Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-8- 秘密を求めば

 何か重い物が落ちる音で、ティアは驚いて目を覚ました。そのまま目を見開いたままじっとしていると、しばらくして呻き声が聞こえてきたので、そこから事態を何となく察し、やれやれと溜息が漏れた。徹夜明けで重い身体を起こすと、ベッドから転がり落ちるのを防止する意味も兼ねているのか、白い木の柵にもたれかかり、上から部屋を覗き込んだ。
「……大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないかも……」
 答えは部屋の反対側から返ってきた。どうも二段ベッドの寝心地がよくなかったのか、はたまたティアを起こそうとして、うっかり防犯用の魔術にでも引っかかったのか。倒れている場所を梯子と結びつけるとほとんど直線になる事から判断するに、おそらく後者だろう。頭に大きなこぶをこしらえる事となった兄をぼんやりと覘きこみながら、ティアは寝不足のためにはっきりしない頭でそう思った。
「まさかほとんど徹夜になるとは思わなかったわ……体調崩しそう」
「言えてるね。でも、アラフルの所に行かなきゃいけないし。すぐ行ったほうがいいよね?」
 聞かれて、ティアは館の天井を見つめた。にゅっと何もない場所に天窓が出てくると、魔術の明かりでほんのりと照らされていた部屋は、ものの数秒で朝の強烈な日差しで満杯になった。眩しさに目を細めながらも外を窺うと、太陽は昇ったばかりのようだ。少なくとも、初めて迎える高所での日の出は、かなり目に堪えた事は確かだった。
「もうちょっと寝ててもいいけど……でも、屋敷は思ったより遠かったから、今から出発して着く頃には完全にお日様が昇っちゃうわよ?」
「う〜ん……」
 頭を悩ませる兄を置いて、ティアはベッド脇にかけてあったマントを取ると、身体にしっかりと巻きつけた。留め金をつけるまでとはいかなくとも、これがあるとないとでは寒さに雲泥の差がある。それに、冷たい空気を肺に入れれば、少しは疲れた頭も眠気が飛ぶだろう。
 だが、館の外に出ると、ティアの足は一歩目で止まった。予想以上に冷たい空気が頬に触れ、室内とでの温度差で僅かに風が起こるのすら、急な温度差でしびれた肌でも感じられた。
「さむっ!?」
 思わずセルが絶叫を上げるほどの量が、一瞬で部屋の中へと雪崩れ込んだらしい。情けない声を上げてマントを取りに走る音を聞きながら、ティアはしばらく館から見える山並みを楽しんでいた。山の頂上だというのに、空気が平地と変わらない気がする。大きな魔力の集まる場所に周りの空気が引き寄せられるという旅人の仮説は、本当なのかもしれない。あるいは、アラフルが何かをしているのか。
「……兄さん。私、昨日の夜からいろいろ考えたんだけどね」
 兄が聞いているのかは別として、ティアは呟いた。
「うん――何?」
 聞いていたらしい。マントを同じように巻きつけながら、セルは布に覆われた留め金をティアに差し出してきた。冷たくなった金属に触れれば指がなくなるぞと半ば脅された形で、エルニスに渡されたものだ。寝起きで冷えている指先でそれをつまみあげると、ティアは複雑な気分でセルの目を見つめた。
「私、ユイの事について、アラフルに聞いてみる。カーレンとエルニスの間に何が起こったのか、知る必要があると思うの」
 セルはちょっと考えるような素振りを見せてから、ちらりとティアに視線を向けた。片手を身構えるように差し出すのは少しおどけているのか。いや、怯えているのかもしれない。過去にティアが無茶な事を言い出した前科があるからだ。
「……その真意は?」
 ティアはすぐには答えず、アラフルの屋敷に向かって歩き出した。言うべき事は何かを考えて、言葉を選びながら話し出す。
「――カーレンはたぶん、この争いに勝っても負けても、里での立場が大きく変わってしまうと思う。みんなとまではいかなくても、ユイの死んだ日に起こった事について、エルニスも全部は知らないだろうし――」
「けれど、当事者のカーレンに聞ける訳もないよね」
 セルが後を引き継いで、うんうんと頷いた。
「となると、消去法でいってもアラフルしかいないの。でも、彼は何を話すつもりなのかしら」
「……僕は何も話さないと思うよ」
「どうして?」
 振り向くと、セルは少し意味ありげな目をした。
「たぶん、長争いは二人にしてみたら大きな転機……すごいチャンスなんだよ。だから最終的には受け入れた」
 けど、と兄は漏らした。
「たぶん、アラフルが考えているのはそれだけじゃないはずだ。他にも何かありそうな気がする。……二、三ぐらい?」
「ええ、私もそれは考えてたの」
 頷くと、セルは声をやや潜めて言った。
「アラフルの意図が全く読めない。そりゃ僕らだって、まだドラゴンにしたら赤子も同然だろうけど。でも、本当に何も読めないんだ。だから、僕たちが聞きたい事のために時間を割いてくれたんじゃないかって。――あ、ごめん。話を逸らしちゃったね」
 ティアは首を横に振った。セルもやはり考えている事は同じだったらしい。それだけでも分かれば、話が逸れたって問題はない。
「つまりね、兄さん。カーレンが負けたら、エルニスが長になる。でも、そうなったら里にカーレンの場所がなくなる。どうしてそこまで里との関係がひどくなったか、そこだけを考えれば、ユイが死んだという事は大きいはずよ」
「おまけに、もともと外からアラフルが連れて来たドラゴンだから、一族なんてまとまった意識の中に入っていくのは難しかった、か……」
 セルは眉を潜めた。
「でも、カーレンが勝っても、エルニスの方を支持するドラゴンが多いわけだから、ひっくり返されてしまう可能性はある訳だよね?」
 そこまで言って、あっ、とセルは声を上げた。合点がいったらしい。
「そうか、どっちにしてもユイの事件が結局曖昧に終わってるから、そこをはっきりさせないと事態に収拾がつかないって言いたいんだね? その上で、何かの形で和解ができないといけないんだ」
「その通り。この一日で私たちが活躍できれば、このまま行くよりもマシな結果が……出せる、かも――うん」
 だんだんと尻すぼみになってしまった。正直に言うと、ティアにも自信はない。たった二人で何ができるというのだろう?
 それでも、何かをしなければ、いてもたってもいられない。
「まぁ取り合えず、ユイの事をアラフルに聞かなくちゃいけないって事は確かだし。後の事はそれから考えてもいいんじゃないかな?」
 苦笑しながらセルに言われ、ティアは顔を僅かに紅くして俯いた。
 すぐ前に、いつの間にか屋敷が見えてきていた。

□■□■□

 部屋に入ると、アラフルは既に椅子に座り込んで待っていた。寝起きなのか、髪の毛が妙な方向に一房跳ねていて、その癖の強さがうかがえる。やや疲れの見える顔からしても、ティアたち同様に徹夜に何か堪えるところがあったらしい。目元にはくっきりと隈が刻まれていた。
 アラフルはティアとセルの姿を認めると、深く沈んでいた背もたれから嘆息まじりに身体を起こした。
「いや、悪いな。働きづめでろくに仮眠も取っていないのだよ」
 弱々しく笑いながら言ったためだろうか、昨日よりも雰囲気がやや緩んでいるものの、油断はできない。セルが真剣な顔つきで、まず切り込んだ。
「……それで、僕たちに何を話すつもりなんだい?」
 おや、とアラフルは片眉を上げた。
「君たちが何か聞きたいと思ったのではないのかい?」
 大方は予想通り、といったところだろうか。少なくとも、アラフルから話す事は特にないようだった。
 ティアは頷いて、考えていた中で気になっていた事をまず口にする事にした。何よりも、これを聞かなければティアたちの戦いは始まらない。
「どうして、長争いにカーレンを?」
「……選んだ理由かね?」
 アラフルはちらりとティアを見た。
 ティアは首を振った。心臓が妙に強く鼓動を刻んでいる。
「カーレンの立場が、この里であまり良い状態じゃないのは分かったの。でも、どうしてそれを知っているはずのあなたが、立場の強いエルニスと引き合いに出したのか。それが知りたい」
 じっと、アラフルの底知れない瞳がティアを見つめた。探られるような感じがしてあまり良い心地ではなかったが、船での時のような強引な感じはしない。
「…………ふむ。一日でよくそこまで読み取ったものだな」
 頬から顎までを手で軽く撫でると、アラフルはふ、と表情を緩ませて、面白そうにティアを見返した。
「それで? 知って、どうするつもりだ?」
 試されている。気付いたティアは、乾いた唇を舐めた。そのまま自分の我がままを言ってはいけない。これは一種の駆け引きだ。頭に浮かんだ言葉は多かったが、その中からティアは一つを選び出した。妙な答えかもしれない。だが、賭けるしかない。
「…………決まってるわ。私たちは、私たちに出来る限り、カーレンを守る」
 一瞬、アラフルは理解に苦しむような顔をした。
 失敗したか、と冷や汗が出たが、次の瞬間、
「――――  、は」
 アラフルの目が点になり、ややあって、その口から笑みがこぼれた。

「っ――く、はははははははははっ、ははははは!」

 その背中が仰け反ってしまうほどの大笑いが部屋に響き渡った。あまりに大声で笑うので、ティアとセルが真面目な顔をし続けるのを馬鹿らしく感じたほどだった。
 そのままずっと彼は笑い転げ、笑い終わってもまだしばらく苦しそうにひぃひぃと喘いでいたが、半眼になっていたティアたちに気付くと、にやけてしまう顔をこすり、目尻の涙を拭った。
「いや、すまん。あまりにも突拍子もない答えだったからな。――が、悪くはない」
 先ほどとは打って変わり、アラフルは凄みのある表情を浮かべた。
「その誓い、違える事はないか?」
「……ええ」
 ティアはその表情に少し気圧されたが、頷いた。セルも目を険しいものに変え、神妙な態度で言った。
「確かに誓うよ。僕らはカーレンを守る。絶対に、この里での居場所をなくさせたりはしない」
 しばらく、アラフルはティアたちを表情の読めない目で見つめていた。ティアも、アラフルを見つめ返していた。
 目に見えない拮抗の末にやがて納得がいったのか、アラフルは満足そうに頷いた。
 それから、なぜか苦笑いをした。
「だが、順序が少し違ったな。君たちの質問の答えは、君たちがやろうとしている事をやりとげた後に話すのが適当だろう」
 言うと、アラフルはすっと懐に右手を入れたが、何を思いなおしたか、躊躇うように手を止めた。
 そのまま動きまでもを止め、彼は確認するような目線をこちらに向けた。
「知りたいのだろう?」
 気だるげに聞こえて、その実、誘うような調子で彼は呟いた。謳ってみせたようにも思える。
「かつて、この里で起こった悲劇を」
 告げたアラフルの服の中に差し入れた手は動かない。ティアは思わず、無意識のうちに生唾を飲み込んでいた。
 セルが一歩、足を前に踏み出した。
「教えてください、クェンシードの長。――カーレンとエルニスの間に起こった事を」
「――私からも、お願いします。教えてください」
 ティアは、深く、深く頭を下げた。
「エルニスの妹、ユイはどうして死んだのか――真実を知らなければならないんです」

 それが、どれほど深くとも。それが、どれほど残酷でも。
 果たして、ティアたちの想いは届いたのかどうか。
 顔をそろそろと上げると、何を思ったのかは分からなかったが、アラフルはその様子をただ見つめ、そして、静かに目を伏せた。
 手が動いた。――懐をまさぐり、目当ての物を探し当てたのか、何かを取り出しながらアラフルは椅子から立ち上がった。ゆっくりとした足取りで彼はティアたちの前までやってくると、ちょうど目線上に握った右手を差し出し、開いてみせた。
 手の平の上にあったのは、赤ん坊の握りこぶしぐらいの大きさをした玉だった。驚くほど完全な丸の形をした玉は宝石にも金属にも見えるような不思議な色合いをしており、とろりとした癖のない銀色が、その不思議さに深みを加えていた。まるで噂に聞いた真珠のようだと思ったが、手に取ってみると、ずっしりと重いという事が分かった。
「――それが何か、分かるか」
 分からなかったので、ティアは素直に首を横に振った。アラフルは険しい色を目元に浮かべていたが、力を抜くと、疲れたように溜息をついた。
「その重さは、苦しみだ。哀悼の痛み、喪失の苦痛、全ての辛苦がその玉に込められている。……全て、カーレンの心だと思ってもいい。私はこれを胸元に隠したまま、ずっと彼を見つめてきた」
 アラフルは伏せていた目を開いた。
「カーレンは、ユイの死んだ瞬間を覚えていないだろう」
「――ええ。よく覚えていないって言っていたわ」
 ティアが頷くと、アラフルはここに来て初めて、その瞳に感情の色を映していた。
「……あの子は私が守りきれなかったせいで、自らの記憶を封じる事になってしまった」
 ぽつりと漏らしたのは、本音だったのだろう。沈んだ声が重く響いた。
 彼はティアを真っ直ぐに見つめた。切なる想いがその視線に込められているのを、ティアは感じ取った。
「涙の玉、と呼ばれるものだ。滅多にある物じゃない。君たちなら、彼の空白を埋められると思ったから託す」
 目に浮かんだそれは、沈痛の色だった。
「私は、空白を埋める事ができなかった。ただ、全てをカーレンに返す時は来たのだと思っている。玄関の前に立つといい。そこからは、」
 言葉を切ると、アラフルは疲れを多分に含んだ溜息をついた。
「――そこからは、『それ』が導いてくれる。あの日起こった真実に、近づける」
 当然だ、そう呟いてアラフルは色のない笑みを見せた。
「それは、カーレンの記憶そのものなのだから」

□■□■□

「……とは言われたけど、具体的にどうすればいいんだろうね?」
 セルの言葉に、ティアはうん、と歯切れの悪い返事を返した。言われた通りに玄関の前に立ったのだが、そこからどうすればいいのかが分からない。渡された銀色の玉に目を落としても、相変わらず何も変化を見せなかった。
「涙の玉、か……でも、それは本当に涙かな?」
「そう言われてみれば、確かに本物は……銀色ではないわよね」
 だが、銀色をしていて、これがカーレンのものだとなると、ティアに心当たりがあった。
「エルニスが言ってた。カーレンの魔力の色は銀だって。たぶんこれ、魔力の結晶みたいなものなのよ」
「……じゃ、同じ魔力を流せば、何かが起こるんじゃないかな?」
 言われて、ティアは頷いたが、同時に困って眉間にしわを寄せた。魔力の流し方なんて知らない。ただ、魔力を使う力は知っている……と思う。ドラゴンアイが本当にただの純粋な力ならという話だが。
 試してみる価値はあるか、と肩をすくめると、ティアは玉を見つめながら、瞳に力をこめた。駄目もとでもやるしかない。
 願い事をするようにして、そっと目を閉じる。明るい暗闇のような世界に沈み込むと、意識の中で、背中がじわりと温かいものに触れた。ドラゴンの力だ。
 しばらく何も起こらなかったが、やがて、すっと勝手に手が導かれるように動いて、前へと差し出された。瞼の下と手の平が、異常なほど熱く感じる。身体中の熱が荒れ狂うように動いて、そのまま一つの流れに変わり、怒涛の勢いで玉へと流れ込んでいくのを感じた。
「……っ」
 寒いはずなのに、汗が顔を伝い落ちた。どんどん体温が上がっている錯覚を覚え、くらくらと眩暈がしたが、ふいにセルの手が、ぽん、と肩におかれた。ぎくりとしてティアが目を見開くと、兄が呟いた。
「どうやら、成功したみたいだよ。ごらん」
 はっと気付くと、手の中に玉はない。息を切らしながらゆっくりと手を下ろすと、視線の先には、雪の上で銀色のもぞもぞと動くものがあった。
 ちょこんと、見慣れたはずのとんがった耳が見えた。
「――――え?」
 思わず目を疑ってごしごしと目を擦るが、見間違いではない。セルもどう反応すればいいのか分からずに、困ったように眉を潜めていた。
 動いていたものは、やがてむっくりと身体を起こした。玉の本来の大きさからしたら、そのまま変化したとは言えないかもしれない。ただ、本物よりは小さい。町の中の彼と同じくらいの大きさだった。
 起き上がって四肢で立ち、『それ』はこちらを見つめてきた。
「……ルティス?」
 呼ばれると、全身銀色をした黒狼は、ぴくりと顎を上げ、尾を一振りした。くるりと背を向け、何も言葉を発する事もなく、とことこと危なっかしい足取りで歩き出す。まるで赤ん坊のそれのように進み出したルティスを前に、ティアとセルは顔を見合わせた。
『――ついて行けばいいのですよ』
 声がした。はっと気付いて見やると、銀ではなく、本当のルティスが雪の上に座り込んでいた。銀のルティスを見やって、再び視線で促す。
『知りたいのでしたら、"私"が、しかるべきところまで導きます』
「……ルティス?」
 迷うように名前を呼ぶと、ルティスは首を振った。
『真実を説明するのは、私の役目ではありませんから』
 言うと、ルティスはふっと雪の中に沈み込んだ。地面に溶けて移動したのだ。つまりは、自分たちだけで行け、という事だろう。
 ティアは少しの間その場所を見つめていたが、目をそらした。小さな銀色の狼は、振り向いてこちらを待っている。
「――行こう、兄さん」
 呟くと、ティアはルティスの所へと歩きだした。彼はティアたちがついてくるのを確かめると、再び道を進みはじめた。しばらく来た時と同じ道を歩いていったが、ある地点まで来るとルティスは一度立ち止まり、ティアたちに示すように視線を送って、急に横へと向きを変えた。
「え?」
 道をそれた事に面食らいながらも、慌ててティアはその後を追った。
「脇へ行くなんて……どこに連れて行くつもりなんだろう」
 セルが早足で追いつきながら言うのが背中越しに聞こえた。
「そんなの分かるはずないわよ……わ!?」
 言いながら、ティアは急に足元がずるりと滑ったのを感じて、慌てて踏んばった。いきなり急な下り道になっていたせいで、足が凍り付いた雪の上を滑ってしまったのだ。
 少し先ではルティスがこちらを振り返っていた。本物ならば、何やってるんですか、と呆れた声の一言もかけてきただろうが、それもない。涙の玉が作り出した、ただの案内役なのだ。
「大丈夫?」
「うん……心配ないわ。ありがとう」
 セルに礼をいいながら、ティアは慎重に坂を降り始めた。やや滑り落ちるような心地があったが、なんとか最後まで転ばずに降りる事ができた。顔を上げると、ルティスはもう向こうまで進んでいる。
 誰も来ないような場所にやって来ている。まるで、誰かに見つかる事を嫌がるように、人を寄せ付けまいとしたのか、歩きにくい道ばかりが続いていた。道とは言ったものの、ほとんどそれと呼べるものはない。
 この先に何があるのか、誰にも分からない。ただ、新雪に覆われた地面に目を落とすと、ん、とティアは目を驚きに軽く見開いた。
「兄さん、見て。足跡がある」
「え? ……ああ、本当だ」
 セルは足元を見て、ティアと同じように驚き、頷いた。
 規則的に、割と広い歩幅で足跡が続いていた。大きさや歩き方の大胆さからして、たぶん男だろう。
「一人、だよね?」
「たぶんね」
 ティアは足跡の続く先を見やった。ルティスが進む道と、ほぼ同じだ。
「同じ方向に向かってる……誰かいるんだわ」
「カーレンかな? だとしたら、すごく都合が悪いけど」
 セルと一瞬目を見合わせたが、ティアは分からないという意味をこめて、曖昧に首を振った。できれば違うドラゴンであってほしい。ティアは前に向き直ってルティスの後を追った。
 先ほどよりも早足で歩いていると、急にルティスが立ち止まり、ティアたちの方に向き直った。足を止めてルティスを見ると、ティアはその後ろに、自然ではありえないものを見つけて目を瞠った。
 建物だ。
「……これ、館?」
「こんな誰も来ないような場所に、何で館なんかあるのさ」
 セルが渋い顔をした。
 確かに、それは館に似ていた。ただ、ティア達が泊まったものよりは少し大きい上に、高さもあった。太い円柱にドームをのせたような形で、唯一違うのは、屋敷のように扉があった事だった。
 ルティスは自分の毛並みを少し直すような仕草をした後で、すっと淡い光を放ち、元の玉の形に戻った。ティアは歩み寄って玉を拾い上げ、建物を見上げた。
 この中に入れば、何かが分かる、という事だ。
 ……が。問題が一つあった。
「足跡、この中に続いてるみだいだけど。入る?」
「入る、って……入らないと何も分からないわよ」
 困った事になった。ティアは扉をじっと見つめたが、やがて意を決して頷いた。
「入るわよ、兄さん」
「……本気かい?」
 気が進まなさそうだったが、セルは複雑な色の目で館を上から下まで眺めると、溜息をついた。
「分かったよ。秘密を求めば闇に踏み込め、だね」
「よく分かってるじゃないの」
 肩をすくめると、ティアはドアの取っ手に手をかけた。やはり、誰かがいるかもしれない場所に踏み込むのは、緊張する。
 ティアはセルと目を見合わせて頷きあった。深く息を吸い、ぐっと押すと、扉はあっけなく開いた。
 僅かな軋みと共に開け放たれた扉の向こうには、暖色の光でほのかに照らされた部屋があった。
「……書斎、みたいな感じだよね?」
「うん……」
 セルの囁き声に小さく頷くと、ティアは部屋の中に一歩、足を踏み入れた。彼の言うとおり、部屋の中は屋敷で見かけた書斎のようだった。四段の本棚がひとつ置かれていて、一番上と二段目には何か日記のようなもの、残りの二段には、何かの魔導書なのか、魔法陣の描かれた本が数冊、折り重なるように収められていた。他にがらんとした部屋の中にあるのは、テーブルと椅子が一つ。その上にカンテラが置かれていて、小さな炎が静かに燃えていた。
「……誰だ?」
 もう一歩を踏み出した時、警戒するような声が部屋の暗がりからした。ぎょっとしてそちらを見やると、人影があった。炎のせいで陰影が強すぎて、顔がこちらからはよく分からない。ただ、人影は一歩進み出てきたので、そのおかげで顔を確認する事ができた。
 光の中に現れた顔は、驚きに目を瞠っていた。ティアの驚きも更に増し、同時に疑念が湧いた。
「……どうして、ここにいるの?」
 エルニスは眉を潜めた。
「それはこっちの台詞だよ。なぜ君たちがここに? ここは俺とカーレンしか知らない場所のはずだ」
「……君と、カーレンしか知らない?」
「知らなかったのか」
 エルニスは声を漏らしてから、しまったという顔で舌打ちをした。ややあって、観念したように肩をすくめた。
「――小さい頃、あいつがよくいなくなっているから気になった事があってね。探していたらここを見つけたんだ。そこに、今の君たちみたいにカーレンが入ってきた。俺を見た時のあいつは、まぁ驚いたよ。俺もびっくりしたけど。そしたらあいつ、何て言ったと思う?」
 苦笑いがその顔に浮かんだ。
「大慌てで、ここの事は誰にも言わないでくれ、だってさ」
「って事は、昔は仲が良かったのかい?」
 セルが眉を潜めながら聞くと、エルニスはふと笑みを消して、本棚の方を見やった。何かを考えながら歩み寄って、記録の方を一冊手に取ると、ぱらぱらとめくる。
「……ああ。俺とユイとあいつ、それとベル。四人でよく馬鹿な事をやらかしては、親には叱られ、長には呆れられの繰り返しだった」
 懐かしげにエルニスは目を細めたが、そこには僅かに寂しさが混じっていた。やはりそうか、とティアは思った。
「エルニス。私は昨日、あなたに言ったわよね。これ以上おかしな話は他にないって」
「ん……あ、そういえば言っていたかな」
 目線をやや上に上げて言うと、エルニスは振り向いた。
「あれは結局どういう意味なんだ?」
 ティアは唇をひん曲げた。
「そのままの意味よ。そんなに仲が良かったんなら、いきなり嫌いになれる訳ないじゃないの。第一、嫌いだ嫌いだとか言っておきながら、あなた、自分ではカーレンの事を一度も悪く言ってないの、気付いてる?」
 エルニスは十数秒の間、たっぷりと固まっていたが、やがて氷が解けるようにその表情が驚きに染まっていった。
「――――え?」
 唖然とした反応が返ってくる。こうまで予想通りだと、ティアは呆れて物も言えなかったが、もう一つ、まだ言わなければならない事があった。
「それにね。あなたよりルティスの方が、よっぽどカーレンに堂々と物を言ってるわ。昔はあなたもそうだったんでしょう? ごめんなさい、私、ユイが死んだ事と関係してるなんて知らなくて、あんな事を言ってしまったけれど」
「……ああ、いや。君の言うとおりだよ」
 エルニスは我に帰ったのか、頭を振って否定した。
「でも、誰からその事を?」
 ティアは目を逸らして、手の中にある涙の玉を見た。エルニスもつられてそれを見やり、目を瞠った。
「それは……」
 早足で近寄ってくると、エルニスはまじまじと玉を凝視した。
「あの時の……」
「知っているの?」
 彼は信じられないという顔で首を振った。思い出すのも辛いのか、顔を歪めながらもエルニスは話してくれた。
「――ユイが死んだ夜、葬りの儀をしていたら、あいつ、急にいなくなってさ。まさかと思って、長と一緒にこの場所に探しに来たら、」
 エルニスは部屋の中を移動して、何もない壁際に立った。
「ほら、丁度、俺の立っているここに倒れてたんだ。その時、近くにそれが転がっていたんだよ」
 また歩いて戻ってくると、エルニスはティアの手から涙の玉を取り上げ、その重さに顔をしかめた。
「あの時、長はあまり素手で触らないほうがいいって言ったんだけど……どういう意味だったのか」
 ティアはエルニスの手の中に移った玉を見つめていたが、ふと、玉の異変に気付いた。銀色をしていた表面が、曇りが晴れるように急速に色を失っていき、純粋な透明へと近付いていた。
「エルニス……!」
 驚いて名前を呼ぶと、エルニスも遅れて気付き、ぎょっとして手の中の玉を見つめた。
 セルが背後で息を呑んだ。
「玉が……透けた?」
 吸い込まれそうなほどの透明な色に変化した涙の玉の表面に、氷が割れるような音を立てて亀裂が走る。

 砕ける。

 思わずティアは目を細めて身構え、慌てたエルニスが咄嗟に玉を宙へと放り出した。
 玉は落ちる事なく宙に留まり、やがて亀裂があちこちに行き渡った時、目一杯に溜め込んだ力を解き放とうとするように、粉々に弾け飛んだ。
 銀の光が、瞼で閉ざされた闇を焼いた。


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