Dragon Eye

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第二篇 - 一章 2.マールウェイ、動乱

-1- 白の伝説


 ティアをカルス山脈の麓に降ろした後、カーレンはエルニスとベリブンハントを伴い、一路マールウェイを目指していた。
 マールウェイはドラゴンの隠れ里の中でも、中央的な役割を果たす特に巨大なものだ。
『あと少しもすれば、竜の骸だろう』
 エルニスがそう言ったので、カーレンは軽く頷いてそれに応じた。マールウェイが存在する台地の名だ。北方南部のエウロア山地を越えた先に、険しい山岳地帯に囲まれて横たわっている。実際にそれほど巨大なドラゴンが生きていたという話は聞かないが、誰が最初にそう呼んだか、そのような名がついている。
 育ててくれた先代の長アラフルは、そんな『竜の骸』を軽々飛び越え、仕事のついでに幼少のカーレンを連れて、よくこちらに顔を出した。北大陸でも最強の名を欲しいままにするクェンシード一族の長の養い子とあって、彼らが自分に向ける目にはずいぶんと奇妙なものを見るような色があった。その時すでに、およそほとんどの里のドラゴンたちが自分を話題に出す時、ある形容を用いていたのをカーレンは知っている。
 『最弱』。
 他の里ならばいざ知らず、ウィルテナトに住まうのは、五大陸の中でも指折りの強靭な力を持つ一族。さらには『悪なる赤』アラフルという聖戦における英雄、伝説の存在を頂く。その中で当時ひ弱な魔力しか持たぬ身だったカーレンに与えられた称号は、そのような不名誉なものだった。
 いくら魔力以外のものが優れていたとしても、クェンシード以外のドラゴンと競えば、魔術勝負が絡めば必ずと言っていいほど競り負けてしまう。そんな状態だったから、今傍らを飛んでいるエルニスが、当時は次代の長として最有力視されていた。カーレン自身も子供社会においては、彼の強さによって庇護を受けていたのに等しかったといえる。
 それが、今や最弱どころか、次代最強と目されていたエルニスを下して、しれっと長の座についてしまった。その後のごたごたにより、就任してから三年は公の場には顔を出していなかったが、それを耳にした時の他の里の者たちの驚愕は想像に余りある。エルニスでさえ、最初にカーレンの使いとして北の各里をまわった時、「なぜおまえが長になれなかったのか」と問い詰められて困ったらしい。
 今回初めての長を務める身での族長会合への出席に、カーレンは少しばかり、憂鬱な気分でもあった。
『カーレンが長って聞いて納得いかない連中、多いかもしれないわ。族長会合で絡まれそうよね』
 そんなカーレンの心境を知ってか知らずか、ベリブンハントは身を翻してぼやく。
『もう少し誰か連れて来れば良かった』
『いたところでどうだっていうんだよ……こういうのはバランスが難しいだろう?』
『そりゃ、そうなんだけれど……』
 エルニスの応えに頷くベルは、歯切れが悪そうだ。
 確かに配分は難しい。大勢の里のドラゴンを引き連れていれば、その分、長の影響力や権威が大きいという事を示せる。しかし、逆に長の力量が霞み、侮られやすい一面もあるのだ。個としての強さも求められるために、ほとんど随従のいない里長もいるほどだった。
 随従の少なさを心配したティアに、ベルが「長の面子と矜持の問題だ」と言ったのは、そういう意味がある。
『有名税だと思っておけば良い』
『カーレン! あんたのことでしょうが!』
『おまえたちで足りると思ってこの配置にしている。文句があるなら聞こう』
 ぐ、と詰まるベル。
 クェンシードの次世代を担う中でも、随一の実力を誇ると言われたエルニスと同様、ベリブンハントもその力量を疑う者は皆無だ。その上、アラフルの片腕であったエルニスの父は、広範囲・超遠距離への攻撃魔術を扱う事から"蒼き流星"の異名を獲っていたが、ベリブンハントの父もまた、"紫美"という名を冠し、聖戦で怖れられた。
 クェンシードきっての精鋭、しかも英雄を父に持つ者が二人。幼馴染という肩書はあるが――力ある者である彼らを、それだけで従わせる事はできない。
 エルニスとベルは、十分にカーレンの里長としての影響力を示す存在たりえるのだ。後はカーレン自身が、長たる実力を示すだけで事足りる。とはいえ、そんな機会はめったに訪れないことだろうし、訪れてほしくもないのだが。
『あ、見ろ』
 エルニスが何かに気付いて、前方を示した。
 カーレンとベルがつられて見やれば、はるか下に、大柄な体格のドラゴンが数体、その場を旋回しているのが見えた。
『案内のようだな』
『俺が先駆けを務める。ベル』
『はいはぁい』
 示し合わせて、エルニスとベルは急降下し、一瞬で案内のドラゴンらの方へ到達する。
 カーレンは特に急ぐ必要も感じなかったのでそのままの速度で飛んでいたが、ふと後ろを振り向いた。
『…………、』
 カーレンは目を細めつつも前に向き直り、エルニス達に追いついた。
『カーレン……』
 ベルが何か言いたげにしながら、案内役を示している。代表の鈍色のドラゴンは、大きな頭をもたげると、一度、深々とカーレンに向かって頭を垂れた。
『申し訳ありません。この先で、うちの者と外からの方々で争いが起こっておりまして……この先を通過されると、巻き込まれるかと……』
『……』
 カーレンはちらりと顔を上げ、紅い瞳で案内役を見やる。無感情なその視線に少し気圧された様子の彼らは、じっとこちらを見返していた。
『替わりの道はないのだろう?』
『はい……面目ない限りです。私どもでは力及ばず、彼らを仲裁できないので……危険を避けるならば、お待ちいただくことをお勧めしております。実際、いくつかの里の方々は下で待機されております』
 いかがなされますか、との問いに、カーレンは前方を見やって目を眇めた。
 この先でぶつかり合う力の気配を探る。御せるか、と自問すれば、是と、経験から答えが返ってくる。
『いや、いい。……このまま飛ぶ』
 カーレンの選択に、案内役らが息を呑んだ。『いくら長とはいえ……』
 その先に続く言葉が何かは知っている。
『心配いらない。昔ほど弱くはなくなった。……後ろの奴らの溜飲を下げられなくて悪いが』
 少し苦笑してみせると、気まずい笑みと溜息が彼らの間から漏れた。
『……お気づきでしたか』
『殺気が少しな』
 そこでカーレンは一度、言葉を切る。身の内に収めていた気迫を込め、傲然と笑んだ。
『――っ』
 カーレンの長たる気配を察して、僅かに周りは怯む。エルニスとベルはカーレンの威嚇などそよ風ほども感じていない顔で、無言で翼をはためかせ、先駆けとしてそのままマールウェイへ飛んでいく。
 カーレンもそのまま羽ばたいて、台地の裂け目となっている峡谷へ続く進路を取った。
 先の方へ急ぐと、やはり空は荒れていた。
 その場に滞空して、争いの全容を見て取れば、マールウェイの者と思われるドラゴン――見たところ、かなり若い――が、壮年のドラゴン一体に三体がかりで襲い掛かっているのだった。下方に目をやれば、いくらかの別々の里の者と思われるドラゴンたちがそれをはらはらした様子で見守っている。
 しかし、あの焦げ茶の、かなりの巨躯を誇るドラゴン。見覚えがある。
『あれは……東のマグリットの長か?』
『みたいね。あそこのはホントに喧嘩っ早いんだから』
 呆れた様子でベルが溜息を吐き、その拍子に火が僅かに漏れた。本来、このような集まりで長はあまり表だって動くべきではないのだが。実力に頼るのもいいが、だからといって怪我をするのも馬鹿らしい。後先を考えない争いをするのは若く未熟な者だけだ。
 エルニスはベルの静かな苛立ちを横目に、どうする?とカーレンに目で問いかける。カーレンは低く笑って、顎でうながした。行け。
『露払いだ』
 副長は無言で加速する。一息吸うと、争っているドラゴンたちの渦中に巨大な焔を撃ちこんだ。彼らは水を差されたと怒気も露わに闖入者を見上げたが、そこで初めて、それがエルニス・クェンシードだと気が付いたらしかった。
『翡翠のの息子か。邪魔立てを』
『いくらでもさせてもらうぞ、ワント・ラ=マグリット。そんな通行路のど真ん中で交戦されてちゃ、俺たち以外誰も通れないんでな』
 ぷっと口に残った火を吐き出しながら、エルニスはそう言ってマグリットの長を睨み下ろした。ついでに、マールウェイの若手が放った火はそのまま、体に受けている。目を細めてそれを見やったところを見るに――ぬるそうだ。
『轟炎』
 ぽつりと一言、彼が零した瞬間、巨大な火柱が轟、と空気を飲みこんで立ち昇った。三体まとめて軽く丸焦げの行動不能に仕立て上げたところで、ワントがむぅ、と唸った。
『これほどか。……しかし、解せん。そこまでの強さでなぜ』
 言いかけて、ようやく彼はカーレンの存在に気が付いたようだ。滞空して見下ろす姿に、苛立ちを隠せない様子で唸りを上げて牙を剥いた。
『最弱の腰抜けめ。己が手を下さぬか』
『あいにく、これで人の上に立つ身だ。多少使うのに慣れた方が良いかと思ってな』
『三年も里に引っ込んで出てこぬような腑抜けが。よう言うわ』
 言い終わるが早いか、眼前に飛んできた茶の弾に、カーレンは眉を上げた。弾は真っ直ぐにこちらをめざし、カーレンの懐に突き刺さる。
『――』
 古傷の疼きに顔をしかめたが、それも一瞬のことだ。
『……』
『……カーレン』
『ああ』
『避けるぐらい、しろ』
 エルニスの呆れた唸り声に、ワントは硬直していた。避けられなかったのではなかったのだ。
『ラ=マグリットの一撃を……』
『何て硬さだ……』
 争いを見守っていたドラゴンらは、絶句する。少し前まで他の里の者に容易に転がされていた、『最弱』。見くびっていたドラゴンの、思いもしない底の無さを、今日初めて目の当たりにしたのだった。思えば誰の一撃を受けても、転がった後はけろりとしていた。魔力もなく、だから多少可愛がったところで反撃もろくに返ってこなかったと思っていたが――それ以外は思い返せば、決して他のドラゴンに見劣りするどころか、クェンシードの誰にも引けを取らなかったのではないか。
『こんな力を持っておきながら、なぜ今まで隠しておった』
 苦りきったワントの問いに、カーレンはゆるゆると首を振って、それを否定した。
『力はなかった。以前までの貴方の見立ては正しい。私は魂を封じられていたからな』
 その場に居合わせた全員がぎょっとした。エルニスとベルは白けた目で彼らを睥睨する。
 はっと顔色を変えたのはワントだ。目を僅かに瞠った彼は、低く何事かを呟いた。茶の光が鋭く飛び、カーレンの周りにまとわりついて、その形を変える。
 浮かび上がったのは複雑な紋様だ。今は無残に引き裂かれ、破壊されているが、間違いなく、それはカーレンの魂の奥底へ本来の力を押し込めていた、禁忌の呪いの縛めだった。
 全員の目がそこに釘付けになり、そして、納得の表情を見せ、次にその顔に浮かんだのは、決まりの悪さと、同情の入り混じった複雑な色だった。
『……惨い真似をしよる』
 低く、震えるような怒りを発したワントの側へ、カーレンはふっと降り立った。その話は後でいい。今は、こちらの方だ。
『なぜ、争っていた。貴方はよほどのことが無ければ、このような低俗な真似をする方ではない』
『……この若造どもはな。ラ=クェンシード』
 エルニスの炎で気絶した三体を顎で示し、ワントは鋭く裂けたように瞳孔を細め、目を怒りにぎらつかせた。
『再び“白”の世を、とほざきよった。白き方の御深慮も分からず、要らぬ争いを呼ばんとする痴れ者め』
『……“白”の』
 マールウェイの里の色は、白だ。故に、手紙にも純白の封筒を用いる。ウィルテナトにいた時、ティアには言わなかったが、それは実のところ、里の象徴する色以上の意味を持っていた。
『その点、お主の前代、アラフル様は違った。彼の方の願いを知り、千二百年以上も守り続けた』
 ワントは震える息を吐き出すと、頭をぶるりと振ってカーレンを見据えた。灰褐色の瞳の奥で、ぐっと切れ込みが広がっていく。
『お主は、どうだ。守る覚悟、気概はあるのか。“白”の約定』
 カーレンは黙って彼を見つめ返した。静かな紅い瞳が、ワントの目の膜に映っていた。


□■□■□




――発端は、聖教内で教皇が行った新年の儀式だったらしい。




 邸内に招かれてしばらく。旅装を解いて湯を浴び、身なりを整え、広間に集結したクロッドらに、大公によって改めてフューの紹介が行われた。
「さて、この聖君フュエルトラストルだが。まずは、彼をここラーニシェス家で預かる事になった経緯について、説明するとしようかな」
 背後に騎士を控え、クロッドらの前で初めて、一国の主らしく悠然と椅子に腰を落ち着けていた若い男は、ふっと稀なる紫の瞳を巡らせた。視線を向けられたフューは、隣で大公と同じほど豪奢な椅子――おそらく最上の賓客用の椅子だ――の上で小さく縮こまっている。おそらくクロッドらがフューを穴が開くほど見つめている上、少年にとっても、ここまでじろじろと不躾な視線をぶつけられる事は滅多にないのだろう。
 少年の様子を横目に、クロッドは顔をしかめて大公に訊ねていた。
「……俺たちが聞いていいのか? 外に漏れたら大事だろうに」
 数日前、一度関わったなら最後まで、と決めた意思が、ひと時、揺るぎそうになる。
 その躊躇いをどう取ったのか、大公は薄く笑っていた。
「別に、漏れた所で構わない。すぐに事態は動き出すし、どの道君たちは巻き込まれる事になりそうだ」
 あっさりとした調子で答えたものの、次は何が彼の口から飛び出るのか。クロッドは唇を軽く結び、アストラは隣でぱちぱちと瞬き、ルミナは伏せ目がちにと、三者三様に大公を見守った。
「というのはね。これから話す事が、どうも聖教内だけのいざこざでは収まりそうにはないからなんだ」
「それは……関係のあるなしに関わらず、周りが巻き込まれるという解釈でいいのかしら?」
 ルミナが静かに口をはさむ。
 聖教は人々の生活と深く結びついているものだ。それが大きく揺るぎかねない事態になっているのではないか。そういったルミナの懸念をクロッドは感じ取った。
 大公はルミナに鷹揚に頷いた。
「まぁ、長い話になるのは確かだ。そこに椅子がある。掛けてくれ」
 振り向くと、いつの間にか椅子が三つ置かれていた。僅かに困惑して広間の出入り口の方を見やると、金の髪の娘と老年の執事らしき男が控えている。大公が声をかけると、全て心得ている様子で、彼らはそのまま扉の向こうへ消えていった。
 これで話を聞くのは当事者だけとなった。クロッドは大きく溜息をつくと、やや乱暴に椅子に腰を下ろした。すでに腰掛けていたルミナの無感情な目と、アストラのきょとりとした目が両脇から向けられる。
「まず……そうだね。聖教の元となった聖人に纏わる多くの伝説についてからか。ここに二人ほど、――ああ、クロッド、君がドラゴンだってことはエリックとレダンから聞いているからね――良く知らない者も居合わせているようだけど」
 ちらっと大公の目がクロッドとアストラを見た。
「あら、私だってそこまで熱心な信仰者じゃないわよ」
 ルミナが首を傾げて言う。
「おっと、そう来たか。では、聖衣を纏う者については?」
 これについては全員が知っていた。
 アストラがこの世界の聖人について僅かなりと知っていた事実に、クロッドは密かに驚いた。ルミナもまた目を僅かに瞠ったが、これはアストラが異世界から定期的に訪れる一族の家系であることが関係しているのかもしれない。
 大公は片眉を上げて、考えるように指を組んだ。
「では、そこからだね」


「――聖教の総本山であるゲッヘンブルグ=ファニシスカでは、毎年新年の平和を願う儀式がある。千二百年の昔、聖人エルドラゴンは各大陸からの様々な人間で構成された大軍を率い、ドラゴンらと大きな戦いを繰り広げた。これを聖教では聖戦と呼んでいるが、ゲッヘンブルグで行われる儀式は、聖人が戦いの末に勝利した際に行った救世宣言に由来するものだ」
「――『白』が滅んだ日ですね」
 いつもこの世界では驚きばかりを表していたアストラが、落ち着いた面持ちでぽつりと静かに呟いた。
「さすが、王家ヴァンリールの姫だね。――エマルフィアの民、ミリアシェを束ねる一族ともなると、代々の王の『試練』の記録が伝承されていくものなのかな?」
 はい、と小さくアストラが頷いた。ただ、と、ぴんと立っていた耳が少し震える。
「あまり詳しく語ることは、王により禁じられているので。お答えできないのが残念ですが」
「うん。そうだろうと思った」
 大公は小さく頷いてから、更に説明を加えた。
「この『白』については、有名な話だが、改めて確認しておこう。彼の者については、聖人の側に常に控えていたという神獣と同様、ほとんど記述は残されていない。あまりにも忌まわしく、凄惨。不吉、凶兆、それら全てを象徴する存在として、歴史からこの存在は抹消された。結局どんな存在だったのかは、聖教内の秘中の秘とされ、現在では一般には曖昧にしか伝わっていない。ただ、ドラゴンらにとって、これは神にも等しい旗頭的な存在だったようだね。『白』が倒れてからは、ドラゴンは世界の端に追いやられ、人間の前にそれほど姿を現さなくなったと言われている。現にこの時代、聖書で語られるような彼らの姿を見かける事は、上空を飛ぶのをたまに目撃する以外にはない。レダンやクロッド、君のように人里をほっつき歩くドラゴンも居るだろうけれどね」
「……で、その勝利宣言に由来する儀式が何だっていうんだ?」
「儀式はそこまで重要じゃない。この子にとって問題なのは、その儀式で使われた代物だ」
 フューの頭を撫でると、大公は目を伏せた。
「勝利宣言で、聖人が掲げた剣がある。今は全くどこにあるか分からないが、見事な紅い宝石が柄に嵌まっていたそうだ。非常に優れた英具で、ドラゴンを何体も斬り伏せたという。……剣は失われたが、その剣を収めるのに使われたという鞘が残っていてね。数年に一度、水で拭き清めて力を蘇らせる儀式が、平和祈願と同じ日に、密かに裏で行われる事になっている」
 ルミナがふと思い当たったように言った。
「今年がそうだったわね?」
「そう。今回の儀式では、それを捧げ持つ役割が聖君フュエルトラストルに与えられた」
 そこで、促すように優しく、大公が瞳をフューに向けた。
 フューは大公の目をしばらく無言で見つめ返した後で、クロッドらに向き直った。
「儀式は滞りなく終わりました。異変があったのは、鞘を普段収められている聖堂に戻そうとした時でした」
 上がった幼い声は、わずかに震えていた。
 少年によれば、鞘は儀式を行った人間が、そのまま伝統に従って聖堂に収めるのだそうだ。
 フューはその通りに動いた。そして、例年の通りに事が運ばなかった。
「鞘を聖堂の座に収めようとした時、鞘が突然激しく震えました。耳鳴りのように高い音を出して、赤色の光を空へ放ちました」
 その光は、聖堂を貫いて天を貫いたという。気付いた時には、少年の手の中にあった鞘は、真っ二つに折れていたのだ。
「千二百年、儀式を行い続けてきた聖教内で、このような凶兆は類を見ない。冥府にいる聖人からの警告だと、聖教内では受け取られています」
「ってことは――」
 クロッドは目を瞠り、フューを改めて見やった。
 鞘を折ってでも、死の向こうから聖人が警告を発した。
 そして、その警告を受け取ったのは、聖衣を纏う者であり、将来の教皇となることを定められた『聖君』だ。
 まさか、こんな子供が啓示を受けたのか。そう思うと同時に、きっと誰もがこうも思い浮かべただろう。
 聖人の再来だと。そして、また世界に災いが起こるのだと。
「フューにとって悪いことに――そこに輪をかけてさらに紛らわしくさせたのが、前ラーニシェス家当主の存在だった」
 大公は肩をすくめた。
「実は、先代が先の教皇と親交が深かったようでね。フューの母親が、その時先代の身の回りの世話役を任されたことがある。しかも、聖教内を出入りする先代の姿は、あちこちにある彼の方の像のように美しいときた。あらぬ噂がたくさん立ったものだ」
「………………それって」
 低い声でルミナが呟いた。
「さて、本当の所は誰も分からないね。嘘と欺瞞で『真実』を塗り固めるのは既に向こうのお家芸だろう? 先代も当の昔にあの世へお隠れになった。頭を痛める羽目になったのは次世代の人間たちだった、と聖教内で事が収まればいいものを、またそこで話が終わらない。様々な思惑が絡んで、私の方にまでごますりをしに来る者が現れる。ただでさえ、うちは国主が変わったばかり、周辺の情勢も緊迫している。だのに遥か南から大国の王の使者までやってくるから始末に負えない。だが、ここは中央北部では名のある国と言えど、聖都からすれば遠く離れた北の僻地だからね。子を想う親は、先代の誼を通じて内密に私にフュエルトラストルを預けた」
 護送がまた大変だったようだね、と背後の騎士を大公が労うと、エリックが僅かに遠い目をした。容姿の目立つ子供を連れてこっそりと聖都を出るのは一苦労だったようだ。
「そんな訳で、聖君をいち早くかどわかして利に走ったのはどこの輩だと、国同士が今は腹の探り合いだ。真相はこちらでは当事者である私とエリックやレダンなど数名……他は、フュー自身とその父親である教皇しか知らない。そして、聖教は失踪した聖君を探すのに必死だ」
「……それで聖殿騎士団がこんな遠方まで探しに来ていたのか」
 クロッドは昼間の出来事を思い返した。あれは、異端の者を探すと見せかけて、聖君であるフューの行方を血眼になって追っていたのだ。ラーニシェス家の先代当主の噂を考えれば、ハルオマンドが怪しいとあの隊長は睨んだのだろう。慧眼の持ち主である。
 同じ光景を思い浮かべたらしい大公は、鼻から嘆息する。
「相当嗅ぎまわられたよ。私も先の件で少し出る用事があったのだけどね、フュエルトラストル本人すらまだ大陸を北上中だというのに、いちいち怪しい素振りがないか現地の者に扮して確認しにくる念の入れ様だ。……手持ちの駒が欠けている事にいつ気付かれるかと冷や汗ものだったけど、どうにか大丈夫だったようだね」
 言うほどにはまるで心配しなかった様子の大公を見て、クロッドは疑問を覚えた。
「……そもそも、エリックやレダンはあんたの側近として知られてるのか?」
「そこはそれだよ。ラーニシェス家の詳細については、もともとわざと彼らに流しているんだ。一番大事なこの子の情報に関して、今のところは完璧に制御された状態にある」
 つまり騎士団は、ラーニシェス家主導で長年に渡って毎回、いいように情報を掴んで踊らされているというわけか。集めたそれらをちくちくと事細かに報告しなければならない『聖教内の奇跡』の一団を思い出し、クロッドは若干の同情を覚えた。
「それで。あんたは一体、そこのガキを匿ってどうする気なんだ?」
「扱いは一応『弟』だ。どのような権力にも譲り渡す気はない。――ただ、」
 大公は変わらぬ調子で答えた。
「この子はこの先、ありとあらゆる事に巻きこまれるかもしれない。それでも私は、彼が巻きこまれただけだと証言しよう。――彼が、自らの意思で選択しない限りにおいて」
「そりゃ、どういう意味だ?」
 クロッドは眉を寄せた。何か嫌な予感がする。この男の言い方が、嫌にひっかかる。
 それではまるで、これから何か事を構えようとしているようではないか。
「私は聖神教が嫌いなんだよ」
 また唐突に、欠伸混じりに大公が告げた言葉に、全員が静まり返った。隣に座っているフューに至っては、青ざめた表情で彼をひたすらに見つめている。
「大嫌いで仕方がないんだ。ひたすら思い上がった人間共の利権に塗れた組織だ。例えどんなに真剣に信者たちが祈りを捧げていても、元がアレではね。腐敗したのではなくて、『元からそういう目的で生まれた』ものだったから、余計に憎い。いっそ消えてくれれば清々すると思っている」
 何を言っているのか分からない。
 クロッドは本気で大公の気が触れていはしまいかと危ぶんだ。果たしてこの男の言葉は字面通りの意味を含んでいるのだろうか。
 これがクロッドら虐げられた側であるドラゴンならばいざ知らず、仮にも人の身で聖神教が幅を利かしているこの世界で、それに真っ向から否を叩きつけるなど、正気の沙汰とは思えなかった。
 今日の昼、彼から感じたものはこれだったのか。戦慄と共に、クロッドは彼に感じていた畏怖の正体を知った。
「鞘が折れたのはある封印が解けようとしているからだ。千二百年間、さる一族の特別な物と術、そして強力な力を持つ者により封じていたものが、もはや抑えきれずに目覚めるその前兆だ」
 口の中が乾いていると、クロッドは気付いた。
「『僕』はある夢を持っている。野望といっても差し支えないけどね」
 大公は片目を瞑ると、無邪気そうな笑みを浮かべ、生来の一面を垣間見せた。それからふっと表情を書き消した。
 クロッドはただ、静かに目を見開いた。ルミナは興味がなさそうなふりをしながら、しかし隠し切れずにちらりと彼を一瞥した。アストラは対照的に、驚いて大きく耳を動かして聞き入っている。
「『白』が目覚める。僕は、その混乱に乗じて、新しい『世界の神話』を作る気でいる。人が見る聖人の夢を、破ることにした」
 それがどれだけの事なのか、彼は果たして理解しているのだろうか。


□■□■□


 月の明るい晩だった。

 部屋の外のテラスに出てくると、クロッドはぼんやりと夜の世界に身を浸した。長旅の疲労のせいだろうが、体が重い。大公の紡いだ途方もない話の余韻が、まだどこか隅にでも燻っているようだった。

(新しい世界の、神話)

 口の中で呟くと、鼻先を手すりに置いた腕に埋めた。

 白の神話、と呼ばれる伝説がある。ドラゴンたちの間で語り継がれてきた、過去の炎の記憶であると共に、クロッドらドラゴンの起源を明かす物語であり――クロッドが身を置くマールウェイは、その神話の記憶が最も色濃く息衝く、ドラゴンにとっての聖地であった。
 そして、白の神話は、人の間にも伝わっている伝説と共に語られる。聖人の救世伝説がそれであった。神話の中では、最終局である、『白の死』がそれに該当する。
 しかし――その死はなぜか、数多の栄光と覇の伝説を築いてきた存在に関するものとしては、極めて簡潔である。
(赤紅に破らるる)
 クロッドは目を伏せた。様々な語り手が、男も女も老人も子供も、あの旋律と共に謳い上げた。
(空は蒼く光満つ)
 松明に火を灯した時の音。囁き声の気配。夜の闇の手触り。低く震わされる空気。全てがクロッドの体に染み込んでいる。
(花は散り大地裂く。命光数多失い、詠う天魔は倒れ伏す)
 語られる場に揃っていた者たち。濡れた瞳に映る、炎の揺らめき。そして、突如、別の光によって闇が開かれる。
 記憶は流転し、そして、最悪の日の光景が蘇る。
(人の子呪うは白の音)
 炎の中に立ち尽くしていた影。
 彼は、泣いていた。
(千と数百の巡り巡り――混沌の時代、隠遁の世。我ら未だ、此処に在り)
 ふと。何かを視界の端に捉えた気がして、クロッドは顔を上げた。

 月明かりの下を、誰かが歩いていた。

 クロッドの部屋のテラスからは、屋敷の庭園の一角を臨む事ができた。それぞれの客室からどう見えるか、緻密に計算し尽くして整えられた庭には、月下、純白の花が輝いていた。これは北に多く自生する野草の仲間だ。それが、おびただしい数でここに植わって咲いているのが不思議だった。
 甘く香り咲き誇る花々の上に淡く影を落としていたのは、細身の少女だった。
「アストラ……?」
 ここ最近被っていたフードマントを身に着けず、夜着のまま外に出ていた彼女は、三角の大きく柔らかそうな獣の耳を露わにしていた。薄い絹の地は彼女の細い体躯と輪郭を隠し切れてはいない。裾を夜風になびかせて立っている姿は清涼にして華凜そのものであり、知らずクロッドに息を呑ませるほどだった。
 蒼い髪を風に揺らし、アストラは小さな頤を反らして天を仰いだ。花園の真ん中で何をする気なのだろうか。あちらが気付く事はおそらくないだろうが、クロッドは身をかがめて座り込むと、手すりの柱の隙間から彼女の様子を覗き見た。
 しばらく見守っていると、すぅとアストラの胸が小さく膨らむのが見えた。
 微かに風に乗ってクロッドの耳に飛び込んできたのは、滑らかな旋律だった。
「……歌?」
 どこか郷愁を感じさせる音に耳を澄ませていると、アストラの周りに銀色の光が散り出している事に気付いた。月の光が凝縮されてぎらぎらと落ちてきたようだ。光り輝く欠片はアストラの肌を照らし出し、次第に力強く歌う彼女の姿を白く染め上げていった。
 ざわりと全身が粟立つ感触がした。異質な力の気配が、濃密に空間を満たしている。

 ――どこにいるの。

 その感覚を理解したのはなぜだったのだろうか。
 その問いかけの調子は、母親が子供を探すのに似ていた。
 どこにいるの。
 いったい、誰が。それとも何が。考えて、クロッドはふとした拍子に、答えに辿り着く。
(……まさか、石を探しているのか?)
 宝玉を探しているとアストラは言っていた。ヴァンリール=カンタと呼んでいた首飾りに、全ての守護を揃えるのが、王家の血筋を持つ自分の役目で使命だと。
 あの特別な様子の歌に、石が応えるというのだろうか。
「……使命なんか、ろくなもんじゃねぇのに。――馬鹿か」
 ぼそりと低い声が漏れていた。そして、自分に与えられた師からの言葉を思い出した。先延ばしにしていても、どの道自分はマールウェイに行かなければならない。そう、行くのだ。帰るのではない。
 あの場所をクロッドは故郷と認めてはいない。クロッドの故郷はただ一つだ。
(……師匠……俺は……)
 細身の背中を思い出した。後にした里を第二の故郷にしてもいい、と言ってくれた彼に、恩を感じていないと言えば嘘になる。いいのかと問えば、是と返ってきたことを思い出す。
(「おまえのような者を、一人、知っている」)そう言って師は笑った。(「だから、そんな帰る場所を失くした子供のような顔をするんじゃない」)
 その時の彼の笑顔が少し寂しそうに見えたのは、気のせいだったろうか。
 ――帰る時、彼はどんな言葉で迎えてくれるのだろうか。
 はるか先にある帰還に思いを馳せた。
 そして、そこから先の記憶は、クロッドにはない。


 アストラの歌の何らかの効果か。眠ってしまったのだと気付いたのは、朝もやの中で一つ、くしゃみをして、肌寒さを感じた時だった。
 ぼんやりと、自分と周囲の状況がうまく呑みこめないまま辺りを見回した。空は薄藍に紫を流したような色をしていて、東の白む空が、夜明けが近いことを知らせていた。
 完全に体が冷え切っている。これでは客室を宛がわれた意味がない。この程度で風邪を引く事はないが――柔らかい寝床があったというのに、ずいぶんと損をしたものだ。
 うんざりして立ち上がり、ベッドに潜ってもう一眠りしようと部屋に足を向けた時、

「――この……!」

「……あん?」
 叫び声がして、クロッドは胡乱な目で振り向いた。


□■□■□


「大公様」
 やわらかな白い花弁が朝露に濡れていた。花から露にのりうつった、えもいわれぬ香が優しく春風にさらわれて、庭園に立つ痩身を包み込む。
 風にやわやわと黒髪を揺らし、眼差しを足元の花々に向けて物思いに耽っていた若年の男――ラーニシェス大公は、背中にかかる爺の声に振り向いた。

「……じいや?」

 きょとんとした顔だけを見れば、まだ、あどけなかった頃の気配がする。幼い表情に破顔したくなったろうに、感じさせぬ微笑みひとつで、執事は一礼してみせた。

「朝の茶の準備が、整っております」




「昨夜の歌。聞いたかい」
 ゆったり回廊を歩きながら、青年は欠伸交じりに前を行く老爺に話を振った。
「はい。今朝方まで続いておりました」
「へぇ。寝なかったんだ」
 青年は薄く関心を滲ませる。
 屋敷中の者が星の王女の歌を耳にしたはずだが、おそらく覚えている人間は少数だろう。あの歌は聞くものの内側に働きかける力がある。眠り込んでしまった者の方が多いはずだ。
「見事な旋律でしたな。あれほどの完成度で歌い上げる姫君ならば、此度の『蒼の期間』は短く済むやもしれません。石を探し出す技量にも優れているようだと思われます」
「そうだね。だが……石は持ち主の元に集おうとするだろうが、今回、そう簡単に事はうまく進まぬやもしれないよ」
「と、いいますと?」
 大公は回廊の頭上に描かれた絵を眺めた。神獣と聖人が大勢の兵を率いて野を駆ける聖戦の一場面が、長々と回廊を覆っている。
「近々、戦争が始まるかもしれない」
「それは……」
「裏で糸を引いているのは人ではないようだ。聖教に何か潜りこんでいる」
 それに、と続けた大公は、愁眉を解かないままだ。
「レイディエンに探らせているが、白の里で既に六柱が動き出した。ずいぶん折が悪い時にと思ったが、あちらはあちらで、この『蒼の期間』の到来を待ちわびていたようだ」
「では、クェンシードの長は」
「真っ先に巻きこまれていくだろうね。あの『悪なる赤』アラフル・クェンシードの後継者になるのだから……」
 千二百年前、聖戦で神獣と激しく火花を散らした白の徒。『赤』を纏うあのドラゴンは、青年が見えた当時も海千山千の食えない人物だったが。さて、元気だろうか。
「思えば、三年前、アラフルが長の座から退くことを決めたのは、この状況に一石を投じるためだったのやもしれない。あるいは目先の危機に怯えて体よく逃げ出しただけかもしれない。――が、あのドラゴンがそんな腑抜けたことをする御仁には思えないのでね、十中八九、前者だろう」
 薄く青年は笑った。
「であれば……妹君が、気の毒でございますな」
「あの子を亡国の混乱から守り切ったドラゴンだ。あれしきの騒ぎでころりと逝くような貧弱な存在なら、とうの昔に死んでいる。それに、あの子はこの私の妹だもの。酷いことをしたあげく、何年も行方不明だった私だから、むしろ殴りにくるかもしれないな」
 のんびりと観測を口にした青年に、執事はわずかに眉を潜めた。わざわざ殴らせようと懐を空かせる気配さえ見せたのが、気に入らなかったと見える。
「坊ちゃま」
 たしなめるような響きに、青年はくすくすと笑う。
「ごめん、ごめん。――でも」
 窓の外に目をやる。抜けるような青空だ。
 遠い目で、彼はぼそりと言った。
「ティアちゃんは、いざって時は、やるからね……」




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