Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-9- 純白の世界で

 エルニスとベルの姿が見当たらなかった。
 カーレンは首を傾げながら辺りを見回した。屋敷の玄関から出てきてすぐの所に立っているのだが、この辺りで待っているはずの二人がいないのだ。ユイは道の脇でしゃがんでいる所をすぐに見つけたのに。
 と、そのユイは、今背後でルティスと遊んでいる。
『冷たいです! 寒いです! いくら毛皮があるから暖かいといっても私だって生き物です! 雪に埋めないで下さい!』
 ……いや、あえて使い魔の名誉の為に訂正しておくと、ルティス『で』遊んでいた。最も、普段から皮肉やら茶化しやらでいろいろとうるさいので、合いの手が入る事もなく、心境は極めて穏やかだった。
「おかしいな……いつもならすぐ来ているはずだけど」
「あー、もう忘れてる!」
 おかしげに言うのが後ろから聞こえた。突然の声に目を軽く見開いて振り向くと、その顔を見たユイが明るい声を上げて笑った。隣では、ユイでも抱えられる程度の大きさになっていたルティスが、雪に埋れて更に縮こまっていた。蒼い目も固く閉じられ、今にも凍死しそうな顔で震えている。哀れだとは思うが、カーレンに助ける気はあまりなかった。
「昨日のこと忘れちゃったの? お兄ちゃん、ベルお姉ちゃんと一緒にすごく怒られてたでしょ? だから今日はアラフル様のところでお勉強なんだって」
「……そういえば、そんな話をしてたっけ?」
 我ながらの滅多にない間抜けっぷりに、カーレンは苦い顔をして頬にかかる髪を払った。最近リエラが忙しいために切ってもらう事ができないため、伸び続けているのだ。肩に軽く届く程度にまで伸びた金の髪を、ユイはしげしげと眺めていた。
「カーレンお兄ちゃんは、髪、伸ばした方が絶対に似合うよね?」
「……うん?」
 先ほどまでくすくすと笑っていたかと思えば、いきなり何を言い出すのか。カーレンはやや困惑した目でユイを見返した。
「だって、ユイやエルニスお兄ちゃんの髪って銀色だし、目も紫だけど、カーレンお兄ちゃんはお日さまの色してるし! 目だって綺麗だもん!」
 何やら力を込めて主張すると、ユイはにっこり笑った。
「だから、風とかで長い髪がぱーってなったら、もっと綺麗だとユイは思うの!」
「……はぁ」
 何がなんだかよく分からないので、生返事を返すしかない。
「あ、今ぜったい興味がないって顔した――!」
 ひどいーっ、と絶叫するユイを前にして、カーレンは明後日の方向を見やった。いつもと変わらず、彼女の兄であるエルニスや、同じ女性であるベルがいなければ、ユイが何を言いたいのかはよく分からなかった。それはそれで、いつも最後には鈍いと言われるのだが。
『仕方ありませんよ、ユイさん……マスターはいつも鈍いんですから』
 しまいには使い魔にまで鈍いの烙印を押される始末である。何となくそれが気に入らなかったカーレンはすっと目線を走らせた。目に留まったのは足元の新雪。それらをじっと見つめて魔力を注ぐと、カーレンの魔力を帯びた雪は大量に宙へと浮かんだ。何をする気なのかと訝しげにそれを見上げたルティスの上に、カーレンは雪を落として彼を埋めた。
「お兄ちゃん、それはちょっとひどいんじゃない……?」
『〜〜〜〜〜〜、――!』
 ユイの苦笑混じりの指摘や助けを求める声なき悲鳴をよそに、カーレンは屋敷に向かって伸びる道へ目を戻した。どことなく満足しながらぼうっと眺めていて、向こうから人影がやってくるのに気付く。
「あ……エルニス、ベル」
 名前を呼ぶと、やってきた二人のうち、エルニスがああ、と声を上げた。カーレンが里に来たばかりの頃から大分背が伸びている。人間でいえば十歳程度の外見なのだが、日々を過ごしている内に、気付けば目の高さが大体カーレンと同じだった。エルニスもその事に気付いたのか、少し顔をしかめた。
「おまえ、見るたびに背が伸びていないか?」
「……僕じゃなくて身体のほうに聞いてくれ」
 目を逸らして答えるも、カーレンは本来の用事を思い出し、またすぐに戻した。
「そうだった。一緒に遠くまで行こうかと思っていたんだけど……勉強、あるそうだな」
「あーそーだよ」
 エルニスはぶはぁ、と大きく溜息を吐き、それが真っ白に染まって、少しの間カーレンの視界からエルニスの顔を消した。朝方のため、冷え込んだ空気と息の温度差が激しいのだろう。
「おまえはいいよな、普段から勉強家なんだから」
「やる事やらないエルニスが悪いのよ。あたしも人の事は言えないけどさ」
 心底羨ましそうな顔で見てくるが、ベルが呆れた目でエルニスを見やった。
「どっちにしても、勉強を放り出して二人で変な悪戯をするから悪いんだろ」
 カーレンが呟くと、隣でユイがうんうんと頷いた。
「ユイはお兄ちゃんとお利口さんで勉強してたから、おとがめなしっ」
「こら、そこは威張るとこじゃない。単におまえはカーレンのそばにくっついてたかっただけだろが」
「うん、そう」
 あまりにも素直なユイの返答に、かえってエルニスは気が抜けたようだった。微妙に傷ついたような顔をしているのは、兄の気持ちとしては分からないでもないが……嫉妬の視線を向けるのはやめてほしい。
「ったく……カーレン、ユイの事頼んだぞ。俺たちも勉強が終わったらすぐ行くから」
「ああ、分かった」
 頷くと、カーレンは目を空に泳がせて、この辺りの地形を頭の中に描き出した。今日は北の山を少し下ろうと考えていたので、とりあえず方角を適当に確認してから、あっち、と指で指した。
「滝のほうはアラフルが危ないって言ったから、今日はこっちに行ってくる。早く勉強を終わらせて来いよ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
 エルニスが肩をすくめたが、ベルはじっと何か言いたげな目でこちらを見つめてきていた。と、その瞳が呆れの色を帯びてカーレンを見据える。
「あんたねぇ……、いい加減にお父さんとか呼んだらどうなの?」
「いや――」
 カーレンはそれに返そうとして、言葉を途切れさせた。開きかけた口をつぐみ、左右に首を振る。
「……呼ばないんじゃない。呼べないんだ」
「何で? お兄ちゃん、いつも楽しそうにアラフル様と話しているのに」
 分からない、とカーレンは呟いた。
「そう呼ぶ事が、何でか知らないけど……どうしようもなく怖いんだ。……何か、」
 居心地が悪く感じて、カーレンは視線を空へと逃がした。
 ――何か、『嫌な事』が起こりそうで。
 舌の先まで出かかった言葉は、喉の奥に引っかかって取れなかった。言える訳がない。何の根拠もなくおぼろげな恐怖を口にしようとする事は何度もあった。ただ、その度に何かが頭をかすめる。思い出したくないような、それでいて思い出さなければならないような。意識を向けるのが怖くて、未だにその何かの正体を知らないままでいた。
 途中で言うのをやめたカーレンに奇異の視線を向けながらも、エルニスは肘でベルを小突いた。
「ほら、変な事ばっか言ってないで、早く行くぞ」
「分かってるって……あんたも、いい加減に呼んであげなさいよ。アラフル様もあれでも寂しがってるみたいだから」
 あのタヌキみたいな義父が寂しがっている姿などとても想像できない、と言ったら間違いなくベルに半殺しにされるので、そんな事はまさか口が裂けても言える訳がなかった。代わりにカーレンはきつめに眉を潜めたが、何となく背後におどろおどろしい気配を感じて振り向いた。当然、どんな姿もそこにはない。それでも気配が間違いなくある。
 気配の源を辿って、ふと長の部屋の窓に目をやると、

 暗闇の奥で何かが光っている気がした。

「――、うん。そうする」
 思い切り嘘くさく聞こえた。
 それでもあえて、『あれ』が何なのかはカーレンは考えなかった。考えたらきっと怖くてたまらなくなるだろう。目を逸らすのでさえ大量の勇気を必要としたのだから。
 エルニスも何かを目撃したのか、哀れむような、引きつったような、妙に哀愁の漂う表情をカーレンに向けたが、何も言わずにベルと共に屋敷の中へと入っていった。
 思わずだが、彼の無事を祈らずにはいられない。心の中で――信じた試しはあまりないが――小さく神の良きように、と唱えると、カーレンはユイを見た。
「そろそろ行こうか」
「――うん、お兄ちゃん!」
 満面の笑みを浮かべて頷くユイに、カーレンは小さく微笑む。
 そのままユイがカーレンの手を繋いで引っ張り、二人は歩き出した。
 が、
『…………ま……す、たー』
 今にも息絶えそうなルティスの小さな叫びが耳に入った。
 一瞬、きょとんとユイと顔を見合わていた。
 やがてじわじわと事の次第を理解し、目の前の少女が苦笑していく。その様子をカーレンは苦い気分と共に見ていた。空を仰ぐと、一点の染みもなく蒼空が広がっている。
「あー、――悪い。忘れてた」

 凍死寸前のルティスが雪の下から救出されたのは、それから数分後の事だった。

□■□■□

「っくしょ〜い!」
 身体が少し浮いた。
「ちょっと、大丈夫? すごいくしゃみだったわよ」
「ぅむ……だいじょぶ」
 即座にちり紙を渡してくるベルに軽く礼を言う。
 ずび、とエルニスが鼻をかむのを聞きつけたとみえて、向こうでアラフルと話していた父が振り向いた。
「どうした、風邪か?」
「……あいにくそんな名前の病気はした事ないけど」
 鼻をかみながら冗談を飛ばすと、馬鹿、と声が返ってくる。
「ドラゴンでも風邪はひくときゃひく。気をつけろよ」
「ぅえーい」
 半分生返事で返すと、エルニスはやっと半分終わった勉強のノートを脇へと押しやった。と、黙々と文字の練習を続けるベルを呆れた目で眺める。
「ベル、おまえよく続くなぁ……」
「だって、早くカーレンたちのところに行きたいもの。あんたも頑張れば?」
「そりゃそうだけど、さ」
 エルニスは溜息を吐いた。
「何で魔術の実践練習まで後に入ってる訳? しかも俺の一番苦手な炎系」
「あれ、あんた炎が得意じゃなかったの?」
「いや。単にその時おまえに見せたのが一番使いやすいやつだったってだけ。炎に特化してる分、逆に扱いにくいんだよ。……魔力が馴染みすぎるから」
「あー、相性が良すぎるから大変なのね」
 妙に嫌味が含まれている気がしたが、何も言わないでおいた。うん、とエルニスは疲れ混じりに頷き、ふと顔を上げた。  ……そういえば。
「カーレンは結局、何を一番使ってたんだっけ?」
「結構何でも使ってるわよね。みんなが苦手なやつもさらって覚えちゃうし。勉強家以前に、元からそういう器用さが備わってるのかも」
「……それは逆に苦しいんじゃないか?」
 エルニスは顔を歪めた。
「え。何で?」
 きょとんと聞き返すベルに、エルニスは眉根を寄せた。
「いや……いざって時に、これっていう物がなかったら不便だろうなーって思っただけ」
 実際は、そんな事は思っていなかった。エルニスにも何となくだが、カーレンが得意とするものがあるらしい事は分かる。ただ。
「……あっても、なんか目立たないようにしてる気がするし」
「あぁ。それは分かるかも」
 ベルも納得したように頷いた。
 しばらく二人の間に沈黙が落ち、俯いていたエルニスの耳に、アラフルたちの話が聞こえてきた。聞くつもりはなかったのだが、自然と耳に入ってきてしまったのだ。

「……それで、ラジク。見かけたのは二体だけか」
「他には姿は確認できなかったので、断定はできませんが。しかし、この辺りでは滅多に見ない強い種のようで、始祖の率いていた者がはぐれたか、捨てられたか」

 ふむ、とアラフルが父に頷く気配がした。エルニスはベルと目を見合わせてから、二人でそっと振り返った。
「まさか、ドラゴンの気配を感じなかった訳ではないでしょう。よほど命知らずか、怖い物がないと見えます」
「実力の程は」
「……それが」
 ラジクは言い淀んだ。ちらりとエルニスたちの方を見やっていたので、エルニスは咄嗟に、自分とベルの耳に聴力を強化する魔術をかけた。
 予想通り、ラジクはアラフルに顔を寄せて、声を低くした。
「子供が出会えば、おそらくひとたまりもありません」

「父さん……そいつら、魔物?」

 エルニスは我慢しきれずに口を開いていた。きっと聞かれないようにと声を低めていたのだろう。抜け目のない息子に苦虫を噛み潰した顔で振り向いたラジクに対して、エルニスは真剣な目で父を見返した。思わぬ息子の神妙な表情に、ラジクも何か、ただ事ではない匂いを嗅ぎ取ったようだった。
「ああ。かなり危険だから、近寄ったらおまえも殺されるだろう……それがどうかしたか?」
 ベルがラジクの注意を引こうと、駆け寄って彼の袖を引いた。
「それ、どこなんですか、ラジクおじさん」
 聞かれて一瞬答えようとしたように見えたが、ラジクは眉間に皺を刻んで首を振った。
「おまえたちはだめだ。教えたらすぐに一目見ようと駆けつけるだろう」
 遊びじゃないんだぞ、と厳しい口調で叱りかけたラジクの肩に、アラフルが手を置いて制した。
「……北の山を越えた辺りだ」
「――――っ」
 ガタン、と椅子を揺らして、エルニスは立ち上がっていた。
 急に立ったせいで、くらりと立ちくらみがした。ざっと顔から血の気が引いていくのが自分でも分かり、気が動転しているおかげで、ぐらぐらと足元が揺れた。よろめいたのがベルも分かったらしく、慌ててエルニスを支えてくれる。
 僅かに呼吸困難になりかけたが、エルニスは軽く喘いで深呼吸をすると、眩暈が治まるのを待って、ようやく身体を落ち着けた。
「……ありがとう、ベル。もう大丈夫だから」
 ベルの手をゆっくりと押し戻すと、エルニスは頭を出来うる限り回転させていた。
 北の山の向こう。カーレンとユイも北の山に行っているはずだ。なら、今頃出くわしていてもおかしくないのではないか。
「大丈夫か、エルニス? 北の山に、何かあるのか?」
 聞いてくるラジクと、眉を潜めてこちらを見つめてくるアラフルの顔が、エルニスと同じ色になるのに時間は要らなかった。
 喘ぎながら、エルニスは喉から声をしぼり出した。
「……カーレンと、ユイが」
 アラフルが目を見開いたかと思うと、クェンシードの長はこれまでに見た事のない速さで部屋から飛び出していっていた。ラジクも慌ててその後を追っていく。
 廊下の向こうから、きりきりと張り詰めた声が聞こえた。
「すぐに戦える者を三人集めろ。――急げ!」

□■□■□

「あ、そこの足元は気をつけて」
 坂を下りかけたユイにカーレンが声をかけると、案の定、見事にそこで彼女は転んだ。
「ひえぇ!?」
「…………やっぱり駄目か」
 カーレンは溜息交じりに苦笑した。雪に半分埋れたユイは、恨めしげな目でこちらを見上げた。もっと早く言え、と切実に訴えかけてくるのを感じて、カーレンは内心で全く、と更に苦笑を重ねる。
 目は口ほどになんとやら、という言葉が浮かぶのは、この少女が感情を出す事を得意としているからかもしれない。
「……ほら」
 手を差し出すと、ユイは途端に不満げな顔を引っ込めて、嬉しそうにその手を取った。これほどくるくると表情を変える子もそうはいない。
 手を握ったまま、カーレンはユイを先導しながら、また坂を下り始めた。
 ユイがそろそろと進むのを待っていると、腰につけた鞄からルティスが出てきて、カーレンの背中を這い登った。
『マスター、寒いです……』
「寒いんなら大人しく中にいろ。その前に、くすぐったいからやめろって言ったはずだけど」
 カーレンの言葉を無視する形でルティスは肩まで登りつめると、首筋にぺったりとその冷え切った身体を押し付けてきた。氷に触れられるような感触がして、思わず背中にぞくぞくと震えが走った。
 嫌がらせか、と横目で睨みつけるが、当人は涼しい顔をしている。
 歯を無意識に食いしばりながら表情を保ち、カーレンは坂の下まできて、ようやくユイから手を離した。
 丁度いいので、ついでとばかりに首にへばりつく黒い毛皮を引き剥がしたら、温もりから離れるのが嫌なのか、爪を立てられた。
 こいつ、と薄く殺気を垂れ流しながら、カーレンは首を確かめた。軽く首に引っかいた跡ができている。ぴりぴりとした痛みに更に怒りが湧いたが、まさか、ユイの目の前で絞め殺す訳にもいかない。代わりに、カーレンはルティスを思い切り遠くへと投げ飛ばした。あれだけ軽いのだから、叩きつけられた時は痛いのだろうが、かまいはしなかった。
「全く、少し気を抜いた途端にこれか……」
「お兄ちゃん、ちっとも油断できないね」
 後ろでユイが苦笑した。
「本当に、どうにかなればいいんだけどな。ひょっとして一生こうじゃないだろうな」
 カーレンは嘆息したが、マスター、というルティスの呼び声に、使い魔を投げた方向を見やった。
「どうした?」
『……いえ、それが』
 雪化粧をほどこされた黒狼がひょっこりと雪の合間から顔を出した。
『あっち側にいいものを見つけましたよ』
 にやりと笑ってみせるが、いつもより凄みがない。今回は信用できそうだ、とカーレンは普段の経験から察した。
「いいものって?」
 聞かれて、顔をユイと見合わせると、ルティスは大きく頷いた。
『樹氷です。いい具合に雪がついてて綺麗ですよ?』
「へぇ……樹氷か」
 呟くと、カーレンはユイを見下ろした。少女はくりくりとした眼を、期待に輝かせている。
 悪くはないだろう。思って、カーレンは笑った。
「行ってみようか」
 嬉しそうに、ユイが首を縦に振った。その輝くような笑顔を見ていると、少しだけ、いつも心のどこかが寒いのに、そこも陽だまりになって溶かされるような心地がした。
 さく、と柔らかい雪を踏みしめ、眩しい銀の世界を少しだけ進むと、目の前に突然、それらは現れた。

「うわぁ……綺麗!」

 ユイの感歎する声に、カーレンも思わず頷いた。
「――すごいじゃないか。でかした、ルティス」
『埋めたのを放っておいた事については?』
「……あー、悪かったって言ったろう?」
 褒めた事で少しつけあがったらしい。が、これだけ見事なものを見せられれば仕方もないだろう。抜け目のない使い魔だ、と溜息をつくと、カーレンは苦笑した。
 ぱたぱたと危なっかしく、少女が雪原を駆けていく。ユイは雪の中でくるりと回り、不意に吹きぬけたつむじ風と共に舞った。
「すごい! いつも丸っこい樹氷しかないけど、今日のはちゃんと木の形をしてるよ、カーレンお兄ちゃん!」
 彼女の言う通りだった。広くゆるやかな斜面に生えた木は、純白の雪を全身に纏い、精霊のように神々しくその腕を空へとさしのべている。中でも一際大きな樹氷があって、カーレンは少し離れたところまで歩み寄り、少し下がってからそれを見上げた。
「うん……ここまで丁度いい感じに樹氷が育ったのは、ちょっと見たことがないな」
『私の手柄ですよ』
「ああ、分かってるよ」
 あくまでも自分が見つけたと主張する使い魔を抱き上げ、くりくりと腹の毛並みを弄ってやる。こうしてやると、最近気持ちいいのか、くるるると甘えたような声を出すのだ。
「エルニスたちが勉強を終わらせたら、ここに連れて来ようか」
 ユイにそう笑いかけて提案すると、ユイは飛んで喜んだ。
「ほんと? 約束だよ、お兄ちゃん!」
 駆け寄ってきて勢いよく体当たりをしてくるので、カーレンはユイを受け止めきれずに後ろへ倒れてしまった。衝撃できゅう、とルティスが潰れた気がするが、ユイの重さが少しだけ心地よくて、それもあまり気にならない。
「僕がおまえとの約束を破った事があったか?」
「ううん、全然ないよ!」
 きゃははは、と耳に心地よい笑い声を上げて、ユイは髪が雪だらけになっているのも気にせず、ぐりぐりと顎の下に頭を押し付けてくる。こそばゆいと思ったが、暖かさに包み込まれた気がして、背中が冷えるのも気にせずにぽんぽんとユイの背中を叩いてやった。くくく、と、抑えようとしているのに、どうしても喉から笑い声が漏れてしまう。
「あ、ごめんお兄ちゃん。くすぐったかった?」
 すまなさそうにして顔を上げるユイの顔が、どこか可笑しい。
「うん、それほどでもないな」
 答えると、カーレンはくすりと笑みを零した。
「それより、早くどいてやらないと、ルティスが潰れるぞ」
『とっくの昔に潰れてます……というか、貴方たち本当に傍若無人ですね』
 重なり合った胸板の間から、苦しそうな声が聞こえた。
「それってどういう意味?」
「いや、あまり知らないほうがいい。……今は」
 目をつと逸らすと、ルティスを見下ろした。思わず意地の悪い微笑が漏れた。
「朝から散々な目に合ってるよな?」
『誰のせいですか、誰の』
 すっかり不貞腐れてしまっている。思わず失笑を漏らして、カーレンはルティスの毛並みを先ほどとは違い、かしかしとやや乱暴にかき乱してやった。
『ほら、そうやっていつも笑って誤魔化すのはあなたの悪い癖ですよ、マスター』
 やや嫌そうにしながらも、本気で逃れようとしている訳ではないらしい。ふてぶてしい顔で腹が立つ事は請け合いだが、それでも怒る気にはなれなかった。その前に、気持ち良いから撫でさせてやっている、という優越感を微妙に感じるのは気のせいだろうか。
 指摘されて、ふとカーレンは手を止めた。
「……そうか?」
『ええ』
 そうですよ、と、言いながらカーレンとユイの間から這い出し、ルティスは乱れた毛並みを舐めて整えようとして、

 突然その瞳が鮮烈な翡翠に輝いた。

『マスター!』
 毛並みを整えるのもそっちのけで、今まで聞いた事もないような大喝をルティスが放った。怒っているようにも見えるが、違う。
 状況を掴めないが、カーレンは咄嗟にユイを抱いたまま素早く起き上がり、ルティスの後ろに回りこんで、彼の警戒する方をうかがった。
「何が――」
 最後まで問いかける暇さえ許されなかった。
 ズン、と身体の底から全てを揺るがす程の振動が、辺りに満ちていた穏やかな気配を一瞬で鎮めた。
 また、振動。足元がびりびりと震える感触を感じて、庇っているユイが、腕の中で不安そうに身をよじった。カーレンも、僅かに覚えた恐怖と、膨れ上がった警戒心から、ユイを抱く腕に力を込めて身構えた。
 肌に触れられそうほど強い力が、容赦なくカーレンたちの身体を叩いているのが感じられた。
 ――よくない。これは、明らかに危険だ。
 冷や汗が額を伝い落ちた時、先ほどまで静かに佇んでいた巨大な樹氷の陰から、『それ』は現れた。

 ごつい灰色の毛皮に覆われた体躯と、肩の大きさに全く似合わない、鋭い爪をいくつも持った巨大でむっくりとした手。良く跳べそうな脚力のある足は、ひとたび跳ねれば空の点にもなれるし、走ればブラルの『疾風』と呼ばれる全速力の域に達するほどだろう。極めつけに、頭部などはこの世の地獄を体現しているようだった。鋭く尖って、巨大な頭の後ろへと伸びる皮膚で覆われた、長く鈍い黄金の一本角。常に見開かれた血走った赤目は焦点を結んでいる様子がなく、だらしなくくぱっと開けられた口からは唾液と共に、異様な死の気配を絶えず振りまいていた。額には種の特徴として、通常は両手を広げたような赤茶の紋章があるはずだが、その色は漆黒だった。そして、全てがカーレンが知るものより大きい。間違いなく、その辺りにいる魔物ではなく、始祖に付き従う特別な魔物だと分かった。
 そして、重い足音を立てながら、その魔物はゆっくりと、一歩を踏み出した。垂れた赤黒い舌から落ちた唾液は、雪の上に落ちると濃い紫の炎を上げて燃えた。
 静寂の中から突然現れるために、『静けさ』、つまりグイネスと呼ばれる種だが、その中でも彼らの始祖に付き従う魔物は格が違う。ドラゴンが使い魔に下す、ものの道理が分かっている魔物ですら、『死神』と呼び恐れる相手。グイネスとは区別して、その名が特別に与えられた、まさしく悪魔。
「ナウザン・グライネス……沈黙の死神」
 魔物の称号と冠符を震える唇が音にする。その瞬間、カーレンは悟ってしまった。自分はこれには勝てない。いや、もっと悪かった。嫌な確信をして、カーレンは唇を舐めた。ユイだけでも、逃がさなければ。

 ……おそらく自分は絶対に、この魔物からは逃げられない。


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