Dragon Eye

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第一篇 - 一章 『ドラゴンの盟友』

-4- 朝露に濡れた日

 その夜は、カーレンにとってはひどく曖昧な時間に感じられた。
(……これは……夢か?)
 朦朧とした意識の中、それだけを思った。
 夢から覚めようとは思わなかった。覚めてしまえば、夜を一人で過ごさなければならない。
 白い空白。孤独の場所に立ちながら、ぼうっとカーレンは、そんなに遠くもない日のことを思い出していた。

□■□■□

 一年ほど前、秋も深まり、冬に差しかかろうかという時期だったか。
 いくらはっきりした四季の存在する中央大陸だからといって、この北の地方では、もう初雪がいつ降ってもおかしくない頃合だった。手足の先から痺れてくるほどの寒さの中、カーレンは一本の大木の枝に腰を下ろし、ある方向を窺っていた。
 鬱蒼とした深い森の果てに生えているためか、辺りは明るい月の晩だというのに、闇に包まれている。ただ自分の息遣いだけが聞こえた。
(……そろそろ頃合か?)
 木々の向こうから聞こえてくるざわめきに神経を集中させながらも、カーレンは宿においてきた従者の身を少しばかり案じた。
 向こうには、村がある。数十人が集まってできる村で、宿をとった町とも交流があると聞いた。行事にも町の者がよく参加しに行くという。
 カーレンは薄い闇に覆われた森の中で僅かに顔をしかめたが、瞳に感情を映し出すことはなかった。数年前よりも伸びた髪を適当に背後で束ねた後、カーレンは枝の上から地面へと降り立った。沈黙の中で異質に感じるほど大きく聞こえる衣擦れと、そして剣帯の金具と鞘が擦れあう小さな音がした。
 身に纏っているのは黒衣のみで、腰に一振りの、何の変哲もない鋼の剣を提げただけだ。
 人間を数十人殺すだけなのだから、そんなに大した防備は要らない。自分の本来の姿ならば小さな村など一瞬で焼き払えるが、今回ばかりは発見を遅らせなければ意味がない。一人として逃がすつもりはなかった。
「……無関係な者も巻き込む羽目になったか」
 低い声で呟くと、それに答える声があった。
「俺はそうは思わないけどね」
 ひどく明るく、軽やかな声が背後から響く。驚きに息を詰めて四半秒待ち、ゆっくりと振り返ると、そこにはヒスランの青年が立っていた。白を基調とした質素な服に身を包んでいるものの、右手に携えられた抜き身の鋼が、剣呑な光を放っている。
「あれ? そんなに驚いたか」
 軽薄そうな声音で聞いてくるのは、狙っているのかそうでないのか。
 感情を消していてよかったと痛感する。もし消していなければ、驚いた程度では済まなかっただろう。それほど予想外の人物だったのだから。
「……レダンか」
「あ?」
 呻くと、レダンは目の前に居る人物が誰か分かったようで、暗がりの中で目を瞠った。その拍子に、葉の間から差し込む僅かな光で、その瞳が爛々と輝いた。
「亡霊か?」
「馬鹿を言え。私が亡霊に見えるか」
 レダンはカーレンの足元から頭上までを舐めるように見ると、ふるふると横に首を振った。
 ふとした拍子に、その顔に凍るような微笑が浮かんだ。
「いや。だが信じられない。あれほどの怪我を負ってまだ生きてるとは思わなかったな」
 極上の獲物を前にして陶酔する狼、という表現がしっくりきたので、カーレンはその不気味な声色を聞き流しながら、我ながら上手い例えだと感心した。一種の現実逃避だったが、その思考にするりと耳障りな声が入り込む。
「あんたも往生際が悪い。あの時さっさと俺の手にかかって死ねばよかったのに」
 言ってくれるものだ。特有といってもいいほどに寒々しい気配から、薄い流氷の上を歩むような心地を連想しつつ、カーレンはぽつりと零した。
「目的は」
「人間共に恩返しさ」
 恩返しなどという生暖かい事をこのドラゴンがするはずがない。六年前の対面で知っているからか、そんな確信があった。
「……どういうことだ」
「教える気はないね」
 青年の紫色の瞳に、一瞬だけ激情の色を見て取り、カーレンはそれが何であるのかを即座に読み取った。殺意に憎悪、狂喜。随分どろどろとしている。
 カーレンは黙ったまま、薄く思考を流した。嘘を言っているようにも見えない。もともと何を考えているのか分かり辛い奴だったが、それにさらに拍車がかかっているような気がする。それでも嘘ではないだろうと直感が知らせていた。
「思い出すだけで、反吐がでそうだ」
 気がついた時には、目の前に白刃が突きつけられていた。
「手伝ってくれるんなら、せいぜいオレの足を引っ張らない程度にやれよ」
 カーレンはしばらく、レダンが向ける微塵も揺るがない剣先を見つめていた。鼻先からは指一本が入るか、入らないかというぎりぎりの距離しかないが、それを一瞥するのにそんなに労力は必要ない。やがて、その口の端を吊り上げて冷笑した。
「手際よく?」
「そういう事だよ」
 少年のように笑って、レダンは告げた。
「知ってたか? 明日は雨だ。だが、それよりも先に」
 言葉が切れた。カーレンは後を継いで、薄く笑んだ。
「紅い雨を、彼らに贈る。そういう事か」
 殺戮、という呼び名すら生ぬるい、とカーレンは笑った。
 ひとつの村が、今夜、消える。そう思うと、不思議と心が晴れた。
 カーレンは剣を抜いた。
「私は……復讐、だな」
 鋼の光沢の中に、顔が歪んで映っていた。
 それを見つめた後、歪に笑った。何かに気圧されたかのように、レダンが少し息を呑む音が聞こえた。
 炎塔。そう呼ばれている組織。彼らはカーレンから二つのものを奪った。
「今度は私が、彼らから奪う番だ」

 短い悲鳴を上げた身体が、少し震えた。
 子供の細い手足からかくんと力が抜け、息絶えた身体が地面にくず折れるまでを淡々と眺めた後、カーレンは視線を辺りに軽く巡らせた。
 死体、死体、死体。子供から大人、果ては老人まで。老若男女を問わず、全てが剣の一振り、二振りで絶命している。
 軽く息をついた後、砂利を踏みしめる音を耳にして、カーレンは振り返った。
 まだ幼い少女だった。恐怖に顔を極限にまで引き吊らせ、ろくに動かない足を必死に後ろへと移動させている。と、その身体が突然、脳天から真っ二つに割れた。
 赤黒い液体を振りまいて、それぞれ別の場所に倒れた少女だった物から視線を上げると、白かった服を紅く染めたレダンが居た。
「何をやってるんだ?」
 呆れた顔で見られて、カーレンは目を逸らし、こっそりと逃げ出そうとしていた女の背中を斬り裂いた。
 成す術もなく倒れた、名前も知らぬ他人の死体を見下ろして、カーレンは呟いた。
「殺人」
 短い言葉だった。
 恐らくレダンが言いたかったのは、なぜすぐに斬らなかったのか、ということだったろう。それをあえて外して、逃げた。
 彼は怪訝そうな顔をしたが、すぐにまた、次の獲物を見つけたかと思うと、疾風を思わせるような俊敏さで駆け寄り、剣を振るった。
 感情もなくまた一つの命を見送ると、カーレンは屍で埋まった村の中を歩き、気配を探った。
「……」
 左側にあった小屋に目を移せば、入り口の影の向こうに、小さく暴れる足が見えた。泣き声が聞こえる。
「子供……?」
 呟いた時、声は小さくなり、助けを求めるそれに変わった。
 足音を殺して近寄り、気付かれないように覗いた時、不意に声が引き攣るように途絶えた。同時に、カーレンは目を瞠った。

 小屋の中には、母親らしき女と、声の主である子供が居た。

 女は血走った目で子供の首を絞めている。子供の艶やかな亜麻色の髪が、小さな肩を流れ落ちて空に垂れ下がり、焦点の合わない茶色い瞳がこちらを見つめていた。
 目が合った、というのは錯覚だったのだろう。本人の命は、もうそこにはないのだから。
 だが、それを目にした瞬間、一際大きく、不自然に心臓が跳ねた。
 自然に足が動いた。女がカーレンに気付いて、いっ、と不愉快な音を喉から搾り出した。
「いやぁ……!」
 土気色の顔で、涙を流して懇願する姿は醜かった。子供から手を離して顔を覆ったために、小さな身体は地面に倒れようとしていた。
 崩れた身体に腕を回して支えると、女は、今見ている物が何なのか分からないようにきょとんとした表情を浮かべ、それを次第に焦りのものに変えていった。
「ま、待って!」
 女の黄色く濁った目を見据えると、彼女は怖気づいたのか、震える唇、声で言った。
「その子を連れて行かないで」
「……もう、遅い」
 カーレンは嘆息を交えて呟いた。今さら、何を言う。子供の息はとうにないのに。
 判断する能力さえ失い、ただ生きるための欲を優先させている。醜悪な物が命を持っているだけにも見え、カーレンは嫌悪感を覚えた。
 子供を柔らかに抱きながらも、鋭く視線で女を射抜く。
 もはや人間ではなく、獣でもない、無価値な命に成り下がっているそれは、口をだらりと開けて、絶望に心を破壊された。
 呆然とする女の真上で、鈍い輝きが閃き、
「――これは、私ではなく、おまえが殺したのだ」
 言うと、何の躊躇いもなく刃が振り下ろされた。

 ――それから後、カーレンはあてどもなく子供を腕に抱えたまま村をさまよい、人間を見れば斬り捨てた。何人目かを斬った時、ふと、腕を掴む非力な手があった。
 目をやれば、子供の腕だった。
「……」
 母親の女がさほど長い間、この子供の呼吸を止めていた訳でもない。仮死状態にあったのが、何かの拍子に呼吸が生き返ったのだろう。
 そのまま子供を放っておき、辺りをしばらく見回していたが、村には生存者は居ないようだった。
(さて、どうするか)
 扱いに困り、意識の戻らない子供を見ながら考えた後、カーレンは子供の衣服をたくし上げ、むき出しになった背中に指で小さく印を描いた。銀色の光が閃き、収まった後には、小さな刺青のような紋章がある。
(慈悲でも施したのか……?)
 自分の行動に激しい疑念を覚えながら、竜の紋章、と呼ぶ者もあるそれを子供に授けた後、手近な小屋に小さな身体を隠して、カーレンは村を出た。
 外れで、レダンが待っていた。
「遅かったな」
 待ち合わせでもしていたような調子で話しかけてきた彼に、ちらと視線を向ける。
 何事もなかったかのように頷いて、カーレンは口を開いた。
「村は、そのままにして置いた方が示しがつく」
 レダンは何でもなさそうに聞き流して、空を見上げた。口角を吊り上げて、皮肉気な笑みを見せる。
「……夜が明ける。使い魔が起きない内に戻った方がいいね」
 小さく苦笑して、村を見た。そのまま何も言わない事をレダンが不審に思ったのか、質問される。
「戻らないのか」
「しばらくここに居る。……先に行け」
 答えた後、しばらく沈黙があった。突然風が吹き荒れて、巨大な物体が浮き上がるのを背後に感じながら、カーレンは目を閉じた。
 再び開けて振り返った時には、白銀の巨大な体躯が遠く空へと飛び去り、朝日の光を受けて煌くのが見えた。
「さて、……後片付けをしなければな」
 死臭ひとつ混じらない清涼な風を吸い込んだ後、カーレンは村へと再び足を運んだ。
 小屋から子供の身体を引きずり出すと、寝顔を眺める。
(……よく眠っている)
 内心で呟き、カーレンは子供を抱きかかえたまま、森の外れへ向かった。
 歩いている内に、子供は腕の中で身じろぎをした。薄い瞼が震え、細く目を開ける。
「起きたか」
 軽く語りかけると、驚いて子供は目を瞠った。
「慌てるな。……おまえは何者にも束縛されない。誰に守られる必要もない。生きるも死ぬも、自由だ」
 しばらくは落ち着かなさそうにしていたが、縋るような目で見上げてきた。
「ころすの?」
「!」
 虚を突かれて、カーレンは言葉に詰まった。軽く目を見開いた後、ゆっくりと表情を戻していく。同時に、子供の琥珀色の瞳が目に留まった。最初に見た時は、茶色だったはず。子供の本来の姿を、自分の与えた物が歪めているのだろう。
「いや」
 短く返す。子供を地面に下ろすと、不安げに見つめてくる頭を撫でた。そこで初めて、子供が少年の作りをしている事に気付き、苦笑した。
 記憶の中の子供は、女性だった。そして、こんなに鮮やかな毛色をしていない、もっと美しい色の髪を持っていた。
 思いながら、カーレンは歌うように、竜の言葉を口ずさんだ。魔術師とは違い、ドラゴンそのものの能力を引きずり出す声が、低く高く、死に絶えた村から、深い森の緑の一枚一枚にまで響き渡り、染みいった。
 呆気にとられて子供がカーレンを見ているのに気付くと、力なく笑って言った。
「どこへなりとも行け。私は慈悲など持ち合わせてはいない」
 声に応えるかのように、子供の姿は薄れていく。
 寂しげな表情を浮かべたまま、子供は消えた。
「……」
 空になった腕を空にかざし、カーレンは目を細めた。
 竜の紋章を背中に負った子供。どうなるのかは分からない。前例はあったが、そのどれもが歴史の大きな渦の中心となり、数奇な運命を辿っている。
 なぜ、殺さなかったのか。


 そうだ。なぜ、殺さなかったのだろう。
 子供だからという理由ではないように思えた、とカーレンは薄ぼんやりとした意識の中で思考した。
(憐れみを感じたのではない……ただ、奇妙な感じがした)
 思い出しながら、カーレンの意識は再び、暗く深い闇へと落ち込んでいった。

□■□■□

 薄っすらと目を開けると、ぼんやりとした視界が見えた。
「っ……」
 軽く呻く。瞬きを何度か繰り返して、ようやく鮮明に見えるようになり、カーレンはベッドから起き上がった。閉められたカーテンの間から漏れる僅かな光だけが、暗い室内の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせている。
 沈黙したまま辺りを見回すと、容易に夜明け前だと知れた。視線をもう一巡させれば、ソファの上に、拗ねたように身体を丸めた黒狼の姿があった。
 ルティス。口の中で呟いた時、むっくりとその柔らかな毛並みに覆われた首が持ち上がった。
 蒼い目が闇の中から現れて、ゆるゆると瞬く。
『…………マスター』
 地を這うような声に、カーレンは溜め息をつきながら応えた。
「何だ」
 返事が返ってくるまで、しばらくの間があった。
『血の匂いがしていましたよ』
 言葉の意味するところに気付いて、カーレンは首の鎖を引いた。その先についているプレートを引きずり出して、眺める。
 普段は何の変哲もない、銀の板にしか見えないプレートの上に、紅く、文字が浮き彫りになっていた。
 薄暗がりの中、苦心しながら、文字の形を読み解いた。

『A』

「……A?」
 訳も分からないまま、文字を眺める。たった一文字、A。
 まじまじと見つめていると、文字が乾いた砂のように、プレートの中に引きずり込まれて消えた。
 手の中から視線を上げてルティスを見やると、彼は首を傾げた。
『A、ですか』
 そのまましばらく黒狼は考え込んでいたが、答えには行き着かなかったらしい。
『それは確か、未来の方位磁針のようなものでしたね。行く先に、Aに関するモノがあるのかも知れません。……前は、何の文字でしたか?』
 プレートを見つめながら、カーレンは記憶を手繰っていった。最後に文字が現れたのは、一ヶ月前だ。だが、厳密に言えば、それは文字ではない。
「竜の紋章」
 呟いてから、カーレンは奇妙な符合に寒気を覚えた。
「夢魔の印もあったな」
 今日の夢が、特別な意味を持っていると示していたのだ。そして、夢を見たから、次の未来を示す文字が現れた。
 これは偶然ではない。
 無機質な輝きを放つ銀の色を追い、カーレンは呟いた。
「確か、これには名前があったな」
『……ありましたね、そういえば。ヴィランジェという名前が』
 カーレンは『ヴィランジェ』を握り締めていたが、ふと思うところがあって、プレートを裏返した。
 竜の言葉と人の言葉で、ヴィランジェは二重の意味を持つ。一つは、裏表。もう一つは、予測。外れる場合もあり、当たる場合もある。だが、これの的中する精度は高い。
 そこに、もう一つの未来を指し示すものがあった。
 翼を折りたたみ、神々しく何処かを見つめる、竜の姿の刻印。日々、刻まれているものが変化していく奇妙な魔法具だが、これの示すものを正しく読み取れた試しはあまりない。だが、読み取れた場合というと、これ以上はないと言えるほど分かりやすい危険や変化が訪れる事が多かった。
「アラフル。それしか考えられない」
 思いついて名を口にすると、ルティスがさらに小刻みに耳を震わせた。
『アラフル様が? ですが、なぜ?』
 カーレンはベッドから抜け出すと、光を遮っていたカーテンを横へと押しやった。透き通った水のように透明で、朝の張り詰めた日光が部屋に差し込み、一筋の明るく、白い道を作った。
 振り返ってそれを見つめながら、カーレンはげんなりと呟いた。
「近々、会う事になるんだろう。……どうにかあの性分を直せないかな」
『……さぁ』
 珍しくも、諦めきったルティスの言葉が部屋に響いた。
「おまえですらそれか」
『クェンシードの一族の内、当主であるアラフル様に手をあげるくらい度胸があるのはマスターだけかと』
「……度胸云々の話をしたつもりではなかったんだが」
『要は貴方次第という事です』
 相変わらず素っ気ない返答に深く溜め息を落とし、カーレンは窓に寄りかかった。
 が、突然その窓が音を立てて開いた。
「っ!?」
 ぐるりと視界が回転し、身体が外へと放り出される。何が起こったのかわからないまま肘を後ろに突き出すと、強い衝撃が腕を襲い、次いで背中が硬い感触に当たって、頭ごと視界が揺れた。
「――うっ」
 全身を襲った猛烈な不快感に、カーレンは思わず、息を詰めて呻いた。
 吐き気を無理矢理押し込め、混乱している頭に最初に飛び込んできたのは空だった。頭上――頭より先として、頭上と感じている――には、土の匂いがある。地面らしい。
『何やってるんですか』
 ルティスがぼやく声が聞こえたが、それはカーレンに向けて放たれたものではなかった。

「カーレン、大丈夫?」
「……じゃなさそうだね」

 心配そうに覗き込んでくるのは、ティアとセルだと分かった。それとは別にもう一人、空だけしか見えない視界に逆さまに立っているのが見える。
「ラヴファロウ」
 やや怒気が感じられる声で呼ぶと、ラヴファロウは握っていた窓枠から手を離し、途方に暮れたように頬をかいた。
「いや、俺も故意に調子を合わせたわけじゃないぞ。おまえが勝手に倒れてきたんだからな」
「………………」
 何もいう気になれない。というよりも、いい加減に頭に血が上ってきていたし、ようやく状況が飲み込めた、というのもあった。
 どうやら、反射的に両足の膝裏を窓枠に引っ掛けていたおかげで、頭から地面に激突、という事にはならなかったらしい。肘が当たったのは窓の下にある壁で、勢いを殺しきれずに背中と頭を打った、という具合だろう。
 無理に引き伸ばされていた身体が苦痛を訴え始めていたので、カーレンは足と腹に力を込めて、宙吊りになっていた上半身を部屋の中へと戻した。少し足元の平衡感覚が狂っているが、すぐに戻るはずだ。
 慣れない感覚に顔をしかめながらも、カーレンはティア達に向き直り、ラヴファロウを睨んだ。
「何をしていた」
「特に何も。早起きした二人と一緒に庭の散策。おまえも行くか?」
「……執務は?」
「そんなの後々。決まってるだろ?」
 能天気な答えに、朝焼けの空を仰いでカーレンは嘆息した。
「――分かった、待ってろ。すぐ行く」
「あ、待って!」
 と、部屋の奥に引っ込みかけたカーレンをティアが呼び止めた。
「何だ」
「えっと、その」
 少し迷うような素振りを見せながら俯いた後、やがて意を決したのか、ティアは笑って言った。
「――おはよう、カーレン」
 カーレンはしばらく呆けていた。
 ……おはよう?
 朝の挨拶、のはずだ。となると、自分は同じように返さなければならないのだろうか。
 ごく当然の事について深々と思い悩んだ後、
「……ああ、おはよう」
 ぎこちなく頷き、目を逸らしてから背を向けた。
 気恥ずかしさで、妙に熱い。
『若いですね』
「……」
 そう囁いてからかってきた従者の額をカーレンは無言で軽く小突き、ソファに脱ぎ捨てていた上着を取りあげて羽織った。
『何ですか、さっきの気の抜けた一発は』
 軽く驚いたらしい。
 ルティスの声に、袖を通す手を止めてカーレンは答えた。
 柔らかく微笑みながら。
「たまにはいいだろう?」
 唖然とする黒狼を置いて、カーレンは窓をひらりと乗り越え、庭に降り立っていた。
「品がねぇな」
「お互い様だ」
 ラヴファロウの渋い顔にそう返し、カーレンは歩き始めた。立ち止まって、振り返る。 「どうした、ルティス。早く来ないと置いていくぞ」
『……マスターが笑ったマスターが笑ったあのマスターがあんなに優しそうに笑ったあのマスターが笑ってたまにはってどうなってるんですかマスターが笑うなんて、いやまさかあの時冷たい目とか普通にしてましたよね絶望どんぞことかの時もけっこう迫力ある笑い方しましたけどあんな柔らかい笑い方なんてほとんど見た事もいや絶対ありませんよ』
 熱に浮かされたようにぶつぶつと呟き続けているルティスに肩をすくめると、カーレンは言った。
「やっぱり放っておこう。何か悪いものにでも当たったらしい」
「おい……思いっきり嘘くせぇぞ」
 控えめにラヴファロウの突っ込みが入ったが、カーレンは無視した。
 代わりに、ティア達に今までの散策の成果を聞いてみる。
「ティア、庭でどの場所が良かった?」
「え? ああ、ええと……、あっちの方にすごく綺麗なバラ園があって、向こうにはユリとかも咲いてたわ」
「それはすごいな」
「うん。で、まだ見てない場所がたくさんあるけど、カーレンはお勧めの場所とか知ってる?」
「お勧めの場所……なら、こっちの道を行った先に花がある」
「花? どんな花なの?」
「別に、そんなに大した花じゃない。が……私とラヴファロウと、少し思い出深い花だ」 「本当? それは絶対見なきゃ!」
 ティアが飛び跳ねて喜んだ。
「では、この道から少し回って行こう。途中にもいろいろ咲いているはずだ」
「――楽しそうだね、ティアちゃん」
「私はいつでも楽しいわよ?」
 親しげな兄妹に微笑ましさを感じて小さく笑うと、カーレンは白い石畳に覆われた道を歩き出した。


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