Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-10- 破滅の殺意

 魔物と対峙したまま、カーレンはユイを抱きながら、一歩後ずさった。反対に、ルティスが前に出る。
『下がれ、"第七位"リギア・ベザの子らよ』
 低い声で唸ったルティスに一瞬、魔物は臆したようだったが、すぐにせせら笑うような声が聞こえた。
『そちらに言われる義理はない、"第一位"ルリエン・ティウス。同じ始祖といえど、我らが始祖姫の名を軽々しく口にするな』
『そのような口が叩けるという事は、ドラゴンの領域を侵す事が何を意味しているか、知らぬ事はあるまい』
『貴方様こそ、周りに配下を侍らせていない意味を知らぬ魔物でもないだろう。それとも、そこの雄にも成りきらぬ幼子が配下だろうか?』
 皮肉を込めて、魔物は言った。
 ルティスは飄々とした顔をして毛並みを整えていたが、ぴたりと動きを止めて、カーレンを見やった。敵を前にして気をそらすなど、あからさまな挑発だ。分かってやっているのだろうか。
『……すみません。どうも穏便に運びそうもないですね』
 ぼそりと、憮然とした表情で言われた。
 この場に現れた時点で、とてもではないが穏やかどころの話ではないだろう。何を分かり切った事を、と思ったが、ルティスの真意に気付いた。
 このまま時間をとるから、行動を起こせるだけの距離を稼げ、と言っているのだ。
 魔物は天を仰いで吼えるように笑った。
『始祖がドラゴンの幼子ごときに頭を下げるか! 堕ちたな、ルリエン』
 前からではなく、後ろから声が聞こえて、カーレンはぎくりとした。咄嗟に背後を振り返ると、同じ姿の魔物がもう一体、そこにいた。ルティスが小さく舌打ちする音が聞こえた。
「お兄ちゃん……っ」
 恐怖に顔を歪ませるユイを抱きながら、カーレンはまずい、と呟いた。完全に挟み撃ちの体制だ。
『その始祖姫に追われた貴様が言える事だろうか? 負け犬の垂れ流す匂いがこちらまで漂ってくるな。不快以外の何者でもない』
 これ以上ないくらいに皮肉をたっぷり含んだ切り返しをされて、魔物は黙りこくった。
『……、貴様、この死神を侮辱して、生きていられると思うな』
『第七位の配下に滅ぼされるほど、落ちぶれてはいない。何なのなら、麗しきベザ殿に匂いでも残してやろうか』
 煽りすぎだ、とカーレンは思ったが、もう遅かった。ルティスに向かって、激昂した二体の魔物が牙を剥いて飛びかかった。
 今しかない。カーレンはユイと自分の頭を咄嗟に低くさせて、魔物の蹴りを避けた。
 背後に立っていた魔物が頭上を通過すると、すぐにユイを押し出した。
「飛べ! 飛ぶんだ、ユイ!」
 震える背中を音がするほど強く叩くと、ユイは弾かれたように走り出した。
「馬鹿、ドラゴンに戻って逃げろ! 僕たちが時間を稼ぐ!」
 罵倒混じりに怒鳴ると、彼女がどんな顔をしているのか確認すらせずに、カーレンは絡まり合う魔物たちに向き直り、瞳に魔力をこめた。ルティスを助けなければ、力を半減させている今の彼では、死神に十分に太刀打ちできるとは思えない。
 ドラゴンアイを発現させるための時間すら惜しみ、カーレンは直接漆黒のドラゴンの姿に戻った。予想通り、突然前触れなしに元に戻った反動が身体を襲うが、かまっていられなかった。
 魔物と対峙していると、大きさの点ではカーレンが一回り小さかった。大人ならば二倍くらい体格に差があって有利だったろうが、泣き言を言っている暇はない。迷わずルティスを叩き潰そうと迫っていた魔物のずんぐりした手を尻尾で払うと、その毛並みを爪で引っ掛けた。
『……っ、重い!』
 呟くように毒づき、または魔物に文句を零して、
『――ぁあああああっ!』
 気合混じりに声を上げ、巨大な魔物を投げ飛ばした。普段からこっそり鍛えていなかったら絶対に無理だったろう。アラフルから護身程度の鍛錬を受けたのは一度だけ、しかも基礎だったが、今はそれがあるだけでもほっとするしかない。
 不意に背後からぞっとする気配を感じたが、そちらは巨大化した黒狼が打ち倒していた。
『しっかりして下さい。こんなので気絶されたら困るんですから。ユイさんはどうしたんですか』
『先に逃がした』
『逃がした!?』
 素っ頓狂な声を上げるが、横からの攻撃にぎょっとして、咄嗟に二体揃って飛びのいていた。ついさっきまで身体があった場所に、深々とグイネスの太い爪が突き刺さる。
 襲いかかってきたのが一体だけだったのに気付いて、カーレンは辺りを見回した。
『もう一体は……しまった』
 頭上を見上げ、呟いても遅い。太陽の光を遮り、黒い影がカーレンの鱗を突き破って肉まで爪を食い込ませた。
『あぐ、ぅっ!?』
 呻いた時には、恐ろしい力で振り回された挙句、雪の上に叩きつけられていた。
『マスター!』
『か――はっ、馬鹿、僕の心配をしてる場合か……っ!』
 そのまま後ろまで押されて滑り、背中が樹氷に突き当たる前に何とか跳ね起きて四肢を踏みしめる。
 足が激痛と咳き込む衝撃に震えるが、必死に踏ん張った。
『違う、その事じゃありません!』
 ルティスが離れた場所で苛立つように唸った。横からもう一体に突き飛ばされていたのか、脇腹の辺りからぽたりと朱が雪に染みこんでいる。それはこちらも同じなのだが、避ける事もできなかったせいか、深い傷になってしまい、激しい疼きが背中を襲っていた。
『何が!?』
 カーレンは怒鳴りながら目を見開いた。腹の底から魔力を練り上げて巨大な業火を吐き出すと、投げ飛ばしたグイネスが飛びすさるのが見えた。
 ルティスは後ずさったグイネスを背後から咥え、ふわりと宙へ放り上げると、強烈な魔力の爆発を衝撃波と共に腹に打ち込んだ。隙に入り込もうとする一体にカーレンは迷わず突進し、突き刺した爪の先に強烈な魔力と毒を流し込んだ。
 にやり、とグイネスが笑った。
『この程度の毒で倒れる我らではないぞ?』
『!?』
 咄嗟に身をよじるが、次の瞬間には鱗の欠片と血飛沫が宙を舞っていた。
 腹を裂かれ、白熱した激痛が走る。思わず生理的に涙が滲んだが今は視界の邪魔でしかなかった。さらに顎を打たれて仰け反ると、そのまま馬乗りになられて、下敷きになった翼が痛んだ。が、やはり流し込まれた魔力に身体が拒絶を起こしたのか、魔物がそのまま動きを止めた。
『この――!』
 罵りながら腹の上に乗った魔物を後ろ足で蹴り上げると、咳き込みながらグイネスが退いた。
『で、心配じゃないなら何だって!?』
 息も荒く、言い終わるか終わらないかの内に、脇から巨大な爆風が襲ってきた。巻き上げられた雪が雪崩れ落ちる轟音に、思わずグイネスが身をすくめるのを見逃さなかった。
 ――目を逸らすな。何があっても驚いてはいけない。
 アラフルから教わったばかりだった教訓を口の中で唱えて、カーレンはもう一度、炎を吐いた。今度は、誘爆の魔術も少し混じっている。
 炎に巻かれたグイネスが苦痛の声を上げたが、すぐに別の魔術で相殺しようとした。
(かかった)
 カーレンは緊張に引きつった笑みを浮かべながら、魔術を発動する。途端に先ほどルティスが起こしたらしき爆発と同じか、それ以上の規模のものが起きた。
 山が微妙に揺れたようだが、悠長に気にしていられない。咄嗟に跳び上がって、背後からの追撃をかわす。襲いかかってきたグイネスの後を追うように黒狼が走り、前方で火傷を負った魔物が彼に向かって爪を振り上げた。
『させるか』
 呟き、翼をひとつはためかせると、銀の魔力の刃が雪の斜面に無数に突き立った。ルティスが飛び退き、二体に刃が突き立って血が宙に舞った。
 雪の煙が晴れると、カーレンは舌打ちした。やはり一筋縄ではいかず、全てがかすり傷程度であまり効いていないようだった。
 想像以上に硬い手応えにカーレンが内心眉を潜めていると、ルティスがこちらを見上げて言った。
『マスター、駄目です!』
 お返しとばかりに黒い雷が宙を走ってくる。ルティスが雪を叩くと、舞い上がった新雪がどす黒い紫に染まって燃え上がった。毒が混じっているな、と匂いで分かった。気に入らないが、先ほどの自分の出した毒だ。ルティスがいなければ、とっくにこの戦いで自分は死んでいただろう、と嫌な想像が過ぎった。
『ここは私が何とかしますから、貴方はユイさんを追って下さい!』
『どういう意味だ?』
 顔をしかめると、ルティスは切羽詰った様子だった。
『分からないんですか! 魔物はこの二体だけじゃないんですよ!』
 カーレンは目を見開いた。
『え――?』
 どん、とグイネスが空にいたカーレンに掴みかかった。無理矢理地上に引きずり落とされたカーレンは、痛みと息の詰まる感触に喘ぎながら、ルティスの声を聞いた。
 ユイは逃げたが、魔物がもう一体いるという事か。少なくとも、ここにはいない事ぐらいは分かる。
『もう一体がユイさんの方に――!』
 考えるより前に、カーレンはグイネスを突き飛ばして、里の方向へ飛ぼうとした。
『今気付いたとして、もう遅い、幼子』
『嘘だ!』
 嘲笑う魔物の言葉を大声を上げて否定し、カーレンは苦い声を絞り出した。
『悪い、ルティス……何とか食い止めてくれ!』
 追いつこうとしたグイネスをルティスが横から押し倒して、雪の上を滑っていく。
『気をつけて下さい――向かった一体は、かなり……っ!』
 ドッ、と鈍い音がして、ルティスの方から、やけに濃い血の匂いが漂ってきたのをカーレンは飛び去りながら感じた。
『強いのは当たり前だ。位は低かったが、他の始祖に深手を負わせた事もあるほどだからな』
 にや、と笑う顔が見えた気がした。あの匂いからして、相当深い傷を負ったのではないか。カーレンは不安を胸中で膨らませていったが、今はユイの方が気がかりだった。
 ちらりと振り向くと、ルティスが相手にしきれなかった一体が、自分の後を追ってくるのが分かった。
『――くそっ』
 翼をはためかせながら、数度、雪に触れる。カーレンは氷の玉をいくつか作り出して、背後へと飛ばした。全てが硝子の割れるような音を立てて壊されるが、それでも牽制にはなるはずだった。
 全速力で空高くへと飛び上がると、眼下をルティスの言っていたグイネスが走っているのが見えた。その先に、淡い空色の小柄なドラゴンが飛んでいる。追ってくる魔物に怯えながらも、必死にはばたいていた。
『ユイ……!』
 呟いた時、魔物が跳んだ。
『――っ』
 ぞっとするものを覚えて、カーレンは急降下した。
 あと少しまでに爪が迫っていたところを、小柄な身体をすくいあげるようにして空へと引き上げた。ユイを庇ったために、グイネスの太い爪で背中を深く抉られたが、悲鳴を飲み込んでカーレンは上昇した。
『かっ――、ぐ!』
『カーレンお兄ちゃん!』
 ユイが泣きそうな声を上げた。
『……、だ、いじょうぶ……この程度、どうって事……』
 強がって見せたが、実際はそれどころではなかった。とめどなく溢れ、血と共に流れ出す魔力が、身体の治癒の速度を遅くさせていた。消えるはずの傷がまだ塞がらないために、血が本来よりも多く流れ出てしまう。
 身体がふらつき、目の前が霞みかけた時、再び悪夢のような衝撃がカーレンを襲った。
 一際巨大なグイネスに捕まった身体が、空からずるずると落ちていく。
『お兄ちゃん!』
 ユイが絶叫したが、カーレンはどうにか泣き叫ぶユイを突き放して、グイネスと共に雪の上に落ちた。墜落のショックが身体を揺らし、全身を襲う吐き気と灼熱の痛みに、堪らずに咆哮する。
『アアアアッ!』
 逃げろと言いたくとも、身体は意志に従わず、ただびくびくと限界を超えた痛みに痙攣するだけだった。押さえつけられた爪が喉に食い込み、気管が潰される。
『っ、がふっ、かっ――は、……!』
 咳きこむと、口の中一杯に鉄の味が広がった。目の前が痛みで眩しいほどの白に染まり、激しく明滅した。
 空の中に黒い染みが広がっていくのを見ていると、どうも目がおかしくなったようだった。
 そこまで思って、カーレンは違和感を覚えた。視界は明るい。
 では、空の染みのようなあの闇は何だ。空に広がる、あの真紅は?
 自分の血の臭いに混じって、別の臭いがしていた。
 それが何かを認めたくなくて、カーレンは目を見開いたまま、世界を強制的に自分から遮ろうとした。
 グイネスが笑う気配がした。牙を剥いて屈みこみ、絶望へと向かう囁きを落とす。目をそらさせまいと、巡らせる力も失せた首を押さえつけ、短い鬣を爪で引っ掛けられて、カーレンは嫌でも顎を上げた。

『ほぅら、幼子――宙に浮かぶあれは、何だ?』

 不気味なほど優しい、易しい問いかけ。
 簡単な問いかけだったが、カーレンは答えられなかった。
 鮮やかに紅い血が、空から落ちてくる。ただの水ではないのだから、とろりと、普通の液体よりもゆっくりとした速度で落ちる。それでも本当に僅かな差だったのだが、無理矢理時間は引き延ばされて、その一瞬が永遠に続くのではないかと錯覚したほどだった。
『ユ、イ……』
 震える唇から、吐息が零れる。潰れた声が、わずかに漏れた。
 ――嘘だ。
『ユイ……?』
 カーレンがそれを見ていると、力なく垂れた手の先から、ころりと転がり落ちたものがあった。揺れる視界の端にとらえたのは、小さな指輪だった。少し前、ユイがまた大きくなったからと、カーレンとエルニスが二人で贈ったもの。
 今は、血にまみれていた。
 ――――これは、嘘だ。
『ユイ……』
 滴り落ちた鮮血が、音もなく雪を赤に変えた。じわじわと染み入るように、目の前の光景の意味を理解する。同時に、否定する叫びが喉までせりあがったが、気管は潰されていて声にならなかった。
 どこか緩んだ表情で、ユイがのろのろとこちらを向いた。いつ、ドラゴンから人間の姿に戻ったのか。それとも、そうする気がなかったのに、無意識になってしまったのかは、分からなかった。
「おにい、ちゃん……」
 ユイの細い腰に、深々と爪を突き刺した魔物が低い声で笑った。ずた袋のように少女の身体を振り回して、抑えつけられて動けないカーレンの元に放って寄越した。
 呆然とそれを見やるカーレンの前で、ユイがもがくように手をついて、亀よりも遅く、こちらに這ってきた。
 鼻先にすっかり冷えた手で触れられて、カーレンは完全に、現実を認めるしかなかった。呆然とするカーレンのすぐそばまで、崩落が迫ってきていた。
「ごめ、ん――なさい。でも、……」
 何がそこまでさせたのか、ユイは、血の溢れ出る唇を懸命に動かして、それからすぅっと微笑んだ。
「おに……ちゃん、……だけでも、生き、て――」
 伸ばされた手が、するりと鼻先を滑り落ち。
 微笑んだまま、その瞳に闇が広がっていくのを、カーレンは見せ付けられている気がした。
「ぶじに……逃げてね」
 小さな身体から、ゆっくりと力が抜けていった。
『ユイ…………』
 くしゃりと笑い返したが、笑みになったかどうかは覚えていない。
『冗談、だろう?』
 それでも、分かる。
 彼女は、もう――光を見ない。
『…………っ』
 奥歯に力を込め、掠れた声を喉から絞り出した。
 飲み込まれたら最後、カーレンの心はあっけなく折られ、崩れ去った。
 絶望に視界が黒く塗りつぶされていく中で、カーレンは身体の奥底から噴き上がる焼け付くような痛みと熱が、憤怒そのものとなって爆発するのを感じた。
 普段から自分の魔力を抑えつけている枷が、今は使い魔が弱っている為に外れかけていた。そこに感情の爆発が加わったおかげで、枷はあっけなく外れた。
『……  "全ての終焉を求めて"  』
 唯一動かせる尾を、頭上の首にひたりと当て、

 カーレンは無言で、自分を抑えていたグイネスの首を刎ねた。

『ぉ……っ?』
 奇妙な声を上げて、首なしの魔物が身体の上にぐにゃりと崩れ落ちる。
『  "我は滅びの詩を紡ごう"  』
 驚愕し、唖然としていたもう一体を見据えて、カーレンは目を見開いた。
 飛び散れ、と少し強く念じただけで、今までの戦いが呆気なく感じるほど、簡単に脅威が失せた。
 そう、最初からこうすればよかった。『この力』を使っていれば、ユイも死ななかったかもしれないのに。
 全身に生暖かい飛沫が降り注ぐのを感じて、カーレンは翼を広げて、少女にかからないようにと守った。血の雨がやんでも、しばらく止まっていた。
『…………』
 あまりにも簡単に終わって、不意に、カーレンは物足りなさを感じた。やり場のない冷え切った感情の暴走はまだ収まらない。捌け口になるものはないかと辺りを見回してみると、目に止まったものがあった。
 息も絶え絶えになったルティスを引きずってきた、最後の一体だった。
 呆然とした様子で仲間の変わり果てた姿を見るグイネスを前に、カーレンはまず、雑巾のように情けない格好になった使い魔を見下ろした。
『ルティス』
 呟くと、黒狼は血の混じった咳をしてから、ふふ、とらしくもない弱々しい笑いを漏らした。あちこちの毛が千切り取られ、長く艶やかな毛並みが無残にも散っていた。ぼさぼさのまま、毛並みも整えずに頭を垂れた。
『申し訳ありません……私の落ち度ですね』
 負けた、とは言わなかった。もとから全力を出しての勝負ではなかったのだから、当然といえる。
 そしてルティスはユイに目を留め、僅かに蒼い瞳を瞠った。その奥で翡翠の光が閃いたのは、おそらく見間違いではなかったはずだ。
『ああ。……守れなかった』
 聞かれもしないのに、カーレンは答えた。
 自分が恐ろしく冷たくなった事に、カーレンは何も思わなかった。いや、これはおかしいと気付いて、自分で少し考え、別の結論を出した。
 何も思わなかったのではなく、何も感じなくなったのだろう。痛みはどこかへと消えていたが、未だに傷口から血は流れていたから。
『……勝てなかったのですね』
 見慣れた場所のはずなのに、自分がどこか、途方もなく遠い場所に来てしまったような気がして、カーレンは遠い目で正面に立つ魔物を見つめた。力を全て出し切っている状態の自分と、仲間の死体に出くわすなど、降って湧いたような災厄に等しいのかもしれない。この場に居合わせたなら、即座に殺してやっていただろうが。
『そうだね。勝てなかったのかな』
 本当は、ユイの事を言っていたのだろう。このまま逃げるか、それともそばに居るか、彼女は迷ったに違いない。そして、助けたいという欲求を押し隠せずに、自分の命を犠牲にしたのだ。
 頷いてから、カーレンは翼を広げなおした。冷たい激怒と共に、『滅び』を結ぶため、口にする。
『  "破滅の風は、ただ吹き抜ける"  』
 ――最後となったグイネスも、やはりあっけないほど簡単に死んだ。


 人の姿を取り、冷たくなったユイの身体を抱きかかえていると、カーレンは寒さを感じて身を震わせた。血を流しすぎたのかもしれない、と思いなおして、ぐっしょりと濡れて重くなった服をかきあわせたが、大した効果はなかった。できる事といえば、ルティスと共に身をより合わせている事ぐらい。
結局、あれから一番近かった防人の見張り台に立って、茫然自失とも言えない微妙な状態でカーレンは死んだようにぐったりとしながら空を見上げていた。五つの染みが、段々こちらに近付いてくるのが見えた。
 その内の一つが真紅のドラゴンである事を察して、カーレンは僅かに溜息を漏らした。
『マスター。アラフル様が来たようですが』
「…………うん」
 ルティスの言葉に曖昧に頷いて、カーレンはユイに目を落とした。ぼうっと開かれたままの目は乾ききってしまっていて、本当に死んだのだと否応なく事実を突きつけてくる。その様子が哀れに思えて、カーレンはそっと彼女の瞼を閉じさせた。
 ちゃんと形が残っていて良かった、とその柔らかな薄い皮膚を撫でながらぼんやり思ってしまったのは、あまり凄惨過ぎるとかえって現実味が薄くなるような気がしたからだった。実際、殺した二体目のあれはよくなかった。できれば思い出したくない。
 できるだけ、ユイの事は深く考えないように。それだけで精一杯だった。今、全ての衝撃を受け止めてしまえば、自分が壊れそうな気がした。
「なぁ、ルティス」
『何でしょう?』
 カーレンは口を噤んだ。人の形へと変わったアラフルが、顔を蒼白にしてこちらに駆け寄ってくるのが見えた。言うか言うまいか迷ったが、結局口にした。
「前にも、こんな事……あった気がするんだ……」
 ルティスがそれにどう答えたのかは、分からない。呼吸をするごとに傷が痛む。
 それでも、淡々とカーレンは続けた。
「その時も、すごく悲しかったの、思い出した……それだけ、なんだけどさ」
 アラフルに肩を掴まれた途端、嘘のように急速に意識が遠のいた。
「カーレン!」
 名を呼ばれ、気を失う直前、カーレンは寒さで強張った頬を引きつらせて、自嘲の笑みを浮かべた。

 笑ったのに、自分が声もなく泣いている気がした。

□■□■□

「――な、んだよ、それ」
 乾いた声がしたのに気付いて、ティアは我に返った。気付けば、先ほどの光は跡形もなく失せ、かわりに胸の中がずっしりと重くなっていた。床の上には、透明になったまま、いくらか小さくなった涙の玉が転がっていた。
 隣を見ると、同じように夢から醒めたような目で、セルがティアをぽかんと見返していた。困惑しながらも、声を上げたエルニスに目を戻した。
 彼はその場にうずくまっていた。両手で頭を抱えたままの姿は、何かに怯える子供のようにも見えた。
「あいつ……とっくの昔に壊れてたのか?」
 ぽつりと漏らした彼の顔は見えなかった。
 ティアはゆるゆると首を振った。
「壊れてなんかない……たぶん、カーレンがあなたに、自分がユイを殺した、って言ったのは……あなたを救う為だったんだと思う。確かにちょっと強引だったけれども」
 そうは言ったものの、ティアは内心眉を潜めていた。カーレンのやり方がここに来て、ひどく危なっかしいものに見えた。今見た凄惨な記憶は、カーレンしか知りえないものだった。その彼でさえ、幼さのために知り続ける事を拒んで封じたのだ。
「全部自分で背負いこむの。自分だけの責任じゃないのに、みんなの都合のいいように振る舞って、いつも、自分だけの痛みにしてしまう。そうして、カーレンは生きてきたのよ……」
「……けど、それも限界じゃないのかな」
 セルが呟いた。鬼気迫った色を孕んだ瞳が、鮮やかに揺れた。
「いいのかい、エルニス。今は僕たちが少しでも吐き出させているから、かろうじてもっているようなものだよ。このまま何の支えもなく行けば、カーレンは、たぶん本気で壊れていくと思うけど」
「……だからって、俺にどうしろって言うんだ」
 エルニスは気だるげに返した。それでも、頭をゆっくりと上げた時、瞳には揺るぎのない光が宿っていた。
「それは、君が一番よく分かってるんでしょ? 君にしかできないんだ」
 セルは首を傾げた。
 エルニスはしばらく黙りこくった。
 ややあって、口を開く。
「……俺が、あいつを? 馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるように言って、床に拳を乱雑に叩きつけるとエルニスは立ち上がった。足音も荒く館から出て行くのをティアは見送っていたが、セルに振り向いた。
「兄さん、やけに荒っぽい言い方だったわね?」
 探るように問いかけると、セルはティアの目を見返しながら髪をかいていたが、気まずそうに視線を床に落とした。
「……昔の事を思い出したんだよ。それだけ」
 ぶっきらぼうに言うと、それ以上口を開かなかった。
 一泊間を置いてから、ティアは頷いた。
「そう」
 もう一度、エルニスの背中を見やる。先ほどの勢いはどこにいったのか、彼は迷うような足取りで前に進んでいた。
 館の中に置いてあったカンテラを手に取った時、ティアは小さく目を瞠った。
 それから僅かに微笑んで、セルに語りかけた。
「ねぇ、兄さん。気付いてた?」
「……何?」
 兄は床を見ていたのだ。玉がない事に、気付いていないはずがなかった。
「エルニス、持って行ってくれたみたい」
「――あ、じゃあ、僕達のやる事は終わっちゃったのかな」
「まだ残ってるわよ?」
 きょとんとして、ティアは首を傾げた。
「例えば?」
 決まっている、と小さく胸を張った。
「応援とかよ。カーレンの」
「ああ、そっか」
 ぼんやりと頷いたセルに、ティアは眉を潜めた。
「兄さん、本当に大丈夫? 顔色悪いわよ」
「うん……大丈夫」
 言ったものの、気分がまだ少し悪いのか、セルは顔をしかめ、ふと何かに気付いたように顔を上げた。
「でも、エルニス、今のカーレンに会ってどうするつもりなんだろ」
「え、どうするって、――――」
 二人の間に、沈黙が落ちた。
 具体的な言葉が口に出せたとしても、それは正解ではないだろう。ほぼ同時に自分達が暗黙の了解に達した事に気付いて、ティアは肩をすくめた。
「なるようにしか、ならないわよ」
 それでも付け加えてしまったのは、二人には許してほしいと思う。
「……たぶん、ね」


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