Dragon Eye

Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編

第一篇 - 序章 『潮風の港町から』

-2- 狙われ、狙う者

 昼前だった。
 胡散臭い。ティアは見るのも不快だと言わんばかりに、セルに顔をしかめて見せた。
ティアの考えていることが伝わったのか、セルは苦笑を顔に浮かべながら、「それ」がいる場所に視線を戻す。
「ここは広場を見るのにうってつけだよ。高いところだからちょっと気をつけなくちゃいけないけどね」
 セルの言葉にうなずいて、ティアは隣に座っているブレインを見た。
「ブレイン。高さに目を回さないでよ?」
「姉さんこそね。昨日だって無茶したろ?」
 生意気な、とティアは笑った。
「まぁね。でもあれはあなたの前方不注意もあったと思うんだけど」
「今度から気をつければいいんだろ?簡単さ」
 もう一度軽く微笑むと、ティアは人ごみでごったがえしている広場を見下ろした。
 三人は町のシンボルである時計台の頂上から、中央広場を眺めていた。高い場所にいるため、かなり見晴らしはよい。海から吹く潮風が髪や頬を撫でて、後ろへと過ぎ去っていく。眼下には美しいレンガ造りの港町が広がり、東西南北から、四本の太い通りが広場へと繋がっていた。
 広場は円形の形をしており、地面よりも低い位置にある中心に向かって、窪地のように階段が連なっていた。本来はタイルのアートが美しく広場を飾っているのだが、今は町の住人達によってほとんど見えなくなってしまっている。
 そして――とティアは目を細めて、広場の中央に陣取る女性を見つめた。
 長身の痩躯に、すっきりとした緑色のローブを着込んでいる。黒髪に白い肌が印象的な女だった。だが、何か尋常でない気配を感じる。
「……やっぱり、君には分かるのかい?彼女は何か変だってことしか、僕には分からないんだけど」
 セルの言葉に、ティアは頷いた。
「うん。あの語り部の女、人間じゃない。纏ってるものが違う……。それに、何か探してるような感じもしているし。ちょっと突っ込んでみないとわからないわね」
 言って、少しの間、ティアは眼を閉じて集中する。眼が熱を持ったような感触がして、それが収まってから目を開くと、ティアの瞳は、同じで、でも違う世界の姿を映していた。
 その目でじっと女を見つめると、ティアは眉を寄せて、頭をふった。
「信じられない……こっちを見て笑った。あいつ、私を知ってるのかも」
「今のところ、どうなんだ?」
 たっぷり塾考すること数秒、自身の感と経験から目ざましい速度で結論を弾き出すと、ティアは答えた。
「まず、ここで襲ってくることはないと思うわ。今女の姿をしているのは、正体を隠すため。なら、堂々と姿を現すことはまずないと思う。襲うとしたら、町に人が少なくなる、夜から早朝ね。……武器屋のニッケ爺さんに相談しなきゃいけないかなぁ」
「詳しいね。どうして知っているの?」
 感心した様子のブレインが声を上げたが、ティアはしばらく答えなかった。やがて、気が進まないといった風に、重い口を開く。
「覚えていないの。魔物についても、この力についても、どうしてこんなことができるのかが、どうしても分からない。私がここに初めて来たとき、自分のことは何一つ分からなかった。今じゃそのことを知ってるのは、セル兄さんぐらいよ」
 七年前のことだった。ティアは、衝撃に身を伏せて、あちこちに擦り傷をこしらえていて。まさに、この広場の中心にうずくまっていたのだ。そして、周りには炎もないのに、巨大な焼け焦げが広がっていた。
 タイルを焦がし、溶解、変形させていた熱は、どこからやってきたのか。爆発的な力と、巨大な空白の衝撃と共に、ティアは突然その場に現れた。
 なぜ、どうして。自分がこの場所にいる理由も、必要性も、自分に関する全てのことを忘れ去っていた。残っていたのは、その時右手に握られていた、焼け焦げた布の端に刺繍された文字だけだった。かろうじて、ティア・フレイスという名前があることが分かり、少女はそう呼ばれるようになった――。
 町の人は気味悪がって名前のない少女――もとい、ティアを引き取らなかった。結果、孤児達の間に迎え入れられ、こうしてここにいる。魔物を見る目の価値だけを買われ、一部(特に万引きに合っている店の主人たち)を除いては町の者に、期待と恐怖の入り混じった目で見られていた。居心地が悪いのとは違って、自分が受け入れられない、ティアを信じたくない、そんな目だったのを覚えている。広場で人ごみに混じらなかったのは、そういった意味や事情も含めてのことだった。
 苦い味が口の中に広がるのを感じながら、ティアは女の姿をした魔物が、人々に語りかけるのを聞いていた。何を言っているのかは聞き取れないが、声の裏に悪意が潜み、蠢いているのが感じられる。
 『そこにいろ、おまえを食いつぶしてやる』とでもいうかのような、遠慮のない悪意が全身に伝わってきて、ティアは思わず、身体を襲う悪寒に腕をさすった。しかも、いつもよりも何かひどい気がする。ただ、もう一つの悪意のない意思が感じられるのに気付いて、そちらの方に意識を傾けることにした。
 ほっとする。訳もなく安心させる力が、何となくもうひとつの意思にはあった。おかげで、演説の間、ずっとティアは悪質な波動から身を守ることができた。こんな時は、いつでも悪影響を受けて体調を崩すのに、それもなかった。
 そのうち、魔物の演説が終わり、それはもう一度ティアを仰ぎ見た。ぎらぎらと威圧的な目で、怒りに燃えている。
『邪魔が入ったか。だが、諦めはしない』
 口の動きがそれを伝えていた。そして、女は人ごみに自ら混じって、突然消えた。
「……前言撤回よ、兄さん。今夜、ひょっとしたら来るかも」
「え、今夜?」
 セルが奇妙な呻き声をあげた。ブレインは怯え、彼にしがみついて離れない。
「早く、ニック爺さんの所に行こう。きっと、店はもう開いているはずだから」
 二人は頷いて、時計台を降りていった。ティアも後に続こうとしたが、何か引き寄せられるような気配を感じて振り返った。
 人がまばらに散っていく中で、一人がこちらを見上げていた。女ではない。
「――カーレン?」
 その時、ティアは、魔物の意志とは別に感じられたものが、彼から発せられていると直感した。紅い瞳が、何かを語りかけるようにこちらを見つめている。

『――おまえは知っているのか?』
 直接語りかけるような声が、脳裏に響いた。カーレンの声だった。
 ティアが訳も分からないまま首を傾げていると、カーレンは一言だけを残して、自分も広場から去っていこうとしていた。
『その、目の正体を』
「……私の目?」
 呟いた時、早く、とブレインがティアを呼んだ。


 武器屋に行く途中、南に続く広場からの道を歩きながら、ティアはカーレンの不可解な行動に頭を捻っていた。隣では、心配そうな表情で、セルとブレインがティアを見つめている。
 今朝とさっきとでは、彼の態度が違う。そのことに、ティアは疑問を覚えていた。共通しているのは、カーレンが、ティアの目に興味を持っているということだ。
 そして、とティアは立ち止まった。
 なぜ、カーレンは自分が特殊な力を有しているのを知っている?まさか、ひと目でそうと分かるほどの変化があったのだろうか。自分の知らないところで、何か大きな変化が……?
 自分の顔が見えないだけに、ティアは焦っていた。カーレンは何を見たのかと言っていた。それはどういう意味だろう?魔物と関係しているのかもしれない。 そこまで考えて、ティアは首を振った。いくらなんでもあんな近くに魔物がいたら、目に集中していなくても感じ取れる。絶対に間違いない。
「ティアちゃん?」
 セルに声をかけられ、ああ、とティアは生返事を返して、再び歩き出した。
 しばらく歩いていて、ティアはある推測を思い浮かべた。
「……ねぇ、兄さん」
「え?うん」
 ずっと考え事をしていたのに、突然話しかけてきたので驚いたらしい。セルは少し驚きの表情を浮かべながら頷き、何、と言った。
「昨日屋根から落ちた時や、さっき時計台で集中していた時、私の目、どこか変だった?」
「……」
 セルは少し考えていたようだが、やがて首を振った。
「いや。ずっと君の目を見てきたけど、特にこれといった変化はなかったよ。どうしてなんだい?」
 ティアは仕事帰りらしい男を脇に退いて避けると、首を傾げた。
「変ね……。じゃあ、何であいつ、私がみんなと違うって分かったのかしら……?」
 さあ、とセルは首をひねって答えた。冗談ではない、本当にひねっている。まるでオウムかインコのように柔らかいので、見る人すれ違う者、ブレインまで、全員がぎょっとしてセルを見た。
 それらをあえて無視して、ティアはさらに考える。
 自分の目に変化がなかったとすれば、どうしてカーレンはその秘密に気付いたのだろう。
 ――ひょっとして、カーレンも何かの力を持っていて、人との関係の障害になっていたりとかするんじゃないか。もし今朝見たのが錯覚じゃなかったら、そういう性質を持っている、影を変形させられるとか、勝手に変形するとか。
 (まさか、ね)
 ティアは、彼が能力を使ってティアの目に気付いたという考えを、心中できっぱり否定した。影が変形してしまう能力があるとしても、彼が自分の事に気付くなんて、ありえない。直接的な原因と、全く繋がりがないからだ。
 結局振り出しに戻ってしまったティアの視界に、古ぼけた看板が目に入った。

 誰がどう見ても、歴史のある店舗だと感じただろう。年季の入った建物の壁はあちこち塗装がはげてひびが入り、レンガも雨風に晒されて角が取れたり欠けたり、日光で奇妙な色合いにも変色している。店頭に掲げられた看板には、達筆で「『ニッケの武器屋』 旅人のために〜 武器、防具あります』という文句が書かれていたが、これもずいぶん黄ばんだり、文字が消えかかったりしていて、あちこち傾いで今にも落ちてきそうだと思う。
 ティアは店舗の中に足を踏み入れると、すぐ脇に置いてある棚の上へと、手を伸ばした。少し探って、目的の物を引っ張り出すと、もわっと埃の煙がたつ。
 あまりの埃っぽさに咳き込みながらティアが出してきたのは、油布と革紐で丁寧に作られた包みだった。
「姉さん、それって何?」
 ブレインの問いかけにティアはにっこり笑って、二人とも後ろを向いてて、と言った。
 言われたとおりにセルが後ろを向くので、ブレインも不服そうな顔をしたが、セルに習って後ろを向いた。
 こちらを見れないのを確認すると、ティアはそっと包みを床に置いて、革紐の輪に指を掛け、一気に引き抜いて解いた。外した紐を束ねて脇に置くと、包みを開いて、中の物を取り上げる。
 包みの中にあったのは、青に染め上げたワンピースと黒くて短いブーツ、下着が一そろい、そして、簡素ながらも凝った作りの短剣だった。隣にもう一つ小さくて細長い包みがあったが、これは解かないで、油布に包んで革紐で縛り、また棚の上に戻した。
「ニッケ爺さんは私の眼のことを怖がらないでくれる人なの。毎年、私に合う服を一着買い揃えてくれるし、とっても優しい人。……その代わりに、もし町に悪いことが起こりそうだったら、知らせてくれるように頼まれてる。今までも何度かこの港町を、いろんな問題から兄さんと一緒にこっそり守ってきたけれど……」
 後ろを向いているブレインに説明してやりながら、ティアはいつも着ている薄汚れた服を脱ぐと、下着を身に着けて、その上から手早くワンピースに袖を通した。ブーツは、そばにあった布で適当に足の裏をふき取ってから履いて、紐を縛る。
 最後に短剣を手にとると、ワンピースのポケットから細い鎖のベルトを取り出して、腰に吊り下げた。もともとこの町ではティアたちのような孤児、そしてならず者も多いので、護身用に武器を持つ女は多いのだ。ただし、まともに扱える者はごく小数である。ティアも、ニッケ老人直々に使い方の初歩的な手ほどきを受けた。
「今回だけは、これを使うことになりそうだわ」
 ため息とともに呟くと、ティアはブレインに、もう良いわよと、振り返ってもいい許可を出した。
「これを着たのは、魔物が私を見て、すぐにそうだと分からなくするためっていうのもあるの。ただ、盲目の魔物とかもいるらしいから、目で判断する奴にしか通じないわ。あと、見てくれを良くして、町を平気に歩き回ったりもできる。一応おしゃれな部類に入るし、夜に走っていても、親戚のパーティーに行くとでも言い訳が効くのよ」
 私を知ってる人間には無効だけどね、と付け加えると、ティアは店の更に奥に入っていった。ニッケ老人は、めったに表の方には出てこない。買出しなどは近所の人がやっている。足腰が弱いわけではないが、それなりに尊敬されている人物だということが分かるというものだ。
「ニッケ爺さん、お久しぶり!」
 元気な声をかけると、ん〜?という間の伸びた声が聞こえてきた。
 ニッケ老人は、尋ねてきたのが誰なのかを知ると、おお、と皺だらけの顔を綻ばせた。
「ティアちゃんじゃないか。うん、今年のワンピースも似おうとる、うん」
 やっぱり女の子は目の保養になるのう。快活にひとしきり笑うと、うん?と唸って、老人は急に表情を引き締めた。というのも、ティアの腰にある短剣に目を留めたからだ。
「しかし、あんたがここに来て、その短剣を使うということは……、町に危険が迫っておるようだの?」
 ティアは大方当たり、と返答して、ニッケ老人にかいつまんで事情を説明した。
「そういうわけで、今回は、私を狙って魔物がやってきてるの。身を守るためにも、短剣、使わせてもらうことにしたわ」
「うん、気をつけるに越したこたない。――はて、魔物は一匹かね?それとももう一匹別におるのかね?」
「一匹よ。――どうしたの?」
 老人はあごを撫でて何やら思案していたが、いやな、とティアの方を向いて、ぽつりと呟いた。
「どうにも奇妙な予感がする。あんたの選択しだいで、良いにも悪いにも変わる予感が」
 ティアは目を丸くした。どういうことかと聞き返そうとしたが、老人はティアを制した。
「まあ、聞きなさい。ティアちゃん、今迷っているじゃろう? 時間がない、選択の時は迫っている。勘がそう言っている」
「……それ、本当にただの勘なの?まるで占い師みたい」
「なに、人の心を捕らえるコツを、旅人に教えてもらったことがあるだけだよ」
 柔和に微笑む老人は、目を細めてティアを見た。
「にしても、良く似おうとるよ。ひょっとしたら、ティアちゃんのこの姿を見るのは、これを最後にずいぶん長い間無理かも知れんな」
 老人の言葉に、ティアは絶句した。カーレンに言われた言葉が、自分の中でくっきりと、鮮明な響きを持って聞こえてきたからだ。
 ―― 旅に出ないか? ――
 うつむいてその意味について考えていると、老人は何気なく笑って、何気なく、一押しになる言葉を発したのだった。
「まあ、あんたの自由だ。自分が後悔しないで、例えしたとしても新たな道に望めるように、そんな選択をしてほしいと願っているよ」


 長いようで、短かった会話が終わった後、ティアはニッケ老人に呼び止められた。
「持って行きなさい」
 そう言って老人は、ティアにもう一つの包みを渡してくれた。包みの中身を確かめると、ティアは心から感謝し、頭を下げた。
 それは、一振りの剣だった。
 ああ、この人は、ティアに何が必要なのか、いつも知っているのだ。
「何から何まで、本当にありがとう。ニッケ爺さん」


 ティアが店の奥から戻ると、戸口で待っていたセルとブレインが駆け寄ってきた。ティアの様子がおかしいと思ったのか、セルが口を開いた。
「ティアちゃん、どうしたの?なんか気になることがあったとか?」
「――うん。後悔しないように、後悔したとしても新たな道に望めるように選択しろって、ニッケ爺さんに言われたの。それで、あの……今朝、カーレンさんに会って。それで、一緒に旅に出ないかって言われて」
 驚いたのはブレインだった。
「えっ?姉さん、旅に出るって……リスコを出て行っちゃうの!?」
「だから、それで悩んでるって話よ。ニッケ爺さん、こういうところでは鋭い人だから。ただ、こうした方がいいとは絶対に言ってくれないの。それは私が、私の力で見出さなくちゃいけないって。それが、私に短剣の使い方を教えてくれた時の、いつも言っていたことだった」
 ティアが身の内の思いを打ち明けている間、セルは何も言わなかった。ブレインも突然の別れかもしれないということに衝撃を受けて、しばらく絶句していた。
 迷うように、答えを求めて目をきょろきょろと辺りに走らせた後、ブレインはぎゅっと唇を引き締めて頷いた。
 ティアはその仕草が、ブレインが何か覚悟を決めたときにすることだと思い出して、彼の言葉を待った。
「……それは、姉さんが決めることなんだよね。だったら、大丈夫だよ。姉さんが選んだ道は、きっと正しいと思う」
 すると、それまでずっと黙っていたセルが言った。
「その通り。えらいぞブレイン」
「ちょ、ちょっとセル兄さ」
「僕たち、ティアちゃんが間違えるなんて考えられないんだよ」
 反対でも、賛成でもなく、自分だから大丈夫だと言われて、ティアは面食らっていた。さらに、セルの言葉がティアを強引に押し切ったのが初めてだったために、戸惑ってもいる。
「で、でも……」
「僕たち、姉さんのことが大好きだから、姉さんに後悔してほしくない」
 ブレインはにっと笑った。
「ティアちゃん。そういう訳だから、僕たちは構わないよ。ここにいても、旅に出てもいいんだから。それはティアちゃんが決めて。そして、いつ戻ってきてもいい。僕たちは、いつでもこのリスコに居て、他の誰がしないといっても、君を歓迎するよ」
 孤児のリーダーとしての言葉と、仲間としての言葉が、ティアが何よりも欲しかったものだとどうして分かるのだろう。ティアはぎゅっと、店を出るときに持たされた包みを抱くと、もう一度ニッケ老人に、そして、目の前にいる仲間に感謝した。
「……ありがとう。兄さん。ブレインも」
 二人は笑っていた。
「さて。そろそろ夕方だ」
 セルが言うと、ティアは頷いた。


 時は少し前に遡る。  時計台の広場から北向きの通りに出ると、カーレンは迷うことなく、一本の路地に入った。日は一気に翳り、湿った空気が鼻をくすぐる。肌寒さを感じながらも、入り組んだ道の中を、確かめるような歩みで進んだ。
 かなり深くまで入り込んだところで、今まで辿ってきた痕跡がなくなったことに気付いて足を止める。
「……臭気が途切れたな。どこだ」
 小さく問いかけると、分かりませんという答えが返ってきた。
『気をつけて下さい。何か気配がします』
 耳元で囁き声がした。カーレンは辺りに視線を巡らせるが、特に不審な点はない。
 どこから来ても対応できるように身構えるカーレンのすぐ後ろで、声が響いた。
「邪魔をするな」
 咄嗟にふり向くが、何もいない。しかし、自分の正面に突然何者かが降り立った音を聞いて、ゆっくりと身体を戻した。
 鮮やかな緑色のローブが目に入った。
 カーレンは瞬時に相手との距離を探り当て、舌打ちした。間合いを取られている。袖の中に忍ばせたダガーを掌に落として、そっと握り、振り上げる機会を窺った。
 預言師の女は、カーレンを値踏みするような目で見て、ゆっくりと話した。
「――血の瞳を持つカーレンか。厄介な相手に出会ってしまったものだ」
「それは、ドラゴンアイを巡る上でのことか? 奴らと何か関係があるとでも?」
 問いかけると、女はにっと、紅い唇を引き伸ばすように妖しく笑った。
「もちろん、そうだとも。あれ以外に、私の目的に何があろうか? あの方たちも私を褒めてくださるだろう」
 ゆったりと歩み寄ってくると、女はカーレンの喉元に手を触れた。ぞっとするほど冷たい冷気がまとわりつく。
 カーレンはダガーを振ろうとするのを抑えつつ、目を細めて女を見やった。もう少し待たなければいけない。
「邪魔をする気はない。単に、私も彼女に興味を持っただけのことだろう」
 女はきっと顔をゆがめた。
「それが私にとっての邪魔になると言っているのだ! 丁度いい、貴様も消してやる!」
 語気を荒げて、女の指に力が入る。
「ぐ――っ!」
 タイミングを見計らって、カーレンは腕を――ダガーを振り上げながら飛び退った。喉にかけられた手がすぐさま引かれたが、それでも女の腕には浅く傷がつき、血の雫が舞った。
 間を開けずに飛びかかると、女は更に後ろに跳躍して避けた。ローブを脱ぎ捨てると、本性である姿を見せる。
 ユーラと呼ばれる魔物だった。筋骨がたくましい身体を持ち、緑色の肌に、濁った黄色い目をぎらぎらと怒りに燃やしている。右腕には刃の付いた盾があった。
 しかし、ユーラの体格は路地には大きすぎた。身動きが取れなくなった魔物に、カーレンはダガーを投げ放つが、それは当たらなかった。
「! ――逃げられたか」
 間一髪、擬似移動の魔術を使って、空へと逃げたらしい。巨体の影が薄れて消えるのを見ると、カーレンは悪臭を漂わせる血に濡れたダガーを拾って、自分も屋根の上へと飛んだ。
 辺りに目を走らせるが、当然ながら、ユーラの姿はない。
 少しの間思案すると、カーレンは足を別の場所へと運んだ。
 ――広場に。


「……そろそろ日が暮れるね。ティアちゃん、用意は?」
 セルの声にティアが目線を上げると、ちょうど太陽が沈もうとしていた。オレンジの光が、東からやってきた夜空に押し潰されて、奇妙な世界を作り上げている。目の前に広がる町並みも、いよいよ夜の顔を見せ始めた。
 ニッケ老人の店を出た後、ティアたちは一旦ゴミ溜め通りに戻り、今日は遅くなるから先に寝ておいてほしい、と伝えた。その後、すぐにまた町の中心に戻ってきて、こうして今、時計台に陣取り、夜が来るのを待っている。
 また目線を手元に戻すと、ティアは静かな面持ちで、大丈夫、と答えた。見つめる先には、短剣の鞘が鈍い光沢を放っていて、それはまるで、使われる時を待ち望んでいるかのように思える。
「……行くわ」
 ブレインが頷いて、文字盤の中央にある丸窓を、大きく開け放った。
 ティアは短剣を硬く握り締めると、丸窓の淵から、広場を窺った。心臓が痛いほどに動き、耳鳴りがする。口の中であるはずのない鉄の味を感じながら、額にうっすら汗を浮かべつつ、その時を待つ。
 少し、探るような心地で広場を眺めていると、奇妙な淀みが一点に生じているのを見つけた。そこに生じた亀裂の狭間から、魔物のじっとりとした視線を感じる。
「いた」
 小さく呟いて、ティアは立ち上がった。
「――行ってくる」
 窓の冷たい石にブーツを打ち鳴らして、感触を覚えた。少し、息を吸って――、止める。
 次の瞬間、カツン、と澄んだ音を立てて、ティアは空中へと身を投げ出した。
 すぐに、広場の淀みから魔物が飛び出した。ずっと待っていたのだろう、飢えた瞳をぎらつかせながら、ティアに向かって突進してくる。
 殺意を感じ取りながらも、彼女は慌てない。落下していく中で、身体の向きやひねりに微妙な調整を加えながら、全ての力を一つの方向へと導いた。
 くるりと空中で回転すると、ティアは魔物に対して、重い一撃を振り下ろした。魔物も、素早く右腕の盾で受けて応戦する。
「っ!」
 思ったよりも速い。舌打ちをする間も惜しんで、ティアは斬りかかった腕を支点にして、外側へと半回転、力と遠心力によって威力を増したかかと落としを、真横から叩きつけた。
 鈍く強い打撃音がして、十分な手ごたえを感じる。
 反動に逆らわずに後ろへとさがり、着地した時に、深く身を沈めた。一泊遅れて、右の豪腕がうなりを上げて通過した。引っ張られるような風圧を利用して、身体を回転させるように左足を巨体に叩き込む。反撃を警戒して後退した時に魔物を見上げて、そこに憎悪のこもった表情を認めた。
 腰を落として、ティアはゆっくりと、誘うように足を引いた。
「……さぁ。来なさいよ」
 呟いた時、ひやりと背中を撫でるものがあった。咄嗟に引いた足に体重を移動させ、わきに跳んだ。僅かな時間差があったが、先ほどまでいた場所に、溶解した鉄を思わせる火炎の塊が飛んできた。その熱に、ティアの長い髪が少し焦げ臭い匂いを漂わせた。
 危なかった。冷や汗をかきつつ魔物を見る。緑色の巨体を揺すり、口を動かすたびに、どろどろとした声が漏れ出した。
「挑発しても無駄だ。おまえの眼はもらう」
「さっきから眼をよこせって言ってばっかり。何のことかさっぱり、ねっ!?」
 言いながら、ティアは右足を軸に回転して、短剣を握った拳を魔物の腹に叩き込んだ。決して浅くはない傷を与えた感触が、手に伝わる。素早くひねって短剣を引き抜き、テンポを踏むような身体裁きで、火炎弾を避けていく。
「――あつっ」
 ティアは小さく悪態をついて、火傷した頬を擦った。体制が僅かに乱れた隙を狙ったのか、魔物が見かけよりもずっと素早く踏み込んできた。咄嗟に腕を組んで防御の姿勢を取ると、拳がまともにそこに突き刺さった。
「!」
 重い衝撃に軽い身体は簡単に吹き飛ばされて、ティアは腕が軋み、引きちぎられるのではないかと危惧を覚えた。時計台に向かって吹き飛ばされたのを幸いと、ひざで衝撃を吸収し、すぐに壁を蹴った。強い痺れがあるが、腕は折れていない。まだ戦える。
 渾身の力で飛び出し、見当違いの方向に炎を吐き出しているだろう、魔物の上を取った。だが。
「なっ!?」
 そんな、とティアは心中でうめいた。あえて魔物は火炎弾を放たずに、彼女がやってくるのを待っていたのだ。
 がっと開かれた口が、空気を吸い込み、閉じられようとしていた。

 ええい、こなくそっ!

 少女が使うとは思えないほど乱暴な言葉を呟きながら、ティアは半ば祈るような気持ちで、短剣の鞘を魔物の口めがけて投げつけた。
 がつっと音がして、うまい具合にあごの間に鞘がつかえた。冷や汗がこめかみを伝うのを感じるが、構わずに、渾身の力でつかえていた鞘を蹴り飛ばし、魔物のあごが閉じるタイミングを崩すことに成功する。鞘を蹴ったのとは別の足でもう一度魔物の顔を蹴り、ブレスは見当違いの方向にとんでいく、

 はずだった。

 ぞわりという感覚が全身を包み、ティアはほとんど反射的に、自分の意識を庇っていた。
『小娘が……舐められたものだな』
 無理に軌道を修正し、魔物が狂喜に満ちた目でこちらを見据えている。
 例えるなら、身体から血を一滴残らず絞り取られるような重圧。死の恐怖に、ティアは眼を見開いたまま凍りついた。
 身体が動かない。どうすることもできない。
(私は、……死ぬの?)
 それでも、ティアは眼を閉じることができなかった。

 しかし、魔物がついにティアを焼き殺そうとしたその時、またしても邪魔が入った。
 狙ったとしか思えないほどのタイミングで、時計台よりも高い場所から降ってきた(とティアは思った)何者かが、鈍い銀の閃きを振り下ろして、魔物の口を顔ごと地面に縫いつけ、ぴったりと閉じさせたのだ。
 次の瞬間。その一瞬の間に、たくさんの事が起こった。まず、あまりの勢いに、魔物の身体は引きずられるように倒れこんだ。同時にとてつもない風が吹き荒れ、地面にしたたかに腰を打ちつけるところだったティアは、風に巻き上げられた。そして、何か、巨大なものが地面をバシン! と打つ音が聞こえ、タイルの欠片が風に乗って、魔物を次々に打ち、最後に眩しいほどの閃光が走ったのが見えた。
 本当に一瞬の出来事だったが、ティアはあっという間もなく、ぽかんと目の前の光景を眺めていた。
 気がつけば、大きさこそ違えど、見覚えのある紅い目がこちらを見つめている。あまりの熱量にどろどろに溶けたタイルが明るいオレンジ色の光を放ち、漆黒の体躯が炎の色に輝いていた。
 大地を踏みしめる獣の四肢と、しなやかな強さが秘められた身体。砲弾のように突っ込んできたためなのか、皮の翼はぴったりと胴体に張り付いている。長い尾はゆらりと風と遊んでいて、さっきの音はこれが地を砕いた音だったのだと分かる。美しく巡らされた首には、頭部から根元にかけて暗い金のたてがみが伸びていた。
「……うそ」
 小さく呟くと、獰猛なはずの、その獣――ドラゴンは、口角を上げて牙を向いた。笑っているのだと気付くのに、ずいぶん時間がかかったと思う。
『――なんとか、間に合ったようだな?』
 低くくぐもった声が、ドラゴンの口の間から漏れた。
『あなたがぐずぐず眠っていたからでしょう。起こすのに私がどれだけ苦労していたと思います? 一分も眠りこけるなんて、遅刻もいいところですよ。ほらお嬢さん、あなたもいい加減に、私の上から降りてください』
 自分の下から声が聞こえたので、ティアはようやく、自分が風に巻き上げられたときに、何か、大きな動物が助けてくれたのだと気付いた。おそるおそる目線を下に向けると、真っ黒な毛並みの奥から、サファイアブルーの不機嫌な瞳が見つめている。
「……誰?」
 毛皮の塊から降りながら、ティアは聞いた。四つん這いの獣らしいが、高さがティアのみぞおちあたりまである。身体は長い毛で覆われていてよく分からない。見たところ、狼のような魔物に見えた。
『ルティス。私の使い魔だ』
 さらりと答えると、ドラゴンは巨大な前足を、燃えかすから引き抜いた。考えたくなかったが、ティアはそれが何なのかすぐに分かった。ずっ、と水っぽい音がして、悪臭のする水蒸気が立ち上ったし、何より形がいかにもそれだ。さっきの銀の閃きは、きっとかぎ爪だったのだろう。
 喉までせりあがった吐き気をこらえながら、ティアは魔物の死体から目をそらして、ドラゴンの体躯をじっと眺め、呟いた。
「あなたは……カーレンさん?」
『さん付けはしなくていい。いつもどおりにしろ』
 素っ気無い返答だったが、言外で肯定していた。それにしても、あまりにも非現実的すぎだと思う。なんとなく納得はできるけど。
「人のときも黒かった。あなたって真っ黒。まるで闇みたいね」
 使い魔も黒なら、ドラゴンも黒だ。が、こちらは少し灰色がかっているような感じがする。まるで、元は別の色だったのに、炎で燻されて黒くなったような色だ。
「…………? どうしたの?」
 返事が返ってこない。ティアが見上げると、カーレンはなぜか少し穏やかな表情を浮かべていた。
『……ひょっとしたら、本当にそうかもしれないな』
 どういう意味かと聞き返そうとしたが、ティアはそれをすることができなかった。
 急にぐらり、と視界が揺らいだ。光が頭の中で明滅する。緊張が突然切れた反動がきたのだ。五感が遠くなる。浮遊感、そして、何かに支えられたような感触。
『ティア?』
 ただ、自分の名前を呼ぶ声がする。
(違う……そうじゃない)
 ぼんやりとした意識の中で、彼女は何かを思い出した。が、すぐに闇の中に潜りこんでしまったので、何を思い出したのか、分からなくなってしまった。


Top page >  Novels >  第一篇目次 > 本編
Back  Next