Dragon Eye

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第二篇 - 序章 2.ウィルテナトでの再会

-1- 花園の祝福、彼女の再訪

 大公領の中心地たる都、オリスヴィッカの頭上は曇り空だった。

 開け放した窓から吹き込む湿った風は、白いレースカーテンを重たく揺らして、仄暗い執務室の中に入り込んでくる。
 ともすれば遠雷も聞こえてきそうな――そんな春の嵐の気配を感じながら、ぼんやり眺めていた窓の外から、視線を下へと落とした。
 百年単位の年月をかけて使い込まれた机の天板を、そっと手で擦る。飴色の表面は塗料を塗った訳でもないのに艶があり、冷たくて心地良い。
 家人のおかげで埃一つないこの机の上で、この辺り一帯を治めるラーニシェス家の当主は長い間、様々な思案を巡らせ、土地を護ってきた。
 その時代ごとに合った立ち回りを続けてきた領主家の意志がこもっているように思われて、少しの間瞼を閉じる。

「……考え事?」

 かちゃ、と背後で音がする。
 振り向くと、見慣れた娘の顔がこちらに微笑みかけているのが目に入った。

 淡い陽光にも似た金髪を頭の後ろで丁寧にシニョンへと結い上げ、べっ甲の櫛を潔く一刺ししただけ。仕着せを何の違和感もなく着こなす姿は完璧な侍女の一言に尽きる。

 娘の名は、アンジェリーナ。娘に近しい者たちは、彼女より彼らに許された名を用い、サシャ、と呼ぶ。

 そのサシャの側らには、ティーセットの載った台が停まっていた。
 彼女から目を逸らし、窓の方を見やる。

「もう、そんな時間かな?」

 休憩は一日に最低三回。
 初期に根を詰め過ぎて一度倒れた事で、彼女にしっかりと釘を刺されたのは未だに身に染みている。

「少し早いわ。でも、今日の執務で裁量する分は、それほど量が多くないって聞いたから」
「まぁ、――強力な助っ人が居てくれるからね」

 白んだ窓の外を眺めながら、言った。

 午後の気怠い昼下がり。そんな、都の至る所で溢れていそうな光景が、外界から一つ離れたここにもやってきている。
 数年来の疲れを癒すように、とろとろと流れる時を過ごすには、丁度いい時間だった。
 それとも、と、部屋に満ちている静寂の捉え方を変えてみる。

 今日の空と同じように、これは嵐の前触れだろうか、と。

 部屋の中に二人も居ながら、無言のまま、時間だけが流れている。
 やがて、ほんのりと執務室の中に漂い出した香りは、嗅ぎ慣れたものだった。

「ねぇ、大公」
「何」
「……机の上のそれ、何なの?」
「手紙」

 百年使われた机の上には、何年も前からあったのだと言っても納得できそうなほど、古びた封筒が置かれている。
 わざと古ぼけた封筒を選んだのは、別に深い意図はない。
 適当に良さそうな物を見繕ってくれ、と言って、逆に執事に聞き返された。
 誰に出すのか、と。
 答えると、渡されたのがその封筒だったのだ。

「――何度も出そうと思って、出せないままなんだ。さっさと出せってレダンにもエリックにも怒られたんだけど」

 執務机の椅子を引き、身を沈める。
 サシャがそっと差し出した紅茶を受け取り、一口含ませて一息をついた。
「出しにくい相手? あなたほどの人が?」
「私にだって一人ぐらいいても、どうせ君は驚かないだろう?」
 サシャは一瞬表情を固まらせたが、その次には、「まぁ、」と曖昧に頷いた。
「心当たりがあるもの。あなた、私まで心配させて泣かせたものね」
「理解してくれて助かるよ」
 苦笑いする。
「……彼女は、今?」
「さぁ。どこにいるんだろうね。どこにいても不思議じゃない気がするんだ」
 指を絡ませて手を組む。
 顎を乗せるか、額を当てるか。迷った末、結局、そこに鼻先を埋めた。

「でも、届け方はどうしてか知ってる」

 言った時、ノックの音が来訪者を告げた。返事を返すと、執事が入室してくる。
 その手に抱えられた鳥籠の中に、鷲が押し込められていた。
 サシャが脇に退き、自分は立ち上がって手紙を拾い上げる。

 執事が籠の扉を開けると、窮屈そうに鷲は籠から抜け出て、執務机の脇の止まり木に降り立った。翼を悠然と広げた彼の首元には、透明な玉の首飾りが光る。

 近づくと、鷲は主人の意を悟って、じっとこちらを見つめてくる。
 嘴に指を寄せると、甘噛みされた。
「甘ったれ」
 くす、と笑った後、そっと手紙を首元の玉へと近づけた。白い光が漏れて、一瞬で手紙は玉の中へと吸い込まれ、透明だった玉の色も真紅へと変わる。
 身を屈めると、ずっしりとした量感が右肩にのしかかった。左手を回して、太い足や胴、翼を順に叩き、魔術をかけてやる。
「今のおまえなら、海を越えて行けるだろう?」
 聞くと、鷲は喉を鳴らした。
 サシャと執事の二人が見守る中、無言で窓際へと寄り、そして、

「行け」

 鷲はゆっくりと翼を広げ、主人の肩を押して、外の世界へと滑り出た。
 重苦しい雲の下を、低く滑空して彼は飛び去って行く。

「どこへ行ったとしても。あの子は、必ず君の下に帰る。そうだろう?」

 言って薄く微笑み、思い浮かべた男の名を呼んだ。

「――カーレン・クェンシード」


□■□■□


 誰かが自分を呼んだ気がして、薄っすらと目を開く。
 視界の端で花が揺れて、額をまろく風が撫ぜた。


 春の初めに来てもまだ、ドラゴンらが住まう北大陸のクラズア山地は寒いの一言に尽きる。ようやく下界の真冬程度に寒さが緩まったという所で、それでも厳寒並みなのだから、本格的な冬の世界は推して知るべしである。
 しかし、厳しい気候の中、湖の湖畔の一角であるここだけは一年を通して結界に覆われている。太陽の力で大気の温もりが保たれていて、寒さを避けるにはうってつけの空間であり、夏だとしても、湖の近くであるために空気は涼やかだった。
 近年は――もっぱら、カーレン・クェンシードの療養場所として使われてきたのであるが。

 数年前、クラズアの外で瀕死の重傷を負った事が原因で、半年まともに動く事すら許してもらえなかった時期があった。

 例えば散歩。
 たまに気晴らしでもしていないと、鬱々と心が滅入って仕方がなかった。故にベッドを抜け出して辺りを出歩く訳だが、

 そんな自分を見かけると、里のドラゴンはまるで死人でも見たかのように全員顔を蒼くして、カーレンをベッドに突っこむ。

 仕事もそうだった。
 クェンシード一族を束ねる長になっていながら、自分の住む里であるウィルテナトの状況は愚か、他の里の事すら最新の状況について知らない。
 どうしたものかと、ぶらっとドラゴンの姿に戻り、翼を広げて崖から飛び立とうとすると、

 足にしがみつかれて引き戻され、またしてもベッドの中に突っこまれる。

 腐って昼寝にここを選ぶと、発見したドラゴンにはすわ意識を失ったかと騒がれ。

「昼寝も満足にさせないのか」とその時の彼を叩きのめして気絶させ、体力の健全ぶりを示したところで、ようやくあちこちを出歩く事を許されたという経緯があった。


 深呼吸をして、胸の中に改めて大気を迎え入れる。
 花の中にこうして埋もれていると、花弁で溺れそうな気さえした。
 何といっても、世界が甘い。しっとりと朝露を滴らせる花から、ふわりと芳しい香りが匂い立つのだ。

 たとえ直に見えなくとも、肺を一杯に満たす香りが、辺り一面に色とりどりに花が咲き誇っている事を容易に想像させた。

 何に導かれた訳でもなく、気まぐれに、色濃く眼前に迫る蒼穹に手を伸ばして――その手を、もう一つの白く細い手が取った。

 自分の他、誰もここには居なかったはずだというのに。

「…………?」

 驚きに目を見開いてまじまじと眺めていると、くすくす、と笑い声が聞こえた。

「カーレン、驚いた?」

 里では聞いた事のない声だと思った。張りのあって、澄んだ若い女の声。
 だが、どこか懐かしいと思うのはなぜだろう。
 頭を右へ少し傾けて見ると、長い銀色の美しい髪を緩く二つに縛り、頭の両脇から肩の前へと降ろした、娘と言ってもいい少女の姿が目に入った。

 クェンシード。

 天を貫く山の奥地、ウィルテナト――この場所に住まうドラゴンの一族が冠する名を、そう呼ぶ。
 そして、カーレンの手を握って微笑んでいたのは、一族の特徴となる、白銀の髪と紫紺の瞳を持った少女だった。

 目が合った瞬間、とあるドラゴンがかつて垣間見せていた優しさを少女の瞳の奥に見て、鋭く痛みが胸を走った。

「…………ユイ?」

 その名は、もうこの世界のどこにもいない、小さな幼馴染のものだった。
 だが、その幼馴染の面影を残し、女として成長していた彼女は、大好きだった彼がすぐに自分と気づいてくれた事にもっと喜んだようだった。
「久しぶり。元気にしてた? ――あれから、もう、熱を出して寝込んだりしてないよね?」
 言われて、過去を思い返す。幼い時は、魔力も身体も成長の仕方が不規則だった。その度ごとにしょっちゅう体調を崩していたので、心配しているのだろう。
「……ああ」
「立派になったねぇ、カーレン。クェンシードの長さまになったんでしょ?」
「……そうだな」
「で、エルニスお兄ちゃんは副長なのよね! 私、ずっとそうなればいいのになぁって思ってたから嬉しい」
 えへへ、と笑ってから、ユイはふっと遠い目をして溜息を吐いた。
「ふぅ……それにしても、うっかり寝ていたらもう三百年経っちゃったのかぁ。きっとお兄ちゃんもベルも変わっちゃってるのよね」
 とはいえ、私も精一杯変わってみたんだけど。
 言って、ユイは胸を張る。立派に成熟した身体つきだというのに、わざわざぴったりとした服を着て、彼女の身体が描く流線を強調していた。太ももなどは特に、際どいところまで見え隠れしているような気がする――きっと兄のエルニスが聞けば、大いに嘆いた後に、それを目撃した自分の首を絞めにかかるだろう、とぼんやり想像した。
「ところでね?」
 耳に飛び込んできたユイの前置きに、カーレンは再び意識を向ける。
「あのね。今日はちょっと、カーレンに一言物申しに来たのよ」
 ユイの真剣な顔を眺め、カーレンは目を何度か瞬いた。
「……何だ? 急に改まって」
「改めて言っておく必要があるから改まってるのよ!」
 びし、と音でもしそうな調子で、指が鼻先に突き付けられた。

「カーレンのお姫様の事。彼女から、『絶対に』、気を抜いちゃだめよ!」

 カーレンの身体が瞬時に強張った。
「……何で、その事を知ってる」
「どこがおかしいの? 私は未来を識るドラゴンよ! 舐めてもらっちゃ困るんだから」
 ユイは頬を膨らませた。
「カーレンは昔から変なトコで鈍ちゃんなんだから! 女の子って敏感よ……絶っ対に、今までのツケを払って身綺麗にしておくこと! さもないと後悔するわよ。あ! それとこれお兄ちゃんにも言っておいてね!? もしもベリブンハントを泣かせたりしたら承知しないんだから!」
「いや、ベルとエルニスについては心配ないと思うが……」
 カーレンはこめかみに手をやった。気のせいだろうか。頭痛がする。
「……ユイ、おまえまさか、私をずっと見ていたりしないだろうな?」
「ちょっと、カーレン、何当たり前の事を聞いてるの? 私があげたヴィランジェの首飾り、ずぅうううっとつけてたじゃない!」
 ユイが目を丸くするのを見て、カーレンは今度こそ頭を抱えた。
「いろいろ知ってるよ? 例えばカーレンがもうすぐ成獣するかしないかって時にすっごく綺麗な女の人に会ってー、聖騎士の軍団の隊長さんだったもんだから、まさかドラゴンだって言い出せなくて結局無理やり弟子にさせられたりしてたわよね?」
「分かった……やめろ」
「あ、あと盗賊団に絡まれて成り行きで拾った女の人と……」
「……ユイ」
「他にも何だかすっごく荒れてた時期があって、お酒にお金に……これまたやっぱり――」
「ユイ。それ以上言うならこちらにも考えがある」
「――だから身綺麗にって話よ。お姫様には下手に隠したりせずに話すのよ! 約束だから」
 思い出すだに恥ずかしい過去(というか遍歴)を赤裸々に白日の下に晒してくれる少女から目を逸らし、カーレンはぼんやりと空を見た。

 ああ――そういえば彼らの母親が、よく悪戯をしでかしたエルニスやベル、そしてついでのように巻き込まれたカーレンにも、恐ろしい顔をして説教をしたものだったが――ユイも彼女の子供という事か。

「まぁ、お姫様についてはこの辺りにしておいて。今までがついでの話ね」
「本題じゃなかったのか」
「ここからよ」
 言って、ユイはおもむろに手を伸ばして、カーレンの喉元――鎖骨の中心辺りに、とん、と軽く触れた。
「あなたが今、持っている力……覇王(ドラゴン)っていうんだっけ? 普通のドラゴンと何が違うのか、私には今一つ分からないんだけど……いろいろ見え過ぎちゃうらしいわ。使い所には十分気を付けるのが良いってホーちゃんが言ってた」
「……見え過ぎる?」
 カーレンは眉を潜めた。

 覇王(ドラゴン)

 それはカーレンが、生まれながらに秘めていた力――力というよりは、一つの資格であり、様々な理由からカーレン自身を制約の中に縛り付けていたものだ。深手を負ったのと同じ時期に、ようやく自分のものとして自由に扱えるようになったものの、未だにそれが何なのかは漠然としか掴めていない。
 おそらく、ドラゴンよりも一つ上の次元の何かへと自分の存在が昇華されるのだろうとは、当たりをつけているが。
 だが、それよりも、ユイの口にした人物の方が気になった。
「ホーちゃん?」
「そう、ホーちゃん」
 ユイは微笑み、頷いた。カーレンの疑問に答える気はないようだ。
「私はね、たまにカーレンの近くにいない時、ホーちゃんと一緒にお茶飲んでたりしてたの。……でも、今回はその間に大変な事があったみたいだね。……頑張ったんだね、カーレン。お姫様と、自分のために」
 す、とユイが喉元を突いていた指を下ろし、カーレンの左胸と、脇腹の辺りを撫でていった。
 服の上からだったが、そこにある深い傷跡を、ユイは正確に探り当てた。
 彼女の手が通り過ぎた後、胸の傷の辺りを掴むと、カーレンは目を伏せる。
「……もう、走らなくていいか?」
「ううん、もう少しだけ頑張る必要があると思う。でも、それだけ。今までは一番、カーレンの心が辛い時だった。これからは、……少なくとも、気持ち程度はましなはずよ」
 ぼそぼそと言われた言葉に、カーレンは溜息を吐いた。
 どうやら、自分が平穏を得られるのはまだまだ先らしい。
 少し考えればそれもそうかと納得もできる。一つの一族の長になっておいて、何もないと楽観視するのはあまり現実的ではないだろう。
「頑張って。あともう一、二息だよ」
 言って、ユイは立ち上がった。
「それともう一つ」
「まだあるのか」
「これで最後よ!」
 一瞬苦笑すると、ユイはそれをすっきりした笑みへと変えた。
「“起きたら”、お兄ちゃんと岩棚に行ってみて。これも絶対ね。覚えた?」
 頷くと、ユイは「よろしい」と満足げに呟き、
「それじゃあ、またね」

 言って、湖の中へと“入っていった”。

 ――一瞬、心臓が嫌な跳ね方をした。

 死を連想する。
 おかしな話だ。もう彼女は死んでいるのに。

 かつて、幼馴染は魔物に殺され、自分の前で死んでいった。
 その傷はかなり癒えたと思っていたが、やはりまだ深く心に刻まれていたらしい。
「ユイっ」
 目を瞠って、次の瞬間には跳ね起きた。
 湖に足を踏み入れると、身を切る冷気が体を這い上がってくる。
 構わずに進むと、鳩尾辺りの深さまで水をかき分け、カーレンは口走っていた。
「待て――早まるな!」


「――こっちの台詞だ、馬鹿野郎。寝言はベッドの中で寝て言え」


 後頭部に強烈な衝撃が走り、そして、カーレンは夢から覚めた。





「おまえ、とうとう夢遊病人か何かに成り下がったんじゃないだろうな?」
 耳に馴染んだ声が言った。

 突然頭を強打され、痛ましく腫れ上がっただろう場所を押さえて、カーレンは呻いた。顔のすぐ近くでは、水面がちゃぷんちゃぷんとこちらを嘲笑うように揺れている。

 寝ても覚めても、場所は湖の中だ。

 気付くと現実と夢が重なり合っていた、というのは、経験がない訳ではなかった。だが、実際に寝たままで移動していたのはこれが初めてである。眠りに落ちる直前の記憶では、自分は確かに岸辺で寝転がっていたのだから。
 痛みが少し収まってくると、カーレンは自分を制止した彼の名を呼んだ。
「……エルニスか」
 カーレンの幼馴染、兼、右腕を務めるクェンシードのドラゴンが、背後で盛大に溜息を吐く気配がした。
「一応聞いておくが。気は確かか? そうだな、当ててやる。仕事の多さに嫌気が差して現実逃避気味に入水自殺を図ったんだろう」
 エルニスに向き直ると、カーレンは端的に自分の中で起きていた出来事を説明した。
「……ユイが花畑の中にいた夢を見ていたんだ」
 言った途端、どうにも言葉足らずだと思った。
 案の定、エルニスの眉尻が情けなく下がっていく。「勘弁してくれ」と口の中で呟いたらしかった。
「なぁ、本当におまえ頭大丈夫だろうな? 妹があの世から迎えに来たとか言うなよ、頼むから。仕事が多いなら多いと言ってくれ。皆に言って減らす努力をしてやる」
「いや……だから、一種の啓示だと……。……?」
 違和感を覚えて、カーレンは胡乱な目でエルニスを見つめた。

「……いつからだ?」
「さぁ。ところでおまえ、頭は大丈夫か?」

 もう一度エルニスが繰り返したので、カーレンは呆れた。

 彼に近寄ると、喉の奥からたっぷり息を吹きかけた。

 しばらくお互いに無言だった。
 ややあって、カーレンが引き攣った笑いを浮かべながら吐き捨てた。
「朝食は“トカゲ”の鱗煮でいいか? 馬鹿」

 ぶはっ、と、エルニスが空気の塊を肺から押し出した。
 そのまま爆笑し続ける彼に背を向け、「いっその事入水自殺を本当にしてやろうか」と毒混じりに笑う。
「悪かった。拗ねるな」
「拗ねてはいないが、面白くはないな」
 きっと最初は、朝方から湖の中にいるカーレンを見つけて、血相を変えて飛んできたはずだ。エルニスが気を落ち着かせるための方便だと思う事にした。
「それを拗ねてるって言うんだろ。ああ、朝食は鱗煮じゃなくて普通の肉か魚がいいな」
 ふむ、とカーレンは唸る。
「肉、か」

 二人して耳を澄ませたが、辺りでは小動物の気配はおろか、鳥の囀りすら聞こえなかった。

「……仕方がないな」
 溜息を吐き、湖の結界の外へ向かって泳ぐ。
 結界の中と外では、大気も水の温度も違う。どれほど違うかというと、結界のすぐ外側から湖に厚い氷が張っているぐらいだった。
 氷の上へと這い上ると、途端に濡れた全身に叩きつけるように吹いてくる寒風に、ぞっと背中の毛が逆立つのを感じた。
 後から続いて氷を軋ませたエルニスもまた、寒さに顔をしかめている。
「げ……後で絶対に火に当たるぞ」
「ああ。だが、」
 頷くと、カーレンはくいっと親指で氷の下を示した。

「その前に、一仕事してもらうとしよう」

 しばらく体を揉んだり擦ったりしていたエルニスは、カーレンのその動作を見て、一瞬黙り込む。

 そして、意を得たりとばかりに、にや、と笑った。


□■□■□


 雪の斜面を勢いよく駆け下る。
 革のブーツの縫い目から、ぞっとするほど冷たい冷気が足先にまで忍び寄ってくる。
 布を何枚か巻いたはいいが、ブーツの中は湿っているのか乾いているのかも定かではなかった。
 着込んでいる物もありったけの防寒の魔術を施したが、やはりまだ若干粗い部分がある。不完全であっても、ほのかな温かさはないよりはましだったものの、いつかここを訪れた時よりも格段に感じる寒さは厳しいもの。
 本当に、ここに住んでいる彼らが強いドラゴンたちである理由が嫌でも分かる。

 一つはこの寒さ。もう春も近いというのに、極寒と表現してもまだ生ぬるいような、究極の環境。
 それに。

「!」

 ズン、と、眼前の雪を割って、下から巨大な魔物が姿を現した。
 見上げるほどの巨体に、思わず足を止める。
 形容するとすれば、熊、だろうか。
 さっき出くわしてから、ずっと追いかけてくるのだ。

 ――極限に近い世界にも拘わらず、こうして生息する魔物たち。
 クラズアの生態系では、ほとんど大人しい生き物はいないと言ってもいい。
 弱肉強食、ここに極まれり。幼いドラゴンでも、数日もてば良い方だという。
 定期的に成獣したドラゴンたちで魔物狩りをしているそうだが、それでも彼らの住処の周りはこんな風に、人間の想像を絶する強さの魔物ばかりだ。
 ちなみに。

 食べると、美味らしい。

「 ――、   ! 」

 人間には理解不能な雄叫びを上げて、熊の魔物が腕を振り下ろす。
 唸りを上げて迫るそれを避けて飛び退ると、大量の雪が衝撃で吹き飛ばされた。
 誰も踏みしめて汚す事のなかった処女雪が、あっという間に表面から削り取られる。分厚く積もって固まったはずの氷の層は割れ、黒い岩肌が裂け目から顔を覗かせた。
「……、」
 眉を潜めてしのぐ方法を思案した時、更に背後で雪原が揺れる。
 横目でちらりと見ると、山の斜面を駆け抜ける黒い群れが迫っている。
 一、二……

 頭数を数えて、くすり、と思わず笑いが漏れた。

 三十。それと目の前の熊を合わせて三十一体。
 相手に不足はないだろう。

 手加減はしない。

 だってこれは、自分に課された試験だから。

 熊から逃れながら、軽やかに雪の上を走る。
 目的の経路を半分は走った。
 残りは手の中で済ませても、次の一撃までに何とか間に合うだろう。
 この攻撃の魔術の欠点は、威力が大きいほど構成する時間が長くなる事。どのやり方の魔術でも同じ事だが、意味の抽象化による省略は、こちらの方がよっぽど極端に突き詰めやすい。

 さぁ――

 口の中で呟いて笑う。
 お遊びは終わり。
 ここからだ。

 手袋に覆われた指先を、宙に這わせる。
 同時に、足元を魔力が走り、辺りが一面銀の光に輝いた。
 一筆書きの左右対称に似せた幾何学な図形。
 途中で切れた部分を描き出すように、宙には小さな続きが現れる。
 先ほどのものに加え、更に身体の奥底から練りだした魔力をこれでもかと放り込み、腕を横に鋭く振り切ると、宙の図形は先ほど走って描いてきたものと同じ大きさになった。

「――いけ」

 小さな呟きと共に、二つの紋様が重なる。

 次の瞬間、周囲が白く弾け飛んだ。
 地響きの中で悲鳴が背後と正面から同時に上がる。三十一の魔物の断末魔は、聞いていてなかなか怖気が走るものだった。
 巻き上がった細かい氷の粒が霧に変わる。
 次第に静かになると、白く変わった視界は薄っすらと紅色になり、やがてむっとする血の匂いが辺りに充満した。
 それらを再び紋様を描いて風で吹き飛ばすと、周りの様子はすっかり一変していた。

「……あ」

 そして、大量に転がる魔物の死体を前に、気付いた。

 困った。やりすぎた。

 仕留めた真っ黒な彼らを見つめ、考える。
 これは、さすがに自分一人では食べきれない。
 もともと山で過ごしながら少しずつ、合計で三十体魔物を狩る予定だった。それが予想以上に行軍がはかどってしまったから、こんな囮作戦を使ったのだが……考えなしに一気に片付けたのは悪手だったようだ。
 反省している中で、ふと思いつく。
 どうせなら、お土産に持って行こうか、と。
 荷物から縄を取り出して、彼らを団子にする事にした。
 何せ数が多い。苦戦しながら何とか形にまとめた所で、ず、と地面が揺れた。

 ん……地震?

 見回したが、さんざん周囲の斜面の雪を吹き飛ばしたばかりだった。雪崩の危険はなさそうだ。
 ほっとしながら振り向くと、ぱかんと口が開いた。

 何だろう?


 ――遠くに見える湖から、なぜかもうもうと白煙が上がっていた。


□■□■□


 痛い。腹が痛い。
 酷使に耐え兼ねて、崩壊の危機に瀕したと判断した腹筋が悲鳴を上げている。
 しかしこの状況を目の前にしては、彼らを働かせずにはいられない。


 要するに――カーレンは、腹を抱えて笑っていた。


「こ! の! ド馬鹿! 私たちを殺す気だった訳!? ねぇ!?」
「いだっ、がっ! おい、カーレン、笑ってばかりいないで助け痛っ!?」
「無、無理、だ…………っ、く、あは…………! おまえ、私を笑い殺す気か……くははははは!」
「がぁああこの役立たず! ベル、仕方がなかったんだ! 事故だ、事故! 不可抗りょいだだだだだ――だから悪かったって言ってんだろ!」
「聞・こ・え・な・い・わ・よ!」
 ぎりぎりぎりぎりと更にエルニスを締め上げるのは、カーレンの幼馴染であり、エルニスの恋人でもあるドラゴン、ベリブンハントだった。
 湖面が爆発した直後に対岸からすっ飛んできた彼女は、今は頭の高い場所でひとまとめにした銀髪を振り乱し、怒り心頭でエルニスの頭を抱え込んで関節を極めている。
 岸辺には打ち上げられた魚が元気よく跳ねまわっており、それも相まって、更に二人の様子が滑稽なものとなっていた。
「大体、魚を取ろうとするだけで、どうして湖の表面をまんべんなく吹っ飛ばす羽目になる訳!? 湖には水汲みに来てる子供たちもいるのよ!?」
「ベル、その辺にしておいてやれ。こいつの言う通り、不可抗力だった……まぁ、不本意ながら、だろうがな」
 ベルは疑わしそうな目をしながらも、エルニスを締める腕を緩めた。
「何よ?」

「範囲を限定して、炎の力で湖の水をひっくり返してもらう予定だったんだがな」

 言って、カーレンは極めて原始的で物理的な原因を述べた。

「くしゃみだ」

 意外な事故のきっかけに、ベルの顎がかくんと落ちた。
「……くしゃみ?」
 ただでさえ赤くなっていたエルニスの耳が、更にかぁっと染まる。
 しかし、もとからの赤さが痛みからだけでない事を知るのは、今の所カーレンただ一人だけだろう。
 いや、もう数人ほどいるか、と、ちらりと傍の岩陰を見て思う。「ひゃっ」と慌てて引っ込む小さな頭が四つ。ベルに遅れてやってきた子供のドラゴンたちだ。
『見つかっちゃったわ……』
『どうしよう、怒るかな長さま』
『さぁ……でもほら、エルニス兄ちゃんいろいろ幸せそうだし』
『ベルお姉ちゃんったら、気付いてないのかしら?』
『……挟まれてるな』
『挟んでるよな』
『ベル姉ちゃんのってやっぱり柔らかいのかなー』
『さぁ……』
 隠れてこそこそしているつもりだろうが、残念ながら声がこちらまで聞こえてきている。
(……あんな年の癖に、随分ませてきたな)
 さて、いつ気付くだろうかと思いながらも、さっさとカーレンは人数分の魚の処理に取りかかった。
 指摘するのもまた一興だろうが、放置しておくのも面白そうだ。
「ほら、おまえたちも出てこい。一緒に食べよう」
 火の準備をしながら言うと、躊躇いながらも、そろそろと岩陰からやってきた子供たちが、じっとカーレンを見つめてくる。
 子供の一人が呟いた。
「長さまー、質問」
「何だ?」
「エルニスお兄ちゃんって幸せ?」

 ちらりとエルニスとベルを見る。

 「くしゃみ?」と顔を見合わせていた二人だったが、今はお互いに真っ赤になって慌てて離れるところだった。
 どうやらもう気付いたようだ。

「まぁ、役得なんじゃないのか?」

 今からもう腹が一杯だ。

 ぼそりと呟いた後半は、子供たちを笑わせはしたが、幸いにも彼らの耳には入らなかった。

 副長エルニスの不本意な失敗で獲れた魚だったが、七人で食べた白身のそれは、旨かったとだけ言っておく。


□■□■□


 団子にして運びやすくはなった魔物たちだったが、やはり重かった。
 とはいえ、彼らが食べるなら、これぐらいまるっと腹の中に入ってしまうはずだ。
 何せ、昔見た宴での食べっぷりはすごかった。きっとこの近辺の魔物が彼らの胃袋を支えているに違いないと思うほど。
 それを言うなら、なぜ自分の知っているドラゴンたちは、普通に見た目から予想される通りの分量で食事ができるのだろうか。
 ……きっと、何かしているのだろう。ここしばらくの間に得た知識から当たりをつけると、たぶん体の中での処理を、大食いになるその時だけ活発にしているのだ。
 昔は吐いても食べる人がいたというから、無駄にしないのなら羨ましい限りだと思う。自分は少し……いや、普通よりは多いだろうが、彼らから比べると、やはりいくら食物が旨くともほんの少ししか食べられない。なので本当にそう思うのだ。

 思いながら、えいっ、と、斜面の上で団子を乗せたそりを蹴る。

 坂は楽だ。
 多少モノが重くとも、そりに載せて滑らせるか、球体だから転がせば済む話なのだから。

 しかし……団子と比べた自分の軽さを考えていなかったのはうっかりしていた。大抵の荷物は雪の上でも踏ん張れたので、いつもの癖で縄を持ったままだった。

 持っていた縄に引っ張られて、ぽーんと、身体がすっとんで。
 危ない、と思ったが、そのままそりが止まりそうになかったので、やけくそ気味に魔物団子の上に飛び乗った。

 運は良かっただろう。
 何せ、滑っていく先は、目的地の玄関口である岩棚である。

 ……途中がほぼ垂直降下のようになっているという、大変頂けない点を除けばの話だが。

 果たして無事に、ウィルテナトに辿り着けるのだろうか。
 爆走するそりの上で、ちょっと不安になった。


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