Dragon Eye

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第一篇 - 二章 『迷いの地』

-3- 銀の欠片

『遅い』
 いつもなら丁寧な口調で話すはずの彼が、それすら無視してカーレンに話しかけていた。よほど怒っていたらしい。
 相当量の怨念が篭もった言葉が発せられたと同時に、思わず苦笑していたカーレンの頬が小さな音を立てて弾け、そこから一筋の血が流れ出た。傷はすぐに塞がったが、それだけでは終わらない。立て続けにあちこちで小さな皮膚の爆発が起こった。腕や首筋から足首にまで、至る所から血の花が小さく飛び散った。
 カーレンは自身に突然起こった異変に特に慌てる事もなく、笑みを浮かべたまま、始祖はこれだから手に負えないと心中でぼやいた。怒り心頭になった強大な魔物が無意識に辺りへとまき散らす魔力は、そのまま回りにいる者を攻撃する力さえ帯びる。自分はあまり影響は受けないが、ここにティアやセルが居たら、おそらくものの数秒で血液が大量に噴き出すような大怪我を負っていた事だろう。
『今まで何をぐずぐずとしていた』
「すまない」
 苛立つ声に短く謝罪し、カーレンはルティスの腹の方に回り込み、深く突き立った魔術の矢を抜き取った。しばらくそれを眺めていたが、迷うことなくカーレンはルティスの血に染まり、半ば固まっている体毛の中へと顔を埋めた。傷口から血を吸いだすと、口の中に鋭い刺激臭が広がった。
 やはり毒矢だった。血を吐き捨てた後も、何度かカーレンは同じ作業を繰り返し、最後に木の水筒から水を一口含んですすぎ、試しに草の上にかけた。草の上にかかった水は、嫌な音を立てながら葉を溶かした。毒入りの唾など飲む気は起きないが、飲まなくて正解だったようだ。こんなものを飲めば、いくら人間でなくても、喉がやられる。
「よく意識を失わずにいたな」
『ドラゴンの血のおかげだ』
 顔を拭いながらカーレンが言うと、ルティスはいつも以上に素っ気無く返した。
『今朝、貴方の血を舐め取っていただろう。あれが毒の効力を弱めてくれた』
 なるほど、とカーレンは頷いた。それよりも、とルティスがじろりとカーレンをねめつけた。
『二人は』
 カーレンは首を振った。
「まだ合流できていない。これから探しに行く所だ」
 言って、側の木の枝へと跳躍し、カーレンは辺りを見回しながら耳を澄ませた。ここからは少し遠いが、何か争うような声が聞こえる。今この場に留まっていても見つかるだけだろう。判断して、カーレンはルティスに呼びかけた。
「毒の効果は分かるか?」
『……口にした貴方が一番良く知っているのではないのですか』
 元の口調に戻ったルティスが、拗ねたように尻尾を振った。怒りはまだ収まっていないらしいが、少なくとも傷つけるほど攻撃的な魔力の放出はやめたらしい。緑の光が少し薄まっていた。
『含んだだけで卒倒する毒もあるというのに、またずいぶんと危険な真似をしてくれましたね。おまけに顔が血だらけになっているじゃないですか』
「半分はおまえのせいだぞ」
 からかって言うと、カーレンはふと、笑みに緩んでいた顔を引き締めた。
「そうだな……致死性の毒ではない。魔術では即効性のものがほとんどだ。こんなにもつ毒は麻痺だろう」
 そこでカーレンが口を噤み、沈黙がルティスとの間の空気を重苦しいものに変えた。気がしっかりしているかどうかの簡単な会話と確認だったが、ルティスはカーレンの呂律がやや怪しくなっている事を見抜いて、緑色になっている目を細めた。
『……マスター、もしや、舌が痺れているのでは?』
 カーレンは首を振っただけで、答えなかった。代わりに、行くぞ、と小さく声をかけ、歩き出した。
 背後では、ルティスがのっそりと巨体を起こす気配がした。振り向く事はなかったが、カーレンはそのまま、少し歩調を速めた。
 ルティスはやはり鋭いな、とカーレンは改めて思う。実際、彼の指摘した通り、毒によって舌の感覚が薄れ始めていた。

□■□■□

『一体何故貴様のような者がここにいるのだ、人間』
「どうしてって言われても……」
 ティアは巨大なニーフェ、シリエル・ファオライを前にして困惑した。といっても、本人の背に乗っているために、前というよりは後ろかもしれない。
 シリエルの腹がクッションとなって地面に叩きつけられるのを免れたものの、足をひねって動けなくなったティアを見て何を思ったのか。無言で自分を背中に乗せて歩き出した彼女(?)は、案外面倒見がいいようだった。
『貴様は確かもう一人の人間と逃げたはずだろう。あの愚かなルリエンが逃がした』
「さっきも言ったけど、ドラゴン達が降ってきて、私は兄さんに突き飛ばされた。今度は風に巻き上げられてあなたのそばに落ちたのよ」
 苛々とティアは先ほどの説明をもう一度繰り返した。
 ふんとシリエルは鼻を鳴らした。
『しかも、何故私がこのような人間の連れを探さねばならぬ。ルリエン・ティウスには第一位の座は務まる訳がなかろうに』
「でも、あなたが実質一位なんでしょ?」
『そうだ。だが、第二位。第一位の座を得なければ、私は認められる事はない』
 話が微妙に噛み合っていない。自分の事ばかり話しているシリエルは、どうにも虫の居所が悪いようだった。
『この森は私の支配する森。通り抜けるならまだしも、この場で血を流し、そればかりか木を切り倒した。通常なら万死に値する所だがな。この荒野に残っている命全てをここに集め、私が二百年もかけて作り上げた森だというのに。実に嘆かわしい』
 ぶつぶつと呟いている内容を聞くには、どうもこの辺りの大地が妙なのは、彼女が命の力とやらを全て集めてこの森に注いでいたからのようだった。
 それよりも。
 ティアはシリエルの脇に目をやった。途端に、ぎろりと睨む視線が一気に三十ほど。思わずすくみ上がるのに気付いたのか、シリエルは淡白に言った。
『ドラゴンの寵姫である貴様に手出しはさせない。全て私の配下の者だから、恐怖する必要はない』
「わ、私は寵姫なんかじゃないけど」
『ならば何故ドラゴンアイを持っている。それはドラゴンが寵愛を注ぐ者にしか与えぬ貴重で強大な力だ』
「だって、私も何で持っているのか分からないのよ。記憶がないもの」
 ぴた、とシリエルの足が止まった。
『記憶がない? 私には貴様の中に影が見えるが』
「何の影よ」
 むっとティアは聞き返した。
『いや……もしや、引きずられたか、暴走したか。どちらかかもしれん』
「だから、何の話?」
 ティアがしつこく聞き直すと、シリエルは歩みを再開した。
『まぁ、自覚がないのならば仕方がない』
「ちょっと!」
 限界だ。ティアは身を伸ばして、シリエルのつんと立った耳に向かって怒鳴った。
『いきなり何をする』
「あなたが人の話を聞かないからでしょうが!」
『人間の話など聞いて何になるのだ。私は数百年を生きている故、あまり参考にはならない』
「じゃあ参考として聞いてちょうだい。あなたはもうちょっと、いろんな事に耳を傾けた方がいいわよ」
 怒り任せに言うと、何故かシリエルから反論の声は上がらなかった。代わりに、
『人間よ、少し聞きたいのだが』
「いい加減名前で呼んで欲しいんだけど。私の名前はティアよ」
『また妙な事を……。まぁいい。人間、これが何か分かるか』
 どうも呼び方を改めてはくれないらしい。ティアは眉を寄せながらも、身を乗り出してシリエルの示している物を見ると、目を丸くした。
「え? 何、これ」
『それが分からぬから聞いているのだ』
 シリエルが呆れて返した。
 ティアはシリエルの背から滑り降り、痛む足を引きずりながらも、それを拾い上げた。見たところ丸みを帯びた銀色の薄い物体で、不規則な形やヒビが入っている所からしても、どうも何かの破片のようだ。
 ティアがシリエルを振り返ると、彼女は数歩、後退していた。
「……シリエル?」
『それを持って近づかないでくれ。……嫌なものではないが、居辛い』
 ティアは首を傾げたが、ふと思いついて、ドラゴンアイを使ってみた。カーレンが言うには、もっといろいろな事象がこの力だけで引き起こせるのだそうだが……、聞いてみる限りでは、平和な旅を送るならば、あまり使う場面が少なそうなものばかりだった。その中で特に頻繁に使っていた、他人には見えない『力やその流れ』を読み取る能力は、どうも基本的なものだったらしい。最後に使ったのはリスコだったため、随分と久しぶりの感覚だが、ひょっとしてこの破片についても何か分からないだろうかと思ったのだ。
 だが、何か分かると言う以前に、実は破片から常に大量に漏れていたのだとすぐ知れた。ティアの身体は一瞬、何が起こったのか分からず、硬直した。
「え?」
 呟いた瞬間に、自分が今までこれを平気で持っていたのが信じられない、そんな事がティアの頭をかすめた。
 これは――漏れるどころではない。破片から溢れ出す力が、逆にこちらを積極的に威圧している気配すら感じる。魔物であるシリエルが後ずさる理由が分かって、ティアは震える手で破片を持ち直した。そうでなければ、落としてしまいそうだった。
「何……これ。持ってるだけで、こんなに怖いなんて」
 呟いて、ティアは破片をじっと見つめた。この怖さは、どこかで感じた事がある。そんなに遠くない日に、確かに感じた事があったはずだ。
 まるで、冬のように冷たい力と恐怖。思い浮かべた言葉から連想する人物をようやく見つけて、ティアは納得した。レダンの力の欠片だろう。となれば、これが何かは想像がしやくすくなる。
「……ドラゴンの鱗かしら?」
『いや、違う。確かに鱗も強力だが、生半可な衝撃で割れるものではない。それに、それからはもっと強い力を感じる』  ますます訳が分からなくなり、ティアは困惑した。鱗ではない。では何なのだろうか。
 途方にくれかけた時、シリエルが自然と呟いた。
『……もしかすると?』
「何? 言って」
『いや、思い違いやも』
「いいから言って」
 ティアが強く言うと、シリエルはティアの目をじっと見た。
『……なるほど、確かに強いドラゴンアイだ。それで恐怖は感じても、押し潰されないのか』
 独白してから、シリエルは遠くを見やった。その様子を見たティアは、シリエルが本当はこんな性格ではないのではという疑念が出るのを抑えられなかった。目がどこまでも澄んでいたのだ。
『ドラゴンはどうして生まれるか、知っているか?』
 唐突な質問にティアは眉を潜めたが、知識としてなら誰でも知っていそうなもので、答えるのは簡単だった。
「それは……卵から、じゃないの?」
 自信はないが――ティアがそう答えると、シリエルはあらぬ方向からこちらに目線を戻した。
『そうだ。だが、卵はどうやってできるのかは知るまい。……以前、ドラゴンの卵は、何も直接親が産むだけではなく、親が強大な力を放出した時に生まれ出でる事もあるのだと聞いた。その場合、卵は親をも上回るドラゴンを宿す事があるらしい』
 卵と聞いて、ティアはシリエルの言わんとする所がぼんやりと分かった。
「これは卵の欠片かもしれないって事?」
 シリエルは頷いた。
『ドラゴンが生まれるまで、その身を守り続ける殻だ。おそらくその欠片だけで、魔術師などにとっては相当良質の道具となるだろう。悪用されるのを恐れて、普通はドラゴン自らの手で燃やされるものだというが……何らかの理由で燃やす事ができなかったのかもしれぬ』
 言われて、ティアは手の平の大きさにすっぽりと収まる破片を空にかざした。今は意識せずともドラゴンアイを簡単に抑えられる。恐怖は消えたものの、感じる感覚が鋭敏にでもなっているのか、まだ抜け切らない部分もある。それでも、破片はただ鈍く銀に光るだけだった。
「何でこんな所に卵の欠片なんか……」
 言いかけて、ティアは何かとっかかりを覚えた。シリエルが言った事に関係しているような気がして、もう一度先ほど言われた事を反芻してみる。
 魔術師にとっては相当良質の道具。という事は、まだたくさんの卵の破片があって、それが人間の手で悪用されているのではないだろうか。もしそうであれば、追手の中に魔術師がいたとしてもおかしくはないはずだ。
「……兄さんとカーレンを早く探さなくちゃ。ひょっとしたらあなたの言う通りかも知れない」
『待て。それを持ったまま私に近づくなと言ったろうに』
 非難の色を滲ませて嫌がるシリエルに乗りながら、ティアは軽く彼女を刺激する条件を提示した。
「我慢して。上手くいけばルティスと再戦できるわよ」
『む……だが、持って行ってどうするつもりなのだ』
「ひょっとしたら、何か分かるかもしれない。だからもうちょっと頑張って」
 シリエルの背を軽く叩くと、ティアは破片を鞄に入れた後、小さく彼女に呼びかけた。
「……ね、シリエル」
『――気安く呼ぶな』
 ごめん、と謝ってから、ティアは歩き出した彼女を見た。
 どうもカーレンと旅をするようになってから、何があってもあまり驚かなくなった気がする。ドラゴン自体が人を超えているからだろうか。理由はどうあれ、こうして落ち着いていられる事で見えてくる事もあった。
「ルティスが気になる?」
 面白いほど急激な反応が起こった。ぴたりと上げかけた前足を止め、必死の形相でシリエルは振り向いた。
『断じて違う! あのような愚か者など誰が気にするものか!』
「……気にしてるんだ」
 聞こえないように呟いたつもりだったが、シリエルにはしっかりと聞き取れていたらしい。さらに必死になってまくし立てようとしたが、ティアはそれを右から左に流しながら目線を上に移した。空と木の枝と緑の葉があるだけだ。後は何もない。
「兄さん……、カーレンも無事かしら」
『貴様が人の話を一番聞いていないだろう!』
「そう?」
『もう少し自覚を持て、馬鹿者!』
 よくは分からないが頷いた後、ティアは目線を戻し、そこで探していた人物が居るのを目にとめた。
「兄さん!?」
 素っ頓狂な声を上げると、セルはこちらに気付いたらしい。シリエルが一緒にいるのを見てぎょっとした顔を見せた。 「ティアちゃん、探したよ!」
 少し前方から木々を渡ってやってきたセルは、軽やかな動きでこちらに近づき、ティアの傍らで立ち止まった。
「もうすぐ厄介な奴らがくるよ。カーレンの追手だ」
「えっ?」
 ティアが目を瞠ると、木々の向こうから怒号のような声が聞こえた。まだ遠くてはっきりとは聞き取れないが、近づいてくるようだ。
『丁度良い。私は奴らに森を荒らしてくれた事への礼をしてやらねばならない。人間、貴様らは先に行け』
「……ルティスはいいの?」
 まだ先の一件を気にしていたらしく、シリエルは一瞬だけ毛を逆立てた。
『ルリエン・ティウスとは、おまえ達が道を急がなければ、また会う事もあるだろう。今は行け』
 ティアは頷き、彼女の背中から木の枝へと飛び移った。セルがティアの足首に目をとめ、心配気に目を細めた。
「足は大丈夫?」
「たぶん、何とかなると思う」
 肩をすくめて答えると、ティアは一度だけ振り向いた。シリエルは追手に向かって、大量の光の矢を浴びせている所だった。肝心の森の木々はロヴェとレダンが切り倒していたので、追手からすれば完全なとばっちりのような気もするが……ここは彼女に任せた方が良いだろう。
「私達はどこまで行くの?」
 セルに聞くと、すぐに答えは返ってきた。
「森の中心にある大木まで。カーレンやルティスが何か暴れているみたいだし、あそこから覗けば合流する場所の方向が分かるよ」
「分かったわ」
 頷き、ティアは首を傾げて見せた。
「どうして暴れているって分かったの?」
「うん……ちょっとね」
 セルが歯切れ悪く答えた。
「実は、途中ですれ違ったんだ」
「え? じゃ、どうして」
 声をかけて一緒に来なかったのか、と聞きかけた時、背後で爆音が轟いた。驚きに振り返る間もなく、セルが咄嗟にティアの腕を掴んで一緒に幹の影に隠れた直後、肌で感じる事ができるほど強烈な魔力の奔流がすぐ横を通り過ぎて行った。
「……、――」
 あまりにも急な事態に呆然とするティアに、ここで待つようにと手まねで指示し、そっとセルが様子を窺った。
 しばらくして彼はさっと振り返ると、引きつった表情を顔に浮かべて言った。
「と、とりあえず、さっさとここから離れよう」
「?」
 訳が分からないままちらりとティアが後ろを振り返ると、シリエルが立っている場所を中心に、木々は無傷のままに大きく地面が抉れていた。一方、追手らしき人影は、先ほどよりも後方に呆然と立っている。自分達が無事だった事が分からないといった顔が遠目にも分かり、セルが顔を引きつらせた理由が何となく分かった気がした。
 顔を前に戻すと、ティアはセルの背中について、なるべく木々が二人の影に重なるようにと意識しながら進み出した。
「――ちょっと、カーレンがね」
 セルが前を向いたまま言ったので、ティアはさっき自分が言いかけた質問の答えだと理解して、そのまま彼が続けるのを待った。
「ルティスが手がつけられない状態になるかもしれないから、先に行ってろって言われてさ。僕も追いかけられていたせいで、そんなに長い間話していられなかったけど」
「"手がつけられない"?」
「僕もよく分からない。けど、ルティスは第一位の魔物だったらしいんだ」
「第一位って、あのほとんど伝説になりかけてる?」
 第一位については、ティアも知識としてセルに教えられて知っていた。
「うん。何でそんな魔物がドラゴンの使い魔になってるのかは知らないけどね」
「カーレンから聞いたの?」
「違う。レダンから」
 あまりにもセルが何の気負いもなく答えたために、ティアはふうん、と頷こうとして、

 危うく躓きかけた。

「ちょっ……! 兄さん、あのレダンに会ったの!?」
「そうだよ?」
「――こ、怖くなかった?」
「え、ううん、別に? 僕こそ、ティアちゃんがどうして怖いのか気になるな。そんなに悪いドラゴンじゃないよ」
 言われて、ティアも困惑した。確かに、自分はレダンが怖い。だが、どうして怖いのかと考えた事はなかった。
「それは……」
 口を開き、理由を説明しようとしても、言葉が思い浮かばない。とにかく、怖いとしか説明のしようがないのだ。二つの事柄で、直接感じなければ分からない微妙な違いを言葉で説明しろと言われているのと同じようなものだ。
 強いて言うなら、本能のようなものが、ティアに明確に恐怖を訴えかけてくる。
 彼の純白の姿を思い浮かべた途端、どこかの壁の向こうから、激しく扉を叩く音が聞こえるような、そんな奇妙な感覚に襲われる事に、ティアはこの短い旅の間に気付いた。だが、それだけだ。
「それで僕、思ったんだけど、」
 再び背後から響いてくる轟音に負けじと、セルが声を張り上げて言った。……どうやらシリエルは、追手に生半可ではない威力の魔術攻撃をけしかけているようだ。ティアが内心で密かに追手達に対して同情していると、セルはティア自身が考えてもみなかった可能性を口にした。

「ティアちゃん、ひょっとして、七年前よりも以前にレダンに会ってるんじゃないかな?」

「え……」
 ティアは目を瞠って、セルの背中を見つめた。
「レダンの中に、自分の記憶を無意識に見てる、そんな事はないのかい?」
 聞かれて、ティアは目を伏せた。
「自分の記憶……って、いきなりそんな事言われても。思い出せないもの」
 そうだ、思い出せない。七年前の自分だって、記憶がない事に初めて気付いた時、必死で零れ落ちたものを探したが、何一つ思い出せなかった。
 リスコを出ると決めた日に、記憶の夢を見たが……まさか、レダンが近くにいたからという理由にはならないはずだ。
「本当に?」
 セルの声が、ティアの思考にするりと滑り込んだ。
 本当にそうだったろうか? 自分が何か、重大な事を見落としている気がしてきて、ティアはもう一度考えた。
 夢について、細かい点を自分の中で数え上げていく。暗い場所、男の声……一瞬だけ見えたのは、男の姿。
「……そうか!」
 顔を上げて、ティアは呟いた。
 白銀の髪、青紫色の瞳も、あの声も、同じものだ。
「そうだ、私、どうして気付かなかったんだろう。本当にレダンに会ってるかもしれない」
「ええっ!?」
 セルが本気で驚いた顔をして振り向いたので、まさか、とティアは半眼でセルを睨みつけながら聞いた。
「自分で言っていて自信がなかったの?」
「いや……大抵、僕の予想は外れていたから」
 あははは、と力なく笑い、セルは前に向き直り、当たっていない方が良かったかも、と呟いた。
「え?」
「ううん、何でもない」
 そんなはずはない。確かに、セルは当たらない方が良かったと言った。もう一度その意味を聞こうとした時、セルの小さな呟きがティアの耳に入った。
「もしそうだとすれば……やっぱり」
 声にあるのは、純粋な悲しみだけだった。敏感にそれを感じ取ったティアは、そのために、もうこれ以上聞く事はできないと思った。
 言えば、これまでの何かが崩れてしまいそうな気がした。今は、まだこれだけで十分だ。少なくとも、そのはずだ。そう言い聞かせて、ティアは唇を噛んだ。
 過去に何があったのか、これほど知りたいと、七年前に思った事はない。
 そして――ティアは、もう一つの、セルが言わなかった、だが暗に仄めかしていた可能性に気付いていた。

 このドラゴンアイは、もしかしたら。

 会う必要がある。もう一度、レダンに自分は会った方が良いのではないのか。会って、聞かなければならないのではないか。
 出所の分からない焦燥感を胸に、ティアは無意識に、自分の目に、瞼の上からそっと触れていた。


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