Dragon Eye

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第一篇 - 二章 『迷いの地』

-2- 凍る瞳

 ティアは無事だろうか。カーレンはどうなったのだろう。ルティスは? あんなにひどい怪我をして。動けるわけがないのに。
 離れ離れになった彼らを案ずる言葉が頭の中をぐるぐる回っていて、おまけにひどい眩暈がした。だが、肺に滑り込む空気の冷たさを感じて、セルはほっと溜息をついた。生きている。
「……っ、ぐ」
 起き上がろうとした途端、全身に激痛が走った。呻いて倒れた時、自分が何か、地面ではない……生き物の身体に支えられているのに気付いた。
「動かない方がいい。俺がぶつかった時のショックで、体中を強く打ってる」
 すぐ真上から声が降ってきた。
「っ――カーレン?」
 声が良く似ていたために名前を呼んでしまったが、すぐにそうではないと気付いた。カーレンは間違っても、自分の事をそんな風には言わない。
 案の定というか、声の主は少し笑ったようだった。
「いや。残念ながら違う。俺はレダンだよ」
 ああ、そうか。セルは納得した。と同時に、何故自分がこんな状態になっているのかを思い出した。
「そうだ……ルティスとティアちゃんが」
 セルは気付いて声を上げたが、レダンは静かに首を振った。
「あのブラルは俺とロヴェの奴が地面に降りた時に、ニーフェと一緒に吹き飛ばしてしまった。今頃、意識を失って両方とも離れた所にいるだろうね。……あと、ティアは俺と君がぶつかったせいで、ニーフェの近くに落ちてったよ。ドラゴンアイを持ってるぐらいだし、簡単には死なない。少なくとも、魔物に襲われる事はまずないな」
 聞きながら、セルは痛みに驚き、鼓動を早めた心臓を鎮めようと深呼吸をした。胸が痛んで、辛い。
「ロヴェって、誰。何で、ティアちゃんの名前を……」
「ロヴェはもう一頭のドラゴンだよ。ティアの方は、本人からリスコで直接聞いた。……ああ、やっぱり駄目か。力が戻ってこないな」
「……どうなってるの」
 呟き、セルは元からない力が、さらに身体から抜けていく気がした。
「カーレンと俺の同士討ちを狙ったんだ。ロヴェの奴は、昔ほど力がないからね……といっても君には分からないか」
 セルは無意識のうちに、右手の小刀を身体の上に引き寄せていた。
(あ、小刀……意識がなくなる前に、握ってたんだ)
 武器を取り上げなかったという事は、敵対する意思がないか、あるいはその気力すらなかったのかもしれない。
「そいつ、今はどうして……?」
「襲ってこないのか、か? 援軍が来たから撤退したのさ。カーレンと俺は今、ちょっとした利害の一致があってね。直接話した訳でもないけど、敵対したい訳でもない」
「言ってる事が、よく分からない」
 セルは首を僅かに左右に振った。それだけの力を込める事すら億劫に感じる。何でこんなに身体が重いのだろう、とぼんやり考えた。
 レダンはやんわり笑った。笑みは触れれば暖かいだろうと思えば、驚くほど冷たくて、手を思わず引っ込めさせるような覇気があった。
「君を助けた理由の事だよ。ぶつかったのは俺の方だし、申し訳ないと思ってね。少し生命力を分けたら、この有様だ」
 言われて視線を落とすと、レダンの身体は奇妙に脱力していた。ぐったりしていると言ってもおかしくない。
「どうしてそこまでして……」
「それは、君自身が一番良く知ってるはずなんだけどな」
 レダンは言って、申し訳程度に肩を竦めて見せた。
「ところで名前、聞いていなかったね」
「あ……、僕、セルです。セル・ティメルク」
 セルは一瞬躊躇ったが、淀みなく答えた。
 レダンはへぇ、と僅かに目を瞠ったように思えたが、それだけだった。すぐにまた薄っぺらな笑みを浮かべて、優しく凍てついた眼差しでセルを見つめた。
「セル、か。君らしい名前だな」
「え? 僕らしいって、どういう」
「いや、そのままの意味。深く取らなくてもいい」
 レダンは言うと、不意に瞳に険しい色を浮かべて、辺りを見回した。彼が身動きしたため、セルは初めて、自分を抱えたまま、レダンが木の幹に寄りかかっていた状況に気付いた。幹に縋らなければ自分の身体を支えられぬほどに、彼は弱り切っていたのだろうか。
「――ニーフェとティアが動いたな。二人一緒だ」
「え!?」
 セルは驚きに息を詰めたために、激しく咳き込んだ。
 乱雑に背中をさすって、レダンはセルよりも深く蒼い水紫色の瞳で覗き込んできた。
「……あのブラルはルリエン・ティウスで間違いないかな、セル?」
「え、ああ……多分それで合ってるけど。でも」
「?」
 レダンは訝しげに目を細めた。
「第一位って、シリエルが……」
 その事か、とレダンは納得したように頷いた。彼もまた、ルティスが何者なのか知っていたらしい。
「彼は今、ルティスと名乗っているようだけれどね」
 レダンは滑らかに声を発した。静かで冷たい、冬の声だった。
「今、世に知られている魔物は何体かいるが……広く知られているのはやはり第二位の白狐、『ニーフェの始祖』シリエル・ファオライまで。第一位の存在は過去三百年、誰の口にも上る事はなかった。しかしシリエルが第二位のままである事から、まだ生きていると噂に上っていた、ほとんど伝説の魔物の始祖だ。当時は『魔王』や『黒帝』とも呼ばれ、恐れられていた」
 うっ、とセルは小さく唸った。
 そんな存在と知らなかったとはいえ当たり前のように話をしていたとは、一体どのような偶然なのか。そもそも、そのルティスを使役するカーレンは一体ドラゴンの何なのか。だが彼自身は力がないために地位が低いとか言っていたはず……ますます疑念が膨らんでくる。
「カーレンに疑問を感じているのか? それもそうだろうね。俺も、どうして彼がカーレンに仕えているのか分からない節がある。……こればかりは本人達の問題なんだろうけど」
 ふぅっとレダンは表情を曇らせた。
「ま、全部他人や風の便りで聞いた話だ。そんなに気に病まなくても、いずれ彼らが話してくれるさ。話しても良いと判断されればね」
 そこで話は終わったようだった。突然、レダンはセルの身体を軽々と持ち上げた。……カーレンと同じく、それほど腕が逞しいわけでもないのだが、ドラゴン達は総じて力が強いようだった。最も、そうでなければ話にもならないのだろうが。
 考えて、セルは自分の身体に残っているものが全身の痛みと疲労感しかない事に気付いた。あれだけの衝撃を受けてただの打ち身で済むはずがない。死にかけていたかも、と思ってセルはぞっとした。それをここまで蘇生させたのならば、レダンはかなり消耗しているに違いないと確信したからだった。
「レダン……僕、自分で歩くよ」
「駄目だ。今はこうしている方が君にとって安全だ」
「けど」
 セルは言いかけて、躊躇した。ここでそれを指摘すれば、レダンはどうするだろうかと考えてしまった。
 だが、続ける必要はなかった。
「! レダン!?」
 唐突にセルを担ぎ上げていた身体から力が抜けた。それでも庇おうとしたのか、ほとんどセルには衝撃がこなかった。
 だが、レダンは。
 首筋に触れて、セルは腫れ物に触った時のように思わず手を引っ込めた。
「熱がある……」
 ふと気付いて、セルは自分の懐に手を突っ込んだ。慌しい出発によって肩からのかけ紐に荷物をくくりつける暇がなかったし、残りはルティスとティアが分けて持っている。代わりに、孤児になった時から肌身離さず、懐に小さな袋を入れていた。
 袋の口を開けてセルがその中から取り出したのは、黒塗りの小さな容器だった。
「……効くといいけど、何しろ九年ぐらい経ってるからなぁ……、腐ってる?」
 蓋を開けてみれば、枯草色をしたクリーム状の物が、つんとした薬の刺激臭と共に出てきた。薬特有のそれの他に、奇妙な臭いがないかどうかを確かめると、セルは念のために少しだけ舐めてみた。
「――ヴッ」
 思わず口走ったが、とりあえず異臭味などはない。腐らないで良かったと感謝しながら人差し指に軟膏のような薬を薄くのせると、えいや、とセルはレダンの口の中に遠慮容赦なくそれを突っ込んだ。
「――――!」
 レダンはあまりの苦さに顔をしかめたが、薬の類だとは分かっていたらしい。大人しく舐めてくれた事に感謝して、セルは指を引き抜いた。拭く物……は、まぁ後で何とかしよう。
 セルはぐったりしたレダンの脇を抱え上げ、身体を半分以上引きずって運びはじめた。
「情けないな……君に助けられるとは」
 自嘲する気配がレダンの口から吐息と共に漏れた。
「その前に、僕に力を割き過ぎなければ良かったんだ」
 怨念のこもった声でセルは言った。実際、彼はロヴェとの戦闘の為に残していた力を、セルの治癒に使い切ってしまっているようだった。動けるのはありがたいが、この場で(多分)最も頼りになるレダンがこうなってしまうと、どうなるか分からない。
 そもそも自分を守ってくれるかどうかさえ不透明であったのに、こんな状況になってしまった。
「もうちょっと自分を大事にしてくれれば、僕も動きようがあったけど」
「……そうだね。努力しよう」
 とてもではないが本気には見えない。
「約束する。俺は誓った事は可能な限り守る」
 絶対ではない所が不満だったが、セルは頷いた。
「セル」
「何?」
「ちょっと言いにくいんだが……」
 レダンは申し訳なさそうにして右腕を持ち上げると、森の彼方を指した。
「追手とロヴェが森に入ったらしい」
「――え!?」
 セルは慌てた。
「な、何人いるか分かる?」
「結構腕の立つ奴が居る。エリック・ヒュールスって言うんだけどね……彼が一隊をまとめているのは空から見ていたから分かった。ざっと四十人ぐらいだったかな」
 四十人。セルは忘れかけていた眩暈が再発したのを感じ、くらりとなった。
「そんな……」
「けど、実際に入ってくるのは精鋭が十だけだ。多分何とかなるさ」
「何とかって、無茶苦茶だ」
 セルは半ば脱力してレダンの言葉を聞いていたが、その耳に馬蹄の音が届き、驚きと恐怖に息を詰まらせた。
 咄嗟にレダンはろくに力の入らない身体でセルの手を振り払うと、近くの茂みに転がりこんだ。
「ちょっと、レダン!?」
「ん」
 レダンは軽く手を上げ、暢気にひらひらと振った。顔面蒼白で息も荒いというのに、近くの木の幹を支えにして立ち上がると、彼は紫色になった唇を開いた。
「俺が何とかさせる。心配はしなくてもいい。簡単に人間相手にどうこうなるようなドラゴンはまずいないし。でも、一つ、カーレンに伝えておいてくれるか?」
 レダンは薄っすらと笑った。妙に力強い声が、セルの鼓膜を揺さぶった。
「ちゃんと思い出しておけ、ってね」
「え?」
 セルが目を瞬かせると、レダンが心の奥まで見透かすような目をしていた。
「とぼけるなよ、セル。あの時、俺が分からなかったはずがないだろう? だからこうして頼み事をしにきたんだ。いい加減に抵抗するのも疲れてきてたし、君を思い出すのだってかなり時間がかかった」
 もう、レダンの顔には笑みは浮かんでいなかった。ただ冷酷な光だけが、彼の瞳に宿っている。
「さて、ここからが本題だ。一度しか言わないから忘れるな」
 はっきり聞き取れるまでになった馬蹄の音がする方向に足を踏み出しながら、レダンは銀色の髪に紛れて一言、言葉を残していった。
「もう一度、俺達を救ってくれ」
 とん、とすれ違いざまに腹を突かれた瞬間、セルは耳元で、レダンが獣の唸るような声で原始的な歌を奏でるのを聞いた。ドラゴンの声だ、と背筋に淡いものが走った時、セルは森の違う場所に移動していた。
「――――っ、」
 突然吸う空気が大きく変わった事で胸が痛みを訴えたが、セルはそれよりも、ここはどこかと周りを確かめる事を優先した。
 首をあちこちに巡らせていると、前方が目に入り、セルは驚きと恐怖にぎくりと肩を跳ね上がらせて硬直した。
「――ああ、レダン」
 一秒、二秒、三秒、四秒――。
 緊張がやや解けてくると、セルは嘆息した。目の前に突っ立っているものがせめてただの木であればよかったのに、と空を仰ぐが、嘆いた所で現実は変わりはしない。分かりすぎるほどに分かっていた事だった。
 例えであれば、木とそれは表現できた。木のように微動だにせず、あまりの驚きに突っ立っている事しか出来なかったからだ。
 五人の、おそらく追手であろう者達。セルが驚愕する原因となったその中の一人は若く、太陽の光と恵みを与えられたかと思うほどに明るい金の糸が背中にまで流れていた。掘りが深く荒々しい顔立ちで、碧の目が深い光を放っている、騎士を思わせる偉丈夫の男。実際に男は騎士なのだろうか、被っている黒いフードマントの下から、ちらりとラヴファロウが着ていた服と似ている物が覗いていた。
 後の四人は、目深に同じフードを被っており、顔立ちはよく分からない。だが、どうもこちらも同じような毛色をしていて、一人だけ女が混じっているようだった。
 全員、ぎょっと目を剥いてこちらを見つめており、さらに、先ほど一番目を引いていた男は、驚愕の表情から一変、鬼かと見紛う程の凄まじい形相を浮かべていた。
「貴方は……!」
 はっとセルが我に返って後ずさりをした時には、眼前に銀の閃きが舞っていた。咄嗟に身をひねって避けると、衣服の端を僅かに斬られた。お互いのマントが空気にゆるやかに流れていく中で、男の鋭い眼光と、セルの危なげに揺れる瞳が一直線に重なった。
 間合いを開けて立ち止まると、男は突然の事に激しく動揺し、息を乱していた。鬼気迫る感情を隠す事もせずに男は声を荒げ、先ほどこちらを襲った剣先を真っ直ぐセルに向けた。
「何故、貴方がここにいるのですか!」
「…………」
 セルはもう一度嘆息した。
 どうせ会うなら、精鋭十人が勢ぞろいの方がまだ良かったかもしれない。
「……えーと、」
 セルは彼の名前を知っていた。忘れるはずもない。もしあのお堅い騎士の名前を忘れるとしたら、記憶喪失だと慌てなければならないだろう。
「レダンから君の名前を聞いた時、まさかって思ったけど……とりあえず、九年ぶりだっけ? 本当に、久しぶり――エリック」
 躊躇いがちの再会の言葉は、空しくその場に響いただけだった。
 ただ、エリックと呼ばれた男は、憤怒を抑えるためか、それとも眼前のセルを斬り捨てるためか、浅く長く、息を吐いた。
 それを無遠慮にしみじみ眺めた後、セルは同じように、ひとつ息を吐いた。そして、
「じゃ」
「あ、エリック殿!」
「お待ち下さいっ! 逃がしませんよ!」
 追いかけてくるエリックの声とそれを制止する声、どちらも振り切るように、セルは五人から背を向けて走り出した。
 さてどうしようか、とセルは自問自答したが、考えるまでもなく力では適うはずがない。ここからは、リスコでの九年間、毎日の万引きで鍛え上げられた逃げ足と悪知恵の見せ所である。
 そして、騎士の体力は生半可なものではない。つまり、疲労させたほうが勝ちだと判断し、セルは軽やかな足取りで木の枝の上へと飛び乗った。
「何という身の軽さだ……!」
 風が運んでくるエリックの呟きを聞きながら、セルは少しだけ微笑んでみせた。
 鬼ごっこならば、毎日繰り広げていたこちらの方が得意なのだ。小さい頃から周りの手を焼かせてきた悪戯心と閃きさえあれば、息の続く限り、どっと疲れさせてやる事は可能だった。
「さて。僕なりに頑張ってきたからね。そう簡単には捕まえさせないよ」
 囁くようにセルは答えた。
 木があるのならば、どこまでも行ける。まずはあの大きな木を目指そう、とセルは森の彼方に見える巨木を眺めて思った。先ほどのレダン達の空中戦で半分焦げているが、あそこから森を見下ろせば、どこで何が起こっているかは一目で分かるはずだった。
 ズン、と地響きのようなものを感じて、セルは足元に目を落とした。
「お忘れですか。必要とあらば、私は木でも切り倒して御覧にいれますよ」
「……しまった、とでも言ってほしかった?」
 挑発して、傾き始めた木から次の木へと飛び移る際に、セルは思い切り幹を蹴った。滑り落ちる方向を変えられた樹木は、エリックの方へと倒れていく。
 やっぱりエリックはすごいな。
 倒れ掛かってくる幹を一刀両断する腕力に感心しながら、セルは真っ直ぐに巨木を目指しはじめた。
 同じように、後ろからエリックが追ってくる。続いて、四人の慌しい息遣いも聞こえてきた。
 セルは何を思う間もなく、身を翻して森の奥深くへと潜っていった。

□■□■□

 カーレンは空を仰ぐと、細く長く、息を吐き出した。頬に血糊が付いているのに気付いて、乱雑に服の袖で拭う。どうせ全身から鉄錆びの臭いが立ち上っているはずなので、特に問題はなかった。
 まだ真新しい紅い水溜りを見下ろし、カーレンは虚ろな目をした自分がその中にいるのを見て苦笑した。
 こんな細身の男が実は人ではなくドラゴンだといっても、恐らく百人に一人すら信じようとしないだろう。だが、今の自分のように頭から足先まで血飛沫が飛んでおり、さらにその周りの荒野に死体の山が築かれていれば、話は別だ。認識の仕方が、彼は人ではないという所まで跳ね上がる。
 三十人弱。おそらく炎塔の差し向けてきた精鋭部隊といったところか。彼らには悪いが、消耗を避けるために人のまま戦ったにも関わらず、特に苦戦した覚えはない。動きからして明らかに集団戦に慣れていない彼らを一人で翻弄するのは、あまりにも容易い事だった。
「――脆いな」
 呟いた時、その人の身である肉体を、不意に走り抜ける奇妙な感覚があった。はっとカーレンは振り向き、森をまじまじ眺めた。
 随分久しぶりのこの感覚には、確かに覚えがあった。ぞっと背中を走り抜ける不気味な寒気。腹に感じる実体のない痛みは、間違いない。従者に何かがあったのだ。
「ルティス!?」
 短く叫んでカーレンは走った。常人が見れば目を剥く程の瞬発力で地面すれすれを滑るように森へと迫り、木立の中に入った時、巨大な力が二つ、空から落ちてくるのを感じた。
 咄嗟にマントを跳ね上げて爆風によって飛ばされてきた物を弾くと、カーレンは空を見上げた。
「うわぁあああああっ――!?」
 叫び声と共に空を吹き飛ばされていく影よりも、巻き上げられて落ちていく二体の魔物を認め、カーレンは呟いた。
「まさか」
「そのまさか、かな。残りの十人ももうすぐ、森に入ってくるよ」
「!」
 咄嗟に剣を抜き放ち、カーレンは背後へと剣先を向けた。

 受け止められた。

「――炎塔の『ロヴェ』か。新入りが貴様だったとはな」
 銅色の髪をなびかせ、ロヴェは薄っすらと笑った。
「残念だけど、今の俺はおまえと戦える状態じゃない。また今度だ」
「逃がすと思うか?」
 冷静に聞き返すと、ロヴェは琥珀色の目を細めた。
「それこそ、まさか、と言うべきだろう。けど、いいのか? おまえの従者、弱ってるぞ」
「……」
 カーレンは黙って身を引き、剣を鞘に収めた。ロヴェも気になるが、今はルティスの容態を確かめるべきだろう。その気になって全力でかかれば、倒せる相手だ。……全力が出せない状況でこれを言っても負け惜しみにしかならないかもしれないが。思って、カーレンは僅かに眉を寄せた。
 そんなカーレンの心境を察した様子もなく、ロヴェは満足げに頷いた。
「賢明な判断だな。でも、俺はレダンを潰しにいくよ。あっちは塔の方を散々邪魔した。エリシアも苦戦したようだし「今、何と言った?」
 数段低い声音でカーレンが唸った。普段放つ時のそれとは比べ物にならないくらいの殺気を振りまいたためか、ロヴェは表情を消した。
「エリシア? 彼女が炎塔に協力しているだと?」
「――ま、嫌いになっても仕方がないんじゃないのか? いい加減に認めた方がいい、カーレン。おまえはあの時、やりすぎたんだ」
「――っ!」
 肩をすくめながらそう返してくるロヴェに、カーレンは唇を噛んだ。
「七年前、セイラックでの事は、俺もあの人から聞いたから知ってるよ。レダンと今のような関係になるきっかけとなったと、それしか聞いていないが」
「やめろ」
 カーレンは首を振った。
「くだらない事を持ち出すな。用が終わったのなら私の前から消えろ」
「『本当は』知っているくせに」
 ロヴェはカーレンに詰め寄った。吐息が顔にかかるほど首だけを乗り出してきて、ロヴェは愉悦に浸り、顔を歪めた。
「なあ。おまえも忘れた訳じゃないだろう?」
 ロヴェはそれだけを言って、鬼気迫る表情のままカーレンの前から突然消えた。転移したのか、とぼんやりと考えただけなのは、他の事実に大幅な関心を寄せていたからでもあった。
「…………忘れた?」
 自分は何かを忘れている? 何を言っているのだろう。自分はセイラックの最期をいつでも思い出せるのに。ただ、脱出する前にエリシアが……。
 そのときの記憶が抜け落ちている事に気付いて、カーレンは愕然とした。
 リスコで言われた言葉が脳裏によみがえる。
(『まだ、思い出せないのですか』、か)
 ルティスの声がどこまでも追いかけてくるような錯覚に襲われて、カーレンは眩暈のするような心地だった。
 何によって自分の記憶は失われていたのだろう。下手をすれば混乱しかねない状況からカーレンは目を逸らし、ルティスを探さなければ、と熱に浮かされたように思った。
 そうだ。ルティスが傷ついているのだ。
「死ぬなよ」
 ぽつりと零して、カーレンは再び駆け出した。
 衰弱した巨大なブラルを見つけたのは、それからしばらく経った頃のことだった。
「ルティス」
 カーレンが呼びながら側によると、ルティスは薄っすらと目を開いた。凍えるような目が、カーレンを静かに見つめ返した。いつものブルーの瞳が爛々と緑色に輝いている事は、彼が激情に駆られている事を示していた。
 ルティスではなく、ブラルの始祖、『第一位』ルリエン・ティウスとしての視線を、カーレンは無言で受け止めた。


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