Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-6- 見つめる先に

 荷馬車の旅は退屈だった。
 軍で捕虜を運ぶ時に使うような、粗末なほろで覆われた荷台。体中が痛くなるかと思いきや、進む道の舗装が良いのか、幸運な事に痛みの程度は軽かった。布の隙間から垣間見えるのは、相変わらず草地だけだ。これといって代わり映えのしない風景にもいい加減飽きていたが、だからといって隣に座る少女と世間話をする事もできそうにない。
 思わず大欠伸をしそうになって、ロヴェは隣のじとっとした視線に気付くと、それをどうにか噛み殺す事に成功した。向かいに座るむっつりした顔の騎士なども、こちらを同じように睨みつけてくる。ただでさえ息苦しい荷馬車の中で更に窮屈な思いをしているロヴェの支えになっていたのは、自分の膝の間にちょこんと座り込む少年だった。
 今まで何度か話しかけてみたものの、恥ずかしがり屋なのか、あまり口を開く事はない。が、頭を撫でてやるとほっとしたように、目をこそばゆく細める。何となく父親になった奴の気持ちも分からないでもない気がした。
 ただ、唯一の問題点は。
「どうしてあなたがついてくるの」
 横からの責めるような響きに、ロヴェは肩をすくめた。
「仕方ないさ。ルヴァンザムの命令なんだからな」
「私はあなたとなんか手を組みたくないわ」
 エリシアはそっぽを向いた。どことなく子供っぽいその仕草にロヴェは気付かれないよう苦笑したが、それに口を出すような事はしない。不安そうに己の膝の上から見上げる少年の頭を撫でて、ロヴェは囁いた。
「気にするな。この子は俺が嫌いなだけだから、おまえが嫌なわけじゃないよ」
「そんな子供まで精神を犯したのね」
「人聞きが悪いな。懐柔程度にしてくれ」
「どちらも同じよ」
 冷たく言い放ったエリシアは、黒髪を肩の後ろに流して厳しい表情を浮かべていた。
「ティアと私から全部を奪ったあなたたちなんか、絶対に許さない。セイラックは私たちの国なのよ」
「……おまえたち二人だけのな」
 ぼそりと呟くが、一言余計だったらしい。エリシアの癇に触ったようだった。
 きっとエリシアが目線を上げた。これは泣くかと思ったが、ロヴェのそんな予想は綺麗に裏切られた。
「誰のせいだと思ってるのよ!?」
 鼓膜を揺るがす大音声。
「――っ、」
 耳元で甲高い怒鳴り声を上げられて、ロヴェはきりきりと痛む耳を押さえた。しばらく悶絶していたが、痛みが少しマシになったので、涙目になりながら答える。
「……カーレンだろ。あとレダン」
「レダンを差し向けたのはあなたよ。忘れたとは言わせない。どうせあいつを裏切って、息子も殺させたんじゃないの?」
 嘲笑するエリシアの表情を見て怯えたのか、少年が涙を瞳一杯に溜めた。ふぇ……と声さえ漏れる。
「あ、おい。何もおまえに言ってるんじゃないのに、どうして泣くんだ……?」
 慌ててごしごしと自分の服の袖で涙を拭ってやると、ぶっ、と噴き出す音が向かいから聞こえた。騎士が肩を震わせている。そんなに情けない顔をしていたろうか。
 ロヴェが半眼で睨みつけるも、エリックはにやにや笑いを消さなかった。この男、もしここが普通に馬上だったなら、ドラゴンの姿に戻って即刻馬ごと丸呑みにしてやるところなのだが。
 いや、そもそもどうしてこの少年、自分にこうまで懐くのだろうか。ロヴェの胸にぐすぐすとしがみ付く少年は本来は泣き虫ではなく芯は強い性格だと聞いたが、こうしてロヴェの目が届く場所にいると、急に幼く見えてくる。
「……ティア姉ちゃん、どこ?」
 予想外の発言に、しばしの間、ロヴェは固まっていた。はっと我に帰り、少年の両肩を掴んで揺さぶる。
「姉ちゃん!? いや、それよりもおまえ、ティア・フレイスを知っているのか!?」
 素っ頓狂な声がロヴェの口から出た。
「ティアを知ってるのね!? どこで会ったの!? 私の事やあいつについて何か言っていた!?」
 ずいと横からエリシアが身を乗り出して激しく問い詰めたため、少年とロヴェは大きく仰け反る格好となった。
「だ、だって、僕はずっと姉ちゃんと一緒にいただけだよ……」
 また涙を目の淵から溢れそうなほど溜める少年。本気でこの泣き虫の性質は恐ろしいと思ってしまった。ロヴェの上質な服の袖を犠牲にしてまで泣きじゃくる。なぜ、そこまで泣く。
「分かった、分かったから。エリシア、おまえもそんなに怖い顔をしてこいつを泣かせるな。俺の服がずぶ濡れだ」
 はんっ、とエリシアは鼻で笑った。
「いい気味よ。そのまま風邪を引いちゃって寝込んでくれたら、こちらとしても万々歳なんだから」
 棘だらけの返答に顔をしかめ、エリックに視線をやると、我関せずを貫き通すつもりらしい。全くの無反応だった。ぎりぎりと歯軋りをしたくなるのを抑えて、ロヴェは困り果てた目で少年を見つめる。
「……で。リスコにいたのは七歳の時から三年間。おまえは十歳。でも、実際におまえが生まれたのは八年前。間違いないな、ブレイン?」
「うん」
 頷いた少年に、ロヴェは頭を抱えた。何度計算しても、二年分のずれがある。このずれは一体どこから来たのか。少年の記憶に間違いがある訳でもないし……。という事は、三年前から一年前まで、年の違う、しかし身体も心も全く同じ少年が、同時に二人も存在していた事になる。焦げ茶の髪の毛をくりくりと弄りながら、ロヴェはさらに考える。
「もう一度、あれ、見せてくれるか?」
「いいよ」
 ブレインは不安定な馬車の上で座り込んだままロヴェに背をむけ、ん、と突き出した。ロヴェはあまり迷いもなく、ブレインの背中の服をぺろりとめくる。子供の衣服をまくり上げるという行為に対してエリシアと付き人のエリックは眉を潜めているが、そんな事をいちいち気にしていては、この少年の謎など解けはしない。
 さて、とロヴェはブレインの背中を見つめた。これがあるなら、確かに初めて見た時のように、力や威圧感からは守られるだろう。何より、それ自体が圧倒的に魔物も蹴散らすようなものを放っている。
 彼の背に施された黒い刻印は、確かに竜の紋章だ。
 腕を組みながら目を細めると、ロヴェはブレインの衣服をそっと戻した。
「……考えられるのは、力による時空渡りなんだよな。本人もこんな形になるとは思わなかったんだろうが」
 何しろ、結果も予想外なら、原因も予想外というやつだ。それに、時空渡りをする程の力を与えたのはなぜだ? そこは、本人も意図していなかったのだろうか。時空渡りに必要な力の量は、その存在の大きさにも比例する。カーレン自身ならば、無理だったろう。そのドラゴンという生ゆえに、神にも匹敵する力量が必要となる。ただ、この子供は、存在の仕方自体が小さくなるような、かなり奇妙な環境で育った。時まで渡ってしまったのは、ひょっとするとその辺りも関係があるかもしれない。ただ――。
「カーレンの奴、なんだって村を潰しときながら、こいつだけ助けたんだ?」
 ただ、そこだけが分からない。今はない村でカーレンは何を思ってかブレインの命を助け、三年前へと飛ばした。
 ……そういえば、あの村。彼は役目があるというような事を言って、それを自分に話したのだったか。
 思い返してその意味を深く理解する暇もなく、あいつめ、と舌打ちをする。
 彼の話と村の状況から見て判断すると、そのために必要だったのが彼だとすれば辻褄があう。偶然生き残っていた上にこんなおまけがついていたのだ、使いまわすに決まっている。思いながら、ロヴェは何も言わずにぐしゃぐしゃとブレインの頭をかきまわしてやった。
 首を傾げる少年の澄んだ瞳が見つめ返してくる。視線を受け止める事ができずに、ロヴェは苦い感情に顔を歪めた。
 あの男の行いが時たま、ひどく道理を踏み外したものであるのは今に始まった事ではない。それでも、この少年を使って彼がやった事を思うと、ロヴェの腹の底ではどろりとした溶岩が煮えたぎる。
 カーレンはそれほどあの村の意味も知らなかっただろう。ただ、自分達の狙いを探る点でも、村を潰せばどう出るかを見る事は有効な手段だった。そして、知らなくとも、無意識に何かを感じ取ってこの少年を逃がしたのだ。ロヴェにはもう手を伸ばせない、暖かい光の世界へと。だが。
「それにしても……三日前から我々と離れたはいいですが、領主様は何をするつもりなのでしょうか?」
 エリックが少女へと問いかける。エリシアはちらりとこちらを見やった。さぞかし悔しいだろうが、彼の行き先はロヴェしか知らない。そして教える気もあまりない。
 ブレインが興味のありそうな顔をしたので、ロヴェはこれ見よがしにぼそぼそと耳打ちをしてやった。
「えっ?」
 しっ、と指を立てて笑みを忍ばせると、ロヴェはあからさまに嫌な顔をした二人を無視して、ブレインを抱え込んだ。子供特有の暖かさが、冷えた身体には心地よい。
 進む先の景色をロヴェは見つめる。そこにはきっと、まだ見ぬたくさんの裏切りがある。たくさんのものが、待ち構えている。自分もまた裏切っている。気付かれぬよう、そして、彼が気付くように。
「もうすぐ現地に着く。そうしたら、おまえ達にも教えてやるよ」
 言うと、ロヴェはにやりと笑った。

 ――だが、少年は再び闇に引き戻された。他ならぬ、その背中の紋章によって。

□■□■□

 大丈夫なのかしら、という妻の呟きを耳にして、アラフルは窓の外を眺めていたが、顔を上げてガラスに映る彼女の姿を見た。
 妙齢の女性、とでも表現した方がいいだろうか。数百年の時を得てもまだ見た目は麗しく、衰えるという事を知らない。自分と同じくらい齢を重ねた里のドラゴン達と、かつてはこぞって取り合ったものだったが。いまだ、あの激戦の中でどうやって自分のものにしたのかすら記憶が曖昧である。不毛な戦いだったという自覚はあるが。
「どうかしたかな、リエラ」
「どうかした、じゃないでしょう? カーレンを……あの子をどうして長候補なんかに選んだの?」
 言うと、リエラはうつむいた。流れるように垂れる銀の髪が、物憂げに曇った顔をさらに美しいものへと変える。伏せがちにされた鮮やかな紫の眼が、ふと切なげに揺れた。
「ねぇ。答えて、アラフル」
 悩殺ものだという自覚がないのだろうか。無自覚に男を次々と惑わせる魔性の妻の言葉に、アラフルはふむ、と顎を撫でた。ようやく落ち着いて対処できるようになったのは、つい最近の事だ。
「教えてやらん事もないが……大した理由がある訳でもない。ただ、あれは長を務め、皆をまとめていくのに向いていると思った。それだけの話だぞ?」
「けれど、あの子と里の者達の関係がどういったものか、知らぬあなたではないでしょう」
 リエラの指摘も最もではある。先程も、魔物討伐のために出ていた三人が何者かに打ち倒されていたという報告が入ったばかり。証言によればカーレンの仕業だと言うが、誰も信じるものなどいない。しかし、アラフルとリエラの場合は少しだけ勝手が違った。
 もとからカーレンがああだという事は知っていたのだ。疑う事がどうしてできるだろうか。
「だが、いよいよあれの本性も現れはじめた。もう少しだ」
 言って、アラフルは窓の外へと視線を戻す。太陽が今日の自分達に最後に投げかける光は、それらを照り返す銀の世界と共に紅く燃えて、強く目を焼いた。壮観ともいえそうなその様をアラフルは眺め、養い子の瞳を思い出す。
 あれは、このようなものほど複雑で、単純な色ではなかった。
「まだ若いながらに立派に世界と渡り合った。実に三百と――十九年間。ずっと、魔物にすら負けるような弱きドラゴンだと我らを騙し続けてきた手腕が、正直恐ろしいとは思わないか、リエラ」
「でも」
 反論の声を、首を振って封じる。口をつぐむ気配に、アラフルは微笑んだ。
「いいや。私は恐ろしいとは思わなかったさ。むしろ、歓喜した。心の底からね。あれほど高揚したのは、君が私の伴侶となる事を承諾してくれた時以来だよ」
 リエラの頬が微かに染まる様子が目に浮かぶようだった。低い笑い声を漏らすと、アラフルは振り向いた。
「ようやく、この里を預けられる者に私は巡り合えた。最弱? それがどうした。あれは最弱などではなく、最強の座すらほしいままにできる力を持っている。使わずにそれを封じているだけだ。あの第一位を名乗る従者の力と相殺させる事によってな」
 執務に使う机の上には、カーレンから手渡された封筒がある。その中身はもう既にこの世には存在しない。暖炉の中にくべられ、灰と化した。
「だか、それももう、あまり長くは続かないだろう」
 リエラが息を呑む気配は、予想以上にはっきりとしていた。つまり、自分が言った事は、カーレンが二つに一つの道を選び取る瞬間が迫っている事を意味する。できればその前に、もう一つの道に転がりかねない無責任な立場から、長という場所にしっかりと縛り付けなければ。
 燃え上がる空を見つめていて、アラフルは紅蓮の炎を思い出した。
 今でも鮮明に覚えている。揺れる陽炎の向こうに、炎に照らされ、赤い空が見えていたあの日。まだ長でなかった時、自分の前に立ち塞がったのは、美しい黄金のドラゴンだった。
「……ロヴェ・ラリアン」
 静かに名前を呟き、その美麗な様を思い出す。本性とは違って、紅に染まった人としての姿。見るも鮮やかに、ゆるく癖のついた赤い髪が風になびいていた。眼の色はしょっちゅう変わっていたが、あれは彼の持つ特性のためだ。時には赤、時には緑、はたまた琥珀と様変わりした瞳が楽しそうに見つめていたものは、いつも一つだった。
 あのドラゴンは、いつも人を怖がらせてばかりだ。孤独で純粋なために、いつも、好意を寄せても、相手に嫌われてしまうという結末を辿っていた、不器用な奴で。
 クェンシードで最も力を持っていた自分でも肌に感じた。それほど、ロヴェは強烈な強さをその身にかね備えていた。その使い方も心得ていたはずだ。
 なのに。
「なぜ、その人間とまだ共にいるのだ。おまえが友人として愛した人間は、我らを滅ぼそうとしているのに。彼は、おまえを裏切ったのに……」
 ぽつりと出た呟きは、暗くなりかけた部屋に吸い込まれていった。

□■□■□

「こら。あまり走り回るんじゃないぞ」
 笑い混じりに自分を叱るのは、拾ってくれた人物だった。
 そんな人である、「おさ」の家はずいぶんと大きい。その玄関口に立っている彼のもとまで走り寄ると、カーレンはばたばたと忙しく上下させていた足を止めた。
「何だ、おさか」
 そう呼ばれているから、そんな名前なのかと思っていた。呼ばれた方は、長か、と苦笑してみせた。なぜ名前を呼ぶと笑うのかが分からなくて、カーレンはどうして、と首を傾げた。
 彼は笑いながら、階段の上に積もっていた雪を一掴みだけすくい上げた。
「どうしてって、そりゃあ、転んで雪が服の中に入ったら冷たいだろ。ほれ、こんなの嫌に決まってる」
「うわ!?」
 本当に服の中に雪が入れられたためにカーレンが情けない悲鳴を上げると、横に座っていた黒狼が、くっくっと低い声で笑った。思わずむくれたものの、すぐに手を伸ばして朗らかな声で名前を呼ぶ。
「来いルティス! こんなの放っておこう」
『アラフル様をこんなの呼ばわりですか……付き合っても構いませんが、あまり無茶をしてはいけませんよ、マスター』
「分かってるよ、それぐらい」
 呆れ顔をしてから、カーレンはふと思った疑問に眉根を寄せた。
「名前は呼んでくれないのか? 慣れないんだけど」
『マスターはマスターですからね』
「なんだそれ……」
 思わずげんなりしたものの、寄ってきた使い魔はカーレンでも抱え上げられる大きさに縮んでくれた。それを両手で持ち上げると、カーレンはまだ短かった足を動かして走った。
 「おさ」は元気がいい奴だとまた笑って、立ち上がった。
「もうすぐ夕方だからな。リエラの飯が食いたくなったら、すっ飛んでこい」
「はーい……」
 するのも面倒だったが、声を上げて返事を返した。と、視線を前に戻すと、近くの木の陰に人が隠れているのに気付いた。
「………………?」
 恥ずかしげに幹の影から頭をのぞかせるのは、まだ小さな少女だった。二、三歳にしかならないのだろう、短い銀髪と、くりくりとした紫の目は、どこか愛らしい。興味を引かれたカーレンは、どうも少女がこちらを怖がっているらしいと気付いた。まず安心させるにはどうだったか、と思い起こして、くすりと笑いかけた。
「おまえは?」
 少女は怯えたように身をすくませていた。ぎゅっと目をつむって動かない少女の答えをカーレンはずっと待っていたが、太陽が少し傾くぐらいになると、しまいには待ちくたびれてしまった。カーレンはルティスを片手で抱えなおすと、もう片方で少女の手をとって走り出した。
「こっち」
「あ」
 少女の小さな手を、同じく小さな手で引っ張ると、少女はとてとてとおぼつかない足取りでついてくる。
「で、おまえは?」
 笑ってもう一度聞くと、少女はうつむきがちになって恥ずかしそうにしていたが、やがてその口から、枯れそうなほど細い声が漏れた。
「……ユイ。エルニスにいさんの、いもうと」
「ああ、エルニスの」
 カーレンは頷いた。エルニスというと、確か四年前に自分がここに来た時、
「きもちわるいよこいつ。まだちっちゃいのに使い魔なんかもってるし」
 とか言った奴だ。「きもちわるい」というのがどういう事なのか、使い魔とは何か、まだあまり分からなかったし、年も少し離れていたために、カーレンはエルニスに対してはひどく無関心だった。ただ、最近は脱皮もして大きく成長したために、言葉の意味が少しずつ察せるようになってきている。それが、得体の知れない自分に感じたものからの言葉だったのだとは想像がついた。
 あまり揺すぶらないで下さい、とげんなりしたルティスの声が響き、カーレンは早足だったのを、少し緩めた。振り返れば、ユイも疲れていたのか、大きく肩を揺らして息をしている。自分が他のドラゴン達より、人間の姿の時であっても遥かに体力があるという事に気付いてはいたが、そんなに早く走った覚えはない。それでも早かったのか、ルティスが肩を軽く叩いてきた。
『もうちょっと気をつけた方がいいですよ。普通じゃないと、怪しまれますから』
 小声で言われて、カーレンは頷く。確かに、これは少し気をつけないといけない。飛ぶ時も、周りよりも早くて大人たちに驚かれたのだから。
 そして、汗ばんできたユイの手をしっかりと握り直した。ユイという少女の手は、自分よりほんの少し、冷たかった。


「そういえば、あれがユイと初めて会った時だったな」
 カーレンは自室のソファの肘掛にもたれながら、ルティスの話に頷いた。アラフルの屋敷についたはいいが、宴まではまだ時間がある。退屈したティアとセルを見かねて、ルティスが切り出したのがウィルテナトでのカーレンの生活を語る事だった。
 しかし、この使い魔が話すのはほとんどが笑い話ばかりで、語られる方としては楽しいが、本人にとっては赤っ恥ものという話も多々あった。
 カーレンが苦心してルティスを説得した結果、ようやく、まともな話が出てきたのだが。
『ありましたよ。忘れていたんですか?』
 カーレンの膝の上を陣取って、やや小さくなったルティスが丸まりながら聞く。頭を撫でられている様子が狼どころかまるで大きくなりすぎた猫だと自分は思うのだが、彼はそんな事は気にしないようだった。
「いや」
 短く答えたカーレンは、ティアの視線に気付いて首を傾げた。
「どうした?」
「ん……そのユイって子、エルニスの死んだ妹なのよね?」
 ああ、とカーレンは顔を曇らせた。歯切れの悪い返答だったが、それだけ言い出しにくい話だというのも分かっていた。
「そうだ。昔、この辺りには滅多に出ない魔物が三体、迷い込んできてな。その日たまたま遠出をしていたら、出くわして襲われたんだ。私はユイのために時間を稼いだ後、ルティスが居たおかげもあって何とか逃げられた。ユイには急いで追いついて一緒に逃げたんだが――思いのほか奴らが頭を働かせていてな。先回りをされて、挟み撃ちだ」
 言いかけて、カーレンは頭を振った。
「それから後の事は、よく覚えていない。気付いたら、防人の見張り場まで逃げてきていた。――冷たくなった彼女を抱えたままで」
 言うと、カーレンはその時の事を思い浮かべてしまい、眉間にしわを寄せた。それを消そうと揉んでみたが、力の入った筋肉はなかなかほぐれてはくれなかった。
 目の前に立ち尽くす二人は、カーレンの話からどんな想像をしたのか、絶句していた。思わず口から苦笑が漏れた。
 もう、三百年も前の話なのだ。感傷に浸って嘆いているほど、今の自分には暇がないし、それはどの道できないだろう。どうしてユイが死んでいったのかも、記憶があやふやなのだから。
「……エルニスは、泣いてたの?」
「ああ。泣いたさ」
 カーレンは肯定して、自嘲するように笑った。懐かしさと、鈍い胸の痛みがせめぎあっている。未だに、傷が癒える事はない。
「泣きながら、怒っていたよ。あいつの両親が思わず止めに入ったぐらいにまで取り乱してな。それを私はどんな風に見ていたと思う?」
 意識しなくとも声が震えた。幼い頃、自分でその事に気付いて、愕然とした。恐怖して、必死にそれをやめようとした。だが、無理だった。
「涙一つ流さずにいた。あいつよりも年下だったのに、その当事者だったのに。泣かなかった」
「……"泣けなかった"、じゃなくて?」
 聞かれて、カーレンは肩をすくめた。
「さぁな。どう思ったか、今となってはこれもあまり覚えていない……それからだ。私を快く思わない者たちが、私に手を出して来ても、彼が何もしなくなったのは。興味が失せたとか、愛想を尽かした、憎くなった、良い気味だと笑った。――そんなものじゃなかった」
 何かが違う。話していて、カーレンはそう思った。自分は、泣かなかった事に恐怖したのではない。
 自身に疑問を抱きながらも、話は続く。
「無気力になったんだ。何の反応も、周りに対して示さなくなった。その状態が数年続いてな。見かねた周囲が、丁度、ウィルテナト中のドラゴンが集まる頃に、彼の前に私を引きずり出した」
 ぎょっとする気配が頭上からした。当然だ、見せしめにも等しい行為だったのだから。全員が見ていた。リエラが止めようとしたが、アラフルがさせなかった。カーレン自身、それを望んではいなかったのだと思う。何の疑問も抱いた記憶がないからだ。
「口々にエルニスを説得する声があった。こいつが悪いのだから、こいつを責めれば良い。何もおまえが、ユイを救えなかったんじゃない」
「……やめて」
 カーレンは自分で、その時の口調をできるだけ真似て語った。ティアが、小さな声で呟いた。
「ユイを救えなかったのはこいつだ。――いや、こいつはユイを"救わなかったんだ"」
「やめてよ」
 カーレンは気付かない振りをした。止まらない。ユイが死んだ時と同じように。何もかも、自分ではなくなっていく。
「わざとだよ。俺たちがこいつを余所者扱いして、おまえだけはこいつを庇った。その事を疑って、こいつがおまえなんか要らないと思ったから、ユイを魔物が出るような場所に連れて行って、自分は置き去りにして逃げたんだ」
「やめなさい、カーレン」
 強い口調だった。だが、止める事が出来ないのだ。止めてくれ。誰か、自分を止めてくれ。誰でも良い。過去に、引きずり込ませないでくれるのなら、何でも良かった。

「こいつがユイを――」

 みなまで言えなかった。否、言わせてもらえなかった、というのが正しいか。記憶の中で言おうとした者も、結局、全てを言う事は叶わなかった。
 ぱん、とひどく乾いて張りつめた音が、まだ耳の中に残っていた。
 カーレンは痛む頬を押さえながらも、内心でほっとしていた。ただ、これだけは言わなくてはならない。これが真実なのだから。
「……エルニスも、おまえと同じことをした」
 薄っすらと笑って、カーレンは返した。
「そいつを殴って、それで、どうして自分がそうしたのか分からないという顔をした。私も、あの時どうして、ああ言ってしまったのか」
 自分は、両脇を抱えられてやっと立っている状態だった。いや、そうなるまで痛めつけられていたのだから、それぐらいしかできなかったのだ。それでも顔を上げて、エルニスを見た。
「笑って言った。自分も、自分がユイを殺したと。そう思うと、な」
 カーレンは言い終えて、溜息をついた。どうかしている。本当に、どうかしているのだ、自分は。
「エルニスが私を許したのかどうかは知らない。私も知ろうとしなかった。ただ、それから誰も、私とエルニスと……ユイの事に、触れようとはしなくなった」
 カーレンは、笑った。エルニスにかつてそうしたように、無邪気で、邪気に満ちた笑みを。
「それだけの、話なんだ」
 目の前にいるティアと、セルは青ざめた顔で立っていた。膝の上のルティスは、眠っているように見えて、黙って聞いていたのだろう。ティアたちに見えない方の片目を薄っすらと開けて、こちらを窺っていた。
「実に、くだらない話だったろう?」
 だからこそ、カーレンは、笑ってそう締めくくった。
 本当に、自分でもくだらない話だと、そう思っていたからだった。
 何か、堪えきれなくなって、カーレンは視線を窓に移した。
 見つめた先に居たのは、いつも偽りに覆われた自分だった。
 ああ、そうだ。カーレンは思って、それが当然だと信じた。今も、浮かべているのだ。

 ユイを殺した。そんな自分の、偽りの笑顔を。


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