Dragon Eye

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第二篇 - 序章

聖歴2年 … 彼に永久(とわ)の栄光を。貴女に(ちぎ)りの花束を

 青年がいたその場所は、張りつめた静寂に包まれていた。
 過去にも例を見ないだろう、数万人規模の大軍団が整然と背後には並んでいる。しかし、そこには誰かの咳払い一つすら響かない。
 無数の気配と完全なる無音の世界、それら二つが、痛いほど青年の背中に叩きつけられていた。
 もしも立っていた場所が、例えば軍団の最前列ならまだ気は緩んだだろうか。
 だが、そんな事は気にしても仕方がない。
 どんなにもしもを想像したところで、彼らから一つ突出したところが、自分の立ち位置だ。

 心底から自分でも異様だと思う場ではあるが、しかし、ここに青年は居続けるしかない。

 ずっと前から一所で動かず、未だに空を仰いだまま微動だにしていない。ひょっとしたら背後の軍団の誰かはいい加減、自分の事をどこかの王が作らせた彫像のようにでも思ったかもしれない。
 事を始めるのがひどく億劫だった。
 だから敢えて何をする事もなく、一刻ほどずっと空を見上げていたのだ。
 首が痛いとは思わなかった。
 不自然な体勢でも、何かをずっと待ち続けるしかない事などいくらでもあった。今更気にする理由がない。
 ただ、少しでも時が遅れればいいと、願っていた。

(今日)
 ふと、思う。

(――今日で、二日目)

 あっという間の、二日。とても長かった二日。
 そして、傷が癒えぬままに、自分は新たな一歩を強要されている。
 その一歩を、躊躇い続けている。
 だが、踏み出さねばならないのだ。それを待ち望んでいる人々のために戦い続けてきた。それだけが、唯一自分に与えられた存在意義。
 ――それだけが、今の所唯一自分に残っていて、自分を突き動かす、存在意義。
 ソレは、ソレらしく在れと定められた。人間である事、平凡である事を許されず、神である事、非凡である事を望まれた。
 だから、ソレらしく振舞う。だから――今日青年は、自分という“人間”を自らの手で壊して踏みにじる。
 救いは達成されなければならないから。

 所詮救世主なんてそんなものだ。
 世界を救ってくれる人間はいても……その人間を救ってくれる者は存在しない。

 空っぽな心で、そんな風に痛々しいせせら笑いをしてみる。
 だがその笑いすら、表情に出す事はソレには許されない。

 青年は目の前に建てられた、白い墓標を見下ろした。そこには、一人の女が眠っていた。
 彼女については、あまり思い出せる事はない。
 どこかの村の娘だったような事は言っていた。
 成り行きで世界が彼女に強いた事しか青年は知らない。静かで平和な暮らしをするはずだった小さな少女は、時を経て世界を揺るがす天魔の女に成り果てた。
 だが、それでも彼女は、笑えていたと思う。頭に大きな、鮮やかな色の花を挿して、天真爛漫な少女のように、くすぐったそうに肩を竦めたのだ。
 例え、無慈悲な剣をその胸の中心に突き立てられても、彼女はまだ笑っていた。

 花を挿した手が誰のものであって、

 剣を突き出した手が誰のものだったか、

 青年は、それを、台座の上の花を見ながら思い出していた。

 葬送に用いられるような上等な花ではない。忌花とさえ言われるような不吉な花。
 それが飾られるのが相応しいと、この場にいる者たちは思い、青年が彼女を貶め、その名を辱める事を望んでいる。
 だが、彼女は敢えてその花を望んだ。
 自分のために、と。
 青年が、何も知らずに選んだ花を、笑い飛ばし、意味を教え、それでも身に着けてくれた、彼女。
 自分がその屍の上に立つ、それだけの事に意義があるのだ。

 鮮やかな暖色の色をした花を、そっと手に取る。

 女の形見といえば、これと、そう、彼女が遺して行ったもう一つのものぐらい。

「――卑怯だね」

 青年は彼女に向かって囁いた。
 返ってくる言葉がない事が、こんなにも胸に痛いとは知らなかった。
 けれどその痛みすら、青年にとってはやけに空虚だ。

 心は、一緒に居たあの時、確かに満たされていたのに。
 また、空っぽに戻った。

「卑怯だよ、おまえは」

 同じ言葉を繰り返す。

「俺を遺して死んでいくなんて……ましてや、あんなドラゴンのために死ぬなんて。最低だ」

 涙など、誰が流してやるものか。
 誰がおまえの死など悲しんでやるものか。

「誰も喜びはしないさ。おまえがやった事は、ずるくて、最低で、最悪の行いだよ」

 周りの事など関係ない。
 自分は、ただ、ただ。

「俺はただ、おまえと一緒になりたかった……あいつと一緒に生きたかった……それだけだったのに」

 ぐしゃりと、花を握りつぶす。無残に潰れた花からは、折れ曲がった花弁がいくつも地面に落ちていった。
 花を握ったその手で、墓碑の石に指の腹を当てた。光が灯った指先が石の表面をなぞるたび、死者の名が徐々に刻まれていく。

(彼女を偲ぶためじゃない。彼女の死を嘆くためでもない。何で俺がこんな事をしなくちゃいけない? 何でこんな事をさせたんだ)
 様々な想いをない混ぜにして、やがて、彼女の死は、墓碑に刻まれる事で確定する。

 彼女に対してできる全てをやり終えたと思った青年は、無言のまま、何も顔に浮かべず、振り向いた。


 束の間忘れ去っていた戦士らの軍勢は、未だに静かなまま、そこに在った。


 彼らの顔は皆、疲れ果て――しかし、例外なく、とある輝きを目に宿していた。

 歓び。

 勝利の美酒に酔いしれた者の持つ、狂喜へと高まりつつある感情だ。
 自分が一言声を上げれば、彼らは胸に秘めた全てを爆発させるだろう。

 平穏な時代の幕開け。それこそが、世界の人々の悲願であったのだから。

 腰に携えていた剣をのろのろと引き抜いた。
 曇天の中でもなお輝きを放つ紅い玉が、唯一、装飾の少ない剣の華となって煌めく。
 剣を持った重い腕を掲げて、青年は声を上げる。

「時は来た――白の時代は終わりを告げた。ドラゴンはついに世界から駆逐された!」

 暗い感情を抱えて、青年は誰にも気付かれる事のない、最大の皮肉を、最大の嘲笑を彼らに向けた。
 嗤いが嬉しそうに見えるなら、歓喜の顔ととればいい。
 言葉が希望だと思うなら、そのまま素直に信じていればいいのだ。
 だが、問おう。


 一体どうして。

 なぜ自分が?

(なぜ、俺が――彼女の死を、喜ばなくてはならない?)

 想いと裏腹に、声は続く。
 さぁ、喜べ、聖なる時よ。
 彼女の亡骸を踏み台にして、幸せに包まれて、怠惰に平穏を貪るがいい。

「  今この瞬間より、世界はおまえたち人のモノだ!  」

「  ――              !  」

 意味を成さない轟音が響く。

 同時に、光がその場に差した。

 誰もが頭上を見上げ、更に歓声を大きくする。

 雲を、一体のドラゴンが割っていた。

 魔獣、悪魔、と誰もが罵る存在は、彼に限っては、神の御使い、救いの神獣と称賛を向けられるものへと変わる。

 金色の翼が、今日も黄金の日光と、雲から覗いた蒼い空に良く似合っている。
 青年が見上げると、彼は静かな色を湛えた瞳で、そっと頷く。

 示し合わせたわけでもないのに、ずっと叫ばれてきた言葉が、ここでも上がった。




―― 今、救いはここに実現せり ――


 一つの共通する想いを以って、長い平和の時代への始まりを、誰もが祝福していた。

 だが今は全てが遠く、青年にとって夢の中のように感ぜられた。
 そんな聖句なんて要らなかった。

 今となっては、もう――こんなもの、自分たちへの呪いにしか過ぎない。


 聖歴二年――寒さも緩み、雪が解けて、ようやく春の訪れを感じつつあるファルブの月の二十五日。

 聖戦と呼ばれたこの大きな戦いは、名実ともに終結した。
 そして、孤独な青年の心を置き去りにしたままに、人の歴史が始まった。


 微睡み始めた世界の中で、青年は小さく、今までを支えてくれた親友と、愛した(ひと)への賛辞を口にした。


 彼に永久(とわ)の栄光を。

 貴女に(ちぎ)りの花束を。


 嗚呼、誰よりも儚く、強く、美しく散っていった貴女に、もうこの言葉は二度と紡がれる事はない。


 ――愛している。心から、貴女だけを。他ならない貴女のために、俺はこの魂を捧げよう。


 何年でも、何百年でも。
 永遠に近い時間であろうとも。
 この心が壊れ、俺の全てが朽ちて、いつか貴女に寄り添う日が来るまで――。

 『生きろ』と、その呪いを胸に。

 願わくば、誰か、早く気付いて殺してくれ。

 愛しいのに……世界の全てよりも重いのに。
 それを手に懸けてしまった、人でなしだ。

 血も涙もない化け物だ。

 そうだ――俺が。

 エル=ドラゴンこそが、世界を滅ぼす“悪”なんだから。

 だから、殺せ。

 再び彼女に巡り合った時、俺が同じ過ちを繰り返す前に。

 そうだろう?





 ――いつ覚めるとも知れぬ眠りのような、長い時間の中で。

 ある時、漆黒の翼が、かつて青年だった者の視界を埋めた。

 そして、彼は、

 その場で朽ちていった。


 現れたのは、輝かしい栄誉と共に。
 消えたのは、その身に集めた憎悪と共に。

 そんな生だったが、それでも、死がこんな自分にもあったのだと、ほっとしていたのも事実である。


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