Dragon Eye

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第一篇 - 序章 『潮風の港町から』

-3- 闇を燃やす光

「まさか、いきなり倒れるとは思わなかった」
『よほど怖かったのでしょう。怖くないほうがどうかしていますからね。どこかの誰かさんと違って、よっぽどましな女の子ですよ。契約者に選んだドラゴンは、いい仕事しましたね?』
「おまえは……」
 カーレンは嘆息しながら言った。
「決めるのはまだ早い。そもそも、彼女の眼がそうだという証拠はない」
『まぁ、それもそうですが』
 ベッドに――、もっと詳しく言うなら、眠っているティアの傍に腰掛けているカーレンに向かって、ルティスは低く抑えた声で、矛盾点を指摘した。
『仮にそうであったとしても、あまりにも不自然です。あそこからこの町まで、一人の子供が自分の力で移動できるはずがないし、この町自体にドラゴン・アイが出現するような歴史の後も見当たりません。外からほとんど手探りのような状態で逃げてきたか、何者かに無理やり飛ばされたとしか考えられない。あなたもそれは分かっているから、ティアさんを旅に連れ出すのでしょう?
――奴らの狙いを挫くために』
「もしもの話だろう? そうでなくても、目をつけられやすい存在だ。放っておくには危険すぎる」
 そう言うと、カーレンは備え付けの机の上に手を伸ばした。ランプを消して、床の上に広げた毛布に包まる。少し前に、宿の人間に言って借りたのだ。
 宿の一室は旅人が泊まるには少し広いくらいの大きさだった。それだけ場所に余裕があるのだろうが、ランプの光があっても、まだ闇が残るというのは、カーレンにとっては落ち着かないものに感じられる。
 いつから、自分は闇を恐れるようになったのだったか。薄く追憶の彼方へと思考を飛ばしていると、後ろで床にうずくまっているはずの黒狼の、小さな言葉が耳に入った。
『まだ、思い出せないのですか』
「…………」
 カーレンは毛布に顔を埋めた。日に干されたのか、潮風の香りが鼻腔に淡く甘い刺激をもたらすのが分かった。
 ルティスの問いに、カーレンは答えない。代わりに、いつもの会話を交わした。
「少し寝る。――夜明けまでには起こせ」
『分かりました。おやすみなさい、マスター』
 背後に浅い獣の眠りにつく気配を感じて、カーレンはただの息を、緩やかに吐き出した。
 背中を、手で軽く探る。そこには本来なら、斜めに深い傷跡が走っているはずの場所だ。
 ない。それは当たり前のことなのに、逆に自分が人間ではないことを、容赦なく突きつける。
 ただの人間だったらまだ良かったのかもしれない。だが、人間にできないことができるから、良かったこともあった。
 考え事をしていても、眠れない夜は退屈だった。
 明日には、次の旅のために町を歩き回らなくてはならない。
 寝ておいたほうがいいことは明らかなのだからと、カーレンは唇だけを動かして、軽く言葉を口ずさむ。
「眠りを」
 すぐに、睡眠薬を飲まされたような倦怠感が襲ってきた。
 ようやく眠りにつける、とカーレンが眼を伏せた、その時だった。
「! こんなところにまで」
 濃厚な闇の気配がする。素早く起き上がると、ルティスは既に低く唸り声を漏らしていた。
『どうやら、予想以上に勢力が強まっているようですね。全く、こんなことになるなら仕事を引き受けなければ良かったのに』
「どの道やらなければならなかった。文句を言うな」
 軽く叱咤すると、カーレンは右手を水平にかざした。それに答えるように、壁に立てかけてあった剣が、鞘ごと飛んでくる。パシッと乾いた音を立てて受け取ると、そのまま刀身を引き抜いた。と、思い出したように跳ね除けた毛布を拾い上げると、手の平に浮かべた銀色の魔術の力を注ぎ、眠ったままのティアに被せた。毛布は一種のバリアのような役割を果たすはずだ。
 音もなく窓まで移動して、部屋の中を見渡す。ぱっと普通に見ただけでは、先ほどと何も変わらない。
「――瞳よ」
 カーレンが呟くのと同時に、眼球に巡る血が、熱く煮えたぎるのが分かった。
 自身のドラゴンアイを発動させ、一瞬の間に訪れた変化が終わると、宿の一室であるはずのそこは、黒よりも濃い闇で埋め尽くされているのがはっきりと見て取れた。
 常人を超える者だけが見ることのできる世界が、そこに広がっている。
『嫌なにおいがする……。危険です』
「分かっている」
 短く返すと、左手に握った白刃を一閃した。すぐ傍にまで忍び寄っていた闇の一部が、弾かれたように後退する。
 背後の窓を開け放つと、カーレンは迷うことなくそこから飛び出した。振り向きざまに白い閃光を浴びせると、カーレンはよろめきながらも通りに降り立った。開いているほうの手で目を覆い、小さく呻いた。
「くっ……!」
 よくある目くらましなのだが――、夜目が利くせいで、光が何十倍にも感じられる。続いて降り立ったルティスの呆れた言葉が耳を打った。
『何を自分まで巻きぞえくってるんですか、情けない』
 そのまま無視した。返答している暇がない。
「――来たぞ」
 やや勢いが弱まったものの、黒い靄が、頭上から恐ろしい速度で雪崩れこんできた。
 咄嗟の判断で、剣に薄く魔力を流し、大きく横薙ぎに払うと、そこだけ闇が退いて穴が開いた。その、ほんの僅かな隙に突っ込むことで、ぎりぎり逃げおおせる。
「なぜ宿の者が起きない?」
 走りながら問いかけると、同じようについてきていたルティスは分かりません、と答えた。
『おそらく、闇が全員の体に暗示をかけたかと』
 路地に入り込むと、ざわざわと蠢きながら、闇が後ろを滑るように追いかけてくる。
 ――面倒なことになった。
『どうします』
 ルティスが言うと、カーレンはちらりと、毛長の狼を横目で見た。
「このまま焼き払う」
『何ですって?』
 自分から聞いたのだろう。カーレンは驚きの声を上げたルティスをじろりと睨み、何も言わずに跳んだ。石畳を強く叩く音が路地に反響する時には、カーレンの身体は既に中空で無防備な姿勢を晒している。
 うねって追いかけてくる闇を見据え、カーレンは冷たく嘲笑う。
「たかが使い走りに過ぎないおまえたちに、私を捕まえることができるものか」
 右手を広げると、その上に七つの銀色の雫が渦を巻いて浮かんだ。明るく手の平を照らすそれらを見つめて、一番外側のもの以外を消失させる。
 凍えるほど温度の低い笑みと共に、カーレンは雫を握りつぶし、拳を空中の巨大な靄に向かって叩きつけた。
 冗談じみた光が溢れた。明るい銀色の閃光が闇を焼き尽くす。至近距離からの光熱波を受けて、カーレン自身もまともに吹き飛んだが、どうにか建物の一つにぶつかる寸前で止まることに成功した。
『マスター、ご無事ですか』
 ルティスが安否を尋ねながら路地を駆けてくるのを見て、地面に降り立ったカーレンは、安堵ではない吐息を吐いた。
「見ての通りだ」
 そうとだけ言って、カーレンは疲労に倒れこんだ。光熱で腕に軽い火傷を負っている以外は特に何もなかったが、先ほどの大規模な魔術の行使によって、人間の身体のほうが根を上げたのだ。
「動けない。宿まで連れて帰ってくれ」
『……後先考えずに行動するからです』
 ぴしゃりと言うが、それと同時に、ルティスの身体はむっくりと膨れ上がった。大きさは普段の三倍以上にまで達している。
 人間の男一人を運ぶくらいは何でもないが、背に乗せる方法が大雑把だった。かぷりと咥えて、後ろへ軽く放り投げるのだ。カーレンの小さな抗議にも耳をかさず、ルティスは走り出した。


「……ふーん。なるほどね」
 命からがら、主人の元に辿り着いた僅かな闇は、その手の上で傷ついた体を休めていた。使い魔たちの主張を聞いて、男は呟く。
「ずいぶんと派手にやってくれるよ。七年前とは勝手が違うというのに、あんな術を使いこなすなんて、俺は彼を侮りすぎていたのかな」
 銅色の髪をさっと後ろに払い、にっと茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべる。翡翠色の目がゆっくりと喜悦に細まった。
「ん。この町を殺しても割に合わなさそうだしねー。大体、同じ場所に二人もいるんじゃ、こっちが殺されちゃうな。久しぶりに奴らに会いに行こうか?」
 どうする? と闇たちを指先で突っつきまわすと、くすぐったそうに身をよじっている。
「次の集合場所って……あー、あそこか。うんん、どうしようかな。会うか、それともあっちを見てみようか……」
 男は楽しそうに迷っている。どちらが面白いだろう。奴らは会っても無愛想なだけだが、彼らは違う。自分を楽しませてくれる。
「――まぁ、楽しみは後に取っておけばおくほど良いからね。しばらく、二人とも泳がせてあげるか」
 ぴん、と指を弾ませると、男は空へと舞い上がって、夜空の風に溶けて消えた。

□■□■□

 一夜明けて、カーレンは眠ったままのティアを残して、ルティスと共に町に繰り出していた。
 それにしても、朝の港町は騒がしい。昨夜、魔物の襲撃があったにも関わらず、朝から物売りや買出しの人々で賑わっている。さまざまな声が飛びかう中を歩き回りながら、カーレンは脇を歩いているルティスにこっそり問いかけた。ちなみに今、黒狼の姿は、真っ黒で小さな犬になっている。ひょろりと長い尻尾はそのままだが、これは魔術師の使役する精霊に良く似ているので、別に怪しまれるということはない。
 本来魔物という立場なので、町にいる時にはこの格好をしろ、と言った時、丸三日は渋っていた記憶があるだけに、なかなか面白い。
 とまぁ、それはさておいて。
「どうだ」
『ありません。昨夜の襲撃までの匂いはごくわずかに……ですが、それ以上は』
 主旨のない会話だが、カーレンにはそれで十分だった。
「やはり、ここも駄目か……」
 カーレンは落胆の意味もこめて、肺の中の空気を押し出した。
「奇妙な奴だ。たしかにそこにいたはずなのに、突然いなくなる……。ベルが知りたがるのも無理はない、か」
『焦ってはいけません。まだ調べ始めたばかりです』
「……そうだな」
 ひとつ頷いて、カーレンはちらりと後ろをふりかえった。
「追手は、この町にはまだ来ていない。奴らと関わると面倒だ」
『……』
 ルティスはしばらく答えなかったが、やがて口を開いた。
『どうするおつもりでしょうか』
「早めにティアを連れて、町を出る。彼らはドラゴンアイに異常な関心を示している。彼女の安全が最優先だ」
『では』
「山向こうへ抜ける――くっ」
 全身を走る鈍い痛みにわずかに顔を歪めると、カーレンは頭を振った。身体が逆転するような妙な感覚を、壁に体を預けてやりすごす。
『マスター、まだ身体が……』
「いや。気にするな」
 カーレンは、空を仰いで目を閉じた。こうしている方が、ただ立っているより楽だからだというだけだったが。
「――大したことはない」
『その言葉、確かですね?』
 ルティスは疑いの視線でカーレンを見つめていたが、やがて、ふ、と顔を逸らした。
『戻りましょう』
「ルティス?」
『もう痕跡はありません。これ以上歩いても負担が増すだけ……それに、彼女もそろそろ目を覚まします』
 カーレンはしばらくルティスを見つめていたが、後ろで尻尾がわずかに震えているのに気付いて、理由を察した。
「……ああ。心配させてすまない」
『別に、心配をした覚えはありません』
 意地っ張りな奴だな、と感想を漏らすと、
『大きなお世話です』
 長い尻尾が頬をはたき、カーレンの顔は壁に激突した。
「〜〜っ。ルティス!」
 そっぽを向かれた。カーレンは赤く腫れた顔をさすってはいたが、何も言わなかった。無茶をしたのは自分なのだから、怒るのは筋違いだと分かっている。が、これはあまりにもあんまりだろう。さっきの叱声はその抗議のためでもあった。
「……あの、カーレンさん、ですか?」
 と、そこに割りこむ声がひとつ。
 一人と一匹がふり向くと、そこには細身の、黒髪に淡いバイオレットの瞳を持つ青年が立っていた。街を歩くときにしか着ないのか、やけに巨大な茶色いローブに、すっぽりと身を包んでいる。カーレンは誰だと聞きかけて、彼のことを思い出した。確か、ティアと最初に会ったとき、彼女を呼んでいた。
「おまえは」
「……僕はセル。セル・ティメルクです。あなたを、朝からずっと探していました」
 一礼すると、セルは顔を上げて言った。
「ティアちゃんに、伝えてほしいことがあるんです」


 闇の中、男の声が、ずっとティアに語りかけていた。白い髪に、濃い青紫の瞳が印象的な人だったと思う。全て闇だというのに、なぜそれを知っているのかは、自分にも分からなかった。
 苦しみに満ちた声がする。悲しみ。後悔。嘆いているような、声が。
『どうして……?』
 いったい、なぜ。どうして。

 わたしをどうしてたすけるの?

『行け』
 そのあと、最後に聞こえた言葉は、掻き消えそうに小さかった。でも、不思議とティアの耳には残っていた。自分は絶対に、この言葉を忘れられないと思った。

「……あの人、誰だったんだろう」
 呟いて目を覚ますと、ティアは何を思い出したのだろうと考えた。考えて、笑った。何を言っているのだ、自分は。あの、目が熱くなる感覚に初めて出会った時のことだ。忘れないわけが……。
 ティアの笑みが凍った。

 ………………………………自分はまだ、夢を見ているのか?

「――あれ?」
 こめかみに手をやると、ティアはすぅっと顔から血の気が引いていくのが分かった。悪寒がする。何だ、これ。気味が悪い。
「――えぇ!?」

 リスコに現れるよりも前の記憶がある!

 そこで周りの様子に気付かなければ、ティアは根拠のない恐怖にかられて、悲鳴を上げていたかもしれない。

「――っそういえば、ここは?」

 ゴミ溜め通りでもなければ、ユーラと戦った時計台の下でもない。見たこともない場所――というより部屋の中で、ティアはベッドの上に寝かされていた。
 部屋の床を踏みしめて立つ。気付けば着ているものは普通の寝間着で、ティアがいつも着ている孤児の服ではない。そういえばそれも昨夜は着ていなかった。振り返ってベッドの脇のテーブルを見ると、きちんと畳まれた毛布の横に、同じくらい几帳面に畳まれた青い服と、短剣がある。ブーツは今、ベッドの下にあったものを履いた。ということは、
「全部、そろってる?」
 捕まえるのならこんなやり方なんてしない。つまり、これは誰かが助けてくれた? いや、その誰かに運び込まれたと言ったほうが正しいのか。しかもご丁寧に、眠っている間に湯浴みまでさせてくれたらしく、身体は清潔な状態だ。ゴミの匂いなんてどこかに消えてしまっていた。
 洗ってくれたのが男の人だったら嫌だなぁ、と素直な感想を漏らした時、部屋の隅にある荷物に目が留まった。
 剣も一緒に立てかけてあるらしいが、隠すためにか、黒いコートがかけてある。見覚えのあるコートが。
「カーレンが、私をここまで運んできてくれたんだ……」
 何だかすごく恥ずかしい。自分はきっと、とても迷惑をかけてしまったのだろう。
 カチャ、と背後でドアが開いたので、ティアはぎょっとして後ろを振り向いた。
「……あ」
 声を出して、なんだ、とティアは思った。
 入ってきたのは、カーレンとルティスだった。ティアが部屋に立っているのを見ると、少し頷いて、後ろ手にドアを閉める。
「もう具合は良いのか」
「あの、私……」
「心配するな。ちゃんと仲間は、おまえがどこにいて、今は何をしているか、全て知っているよ」
 マントを脱いでベッドに放ると、カーレンはティアに座るか、と聞いた。ティアは首を横に振った。カーレンのマントを拾い上げて丁寧に畳んで置くと、自分は壁にもたれかかった。小柄な身体が、小さく当たる音がした。
 カーレンは肩を少しすくめただけで、自分で椅子に座った。
 二日前はきっちりと服を着込んでいたはずなのだが、カーレンは、今はかなり楽で動きやすそうな格好をしている。それと同時に、少し奇妙な格好でもあった。
 濃紺のブーツと黒のズボンは変わっていない。上が大きく違っている。シャツは袖を肘までまくり、前のボタンは胸元の一つを残して全開になっていた。みぞおちの辺りで、スカーフやフードにでも使うのか、赤みがかった紫の布で帯風に金具で締めてあるため、大きくはだけた胸を除き、そんなに肌が露出している風にも見えない。むしろ、旅人なら街中であっても、誰でもしていそうな格好だった。そして、腰には剣帯が巻きついていた。青いベルトとつながっているようで、少し邪魔なようにも見えるが、剣はない。おそらく部屋に置いてあるものを吊るのだろう。
 改めてじっくり見ていると、ドラゴンだとは思えないほど、人間になりきっている。というか、体格がそんなに立派というわけでもないし。見た目はあまり関係ないのかもしれない。
「そんなに気になるか?」
「あ、別に、その、なんでもないの。とてもドラゴンだって想像できなかったから……」
 まずかったか、と思ったが、カーレンにはよくあることだったらしい。ああ、と納得して頷く。
「体格では決まらないものなんだ。それでも、まぁこの通りなんだがな」
 細いながらにたくましい腕を振ると、無邪気に、困ったように笑う。
「へぇ……」
 ティアの興味はそこでおさまった。まくった袖を元に戻すと、カーレンは少し疲れているのか、溜め息をついた。よく見れば、目元にうっすらとくまができている。顔色も少しだけ悪い。
「……ベッドで休んだほうがいいんじゃないの?」
「いや。このままでいい。あまり休むと、動けなくなるからな」
「そう」
 短く返した。何となく話題を変えたほうがいいと直感して、ティアは切り出す。
「そういえば、昨日はあれからどうしたの?」
「ああ、その話がまだだったか」
 今まさに気がついた、というよりも、聞かれるのを待っていたような感じがした。
「おまえがここにいることから分かるとおり、私が宿に運び込んだ。匂いが気になるから洗わせろと言われたがな。幸いというか、おまえが昨夜、広場で何をしていたのかは、この町の者なら誰もが知っていた。セルたちが触れまわっていたようだが」
 カーレンの話に適当に相槌を打っていたティアだったが、危うく奇妙な単語を聞き逃すところだった。もちろん、気になったことは聞く。
「なんでセル兄さんの名前を知っているの?」
「さっき町に出たときに会った」
「なっ――それを早く言ってよ! 兄さんは何か言っていたの?」
 身を乗り出して聞くと、カーレンはそれを緩く腕を上げて制した。
「伝言を頼まれたよ。セルは、おまえが本当は旅に行きたがっているから、連れて行ってやってほしいと、それだけを言ってきた。私は、構わないといった」
 聞いているうちに、ティアは脱力していき、壁にすがりつくようにして座り込んだ。ひざを抱えると、腕の中に顔を半分うずめた。
「兄さんが、そんなことを言ったんだ」
 やや上目遣いにカーレンを見つめ、ぽつりと、乾いた声が漏れた。
 カーレンはいつしか伏せていた目を、片方だけ開けて言った。さっきはああいったが、眠いのかもしれない。
「おまえが本当にそう思っているのなら、後悔はさせないつもりだ」
 つまり、今、自分の気持ちを正直に言えば、旅に連れて行ってもらえる。そういうことなのだ。

「……もう、自分に嘘はつかないことにするわ」

 面と向かって言う勇気はなかったので、全部顔を隠して、宣言する。
「行きたい。本当は行きたいって思ってた」
「思っていた? 今はそうじゃないのか」
「聞き返してくるのはずるいわよ」
「……それで?」
 ティアの言葉をあっさりと流して、カーレンは続きを促してきた。
 ティアはむっとしたが、ため息混じりに本音を吐き出した。
「今も行きたいわ。――連れて行ってくれる?」
「………………」
 立ち上がる気配。そして、歩いて、近寄ってくる。衣擦れの音がして、動きは止んだ。
 ゆっくりと顔を上げると、目の前には手があった。カーレンを見上げると、疲れた顔だったが、笑って頷く。少しためらったが、後はもう迷わなかった。カーレンの手を取ると、彼はまた目を伏せた。
「ああ」

『で、交渉終了ですか?』

 今まで会話に割り込んでこなかったのに、とカーレンとティアは不機嫌そうな目でルティスを見つめた。
『……そんな目で見ないでください。盗み聞きなんて虫の良いことはしてませんよ』
 それを言うなら人の悪いというべきではないのか、とティアは思った。あと、尻尾がふりふりと揺れているので、これは嘘だ。
 カーレンもすぐに分かったようで、笑って言った。
「ルティス。今すぐ天井に吊るされるのを選ぶか、窓から放り出されるか、耳を斬り落とされるか、どれか選べと言われたらどれを選ぶと思う?」
 ただし、目は全く笑っていない。どころか恐ろしくひやりとしている。
『迷わず窓でしょう』
「そうか、窓か」
 突然、主旨をすり替えた会話にも、ルティスは即答で応対した。両者、声が不自然に明るい。よくあることなんだろうか。一人と一匹が、一瞬だけ異常に光って見えた。
 カーレンの笑みがさらに深くなった。
「賢明な判断だ」

 ――数秒の後、宿屋の窓から黒い狼がつまみ落とされた。これもよくあること、なんだろうか。
 すっきりした顔で感嘆の息を吐くカーレンが何だか怖かったのを、ティアはそれから半年ぐらいは他人に話すネタにして、ルティスと彼をさんざんにからかうこととなる。


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