Dragon Eye

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第一篇 - 三章 『北の故郷』

-1- 銀色の強襲

 ティアは眉間に皺をよせ、とある難題に取り組んでいた。
 さて、中央大陸と北大陸を繋ぐ航路は一つしかない。間に広がる海域は荒波ばかりで小さな船はすぐに転覆してしまい、大型船が一週間おきに出航しているものの、これも全部で四隻だけだった。しかも乗船できる最大人数は決まっており、一週間分の水は積み込んであるが、食糧は自分の手で持ち込まなければならない。賃金は少しで済むが、代わりに労働をする仕組みになっているらしい、という内容なのだが。
 それは分かるのだが、そうしてきちんと決められているのに、どうしてこんな状況になってしまったのか。それがティアには分からなかった。
「だーかーら……何で港で乗せてきた奴らと今の乗船人数が三つもずれてるんだよ!? 記入漏れか!?」
「俺だって数えましたよ。でもどうしても三人、お客の名簿と合わないんで。一応、券を渡し忘れていたってんで、受け取っておきましたけど」
 眼下の甲板で二人の船乗りが言い争っているのをマストの上からぼうっと眺めていると、カーレンが隣で呟くのが聞こえた。
「……手間が省けたな」
 ティアは手に持っていた望遠鏡を降ろしてカーレンを見やった。
「でも、こんな場所でさぼっていていいの?」
「見張り番は大抵、船と流氷にさえ注意すれば後は暇だ。ここにいるだけで充分役目は果たせる」
 言われてティアは、甲板からの高さに目を回しそうになった。こんな不安定な場所などいるだけで地獄だ。おまけに見張り番は、嵐が来たら帆を畳むため、揺れる船上で、命綱一本だけで滑りやすくなったマストの上を走らなければならないらしい。ちなみに彼はというと、何度か経験があるようだった。
「客にやらせるには危ない仕事なのに、今までよく無事だったわね……」
 という前に、まず危険な仕事だと船員に止められている。それでも大丈夫だとカーレンが請け合ったのには訳があった。そもそも船に乗った経緯からして、こうする必要があったのだ。
「おまえは見張り台に立たなくて良かったんだぞ?」
「いいのよ、私はここで。リスコのあの時計台みたいに、海が見える場所が好きだから」
 言って、ティアは目の前に視線を戻すと、また考えはじめた。
 一週間前に、自分達は空間の繋がりを辿って、川に着くはずだったらしい。ところが、最後の繋がりを潜り抜けた時に、どうも距離を短縮しすぎてしまったのだろう、とティアは思い起こした。気がつくと船の上で、自分がどこに着いたのか、まるで自覚がなく、もし海の上に現れていたらと思うとぞっとしたが、カーレンはそれはないと否定した。理由を聞いてもただ不快そうな顔をするだけで、セルと二人で一時間近く問い詰めた結果、ようやくルティスから得られた解答は、『よく分からないのです。理解ができません』の二言だけだった。その後すぐに人の気配を感じて、カーレンの影に入り込み、ずっと出てこない。
 近くにいた乗客にそれとなく尋ねてみたところ、この船は北大陸に向かっているらしく、本来ならこの船に乗るためにはややこしい手続きを踏んだ上で乗船券を購入し、それを渡して乗り込むという課程が必要だった。そしてもちろん、そんなものなど持っている訳がなかったのだが――。
 怪しいと思われた挙句、何人かの船乗りに見つかって問い詰められた時、カーレンは何食わぬ顔でしっかり三枚の乗船券を懐から取り出して見せたのだ。まるで種のない手品を見たような感覚があった。
「……なんで券を持ってたの」
「この船が出る港町が、オリフィアの管轄にあるから――と言えば分かるか?」
 ティアは眉を潜めながらも頷いた。なるほど、確かに将軍であるラヴファロウならば、乗船券の一つや二つ、誤魔化す事もできるのかもしれない。
「それで、恩を売って余計な詮索ができないようにとこんな仕事もやっている?」
「そういう訳だな」
 言ってくれる。ティアは溜息をついた。
「前に言っただろう。奴は私にいくらか借りがあると」
「確かにそれは聞いたけれど……でも、まさか最初から船に乗る事まで見越してたなんて考えられないわよ。どうせ何度かラヴファロウに助けてもらったんでしょ?」
 カーレンは息を唇の間から吐き出して笑った。
「そうだな。だからあいつは盟友なんだ」
「どういう意味よ」
 ティアは唇を尖らせ、目を細めた。自分の事になると、すぐに話を僅かにずらす。船から下りたらルティスにでも聞いておこう、とティアは思った。
 一方、カーレンは首から提げた望遠鏡に目を当てて、辺りの様子を窺っていた。片方の目を閉じて、自覚はないのだろう、そっと息を吐き出している。やがて望遠鏡を降ろすと、カーレンは右目を手で覆い、疲れを吐き出すように溜息をついた。
「……そのままの意味だ。オリフィアにあの姿のまま降りる事ができたのも、ラヴファロウの働きかけがあってこそだった。彼はオリフィアの民から圧倒的な人望を集めているからな」
「要は助けてもらってばかりなのね」
 ティアは呆れて空を仰いだ。
「いや、実はそれほどでもない」
「え?」
 ぱっとカーレンに視線を戻すと、彼は水平線を見つめていた。
「持ちつ持たれつというところだな。――ほら、おまえも見てみろ。見事な眺めだ」
 言われて指し示された方向を見ると、夜が明ける前の吸い込まれそうな程の蒼穹が、ガラスを通してティアの目に飛び込んできた。その蒼さに思わず息を呑む。
 壮観、というのはこの事なのかもしれない。全身が粟立ち、ティアは思わず感嘆の息を漏らした。廃墟となった教会の上で見ていた夜明けも美しかったが、この光景もまた、別の意味でティアの心を揺さぶった。
「綺麗……」
 言って目を戻すと、横でカーレンが風で乱れた髪を整えていた。
「乗船した客のほとんどは、労働ばかりに気を取られて太陽を見る事は少ないからな。その点、見張りは厳しい仕事だが、こんな眺めも見られる」
 ティアは僅かに笑って、もう一度夜明けの様子を眺めた。
「――ひょっとして、地面を歩いている方が好き?」
 そんな事を聞いたのは、飛べばよかったのに、という意味合いも込めてだった。追われている身で、追手を引き離すためなら、誰にも分からないぐらい高く飛べばよかった。それぐらい、カーレンには訳もない事だったろう。
 目線を逸らし、カーレンは瞼を伏せがちにして空を仰いだ。
「空は嫌いだ」
「どうして?」
「自由すぎて空しくなるからな。私は地を張っているほうがまだ性に合う」
 冗談交じりの返答にティアは笑みを浮かべようとして、カーレンが少し驚きを浮かべて前を見つめている事に気付いた。
 理由は、ティアにもすぐに分かった。前方の水平線に、黒々と見える長い線がある。いや、線ではないだろう。
「あれって……」
「北大陸だな。ようやく着いたか」
「うん」
 ティアは頷いた。改めて大陸を見ると、やはり大きい。
「中央大陸よりは小さいかしら?」
「いや……。むしろ、一回り大きいはずだ。ここから見えるのは一部だけだからな。直に、首を回さなければ見渡せなくなる……っと、気をつけろ」
「わ!?」
 大きく船が揺れて、ティアは慌てた。カーレンに手を伸ばして支えてもらったため、足は滑らせずにすんだ。それでもしばらく恐怖で身体を強張らせていて、たっぷり五秒数えてから、ようやく緊張を解いた。
「今の……何だったの?」
「特に危険でもない海域だ。風で波が立っていたんだろう」
 辺りを見回しながらも、甲板に腕を振って合図を送り、カーレンは言った。確かに一週間の間に、そんな事は幾度かあったとティアも思い出した。
「それにしても、今までよりやけにきつい揺れだったな……。自然ではなかったとすると、厄介かもしれない」
「どういう事?」
「海面を見てくれ。何か異常はないか?」
 ティアは言われた通りに海面を見たが、何もない。
 だが、ない、と言おうとした瞬間、カーレンの表情が緊張で強張った。
「いた。あそこだ」
「えっ?」
 思わず見回して、彼が指し示した先の海を、ティアは目を凝らして見つめた。朝日を返して金色に輝く水面の波に、一つだけ、奇妙な乱れがあった。一方向に動いている海流にほぼ垂直に、波が乱れている。しかも、かなり長い。
「海の魔物?」
「いや、違う。これは――」
 カーレンの言葉を遮るように、水面が大きく盛り上がった。膨大な量の海水を押し上げるようにして海から身体を引きずりあげたのは、白銀の巨体だった。次いで、見えたのは巨大な翼。身体からしなっていき、揺れている長い尾。最後に海から持ち上がったのは、やはり大きい頭部だった。
 銀のドラゴンだ。
 そんな存在は、ティアの知る限りでは一人しかいない。
「レダン?」
「なぜ彼がここに……? ルティス」
 カーレンが低く呟いた。するりとカーレンの足元からルティスが這い出て、青色の瞳を瞬かせた。
「結界を張ってくれ。何か様子がおかしい」
『分かりました』
 返答と同時に、薄く淡い緑色のベールが船の周りを覆った。
『それにしても妙な感じがしますね。身体が傷だらけのようですが』
 ルティスの言った通り、ドラゴンの体躯のあちこちから鱗が剥がれ落ち、血が滲みでて、海水と泡立つ白波を薄く赤色に染めていた。そして、ティアはもう一つ、カーレンが様子がおかしいと言った理由に気付いた。――鮮やかな深紫の瞳の焦点が合っていない。どころか、眼球が別々の方向を向いているような気がする。その口から低く喉を鳴らす唸りが聞こえ、ドラゴンはゆっくりと水面から空へと浮き上がった。
 甲板にいた船乗りや客達の何人かがドラゴンに気付き、悲鳴を上げた。
『マスター、彼の左肩に』
「分かっている」
 張り詰めたカーレンの呟きが聞こえた。甲板から目を逸らして隣を見やると、彼はレダンを凝視していた。
 ティアはルティスの示したレダンの左肩を見た。流れ落ちる海水の奥で、鮮やかな紅い紋様が鱗の上に浮かび上がっている。
「紅い……影と同じ色?」
 すっと冷たい物が喉を通って胃に落ち込んだ気がした。
 横でカーレンの押し殺した声が聞こえた。
「……正気か!」
『そうであればこんな所に現れる訳がないでしょう』
 違う、とカーレンは苛立った口調で吐き捨てた。
「あれは自我を奪って従属させる呪いの証だ。あんなものを継続させていれば、対象と術者の両方が精神崩壊を引き起こしかねない」
「それであんなに傷ついて……?」
 ティアが聞くと、カーレンは舌打ちをした。
「自我を保とうと足掻いたんだろう。とにかく、今のレダン・クェンシードにまともな判断力は期待しない方がいい」
『間に合わせですが、終わるまで保てるでしょうか』
 結界を示してルティスが言った。彼は空を仰ぎ見て、眉を潜めた。
「ぎりぎりの所だな」
 カーレンはマントを脱いで乱雑に丸めると、ティアの腕に押し付けた。
「おまえはルティスと待っていろ」
「でも――」
 ティアは静止の声を上げようとした。手を上げて押しとどめると、カーレンは首を振った。
「自分の力量ぐらいは把握している。すぐに戻る」
 言うなり、カーレンの姿が空気に溶けたように見えた。同時に、今まで焦点も合わず、滅茶苦茶な動きを見せていた巨大な瞳が、不気味に蠢いた。はるか上空に現れた黒点を捉えるなり、血の流れ落ちる身体を更に空へと押し上げ、上昇する。途中でレダンの撒き散らした血が巨大な雨粒のようになって降り注いだが、ルティスの結界に当たると、それにそって流れていき、しばらく空を真紅と蒼のまだらに染め上げた。
 甲板にもう一度目をやると、船の上は乗客、船員で埋め尽くされていた。全ての顔が恐怖と不安で塗りたくられ、同じものを浮かべている。
「ティアちゃん!」
 やはり異変を感じ取ったのか、マストにかけられた網を伝って、セルがティアのいる見張り台まで上ってきた。
 ティアが手を伸ばして引っ張り上げると、セルは短く礼を言って、空を見上げた。
「あれってレダンじゃないのかい?」
「ええ」
 ティアは頷き、二体のドラゴンが交差する様子を見た。身体の奥底からこちらを揺すぶる咆哮が、空を駆け巡った。ルティスがあまりに大きな咆哮にたまりかね、耳を伏せた。
『――っ、随分と荒っぽい声ですね。相当に心も体も参っているようですが』
 セルが蒼白な顔でレダンを見守っているのに気付き、ティアは首を傾げた。
「……兄さん、レダンと何かあったの?」
「え? な、何もないよ。――特には」
 尻すぼみになっていった声は、やがて彼を俯かせた。ティアがじっとそれを見つめ、ややあってセルが口を開こうとした時、一際巨大な咆哮が起こった。
「っ!?」
 これだけ大きければ波がさぞ荒れるだろうと思ったが、一向にその気配はない。ルティスの結界だと思い至って彼を見ると、黒狼は極度の集中に目を閉じていた。
『かなり衝突が激しい……守りきれるかどうか』
 押し潰されないように守るので精一杯だとルティスは告げた。
「第一位でもそれなの!?」
『私とマスターにも制約がありますよ! 彼と同じで、力を全て出しきる事ができないんです!』
 ほとんど怒鳴るようにして会話は締めくくられた。
 今までとは違う鳴き声が響き、ティアとセルははっと再び空に視線を戻した。
 カーレンの漆黒の体躯へとレダンの鋭い爪が襲いかかり、黒い鱗が幾枚かぱっと散った。それとほとんど同時に、白銀のドラゴンの腹に彼が爪を食い込ませ、喉笛に噛み付く。
「落ちる!」
 セルの悲鳴に近い叫びが上がった。
 二体のドラゴンが、互いの肉体に喰らいつき、絡み合うようにして空を横切った。海面に激突する寸前に再び離れて、また空へと舞い上がっていく。
「――見ていられないよ! 僕達がどうにかしなくちゃ」
「どうにかって、どうするつもりなのよ。相手はドラゴンよ、兄さん!」
「それでも何か方法があるはずだよ」
 セルはカーレン達を見上げた。
『……せめて、あの肩にある紋様さえ取り除く事ができれば。ひょっとしたら正気に戻るかも知れません』
 ルティスがほとんどかすれた声で言った。
『ですが深く絡みついていて、とてもではないですが……並大抵の事では除けないでしょう』
「どうすればいいの?」
 ティアがしゃがみ込むと、ルティスはティアの胸元を鼻で突いた。
『これを当てれば、あるいは』
 ルティスが示したのは、ティアがずっと首からかけていた紫水晶だった。
「……これ、ラヴファロウが私に渡した物だけど」
『本来は別の用途に使うのですが……代用品としても不足はないでしょう。どうにかしてレダンに当ててください』
「分かった。でも、当てたらどうなるんだい?」
『上手くいけば、誰も巻き込まれずに済みます』
 そう答えた時、船がまた大きく揺れた。考えられる原因はと視線をドラゴン達に戻すと、空に居たはずの彼らが居ない。唸り声も止んでいた。
 ティアはセルと顔を見合わせた。まさか、と言いたげな顔が表に出ていた。
「本当に落ちたんじゃないか!?」
 慌てて辺りの海を見渡したが、それらしきものは全く見えない。水柱さえ立っていないため、空をもう一度仰いだが、やはり居なかった。
 ティアが下を覗き込むと、甲板に出ていた者達がほっと胸を撫で下ろしている様子が見えた。
「ルティス、カーレンはどこにいるか分かるかい?」
『いえ……いきなり気配が消えましたから、何とも』
 面食らったようにルティスが答えた時、下から聞こえてくるざわめきが、安堵と困惑から、驚愕のそれに変わる気配がした。ティアが視線を戻すと、甲板の上で二人の人影が揉み合っている。
「え!?」
 目を瞠ると、ティアは慌ててほとんど滑り落ちるようにして見張り台から甲板へと降り立った。遅れてセルもぎょっとした表情で続く。正気に戻ったルティスも、かろうじて彼の影の中へ溶け込むことができた。
 群集を押しのけ、あるいは掻き分けて、騒ぎの中心へとたどり着くと、全身が海水につかったのか、水を撒き散らしながら二人の男が激しい乱闘を繰り広げていた。どうやってとめようかと兄と共に慌てた時、丁度、荒っぽい動作で一人がもう片方を投げて、ほとんど体当たりするように甲板へと押さえつけた。押さえつけられた方は、衝撃で散った銀の髪が濡れた肌や衣服に張り付いていたが、それすら構わずにもがき続けている。
「カーレン!」
 ようやく呼ぶと、彼はレダンをようやく抑え付けた。
「――ああ、おまえ達か。とにかく……、手伝ってくれないか」
 激しく暴れるレダンの上に馬乗りになり、カーレンは血の流れ出る額を手の甲で擦った。
 集まる群集は周りに少し離れて輪をつくり、何事かと見守っている。中に出て行くのは少し勇気を必要としたが、ティアはあえて頭に置かないように努力した。
 ティアはルティスに先刻言われた事を思い出して、首から半ば引きちぎるように紫水晶を取り、レダンの肩口にあてがった。
「おまえ、それは」
「――っ!」
 カーレンが驚きに軽く紅い目を瞠った時、レダンが声にならない悲鳴を上げ、カーレンを跳ね除けてうつ伏せに転がった。海水を含んで重くなった衣服をかきむしり、掠れ声で呪いの言葉を呻きと共に発した。
 すかさずセルが横からレダンに覆いかぶさって、彼の身体を固定した。
「……っ!」
 最後に大きく喘ぐと、レダンの身体からはぐったりと力が抜け、それと同時に周りもしんと静まり返った。
 痛いほどの沈黙の中で、ティアは恐る恐る、甲板の壁に持たれかかっているカーレンを見やった。
「…………よく分からないけれど、これで大丈夫だった?」
 やや唖然とした様子で頷き、カーレンはレダンに視線を落とした。セルが安堵の息をつきながら解放した彼は、どうやら意識を失っているらしい。兄が彼を仰向けにさせていると、船乗りの一人が船長らしき人物を伴ってやってきた。
 まずいと思う間もなく、ティアは思わず、座り込むカーレンの前に立った。
「――さぁて、さて」
 のんびりした声を上げ、紫色の瞳が、面白そうに細められた。船長と見られる男は、壮年のヒスラン人の男で、ややくすんだ銀色の髪を首の辺りで短く切りそろえ、前髪も全て後ろへと流している。それなりの風格とでもいえばいいのだろうか。何か気圧されるような感覚がこの男の周りには漂っていた。
「これは、どうしたものかな」
 はっとカーレンが何かに気付いたように顔を上げた。
「とにかく、おまえ達。二人とも医務室に連れて行きなさい。怪我をしているようだ。ああ、君たちは彼の連れだったね。同行してくれるかな?」
「え? あ、はい――」
 慌てて返事をすると、カーレンが船乗りの一人に支えられるようにして立ち上がった。ティアの側を通る時、彼は小さく囁きかけてきた。
「迂闊な言動を取るな。只者じゃない」
 ティアは軽く目を瞠ったが、すぐに気付かれないように小さく頷いた。
「さて、行こうか」
 呑気に言って、船長はコートを揺らしながら歩き出した。ついて来いという事なのだろう、右手を上げてくいくい前方へと揺らしたので、ティアはセルと顔を見合わせると、彼の後について歩き出した。
「……?」
 船長の足元を見つめる程度に目線を落としていたティアは、彼の歩調をどこかで見た事がある気がして、首を傾げた。
(この人の歩き方……誰かに似てる)
 少なくとも、リスコなどの港町に来ていた船の船長は、こんな規則的で、すぐに調子を変えられるような歩き方はしない。いつもひょこひょことひょうきんな歩き方をしていた。
 油断やすきを見せない、という表現がぴったり来るような足運びに不審を感じてティアがセルを振り返ると、彼も眉を寄せて、船長の足元を見ていた。
 ティアは首を戻して、船長の後姿を見つめた。肩が子気味よく、左右へ少しずつ揺れている。しまいには鼻歌も聞こえてきて、ティアはやや呆れた。
「さて、この部屋でいいかな」
 一つの船室の前で立ち止まり、船長が満足気に呟いた。悪戯っぽい笑みを浮かべ、ドアノブをひねると、無造作な足取りで敷居を踏み越えた。いや、とティアは否定した。無造作に見えても、分かる。やはり、誰かに似ているのだ。自然に身についた歩き方であったとしても、大半の船乗り達の歩き方とは明らかに違っていた。
 船室の中はまだ薄暗い。船乗りの一人が気を利かせて、獣脂の蝋燭に火を灯すと、すぐに赤々と炎が燃え上がった。肉の焦げたような臭いが鼻につく。
「ああ、すまないね。仕事に戻ってくれ」
 へい、と返事をして一礼すると、船乗りは出て行った。暖色の明かりが仄暗く照らす室内を見渡すと、船の中でも船長室にあたる場所なのか、やけに広い。中央にぽつんと丸テーブルと椅子がいくつか置いてあるだけなので、よけいに広さが際立っていた。
「あの、医務室へは……?」
「二人だけを運ばせたよ」
 ふっと溜息をついて、船長は柔和に微笑んだ。
「単刀直入というやつだ。彼らが何なのか、知っているかい?」
 ティアは背中が緊張するのを感じたが、顔には出さないようにして、首をゆっくりと傾げた。
「何の事ですか?」
「とぼけても無駄だよ。下手な芝居はしない事だ」
 笑みを浮かべたまま、船長は椅子に座り、身体を前に乗り出した。
「彼らがドラゴンだという事を知っていたね?」
「!」
 ティアは今度こそ顔を強張らせた。カーレンが彼の事を只人ではないと言った意味がようやく分かり、ちらりと兄に目をやるが、船長の低い笑い声にまた目線を戻した。
「そんなに緊張しなくとも、とって食いはしないさ」
「……彼らが何か、分かるんですか?」
 セルが一歩、ティアよりも前に出た。
「さて。分かるというよりも、知っていたと述べた方が正しいかな」
 面白がるように船長は目を細めた。
「医務室に運んだのは、なぜ」
「おや、分からなかったのかい?」
 船長は片眉を上げて聞いてきた。
「随分と濃い血の臭いだったが」
 血の臭い? ティアは息を呑んで、すぐさま医務室へ駆け込もうと身を翻した。
「おっと、話の途中で抜け出してはいけないよ」
 声がかかると、ぐっと足が床に縫い付けられたように止まり、背中が目に見えない手で引っ張られてくるりと身体が回った。悲鳴を上げたのにも関わらず、乱暴に元の場所へと突き返される。数歩よろけた後、ティアは船長を睨んだ。この力は、明らかに人間のものではない。
「あなた、何者ですか」
 震える声で問いかけると、船長は何という事もなさそうに答えた。
「船の長だよ」
「嘘」
「嘘だと思うのなら、船乗りに聞いてみるがいい。まぁ、少しばかり異能の力を持っている事は認めようか」
 船長が指を揃えた手を掲げて前に倒すと、セルが呻き声を上げて、床に縫い付けられた。
「兄さん!」
「ほら、この通り。……安心しなさい、締め上げはしない」
 彼が手を戻すと、セルの身体はあるはずの場所へと、本人の意思とは無関係にひとりでに起き上がった。先ほどのティアと同じようによろけてから、彼も船長を睨みつけた。
「っ……僕達に彼らの事を聞くなんて、一体何が目的なんだい?」
「簡単な事だよ。実に簡単な事さ」
 やはり、船長は穏やかに笑みを浮かべたままだった。ただ、レダンと同じか、それ以上に凍るような気配を感じた気がして、ティアは少し足をずらし、後ろへ下がった。
「会いたかった。ただそれだけなんだよ」


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