Dragon Eye

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第一篇 - 一章 『ドラゴンの盟友』

-2- オリフィアの王都

 だだっ広い平原の真ん中に、巨大な城と、広大な町がある。オリフィア、その王が国を遥か高みから見下ろす場所であり、王都でもある、国の要。
 純白の巨大な城は濃紺の屋根を被り、鮮やかな色合いを、町に、民に、都を目指す者に、惜しげもなく見せつける。
 華やかに賑わう通りを行き交う雑踏の中で、あ、と声をあげ、空を見上げた青年がいた。右半分の髪が白く短い、濃紺の髪をした彼は空を見上げ、息を呑む。
 青年の声に何事か、と空を見上げた者たちは、畏怖と、嬉々、両方の感情をない交ぜにした息を、呑んだ。
 人々は口々に決められているとでも言うように、言葉を紡いだ。彼だ、あの方が戻ってきた、と。久しぶりに見るな、と言う者もいれば、まだそれほど経っていない、と主張する者もいる中、空に鈍く浮かび上がる、巨大で黒々とした影が、平原に降り立つために急降下する。
 青年は深い感嘆に息を漏らし、いつ見ても神々しいその姿をうっとりと見つめていた。

 ――この町に、この国に、久方ぶりに。

 彼が、戻ってきたのだ。
 雷が落ちたと感じるほどの震えが、喜びと共に全身を駆け抜けた。
 将軍、と部下が呼び止める声も聞かずに、青年は走り出した。ただ、喜びだけを胸に抱いて。

 ああ、戻ってきたんだ。会いに行こう。迎えに行かなければ。

 自分の顔を見て、彼はどのような顔を見せてくれるだろう?

□■□■□

 着陸する際に生まれた風が吹き荒れ、収まるまでに、それほど時間はかからなかった。降りる暇もなく人の形態を取られてしまい、ティアとセルは無様にも地面を転がった。
「カーレン、これはさすがにひどいわよ」
「ちょっと頂けないというか何というか……って、カーレン!?」
 仰向けになったままのティアの文句を引き継いで、同じように不平を述べようと起き上がったセルは、身体の感覚が戻らないのか、座り込んでいるカーレンの姿を見て仰天した。ティアも何事かと頭を上げて、わっと小さく悲鳴を上げ、慌てて目を逸らす。

「ああ、すまないな。ドラゴンから人の形態を採る時は、脱皮するような感覚でなるんだ。だから、元に戻ったとき、着ている服も脱げる」

 とのたまったカーレン。言ってくれる。いや、それ自体はいいのだ、別に気にしなければいいだけの話で。ただ、

 いったいいつ、それだけの服を脱いだのだ、と、ティアはカーレンに問い詰めたい。
 なぜ、全裸。どうして、全裸。せめて一糸纏わぬ姿より、一糸でいいから纏ってくれたほうがまだマシだというものだ。

「どうやったらそんな複雑な服を全部脱げるの!?」
「ティアちゃん、それは聞かないほうがいいと思う。それよりもカーレン、早く服を着た方がいいんじゃ」
「今、こうして着ているだろう」
 カーレンの足元に一塊になって落ちている服を、彼は拾い上げ、とりあえず下着とズボンを身につけた。上着は下着の上に着るものと、さらにその上に重ねる、神官が着ていそうなものの二枚があるのだが、何やら金具がたくさん付いていて、着るのが面倒な上、脱ぐのも大変という旅装にあるまじき服だった。
 下着の上に黒衣を重ねると、どこかの将軍のような出で立ちでもある。もう一つの上着がそれをすっぽりと隠してくれるために、今まであまりそのような印象は受けずにいただけだったのだろう。
「やはり、衣服に身を包んでいるとほっとするな」
『それなら最初から元の姿に戻らなければ良いでしょう』
 とがめるような声と共に、するりと地面から這い出てきたのはルティスだ。どうも、物に溶け込める性質を持っているのか、勝手が違うというか何というか。

 ぱち、ぱち。

 迫力も気品も全くなさそうな音を立てて金具が次々にはめられていき、ようやくカーレンは黒衣の全てを着け終わった。
「……よし」
 軽く自分の様子を確認した後、カーレンはひとつ頷いた。濃紺のマントを手早く身にまとい、肩のぎりぎり下までの髪を右手で払う仕草をする。その拍子に、耳元で何かがきらりと光ったのを、ティアは見逃さなかった。
「あれ? カーレン、耳飾りなんてしていたっけ?」
「ああ、これか」
 カーレンは右耳に一つだけ吊り下がっている耳飾りを、軽く指でなぞった。よく見ると、細かく浅く、見事な装飾が施されている。恐ろしく値が張りそうな代物だった。
「おまえが屋根から降ってきた時もしていたが。気付かなかったのか?」
「……それだと、いくら旅人の格好をしていても追い剥ぎに合うんじゃ」
 セルが至極まともな意見を述べたので、ティアはうまくそれに便乗、うんうんと頷いた。
 カーレンは首を僅かにすくめた。
「まあな。何度か値打ちの分かる奴に出くわして、その度に切り合いになった」
 き、切り合いですか。さらりと言うところがどこか憎いなぁ。いや、そうじゃなくて。
「否定はしないんだ?」
「してどうする」
 カーレンの顔がしかめられた。
「実際にあったことを否定して、それで何か変わるのか?」
「何も変わらないんじゃないかな」
 とセル。
「ならいいじゃないか」
 それも何か違う気がするのだが。消化不良になった気分で頭をひねっていると、セルがぽんぽん、と肩を叩いてきた。細かいことは気にするな、ということだろう。
「はげるよ」
 その一言さえなければ良い人なのに。
「ねぇ兄さん、張り倒してもいい?」
 一瞬でも感謝しそうになった自分が愚かなのではないか、とティアは思った。
 兄と妹、血は繋がっていないとはいえそう呼び合っているのに、それはあまりにも失礼だ。世の女性に対する侮辱に相当する。親しき仲にもなんとやら、である。あまりの恥辱と怒りに、ティアは細い(と自分でも自覚している)肩を震わせる。
 ぷっ、と小さく噴きだす気配がして振り向くと、カーレンが控えめに笑っていた。
 こちらに気付くと、涙を目に滲ませて言う。
「すまない……が、セルの言葉も一理あるな」
「カーレン!」
「悪かった。さ、そろそろ行くぞ。こんなところで立ち往生していては、いつまでたっても王都に入れないからな」
 くっくっと喉を震わせながらも、カーレンは王都に向けて歩き出した。その足を、先ほどからうずくまっていたルティスが鼻先でつつく。
『マスター』
「ん、どうした」
 どことなく不安げな目を伏せて、ルティスは続けた。

『二人の格好をどう説明するつもりですか』

「……ああ」
 ぽん、と手の平を拳で打つカーレン。
 そう。今のティアとセルは、薄汚れたシャツ一枚、ズボン一枚で身体をやっと隠しているような状態なのだ。王都に入るなら、それなりの格好をしておかなければならないのでは、とティアも薄々感じていたことだった。それをどうするか、カーレンは考えていたのだろうか。
「忘れていた」
 やっぱり。二人で揃って肩を落としかけたが、なぜかここで、カーレンは含み笑いを漏らした。
「そのことだが、まぁ一応考えてある」
「…………え?」


 自分たちはともかくとして、なぜカーレンまでもが町を覆う壁を登っているのだろう。ティアは先ほどから、それだけをずっと考えていた。考えながら、白い城壁を構成する積み石の僅かなでっぱりに、指をかける。
 少し前を先行するカーレンは、慣れたものといわんばかりの身のこなしで、軽業師のように登っている。セルやティアも同じ芸当ができるのだが、できるだけ動きを目立たないようにと気を配っていた。そんなことはお構いなしなのか、カーレンは散歩でもするような気楽さで、とうとう城壁の頂上に設けられた通路に降り立った。
「どこが一応考えてあるのよ。考えるところが違うんじゃない?」
「登る場所とタイミングぐらいだな。それに、ちゃんと考えはあるぞ」
「それって全然考えていないって言わないかな? 考えって言っても何だか信じられないけど」
 ティアとセルの緩やかな指摘に、いや、とカーレンは笑った。
「これが結構、意外と重要なものだ」
『来れば分かりますよ』
 ルティスとカーレン。含みのある言葉に首を傾げている内に、カーレンはひらりと城壁の向こう側へ飛び降りていた。ルティスもさっさと主の後を追う。……おそらく自分の身長の五倍はある城壁。落差も相当なもののはずなのに、トッ、と軽い音しかしない。ティアとセルが続けて飛び降りると、カーレンはまた歩き出し、それほど離れていない建物の裏口に通じているらしいドアを、軽く五回叩いた。
「依頼があるんだが」
 小さく、はっきりとした言葉をドアに投げかける。カーレン、とティアが呼ぼうとすると、カーレンは人差し指を立てた。喋ってはいけないのだろうと思い、口をつぐむ。
 その時、ぼそぼそとドアの中から小さな声が聞こえた。カーレンは耳がドアに触れそうなほど顔を近づけて声を聞き取ると、返事にこう返した。
「……主に伝えてくれ。『亡霊が帰ってきた』と」
 不気味な言葉だ。困惑しながらもセルと顔を見合わせていると、さっきよりも大きな、くぐもった声が、ドアから響いた。
「はいんな、旦那」
 カーレンはためらいなくドアを押し開けて、こちらに向かって手招きした。ティアとセルが恐る恐る、だが確かな足取りでドアをくぐると、そこは小さな酒場の倉庫に見えた。
 黒く変色した棚にはいくつもの果実酒の瓶が並び、壁という壁を覆いつくしている。酒を貯蔵しているからなのか、少し肌寒い。その中央には年季の入った巨大な飴色の机と、木の椅子に腰掛けた、中年のでっぷり太った男が陣取っていた。紫の上着を羽織って、羊皮紙に羽ペンを走らせている。と、その顔がカーレンに気付いて、羊皮紙から上がった。
 男は顔に埋れそうなほど小さな目をカーレンに向けると、嬉しそうに立ち上がり、両手を広げてカーレンを抱擁した。カーレンはそれに少し屈んで抱き返すと、男に耳元で何事かをささやいた。男はそれに頷くと、あたふたと落ち着かない足取りで、棚に載っている瓶の一つを軽く上下させた。しばらく待った後、金属が触れ合う音がした。隠し扉というやつだ。
 棚を開いて身体を滑り込ませていった男は、しばらくして、二つの箱を抱えて戻ってきた。
「旦那、あんた、よく無事だったもんだ。炎塔の奴らをえらく怒らせたって聞いたが、こうしてぴんぴんしてなさる」
 にこにこと笑みを浮かべてやや甲高い声を出す男に、カーレンは微笑を返して、箱を受け取った。振り返って、ティアたちを呼ぶ。
「ティア、セル。こっちに来い」
 言われた通りにカーレンのそばまで近寄ると、カーレンはティアとセル、それぞれに箱を手渡した。意外と重い箱だが、机と同じ飴色の木でできており、薄い板に見事な透かし彫りが施されている。かなりの業物に違いない。頑丈であることを前提にして、中の物を外に見せずにここまでの彫りこみができるのだから。
 机の上にひとまず置かせてもらって箱を開くと、黒いビロードの布が、赤いリボンで丁寧に飾られていて、ひと目で包みだと分かった。シュル、と音を立ててほどけたリボンを脇に置くと、そっと布を持ち上げて、包みを開く。
「…………カーレン、これって?」
「格好をごまかすにはもってこいの物だろう?」
 すっ、と自然な笑みを浮かべて、カーレンは言った。
 ティアは頷いた。
 確かにそうだ。ティアは包みの中央から、形よく畳まれた淡い品のある赤のマントを持ち上げて、広げた。やわらかな布の感触に、手が埋れていくような錯覚さえ覚える。
 カーレンの濃紺のマントも驚くほど上等だったが、こちらもそれに負けず劣らず、といった感じだった。抑え目の白で裾に施された蔓のような刺繍が美しく、鎖骨の高さで留められるように、ひし形の枠に丸い真紅の宝石をはめた金具が、炎のブローチを連想させる。
 セルは既にマントを身につけて、どうかな、とルティスに見てもらっていた。似合っていますよ、という言葉にティアがセルを見ると、なるほど、似合っている。
 鮮やかな色彩とまでは行かないが、落ち着いた翡翠色の布が使われていた。光の角度によって、青味を帯びたり、明るさや黄味が多くなったりと、不思議な布だ。そのくせ、あっさりとしていて、銀の小さな細工が施された金具も粋なものだった。
 ティアはマントで身体を覆い隠した。これならそんなに激しい動きをしない限り、足首まですっぽりと覆われて、どんな格好をしているか分からない。金具を留めた後、両腕で長い黒髪を後ろへと流して、頭を軽く振って整える。
 くるりと一回りしてから、カーレンをそっと見た。予想していたのか、カーレンはティアの姿を見て、頷いた。
「淡い色が、よく映えている」
 垂れ下がっていた髪を一筋すくって、耳元にかけてくれる感触が少しだけくすぐったい。
「旦那にお似合いのお嬢さんだね。手篭めにでもしたかい?」
「口が過ぎるぞ」
 呆れ顔で言うカーレンに、ティアも頷いた。まだ出会って数日なのに、簡単にどうにかなっては困るのだ。加えて、できればそんな関係は持ちたくない。
「……装飾品でもつけたら似合いそうだがねぇ」
「飾りか。別にあっても良いが、狙われやすくなるからな」
 そこも考えないといけないね、と男は言った。にかっと邪気のない笑みを浮かべる男を、ティアは孤児の目線から眺めていた。カーレンとこの男はどういった経緯で知り合ったのだろうか、いやそれよりもはるかにこの男はうさんくさい、と。
「ま、ハルオマンドの連中に鬼神とまで恐れられたあんたはこの国の救世主様だからな。金は要らない。命を助けてもらっただけでもう十分な値打ちがある」
「それって、どういうことなの?」
 言って頷いた男に、ティアはそれとなく尋ねた。カーレンが鬼神。どういう意味なのだろうか。
「おや、お嬢さんは知らないのかい? 旦那の四年前の活躍ぶりといったらまぁ、物凄いもんでな、こう、ハルオマンドの奴らを――」
「マリフラオ」
 話の途中でカーレンが割り込んできた。少し苦い顔をしている。
「……あまり、その話は持ち出すな。思い出させないでくれ」
「おお、旦那が足元から心底嫌っている人の話なら、そりゃあもうたっぷりと聞かせて差し上げますが」
「やめろ」
 たった一言に、棘という生半可なものではすまない気配が漂っていた。
「…………へい」
 マリフラオはさっと青ざめて、必死に頷いた。カーレンはどんな顔をしていたのか、と本気で気になる。
 カーレンはそこで、自分の失態を悟ったらしい。僅かに居心地悪そうに身体を動かすと、マントなどの衣服の乱れを直し始めた。どうも取り繕う時の癖のようだ。
「脅してしまったな。すまない。どうも奴のことになると、顔が強張るんだ」
 顔を手で揉み解すようにしながら、カーレンが言った。マリフラオも気を取り直したのか、いくらか血色の戻った顔で頷く。四年前のことは禁句、とティアは頭の隅に留めた。
「……カーレン?」
「何だ、ティア」
「ううん、何でもない」
 気のせいだろう、と思うことにした。
 こちらを見やったカーレンの顔が、一瞬だけ猛吹雪の中にいるような冷たさを帯びていた。ひやりとする感覚、表情。誰かと、顔が重なる。
 白銀の男。
「レダン」
 ぽつりとその名前を呟いたとき、カーレンは目を鋭いものにする。
「ティア。レダン、とは?」
「え? うん……カーレン、レダンって名前のヒスラン人を知っている?」
 カーレンはしばらく思案するような素振りを見せたが、やがて首を横に振った。
「いや。知らないな。聞いたこともない」
 なら、カーレンとレダンの間には、何も関係はないということだろう。それにしても、あの追っ手たちの言葉が気になるが……。ティアは考え込んだ。
「マリフラオ、礼を言う。おかげで助かった」
「あ、いえいえ、お役に立てて光栄ですよ。私などでよければ、ぜひ協力させてください」
 カーレンは小さく頷いて、テーブルの上に右手を出した。木と何かがぶつかり、コツンと硬質の音がするのに気付き、セルが何だろうと覗き込もうとしている。しかし、それを見極める前に、マリフラオはテーブルに置かれたそれを握りこみ、中身を確かめて、ただ静かに頭を下げた。
「さて、――行くぞ」
 カーレンは何も言わず、ティアとセルは、小さな裏店に別れを告げた。
 歩き出したカーレンの後を早歩きで追いかけていると、カーレンがティアを呼んだ。
「ティア。さっきから言おうと思っていたが……」
「ん?」
「髪に、何か異変はないか」
 髪、とティアは呟いた。何のことだろう。
「……何もないけど」
 背中に落ちる黒髪を丹念に調べた後、ティアは言った。
「――そうか。どうやら成功したらしいな」
 ぽつりと呟いたカーレンに、ティアはますます訳が分からなくなった。
「何が言いたいんだい、カーレン?」
「いや、特には。ただ、気になることがひとつ増えただけだ」
 セルの訝しげな質問に、カーレンは淡々と答えた。
『マスター、そんな答え方では余計に気になりますよ』
 ルティスが言った。
 カーレンはしばらく答えなかったが、観念したように、息を一つ吐いた。

「ティアの髪。その中に一筋だけだったが、探知系統の呪術が込められていた」

「「『……』」」
 全員が足を止めて、ティアを見る。
 ティアも唖然として、カーレンを見た。
「いつか、誰かに髪を触られたことはなかったか?」
 カーレンが疑惑の視線をティアに送る。
「さっきの店でカーレンに」
「いや、その前だと僕は思うんだけど」
 セルの小さな指摘に、ティアはじゃあいつだ、と記憶の糸を必死で辿る。
『覚えはありませんか? ……ところでマスターは、それをもう?』
「ああ、ティアが言ったように、直接触れて解除した」
「直接って……カーレンは術者としては相当の腕利きなのかい?」
「さあな。比べたこともない」
「みんなちょっと黙っててくれる?」
 苛立った声を上げると、ぴたりと二人と一匹が口を閉じて、壁沿いの裏通りは静まり返った。人通りが少ないというよりは、喧騒から離れている上に、ここには夜、兵士たちが詰めるからだろう。なるべくなら関わり合いになりたくないということだ。
 そんな中でティアは、必死に港町での記憶を探っていた。
「カーレン、術が込められたのってどのぐらい前か、分かるかい?」
 見かねたセルが、助けになればとカーレンに尋ねた。
「さあな……。あの感じだと、ちょうど、リスコを旅立つ直前にかけられたのかもしれない。考えられるとするなら、おまえがセルと靴を探しに行ってい」
「ああああああ!」
「……思い出したのか」
 耳を塞ぎながらカーレンが聞き返してきたが、ティアはそれどころではなかった。そういえば髪を触られた。その前に、なぜ聞かれた時点で思い出さなかったのだ。ついさっきも本人のことを頭に思い浮かべたばかりだというのに!
「レダン!」
 カーレンに人差し指を突きつけて怒鳴ると、ティアの剣幕に圧されたのか、カーレンは少し息を呑んだらしかった。
「さっきカーレンに話したヒスラン人! そういえば、私の髪に触ってた!」
「……あいつだったのか」
「そう、あいつだったのよ! もー怖くて怖くて……って、カーレン、あいつだったのかってどういう意味?」
「え? あ」
 しまったという表情。
『……レダン、という名のヒスラン人と聞けば、あのレダン・クェンシードしか考えられないのですが。マスター、あなた、ティアさんに聞かれた時、絶対に"わざと"トボけましたね?』
「いったいどういうことなんだい、カーレン?」
 確信した様子のルティスに気圧され、ティアにも睨まれ、セルにも疑問の目を向けられた。カーレンはあっけなくぼろを出してしまったのが余程応えたのか、ぐぅの音も出ないらしかったが、やがて、ふとその顔から表情が抜け落ちた。
 あまりの変貌ぶりに二人は面食らっていたが、ルティスだけは冷静だった。
『マスター。そういえば、あなたがこの都から旅立って一年ほどした時、私に眠り薬を飲ませたことがありませんでしたか?』
 一言も発することなく、目を逸らすカーレン。じっと感情の読めない目で見つめ、尻尾をぴくりとも揺らさず垂らしているルティスに、ティアとセルは困惑して顔を見合わせた。
 何か、カーレンの逆鱗に触れたような気がしてならない。居心地がひどく悪いと感じて、ティアは口を開こうとしたが、ルティスに先手を打たれた。
 重い空気を無理やり破り捨てたルティスの声は、やはり不自然に明るかった。
『おかしなことを聞きましたね。こんなことは忘れましょう。ここは王都です、せっかく来たのですし、楽しまなければ損でしょう?』
 言って、セルに飛びついたルティスを一瞥し、ティアはカーレンを振り向く。本当なのか、という意味合いを込めた問いかけの視線に、カーレンはそうと分かるぐらいにはっきり頷いた。次の瞬間、彼は弱々しく笑って、唇を動かした。音などなく、読唇術などを学んだ覚えはなかったが、カーレンが何を言っているのかティアには分かった。

『いつか、おまえにも話さなければ、な』

 その目は暗く淀んでいたが、一つ瞬きを経た後には、また元の、深くまで見通せそうな真紅の双眸があった。
「カーレン」
 気遣う声音を乗せてそっと呟くと、カーレンは首を振った。
 気にするなというのか。
「いい。さて、王都には珍しいものがあるにはあるが、いくらマントで隠しているからといっても、何かと不都合があるだろうからな。……やはり奴のところにいかなければならんか」
 最後の一言だけ、なぜかカーレンは付け加えるのさえ嫌そうだったが、それは別に気にしないでおいた。たった今、カーレンの触れて欲しくない過去に触れかけたばかりなのだから。レダンがどうであれ、カーレンの過去がどんなものであれ、今回は一切何も気にするまい、とティアは心に決めた。
 ……しかし、それが土台無理な話であったと気付くのに、そう時間はかからなかった。


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