Dragon Eye

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第一篇 - 序章 『潮風の港町から』

-1- 逃走劇

「待てっ! 今日という今日は逃がさんぞ、この薄汚ねぇ泥棒娘がぁ!」
「待てといわれて待つ奴は莫迦っていうのよ、お・じ・さ・ん! 待つわけがないでしょ!」
 また始まったか、と呆れたような視線がこちらに集中するのを全身で感じながら、ティアは振りかえり際にパン屋の店主のいけ好かない顔面を蹴り飛ばした。その拍子に、いつも着ているぼろぼろの半そでシャツがひらりと舞い、ティアは慌ててそれを、パンを持っていない方、左手で抑えた。
 もちろん、不自然なバランスを維持できるわけもない。従って――当然だが――堅い石畳の上をすっ飛ぶように、ティアは派手な音を立てて転んだ。
「っ痛ったぁい!」
 痛む額に思わず悲鳴を上げつつも、取り押さえられては万引きの天才少女と謡われるこのティア・フレイスの恥だ。意地でも地面を転がり続けて起き上がると、軽やかに冷たい道路を再び裸足で駆けぬける。
「このみなしご少女、ティア・フレイスのしぶとさとたくましさをなめてもらっちゃあっ――、困るのよ!」
 道端に落ちている石を蹴りあげて掴むと、右ストレート投げで鼻血を垂らしている亭主の顔にぶちあてた。クリーンヒット。清々しいほど華麗な曲線を描くモーションで、エプロン姿の店主は今度こそ後ろへと昏倒した。
「きゃっほう! ティアちゃんやるぅ!」
 前方から聞こえてきた賞賛の声に、ティアは不適な笑みで答えた。
「あたりまえよ、セル兄さん!今日はお魚さんの調子はどうだった?」
 ぶかぶかであちこち破れているコートと、ほとんど茶色に変色した作業用の服一そろいを身に着けた十七ほどの青年が、ティアの速さにあわせて街中を駆ける。
「絶好調!いいのを獲ってきたよ!」
 左手をセルが掲げると、青々と光る魚の尻尾をわしづかみにしていた。
「そりゃ獲ったじゃなくて盗っただろうが!」
 後方から追ってくる声に振り返ると、初老の男が追いかけてくる。
「やっほー、フィッシじいちゃん元気?」
「おかげさまじゃクソッたれ!」
 元気らしい。割としっかりした足取りでセルの後ろを追うのは魚屋の老人亭主だ。
「まずいわ兄さん、このままだと挟み撃ちみたい」
 内容のわりに颯爽とした態度でティアが告げると、セルはウインクをした。成功していないが、もしそうだったら殺人級のハンサムになっていただろう。
「大丈夫だよ、古井戸の袋小路から登れる」
「下見の子が見てくれてたのね。やるじゃない、あの子達」
 小さな少年少女達は、立派に犯罪ができるようになるまでは、逃げ道の確保をする。誘導できるような、孤児同士でのルールを使って、うまく逃げる道筋をつくってくれているのだ。
 頭の中でざっとリスコの地図を広げると、古井戸はこの近くに一つだけだ。
「――次の角を曲がったところね!」
 セルが先行して角を曲がるので、ティアはありがたくその後について、同じように回った。しかし、
「あれ? セル兄さん?」
 いない。追っ手はもう後ろに迫っているのに、どこに行ったのかときょろきょろ見回すと、すぐ近くの狭い隙間にセルの痩身が入り込んでいた。
 セルは振り返って叫んだ。やたらと焦った表情なのは、すぐ後ろに追っ手が迫ってきていたからだ。
「急いで!」
 ほっとして隙間に飛び込むと、間一髪、パン屋のがさがさした手がティアの腕を掴むところだった。振り払って細い身体を滑り込ませると、やや横向きになりながら進む。
「危なかった。ありがとう兄さん」
 やがて、暗くてじめじめした袋小路に出ると、セルは近くのレンガのくぼみに指先を引っ掛け、器用に片手だけでよじ登り始めた。
 ティアも、パンを咥えてから彼にならう。この『壁のぼり』ができるようになるまでに、爪が何枚か折れたが、今はもうらくらくと登れるようになった。全身をしならせるようにして屋根の上へと這い上がると、他の屋根へと飛び移っていく。これもかなり危ない技術だったが、高いところから飛び降りるのでさえ平気でやってのけるティアには、朝飯前どころか起き抜けでも大丈夫だ。
 『古井戸の袋小路』沿いに屋根を伝っていくと、途中から、二、三人ほどの子供が同じく屋根を跳んできた。にっと笑っているところを見ると、今日のかっぱらい――いや、襲撃も大成功を収めたらしい。
「セル兄さん、ティア姉さん、チーズを二個も獲ったよ!!」
 十二歳のブレインが報告すると、セルはよくやった、とブレインの頭を撫でてやった。彼は親に虐待を受けていた子供で、自分から七歳のときに孤児の仲間入りをした。以来、万引き班では格下だが、下見班ではリーダーを務めている少年だ。小麦色にこんがりと焼けた顔を笑みで満開にすると、ブレインは、早く帰ろう、と言って他の子供と一緒に我先にと屋根を飛び移って行った。
「よし、そろそろ僕らも行こうか」
「ええ」
 頷いてブレインたちに目をやると、ティアは、彼らのいる屋根に、印が描かれているのを見つけた。
「……オレンジ色?」
 彼らの間では、オレンジ色は警告色で二番目に危険な色になる。印の上には『12』と示されており、十二歳以下が跳ぶと距離が足りなくて落下するという意味だ。屋根と屋根の間は、ティアの身長の二倍はある。
 セルが気付いて声を上げるより先に、ティアは動いていた。自分もあれほどの距離を飛び越えるのは初めてだ。うまくいくだろうか。
「ブレイン、動かないで!」
 叫びながらブレインたちのいる屋根にたどり着くと、ブレインは印に気付かずに、今にも跳ぼうとしていたところだった。驚きに勢いがそがれて、中途半端なジャンプになる。
 その様子をみて、ティアは思わずうめいた。あの高さから落ちたら、まず骨折どころではなくなる。怪我がひどければ、もう打つ手はないのだ。ああなってしまうと、ティア達はただ、仲間が死ぬのを見届けることしかできない。
「っ!」
 歯噛みをして、ティアは空に投げ出されたブレインの身体をめがけて走った。もう一刻の猶予もない。
 ――もう一生味わえないと感じるぐらいの大跳躍をして、ティアは落ち始めるところだったブレインを、向こう側へと突き飛ばした。
「ティアちゃん!」
 セルが叫ぶ声を背後に、ティアは空中で丸くなって防御の姿勢を取りつつ、ぼんやりと思った。
(ああ――わたし、死ぬのかな?)
 空が目に染みるほど青く、広く、ティアの視界を埋めたように感じた。だがそれはすぐに、ぞっとするほどの浮遊感と恐怖、落下の感触へと変化を遂げた。

 死ぬ。その一言で、ティアには時がおそろしくゆっくり感じられた。
 頭がうまく回らない。身体は恐怖に硬くなって、使えなくなっている。
 耳に、壁を蹴る音が聞こえた。セルが助けようと飛び降りたのだろうか。そこで、ティアはまさか、と思った。もう間に合わない。
 しかし、セルはまだ屋根の上で、呆然とした表情でティアを見ているではないか。では、誰が壁を蹴っているのだろうか……?
 そこまで考えて、全身を柔らかい、暖かな感触と衝撃が包んだ。地面にぶつかったのではなく、誰かに受け止められたのだ、と気付いた時には、すでにティアを抱いたままで、何者かが地面に降り立った後だった。
「……大丈夫か?」
 耳に、低い男の声が飛び込んできた。
 顔が、見えない。白い眩しい光で、それどころか、シルエットすら浮かんでこなかった。
 何故なんだろうと考えていて、ふとティアは思いつく。
 自分は、目を開けていないじゃないか。
 おそるおそる、そっと瞼を持ち上げると、鮮やかな紅蓮の瞳が、ティアの目を覗き込んでいた。思わずまじまじと見つめていて、はっと我に返り、慌てて自分を抱えている腕から飛び降りた。
「った、た、助けてくれてありがとうございますっ!」
 地面の感触にほっと安堵しながら言うと、ティアは顔を上げて、予想以上に近い距離で目が合った。驚いて思わず五歩ほど後ずさると、そこでやっと、命を救ってくれた男の姿が目に入った。
「……あ」
 急に感じた威圧感に、ティアは喉にひきつれた痛みを覚えた。
 外見はまだ二十歳前後の若い男に見える。漆黒の衣に身を包み、濃紺のマントをまとっている姿は、どこかの王侯貴族のようだ。金色の髪を背中の中ほどまで伸ばして、低い位置で一まとめに縛っていた。精悍な顔つきに、少し高い鼻。先ほども見た紅い瞳が、ひたとこちらを見据えている。
 そして、異様に目を引くのが、男の首に巻きついている首輪だった。奇妙な装飾が施された銀のプレートに、細い鎖が三回ほどまきついてから、両端が首の後ろへと延びている。ティアは何となく、その首輪を記憶に留めた。
「……」
「……えー、と」
「……」
「――あの?」
 安否を聞いた以外は、男は口を全く聞く気配がない。未だに感じる威圧感と奇妙な雰囲気を纏う彼に泣きそうになりながら、ティアはとりあえず、自分が知っている中でも特にマシな――少なくとも、顔面を蹴り飛ばしたり石を投げたりしないような――礼儀から、挨拶をすることにした。
「私、ティア・フレイスって言います。あなたのお名前をよかったら聞かせてくれますか?」
「………………」
 訳もなく恐い。ずっと黙っているこの男を理解し難いというか、苦手に感じ始めた時、ようやく男は口を開いた。
「……カーレン」
「え?」
 ぽつりと男が漏らしたので、思わずティアは聞き直した。
「カーレンだ。人によって、私を呼ぶ名は違ってくる」
 ――それは、いくつも名前があるということなのだろうか、とティアはぼんやり考えた。
「ティアちゃん!」
 屋根から呼び声が聞こえたので、ティアはようやく、自分が何をしなければならないのかを思い起こした。壁に向かって走り出す途中、一度だけ後ろを振り返ると、カーレン(で合っているはずだが)にどうしてそう言おうとしたのかは分からないが、別れを告げた。
「じゃあ、またお話ししましょう。――カーレンさん」
 壁に手をかけると、後ろから低い声が聞こえた。路地だからなのか、それとも一歩歩いたのかは分からなかったが、立っている場所とは別のところから聞こえた気がした。

「おまえ……ドラゴン・アイを持っているのか」

「え?」
 目を瞬かせる。屋根の上に立って路地を見下ろすと、カーレンの姿は消え失せていた。
「……足音が、しなかった」
 人の気配を覚ることに、この町の孤児は全員が鋭敏な感覚をもつ。なのに、足音がしないどころか、立ち去る気配も読み取れなかった。
 あのカーレンとかいう男は何者なのだろう。衛兵ではないことは確かだが、よほど訓練しなければ、気配を隠すのはまず不可能だ。旅人のような風情だが、ただこの町に来ただけではないだろうとティアは直感していた。
 セル達の呼ぶ声が遠くに聞こえたので、ティアは無事だと返事をしながら、彼らの元へと走り出した。

□■□■□

 孤児(みなしご)たちの朝は、早くて夜明け前に始まる。というのは、単に彼女が早起きだからでもある。
 ゴミ溜め通りと呼ばれる場所で寝起きしている彼らは、いつも悪臭の中で暮らしているし、不潔だが、とりあえず毎日を過ごすために、寝床の材料を夕方までに見つけて、さっさと寝る。栄養をろくに取れないからこそ、たっぷり寝て節約しなければならなかった。育ち盛りの子供たちには、食べ物が不足がちなのだ。
 しかし――、最近になって捨て子や孤児が増えてきたのは、どういう理由からだろうか。ブレインだって、北から流れてきた難民孤児なのだ。こればかりはいくら考えても答えが出ないままで、北から来る旅人に役立つ情報を教える代わりに、何が起こっているのかを聞くということを繰り返しているだけだった。やることがないだけで、別にさぼっているわけではない。
 ろくに櫛も入れていない髪だが、手で軽く寝癖を直すと、ティアはゴミに出されていたぼろぼろの毛布から這い出て、シャツについた埃や砂を払い落とした。
 無人のゴーストタウンと化したこの通りは、今では孤児たちが寝起きする場所になっている。彼らが普段、襲撃がない時に町の中で見かけることが少ないのは、人々が滅多にこのゴミ捨て場にやってこないという理由も手伝っていた。ゴミ溜め通りこそ、彼らの住処であり、寝床であり、遊び場なのだ。
 ゴーストタウンの中心には、廃墟となった教会がある。この教会に毎朝通い、屋根の上で夜明けを迎えるのが、毎日のティアの日課だった。
 教会の中に入ると、ティアは祭壇に掲げられた聖人エルドラゴンの像に一礼してから、裏にまわった。漆喰がはがれ、レンガがむき出しになった壁はところどころすっぽり抜け落ちていて、足や手をかける絶好の足場になっているのだ。
 天井に開いた穴は、壁から少し離れた場所にある。ティアはいつもの癖で――というか、こうしなければ穴に入れないので――、天井に手から飛び込むように壁を蹴ると、華麗な宙返りで屋根の上に降りたとうとした。が、

 そこには先客が、悠々と手足を伸ばして眠っていた。

「ぎゃ――!?」
 品のない叫び声を上げつつも、ティアは反射でもう一回転しようとして、舌打ちをした。勢いが足りない。
 当然、降り立つ先にヒップドロップを仕掛ける格好になったのだが……、どうやったのか、先客に受け止められた。
 最近受け止められるというか、落ちるというか、そんなのがやたらと多いなぁと思いながら、一体どんな奴が自分を驚かせたのかと目を開くと、なぜか見覚えのある紅の瞳がこちらを見つめている。
「……何度も繰り返していて飽きないか? 落ちすぎだ」
 ティアは目を何回か開閉すると、ようやく先客が誰だったのかを悟った。
「ティア・フレイスと言ったな。ここに来れば、おまえに会えると思っていた」
 言いながら、カーレンは無造作にティアを持ったまま立ち上がった。
「な、何で私に会う必要があったの?」
 目をまだ白黒させていると、カーレンは目を細めてこちらを見たが、すぐに視線を逸らした。
「……いや。特に理由はない。ただ、」
 その瞳が鋭い光を帯びて、ティアを射抜いた。
「おまえ、あの時何かを見たか?」
「え――? 何かって、何を? あの時っていうのは、路地で助けてくれた時でしょう?」
 聞き返すと、カーレンは少し緊張を緩めて、いや、と答えながら白み始めた空を見上げた。
「分からなければ、いい」
「……?」
 ティアは謎めいた言葉ばかり口にするカーレンを怪しんだが、あえて何も言わなかった。代わりに、思いついた疑問を口にする。
「あなたは旅人なの?」
「ああ。各地を巡って旅をしている。――ただ、具体的にどんな旅をしているのかは言えない。目的が少し……私情を含むものだから」
 ふうん、とティアは、何だかもやもやするわだかまりを抱えつつも頷いた。その後もいくつか質問をしたが、どれにもカーレンは曖昧な返答しか返さなかった。頑なに太陽の出る方向を見続けている。
 そろそろ夜が明けるな、とティアが地面を見つめて思っていると、ふと、奇妙なことに気付いた。

 辺りが暗い。空には雲ひとつ浮かんでいないし、日を遮るようなものもない。ティアが首を傾げながら見回すと、暗い場所全体がひとつの影だということに気付いた。

 ティアは、それがどこから伸びているのかを辿らずにはいられなかった。
「――竜」
 背筋が泡立つのを感じながら、ティアは戦慄した。
 影は、カーレンの足元から伸びていた。シルエットは、下の階でいつも見かける聖エルドラゴンの宿敵にそっくりだった。巨大な体躯、強靭な四肢、長くて巨大な尾。極めつけに、巨大な頭部に白金のきらめきが輝いている。肩の辺りには、自分の影が見えた。
 魔獣にして、堕落した天使の血を受け継ぐ獣。
 声が、出ない。
 しばらくの間まじまじと見つめていると、夜明けの一瞬だけ見えた巨大な影は、いきなり揺らいで消えて、カーレンの身長にあわせた大きさへと縮んでいった。
 気付けば、もう太陽は昇りきっている。カーレンが、まるで気が付いていない様子で、ティアに具合を尋ねてきた。
「どうした?」
 錯覚だったのだろう。そう納得して、ティアは首を振った。
「ううん。何か変に眩暈がしたみたい。それより、夜明けを見逃しちゃったなぁ。……また来てくれる?」
 不安に思って訪ねると、カーレンは小さく微笑んだ。鋭い光が、瞳の中に宿っている。
「二日ほどこの港町にいる」
「二日しかいないの?」
 軽く落胆の色を込めてティアが聞くと、カーレンはすまなさそうに言った。
「長い間留まってはいられないんだ。分かってくれ」
「……もうちょっと一緒に居たかったな」
 ティアが残念がると、カーレンはそうだ、と呟いた。
「おまえも一緒に旅に出ないか?」
 え、とティアは言葉に詰まった。
「……うーん。さぁね。私には旅に出る理由なんかないし、それに……小さい子の面倒も見なきゃ。悪いけれど、一緒には旅に行けない」
 カーレンの誘いは嬉しかったが、事実として、昨日だってブレインが屋根から落ちそうになった。自分とセルが見ていなければ、何が起こるか分かったものではない。
 そうか、とだけカーレンは言って、立ち上がった。
「この町でやらなければいけないことがあるからな。……そろそろ行く」
 ティアは頷くと、同じように立ち上がった。シャツの埃を払うと、カーレンの顔を見上げる。
 カーレンは分かるか分からないかという程度に微笑むと、教会の上から、向かいに立つ宝石店跡の屋根へと飛び移った。距離を少なく見積もっても、彼の身長の三倍はある。ティアの身長よりも高いから……、とんでもない脚力である。どこからそんな爆発並みの力がでるのかと、ティアは感激を通り越して呆れた。が、ぼけっと突っ立っている場合でもないのは確かだ。
 こうしてはいられない、と教会から飛び降り、ティアは今日の集合場所へと駆け出した。

 廃墟の影からティアが去っていくのを見送ると、カーレンは妙だな、と呟いた。
「確かにあれはドラゴン・アイの特徴を持っている。それに、上手く抑えられてはいるが……、本人が存在自体に気付いていない」
 口に出しながら、自身の得た感触と証拠から推測すると、カーレンは一人で納得して頷いた。
「よし。少し、滞在期間を延長するぞ」
 誰に言うでもなく――いや、そのつもりで言ったのか。返答が帰ってきた。
『そんなに時間があるとは思えませんが』
 と、声が誰もいない通りに響いた。
「大丈夫だ、間に合わせてみせるさ」
 答えるカーレン。やはり、通りには何もいない。木霊のようにうつろな声だけが反響して、確認するような声音を持っている。
『本当ですね? ――もう、何があっても押し付けないでくださいよ。私はあなたの尻拭いをするためにここに居る訳じゃないんですからね?』
 念を押してくる声に、カーレンは太鼓判を押した。
「ああ。今回は、私が全て責任を持とう。あれに興味を持ったのは私だからな。手に入れば、まあそれなりに面白いことになりそうだ」
『……その言葉、確かに覚えておきましたよ』
 ふてくされたのか、返答に覇気はない。カーレンは苦笑して歩き出した。
「なに、忘れてもらっては困るさ。私が覚えていない事が多いからな。……それに、久々に魔物と一戦交えそうな気もする」
『マスター!?』
 悲鳴にも近い声が上がったので、カーレンは肩をすくめると、崩れた建物の陰から出て、ティアと話した場所を見つめた。
 夜明けに乗じてティアを掠め取ろうとしていたのか、何者かの気配が色濃く残っている。あの時は咄嗟に影だけを解き放って威嚇したが、ずいぶん危険な真似をしてしまった。
「……私の目はごまかせない。もしも彼女に手を出すというのなら――こちらにも考えがある」
 独白すると、カーレンは口角を吊り上げ、冷笑を浮かべた。
「さて。どう出てくるかな」
『どうなさるおつもりですか』
 主の姿なき声に、カーレンは答えると歩き出した。
「エサがあれば、獣はやってくる。――彼女が全くの無防備ならば、誘い出せるだろう?」
『――マスター』
 再び責めるような声に戻った。抑揚が心なしか変化している。カーレンはまだ続くかと思っていたが、少女の姿が消えた角を曲がってからは、声は聞こえなかった。


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