
 なるほど、これならば誰にも聞かれずに済むだろう。今にも喧しさで頭が割れそうな大騒ぎの中、納得する自分がいた。
 特別な魔術でも使ったのか、怒鳴り声すら霞ませる音の奔流をすり抜けて、アラフルの声だけははっきりとティアとセルに届いた。
「――そう。ある意味傲慢だったのかもしれない。けれどそれは許されない事だったろうか? いいや、そうではないだろう。だからこそ私は望んだのだ。この手で、彼に救いを与える事を。愛される事を教えようと、強く」
 知っているか、とアラフルは訪ねてきた。
「彼が養子だという事は、エルニスから聞いたのではないかな? あの子に関係する者はいないのか、あちこちに手を回して調べた。そんな中で、連れてきたばかりの頃のカーレンの様子から少し察した事はある」
 歓声がより一層大きくなった。戦いが激しさを増した事を示すその声を聞きながら、ティアはアラフルから目を逸らす事ができなかった。
 涙の重さが苦しみなのだと語った時の、痛みが再び彼の目に浮かんでいた。

「あの子は、目の前で親を殺されたのだよ。それも、惨たらしい方法でな」

 ――哀しいほどの、絶望をのせて。


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