Dragon Eye

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第一篇 - 二章 『迷いの地』

-5- 繋がる世界

「――ルリエン・ティウス。第一位や『黒帝』の異名は虚仮おどしどころか、そのまま通用する表現だな。ルティスを甘く見た奴は、多くが半殺しになって追い返されていく程だ。その彼が、ある時野を走る狼に力を与えた。それが最初のブラルが生まれた瞬間だ」
「ちょっと待って。最初のってことは、ルティス自体は魔物のブラルじゃないという事?」
「厳密に言えば全ての始祖がそうだという話だ。”最初から在ったもの”としてある日突然現れて、自分に良く似た者たちの雌をもとにして、写し身である魔物を作った。それが今の魔物達の母となった――というのがルティスの主張だ」
 言われて、ティアはルティスの頭を後ろから見つめた。足を痛めたために、ルティスの背中にほぼ無理矢理に乗せられたのだ。セルとカーレンは辺りを警戒しながら脇を歩いていて、二人が落ち葉を蹴散らしたり、枝を踏み砕く音がやけに大きく聞こえた。木々がティア達の声を奇妙な具合に反響させており、逆にそれが静けさを強調させているのだ。
「えーと……普通の獣が魔物に変化したって事なのね?」
 そうだ、とカーレンは頷いた。
「本来はそれ自体が、ルティスのような存在以外にはありえないものだったらしい。もともと、通常は出来えないものを繰り出すのが魔術だ。今こそドラゴンである我々や人間も、本当はないものをそこに在るとして、当たり前のように使う事ができるが――これを逆手に取れば、魔物を使い魔にできるという理由が成立する」
 分からない。ティアは呻いた。魔術が絡むと、途端に複雑で難解な話になる。言葉を追う事だけで精一杯で、理解が追いつかないのだ。
「ありえないものを、ありえないもので縛りつける……そんなところかな?」
 セルが簡単に説明してくれたので、ティアは何とかカーレンの言いたい事を掴み取った。
「魔物を使い魔にするのも、魔術によるものって事なのね?」
「……助かる」
 呟くようにして言うと、カーレンは安堵の息をついた。自分でも理解しにくい話だと思っていたらしい。
「これには本人の力量も直接関係してくるからな……。特に、始祖を使い魔にするとなると、相当な魔力を持っていかれる。その魔力を持っているドラゴンでも、成し遂げた者はあまりいない」
『というか、マスター以外に前例がありません。普通ドラゴンでも始祖に会う機会など滅多にある物ではないんです』
 ルティスが補足として付け加えたが、カーレンは余計な事を、と言うような目で黒狼をねめつけた。
『目的の魔物を使い魔にした後、魔術師は大抵多大な疲労を覚えるでしょう?』
 狼は慌てて言った。
『自分の魔力で魔物に直接触れるので、意識に強烈なブレが起こる。それで精神があっという間に磨耗して、今度は体力を削り取ってしまうのです――セルさん、歩きながら毛をいじらないで下さい。さっき驚いた時、数本持っていかれたのを忘れたとは言わせませんよ』
「あ、ごめん」
 ぱっとセルがルティスの毛並みから手を離した。ルティスが言ったとおり、カーレンがルティスを開放するという方法を口にした時、セルがあまりの驚きに手に力をこめてしまい、彼の毛並みから数本引き千切ってしまったのだ。
 まだ塞がりきっていない傷口の近くが毛の根元だったため、本来の痛みに余計な苦痛が加わったらしい。痛みをこらえるためか、ルティスはうな垂れながら歩いていて、それがみじめさを一層際立たせているようだった。ティアはずっと見つめていたルティスの頭から目を逸らし、代わりに前方を見た。
「……癖なんだよ」
 セルが微笑する気配がして、ティアはリスコに居たころ、考え事をする時に兄がよく自分の髪をいじる癖があった事を思い出した。
「そういえば、そんな癖があったっけ」
「ああ、いや……まぁね」
 兄が恥ずかしそうに笑った。
『マスターも小さい頃、同じ事をしていましたよ』
「へぇ……」
 ティアが声を上げる脇で、カーレンは黙って道を確かめている。黙々と、単調な作業でもしているかのように静かになった彼からひんやりとした空気を感じ取り、そのまま静寂が訪れた。
 ますますカーレンの機嫌が悪くなったように感じるのは気のせいよね、とティアはルティスに視線で問いかけた。本人は決まりが悪そうにしながらも、認めた方がいいですよ、とでも言うような視線を送ってきた。
「カーレンも……?」
 ただ一人、セルが純粋に驚いて呟いた。
 カーレンは少し咳払いをして振り向いた。なるべく出さないようにと努力をしているようだが、嫌そうな色が顔に出ている。 「ルティス。あまり話さないでくれ」
『そういえば、マスターの威厳に関わる重要事項でしたね?』
 すっとぼけた調子でルティスが答えたので、カーレンは更に渋い顔になった。
『話がだいぶ脇に逸れましたね。何でしたっけ、マスター?』
 反論される前にと素早くルティスが話を逸らし、カーレンは渋面のままで答えた。
「魔物を使い魔にする事が難しい理由とその詳細」
 何かの教本を丸暗記でもしたのかと言いたくなるほど棒読みだった。実際、もうどうでもよくなったらしい。それでも律儀にルティスの説明に不足な点があれば付け加えてくれるので、ティアが話で混乱するという事は少なかった。
『ああ、そうでした……魔物を縛ろうとする時に精神がぶれるというのは、使い魔にする時に主人と魔物が直接、見えないもので繋がるからなんです。術中はいわば、繋がりかけの状態で魔物が抵抗するので――主人になろうとしている者の精神力が繋がりを強くしようとする。これがなくなると、今度は体力を削られるのです』
「そういえば、その見えないものを使ってルティスとカーレンは離れたところで会話ができるんだったね」
『ええ。一度繋がればこっちのもの、という事ですね。そして、縛りつける代わりに、主人の方も従う魔物に何かを与えます。これは相手が変に強欲な魔物でもなければ、何でもいいし、一つだけでも、いくつあってもいい』
「へぇ……カーレンは何をルティスにあげたの?」
 ティアが声をかけると、カーレンはちらりとこちらを見た。すぐに視線を戻すと、目と鼻の先に迫っていた茂みを避けてこちらに近づいてきた。
『契約したばかりの頃のマスターにとって、あるかないかで生死の分かれ目はおろか、自分に掴み取れる道が大きく変わるほど重要なものでしたが……それをマスターは惜しむ事無く、私に分け与えてくれました』
 ルティスの声が暗く沈んだ事に不安を覚え、ティアは狼のすぐ脇に来たカーレンを見つめた。彼の紅い瞳はよほど強い感情を持たなければ、何かを語る事がない。この時も、静かな色がいつものように浮かんでいた。
 聞き耳を立てる者はこの森にいないはずなのに、カーレンはティアとセルにしか聞こえない程の声で、囁くように告げた。
「いつか、手に入れるはずだったもの。必ずくるはずの未来。それが、始祖を使い魔にした代償」
 掠れた声が、不思議な響きを持ってティアの耳の奥に残った。カーレンが渡したものを、持っているはずのものを、今も持っていたら? そんな疑問が生まれた時、問いは無意識に口を突いて外に出ていた。
「――その未来をもし手に入れていたら、カーレンはどうなっていたの?」
 虚を突かれたらしい。カーレンがぽかんと口を開けて、真紅の瞳で驚いたようにティアを見つめていた。やがて彼はまたいつもの物静かな面持ちに戻ると、呟いた。
「さぁな」
 ふわりと巨木の根がつくる段差を飛び越えると――まるで幽鬼のようだとティアは思った――、カーレンは振り向いた。その口元には、笑みが浮かんでいた。
「だが、どの道を選んでも、思う事は同じだったろう」
 色のない、純粋な笑みだった。
 どこかでカーレンの浮かべた笑みと全く同じものを見た気がして、ティアはふっと寒気を覚えた。理性という薄氷の上に立ち、今にも獣の眠る狂気という水の中に沈んでいきそうな様を思わせる――そんな人物の名前を、ティアは舌の上から喉の奥へ、無理に押し込めた。

(レダン……クェンシード)

 冷気が胸を通り過ぎて胃に落ちていく。うっすらと、触れれば肌を刺すほど冷たそうな笑みを浮かべる青年の姿が、今のカーレンの姿と重なった気がした。これは何なのだろう、とティアは胸を押さえた。恐ろしいだけではない。何か、触れてはならないものに、手を出してしまった気がする。同時に、触れなくてはならないと強く思った。
 でも、何故? 何のために? 彼が自分と関係があるかもしれないから? けれども、そうと決まった訳じゃない。
 ぐるぐると考えを巡らせているうちに、不意に薄暗かった周囲が明るくなってきた事に気付き、ティアは顔を上げた。
「あ……」
「!」
「あれ?」
 無意識に漏らした声につられて、カーレンが息を呑む気配がした。セルもきょとんとしたような表情を見せ、ティアを見た。
 森を抜けたと理解するのに、数秒かかった。いつの間にそんな高さを上っていたのか、と思うほどの断崖に、ティア達は出てきていた。脇を見れば、長い年月の間に旅人達によって踏み固められた下り道がある。
「カーレン。森って確か、抜けるのに数日はかかるって言ってたわよね……?」
 そっと聞くと、カーレンは頷こうとしたが、途中で思い直したのか、首をゆっくり左右に振った。
「いや。たまに、気に入った旅人のために森が空間を繋げるという話を聞いた事がある。見るのは初めてだが……」
 言って、ティアを見た。
「おまえ、ひょっとしてシリエルに気に入られたんじゃないのか?」
「……そうなの?」
 全く思い当たる節が見当たらない気がする。ルティスの事を言ったから、これはその口止めという事だろうか? それにしては間接的すぎて、彼女の性格に沿わない。
『シリエルはそんな事しませんよ』
 ティアも少し考えてから、頷いた。
「しないと思う」
 ティアが言った時、カーレンは何かに気付いたように、森を振り返った。
『マスター……?』
「カーレン?」
 どうしたのだろう、とセルはルティスを困惑した目で見つめたが、答えは本人から返ってきた。何があったとも言わず、ただ提案をしただけだったが。
「もう少し進んだ方がいい。この先に川があるのが見えるだろう」
 ティアがもう一度崖からの景色に目をやると、確かに遠くに川が見えた。夕焼けが川を黄金色に染め上げている。後ろで、カーレンが下り道を目指し始める気配がした。
「急げば、日が落ちる前には辿り付ける」
「……でも、もう夕方だよ? 僕もティアちゃんもへとへとなんだけど」
「大丈夫だ」
 さらりとカーレンが告げたので、兄も流石にむっとしたようだった。呆れたような声が背中から聞こえた。
「どこからそんな根拠が出てくるのさ」
『空間が次々に繋がっているんですよ』
 今まで沈黙していたルティスが声を上げた。思わず見下ろすと、ルティスは森を睨みつけていた。何かを威嚇するように。
『今なら数分もしないうちに川の側にたどり着けます。ほら、マスターの姿がもうあんな所にある』
「え?」
 セルが慌ててカーレンを見ると、下り道の遥か前方に姿があった。と、その姿が陽炎のように揺らぎ、ふっと掻き消えて、また更に下った場所に出現した。
『行きますよ』
「うわっ」
 呆然としているセルをひょいと咥えて背中に放り投げると、ティアの後ろに兄は落ちてきた。彼が体制を整える間もなくルティスが走り出すと、下り道で次々に周囲の空気が妙な形に歪むのが肌で感じ取れた。ティアは森を振り返ると、目に意識を集中させたが、やはり何も感じなかった。

□■□■□

「……横の奴に感謝しろよ、カーレン」
 こちらを振り向くカーレンの姿を見つめながら、森の中でロヴェはにやりと笑って呟いた。エリックの情けない顔を思い出すと、まだ笑いが込み上げてくる。
「追手はもうしばらく足止めをくらわせておく。こんな手助け、あの悪戯がなかったら俺は滅多にやらないんだからな」
 何も気付いていない孤児達は、カーレンを不思議そうな眼差しで見つめている。二人の姿を認めて、ロヴェは目を細めた。
「まさか、こんなところで会えるとは思いもしなかったな。生きているとは聞いていたが……本当に、どちらもそっくりだ」
 感心して呟いた時、従者の黒狼が同じようにロヴェを睨んでいた事に気付いた。頭の鈍痛と共に、眼球から声が直接押し入ってきて、一瞬で彼の思考に達した。
 ―― 何が目的ですか ――
 ドラゴンに対して目線だけで問いかけられるとは、大した力の持ち主だ。ロヴェは肩をすくめた。
「別に」
 そっぽを向いてやるつもりだったが、それだけでは面白くないな、と思った。
「気まぐれだよ。ついでに教えてやる。塔の主が今回の件で動いたそうだ」
 ―― ………… ――
 ルリエン・ティウスは疑わしげな視線を寄越しながら、孤児達を背中に乗せて走り去った。
「おっと」
 孤児の少女が振り向きかけたために、ロヴェは慌てて姿と気配を隠した。彼女に見つかれば、エリシアに殺される事はまず間違いない。身の安全が大事だ。
 頭の中で強くイメージを思い浮かべると、ロヴェはカーレン達に行ったのと同じ要領で目の前と別の空間を繋げ、一歩踏み出した。
 空気が完全に変わった事を確かめるのは、ただ安全を確認するための方法でしかなかった。気付いて、ロヴェは自分の律儀さに溜息をついた。注意して全身で世界を感じていれば、周りをとりまく陰鬱な空気が、この場に風が来なくなってからどれほどの歳月が経っているのかを主張していた。
「さあて、と」
 気だるげに呟いて、ロヴェは視線を巡らせた。紫色の鋭い目と、自分の琥珀の目がかち合うのが暗闇の中でも分かった。石造りの地下室。それは、今、ロヴェの目の前にいる『彼』の始まりの場所でもあったと聞くが……。こんな所に一人で幽閉されていて、よく正気を保てたものだ。
「九年ぶりに戻ってきた感想を聞かせてもらおうか。外の世界はどうだった? ――レダン・クェンシード」
 じゃらり、と鎖の音が暗闇の中で響いた。険悪な声が、闇の向こうから飛んでくる。
『ああ。良い気分だったよ。おかげで今の機嫌は最高だ』
「それは良かった」
 血塗れになった石畳を踏みしめ、ロヴェは無表情にレダンを見下ろした。明かりのない中で、生気のない瞳が自分を見返してくる。
 ――あいつと自分もこんな風に対峙していたのだろうか。思って、ロヴェは不愉快さに眉を潜めた。
 背後の松明を意識すると、炎が冷たい部屋の中を照らし出した。紅いロヴェの影が、同じ色の影を持つ、力なく横たわるレダンの体にかかる。
「では、尋問を始めようか」
 あくまで淡々とした口調での言葉を合図に、後ろに控えていた魔術師達が、思い思いに杖を構え、白銀のドラゴンを囲む輪を狭めていった。
 彼らの影を見つめて、ロヴェは目を伏せた。
 炎がつくった魔術師達の影は、黒だった。

 程なくして、くぐもった悲鳴を耳が捉えた。苦痛に喘ぎ、ロヴェを口汚く罵倒する声が聞こえたかと思えば、魔術師がレダンの腹を容赦なく蹴って黙らせた。
「さて……おまえ、ドラゴンアイを渡した奴、覚えているか?」
「さぁな」
 レダンがせせら笑うと、鋭い音が空を切り、一人の持つ鞭が彼の背中を叩いた。息を詰まらせ、休む暇もなく他の男に転がされる。無様な姿を晒す事に、特に屈辱を覚えている様子はないようだった。事前にこのドラゴンがかつて受けた扱いは聞いていたために、腹が立つという事はなかったが……これは、長期戦になりそうだ。
 目を細めながらひとしきり男達がレダンを痛めつけるのを傍観した後、ロヴェは止め、と指示を出した。レダンは胃液を石の上に吐き出した。咳き込み、酸素を求めて喘ぐ口に、懐から取り出した布を当ててさるぐつわを噛ませた。
「まさか舌を噛み切ったぐらいで死ぬような生き物じゃないのは、俺がよぉく知ってるけどな」
 念のためだ。そう無表情のまま凄むと、レダンは蔑むような目でロヴェを見上げた。挑戦的だな、と片眉を上げると、ロヴェはレダンの髪を掴み、無理矢理に顎を上げさせた。
「この場でおまえの手足を引きちぎったら、どんな声を上げるんだろうな?」
「…………!」
 何を言っているか、大体声の色から感じ取れた。嗜虐嗜好かと毒づいたようだ。奥歯を噛み締める音を聞き、ロヴェは満足して頷いた。
「そうか」
 立ち上がり、レダンの右腕を踏みつけた。洒落にならないほど痛々しく響く音に、思わずフードを被った魔術師達は驚愕に顔を引きつらせた。痛みを与えるのには慣れていても、受けるのには慣れていない証拠だ。声にならない悲鳴を上げ、レダンは荒い息を吐き出し、言葉にならない罵声を上げた。
「冗談だ。ほら、おまえの腕を砕くだけで済ませてやったぞ? 左もやってやろうか」
 続いて、同じように左腕を踏み砕くと、今度は声を出さないようにする方法でも学習したのか、悲鳴を上げない。ただ、体がショックに跳ねた。参ったな、とロヴェは舌で唇を湿らせた。かなり優しくしてやっているのに、予想以上の耐久力だ。おかしな形に捻じ曲がったまま再生し始めた右腕を再び砕きなおし、ロヴェはレダンの背中の上に座った。
「……痛いか?」
 痛いに決まっているだろうとでも言いたげな目をして、ロヴェをレダンが睨んだ。顔面を蹴り飛ばしてやると、ロヴェは首を振った。
「鼻血で息を詰まらせるなよ?」
 今度は頭ごと踏みつけた。石畳がややへこんで、骨が軋むような音がした。魔術師達は、ロヴェは今度は何を仕出かすかとびくびく怯えている。
「おまえ達のやり方ははっきり言ってぬるすぎる。やるならこれぐらいやっとけよ」
 剣を抜いて、レダンの左の肩に深々と突き刺す。腕が電撃に打たれたように何度も痙攣し、別の生物かと思うほど指先が不気味に蠢いた。
「心配するな。人間なら普通に死ぬが、こいつはドラゴン。死にはしないよ」
 代表格の男に囁きかけると、ロヴェは地下室を後にしようとした。
「ああ、そうだ。レダン。聞きたい事は山ほどあるんだが……これはそのうちの一つだ」
 白熱する激痛に苛まれ、叫びのた打ち回るのを必死に堪えている彼に、ロヴェは問いかけた。
「セル・ティメルク――何で彼はあそこにいる?」
 ロヴェはわざと、くす、と含み笑いをしてみせた。何かを感じて警戒の色を滲ませたレダンは、ロヴェが次に告げた言葉で、全身を緊張させた。実際は言葉ではない。呪いを動かす音の羅列だ。
 面白いほど急激に血相を変え、レダンは肩が傷つくのも構わずにしゃにむに身をよじり、さるぐつわをずらす事に成功した。
「よせ! また俺に"あれ"をさせる気なのか……!」
「おまえがやりたくないんだったら、大丈夫だ、無理矢理にでもやらせてやる」
 ロヴェはにやりと笑った。
「まずは手始めに、リスコでも燃やしてみようか?」
「……ッ、ロヴェ・ラリアン!」
 怒髪天に達したか、言うべき言葉も見つからないのか、レダンは凄絶な眼光でロヴェを射抜いた。怖い怖い、と肩をすくめ、ロヴェはレダンを視線で舐めまわした。
「おまえの制約は外れない。その紅い影が、俺とおまえを繋いでいる。他の奴らもだ。おまえが全て話す気になるまでに、いくつ街が燃えるかな?」
「そんなにまでして、自分の首を絞めるような理由がどこにある!?」
 レダンが怒鳴ると、ロヴェは一瞬胸に湧き上がった不快感に眉を潜めた。
「くははっ」
 が、わざと明るい声で笑い、レダンを嘲った。
「俺の望みは、塔の方の望みを叶える事。だって、仕方がないだろ? 俺はもう操り人形になってしまってるんだ。糸に身体を操られるしかないのさ。必要ないと彼が仰られるまでね」
 言って、ロヴェは己の首に手を垂直に当て、刃で切るような仕草を見せた。
 どこか愕然とした色を滲ませながらも、レダンは自分の肩に突き刺さる剣に頬を寄せた。切り傷がつき、さっと紅い筋が流れ落ちた。その痛みが、レダンを強い呪いの束縛から引き戻したようだと気付き、ロヴェは彼を挑発した。
「いつまで耐えられるかな……その頬が細切れに引き裂かれるまでか?」
 ロヴェは笑いながら、今度こそ地下室の階段を上っていった。レダンが怒りに暴れ、鎖が鳴る音は、彼が階段を上がりきるまで追いかけてきていた。

「っ」
 暗闇に慣れた目を、夕暮れの光がまともに刺し、ロヴェは僅かに息を詰まらせて顔を背けた。しばらくして視界が明るさに馴染んでくると、ロヴェは自分の目の前にある館を見上げた。
 館は一階しかない。そればかりか非常に小さく、隠れ家を思わせるほどひっそりと佇んでいた。豪奢な細工も何もなく、ただ質素な造りのもので、唯一、館の主の身分を察する事ができるのは、正面に作られた白い石のテラスしかなかった。手すりから支柱まで、細かい彫刻などが施され、高い技術で作られたと一目で分かるものだ。これだけのものを彫るために支払う金貨は、少なくとも並みの貴族では払いきれないものだった。
 分かり難い場所に贅沢をするのが本物だとかどうとか、主の価値観を遥か昔に聞いた事があったが、ロヴェはそれを未だに理解できずにいる。というより、もう既に諦めていた。
 溜息をついて夕日に向き直れば、視界を埋め尽くすように花が咲いている。日の光で茜色に染まりながら白い花弁を散らす花の名をロヴェは知らなかったが、素直に美しいとは思った。同時に、これほど幻想的な光景を愛するという主に呆れもしたが。
 背後の館から、それほど装飾もない扉がゆっくりと開き、軋みを上げる音が聞こえた。ロヴェはその場で低頭してから振り向き、口を開いた。許しがなければ主の姿を見る事は叶わない。いつしか、二人の間で成立していた暗黙の了解だった。
「主。ただいま戻りました」
「……誰もいないのは知っているだろう。崩せ、ロヴェ」
 ロヴェは鼻で笑った。仰々しい真似をするのは、声の主以外の者がその場に立ち合っている時だけだ。二人だけの場合、その制限は外される。
「――あなたが言うのなら、遠慮なく」
 ゆっくりと館の方を向くと、扉の前に一人の男が立っていた。若くも見えれば老けても見える、年齢は分からないものの、美しいと言える顔立ちだった。純粋に微笑めば……ひょっとしたら、ドラゴンの雌でも引っ掛けられるかもしれない、とロヴェは無礼を承知で思った。
「で、その格好は何の冗談だ?」
 少なからず怖気を覚えてロヴェが呟くと、男が苦笑した。
「私には似合わないかな?」
 そう言って男が首を傾げると、闇色をした髪がさらりと揺れた。数刻前に見た時は伸び放題だったというのに、なぜかきっちりと整えられていた。しかも、下着の他には、深海の色をしたぶかぶかのローブしか身に付けていないときている。痩せた白い胸元が、乱雑に前で結ばれたローブの襟元から無造作に覗いていた。扇情的と思う前に、まず同じ男であるロヴェには不快以外の何者でもない。
「……動く、と彼に伝えたか?」
「心配はいらない。それで、あなたはどうするんだ」
 ロヴェは目を細めて男を見た。見つめられている本人は、考え込むような表情で、ゆっくりと紫色の鮮やかな瞳を瞬かせた。口元には、かすかに微笑が浮かんでいる。
「近いうち、会いに行くよ。誰か、おまえから使いをやってくれないか? 長い間接してきた者がいいね。――そうだな、」
 男は笑みを消して、今まさに沈もうとしている太陽をちらりと見た後、思いついたように手を打ち鳴らした。
「彼で、どうだ?」
 男の言葉と共に、ロヴェの右側に人の気配が現れた。ゆっくりとそちらを見やると、小柄な少年の姿が目に入った。
「……この子供は? 俺とあなたの力に折れないほどの精神を持っているとは思えない」
 違うよ、と男は苦笑して首を振った。
「他の子供達でも試したけれど、この子だけは特別の中の特別だった。いろいろ体を調べていたら、面白い物が出てきてね――」
 男の長々と続く説明を聞き流し、ロヴェが少年に近づくと、彼は怯えている訳ではなかったが、体を硬くして、ぺこりと頭を下げた。
 ……がちがちに緊張している。そう見て取ると、ロヴェは彼の頭に手を置いて、短い焦げ茶の毛を掻きまわしてやった。安心させるのは得意ではないが、なるべく優しげな笑みを作ると、おずおずと笑いかけた。
「俺と、塔の方からの頼みだ。聞いてくれるか?」
 こくんと頭を振り、少年は音も立てずに膝を折り、その場に平伏した。
 塔の方と呼ばれている男は、すっと左手を高く差し伸べた。
「名乗りなさい。そして、この戦いが終わる頃には、何よりも強い絆を得られるはずだ」
「――承りました」
 つたない口調だったが、少年の喉が滑らかで高い声を出した。
 幼い声はそよ風に揺れ、花の擦れあう音の中を響き渡った。


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