Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-5- 偽りの強者

「……宴?」
 セルが顔をしかめて聞き返した。
「そ。長から聞いてなかったっけ? 今夜、客人である君たちのために宴が開かれるんだよ」
 エルニスは首を傾げながら言った。
「……ま、どうもそれだけじゃないみたいだけどね。俺は、今日あたりじゃないかと睨んでる」
「何が?」
 ティアの根も葉もない返答に、エルニスは面食らった顔をした。
「何がって……そりゃ、祭りの詳細についてだよ。長がちっとも漏らさないんだ。ただ祭りがあるって言っただけでね。それですごく頭をひねってるらしくて、俺と同じ年ぐらいのやつらは、長の考えをちょっとでも探ろうとあちこち走り回ってるよ」
「だからアラフルは僕らが質問攻めにあうって言ってたのか……」
 セルが納得の表情を浮かべた。
「うん。俺も、君やティアが何か知ってないかと思ってさ。それでここに来るまでの経緯を聞いたんだ」
「残念だけど、僕らも何もアラフルから聞いてないよ」
「そうか……」
 エルニスは少し考えるような表情をしながら立ち上がった。
「まあ、どうせ行けば分かるか。早めに準備をしなくちゃならないから、そろそろ行くよ」
 入ってきた場所の前にエルニスが立つと、先ほどと同じように壁が消えた。少し遅れて彼に追いつくと、ティアはセルがついてきていないのに気付いて振り向いた。
「? 兄さん?」
「……悪いけど、先に行っててくれるかな」
 椅子にうずくまるようにして、セルは顔を押さえていた。黒髪がかかっているために表情は読み取れないが、声からしても痛みをこらえているような感じがした。
「セルは一体どうしたんだ?」
 ティアはエルニスから顔を背け、館の外へと出た。
「……大丈夫、いつもの事だから。行きましょう」
 そうは言われてもセルの事が気になるのか、エルニスは複雑な表情を浮かべながら、歩き出したティアに足早に追いついた。
「いつもの事って……どういう事だ?」
「時々ああなるのよ。二、三ヶ月に一度あるかないかぐらいなんだけど、眼がひどく痛むって言って――」
 言いかけて、ティアは言葉を途切れさせた。そういえば、セルがああなる所を初めて見た時、二週間ほど毎日のように痛みに呻いていた時期があった。あれはいつの事だったろうか……?
「――大抵は三日で収まるの。持病の発作みたいなものだから気にしなくて良いって言うんだけど、セル兄さんの眼もみたいにちょっとだけ特別らしいから」
「彼の眼も、って事は、君の眼は何らかの力を宿してるという事になるね」
「ええ。私もカーレンに聞くまでは知らなかったけど……ドラゴンアイなんですって」
 エルニスが驚いた顔で振り向いた。
「君はそれを使いこなせるのか?」
「いいえ、使い方は知らないわ。でも、私のドラゴンアイはカーレンに言わせれば、すごく不安定な状態だったらしいの。今でもそうみたい。だから色も変わらないのかしらね」
 エルニスは突然黙りこくり、立ち止まった。ティアが数歩歩いてから不審に思って振り向いた時、彼は理解に苦しんでいるようだった。
「…………それは、変だ」
「え?」
「ドラゴンアイは、例え不安定であったとしても、与えたドラゴンの力や特徴がちゃんと表に出てくるものだよ。なのに外見で何の変化もないのは……あまりにも不自然すぎる」
「でも、私の眼は一度として変わったことがなかったわ」
 エルニスは小さく唸ったが、また歩き出した。
「そこがそもそも変だ。だいたい、それならどうしてあいつは気付かなかったんだ? 貧弱というのも気が引けるほど魔力の器が小さいんだぞ。人一倍、力関係には敏感なはずだ」
 ティアは困惑して目をそらした。エルニスの言った事は正しいように思えるが、そうなるとカーレンの考えている事が分からなくなってくる。……それに、ティアの奇妙な点に気付いている様子すら彼は見せなかった。それによく考えてみれば、自分がドラゴンアイを使っているところを、カーレンが直接見た事はない。
「君の眼が黒のままなんて、どう見たって異常なはずだ……いや、ひょっとすると逆か?」
「……逆ってどういう事?」
 うん、とエルニスは視線を動かして考えを巡らせていたが、やがて口を開いた。
「『元の黒』が、『別の黒』に変わっているのかもしれないって事だ。けど、本質に黒を持つドラゴンはクェンシードにはいない……あ、ちなみにあいつは銀だ。魔力が銀色をしてる」
「私の黒から、ドラゴンの本質の黒へと変わる……?」
 ゆっくりと繰り返し唱えていると、それはとても自然な事のような気がした。

□■□■□

 異質な気配を感じて、まどろみかけていた意識を浮きあがらせる。目を開くと、前方には延々と続く雪山の峰と、遥か遠くの平原が見えた。雲の影が午後の日差しをさえぎり、地上に影を落としている。こうしてウィルテナトより少し離れた山の頂上に座っていると、嫌でも自分の卑小さを自覚させられる。
 うんざりした気分で立ち上がると、カーレンは低い呟きを漏らした。
「…………またか」
『多いですね』
 足元から合いの手。答える代わりにカーレンは無言で左手に携えていた剣を抜き放ち、自分の直感に従って大雑把に振るった。見えなくても確かな手応えを感じて、一気に右腕に力をこめて切り払うと、背後から断末魔の悲鳴が聞こえ、首筋に生暖かいものが感じられた。
「ここ最近で多くなったとアラフルが言っていたが……これほどとはな」
 血糊を払って剣を鞘に収めると、カーレンは振り向きがちにして呟いた。雪の上に落ちた鳥の魔物の死体に、しばらくの間纏わりつくようにして青緑色の血液が湯気を立てていたが、すぐに燃え上がって灰だけになった。首にかかった血も燃えたが、火傷をするような通常の炎ではなく、限りなく温度が低いものだ。
『こんな小さな魔物も、放っておくと幼子たちの肉を食いちぎっていきますからね……』
「傷は治るとしても、ちぎった肉から余計な力を得ると倒しにくくなる。里に入る前に斬るのが一番確実だ。……が」
 答えて、カーレンは溜息をつきながら座り込んだ。
「気のせいか? どう見ても私を狙っているように見えるんだが」
『とすると、やはり毎度おなじみ、いつものアレでしょうね。抵抗しますか?』
「それなりにな」
 適当に返事をすると、カーレンは剣を雪の上に突きたてた。
 全く、と呟くと、振り返らずに背後に問いかけた。
「何か用か?」
「ああ、それなりに。なぁ、ジェーン?」
「あは、そうよねぇ? 長い間里にも寄り付かなかった癖に、よく顔を出せたよね、余所者くん」
 答えたのは二人だった。軽く気配を探り当てると、カーレンはどっと疲れが出てくるのを嫌でも感じた。まともに付き合いたくない。
 ――が。付き合ってやらなくもない、か。口の中で呟くと、カーレンは笑みの形に唇を歪めた。
「たった一人に三人とは、ずいぶんと自分に自信がないんだな? 一対一でも勝てるだろうに、オーティス」
「もちろん勝てるさ。が、いたぶるのも楽しいもんだ。おまえにもう少し、自分の立場を分からせた方が良いようじぇねぇか、カーレン」
 カーレンは再び立ち上がると、振り向いて声の主を見下ろした。
 後ろには、エルニスと共に魔物狩りをしていた男女の三人が立っていた。あちこちにはねた髪をいじりながら、オーティスが首元の飾りをじゃらりと鳴らした。
「……態度、あんたいつもよりでかいんじゃないの?」
 ジェーンと呼ばれた女が、じろりと半眼でカーレンを睨んだ。
「…………」
 三人目は黙したまま、手に青い炎を浮かべた。名前を確か、フォルといったはずだ。
 カーレンは三人を見ながら、軽く冷笑を浮かべる。首の鎖に手をかけると、鈍い音を立てて鎖が千切れ、ヴィランジェが雪の上に落ちた。
「?」
 怪訝そうにその様子を見やるオーティスの目を見返すと、カーレンはにやりと笑い、これ見よがしに舌なめずりをした。
 滅多に見ない笑い方をするカーレンを見て、彼らが嫌な予感を少なからず覚えただろう事は容易に想像できる。思えば、自分が本気になったのはこれが初めてなのかもしれなかった。
 機嫌が悪いのは仕方ないとしても、微かに感じたのは、落ち着けずにいる自分への軽蔑だった。

□■□■□

「っ!」
「兄さん、本当に大丈夫?」
 追いついてきたセルがまた目を抑えるのを見て、やや慌て気味にティアは聞いた。
「うん。まだ少し痛むけど、しばらくは大丈夫そうだよ」
 セルは恥ずかしそうに笑ってごまかしていたが、ティアはじっと彼を見つめた。痛みに眼球が反応してか、真っ赤に充血している。とてもではないが大丈夫そうではない。
 実際、エルニスも同じ事を感じたのか、少し顔をしかめていた。
「宴の時にあまりひどく痛むようなら俺に言え。何とかしてみるから」
「ありがとう」
 セルが済まなさそうに頷き、エルニスは微笑んだが、急にその表情が硬くなった。
「……何だ?」
 呟きながら辺りをきょろきょろと見回す彼にティアが首を傾げた時、地面が僅かに揺れた気がした。地震かとぎょっと身を強張らせていると、再び小さな揺れが足元から伝わってきた。
「大丈夫だ、これは雪崩れじゃない。……むしろ、どこかで小競り合いが起こったかな」
 エルニスの言葉に、セルがはっと顔を上げた。
「まさか、カーレン?」
「いや、あいつの場合は抵抗しないというか……どれだけひどくやられても頑として相手にしなかったんだよな。だからそれは
「ありえない訳じゃないわ」
 ティアがエルニスの言葉をさえぎった。港町で今日、カーレンにやられ続けてばかりでは何も変わらないのだという意味合いの事を言ったばかりだ。ひょっとしたらという事も十分に考えられた。
「どうしよう、私が余計な事を言ったから……」
「あー、よく事情が分からないけど、それでもあいつが勝つと思うよ」
 エルニスは遠い目をして言った。
「何でそんな事が言えるの? エルニスも、カーレンが普通よりも魔力の器が小さい事は知ってるんでしょ?」
「ああ、知ってる。だからあいつが勝つと言っているんだよ。俺は一回もカーレンが戦っている所を見た事がないけど、身のこなしは毎日のように見ていた。魔力を使わないという条件下であれば、あいつはきっと俺と同じぐらい強いはずだ」
「……どういう事だい?」
 セルが静かに聞くと、エルニスは肩をすくめ、鼻から息を吐いた。
「君たちも見たんじゃないか? 長とカーレンの動き方、どことなく似てるだろう?」
 ティアは目を瞠った。確かに、歩き方がよく似ていた。エルニスの言わんとしている所を察して、セルも驚きに口をぽかんと開けている。
「長は、だてにその地位についている訳じゃない。里で一番強いんだ。だから、カーレンにもしも平均的な魔力が備わっていた場合は……誰が挑んでも、話にならないだろうな。他の奴らはそれが分かっていないみたいだったけど」
「なんで止めなかったんだい?」
「己の身が可愛いから」
 即答したエルニスはしかし、苦笑して肩をすくめた。
「――なんて理由じゃないよ。本当は、あいつが牙を剥くとどうなるのか、一度見てみたかったんだ」
「それにしちゃ、やけにカーレンを嫌がってたじゃない」
「だから言ったろう、好きじゃないと。でも、興味がないと言っても嘘になる」
 唇を尖らせるティアに静かにするようにと指を立てると、エルニスは踏み固められた雪の道を逸れ、獣道に入った。ぶかぶかと雪に足をとられて歩きにくい事この上ないのだが、エルニスは何でもないというようにさっさと進んでいく。兄と顔を見合わせると、仕方なく、ティアはその背中を追いかけた。
 しばらく歩き続けているうちにも、不穏な気配を十分に伴った地響きが聞こえてくる。嫌でも不安を塗り重ねられていくような中で、エルニスはそれが美しい音楽だとでも言うのか、傾聴するように首を傾げていた。
 やがて、辺りに生えていたまばらな木も見当たらなくなり、急に開けた場所に出る。いきなり目の前の地面がなくなったように見えたが、そうではないと気付いてティアは呆然とその先を見た。――絶壁だった。
 寒気がするくらい冷たい呟きがエルニスから漏れた。
「……なるほどね。ちょっかいをかけた彼らのやり口が卑怯だったとはいえ、あいつも分厚い化けの皮を被っていたという訳か」
 すっと細まる彼の目を見つめても、それほど遠くない場所で繰り広げられている行為の全てを打ち消せる訳でもなかった。
 セルが静かな怒りに、エルニスと同じ紫の瞳を燃やしていた。
「エルニス。三対一もそうだけど、何でカーレンだけがドラゴンに戻っていないんだい?」
 崖から見える光景は、セルの言葉通りだった。
 ここからはカーレンたちの表情は分からない。ただ、平然とカーレンは、三体の巨大なドラゴンを前にしながら、微塵も揺るがずそこに立っていた。いつものように、静かな表情をそこに浮かべているのだろうか。
「笑っているよ、あいつ」
 心を読み取ったのではないかと思えるほど的確にティアの疑問に答えが返ってきた。見えるのかとエルニスを驚いて見やると、彼はそれをずいぶん苦々しげに口にしたようだった。
「あんな笑い方……化け物がするものだ。俺は好きじゃない。あんなもの、妹を殺した魔物と同じだ。でも、同じじゃない」
 矛盾を吐き捨てる声は、小さく震えていた。
「よく見てろ。あれが君たちが見ていたカーレンだ。いざその力を振るうとなれば、非情なまでの強さを見せる。……俺でも本当に強いと思うよ、あいつは」
 ティアの見ている前で、一体のドラゴンが雪を蹴ってカーレンに飛びかかった。それに対して、カーレンはまだ動かない。ただすっと首を巡らせそちらを見ただけで、空中にいたドラゴンの方が凍りついたようにティアには見えた。
 いや、実際に、既に凍てついていたはずの周りが、一層寒々しく感じられた気がする。
 何となく知っていた。幾度となく、魔物に向けられたものだったから。
「……すごい殺気だね」
 セルのひどく乾いた現実味がない呟きに、ティアは頷いた。
 普段から気軽に話しかけられた存在でも、やはりドラゴンは非情になれる。痛む胸のどこか遠い場所できりりと締め付けられた部分があったが、目の前で次々に進んでいく光景から、それを感じるために割く余裕はなかった。
 名も知らぬドラゴンは、カーレンがつまらなさそうに手を振って払うと、そのまま何かの力でわしづかみにされたように投げ飛ばされた。
 間髪いれず、青い炎がその後ろから吐き出され、カーレンを焼き尽くそうと迫る。気付いた彼が何でもなさ気に右腕を振るうと、青い炎はその手の平に当たった瞬間に霧散した。握りつぶした炎はそのままに、彼は風に消えそうな火種をそっと口元まで持っていくと、優しく息を吹きかけた。
 それだけで、散った火の粉が銀の花となってカーレンの周りで渦を巻いた。太陽を照り返す銀色の雪さえその色を純白に染まらせるほど眩しい光が閃く。色も威力も様変わりした銀の爆発が、猛然と雪を巻き上げながら三体を襲った。
「――!」
 すぐさま飛び退る二体とは別に、先ほど投げ飛ばされた一体が巻き込まれるのが見えて、ティアは声にならない悲鳴を上げた。
 脇でエルニスがやれやれと首を振り、皮肉にも似た笑みを浮かべた。僅かに満足気な気配が彼の周りには漂っている。
「まるで手加減なしか。――勝負あったかな」
 判定は実にあっさりと下された。
 炎を避けた二体のうち、淡く鈍い桃色をしたドラゴンに、巻き上げた雪煙の中から黒くしなやかな体躯が飛びかかる。ほとんど突き飛ばされるように宙を舞ったドラゴンは岩に叩きつけられて悲鳴を上げるが、こめかみに当たるのだろうか、側頭部を強く殴打されて動かなくなった。あっという間に仲間を仕留められ、呆然とした様子で立ち尽くす残った一体にカーレンは素早く迫ると、振り上げた鉤爪に引っ掛けて、そのまま巨大な体躯を空高く放り投げた。
 激しく地に衝突したドラゴンはすぐさまがっちりとカーレンの前足で抑えつけられた。すぐさま我を取り戻して足の下でもがいてはみるが、起き上がれないようだ。
「……本当に強い。あいつを知るのにそんなに時間はかからなかったけど、あいつが俺に見せつけてたからだって気付いたのは、妹が死んでから数年した頃だった」
「……どういう事?」
 ようやく放心状態から抜け出て、ティアは聞き返した。
「さぁ。俺にも分からない。だけど俺はあいつにとって特別らしい。嫌いだし、憎いけどな。そんなに強いのなら、何で妹が守れなかったんだろうって、今でも悔しいんだ」
 語尾には切り裂くような感情がこもっていた。言ったエルニスはすぐに意味のない事だと気付いたのか、そっと首を振る。
「ごめん。君たちには全く関係のない話だった」
「……、」
 ティアはふっと目を逸らした。勝手に言って勝手に怒って、でもやり場のない感情なのだとは分かった。それでも、理解してはならないだろう。するべき相手は、たぶん。全てを知ったわけではないが、無意識にティアはカーレンを見つめていた。
「私には、あなたの痛みなんて分からないし付き合えない。だから、そんな事を言われても何も思えないのよ」
 さらりと返されたそれを聞いて、エルニスはしばらくぽかんとしていたが、やがて理解の色が端からじわじわと侵食していき、最後には安堵したように微笑んだ。下手な言葉の中に隠された真意を、しっかりと汲み取ってくれたらしい。
「ああ。ありがとう」
 素直に言われた礼も含め、ティアは返事を返さず、全てを聞かなかった事にした。それだけでややこしくならずに済む事など、両手の指では足りない。
 人の姿へと戻っていたカーレンは、いちいち着直すのが面倒なのか、着衣に全く変わった所はなかった。と、始めから気付いていたようにティア達を見やる。特に慌てた様子も驚いた風もなく、戦いに臨んだ時と同じように平然としていた。
「あいつ……」
 エルニスは小さく舌打ちをした。それから、肩をすくめてティアとセルを促す。
「行って、話でもしてきなよ。俺はここで待ってるから」
「でも?」
「あいつの強さを知ってるのは、俺とたった今あいつらが加わって、この里で四人。それと、君たち二人。全部で六人だけだよ」
「――それは違うかもしれないよ?」
 今まで会話に入ってこなかったセルが、ぽつりと呟いた。ティアとエルニスが見やると、セルは考えこむような表情で、首を振った。
「いや。そういう訳じゃないんだけど。カーレンはいろんな場所を旅しているらしいから、旅先でやむを得ずなんて事もあったんじゃないかってね」
 それもそうかと納得して、ティアはエルニスに向き直った。
「先に言ってて。道は彼から聞くから」
 エルニスは頷いて、右腕を上げて崖の向こう側を示した。
「岩だらけだけど、あそこから小道が続いてるから降りられる。凍っているし滑るから、気をつけて降りるんだよ。崖下には雪があるけど、たぶんさっきの爆発であらかた吹き飛ばされてるはずだから」
「分かったわ」
 言って小道へと踏み出したティアは、ふとエルニスを振り返った。
「あなた、さっきから嫌いとか憎いとか言ってるけど、カーレンの事――」
「……あいつが、どうだって?」
 途中で言葉を途切れさせたティアは、エルニスの返答を待たずに身を翻した。肩をすくめつつも背後へと声を張り上げる。
「おかしな話よね。対等な立場のあなたよりも、彼の使い魔の方が自由なんて」
 訳が分からず立ち尽くすエルニスを置き去りにして、歩きながら、ティアは誰にも聞こえない小さな声でもう一度呟いた。
「ほんと、気付かないのが不思議なくらい、変な話なのよね」
 ただ、分からないのなら、伝える必要もない。そう思いなおして言わなかった。それでも分かった事はある。兄の降りた道をなぞるようにして、ティアは細い背に声をかけた。
「エルニスが一度こうと思い込んだら周りが見えなくなる性格でよかったわ」
「……そうかな」
 どんな事情があるのか知らないけど、とセルはぼやいて、小さく訂正した。
「まぁ、カーレンが特別だって認めてる理由は分かるよ。単純で真っ直ぐな所がいいんだよ、あの人はさ。でも、それって馬鹿だからっていう事にもならないかい?」
 傍聴という行為に長けた者がいたとしても分かるか分からないかという、微妙な僅かの間が兄妹に落ちる。気のせいだろうか。ざくざくと、砕かれた雪を踏み分けて近付いてくる音が、どうにも荒っぽいように聞こえた。
「カーレンを怒らせちゃったかな」
 セルが失敗したなと頭をかいた。
「耳がよくて損したわね」
 痛い所をついたつもりだったのだろうが、聞く者の存在を忘れては、せっかくの皮肉も自分の首を絞めるだけ。ティアは我が兄に神のご加護あれ、と小さく祈りの言葉を唱えた。
 気休めだ。神の加護が特に薄いであろうこの場所では、気休めにしかなりはしないが。先ほどのカーレンの姿を思い出せば、無理もない事ではあったろう。
 ざくざく、ざくざくと雪を踏む音は、突然止んだ。
「セル」
 静かに、何の感情もこもっていない声がした。身をすくめたセルを通り越し、カーレンの目線がティアに注がれた。
「ティア」
 ……自分も睨みつけるあたり、別の事に怒っていたらしい。勘違いかと気を緩める暇もなく、カーレンが目を細めたが、すぐに彼は苛立ちにまみれた溜息をついた。
 顔を覆う彼に申し訳ないとは思う。見られたくない事なのだと気付いた時には、もうティアは一部始終を見てしまった後だったのだから。
「なぜ、来た――ここに、この場所に」
「……カーレン」
「なぜ来た!」
 拳が崖を叩いた。足元から僅かに振動が伝わるのを感じて、ティアは相当な力でカーレンが崖を殴ったのだと知った。吼えるように絶叫したカーレンは、何かに突き放されたように、のろのろと崖から離れた。腰を落としてぶらりと腕を垂らす様は、幽鬼にも見えた。
 どうした訳か、くす、と笑い声がその喉から漏れた。
「裏切られた。そう思ったか? 私が弱いと、そう言った時とは話が違うから」
「そんな事は思ってないわ」
 ティアは小道を降りながらきっぱりと否定した。もう自分の身長ほどしかなくなった崖の上から一息に飛び降りると、ふらりとよろけた。足場が安定しないまま、足に体重がかかったせいだ。思わず倒れかけた身体を支えたのは、カーレンだった。
 自分よりも大きな手の平で、やんわりとティアを押し戻した後、カーレンは唇を引き結び、すがるように腕を掴んで、ずるずると座り込んだ。……理由がどうだか知らないが、荒れている。
 明らかに様子がおかしい。ティアは眉を潜めた。
「ティア。私は、強かったか?」
 不意に聞かれた事に、ティアは咄嗟に答えを返せなかった。なぜ、そんな事を聞くのだろう。
「ええ……とても。あの三体を軽くあしらうくらい」
「そうだな。だが、私は彼らにずっと負け続けてきた」
 カーレンの返答は、どこか投げやりな調子だった。
「わざとだ。弱いふりをしていれば、誰も私に目もくれずに通り過ぎていく。それで良いと思っていた。だが、アラフルは見逃してはくれなかったらしい」
 手で覆われた内側で、カーレンはくしゃりと顔を歪めて笑った。
「力が強ければ、もちろん軽んじられる事などはない。だが、あってもなくても、周りから蔑まれるのは同じだろう。そして、望んでもいない事をさせられる事がないのはどちらだ?」
 ただ聞いただけでは、意味の通っていない言葉だった。ティアはああ、とカーレンの真意を悟った。そういう事だったのかと。
 カーレンはティアと同じだった。あの港町で、得体の知れないものを見る目で、力は信じても、おまえは信じないという目で、ずっと見られ続けてきていた。無力であれば、ただそこに転がっているだけの石と同じだ、カーレンはそう信じて、あざむいて、笑って、道化のようにここで過ごしてきたのだ。
 それとは逆に、ティアは隠す事すらできなかった。だから、嫌だと叫ぶ事すら許されず、恐怖を越えて、町を襲う魔物に対峙させられた。
「嫌になる。自由である事も、鎖で繋がれている事も。どちらも同じすぎたのだから」
 船の上で、カーレンが空は嫌いだ、と言った事を思い出した。自由すぎて嫌になると。
「力がなくてもできる事などいくらでもある! 力があったところでどうなる。それに巻き込まれて犠牲になる者が生まれて、憎しみを求める者が生まれて……どこに意味がある?」
 答える事など、できなかった。
 これは悲鳴なのだと思う。時たまカーレンが耐え切れなくて、ふとした時に漏らす崩壊の音なのだと。硬い理性の鎖は断ち切れず、狂う事も、泣く事もできないからこそ、苦痛に苛まれて上げる悲鳴なのだと。
 断罪を求め、彼の胸は痛む事をやめないのだ。
 ふと声を荒げる事をやめて、カーレンは静かに立ち上がった。歪めていた顔も、今は何事もなかったかのように静かなままだ。
「……すまないな。おまえ達に言っても仕方のない事だった」
 ふいと背けた顔から呟きが聞こえた。
「どうかしている」
「カーレン」
 ティアが呼ぶと、彼は微笑んで首を振った。柔らかく拒絶され、伸ばしかけた手は心もとなく宙を泳いだ。それを握って戻すと、ティアは唇を噛む。
 冷たくなって感覚が鈍くなった頬をかすめる感触は、カーレンの伸ばした手だった。いつかの時のように、乱れた髪を直してくれた。
「そういえば、何か私に用があったのか?」
 無理に話題を変えようとしているようには見えなかった。落ち着いたのだろうかと思いながらも、ティアは無言で頷いた。そっと顔を見上げると、鮮やかな紅と目が合った。
「宴に、招待されてるんだって」
「ああ」
 カーレンは合点がいったのか、納得の表情を浮かべた。同時に、嫌そうな色を滲ませる。
しまいには、苦虫でも噛み潰したかと思うほど渋い表情になった。
「一部の者にしか知らせていない……あの場で言う気か」
「へ?」
「何でもない。知らせてくれて助かった」
 首を振ると、彼はティアとセルを手招きした。今気付いたのだが、そういえばカーレンがひどく動揺していた時も、セルはずっと口を挟む事がなかった。なぜかと兄を振り向いたが、何も表情からは読み取れない。
 いや、そもそも顔に表情が浮かんでいない。無表情のまま凍りつき、時折視線を巡らせては首を傾げている。
「おかしい……けど気のせいじゃない」
「兄さん?」
 ぶつぶつと口の中で呟いていたセルに呼びかけると、彼ははっと顔を上げた。
「あ、ごめん。ちょっと変な感じがして」
 それから、またどうしても気になると言うように視線を巡らせた。
「……僕らの話を、誰かに聞かれていた気がするんだ」
「エルニス?」
「ううん、違う。彼じゃない。カーレンがふっ飛ばした三人も、あそこで完全に気絶してるし」
 指差した先のドラゴン三体は、ぐでりと脱力したまま雪の上に横たわっている。とてもではないが話を聞いているようには見えないし、セルの言う事は正しいだろう。
 では誰が、と視線を戻すが、どこにも、何もいないように見える。
「聞いていた、というか、僕を、僕だけを見てた、というか」
 いまいち歯切れの悪い返事をしてから、セルの顔が寒風に晒されてただでさえ青白くなっていたというのに、さらに蒼白になった。
「……ひょっとすると、ひょっとするかも」
「どういう意味だ」
 カーレンが呆れて聞いた。
「でも、もしかしないかも?」
 柔らかい首をぐっとひねるのを見て、カーレンはぎょっとした顔でそれを凝視した。そういえばこれを見るのはカーレンは初めてだったか、とティアは見つめる。いや、それよりも、明らかに兄の調子が。
「どこかねじが抜けたのかしら」
「ティアちゃん」
 的外れな答えを口にすると、むっとしてセルは首を戻した。ともかく、これで少しまともに戻ったろう。
「で、おまえは結局何が言いたいんだ」
 疲れた顔でカーレンが聞く。
「誰か。たぶん、……外からだよ」
 はっとカーレンが息を呑んだ気がした。そのまま息を詰めていたが、カーレンはやがて眉根を寄せて考えこんだ。
「ウィルテナトにはただでさえアラフルの強力な防護がある。結界をあっさり、しかも私が気付かない間に通り抜けただと……?」
『マスター』
 カーレンの影からルティスの頭だけが出てきた。いつもどおりポーカーフェイスだが、声に焦ったような響きがある。
『……あなたに魔物でちょっかいをかけてきていたのは、彼らではなかったのかもしれません。セルさんの言葉にまさかと思って、今しがた調べてきましたが……、魔物からは里の者の臭いがしなかったんです』


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