Dragon Eye

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第一篇 - 二章 『迷いの地』

-1- 荒野と白い影

 寒い。背中に感じる大地の温もりはほとんどなく、セルは硬い地面に寝ていた痛みで目を覚ました。空は薄明、もうすぐ夜が明けようとしている頃合だ。
 包まっていたマントに暖かさを求めて少し寄り添ってみたが、秋も深まり、冷えてきた空気があっという間に体温を奪っていってしまう。
 このままずっと寝ているわけにも行かない。セルはまだ眠りが足りないと悲鳴を上げる身体を叱咤して起き上がり、深い溜息をついた。
 寝ぼけ眼のままに隣を見ると、ティアが規則正しい息をして、眠りにどっぷり漬かりこんでいた。何も心配事などないかのように、安らかな顔だ。
「…………よし」
 小さく頷き、自分より少し離れた場所へと首を巡らせれば、岩にもたれかかる人影がある。苦しげに寄せて、浅く速い呼吸を口から漏らしている様子を見ると、どうもあまり夢見はよくないようだった。
「……こっちも大丈夫」
『何がでしょう?』
 ひっそりとした声が後ろからかかり、セルは驚きに息を詰めた。そっと振り返れば、黒く艶やかな毛並みを持つ狼が後ろにいる。
「……ルティス。驚かさないでくれないか?」
 不規則に跳ね上がった心臓を鎮めるために深呼吸をして、セルは言った。
『いえ、申し訳ありません。……それよりも、少し気になる事があるのですが』
 彼からすれば怪しい言動についても、この狼はあまり追求はしないらしい。いや、それよりも重大な事があって、そちらを先に告げようとしているのだろう。
 適当に判断をして、セルは首を少し傾げた。
「何?」
 ルティスは地面を見つめ、ぽつりと漏らした。
『この辺りの大地、死んでいるのです。まるで生気がない場所です』
「……そりゃ、荒地なんだから当たり前じゃないの?」
 セルが言った通り、辺り一面、見渡す限りに荒野だった。まだ大陸の内部にいるから乾燥しているのは仕方ないだろうが、それにしてもこれはどうだろう。オリフィアの王都の周りは草原で覆われていたのに、二、三日進んだだけでこの有様だ。
『いいえ。普通の荒野にもちゃんと大地の力が流れているのです。それを糧にして生活する魔物もいるぐらいですから。けれど、ここには脈すらない。死んでいると言っても過言ではありません』
 言われて、セルは土を一掴み手に取った。乾いているどころか、赤い土だったのに、空気に触れた途端に白く変色した。灰のように風によって空へと消えていく様を見送りながら、セルは呟いた。
「よく分からないけど、ここの土は変なんだね?」
『はい。どちらかというと、何かに吸い取られているような……前にも同じような事を見た事があるんですが――』
 ルティスは言葉を途切れさせ、一点を凝視した。話の断絶を不審に感じて、セルもルティスの視線を追いかけ、彼の目が見る物をその目に捉えた。
「……狐?」
 『何か』がそこにいた。
 呟いた通り、それは狐にしか見えない。だが、狐ではない事はすぐに分かった。
 ぼんやりと薄い、白い炎のような。ゆらゆらと揺れ動いて安定せず、輪郭が存在していないようにも思える。
「あ」
 見間違いかと思って目を瞬けば、次の瞬間、それは消失していた。軽い驚きに声を上げて息を呑み、セルは振り向いた。
『「………………」』
 無言でセルはルティスと顔を見合わせた後、ゆっくりとまた元の場所に視線を戻した。何もいない。
「うぅん」
 腕を組んで小さく唸り、
「……なんだ、ただの幻か」
 と、セルは笑った。だが、荒野と同じく乾いた笑いはさほど長く続かず、次第に弱々しくなっていった。最後には風の音に掻き消されるようにして、笑い声は止まり……、
「――何かが出たね」
『――出ましたね、何かが』

 認めるしかなかった。
 確かに、何かがそこにはいた。
 やや血の気の引いた感じのする腕で身体をかき抱き、少し身震いをしてから、セルは震える唇を動かした。
「何だったのかな。幽霊?」
『さぁ……』
 心なしか、ルティスの視線が浮ついていた。相当に動揺しているらしい。
 まぁ無理もないのかも知れない。得体の知れない物を見れば、どんな存在でも大小こそあれど驚きはするだろう。
『取りあえず、マスターとティアさんを起こしましょう。それから何か食べて、先ほどの事を』
「うん。ルティス、カーレンを頼むね」
『はい』
(……あ、しまった)
 言ってから、セルは気付いて青ざめた。
「ごめん、やっぱり僕がカーレンを――」
 止めようとはしたが、遅すぎた。
(ぁあああぁあ……っ! カーレン――本当にごめんっ!)
 がぷっ、と一般に言うような生易しい音では、とてもではないが形容しきれない。肉に深々と鋭い歯が突き立つ音がして、セルは人生にして二度目になる生々しい光景を目にしてしまった。


「……別にそんなに気に病む必要もない。ただ、『小さく』腕に穴が開いて、『ほんのちょっと』血が出ただけだろう」
「その『ほんのちょっと』が毎回物凄い量なんだけど?」
 苦虫を噛み潰したような表情で、ティアが唸った。実際、ドラゴンの強靭な自然治癒力によって血は既に止まっているが、カーレンが腫れを冷やすために当てている布は、ぐっしょりと真紅に染まっている。
 ルティスに起こされる時は毎回噛みつかれて目を覚ます彼だが、ごく稀に太い血管が切れて、こんな『大失血』が起こるらしい。冗談では済まない量の血が噴き出していたはずなのに、至って平然としている。まだ少し顔色が青いが、白かった血色は既に大分戻ってきていた。
 ティアとカーレンが目を覚ました後、セルは火を起こして、全員でその周りを囲んでいた。セルの向かいにカーレン、左側にティア、右側にルティスという具合で、いつの間にかこれは四人のそれぞれの定位置となっている。
 鼻を突く濃厚な血の臭気に顔をしかめながらも、セルは干し肉を口に放り込んで、肉の味で臭いを誤魔化した。
「二十日に一回起こるか起こらないかだ」
『ちなみに連続回数の最高記録は五回ですね』
「やめてくれよ」
 セルはさっと厄を払う意味で手を振り、言った。
「ところで、その白い狐のような影は、あそこにいたのか?」
 あそこと言ってカーレンが指差した先は、先ほどセルとルティスが狐(としか言いようがなかったもの)を目撃した場所だった。確かめて、セルは頷いた。
「そうだよ。でも、僕たちの前からすぐにいなくなった」
 カーレンはしばらく首を傾げて考えこんでいたようだった。
 ややあって、彼は口を開いた。
「……ルティス。これは『第五位以上』の特徴で間違いないか?」
『貴方がそう思うのでしたら、そうなのでしょう』
 ルティスが淡々と返事を返した。丁度、毛並みに飛び散った血を舐めとり終えたところだった。
 自分の血が舐められているというのにさほど嫌そうな顔も見せず、ふと、カーレンは何気ない動きで、視線をあらぬ方向へと巡らせた。
 それが何を感じてのものか、セルには判断がつかなかった。というのも、あの白い狐がカーレンの見つめる先にいたからだ。今度は自分達に背を向けて、カーレンの首と同じ方向を向いていた。
「まただ。何なんだろう、あれ」
「……まずいな」
「え?」
 カーレンの声に、焦りが生まれていた。
『!』
 くん、とルティスが何かの臭いを嗅ぎ取ったか、鼻をひくつかせて、警戒の色を示した。すぐに臭いの正体を見破ったらしく、苦々しそうに呻く。
『最悪ですね。彼らです』
「言われなくても」
 カーレンは立ち上がって、素早く火を踏み消した。腰のポーチから二つの鞘に収められた小刀を取り出すと、セルとティアにそれらを放り投げた。
「逃げるぞ。追手だ」
「うわ」
 短く呻いて、セルは空中の小刀を立ち上がりながら掴み取った。傍らで、ティアが同じように小刀を受け取っている。
 既にくるりと背を向けて走り出したルティスとカーレンの後を追って、セルはちらりと後ろを振り向いた。
 やはり、あの白い狐は消えていた。
「何だったのかしら、あれ」
 ティアがぽつりと漏らすのを肩越しに聞きながらも、セルは前に向き直り、今は足を動かす事に専念した。
「――カーレンはどうして追手がいるって、ルティスより早く分かったの?」
 少女の問いにカーレンは手短に答えた。
「あの狐が教えてくれた」
「あれが?」
 セルは驚きに目を瞠った。
「何もそんな合図とかはなかったけれど」
「説明は難しい。気配で分かる。こちらから来るからあちらに逃げろ……そんな感じだったな」
『魔物が何の理由もなく手を貸しますか』
 ルティスが呆れて言ったが、カーレンはそれに返事をしなかった。代わりに、奇妙な事を口走った。あまりに早口で、何を言っているのかも聞き取れなかったが、すぐにそれが言葉ではなく意味のある音であった事が分かった。
 遥か後方から、かなり大きな地鳴りが響いてきたのだ。
「……爆発?」
 セルの呟きに、カーレンがさっぱりと答えた。
「焚火の跡を火種にした」
『えげつない事しますね』
「あちらが火を使おうとしたのだから、利用させてもらっただけの事。運が良くても、身体に一部大火傷を負うな」
「いきなりは大人気ないって。せめて遠距離にしとけばよかったのに」
「容赦ないわね」
 さんざん言われても、カーレンは涼しい顔を崩さなかった。
『お二人共、フォローをしているようでしていませんよ』
 ルティスが小さく指摘したものの、彼は次のセルの答えには閉口した。
「だって、一番大事なのは自分達だからね。他人の安全二の次とか」
「私は別に……狙った方が悪かったとか」
「それぐらいにしておけ。息が続かなくなるぞ」
 疲れた様子も見せず、カーレンが言った。確かに、走りながら喋るのは身に堪えた。が、体力がそれほど続くとも思えない。ドラゴンの体力を持ち合わせているカーレンや、元々長距離を走るのに特化しているルティスと比べる事など夢のようだと感じるのに。
 その事をカーレンも見越していたのか、彼はルティスを呼んだ。
「ルティス。二人を乗せて走れるか」
『はい。ティアさん、セルさん、乗って下さい』
 ルティスは言い終わらない内に、身体を倍の大きさにまで膨れ上がらせた。セルは速度を落としたルティスのしなやかで硬い毛並みを掴むと、それを手がかりにして身体を引きずり上げた。後ろのティアの手を掴んで、乗るのを手伝ってやると、セルは前へと向き直った。
「カーレンは乗らないの?」
「いや。……おまえ達はそのまま先に行け」
「カーレン!?」
 後ろでティアが驚愕の声を上げた。セルも突然の事にどう言えばいいか分からず、うろたえた。
「でも」
「私は大丈夫だ。森で会おう」
 言って、カーレンはひとつ跳躍したかと思うと、羽根のように軽い身を翻して、その場に仁王立ちし、黒い幾つかの点となって現れていた追手に対峙した。
 黒衣の姿が顔に当たる風と同じ速さで遠ざかっていくのを振り返りつつも、セルはルティスに戻ってくれとは頼まなかった。戻ってはならないのだと分かっていたのだろう、ティアも何も言わず、ただ、兄である自分の腰に回していた腕に力を込めた。
 セルは小刀を握り締め、ルティスに言った。
「カーレンなら、僕らにすぐ追いつける?」
『当然です』
「じゃあ、思い切り走って。森でって言われたけど、どうせなら森を越えた所で会った方が見通しもいいはずだよ」
『……分かりました。では、マスターにそう伝えておきましょう』
 ルティスはそれだけ言って、速度を上げた。ぐっと身体にかかる抵抗が増えたのを自覚しながら、セルは身体を低く伏せ、浮き沈みする振動を受け流した。
「兄さん」
 ティアがセルを呼んだ。
「何だい?」
「……私、怖い。物凄く」
 セルは黙って、続きを促した。ティアは、セルの背中に顔を埋めてきた。震えている。
「あの狐、私にはとてつもなく大きなものに見えた。ただの狐なんかじゃない」
「…………奇遇だね」
 セルは僅かに微笑んだ。
「僕もだよ。何だか、妙に大きさにそぐわない感じがした」
 すぐに硬く表情を引き締め、言った。
「あれはただの幻でも、幽霊でもない。カーレンや君は、何か知ってるんだろう?」
 ルティスはすぐ目と鼻の先に見えている森に突っ込むためか、やや速度を落とした。
『――はい。確信したわけではないのですが、あれは『第五位』より力を持った魔物です』
「さっきも言っていたね。第五位って何なの?」
『まず、それを説明する前に、魔物には順位のようなものがあると思ってください。種族での順位ではなく、個体単位での順位があるのです。上位にはほとんど、それぞれの種族の始祖が占めています。そして、順位はその魔物の強さや力によって決定される、このようにマスターや私は定義しているのです。認識の仕方はそれぞれ違いますが、示している内容は大体同じです』
「……えーと、何となく分かった気がする。第五位以上って事は、あの狐も魔物で、しかも始祖なんだね?」
『それだけではありません』
 ルティスは沈んだ声で言った。
『あの魔物……たぶん、いえ、きっと、私が――何度も会った事のある魔物なのです』
 微妙に歯切れの悪い答えだった。
「じゃあ、昔の誼って事で助けてくれたのか」
『それも違うと思います』
「何で?」
 ルティスは答えず、頭を低くした。気付いて、セルも身を更に屈めた。間一髪、空気を切る鋭い音が頭上を通過した。
「兄さん、あれ!」
 ティアが顔色を蒼白にしているのが見えたが、セルはそれどころではなかった。小刀を抜き、飛来する何かを見極めようと目を細めた。
(! くっ)
 鋭い金属音が響いた。耳鳴りのように鼓膜を震わせる音に不快感を覚えながら、セルはどうにか、それが小さな白い欠片である事を見取った。砕けて飛んださらに小さな破片が頬に当たり、セルは異様な冷たさを覚えた。
「氷……!?」
 すぐに体温と交じり合っていく冷感に、それが水に変わっていったと分かったのも束の間、セルはティアがさっきから指差しているものを見上げ、目を見開いた。
(何――なんだ、あれ?)
「――カーレン?」
「いや、違う」
 ティアの呟きを、セルは否定した。
 ティアが示したのは、空を翔るドラゴンだった。ただし、一頭ではない。
『二頭が争っているようですね』
 ルティスがさっとドラゴン達から離れながら言った。
『セルさんの言う通り、あれはマスターではない。……おそらく、あの銀色のドラゴンはレダン・クェンシードです』
「レダン!? あれが!?」
 ぎょっとしてティアが目を剥いた。
 セルは頭上で激しく揉み合っているドラゴンを見上げ、呟いた。
「あの金色のドラゴンは?」
『分かりません。見た事がないドラゴンです。……何でしょうね。得体の知れない違和感があのドラゴンからはするのですが』
 ルティスが言い終わった時、鋭い咆哮が辺りの大気を揺るがした。銀色のドラゴン……レダンの周りに、幾つもの鋭く巨大な刃が出現した。もう一頭は真紅の息を吐き出し、投げつけられたそれらをことごとく薙ぎ払った。四方八方に飛び散る刃は、恐ろしい速度で森へと叩きつけられていく。
(じゃあ、さっきの氷の欠片って……)
 刃が叩きつけられてできたものだったのか。ぞくり、とセルは背筋に冷たい物が走るのを感じた。
「ルティス。もしあの刃が直接飛んできたら……」
『この状態では無理ですよ。あんな速度のものを避けようとしたら、貴方達が私の背中から振り落とされます』
 できない事はないのだろう。だが、セルやティアの安全を考えれば、不可能だというのだ。
「カーレンは大丈夫なんだろうか」
『こんな場所を通ってくるのであれば、少し遅くなるでしょうね。しかし、何故こんな所でレダンが戦っているのでしょう? 彼はリスコに居たはずです』
 ティアを振り返れば、不安そうな目がこちらを見返してくる。
 セルは黙って頷いた。
「大丈夫。きっと、何とかなるよ――うわっ、と!?」
 セルが気休めにもならない事を呟いた時、ルティスが突然急停止した。
「ルティス……?」
 不安を抱えたまま、セルは狼に声をかけた。だが、答えは返ってこない。
 代わりに、ひどくその身体が緊張していくのが、跨っていて分かった。
『ああ、やはり。貴方だったのか』
 心底嫌そうな呻き声が、ルティスの喉から搾り出された。
『ふん。貴様には、ここで会ったが百年目――いやさ、三百年目と言うべきかな? なぁ、ルリエン・ティウス』
 妙齢の女の声が聞こえた。奇妙に反響している。ルティスやカーレンがドラゴンの時の声と似ていたので、魔物の声だとセルは直感した。
「ルリエン・ティウス……って、ルティスの事?」
『本名ですよ』
 ルティスは短く肯定した。
『使い魔と成り下がり、御名を歪めるばかりか、それを気安く人間ごときに呼ばせるとは……堕ちたものだ、ルリエン』
『貴方に言われる筋合いもないと思いますがね――第三位、シリエル・ファオライ』
『第二位だ。三百年もあれば、始祖といえども蹴落とせる』
「よっ――と、うぇ!?」
「兄さん!?」
 素っ気なく答える声の主を確かめるため、ルティスの背から降りようとしたセルは、その前に見えざる手に掴まれて引きずり上げられた。ティアの悲鳴と共に、ルティスが急な動きを見せた。
 どこからそんな瞬発力が出るのだと思ったほどの脚力で、彼は空高く跳躍した。その背中にぴったりと未知の力で縫い付けられたセルは、首を反らせて、見た。
「――あ」
 ティアが呆然と出した間抜けな声すら、セルには遠く、ゆっくりと聞こえていた。
「シリエル・フォアライ……?」
 白い狐だった。幻で見たような、小さな姿ではなく、ルティスよりも巨大な姿で、こちらを悠然と見上げている。その紅い瞳が青白い光を帯びて、いきなり閃光が走った。
『! させません』
 ルティスの蒼い目に、新緑の光が宿り、同じような閃光が真っ直ぐにシリエルへと飛んだ。セルの目には、その閃光が魔力の矢だと映った。
 矢と矢はすれ違い、空中にいたルティスの腹に鋭く突き立った。ルティスは一声鋭く鳴いて、セルとティアが居る背中を庇うために体制を崩したまま、地面に叩きつけられた。
『ぐぁっ……、う!』
『無様だな』
 一方、シリエルは平然と立っていた。ルティスの矢をこともなげに避けたのだ。
『先ほどの一撃をかわすために、大きな隙を作った……それが貴様の最初の敗因。大人しく『第一位』の座を明け渡してもらおう、ルリエン・ティウス』
『…………っ!』
 シリエルが一歩踏み出す音が聞こえ、セルはルティスの背中から離れようと、遮二無二身をよじった。ティアも、同じようにして離れようともがく。と、不意にルティスの背から背中が離れて、セルはずり落ちた際に、顔を地面にしこたまぶつけた。
 一方、ティアは初めからルティスの背にいたせいか、ゆっくりと滑り降りてきた。
「大丈夫? 今ぷぎゃって言ったわよ、兄さん」
「……あんまりだいじょぶじゃない」
 鼻血が出たようだった。血が出ないようにと鼻を摘みながら、セルはルティスに駆け寄った。
「ルティス……!」
『逃げなさい』
 有無を言わせない、強い声がした。
『すみません。でも、私は満足に戦えない。時間稼ぎをするから、その間に森を抜けてください。今なら、森に潜んでいるかもしれない魔物達も、ドラゴンを恐れて襲ってきません。火は焚かずに、マスターを待っていて下さい』
「でも」
『貴方の命は、貴方だけのものではない。それに、もし貴方が死ねば、怒る人が居るでしょう?』
 セルは息を詰めた。悲しみと、驚きが入り混じった痛みが、胸を鋭く突いてきた。
「……っ、ごめん!」
 短く叫ぶと、セルはティアの手を掴んで走り出した。兄さん、とティアが非難の声を上げたが、それもすぐに静まった。
 背後から、恐ろしい音と地鳴りが追いかけてくる。セルは振り返らなかった。もし振り返ってしまえば、命はないと思え。一心に念じてセルは走り続けた。
 不意に、雷鳴にも似た音が轟いた。ぎょっと思わず振り返ると、まだあまり離れていない場所――ルティスとシリエルが闘っている場所から、天まで届く勢いで砂煙が立ち上っていた。煙の中で、空を白黒、二匹の魔物の巨体が力なく落下していく。
「兄さん、何か来る!」
 ティアの言葉にはっと目線を戻すと、セル達目掛けて木々を薙ぎ倒しながら、見えない衝撃波が迫って来ていた。
「なっ――!?」
 避けられる訳がなかった。セルの身長の倍もある波が弾いた大木の幹がセルとティアを吹き飛ばし、セル達は空高くへと放り上げられた。
「うわぁあああああっ――!?」
 叫びながら、セルは砂煙の向こうに、二頭のドラゴンが折り重なり、上下に入れ替わりながら激しく交戦している光景を見た。その中から銀色のドラゴンが突き飛ばされ、衝撃波が薙ぎ倒した木々の上を、吹き飛びながら自分達の方に向かってきた。まずい、という言葉が頭を過ぎった瞬間、セルは無意識にティアの身体を全力で向こうに押しやっていた。銀色で目の前が埋め尽くされる寸前、セルの意識は途切れ、その身体に成す術もなく、ドラゴンの身体が激突した。


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