Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-2- 潜んでいたもの

 探るような目で見られて、ティアは視線を逸らそうとしたが、できなかった。不意にするりと何かに自分の中へ入り込まれるような、そんな寒気のする心地がして、反射的にティアは腕を前へ振った。
「――嫌っ!」
 短く拒絶の声を上げた途端に、室内に強い風が吹いた。セルが煽られた拍子に尻餅をつき、椅子が大きな音を立てて転がった。テーブルさえも引っかくような耳障りな音を上げながら後退するのを見て、船長は軽く瞠目し、感心の声を上げた。いつの間にか立ち上がっていた彼は、強風にびくともしていない様子だった。
「! ほう……本気でなかったとはいえ、私をこうも簡単に退けたとは。よほど強い目のようだ」
 肩で荒い息をしながら、ティアはぞっと込み上げた吐き気に口元を覆った。ドラゴンアイの事を知っている。しかも、自分の中に入ってこようとした。間違いない、この船長は只人どころか、人間でもないのだ。
「あなたは……?」
 くすくすと笑うと、船長はティアを見つめた。今度は、あの奇妙な心地はしなかった。
「私もまた、エリシア・メイジ、君のように力を持つ者だから」
「……え?」
「エリシア・メイジ?」
 聞きなれない呼称にセルが眉を寄せると、船長はそこでやっと、自分とティア達の認識の食い違いに気付いたようだった。
「ああ、そうだ。君のような姿をしている人間が、この雪の大陸には私のようなヒスランと同じくらいに多いのでね。白い肌と対照的な黒。昔から伝わる御伽噺に出てくる、人を迷わせるエレッシアの雪の妖精のようじゃないか? ……だからエリシア・メイジと、そう呼んでいるんだよ」
「話を逸らさないでもらえないかな」
 セルが苛々と言った。相当に、医務室にいるカーレン達に心配を募らせているらしい。
「分かった。けれども、焦らないで機が熟すのを待つ事も重要なのでね。この歳になると、やはりつまらない事でもじっくり楽しまなければ退屈で仕方がない」
 相も変わらずのんびりした態度で、船長は袖から何かを取り出し、こちらに放って寄越した。ティアは思わず手を伸ばしてそれを受け取り、何なのか確かめようとした。
 手の平の中にあったのは、乗船券の半券、だった。
「私が何者なのかという問いに対しての答えだが……おそらく、君達は既に答えを手に入れているのではないかな?」
 はっと目線を上げた時、部屋の中には誰もいなかった。傍らに立っていたセルも、何が起こったのか分からない様子で、肩をすくめた。
「それに気を取られた間に消えてしまったみたいだ。あの船長、かなり薄気味が悪いね」
「でも、どうして半券なんか……」
 普通、乗船券は購入した客が名簿に名を書き込み、買われた数だけ対応する合札がある。それを半券と呼ぶのだが、乗船券と引き換えに、乗船する際に渡されて、下船する時にはまた船乗りにそれを返すという決まりになっている。こうする事で、不当な方法で乗船する客をできる限り減らしているのだ。もちろんいくらでも偽装する事ができるのだが、半券、乗船券のどちらにもいろいろと工夫が凝らされていて、すぐにばれる事が多い。取調べなどは特に厳しい事もあってか、ほとんどやる者はいないらしい。
「そうか」
 セルが納得したように呟いた。
「レダンの半券だ。後で乗船券を一枚追加しておくっていう意味だと思うよ」
 ティアは呆然としたまま頷き、はっと我に返った。レダンといえば。
「カーレン!」
「あぁ!」
 叫ぶなり、兄妹で顔を見合わせる。思い出したら後は早かった。
 ほとんどドアを蹴破る勢いでティアはセルと共に部屋の外に飛び出し、カーレンに教えてもらった廊下を通って医務室へ急いだ。あの船長が血の臭いがしたと言っている程なのだ、相当にひどい傷を負っている。しかも、ドラゴンだからこそ性質が悪い。
「もうとっくの昔に二人の傷は治ってるだろうけど……血が残っていたら逆に怪しまれるよ!」
 考えたくもない可能性に、ティアは呻き声を上げた。
「どうにか誤魔化してくれるわよ……たぶんね」
 控えめな意見を述べた時、やっと医務室のドアが目に入った。一気に開け放って駆け込むと、驚いたように船医が後ろへと仰け反った。
「おい! 怪我人がいるんだぞ!」
「すみません、僕らその人の連れなんです」
 セルがすかさず謝って迫真の演技で医者を圧倒している間に、ティアは船医が止める間もなくベッドに突進した。垂れ布で顔が見えないよう覆われただけの簡素な場所で、薄っすらと起き上がっている人影が見えた。
「カーレン、怪我は大丈夫な――」
 ばっとその垂れ布を払って覗きこむと、ティアの言葉は途切れて、その後が続かなくなった。上半身だけを起こしている彼は、丁度傷の手当てが終わったところらしく、裸の胸から脇腹にかけて簡単に包帯が巻かれていた。ティアは、どうも彼が上着に袖を通そうとした時に医務室に雪崩れ込んできてしまったらしい。
「ああ、おまえか」
 特に気にした様子もなく、カーレンが言った。
「どうしてまだ治らないの?」
 驚きから立ち直り、ようやくティアは口を開いた。
「ドラゴンは、爪に毒を流す事くらい訳もない。浄化に時間がかかるだけだから、直に治る」
「……そう」
 ほっとして肩から力を抜くと、後ろからセルがやって来た。
「そういえば、レダンはどうしたんだい?」
 カーレンは黙って、奥の方のベッドを示した。ティアはベッドに近寄ってそっと布を掴み、静かに引き上げた。
 彼もまた、ベッドの中に沈み込み、手当てをされても意識を失ったままだった。青白い顔をして眠っているレダンの左肩には、どす黒い赤の紋様が浮かび上がっているだけでなく、ティアの押し付けた紫水晶がほとんど同化するようにして肩に埋まっていた。時々、仄かに鮮やかな赤の光が閃いている所を見ると、何かを肩代わりしているようにも受け取れる。
 カーレンが背後で船医、と呼ぶ声がした。
「すまないが、少し席を外してくれないか。大切な話があるんだ」
「……一刻ほどなら」
 船医が渋々ながらも退出していく様子を見送った後、カーレンは溜息混じりに言った。
「レダンの肩に埋まっているその水晶は、もともとルティスの魔力だったものだ」
 カーレンの静かな答えに、ティアは瞠目した。セルさえも、ぽかんと口をあけて自分の影を見下ろしている。と、その影が揺らいで、するりとルティスが抜け出た。
 彼はレダンのベッドに歩み寄ると、じっとその肩を見つめ、やがて頷いた。
『ええ。確かに、私のものです』
「でも、どうしてそんなものがラヴファロウの手に渡っていたんだい?」
『不必要な上に危険なものだったからですよ。私やマスターにとって、とてつもなく。だから、唯一信頼できる人間である彼に預けたのです』
 ティアはカーレンを見た。
「その危険って、ひょっとして……カーレンの言っていた未来と関係があった?」
 カーレンはゆっくりと頷き、それから目を逸らして、首元から外された鎖と、その先についている銀のプレートを見やった。前に見た時とは違って、何かの図案が描かれているようにティアには見えた。
『……その水晶は、今は彼を縛る呪いと反対の性質を作り出して、彼をぎりぎりのところで繋ぎ止めています。元は私の魔力の器と、その中に満たされていた魔力そのものですから、磨り減っていく事はまずありません。レダンの魔力で常にそれが満たされる事になりますからね』
「彼だけでは抵抗できないのかい?」
『できない事もないでしょうが、いずれにしても遅かれ早かれ、精神崩壊を招いていた事でしょう。間に合わせとはいえ、あと一歩のところだったかも知れません』
「……それで僕やティアちゃんの事を」
『何か?』
「ああ、何でもない」
 セルは首を振ったものの、浮かない顔だった。
「兄さん、やっぱり何か?」
 ティアが問いかけるとセルは俯き、床に目を落とした。やがて、気が進まないのか、沈んだ声で口を開く。
「ごめん。僕は。……レダンがリスコに来ている事を知ってた。何の為に来るのかも全部知っていたんだ」
「理由を知っていた? なぜ」
 カーレンが顔を上げ、首を傾げてみせた。話してみろ、という事なのだろう。
 セルは目を逸らし、ベッドの側に置いてあった椅子を持ち出して座った。そうでもしないと、ここには居られないとでもいうかのように。
「知らないはずがないよ――レダンは僕に会うために、リスコに来ていたんだから。けれどもシリエルの森で出会った時、本気で僕の事を覚えていないみたいだった。たぶん、記憶も時々飛んでしまうんだと思う」
「ちょっと待って」
 ティアはセルの話をさえぎり、額に手の平を当てた。
「記憶が飛ぶのが呪いのせいだっていうのは分かるけど……兄さんに会うために、レダンがリスコに来ていた? それってどういう事なの?」
「……ごめん」
 セルは唇を引き結んだ。
 カーレンがぽつりと聞いた。
「今は全て話せない、という事か」
 無言で頷く兄を困惑して見下ろした後、ティアはカーレンを見やった。
 カーレンはゆるゆると首を振った。
「何かを打ち明けるという事は、相当な覚悟と勇気が必要になる事もある」
「でも」
「まだそれだけを蓄える時間が必要だ。分かってやれ」
 ティアは口を噤み、奥歯を噛みしめた。兄妹なのに、打ち明けられないという事があるのだろうか。服の袖をルティスに甘く噛まれて引かれるのに気付き、ティアは彼を見た。
『身近だからこそ、話せない事もあるのですよ』
 囁きかけてくる言葉の意味は知る事ができても、その中の真意までは見通せなかった。
「……ぅ」
 耳に微かな呻き声が聞こえて、ティアは振り返った。セルも顔を上げ、目を見開いた。
「レダン!」
「……目覚めたか?」
 カーレンが声をかけると、ベッドからレダンが起き上がった。
 手を当てて、左肩の異常に気付いたらしい。軽く驚きを顔に表した後、掠れた声で呟いた。
「ここは」
「北大陸に向かう船の中だ。といっても、」
 言って、彼は天井を見上げた。
「既に港に入ったようだがな」
 つられてティアが同じように仰ぐと、船の外からは活気に満ちた声が聞こえてきていた。
「さて。準備ができたら降りるぞ」
 ベッドから降りると、カーレンは言った。
「まだ傷が塞がってないんじゃ?」
 セルの言葉にカーレンは笑みを浮かべただけだった。包帯の結び目に手をかけると、するすると解いていく。
 包帯が一つ解けていく度に、自分とセルの顔が苦々しい色に染まっていくのが嫌でも分かった。
「その、何というか。意外と嘘つきなんだね、君って」
 包帯の下から現れた傷口を見て、セルがやられたとばかりに黒髪をかき上げた。
 これには、ティアも文句を言わずにはいられなかった。
「時間がかかるって言ったじゃない」
 唇を尖らせると、カーレンは苦笑した。腹にあったはずの傷は、薄く痕が残る程度にまで塞がっていた。痕すら、あと数分で消えるかもしれない。
「確かに時間はかかるが、その期間を言った覚えはないな」
『今回はマスターが悪いですよ。余計な心配をさせたのは失敗でしたね。……それで、レダン。あなたはどうしますか』
 話を振られ、彼はしばらく考えこんでいた。
「……そうだね」
 頷いて、レダンはカーレンを見つめた。
「あんたは故郷に帰るんだろう?」
「ああ。そのつもりでいる」
「だったら、そこでの用事が済んだらセルを貸してほしい」
「え、僕?」
 セルが驚きの声を上げ、自分を指差した。
「別に構わないが……どうする気だ?」
「カーレン!?」
 ティアは目を瞠った。あまりにもあっさりと了承し、許可を出してしまったカーレンを思わず凝視する。
「兄さんは物じゃないのよ?」
「分かっているさ。ただ、おまえが彼に対して恐怖を感じるのは、ドラゴンアイが本能的に働きかけているからであって、彼自身がセルに危害を加える事は考えにくい。だから許可したというのもある」
「……恐怖?」
 レダンは顔を僅かに上げたが、すぐに何の事か納得したらしい。
「ああ、また怖がらせてしまっていたのか」
 少し歪んだ笑みを顔に浮かべたレダンが、彼自身を自嘲しているようにティアには見えた。すぐに彼が顔を伏せたので、一瞬しか見て取れなかったが。
「彼に見せたい物があるんだよ。どうしても。ただ、急ぎじゃない。紋様の効果を薄めてくれた礼は近いうちにさせてもらうけれど、しばらく身を潜めているよ」
 カーレンは頷き、そうだ、と思い出したように懐に手を入れた。銀色の卵の欠片を彼に差し出すと、レダンは唖然としてそれを受け取った。
「おまえの物を預かっていた。燃やそうとしたが、できなかったのでな」
 レダンは怪訝な顔をして、手の中の欠片を見つめた。
「燃やそうとしてできなかった? あんたが?」
 それから、なぜか目を走らせ、テーブルの上にある首飾りを見やった。
「あんな回りくどい事をしていなけりゃ、一瞬で消せたはずだ」
 カーレンは目を瞠ったようだった。
「分かるのか」
「当然」
 頷くレダンに、カーレンの目はティアでも読み取れない程に深い色を浮かべていた。
「……一年前は、一言も言わなかった」
 レダンはふっと首を傾げた。
「一年前?」
 呟き、突然レダンは黙った。
 ティアが両者を見比べていると、痛いほどの沈黙を、カーレンが破った。
「あれがロヴェだというのか? まさか、それこそありえない話だぞ」
「それでも俺は覚えていない」
 首を振り、レダンは思いついたようにカーレンの瞳を覗き込んだ。レダンの瞳が一瞬青く輝くなり、彼は目を大きく見開き、呆然と立ち尽くした。一方で、カーレンはややふらつき、壁に手をついて身体を支えた。それを見て、ティアは何が起こったのかをほとんど直感で察した。
 数分前、船長が自分にやったのと同じ事が目の前で起きた。どうやったのかは分からないが、カーレンの中に踏み込んで、強引に記憶を読み取ったのだ。
 ティアの喉元から、かっと火が立ち昇るような感覚がせり上がり、舌の先まで染み渡った時、
「レダン!」
 セルが先んじて大声を上げた。驚きに、ティアは口から出かかった声をぐっと飲み込んだ。
「カーレンの記憶を荒らすなんて……君は、何て事をしたんだ!」
「よせ、セル」
 レダンに掴みかかったセルをやんわりと引き戻したのは、カーレン自身だった。
「私も望んだ事だ」
「それでもよくないよ! 読まれた事は、同じように君の中でも浮かび上がるんだろ!?」
 カーレンの肩を掴むと、セルは切羽詰った様子で彼を見上げた。紫色の瞳が、哀しみの色に染まっている。
「君が辛い事だって思い出してしまったはずなのに」
「セル」
 静かに呼ばれ、セルは雷に打たれたようにぴたりと口をつぐんだ。
「……なぜ私を哀れむんだ?」
 ぽつりと返された答えに、セルどころか、ティアまでもが愕然とした。それほどまでに、カーレンの声は淡々としていて、虚脱感があった。こんな事が、前にもオリフィアであったはずだ。
『やめて下さい、三人とも。見苦しいですよ』
 ルティスの冷たい声が響き、周りがしんと静まり返った。いや、静まってはいないだろう。ティアがふっと意識を外に向けて顔を横に向けると、ドアが先ほどからうるさく鳴っていた。ずっと叩き続けていたらしく、苛立ちを現すように時々大きくドアが軋んだ。それでも席を外してくれという約束を船医は律儀に守っているらしく、押し入っては来ていない。
『……船医が怒っています。早めに出た方が賢明でしょう』
 目に見えない冷やりとした怒気を確かに感じ取り、ティアだけでなく、残りの三人も、それぞれがゆっくりと頷いた。
「ティア。ドアを開けてくれ」
 いつもの調子に戻ったのか、カーレンが言った。ティアは頷き、ひとつ深呼吸をして、けたたましく鳴るドアノブに手をかけた。
「――あ、やっと開いた! 三十回は叩いたぞ! 中で怒鳴るなんて、あんた達はここがどこか分かってものを言ってるんだろうな――ひょえっ!?」
 船医がすかさず踏み込み、カーレンとレダンを見て小さく悲鳴を上げ、尻餅をついた。
「な、何で立っているんだ! 医者に引き渡す手筈を整えているから、とにかく安静に」
「必要ない。心配をかけてすまなかった、船医」
「ああ、俺ももう治ったから、治療はしなくていいよ」
 カーレンとレダンが何食わぬ顔をして答えた。
「け、けども……あんたなんか特に、その左肩、大変じゃないか……?」
「別に。大した事はないね」
 レダンは答えると、自分の衣服を取り上げて顔をしかめた。
「ずいぶんと血だらけだね」
「あれだけ傷だらけだったのなら、当然だろうな」
「……ふうん」
 気のない返事をすると、レダンは服を払って埃や血の染みを抜き取り、手の平の上で息を吹きかけて燃やした。服の方は、何事もなかったかのように清楚な純白を保っている。
 上着に袖を通すと、レダンは軽く首元や腰周りを軽く引っ張り、最低限の身なりを整えた。ただし、あちこちが破れている。摘み上げて溜息をついているが、こればかりはどうにもならないようだった。
「仕方がないな……。後でどこかから布でも調達してこようか」
 ぽつりとレダンがこぼした隣では、船医がティア達に怒りと苛立ちの矛先を向けていた。
「いいか? 仮にもここは医務室だ。喧嘩はもちろん、怒鳴り声や大きな音さえ本来はご法度。幸い今日のところは患者がこの――その、妙に薄気味悪い――二人しかいないから良かったものの、下手をしたら怪我人や病人の症状が更にひどくなるんだぞ?」
「はい……はい、今度から気をつけます」
「兄さん、これ完全なとばっちりよ……?」
 呆れてティアが言うと、船医が燃え立つような目でこちらを睨んだ。
「とばっちりだって!?」
 医師の甲高い悲鳴に身をすくめる。余計な事を言ってしまったとティアが本気で後悔しかけた時、勢いの留まるところを知らない船医の背中に声がかかった。
「おい、そこまでにしとけよ。船がもうすぐ港につくぜ」
 ドアの方を見やると、壁にもたれかかりながら、カーレン達を運んだ船乗りの一人が、肩をすくめて廊下を示していた。
「歩けるんなら支えは必要ねぇな。お客さん。とっとと降りてくれないと、こちらも荷物の整理がある」
「分かった。すぐに準備をしよう」
 カーレンは頷くと、ベッドの脇に運ばれてきていた荷物を取りあげた。ルティスがすぐさま足元に近寄る。
「行くぞ」
「あ、うん……船医さん、迷惑をかけて本当にごめんなさい」
「これからはなるべく気をつけますから。じゃ」
 ティア、セルと続き、レダンが遅れて船医に手を振ると、無言のまま通り過ぎた。
 先を歩いていたカーレンはしばらく立ち止まってティア達を待っていたが、少し追いついてくると階段を上がり始めた。
「ようやく陸地に上がれる……この一週間、本当に長かったわね、兄さん」
「うん」
 セルは頷いたが、どことなく表情が暗い事に気付き、ティアは口をつぐんだ。
 先ほどのレダンの暴挙がよほど響いたのだろう。兄の姿を見つめながらも、レダンを振り返ると、彼はティアに深い眼差しを注いでいた。
「……やっぱり、君は」
「え?」
「ああ、いや。何でもないよ」
 聞き返すと、レダンは首を振った。
 気になって首を傾げた時、ティア達はちょうど甲板の上に出た。ひとまずレダンの奇妙な態度は後回しにして、ティアは高く上がった太陽の眩しさに目を細めながらも、ぐっと伸びをした。
「ん……っ、今日は良い天気みたいね」
 先ほどまで暗く沈んでいたセルも、少しは気分が晴れたようで、僅かに笑みさえ浮かべた。
 ただ、カーレンだけが一人、何かを探すように辺りを見回している。ルティスも同じで、どこか落ち着かない様子だった。
「どうしたの、カーレン?」
「いや、特には……だが、まさか、な」
『ええ。他人の空似だといいんですが……』
 歯切れの悪い答えを主従揃って返すと、再びしばらく見回していたが、やがて諦めたのか、溜息をついた。
「仕方がない。船を下りよう」
 カーレンが指し示した方には、船から陸地に作られた高台に渡された橋があった。
 乗客達の列に混じって高台を降り、カーレンが半券を回収している船乗りに三人分の半券を返すと、彼の隣にいた一人の憲兵がレダンを見て首を傾げた。
「ん? 一人多いようだが」
「あ、私が持ってます!」
 ティアは慌てて、握り締めていた半券を渡した。
「よし。通れ」
 港の憲兵に言われ、ティア達はゆっくりと進む人の波に入っていった。
 何事もなく終わってくれた、とティアは深い安堵の息をついた。それに重なる息があり、きょとんとしてカーレンを見やると、彼は苦笑した。先ほどの冷ややかさが嘘だとでも言えそうな程だ。
 改めてティアが港の様子を見ると、リスコと比べるまでもない。大陸間を行き来するだけあってか、活気も大きさも全く規模が違う。見た事もない魚の入った箱が並べられていたり、衣服や装飾品の類などを扱う商人が交渉をしていたりと、ずいぶん交流が多いようだった。隙間なく敷かれた石畳や荘厳な館などが立ち並んでおり、どれを取っても港の財力の強さが伺える。ただ、リスコのような時計台はなく、どうもここから僅かに見える鐘楼に人が詰めていて、定時に鐘を鳴らすという方式を取っているようだった。
「ここはオリフィアと同じように国で治められているの?」
「いや。オリフィア自身は中立国だからな。貿易は同じくらい盛んだったが、この港町は独立した都市国家のようなものだ。それと、町に時計台がないのは、北にまだあまりそれを作る技術が入ってきていないからだな。ハルオマンドが時計作りにかけては大陸一の技術を誇ると聞くが」
「ああ、それでなのね」
 ティアは納得した。リスコのある国は、オリフィアの隣国であるハルオマンドの傘下に入っている。同盟の証にでも立てられたのが、あの時計塔だったのだろう。
「あれ? さっきの船長じゃないかい?」
 セルが声を上げた。
「え?」
 ティアが驚いて見回すと、前方に、確かにあの不気味な船長が立っていた。僅かに微笑むようにして、こちら側を見つめている。服装は先ほどとは違い、簡素な出で立ちで、旅装とでも言えばいいのだろうか。ただ、何となくカーレンに似た気品のある雰囲気を感じ取り、そうか、とティアはようやく納得した。
 あの船長の歩き方は、そういえばカーレンにそっくりだった。
「…………やはり、か」
 溜息混じりにカーレンが漏らし、やや肩を落とした。
『予想は大当たりでしたね』
 ルティスが冷めた口調で言った。意味が分からずにティアは目を瞬かせるが、船長がこちらに近寄ってくるのを見て、身体を強張らせた。
「やぁ。船の上では、またずいぶんと派手な事をやらかしていたな、カーレン」
「え!?」
 ティアは思わず声を上げた。
「確か僕達は、船でカーレン達の名前を言ってなかったよね?」
「ええ……いったいどういう事?」
 囁きかけてくるセルに頷くと、ティアは改めて船長のヒスラン人を見つめた。整えられていた短い銀色の髪はあえて崩されていて、無造作に伸びた前髪が潮風に遊ばれている。
「――アラフル」
 カーレンは答えず、代わりに苦々しげに船長の名を呟いた。船で名乗られた覚えはないが、どこかで聞いた名前だ、とティアは思い、
「――へ!?」
「……何だって?」
 驚くセルと、目を瞠るレダンに僅かに遅れて、思い出した。
「ああ!?」
 叫んで指差すと、アラフルと呼ばれた彼は、堪え切れないとばかりに大声で笑った。
「っははははは! どうした、カーレン。久方ぶりで、親の顔を忘れたのか?」
「忘れる訳もないだろう……旅をしていても、貴方ほど印象の強い者はそうそういない」
 首を振ると、カーレンは盛大に疲労感のこもった息を吐きだした。
「ウィルテナトの方に引っ込んで、大人しくしていてくれれば良かったのだが……もともとそんな性分ではない、か」
「当たり前だろう、我が子よ! 北大陸によくぞ帰って来た、うん!」
 なるほど、歩き方も普通でなければ、能力も普通でない。極め付けに人間でもなかった。もともと船長ですらないのだから、怪しいはずである。大声で笑いながらカーレンの背中を容赦なくぶっ叩いた彼の名を、ティアは呆然と呟いていた。
「アラフル・クェンシード……」
 彼自身が言っていたように、答えは既に手元にあったらしい。
 ――クェンシード一族の長を務め、カーレンの父にあたるドラゴン。
 だが、これがそうだと言われなければ全く分からなかっただろう。それほどまでに、性格も顔も似ていない親子なのだから。


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